矢代がこの部屋に転がり込んできてから、ひと月弱が過ぎようとしていた。
 ヒナと出会ったあの日、矢代の惨めすぎる境遇に、ヒナは泣いてくれた。いつまでも泣き止まず、パンチパーマの女主人が心配して背中をさすりにきたほどだった。

 本表紙 草凪優 著

第二章 吹きだまり

ヒナが住んでいる部屋は、窓を開ければ河原の景色が眺められるアパートの二階にあった。
 二十年ほど前矢代が学生時代に住んでいたような木造モルタル造りの古いアパートで、間取りは六畳と四畳半の和室二間に、二畳ほどの台所。トイレはあるが風呂はなく、木枠の窓は開閉の度にガタガタと音を立てた。

 日暮れから夜にかけては殺伐(さつばつ)とした雰囲気になる河原だが、昼間の景色は長閑(のどか)なものだった。青い空と雑草の緑とゆったりと流れる川が見渡せ、東京とは思えないほど自然が近しい。九月も半ばを過ぎていた。夏の終わりはもう終わって、高くひろがった青空と乾いた風に、秋の気配が感じられる。

「それじゃあ、行ってきます」
 ヒナが外出用のミニスカート姿になって声をかけてきた。
「帰りはいつもの通りだと思う‥‥これ、食事代」
 千円札を数枚、丁寧に折りたたんで、テーブルに置いてあるウイスキーの瓶の下に滑り込ませた。
「悪いないつも‥‥」
 矢代は立ち上がって玄関までヒナを見送った。玄関といっても、剥き出しのコンクリートに靴を並べられ、建付けの悪いベニヤ製のドアがかろうじて外と隔てているだけだ。冬になったら隙間風が酷そうだった。
「いいの、いいの。掃除や洗濯までしてもらって、こっちが申し訳ないくらい」
「それくらいは、な‥‥」
 矢代が苦笑すると、
「ふふっ、わたしたちってけっこうお似合いだと思わない?」
 素足をミュールに突っ込んだヒナは、矢代の腕を取って壁に掛けられた姿見を見た。
「渋谷とか歩いたら恋人同士に見えるよ、きっと」
「‥‥そうかね」
 年の差は約十歳。見た目はそれ以上離れて見える。親子には見えないにしろ、恋人同士はかなり微妙だ。年の離れた兄妹か、「出会い系」などの金銭を介在した関係がいいところだろう。
「はい‥‥」
 ヒナが悪戯(いたずら)っぽく方頬を突き出してくる。出かける時はいつも、そうやってキスをねだる。もうすぐ三十歳になるというのに、ひどく子供っぽいところがあった。秋になってもミニスカートにミュールというコーディネイトも、呆れるほどに若作りだ。
「ねえねえ、キスキス」
「わかったよ」
 矢代がしかたなく頬に口づけすると、
「ふふっ、好き好き」
 とお返しに頬にキスしてくれた。チュチュと音を立ててる甘いキスだ。自宅の玄関先でこれほどはしゃぐ女を、矢代は他に知らなかった。それでも玄関は名ばかりの、粗末でみすぼらしい空間で。
「じゃあね、あんまり飲み過ぎないでね」
 眩しいほどに明るい笑みを振りまいて出ていくヒナを、矢代はドアを開けたまま見送った。途中で何度も振り返る姿が、見えなくなるまで眺めていた。
 はしゃがなければやってられないのかもしれない――とも思う。彼女はこれから、幾ばくかの報酬のかわりに、見知らぬ男の前で裸になり、両脚を開く。

 矢代がこの部屋に転がり込んできてから、ひと月弱が過ぎようとしていた。
 ヒナと出会ったあの日、矢代の惨めすぎる境遇に、ヒナは泣いてくれた。いつまでも泣き止まず、パンチパーマの女主人が心配して背中をさすりにきたほどだった。ようやく泣き止むと、生ビールを眞露に替えてしたたかに酔い、
「行くところがないなら、うちに泊まっていって。歩いてすぐのアパートだから」
 と大きな眼をうるうるさせながら呟いた。
 矢代はもちろん断った。
 ソープランドで散財したばかりなうえ、その店の勘定まで払えば財布の中身はすっからかんになるだろうし、帰る家だってもちろんなかったと思う。それでも、出会ったばかりの女に、それも一度客についただけのソープ嬢に同情され、施しを受けたりすれば。ますますみじめな気分になりそうだった。

