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第4 セックスと愛情の関係

本表紙 亀山早苗著

  性を追う女たち 愛と快楽

誰もがかかわっていることなのに、あまりにも個人差が大きいもの。一般的な基準がわからず、自分だけがおかしいのではないかと考えてしまいがちなもの。そして、それをなかなか人に聞くことも話すこともできないもの。それが「性」ではないだろうか。

 とらえ方、意味合い、倫理観、行動、受け止め方、重要度など、その人にとっての性のありようは、ときとして、生き方にも関係してくる。

 わたし自身にとって、性は非常に重要であり、自ら求めるものでもある。重視するいちばんの理由は、愛をより深く知る手段になりうるからだ。心から好きだと思える相手とのセックスでは、快感を越えた、まるで魂が触れあえるような歓びがある。

 だが一方で、性がまた、コミュニケーションの枠を離れて、単に快楽を得る手段としてのみ存在することもあるし、人によっては寂しさを埋める手段となっていることもある。善悪の問題ではなく、それが実情だ。
現代の男女関係には、以前なら表面化しなかった種々の問題が生じている。実態として、日本はフリーセックスの国といってもいいと思うのだ、人々の心は、そう簡単に自由にはなっていない。過剰に性的快楽を求める人と、性から離れ気味になっている人、どうもセックスに関しては、ここ数年、大きな二極文化が見られる。

 また、男女の関係は、携帯電話とそのメールによって、大幅に形を変えてきた。不倫関係においては、便利で「命綱」ともなる携帯だが、そこから配偶者に露見するケースも多い。亀山早苗著一部引用

非日常での恋愛・浮気・不倫は相手の人格を勝手に善人と誇大妄想している。言い換えればラリっている状態だ。
二人の主な目的はただひとつ情熱的・動物的抱擁を渇望する。会うたびに貪欲に心地よさを淫蕩し合うことだ。そんな行為こそが心から愛し合っていると大きな勘違いしているのだ。
 生活基盤に欠けたこのような空辣な恋愛・浮気・不倫でさえ長く続けて行くにしても、新たな刺激と興奮を取り入れないとやがて飽きてしまって終焉(しゅうえん)を迎えてしまう。結婚生活の『性』でも同様である。

 「差し込み文書」

早育の中高校生カップルの性

セックスすると、相手のことが好きになる。最初はためらいながらセックスして、次第にためらいがなくなっていって、それと共にどんどん好きになる。ためらいがなくなった先には惰性があって、惰性になると関係もセックスも惰性になる。それで好きなのかどうなのか分からなくなって、早育の中高校生カップルは浮気や些細な喧嘩がきっかけで別れる。

恋愛の先に心も躰も満たされる楽しい快感を得られその先に結婚であるという甘い考えは非常に危険である。夫をいくら愛していた妻でも子が産まれると母性に変化する。夫が父性に変化しないことに妻は失望しつつ、恋愛時と同じ態度でセックス快感を求め続ける夫にやんわりと拒否しつつそれは結婚の義務と諦め、早く終われと演技する。或いは逆の場合もあり二人が心から淫蕩し満足し合えず次第に不機嫌さ増していき浮気・不倫というセックスレスの原因が発生する。

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夫が父性に変わり、方や妻は女の恋愛感情や性感覚を求める場合も少なからず存在する。
夫婦共々母性、父性として、子供を軸とした家庭生活が回っていくとされる七割近い夫婦が離婚に至らなく孫やひ孫に囲まれる穏やかな幸せな老後を送られる人々であろう。

 アンジャッシュの渡部建の不倫報道

2020年6月11日発売『週刊文春』で報じられた、アンジャッシュの渡部建の不倫報道は一般的な“不倫”ではなく多目的トイレというゲスさに世間は驚いたが、一般社会でも多く見られ左程驚くことではない。どんなに可愛い奥さんでも、普段仲が良くても、本人の有り余る性欲の持ち主既婚者と知り近寄ってくるゲス女とそのプレイをしないと満たされない性癖の渡部建との違いはなく同じく顔を公開し晒さらされてもよい案件だ。何も知らなかった妻の佐々木希さんはどんなに絶望的な気持であろうかと推敲される。

