びゅうっと川面が頬を撫でていく。ただ飛び込んだだけでは生き延びてしまうかもしれない。何より苦しいのは嫌だから、溺れ死ぬのはためには正体を失うまで泥酔する必要があるだろう。それに、まだクルマの通行量が多かった。身投げをするにはいささか時刻が早すぎる。

本表紙 草凪優 著

どうしょうもない/恋の唄 草凪 優

「男が泣ける!」と話題になった
傑作ラブストリー 奇跡の映画化!

これが人生最期のセックスのはずだった――
 どうしょうもない/恋の唄 草凪 優 
第一章 泡に消える
第二章  吹きだまり
第三章 好きな人
第四章 華やかな獲物
第五章 舐めあう傷
第六章 昔の女
第七章 エロス化身
最終章

第一章 泡に消える

長年東京で暮らしていても、降りたことのない駅というのはあるものだ。
 矢代光敏(やしろみつとし)は改札を出ると視線を揺らしながら駅前の商店街に進んだ。
 豆腐屋や乾物屋やコロッケを並べた肉屋がたたずむ、昭和の残照にいまなお照らされているような商店街だった。どの店も窓口が狭く、夕方なのに客もまばら。もう少し進むと、寝食店街になった。中華料理屋の暖簾は脂じみて風にも揺れず、モツ焼き屋の提灯は黒く煤け、暮れなずむ路地裏に点々と灯ったスナックの看板は、色がどきつきすぎて毒虫の群れに見えた。割れたネオン菅がバチバチと鳴っていた。どこにも一見の客として足を踏み込んで見る気にはとてもなれない。

 矢代がこの駅に降りたのは、車窓から川が見えたからだった。
 川の名前はわからない。隅田川か荒川か江戸川か。それらの支流だろう。東京の西側に住む矢代は、そもそもこのあたり、東側の下町にはめったに足を運んでこないのだ。
 飲食店街を抜けると風が変わった。

 目的の場所だ。大型トラックが悲鳴を上げて走っている通りを渡って、土手に登っていく、夏の終わりだった。草いきれがむっと匂って鼻先で揺らいだ。
 雄大に流れる川と、野球やサッカーのグランドが何面もある広い河川敷。家々の灯りは遠く、東京の景色とは思えないほど大きく開けた空はいまにも群青(ぐんじょう)色に染まりきりそうで、彼方の地平線だけが夕焼けの名残でオレンジ色に輝いていた。寂寥(せきりょう)感の滲む殺伐(さつばつ)といた風景だったけれど、それが逆に言いようのない安堵を運んでくる。

 遠目に橋が見えた。
 銀色をした、ゆうに二、三百メートルはありそうな立派な橋だった。橋から川面までは十メートルほどか。飛び降りればまず助からないだろう。
 びゅうっと川面が頬を撫でていく。
 いや、と矢代は思い直した。泳げないわけではないので、ただ飛び込んだだけでは生き延びてしまうかもしれない。何より苦しいのは嫌だから、溺れ死ぬのはためには正体を失うまで泥酔する必要があるだろう。それに、まだクルマの通行量が多かった。身投げをするにはいささか時刻が早すぎる。
 踵を返した。
 しかし、いま来た道を戻ってもいっても、今生(こんじょう)の別れの酒を酌み交わすのに相応しい店は見つかりそうになかった。
 そもそもこの一カ月ほど朝から晩まで酒浸りで、酒など飲みたくもないのだ。
 それでも飲まなくてはならない。
 飲まなくては死ねない。
 やけに蒸し暑い日で、全身汗だくになりながら坂場を求めて歩き回った。シャツが濡れすぎて気持ちが悪くなり、風を求め再び川に戻った。土手にあがると陽はすでにとっぷりと暮れていて、道にも河原にも人影は見当たらなかった。

 いっそこのまま死んでしまおうか?
 泳ぐことができるといっても、服を着て飛び込めば体を動かす気力などすぐに奪われるかもしれない。生への執着などもはやないから、ほんのちょっとの間だけ苦しいのを我慢すればあの世へ出立できるのではないか。

 それでもいざ橋に向かおうとすると足がすくんだ。
 冷たい恐怖が五体を凍りつかせ、胸の鼓動だけを乱していく。
 そのうち、暗闇に不気味な存在感を放つ銀色の橋が死刑執行台にも見えてきた。
 何の罪も犯していないのに、どうして死刑にされなくてはならないのだろう?
 むろん、時の権力によって命を奪われるわけではなく、ただ生きる気力を失くしてしまっただけだった。

 男という生き物は弱いものだ。負けることに弱い。受験戦争、就職活動、出世争い‥‥人生のどんな局面でも、矢代は子供の頃から勝ち組だった。エリートと言うほどではないけれど、それなりに名の通った大学を出て、希望通りの会社に就職し、同期の中でもっとも早く頭角を現わしながら、さらなる成功を求めて脱サラした。

未来は輝ける一本の道だった。それがたった一度、道からはずれてしまっただけで心が折れてしまったのだから、情けないといえば情けない話かもしれない。せめて若いうちに失敗の経験を積んでおけば良かったと思ったところで、いまさらどうなるものでもなかった。