 しかし、足元が覚束なくなった彼女を家まで送らなければならなかった。
 たとえ偶然の悪戯にしろ、それは一緒に酒を飲んだ者の責務のようなものだった。
 ヒナも充分に千鳥足だったが、矢代はそれ以上にふらふらで、普通に歩けば十分かからない距離を、休み休み三十分以上かけて歩いた。

 ヒナがもしオートロック付きの小奇麗なマンションに住んでいたら、部屋まで送らず建物の前で別れただろう。
 赤茶色に錆びれた外階段の付いたポロアパートを見て、無性に懐かしい気分になった。誘われるままに、上がり込んで水を飲ませてもらった。部屋は整理整頓が行き届いていたけれど、女らしい華やぎはなく、蛍光灯の灯りがやけに白々としていた。炬燵(こたつ)から掛け布団は外しただけのテーブルが、粗末すぎて涙を誘った。とはいえ、畳の上にあぐらをかくと、なぜかひどく落ち着いた気分になった。

「ずいぶん質素な暮らしだな。ソープ嬢ってそこそこ儲かる仕事じゃないのかよ」
 苦笑まじりに矢代が言うと、
「わたし、借金あると言っているじゃないですか」
 部屋の隅で膝を抱えたヒナは、怒ったように頬を膨らませた。
「それ、本当の話なんだ? ハハッ、一見の客の質問に馬鹿正直に答えてのか。友達の連帯保証人になったなんて‥‥」
「嘘つくなら。もう少しマシな嘘つくでしょ」
「酒、貰っていいか?」
 テーブルに安物のウイスキーが置かれていた。
「まだ飲むの?」
 ヒナは眉をひそめたが、
「気絶するまで飲まないと眠れないんだ」
 矢代はかまわず、水が半分ほど残っていたグラスにウイスキーを注いで飲んだ。
「じゃあここで気絶して、泊まっていって」
 ヒナは挑むような上目遣いで見つめてきた。テリトリーを守ろうとする犬のように、うなり声まであげそうだった。
「いや、いい。遠慮しとく」
「自殺しそうな人、放っておけない」
「だから自殺はやめたって」
 矢代は力なく首を振った。
「死ぬ気力がさ、萎(しぼ)んじまった。誰かと一発やったせいで」
「そんなのわかんないよ。ここから出て行って橋の上うろうろしてたてたら。また死にたくなっちゃうかもしれないし‥‥」

 そうかもしれなかったが、それならそれでかまわなかった。また朝が来て、新しい一日を生きるほうがはるかに大変そうだ。
「ねえ、泊まっていって。お願いだから」
「お願いするほどのことかよ‥‥」
 酔ったヒナが意地になっているようなので、矢代は話の矛先を変えた。
「だいたい、おまえ男いないの?」
「いるわけないんじゃん!」
 ヒナは眼を剥いて答えたが、
「いるわけないよ‥‥借金も持ちの‥‥ソープ嬢に‥‥」
 言葉を後ろにいくほどか細くなっていった。
「そうか‥‥」
 矢代はウイスキーの水割りを飲み干した。上体を起こしているのが辛くなり、畳の上に寝転んだ。藺草(いぐさ)の香りが鼻先に届き、堪らなく寝心地がいい。そういえば、人手に渡ってしまったかつての自宅は、妻の意向で全室フローリングだった。
「おまえ、モテそうなのにな‥‥」
 ミニスカートで膝を抱えたヒナは、下から見ると太股の裏が丸見えだった。どちらかいえば引き締まった太股をしているけれど、その角度ならむっちりして見える。
「どうしてよ? モテないよ」
「モテるだろ、フェラも上手かったし」
 目を閉じて店で受けた口腔愛撫を思い出させる、淫靡(いんび)な笑みがもれた。店の外で再会した彼女は泣いたり怒ったり嘆いたり、いささか情緒不安定のようだったけど、あのときは一瞬、癒しの天使にも思えたものだ。

「なによ。酷いこと言わないでよ。フェラがうまいからって女の子を本気に好きになる? ソープ嬢としてじゃないよ。ねえ…黙ってないでなんとか言えってよ!」
 矢代は言葉を返すことができなかった。畳の感触が気持ち良すぎて、眠りに落ちてしまったからだ。翌朝眼を覚ますと凄まじい二日酔いで身動きがとれず。今度は布団に寝かして貰うことになり、気がつけば翌々日の朝になっていた。
 それが始まりだった。
「ここにいなよ。元気が出るまでずっとここに‥‥」
 ヒナに執拗(しつよう)に引き留められた矢代は、出ていくきっかけを見つけられないまま、彼女のヒモのような暮らしをするようになっていた。