金があって自由時間あり気に入った女が言い寄れば世の中の大勢のモテ男達の食指を止めることはできないのだ。或いは恋愛依存症的性欲旺盛な女達もその乱れ切った恋愛やセックス快感の食指を止めることはできない深い性的悩みだともいえる。このような行為は社会的制裁、法的措置が取られるので長続きできないし、悲惨な結果が待っている。

 一瞬夢みる放恣(ほうし)な姿態、姦通

 男と女の性愛がどういうものであるかを知っている女にとって、誘惑者のことばは、たとえ精神的なことしか語らなくても、すべてベッドにつながって、妻の心は落ち込んでゆく。不倫に踏み切る時の妻の状態は、十人が十人同じもので、要するに好奇心に負けたのである。秘密を持つということが、単調な妻の生活に、精神の緊張を与える。
女が一番いきいきと魅力的にみえるときは、ある目的のために、ウソをついて、必死に演技するときだろう。
 人妻を満足させるほど、人妻を姦通への誘惑に引きずり込むため、情熱的になってくれる男は、どちらかと言えば、精神的プレーボーイで、人妻をものにするまでの過程を愉しんでいるのであり、ものにした女は他の多くの女同様、大して珍しくも美味しくもない女なのを知っている。

 妻たちの深層心理

 性を重要視し、性が人生の中で最大の関心事のように考える風潮は、マスコミの扇動のせいもあるけれども、それに乗せられやすい女たちの浅薄さのあらわれで、今の人妻の多くは、自分から性の自縄自縛にかかっているようなところもある。

 夫の浮気が、感覚的に許せないといって一度や二度の、あるいは、ある時期の夫の浮気以来夫との性交渉を断つというような、潔癖な妻は滅多にいるものではない。
 ある時期、思い出すたび、口惜しさと、不潔感に、泣いたり、わめいたりしても、いつのまにか夫を受け入れているし、男とはそんなものだというあきらめで、あきらめてしまっている。

 セックスの技術を極める

父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル下記商品群である。

 日本人女性の膣の長さ

は11~12㎝であり、コンドームL寸「長さ16㎝超=太さ17㎝超」のデカチンなら女の快感の壺である子宮や卵巣を直接ペニスで刺激し興奮させることができる。ただし膣内膜は鈍感である、であっても膣内膜外側(内臓側)には性感帯の受容体が数多くあり、太くて亀頭が張り出して固いペニスであれば膣内膜を引っ張り、戻したりひねりを加えたりすることで強烈な快感を与えることで素早く女をオガィズムに到達することができる。
 ちなみに欧米では市販3L寸コンドーム「長さ20㎝超=太さ50㎝超」など普通に販売機にある。

デカチンでテクニシャンであればセックスの最中で何度でも前頭葉脳縁から全身にアドレナリン放射されることで全身に微細痙攣約0.7秒秒間隔で連続して起きる現象は快感の坩堝(るつぼ)と化し嵌り込むことで性奴隷になる。

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セックスに没頭するために

 女性の中には、「好きな人とのセックスより、たまたま出会った、ゆきずりの人とのセックスの方がよかった。相手にどう思われるかを考えずに、セックスだけに没頭できたから」

 という人も、実は非常に多くいる。これもまた、愛情とセックスとを厳密に重ね合わせようとすることの弊害かもしれない。

 ゆきずりの人との場合は自然と、愛情と快感を切り離すことができて、欲望の赴くままに振る舞うことができる。だから、快感が突出する。そして、相手の思惑を気にせずに、その快感だけに、身も心もゆだねることができるのだ。そもそもゆきずりであって、惚れこんだ相手ではない。