「‥‥まだクルマの数が多すぎるな」
 独りごちて橋に背中を向けた。
 ポケットから携帯電話を出して時刻を確認すると、午後八時だった。もう少し深夜に近づけばクルマの数も減ってくるだろう。
 それにしても、と乾いた苦笑がもれてしまう。

 これから死のうというのに携帯電話を持ってくるなんてなんかおかしい。この世に未練がないことを証明するために、真っ二つに折って捨てた。
 プラスチックの蝶番(ちょうつがい)がバキッと割れる音が体の芯に響くと、言いようのない暴力的な衝動が込み上げてきて歩速があがった。なにもかもめちゃくちゃにしてやりたくなる。いっそ世界の終わりでも訪れて、生きとして生けるものが息絶えてしまえばいい。

 ふと前を見ると、暗闇の中でポツンと看板が灯っていた。飲み屋の類ではないことはすぐにわかった。建物のシルエットが城を模していたからだ。ラブホテルだろうと思ったが、近づいていくとソープランドという文字が見えた。

 ソープランド。
 こんな辺鄙(へんぴ)な場所にあるものだろうか? あるいは辺鄙な場所にあるからこそ、人目を忍んで遊ぶ客にはうってつけなのか? 四十年近く生きて来て一度もその手の店で遊んだことのない矢代には、にわかに判断がつかなかった。

 ふらふらと土手を降りて店の前まで行ってみる。
 遠目に城に見えた建物は、商店街に並んだ店同様に年季が入り過ぎており、近くで見るとただの薄汚いビルだった。玄関に五十がらみの男が立っていた。黒いスーツは皺(しわ)だらけで、白髪まじりの伸びすぎたパンチパーマがまるで鳥の巣だ。

「どうですか? いい子いるよ、待ち時間なしのご案内」
 矢代が前を通ると、声をかけてきた。
 人になにかセールスしようという人間の態度ではなかった。自分が売ろうとしているものにひと欠片の愛着もなく、客に対するサービス精神もこれっぽっちも持ち合わせていない、ひどく投げやりな感じだ。
 しかし、その投げやりな感じがどういう訳かいまの気分に馴染んでしまい、矢代は立ち止まった。風呂に入れば、汗みどろの体がさっぱりするかもしれない。どうせ時間をつぶさなければならないなら、飲みたくない酒を飲むのも、抱きたくもない女を抱くのも、さして変わらないことのように思えた。

 なにしろ生まれて初めて足を踏み入れたので、ソープランドの個室が一般的にそういうものなのかどうかどうかわからない。部屋に風呂が付いているというか、風呂場にベッドが置いてあるというか、とにかく不思議な空間だった。

 部屋は先ず、絨毯敷きとタイル張りの床に二分されている。絨毯敷きのほうにソファと呼んだ方が正しそうな小さな簡易ベッドと、鏡の付いたチェストが置かれ、タイル張りのほうにはラブホテルにあるような黄金色の浴槽と、なんに使うのかよくわからないひとり用のスチームサウナ、そして噂に聞くマットプレイ用の巨大なマットが壁に立て掛けられていた。部屋そのものは十畳ほどあってけっして狭くないのだが、それらが賑々(にぎにぎ)しく詰め込められているせいで、なんか息苦しい。

 その上、当たり前だが部屋には女がいた。マーメイド型の赤いドレスを着た彼女の存在が、息苦しさに拍車をかけた。
「ヒナです。よろしくお願いします」
 部屋の前で引き合わされたとき、彼女はそう言ってペコリと頭をさげた。
 意外にも。苦笑をもらしたくなるような不細工ではなく、肥満体や年増でもなく、ファストフード店の制服が似合いそうな普通の女の子だった。

 年は二十五、六歳だろうか。童顔で目が大きいせいで、どこかあどけなさを漂わせている。小柄で華奢(きゃしゃ)な体つきをしているのに、胸のふくらみはたわわに実っていた。赤いドレスはあまりよく似合っていなかったけど、素肌が雪のように白い。矢代はこの街に来て初めて、清潔感という言葉を使いたくなった。

 とはいえ、それはあくまでも安っぽいローションの匂いが充満している猥雑(わいざつ)な空間での印象であり、街で道行く男が振り返る程の美人という訳でもない。売春婦にしては可愛らしいが、売春婦らしい薄幸そうな雰囲気もしつかりと待ち合わせていた。
(しかし、ソープか‥‥)
 ベッドに腰降ろした矢代は、浴槽の湯加減を確認しているヒナの背中を眺めながら深い溜息をついた。人生とはおよそ滑稽(こっけい)なものに違いないが、自殺するためにやってきた街で女を買うなんて滑稽の極みであろう。
 勃(た)つかどうかも怪しかった。

 考えてみれば、もう何カ月も女体に触れていない。やり方を忘れてしまったということはないけど、こんなに落ち着かない場所で顔を合わせたばかりの女と性交をするという事態が、リアルに感じられない。
「先にお風呂に入りましょうね」
 ヒナが振り返って言った。湯に濡れた手をぶらぶらさせながらベッドのある絨毯敷きのスペースに上がってきて、にっこり笑った。人懐こい笑顔だった。
「外、まだ暑かったですか?」
「蒸しているね、おかげで汗みどろだ」
「でも今年の夏は短かったですよねえ。わたし、熱いのが苦手だからいいですけど」