 どんな男でも一度くらいは、ホステスや風俗嬢のヒモになることを夢見たことがあるんじゃないか、と飲みながらある男が言い出し、同席していた連中が揃いも揃って大きく頷いたので、矢代は猛反発した事がある。
 なにも主夫という存在を蔑視(べっし)しているわけではない。
 そうでなく、ヒモなんて面倒くさいと思ったのだ。外で神経をすり減らして金を稼いでくる女のご機嫌をとりながら、細々とした家事をこなしているくらいなら、汗水垂らして働いているほうがどれだけマシか知れない。

 そんな思いはいまも変わっていなかった。
 変わらないまま、場末のソープ嬢のヒモじみた暮らしに身をやつしている。
 なにしろ、まともな仕事を見つけるなら、放置したままの住民票を然るべきところに落ち着けなければならない。部屋を借りてスーツ一式を揃え、あとは最低でも携帯電話とノートパソコンくらいは必要だろう。そんな金はどこにもなかった。それに、本気で社会復帰を目指すのであれば、まずは不渡りで迷惑をかけた債権者に土下座して回るのが筋に違いない。考えただけで胃が痛む。

「気にしないでずっとここにいていいよ。食事代なんて、ひとりもふたりも一緒だし、帰ってきて部屋に灯りが点いているとわたしも嬉しいから」
 そう言ってくれるヒナの好意に甘えて居座るうち、結局、ずるずると時間ばかりが経ってしまった。
 毎日毎日、自己嫌悪だけが募(つの)っていく。
 ヒナの生活は午後二時ごろから店に行き、夜中の十二時まで店にいて客をとっている。帰宅はだいたい午前一時過ぎ。休みは曜日に関係なく三日に一回で、二日働いては一日休むというサイクルだった。

 ヒナに仕事がある日、彼女を送り出した矢代はまず、洗濯を始める。根が真面目なので、居候をするなら家事ぐらいはするべきだと思ったのだ。洗濯機を回しながら掃除機をかけ、台所を片付け、洗濯機が止まれば物干しだ。
「どうも。励んでますね」
 ガタガタと音をさせて窓を開けると、隣の部屋の男が同じようにガタガタと音を立てて窓を開けた。ベランダのないアパートなので、お互い窓を開ければ顔を合わせて話ができる。
「ああ、どうも」
 まるで日課のように現れるなと思いながら、矢代はピンチハンガーにヒナの下着をぶら下げていった。
 男は大倉という名前だった。
 年は三十前後だろうか。リーゼントと青白い顔が、夜の住人の匂いをあからさまに漂わせている。ただし現在は仕事をしていないようで、こちらも夜の住人らしき同居中の女に食わせてもらっているらしい。要するに、矢代の同業者というわけだ。
「ヒナちゃん、相変わらず下着の趣味は地味ですねえ。アハハハッ‥‥」
 くすんだピンクやベージュのショーツを見て、大倉が笑う。
「そっちはもう終わったのかい?」
 矢代がそっぽを向いたまま答えた。

 四十の声を聞きそうに年になって、女の下着を干しているところを見られるのは、生まれてきたことを後悔したくなるほど惨めだった。意地になって家事をこなしているのは、根が真面目だからなんでもなく、惨めさに埋没することでおのれを罰したかったからかもしれない。
「今日の家事はパスっすね。なんか疲れちゃって」
 大倉は両手を伸ばして欠伸(あくび)をした。
「それより、あとでまた銭湯行くでしょう? 連れションならぬ、連れ風呂に」
「まあ、いいけど」
 矢代は苦笑まじりに頷いた
 大倉は、同類の隣人が出現したことがよほど嬉しいらしい。ここ数日、毎日のように銭湯に誘われていた。ひとっ風呂浴びた帰りは、赤提灯で一杯だ。女が店に出ている間、暇で暇でしかたがないのだろう。
 どこか飄々(ひょうひょう)としてつかみどころない彼とは、まだ付き合いの距離を測りかねているところだったが、矢代は誘いを断らなかった。矢代にしてもヒナのいない夜の間、映りのよくないテレビを観るくらいしかすることがなかったからである。