「いいな」とは思っていても、特に相手の人格に尊敬の念を抱いているわけではないだろう。「一回限りでもう会わなくてもいい」という割り切った気持ちがあるから、セックスに集中できる。

 本来なら、好きな人との間で、自分をさらけ出すことができれば、もっと「いい関係」が築けるはずなのに。「好きな人だからこそ自分をさらけ出せない」という気持ちは分かるが、人間の脳というのは、複雑なものだと思わざるを得ない。

 もちろん、男性たちにも似たようなことはある。好きな人と初めてベッドに入ったとき、「実力を発揮できなかった」と嘆く男たちの声はたくさんある。


「愛情のものさし」はいったい何?

 肉体的なつながりのほうが強いと、女性はなぜ不安になるのだろう。

「彼は、会うたびにセックスを求めてくる。彼は私の体だけが、目的なのでしょうか」
 と言うのは女性たちがセックスについて抱える、ごくごく標準的な悩みのひとつ。「私の体が目的」だなんて、よほど体に自信があるのかと勘ぐってしまう。

 正直いって、羨ましい。一生のうち、一度でも言ってみたいセリフのひとつだ。だが本人はもちろん、そういう意味で言っているわけではなく、真剣に悩んでいる。

 その一方で、デートしているのに、いつまでたっても手を出してこない恋人に対しては、
「私のことを本当に好きじゃないから、セックスを求めてこないのでしょうか」
 という悩みが出てくる。

 セックスを求められても、求められても、女性は愛されているかどうか実感できないわけだ。肉体で確認できないから、曖昧か「精神的つながり」というものに、愛情のよすがを見出そうとしているのだろう。

 体と心は、実は切り離せないものではないだろうか。肉体的な関係は、なにがしかの精神的な関係とつながっているはずだと思うから。過去、『ラストタンゴ・イン・パリ』や『ナイン・ハーフ』のように、男女が肉体的関係だけで、つながりを持ち続けていけるかどうかをテーマにした映画は多々ある。

だが、どれも最終的には、お互いの精神を求めるという結論を出している。肉体だけの関係を試みても、人はそう簡単に、肉体と精神を切り離せないのだ。だから本当に、「あとくされのない関係」を求めたいとき、男たちは金を払って風俗店に行く。

 たとえ一夜限りの関係であっても、何かしらの心のやり取りがなければ、体を重ねるところまではいかないだろう。

 だが「プラトニック・ラブ」という言葉があるように、肉体関係を伴わない愛情関係も、世の中には、存在する。一夜の関係でさえ人は心と心のやりとりを求める。だかに、精神的なつながりのない肉体関係はあり得ないが、逆に肉体的なつながりを持たない男女の愛情関係というのは、あり得るのだ。だからといって、精神のみの愛情の方が、肉体関係主体の関係より上位だとは思えないけど。

 私自身は身も心も、という言葉を信じたい。精神的なつながりだけを重視するのは、セックスを過度に神聖化しているか、あるいは下卑(げび)たものとして切り捨てているかのどちらかではないのか。いずれにしても健康的な考え方ではないと思う。

 もちろん、セックス=愛情とするのも無理がある。つまりセックスしたからといって相思相愛を確認できたとは限らないということだ。セックスに、何らかの精神的なつながりは存在すると確信しているが、それが、そのまま愛情といえるかどうかは分からない。

 恋人に、他の女性とセックスしてほしくないが、逆に毎晩、何度も自分を求められても困るという女性も多い。

「彼とは半同棲状態なんですけど、毎日、朝晩、求めてくるんです。夜は二回も三回もというときがある。彼は『オマエのことが好きだから』というけど、最近、そうではなくて、彼はただセックスが好きで、体力的にも絶倫というだけじゃないかと思うようになってきたんですよね」