 ヒナは当たり障りのない話をしながらドレスを脱ぎ、下着姿になった。金色のサテンに黒いレースをあしらった水着のようなランジェリーで、網タイツをガーターベルトで吊っていた。セクシーといえばセクシーだったが、矢代は勃起しなかった。彼女の所作がいかにも仕事めいていたせいもあったし、いったい自分はなにをやっているのだろうという暗澹(あんたん)たる気分のせいもあった。

 なんだか無性に苛々してくる。
 ヒナは慣れた仕草でガーターベルトを外し、網タイツを脚から抜いた。ブラまで外して童顔に似合わない豊かな乳房をさらけ出すと、さすがに恥ずかしそうに眼の下を赤め、両手で自分を抱きしめた。
「お客さんも脱いでください。それとも脱がせてほしい?」
「いや、いい‥‥」
 矢代は首を振ってショーツを脱いだ。小判形に茂った股間の繊毛(せんもう)が眼に飛び込んできて、矢代の動きがとまる。あまりにも黒々と艶光りし、そのせいで素肌の色がよけいに白く見えた。そこだけに、獣の牝(メス)の匂いが漂っている。

 いったいどういう神経をしているんだろう? と内心で独りごちてしまった。
 それなりに可愛らしい容姿をしているくせに、見知らぬ男の前で一糸纏わぬ丸裸になる。金の為に脱ぐ。それも大金じゃない。パンチパーマの黒服には、総額で三万円とられた。店の取り分を差し引いて彼女の懐に入るのは、せいぜい二万円くらいだろう。なのに脱ぐ。女にとっていちばん恥ずかしい部分を見せる。

 苛立ちが募ってくる。
「‥‥やっぱり脱がせてあげましょうか?」
 胸元と股間を手で隠したヒナが心配そうな眼を向けてきたので、
「いや‥‥」
 矢代はもう一度首を振って立ちあがった。シャツを脱ぎ、ズボンを脱いだ。ベッドに投げた服を、ヒナがいそいそと畳んでプラスチックの籠にしまう。靴下とブリーフも脱いだ。ヒナはそれも丁寧に畳んで服の下に滑り込ませると、長い黒髪をアップにまとめて後れ髪が艶めかしいうなじを見せた。
「どうぞ」
 洗い場に促された矢代は、中心が縦に凹んだ椅子に座らされ、体をシャボンまみれにされた。俗にスケベ椅子と呼ばれる、腰をあげずに股ぐらまで洗える椅子だ。正面の壁には大きな鏡が付いていて、陰部を剥き出しにした自分が体を洗われている様子を、つぶさに観察することが出来た。

 興奮を促すためのそれらの仕掛けが逆に薄ら寒い気分を運んでくる。
 疲弊しきった中年男の裸身を見るに絶えなかったから、だけではない。
 この世はつまり、金さえ出せば何でもできるものらしい、としみじみ思ってしまったからだ。初対面の女が跪いて体を洗ってくれる。委縮したままのペニスから、玉袋や肛門まで丁寧に指を這わせてくる。夫婦や恋人同士でさえ普通はそこまでしてくれないようなことを、ヒナはどこまでも真剣な眼つきで行っていた。

「まったく驚いちゃうな‥‥」
 矢代は尻の穴を洗われるくすぐったさに身をよじりながら、苦々しく呟いた。
「会ったばかりの男にこんなことして、平気なんだ?」
「そりゃあ恥ずかしいですけど‥‥仕事ですから」
 上目遣いでニッと笑ったヒナの顔はやはり人懐こかったけれど、閉店間際のスーパーで投げ売りされている惣菜(そうざい)のように安っぽかった。もっとはっきり、頭が悪そうと言ってもいい。無闇(むやみ)に無防備で大切なものが欠落している。世間を渡っていくために必要な賢さが感じられないのだ。
(まあ、ちょっとでも賢かったら‥‥)
 こんな場末のソープランドで働いていないだろう。毎日毎日、店にあてがわれた男に股を開けるわけがない。

「仕事だからどんなことでもやるのか? フェラでもセックスでも」
「ええ‥‥はい‥‥」
「お尻の穴でも足の指でもペロペロしちゃうんだ?」
 矢代の舌鋒(ぜっぽう)は偽悪的に鋭くなっていったが、
「全然オッケーですよ」
 ヒナはやはり、頭の悪そうな笑顔で答えた。
 じゃあやってくれよ、と矢代言わなかった。別にやってほしくなかったからだ。顔を合わせたばかりの女と風呂に入って体を洗われるという露骨なことをしているにもかかわらず、気持ちは性的な興奮からどんどん離れていく。
「キミさあ、この仕事長いの?」
「いえ、まだ二、三カ月です」
「なんでソープなんかで働いてるんだい?」
「なんでって‥‥」
 ヒナは矢代の身体についたシャボンをシャワーで洗い流しながら呟いた。
「ぶっちゃけ、お金の為ですよ。わたし馬鹿だから、友達の連帯保証人になっちゃって。それを返さなくちゃいけないんです」
「へえええ…‥」
 嫌なことを思い出させる。
 つい最近まで、矢代も連帯保証人なってくれる人間を求めて奔走していた。かって金の融通をしてやった男にも、家族ぐるみの付き合いをしていた親友にも、実家や親戚にだって断られた。