 東京の銭湯の湯は全般的に熱いという。
 気の短い江戸っ子が烏の行水を好んだとか、客の回転をよくするために長く入っていられないようにしているのだという、諸説があるようだが、とにかく熱くて一分と入っていられない。

 それでも、銭湯の広い洗い場を独占しているのはちょっとない開放感で、矢代と大倉はいつも浴槽のへりに腰かけて、だらだらと話をしていた。閉店間際の深夜になればそれなりに客が集まるらしいが、午後六時や七時ではいつ行っても空いていた。

「俺はこのままじゃ終わらないですよ‥‥」
 大倉は銭湯の高い天井を見上げて言った。
「あんなポロアパートに住んでいるものも、店の開業資金をつくるためでしてね。いずれは小さくてもいいから自分の城を持つつもりですから‥‥」
 大倉は元々、六本木のキャバクラでボーイをしていたらしい。有名な高級店だというが、その店の人気キャバクラ嬢と恋中になってしまい、店を辞めざるを得なくなったという。店の商品である女とボーイの恋愛はどこの店でも御法度にしている。辞める前にバレていれば確実に半殺しされていた、と笑いながら言っていた。

「レイコがいればね、どんな店でも成功間違いなしだと思うんですよ、うん」
 レイコというのが大倉の彼女の名前だった。矢代も何度か見かけた事があるが、大倉が自信満々なのもうなずける、ぞっとするほどの美人だった。
 年は20歳くらいだろうか。アーモンド形の眼と金髪の髪が、高貴な猫のような雰囲気を漂わせており、若さに似合わぬ落ち着きがあった。逆に言えば啞然とするほどの無愛想で、矢代がすれ違いざまに会釈しても涼しい顔で無視する。しかし、そんな表情ひとつ変えない澄ました態度が、容姿の美しさをなおさら際立たせた。飴色に煤(すす)けた下町の風景の中で、ナイフで切り取られたようにくっきりした存在感を示していた。

「彼女、美人だものねえ」
 矢代が言うと、
「そうでしょう、そうでしょう」
 大倉は我が意を得たとばかりに頷いた。
「六本木の店、けっこう大バコなんで百人以上女の子が在籍しているんですけど、指名五位から落ちたことがないですからね」
「有名店で人気のキャバ嬢なら、月に何百万も稼ぐんだろう? 開業資金なんてすぐ貯まりそうじゃないか」

「いや、まあそうなんですけど‥‥実はバンスがありまして。バンスって前渡し金ですけど、レイコは前、銀座の高級クラブで働いていたんですよ。売り掛けでしくじっちゃいましてね。ツケで飲んでた太い客が飛んじゃったんです」
「要するにその借金を、いまの店に肩代わりしてもらったわけか?」
「そうです。早い話が」
「なる程‥‥」
 結局のところ、人生の困難はいつだって金だった。金がないのは首がないのと同じ。借金の袋小路に嵌(はま)りこんだら最後、復活するのにはなまなかではない。
「それからね…‥」
 大倉は浴槽の縁から尻を滑らせ、熱い湯に顎(あご)まで浸かった。
「俺がこんな調子でぶらぶらしているから、あいつ最近機嫌悪くて‥‥」
「仕事、すればいいじゃないか」
「いゃあ‥‥」
 苦笑する顔が、茹で蛸のように赤く染まっていく。
「初めはね、どっかの高級クラブでマネージメントの修行しようと思っていたんですよ。いや、いまでも思っていますけど。でもねえ、生活費の心配がいらないってなったら、なかなかその‥‥勤労意欲もわいてこなくて‥‥」
「不味いじゃないか‥‥俺も人の事言えないけど」

「マジな話、ちょっとはやる気のあるところを見せないと、愛想尽かされそうっていうか‥‥実は最近、なんかあいつに、男の影を感じるんですよ…‥熱いな、ちくしょう!」
 大倉はザバンと湯に波打たせて立ち上がり、浴槽の縁に座り直した。
「まあなあ、あれだけの美人なら引く手あまただろうしなあ」
「それより矢代さんのほうはどうなんです?」
 レイコの話題をそれ以上続けたくなかったのだろう。大倉は話の矛先を向けてきた。