 と話してくれたのは、藤原雅美さん(二十六歳)。彼は一つ年下。二十代半ばの男はまだまだ「したい盛り」だろう。ことの真偽はわからない。もし相手が彼女でなかったら、彼は毎日求めないかもしれないし、相手が変わっても、まったくセックスの頻度は落ちないかもしれない。

「ただの絶倫」という彼女の言い分が、真理である可能性が高い。これは、電話の回数にもいえることだ。頻?に電話をかけてくる男に対して、女は、「愛されている」と思いがち。だが、実は、単にその男が電話好きという可能性もあるし、マメなだけということもある。もちろん、彼女のことをおもっていなければかけてこないだろうが、電話の頻度を単純に愛情の強さに置き換えるのが正しいとはいえない。セックスの頻度も同じことだ。

 頻度がダメなら、内容はどうか。セックスの内容が濃ければ、そこに愛情があるといえるのだろうか。残念ながら、これも答えはノーだと思う。セックス自体を濃厚に楽しみたい男は、濃厚なセックスをするし、相手への気遣いも万全だ。それは、むしろセックスのテクニックとリンクする。 

セックスと愛情の関係

 恋愛関係の中で重視するものは何だろうか。
 いろいろあるだろうが、私自身は、セックスをかなり重視するタイプだと思う。少なくとも、今まではそうだった。

 以前、恋人に、「もし僕が事故か病気で、下半身が使えなくなったら別れる?」と訊かれ、大きくうなずいて彼を傷つけてしまったことがある。別のボーイフレンドには、「オレの体だけが目当てなの?」と言われ、うなずきそうになったこともある。

 だから、若いカップルがセックスレスだと聞くと、信じられないような気がしてしまう。セックスレスなのにしょっちゅう一緒にいるくらいなら、ふだんは離れていても、たまに濃厚なセックスをできる関係の方が、「いい関係」なのではないか、という価値観さえもっている。

 恋愛において何を重視するのか、二人の関係において何が大事なのかは、人それぞれ、あるいはカップルによって、違うだろう。

 一般的に、特に女性は、肉体的なつながりを、精神的なつながりより低く見る。どんなにセックスの相性がよくても、自分が愚痴をこぼしたとき相手が慰めてくれなかったという理由だけで「彼は私を愛していない」と思い込んでしまう。

セックスの場面でどんなに丁寧に愛されたとしても、翌日電話が来なかっただけで、「あれは遊びだったの?」と疑念がわく。なぜそんなふうに思うのか、実は私には理解できない。

圧倒的にわかりやすい肉体のつながりに比べ、精神的なつながりは、どうやって実感するのだろう。電話の回数? 何か相談すると親身になってくれるかどうか? それで、本当に精神的なつながりが強いと断言できるだろうか。

たかがセックス、されどセックス。

 大好きな人とセックスすれば、人は精神的にも肉体的にも、最高の満足感を得られると思っている。だが、それはひょっとしたら、ある種の思い込みも含まれているのではないだろうか。

 抜群のテクニックを誇る男性とセックスしてみたら、肉体の快楽は、大好きな人とのそれよりずっと上になるかもしれない。肉体の快楽に引っ張られた結果、精神的にも満足してしまうかもしれない。

あるいは、肉体的な快楽が強すぎて、精神的な満足感など、どうでもいいと感じる可能性もある。特に関係が始まったばかりの時点においては、自分が相手を好きかどうかという気持ちさえ、実はかなり曖昧なものではないだろうか。

 わかっているのは、特に好きでも嫌いでもない男性とひょんなことからからセックスした場合、肉体的相性がよくなかったら、それは最悪の思い出になることだ。あるいは、好きでもない人であっても、セックスのときに嫌なことを無理強いされたら、心身ともに不快感が残るだろう。それが原因で、好きだった人を嫌いになってしまう恐れもある。