 べつに理不尽な話ではない。いったい誰が、傾きかけた会社の社長の連帯保証人になるだろう? そんなことは分かっていた。理屈では分かり切っていたが、その程度の人間関係しか作れなかったおのれの人生が急に虚しくなったのも、また事実だった。誰一人として味方はなく、身内の人間ですら蛇蝎(だかつ)を見るがごとき視線を向けられた屈辱は、死んでも忘れる事ができない。

 当時の事を思い出すと目頭が熱くなってきて、
「貸してくれ」
 矢代はヒナの手からシャワーノズルをひったくり、頭にお湯をかけた。
「髪‥‥洗ってほしいんですか?」
「ああ」
 矢代はしゃくりあげそうになるのを堪えて頷いた。
「実は最近ろくに風呂に入っていなくてね。痒くてしかたなかったんだ」
「なあんだ」
 シャワーの弾ける音の向こうで、ヒナが笑う。
「だったら最初から言ってくれればよかったのに。そういうお客さん、たまにいるんです。だからここ、シャンプーだって置いてあるし」
 ヒナは矢代の手からシャワーノズルを奪い返すと、シャンプーを泡立てて髪を洗ってくれた。手つきは美容師のように練達ではなかったけれど、呆れるほどに丁寧だった。

「ずいぶんゆっくり浸かりましたね」
湯船からあがった矢代の体を。ヒナはパスタオルで拭ってくれた。たしかにゆっくりしすぎてしまったようだ。十五分ね二十分もひとりでソープの湯船に浸かっているいる客なんて珍しいだろうが、昂った感情が落ち着くまで時間が必要だった。

「あんまり気持ちが良くてさ、もう少しで眠っちまいそうだったよ」
 矢代が照れ隠しにつぶやくと、
「ふふっ、溺れちゃったら大変ですよね。グウー、ドボンッ、なんちゃって」
 ヒナは背中の汗を拭ってくれながら笑った。

 矢代の顔は強張った。自分がこの街に、なんの目的でやってきたのかを思い出した。ソープの湯船にのんびり浸かるためではなく、名も知らぬ川で溺れて死ぬためだ。
「まあ、おかげでわたしは休憩出来て良かったですけど」
 ヒナは髪を降ろし、白いキャミソールを着けていた。扇情的(せんじょうてき)なランジェリーで、シースルーのナイロンに胸の膨らみとピンク色の乳首が透けている。ひらひらした裾には股間の翳りが浮かび、白桃のように丸みがあるヒップのシルエットも見えた。

 見ようによっては裸よりエロチックな姿になったのは、どうやらソープランド本来のサーヴィスのためらしい。いったん全裸になったくせに、床入り前に服を着け直すなんて芸が細かい。
 しかし、もう充分だった。
 薄汚い酒場で安酒をすするより、ソープランドを選んでよかった。これで身綺麗に死ねる。心置きなく川に飛び込める。ろくに風呂も入っていない垢(あか)まみれの体では、三途の川の番人だって眉をひそめたことだろう。

「なにか飲みます?」
 ヒナが訊ねてきたので、
「ビールあるかな?」
 矢代は腰にバスタオルを巻きながら答えた。ゆったり風呂に浸かったことで、ようやく体が酒を受け付けてくれそうだった。
「ごめんなさい。アルコール類は置いていないんですよ」
「そうか。そりゃ残念だ」

 矢代は苦笑を浮かべてベッドに横たわった。合成皮革張りのマットにバスタオルが敷かれただけのスペースは、やはり平らなソファのようだったが、意外に寛げた。しかしそれは、あくまでひとり寝の場合だ。
「失礼します」
 ヒナがベッドにあがってくると、途端に狭苦しくなってしまった。
「いや、いいよ」
 身を寄せて口づけしようとするのを制すると、
「えっ?」
 ヒナは大きな目を丸く開いた。続いて眉をひそめた表情が、ひどく哀しそうだった。
「わたし、あんまりタイプじゃないですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、なんだか疲れててね‥‥」
「そうですか‥‥このまま添い寝してもいい?」
「…‥ああ」
 矢代は頷いてヒナを抱き寄せた。本当はベッドをひとりで使わせてほしかったけれど、添い寝まで拒むのはさすがに気が咎める。先ほど一緒に湯船に入ってこようとするのを断ったし、マットプレーの誘いも遠慮したのだ。

 キャミソールに包まれたヒナの体からは、甘い匂いが漂ってきた。昔、食べると口の中が真っ赤になる駄菓子があったが、あれに含まれていた甘味料のような匂いだ。子供にもわかるほど体に悪そうな味なのに、そういえば、いくら親に止められても食べるのを止められなかった。