「俺? だから俺も似たようなもんだよ。いずれは事業を再開したいけど‥‥」
「事業って何をやってたんですか?」
「健康食品っていうか、サプリメントってあるだろう? 滋養強壮の。飲めば元気になるってやつ。ああいうのを開発販売してたんだ」
「そりゃまた、胡散(うさん)臭いなあ」
 大倉は顔に玉の汗を浮かべながら楽しげに笑った。

「週刊誌とかに広告載っている類でしょ? 二十歳若返りました、なーんて」
「いやいや、零細企業だから広告なんて打てなかったけど、けっこう真面目に取り組んでたんだぜ。原料なんてこだわってさ。朝鮮人参とか牡蠣肉エキスとか。だからまあ、赤字になっちまったんだが‥‥」
「じゃあそのサプリメントを売る会社をまたつくりたいんですか? 倒産しちゃったリベンジに?」
「まあね」
「うまくいったら、ヒナちゃんは?」
「んっ?」
「まさか所帯を持つつもりじゃないですよね?」
「あ、いや‥‥」
 矢代は口籠もり、
「いずれはね‥‥いずれはきちんとしようと思っているさ、そりゃあ‥‥」
「マジすか?」
矢代さん、すげえ。男っすね」
 大倉は大げさに目を丸くした。
「いやあ、尊敬しちゃうなあ。俺はてっきり利用しているだけだと思っていましたけど。まあ、ヒナちゃん、尽くすタイプっぽいから、いい奥さんになるかもしれませんね‥‥でもソープ嬢と所帯かあ、すげえなあ‥‥」

「ハハハッ、そうかい? すげえか?」
 矢代は力なく言葉を返しつつ立ち上がった。
「…‥先、あがるよ」
 洗い場の硝子戸を開けて脱衣所へ向かい、さらに縁側まで出た。その銭湯にはかなり立派な庭が併設されていた。鯉が泳ぐ池に、濡れた飛び石。手入れの行き届いた木々を揺らして届く秋の夜風が、火照った体に心地よかった。
(まったく、俺もいい加減なことをよく言うぜ‥‥)
 実際のところ、ヒナと所帯を持つことなど考えた事もなかった。考える余裕なんてなかった。生きる希望も社会的立場も失い、自殺する気力さえ失ってしまって、この一カ月間は、ただ抜け殻のように生きてきた。

 利用するとかしないとか、そんな腹黒いことだって考えていない。
 矢代にとってヒナは、女という生々しい存在ではなく、喩(たと)えて言えば、土砂降りの雨に打たれた野良犬に軒先を貸してくれ、餌まで与えてくれいるような、ただ親切で優しい存在だった。
 たとえ肉体関係があったとしてもそうだった。
 そう思いたかった。

 深夜一時過ぎ、ヒナが部屋に帰ってきた。
 いつものことだがひどく疲れていて、顔から笑顔が消えていた。一日に三人四人もの男の欲望と向き合っているのだから、当たり前と言えば当たり前だろう。
 それでも空元気を出して。
「バンッ!」
 と矢代に人差し指を向けて来る。
「ううっ‥‥やられたっ‥‥」
 矢代はピストルで撃たれたふりをして胸を押さえ、苦し気にうつむかなければならない。馬鹿馬鹿しいと言えばこれ以上なく馬鹿馬鹿しい子供じみた遊戯だが、付き合わないとヒナはいじける。しょんぼりしてしばらく口を利かなくなる。
「ふふっ、やられ方、上手くなったね」
 ヒナは少しだけ笑顔を取り戻し、
「まったく‥‥おじさんにこんなことをやらせて、なにが楽しいんだか」
 矢代も照れ笑いを浮かべずにはいられない。
「メシ食ったか? 野菜炒めか麻婆豆腐なら作れるけど」