 そういう意味で、人は「たかがセックス、されどセックス」というのだと思う。結局、セックスだけで、相手の自分に対する愛情の強さや幅や奥行きを知るのは難しい。

 それでは一体、何で愛情を計ればいいのか。そもそも男女の結びつき、絆の証拠というのは何なのか。私自身も二十代のころから考え続けているけれど、いまだに答えは出ない。

もちろんつきあいが親密になると、話している最中、「わかりあえた」と感じる瞬間がある。セックスのときにも。まるで魂が触れ合っているかのような気がするときもある。だが、それは永遠には続かない。点でしかないのだ。その頻度が増えていったら、「絆」という線が生まれるのだろうか。

 だが、魂が触れあったようなセックスをした、その同じ相手に、「わかりあえない」
「同じ言語を話しているのに、言葉が通じない」
 と感じる瞬間もあり、せっかくの「絆」が断ち切れそうになることもある。男女の関係は、常に危険がはらんでいて、「これで盤石(ばんじゃく)」ということがないという証ではないだろうか。絆を感じたり、やはり愛情が薄いのではないかと、自分自身と相手とを疑ったり悩んだりしながら進んでいくしかなのかもしれない。

セックスのおける「一般常識」はあるのか

 セックスというものは、非常に個人的なものであり、他のだれかと比べるわけにもいかない。必然的に個人差も大きくなる。男は一度覚えた自分のテクニックや手順からかなかなか抜けられない。女性はセックスにまつわる「倫理観」「社会的抑圧」から逸脱することが難しい。

 だから、男性が女性にしてあげたいこと、逆に女性からしてほしいことは、人によってかなり違う。

「好きな女にはフェラチオなんてさせたくない」
 と言った四十代の男性がいる。彼の場合は、口でしてもらうのは風俗に限って、だそうだ。なぜなら、自分の「汚いペニス」を大好きな彼女に舐めさせるのは、ひどい行為だと感じるからだという。

彼の場合、ペニスは汚いという思い込みが強いのと、好きな女性には、性的に積極的になってほしくないという願望がある。女性が外でバリバリ働いたり、理論的になったりすることを嫌うような古い価値観に縛られた男なのかもしれない。自分に自信がないことが多い。

 一方で、好きな女にこそ、フェラチオをしてもらうと興奮する、という男性たちもいる。大好きな彼女が必死にフェラチオをしている顔を見ると、たまらなく興奮と愛しさが増すという。

 好きな女性に娼婦のように振る舞ってほしいと願う男もいれば、好きな女だからこそあまりに乱れすぎないでほしいと願う男もいる。大声を上げる女性は苦手で、奥歯を縛って声を上げないように自制する女性が好き、という男性もいる。

 これはそのまま、彼らが持つ『女性への幻想』、ひいては『性幻想』につながっていく。もちろん女性側にも『性幻想』はあるが、一般的に性について考える時間の少ない女性たちは、自分の性欲、性幻想をはっきりとは意識していないことが多い。

 パートナーと、セックスするという行為をするためには、自分自身の性欲と、相手に対する欲情の両方が必要となる。特に男にとっては、相手の反応が、視覚的にも聴覚的にも、そのまま自分の性欲に跳ね返ってくる。

だから「声を漏らさないように耐えているのに、もれてしまう声」に、はなはだしい欲情を覚える男性もいれば、大胆に反応する女性に刺激を受けて、自らの欲情がほとばしってしまう男性もいる。

 何に欲情するのかは、おそらく彼らの性の原体験や、育ってきた過程でどういう性刺激を受けたか、あるいは生まれつきの性格などによって、決まってくるものだろう。潜在的な願望が、まだ引き出されていないケースもある。

 一方、男が性的に感じたとき、女性のように声を出して喘いだりするのはあんまりいいことではないというのが、一般的な考え方だと思う。ところが、女性の中には、男性にどんどんよがってほしい、思いっきり悶えてほしいと思っている人も少なくない。