 手持ちぶさたになり、ヒナの長い黒髪を撫でてみる。シルクのような手触りが心地よかった。手のひらをすべらせて華奢な肩に触れると、素肌が驚くほどすべすべしていた。日に何度も入浴しているせいか、あるいは思ったよりも若いのか。
「年、いつくつなんだい?」
 肩を撫でさすりながら訊ねると、
「えっ…‥」
 ヒナは悪戯(いたずら)を見つかった少女のように眼を泳がせ、
「お店では二十五ってことになっているけど…もうすぐ三十」
「見えないよ、とても」
「わたし馬鹿だから」
「んっ?」
「馬鹿だから、年取らないみたい。新聞読まないし、テレビのニュースだって見ないし、はっきり言って難しいことなんて考えないし‥‥」
 矢代は苦笑した。否定する気にもなれなかった。
「ちょっと眩しいですね」
 お互い仰向けになったので、天井の灯りが眼に入った。ヒナが立ち上がってスイッチを調整する。ダークブランの間接照明だけになると、浴槽や巨大マットやスチームサウナが薄闇に隠れ、部屋は淫靡(いんび)なムードに一変した。
「あのう、本当にいいんですか?」

 ベッドに戻ってきたヒナが、顔を覗き込んでくる。照明が暗くなって変わったのは部屋の雰囲気だけではなく、彼女の表情もだった。可愛らしい童顔をしているくせに、大きな眼を眩し気に細め、唇を半開きした顔つきが、淫(みだ)らだった。どこか幼げな顔立ちなのに、唇だけがサクランボのように肉感的だからかもしれない。

「疲れているなら動かなくていいですから、私にさせてください」
 バスタオル越しに、小さな手が股間をまさぐってくる。
「いや、いいって‥‥」
「でも、せっかく来てくれたのに、おお風呂入って買えるだけじゃもったいないですよ」
「ホントにいいよ‥‥」
 言葉で拒みつつも、矢代はヒナの動きを制止できなかった。バスタオル越しに伝わってくる手指の動きが、たとえようもなく優しかったからだ。初対面の女を抱き寄せている緊張感も、金で女を買った最悪感も、溶かそうとするかのようなフェザータッチ。

 バスタオルが捲られた。
 まだ委縮したままのペニスを、ヒナはやさしい指先がつまみあげる。包皮を剥いては被せ、被せては剥く。睾丸をやわやわと揉みしだき、敏感な内腿を爪でくすぐってくる。
 体の芯がピクンと疼(うず)いた。
「…‥失礼します」
 ヒナは小さくつぶやくと、矢代の反応を待たずに体を反転させた。矢代の顔に尻を向けて四つん這いになり、委縮したままのペニスを口に含んだ。
 ぬるり、と下半身に生温かい刺激が訪れる。

 ヒナは「ぅんんっ、ぅんんっ」と鼻息を可憐(かれん)に弾ませながら、ペニスを吸いたててきた。口内で亀頭に被った皮を剥き、舌を使って舐めまわした。小さくてつるんつるんした舌がよく動き、しかも驚くほどぬめりを伴って吸いついてくる。

 矢代はもう、拒絶の言葉を口にできなかった。
 顔が熱くなり、呼吸が速まって、全身が硬くこわばっていく、意識のすべてが下半身に集中していき、生温かい口の中でペニスに芯ができると、みるみるうちに女と交接できる状態にみなぎって、熱い脈動を刻みはじめた。

「大きくなってきました」
 ヒナが得意げに振り返って笑みを浮かべる。その笑顔は人懐こくも馬鹿っぽくもなく、淫らさだけに輝いていた。大きな瞳が妖しく潤み、サクランボのような唇が唾液にまみれて濡れ光っている。
「‥‥ぅんあっ」
 ヒナは勃起したペニスをもう一度頬ばると、頭を上下に振って、みなぎった肉竿に唇を滑らせた。口内で多量に分泌した唾液ごと、じゆるじゆると音を立てて吸いたててきた。根元からカリまでをしゃぶりあげ、最後に先端をチュッと吸う。小刻みにうごめく舌先で先端の切れ目くすぐり、なめらかな舌腹をカリのくびれに絡みつけてくる。

「ぅんんっ‥‥ぅんんっ‥‥」
 根元に指を添えて角度を調節しつつ、執拗(しつよう)に愛撫を続けた。
 時折振り返って矢代の様子を窺いながら、ねちっこく舌と唇をうごめかす。長い黒髪をかきあげては、そそり勃った男根を狭い喉の奥まで呑み込んで、口内粘膜でぴったりと包み込んでくる。