「うーん、いいや。夕方に出前の中華食べたから」
 ヒナは流しで化粧を落としはじめた。風呂のないこの部屋では、台所と洗面所が兼用だった。お陰で料理をするときも、化粧品の匂いが鼻につく。
「じゃあ、ビールでも飲むか?」
「ううん、いい」
「‥‥そう」
 妙に白けた間が漂う。
「ああーっ、やだなあなんか汚くて」
 ヒナはメイクオフクリームを塗った顔で言い、水切りかごのグラスを取り上げた。
「悪い。もう少し丁寧に洗えばよかったか?」
「ううん。そうじゃなくて、これもう寿命だよ。いくら漂白しても曇ってるんだもん」
 燃えないゴミの袋に放り込み、
「ねえねえ、わたし明日休みだし、お揃いのやつ買いに行こうよ。知ってる? 駅前に百円ショップができたんだよ」
「百円ショップかよ」
「いいじゃない。わたし百円ショップ大好き」
「じゃあ。明日散歩がてら行くか」
「やったー、楽しみ楽しみ」
 ヒナは満面の笑みをこぼし、給湯器のお湯で顔を洗った。
 矢代は屈んだヒナの背中をぼんやりと眺めた。ヒナも背中を見つめられていることを分かっている。狭い台所に息苦しい緊張感が孕(はら)まれていく。言葉やアイコンタクトがなくても、ふたりは同じことを考えていた。
「じゃあ、奥で待っているから」
 矢代は四畳半の部屋に向かった。寝室として使っている部屋だった。畳に一組しかない布団を敷き、シャツとズボンを脱いだ。白々とした蛍光灯の灯りの下で、トランクス一枚でぼんやり立っていると、化粧を落としたヒナが部屋に入ってきて襖を閉めた。

 ノーメイクのヒナの顔は眉が薄くて、ますます子供っぽく、いっそう幼げにすら見えた。
 蛍光灯の紐を引っ張り、橙色の豆球だけにして服を脱いでいく。水着のような派手なランジェリーは店用で、普段はベージュ系の地味な下着ばかりだ。それが恥ずかしいとばかりに、慌てて脱ぐ。橙色の豆球の灯りを受け、素肌が白く輝く。
 ヒナは下着を脱いで全裸になると、小さな体を躍らせて抱きついてきた。

「…‥ぅんつ」
 矢代は抱擁に応えて口づけをする。
 このひと月ばかり毎日のように繰り返されている、儀式のようなものだった。ヒナは矢代を居候させるにあたり、ひとつだけ条件を出した。この部屋にいる間はかならず毎晩わたしを抱いて、と。
「ぅんんっ‥‥ぅんんっ‥‥」
 トロンとした眼で深いキスを淫してくるヒナは、まるで親猫に乳をねだる子猫のように矢代の舌を吸ってきた。吸うほどに全身を欲情させ、白い裸身を揺らめかせる。矢代は最初、彼女の出した条件にびっくりした。一日に三人も四人も客を取り、家に帰ってきてまで性交したがるなんて、ニンフォマニアなのかもしれないとおののいた。
 しかし、彼女はおそらく色情狂ではない。

 そうではなく、矢代を癒してくれようとしているのだ。自分が得意な唯一の方法で、傷ついた心を癒し、荒んだ気持ちを慰め、男としての自信を回復させようとしている――体を重ねるほどに、その思いは確信に近づいていった。
「…‥もう立っていられない」
 ヒナがキスをといって言った。矢代は頷き、ふたりで布団に潜り込んだ。ヒナはキスがとても好きだった。横になってもしばらくは、じっとと舌を吸い合う。そうしつつ、矢代はヒナの黒髪を撫でる。肌と肌をこすりあわせる。
「ねえ、これも脱いで‥‥」
 ヒナがトランクスを引っ張ったので、矢代は脚から抜いて全裸になり、あらためて抱擁した。
 股間のものは硬くなっていた。
 最初、ヒナに同居の条件を出されたとき、いちばん不安だったが、自身の男性機能についてだった。矢代はもう、欲望が有り余っている若者ではない。しかも、セックスのスペシャリストたるソープ嬢を相手に義務にも似た性交を毎晩続けるなんて、特別の力が必要ではないだろうかと思った。たとえばホストやAV男優のような。

 しかし今のところ、不安は二重の意味で的中していなかった。
 ヒナを悦ばせるために超絶的なセックステクニックは必要なかったし、義務で抱くというにはヒナの体は魅惑的すぎた。

 服を脱いですぐのヒナの体は、ソープランド特有の安っぽいローションの匂いに包まれている。興奮に浮かび上がってくる汗が、その匂いを洗い流す。矢代の手指が乳房を揉みしだ、尻を撫で、股間に指を這わせる段になると、甘ったるい匂う発情の汗と、股間から立ち昇る獣のじみた性臭によって、ヒナはソープ嬢からひとりの女に戻っていく。