 たとえばフェラチオをしているとき、感じているならちゃんと声を出してほしい、甲高い声を出そうが体をよじろうが、反応されていないよりずっと嬉しい女性もいる。

 好きな男がちゃんと反応してくれれば、ますます張り切って奉仕したいのだ。実はこういったことが、「セックスしたからといっての相性」の一部だろう。女は視覚で興奮しない、というのはどうやら間違っているようだ。

「彼が感じている顔を見るのが好き」
 という女性は、少なくないから。

 男たちは、好きな女とのセックスの場合で自分が行動するべき、女たちは好きな男とのセックスではこう反応すべき、という「一般常識」に私たちは縛られているのではないだろうか。そうさせているのは、アダルトビデオやちょっとエッチなラブロマンス映画の影響かもしれない。

「セックスの場面では、こう反応しなければ愛されない」
 そんな呪縛が頭の隅にあるから、本当に好きな人とは、自分自身をさらけ出したセックスができなくなり、かえって悩みが強くなってしまうのではなかろうか。

すぐ押し倒したがる男の気持ち

 男性はよく、恋人とケンカすると、うやむやにしたいために彼女を押し倒す。女性は、それが非常に不愉快だという。

「きちんと話し合いたいのに、彼はセックスで、すべてをなし崩しにしようとする。自分たちの関係を、彼がそんなふうに軽く見ているのだと思うと、すごく情けない」
 と、二十四歳の女性は言った。私自身は、脳が男に近いのだろうか、ケンカをセックスでなし崩しにすることが決して嫌ではない。

不毛な口ゲンカをしているくらいなら、押し倒されて快感を得た方がいい。よほど相手を憎んでいない限り、快感を得てしまったら、多くのことは、「たいしたことない」と思えるのではないか。

 男は別に、「ごまかそうとして押し倒す」のではない。口ゲンカが苦手なのだ。女性に言い負かされるのは分かっている、しかもケンカしたら後味が悪い、面倒くさい。だから、ケンカになりかかったら、女性が自分に対して文句を言い始めたりしたとたん、エイヤッと押し倒してしまうのだ。

 相手を気持ちよくさせてしまえば、もう気まずい雰囲気はなくなるはずだ、と男は考える。ところがどっこい、女性は男ほど単純な生き物ではない。そんな場面で押し倒されることに、屈辱感さえ抱くことがある。「そんなことですべてを許すほど甘くない」と考える女性もいるだろうし、プライドを傷つけられて、本気で怒りだす女性も多いはずだ。

 楽しいこと、ボジティブなことがたくさんあれば機嫌も良くなるはずだと思い込んでいる男、それがむしろ屈辱感に変わる女、このあたりにも男女の大いなる違いが表れている。

 多くの女性は、もともとリラックスした気分でいて、しかも相手が好きだという温かい感情に満たされているときにセックスをするのが、いちばん快感を得られやすいようだ。それも「愛情があるからセックスをする」という心理に裏打ちされたものだろう。

 だが逆もまた真なり、というではないか、男がケンカをセックスでうやむやにしたがるのは、
「セックスしたからといって愛情がある」ということを証明しようとしているだけなのだ。だから女性側も、ケンカのときに彼がセックスに持ち込もうとしたら、とりあえずそれに乗ってみてもいいのではないだろうか。

それでも気持ちが収まらなかった、改めて自分が問題だと思っている件について話し合う、という余裕を持っても遅くはない。

 私は男に甘いとよく言われるが、ケンカもセックスも解決しよとする男の心理が手に取るようにわかるし、一方で、いじらしく思えてしまう。だからそういうときは、「その手法に乗ってみよう」と思う。

自分だって快感を得れば、怒っていたことが、実はたいしたことではなかった、と考えが変わるかもしれないのだから。愛情とセックスを厳密に一致させようという意識を捨て去れば、そんな余裕も、女性側には、出てくるのではないだろうか。

つづく 第5 二章 嫉妬 阿部定事件

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