(ソープ嬢の、面目躍如(めんもくやくじょ)か‥‥)
 ペニスと口とのたまらない一体感に、矢代は唸(うな)った。
 ヒナが唇を動かすたび、体の芯に、ぞくっ、ぞくぞくっ、と戦慄(せんりつ)が走り抜けていく。
 これほど感じるフェラチオを、今まで経験があるだろうか?
 優しいというか献身的というか、男を気持ちよくさせたいという溢れる思いが、舌と唇から生々しく伝わってくる。
 わたし馬鹿だから、というヒナの心の声が聞こえてくるようだった。
 馬鹿だからこんなことしかできないけど、とでも言いたげな舌使いは、けれどもどんな言葉よりも饒舌(じょうぜつ)に傷ついた心に染み込んできた。性感を刺激して、疲弊しきった体に生気を与えてくれた。ひと舐めされるごとに、薄皮が剝がれていくように性器が敏感になり、その感覚が水面にできた波紋さながらに全身に広がっていく。

「むううっ‥‥」
 熱い衝動が込み上げてきて、矢代はうめき声をもらした。
 久しく忘れていた獣の牡(オス)の衝動だった。
 右手が勝手に、四つん這いになっているヒナのヒップに伸びていった。キャミソールの薄いナイロンの、ざらりとした手触りが妖しい。それに包まれていることでお尻の丸みがひときわ丸く、なめらかに感じられ、欲情の炎に油を注ぎこんでくる。
「…‥もういい」

 矢代が上体を起こしてフェラチオを中断させると、ヒナはトロンとした眼を向けてきた。フェラチオに没頭していた顔だった。何もしなくていいと言った手前、矢代は視線を合わせるのが恥ずかしくて、ヒナを四つん這いにしたままお尻に腰を寄せていった。キャミソールをめくりあげ、桃割れの間に勃起しきった男根をあてがった。

「あんっ‥‥」
 花びらに亀頭が擦ると、ヒナは小さな声をもらした。しかし、拒む様子はない。振り返りもせずに尻を突き出している。
 女陰にはなにひとつ愛撫を施していなかったが、矢代は性器を密着させて強引に挿入しようとした。亀頭にはヒナの唾液たっぷりとなすりつけられていたから大丈夫だろうと思った。それ以上に、こみ上げてくる衝動を堪える事が出来なかった。
「んんんんんーっー」
 柔らかな肉を引き裂くようにして入っていくと、ヒナはくぐもった悲鳴を漏らした。肉と肉とがひきつれているから、痛いのかもしれない。わかっていても矢代は衝動を制御できず、腰をひねりながら奥へと進んでいく。

 ヒナの中はまったく濡れていないわけではなかった。とっかかりのぬめりを発見すると、そこを中心に肉と肉とを馴染ませた。ぬぬめりがじわじわとひろがって動きが滑らかになってくると、一気に根元まで埋め込んで子宮口を突き上げた。

「ああああああーっー」
 ヒナが悲鳴を放つ。歓喜の悲鳴というより、衝撃に思わず叫んでしまった感じだ。
 酷いやり方だった。
 好意の発露として行なうセックスでは、こんな風に指や舌の愛撫をすっ飛ばして、男根を突き立てたりしない。

 なのにヒナは受け入れる。矢代にしてもとまらない。それどころか、欲情は鋭く尖(とが)っていく一方で、暴力的な色彩すら帯びてくる。キャミソールの上からくびれた腰をつかんで、律動を送り込んだ。まだ少しひきつれている摩擦感を、ピストン運動によって強引に馴染ませ、むさぼるように腰を振りたてる。
「ああああああーっー あああああああーっー」

 パンパンッ、パンパンッ、と後ろから連打を浴びたヒナは四つん這いの背中を弓なりに反らせた。結合部はもう充分に潤んでいたが、気持ちいいわけはないだろう。これほど一方的なやり方で女陰を蹂躙(じゅうりん)され、快楽を得られるとは思えない。

 それでも、すべてを受け止めてくれる。矢代の暴力的な衝動を、雪白の素肌を生々しいピンク色に染め上げて耐え抜いている。ベッドの上に敷かれたバスタオルを両手できつく握り締めて、ひいひいと喉を絞って身悶(みもだ)える。
 異様な興奮が訪れた。
 彼女は男の暗い劣情(れつじょう)を受け止めてくれる、癒(いや)しの天使なのかもしれない。
 いや、違う‥‥。
 暴力的な衝動は体のみならず精神さえも蝕(むしば)み、金で女を買ったという事実を、自分勝手な全能感にまで高めていった。
 この女が天使である筈がない。
 金で股を開く売春婦じゃないか。
 売春婦なんて畜生以下の肉の”塊”だ。
 金を払っているのだから、好き放題に犯してしまっても構わないのだ。
 四十近くまでソープランドに足を運んだことがなかったのは、その手の考えに嫌悪感もおぞましさも覚えていたからだった。矢代にしても男なので、女体に対する渇きを知らないわけではない。しかし、だからといって金で女を買うなんて、性も愛も踏みにじる、排泄行為じみた唾棄(だき)すべき行為だと思っていた。

 なのに、腰の動きは止まらない。
 キャミソールの上から乳房をまさぐり、ヒナが悲鳴を上げるくらい、ふくらみにぎゅうぎゅうと指を喰い込ませて揉みしだく。
(淫売‥‥肉便器…‥ヤリマン‥‥)