「もっとして‥‥気持ちよくして…‥」
 童顔を蕩(とろ)けさせてねだるヒナはどこまでも淫らだった。矢代は苦手なクンニリングングスを一生懸命行った。ほんの数時間前に別の男のものを咥(くわ)えこんでいた場所だったが、嫌悪感などおくびにも見せてはいけない。薄桃色に輝く粘膜を丁寧に舐めまわし、花びらを口に含み、クリストリスを舌先で転がしていく。鼻の頭も口のまわりも、ヒナが漏らす分泌液でベトベトンになるまで行なう。

 居候にできる唯一の恩返し、という気分がまったくなかったとは言わない。
 けれど、どうせ抱かねばならぬなら、他の男の匂いを自分の舌で清めてやろうと思った。結果的に、妻にも半ば嫌々行っていたその愛撫に情熱を傾けることになり、日を追うごとに舐めている時間が長くなっていった。
「ねえ、もう欲しいよ‥‥」
 ヒナが大きな眼をねっとりと潤ませてねだってくる。矢代は頷いて上体を起こし、ヒナの両脚をMの字に開いた。おしめを替えられる赤ん坊のような格好にして、両脚の間に腰を滑り込ませていった。

 男根は痛いくらい勃起していた。はちきれんばかりだった。芯から硬く漲(みなぎ)り、熱い先走り液を先端から噴きこぼして、女の肉を求めていた
 矢代は男根を握りしめると、涎(よだれ)じみた先走り液をなすりつけるようにして、亀頭で女の割れ目をなぞっていく。発情のエキスに塗れた花びらを左右に開きながら、男根を突き立てるべき場所を探す。
「んんっ‥‥んんんっ‥‥」

 粘膜をこすられる刺激に、ヒナは身をよじって悶える。ソープの個室ではおそらくそうではないのだろうが、矢代との性交で彼女はほとんど受け身だった。フェラチオすら、自ら望んではしてこない。
 けれども、矢代にはそれで充分だった。キスをして体をまさぐってクンニを施し正常位で合体するという、ごく月並みで工夫のない流れにもかかわらず、自分でも驚くほど欲望が高まっていく。

 猛り勃つ男根で両脚の間を貫けば、どうなるか分かっているからだ。
「…‥いくよ」
 息を呑んで腰を送りだした。幾重にも重なった柔らかい肉襞(ひだ)が、熱く潤みながら男根を迎え入れてくれる。肉襞の一枚一枚が淫らにざわめき、吸いついてきながら、包み込んでくれる。
「あああっー」
 ヒナが腕の中でのけぞる。矢代はその体をしっかり抱きしめて、奥へ奥へと進んでいく。ヒナは胸のふくらみは豊満だが、全体的には細く華奢な体つきをしていた。背丈も小柄なほうだし、有り体に言って抱き心地がいいサイズだった。漲(みなぎ)る男根で女の体を縦に貫いていくことを、生々しく実感できる。
「…‥んんんっー」

 根元まで埋めこむと、ヒナは口づけを求めてきた。矢代は応えた。お互い、いきなり腰を動かしたりはしない。舌を絡めあい、素肌をまさぐり合う。矢代はヒナを深々と貫いたままの状態で、たわわな乳房を揉みしだき、その先端に咲いたピンク色の乳首を吸う。悶えるヒナを責め立てる。

 そして、お互いに我慢できるまで我慢してから、ようやく腰を動かし合うのだ。密着した肉と肉が我慢することによってひときわ敏感になり、ヒナは最初のひと突きで甲高い悲鳴をあげる。矢代が喜悦のうめき声を洩らしてしまうこともある。
 律動に至るそのじりじりした流れは、ヒナが教えてくれたことだった。

 といっても、言葉で教えてくれたわけではない。『気持ちのいいセックスするためには』、そういうふうにしたほうがいいのだと、抱くほどに矢代は全身で理解していた。話をしているといささか知性が足りない彼女だが、セックスにおける語彙(ごい)の豊かさは舌を巻くほどだった。

 大人のオモチャを使うとか、SMふうの演出を取り入れるとか、潮を噴かせる秘密のテクニックだとか、そういった類の話ではない。
 ただ体を重ね、リズムを共有していくなかで、相手を高め、自分も高まっていく術に長けているのだ。言葉も道具もいらない。ただヒナと呼吸を合わせ、動きを一致させれば、たまらない愉悦(ゆえつ)の海に溺れられた。