 獣の牡の本能が猛り狂い、呼吸さえ忘れてピストン運動を送り込む。鋼鉄のように硬く勃起した男根で濡れた肉ひだを蹂躙していく。こんな女に生きている価値があるのだろうか、と思った。体を売ることでしか生きていけない、最下層の恥さらし女に。
(最低女‥‥最低女‥‥)
 なす術もなく快感の虜(とりこ)になっていった。ぎゅっと眼をつぶると熱い涙が溢れだした。歯を食いしばってかろうじて声を上げることだけは堪えたものの。嗚咽(おえつ)が込み上げてきて全身をぶるぶると震わせた。ほとんど慟哭(どうこく)だった。とめどもなくあふれる涙が頬を濡らし、声を上げずに泣きじゃくった。
「…‥おおおおっー」
 やがて下半身で、ドクンッ、と爆発が起こり、矢代は火を噴きそうなほど熱くなった顔をくしゃくしゃに歪(ゆが)めた。溜まっていたせいか放出の快感は凄まじいばかりで、はちきればかりにみなぎった男根から魂まで噴射しそうな勢いだった。驚くほど長々と続いた射精の間、ここがどこで相手の女が誰であるかも忘れ、ただ精を吐き出す恍惚(こうこつ)だけに溺れてしまった。

 深夜一時過ぎ――
 矢代は駅前の商店街のはずれにある朝鮮料理屋でしたたかに酔っていた。本当なら、とっくにこの世とはおさらばしている時刻だった。
 死に損ねてしまったという、後悔とも罪悪感ともつかない重い気分が背中にのしかかり、ただ飲む事しかできない。お通しのキムチやカクテキにも手をつけずに酒を呷(あお)りつづける矢代の様子に、店の女主人は最初冷たい眼差しを向けてきたけれど、二本目の眞露(じんろ)のボトルを頼むと呆れたように笑った。

 矢代も笑い返した。女主人のヘアスタイルはソープランドの黒服にそっくりで、白髪まじりのパンチパーマが伸びきって鳥の巣のようだった。この街で流行中の髪型なのかと訊ねてみたかったが、皮肉なジョークを日本語で言っても通じなさそうだった。

 この店に入ったのは、エアコン代を節約して開け放たれていたドアの向こうから、韓国語が聞こえてきたからだ。どうやら付近に住む半島出身者の溜まり場らしく、そういう店でなら異邦人のように放っておかれると思ったのだった。
 実際、五卓あるテーブルのうち、矢代が座ったところ以外は、テーブルとテーブルで韓国語がけたたましく飛び交っていた。けたたましくても意味がわからない言葉と騒音と同じだ。矢代は思う存分、自己嫌悪に浸ることができた。

(もう一本くらい飲めば、死ねるかねえ‥‥)
 半分以上なくなってしまった二本目のボトルを眺めながら、内心で独りごちた。
 しかし、もう無理だろう、とアルコールで煮えている頭でぼんやり考える。自殺するにもそれなりに気力が必要で、それが削がれてしまったのだ。なにもかもめちゃくちゃにしてやりたいという暴力的な衝動を、精液とともにヒナの中にすっかり吐き出してしまったらしい。これではいくら飲んでも、橋の上からダイブすることは出来そうにない。

 そのとき。
 ミニスカートを穿いた若い女が店に入って来た。
 ヒナだった。
 矢代に気づいて、唇を真ん丸に開いた。先ほど矢代を喜悦にうめかせた唇だった。次の瞬間、バツが悪そうに長い睫毛を伏せた。矢代にしても思いっ切りバツが悪く、踵を返してくれることを期待したが、
「ああー、ヒナちゃんいらっしゃい。相席なっちゃうけど、いいでしょ?」

 日本語の覚束ない女主人に背中を押されてしまい、矢代の正面の席に戸惑いながら腰をおろした。どうやら彼女はこの店の常連客のようだった。
「…‥さっきはどうも」
 矢代は眼を合わせずに呟いた。
「いえ‥‥こちらこそ」
 ヒナも眼を合わせずに答える。愛想笑いも交わせない重苦しい空気がテーブルを行き来し、矢代は耐えきれなくなって、眞露のボトルをヒナのほうにすべらせた。
「よかったら、これ飲んで。メシも奢るよ。さっきのお礼に」
「お礼って‥‥わたしは仕事しただけだし…」
 ヒナは居心地が悪そうに尻を動かした。レモンイエローの半袖ニットの白いミニスカートという若々しい装いだった。店にあてがわれた違いない赤いドレスよりずっとよく似合っていたが、褒め言葉を口にするのも間が悪い。

「いいからご馳走させてくれ。なんでも頼んで」
 ハングルと日本語が併記されたメニューを渡すと、
「はあ‥‥」
 ヒナは気まずげに視線を落とし、
「なに食べました? ここは料理がどれもとっても美味しくて‥‥」
「いや、食欲なくて酒ばっかり」
「‥‥そうですか」
 ヒナは溜息をひとつついてから女主人を呼び、生ビールと料理を注文した。空腹だったらしく、何品も頼んだ。
 やがて、砂肝とニンニクの炒め物だの、朝鮮風の腸詰だの、豆腐チゲだのが運ばれてきて、ヒナは無言で食べ始めた。店中に飛び交う韓国語が、ふたりのテーブルだけを小宇宙のように孤立させていた。手持無沙汰になった矢代は立て続けにグラスを空け、鳥の巣頭の女主人に三本目の眞露を注文した。
「…‥大丈夫ですか?」

ヒナが上目遣いに訊ねてくる。
「なにが? 酒なら平気。肝臓がいかれてて、浴びるように飲まなきゃ酔えない」
「そうじゃなくて、なんか‥‥」
 ヒナは豆腐チゲを食べていたスプーンを置き。ナップキンで唇を拭った。
「お店で様子おかしかったし」
 矢代は眉をひそめた。
「そんなことはないだろう。ちょっと乱暴なしちまったから?」
「それは別に‥‥いいんだけど‥‥」
 ヒナがじっとした上目遣いで顔を覗き込んでくる。
「ハハッ、なんだよ。はっきり言えよ」
「だってわたし、初めてだったんですよ。エッチしながら泣きだしたお客さん」
 黒い瞳に、同情とも憐れみともつかない影が走る。
 矢代は一瞬、言葉を返せなかった。バックスタイルで繋がっていたので、彼女にはわからないように泣いたつもりだった。自他共に認める馬鹿なソープ嬢に心の中を見透かされた気がして、したたかにプライドが傷つけられた。

「おいおい、おかしなこと言うなよ。泣くわけないだろう、あんなことしながら‥‥」
 強張った顔で言った。
「あんまり気持ちよくって、涙がちょちょ切れそうになったがね」
「でも、すごく落ち込んでるみたいだったし…」
 矢代はグラスの氷をカランと鳴らし、ヒナを睨みつけた。
「…‥自殺でもしそうに見えたかい?」
「いえ、そこまでは…」
 ヒナは苦笑いを浮かべて首を横に振ったが、眼が笑っていなかった。
「ごめんなさい。わたしじゃ癒してあげられなかったですね」
「そんなことはないさ」
 矢代は乾いた苦笑をもらした。
「びっくりするほど癒されたよ。ああいうところに行ったのは初めてだったんだけど、いいところだったな、うん。お陰で‥‥」

 酒が廻ってしまったせいか、お喋りが止まらない。
「お陰で‥‥自殺する気力がなくなった」
 ヒナが瞳を凍りつかせて息を吞む。
「あんた、馬鹿なふりして、意外に人間洞察力があるんだな。図星だよ。顔に死相でも出ていたかい? 俺はこの世の見納めに、有り金はたいてあんたを買ったんだ。店を出たらそこの橋から飛び降りるつもりだった。子供の頃から根性ナシでね。ビルから飛び降りてさ‥‥
アスファルトにぶつかったら痛そうじゃないか。その点、下が川ならそうでもない気がしててさ…どうして自殺なんてしようと思ったか、聞きたいかい? せっかくだから聞いてくれよ。

会社を潰しちまったんだ。四年前に脱サラして会社興して、従業員が三人しかいないちつこい会社だったけど、俺にとっては城だった。それが先月、二度目の不渡りを出してパアだ。家は抵当に入っていたから。人手に渡っちまった。家だけじゃなくて、カミさんも‥‥こっちとら骨身を削って仕事をしている間に、浮気してたんだよ。経営が苦しくて、ちょっとばかり生活に苦労させちまってたから‥‥
でもだから‥‥金の切れ目が縁の切れ目ってわけか? まったく、ふざけた話だよ。誰のためにこっちが不眠不休で頑張ってきたと思ってんだって‥‥」

 脱サラするまではそれなりに順調に歩んできた人生だった。俺の人生、こんなはずじゃなかったと思うと、声が震え出し、慌てて焼酎を喉に流し込んだ。もう少しで嗚咽を洩らしてしまいそうだったけれど、と同時に、胸がすっと軽くもなった。いままで誰にも話したことがない。ひとり溜め込んでいたドス黒い感情を吐き出した気分は、射精の快感にも似ていた。

 しかしすぐに、胸は重苦しくつまった。いい大人が、一度買っただけのソープ嬢に思いの丈(たけ)をぶちまけている図が醜(みにく)すぎて、絶望的な自己嫌悪が襲いかかってくる。身をよじりたくなるような恥辱が、酒に赤らんだ顔をますます熱くする。

 ヒナを見た。
 驚くべきことに、さめざめと涙を流して泣いていた。
「…‥おいおい」
 矢代は苦笑した。
「なんであんたが泣くんだよ? 泣きたいのはこっちの方なんだぜ‥‥」
 精一杯の虚勢を張り、おどけた調子で言ったのだが、
「だって…‥だって可哀想‥‥」
 ヒナは嗚咽まじりの声を絞り出すと、わっと両手で顔を覆って泣きじゃくった。
「わたし、そういう話弱いんですぅ…‥うあああっ‥‥」
 親とはぐれた少女のような、手放しの泣きじゃくり方だった。矢代は焦った。店中で飛び交っていた韓国語がぴたりととまり、ふたりのテーブルに訝(いぶか)しげな視線がいっせいに集まってきた。 

つづく 第二章 吹きだまり

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