 さらに一段ギアをあげれば、お互いに高まっては焦(じ)らし、焦らして高まるという、駆け引きが始まる。快感のリズムは寄せては返すさざ波のように繰り返され、ふたりは大河に漂う小舟となって桃源郷(とうげんきょう)へといざなわれていく。

 矢代は驚愕(きょうがく)しながら認めざるを得なかった。ヒナはすごい。素晴らしい。四十年近く生きて来たくせに、セックスがこれほど豊かな味わいに溢れることを、まったく分かっていなかった。
「ああんっ、いいっー 気持ちいいっ‥‥」

 ヒナが全身をくねらせながらしがみ付いてくる。矢代も息をはずませて抱きしめる。さながら二匹の蛇のように体をからませあって、したたかに腰を振り合う。肌と肌がこすれあい、凹凸(おうとつ)が嚙みあった肉と肉はそれ以上密着できないところまで密着して、競うようにして恍惚の予感に震えだす。
「…‥おおおっー」

 矢代が煮えたぎる男の精を噴射すると、ヒナの体もビクンと跳ねた。甲高い悲鳴を振りまいて、五体の肉という肉を歓喜に痙攣(けいれん)させた。矢代の背中に爪を喰い込ませ、どこまでも痛切にオルガズムスに昇りつめていった。

 呼吸を整えるだけの時間が過ぎていく。
 すべてが死に絶えたような静寂を感じるのは、先ほどまで四畳半の狭い部屋を満たしていた、獣じみた歓喜の悲鳴と荒ぶる呼吸のせいに違いない。
「…‥すごくよかった」

 ヒナが身を寄せてきて囁いた。
「なんか…‥どんどんよくなっていくみたい。おかしくなっちゃいそうだった」
 汗ばんだ肌と肌がぬるりとすべり、発情によって甘酸っぱくなった吐息が矢代の鼻先で揺らいだ。眩し気に細めた瞳が潤みきって、可愛らしい童顔に似合わないほどエロティックだった。

 矢代はヒナの唇にキスを与え、汗ばんだ黒髪を撫でた。
 蕩(とろ)けるようなひとときだった。
 身も心も、甘い香りのする温かい湯に浸っているような感じだった。
 世間から隔絶されたボロアパートで、このまま彼女に養ってもらい、朽ち果てるまで愉悦だけ貪って生きて行こうか――そんな暗い欲望が頭をもたげてくる。
 むろん、世間に顔向けできない人生になってしまうだろう。それでも、一度は自殺まで考えたのだから、いまさら世間体を気にし、自堕落や退廃を忌み嫌うことにもいったいなんの意味があるのだろうか。

 このままヒナと暮らしていく生活が、たまらなく魅惑的に思えてしかたがなかった。彼女が金次第でどんな男にも体を許す女であるとわかっていてなお、そうだった。ドロドロした熱い欲情を吐き出したばかりのいまは、とくに‥‥。
 けれども、どこまでも甘美な射精の余韻(よいん)に、ざらりとした違和感が含まれているのも、また事実と言わねばなるまい。
 ヒナの手放しの優しさが不安を駆りたてた。
「おまえさあ‥‥」
 口づけをねだってくるヒナに、矢代はささやいた。
「どうしてそんなに優しくしてくれるわけ? 俺みたいな‥‥自殺し損ねて、金も社会的立場も無くした男に‥‥こんなにさ‥‥」
「どうしてって言われても‥‥」
 ヒナは潤んだ瞳をくるりとまわした。
「同情か?」
 矢代はまだ熱く火照っているヒナの頬を手のひらに包んだ。
「俺のみじめな境遇に、同情してくれているのか?」
「そりゃあ、最初はそういうところもあったけど‥‥」
 ヒナは気まずげに何度も瞬きし、
「でも、いまは違うよ。家に帰って来て灯りがついているとすごく嬉しいし、セックスだって気持ちいいし‥‥好きになっちゃったというか‥‥」
「ホントかよ?」
 矢代が懐疑的な眼つきで顔をのぞきこむと、
「ホントよ!」
 ヒナはむきになって唇を尖らせた。
「だって、その、なんていうかな‥‥矢代さんって、母性本能をくすぐるタイプなのよ。尽くしてあげたくなっちゃうの。そういうのって愛じゃない? 恋に落ちちゃって感じしない?」
「母性本能ね‥‥」
 矢代は苦笑した。
「そんなこと女に言われたのは、初めてだぜ」
 セックスにおける肉体言語は豊かでも、ヒナの言葉の使い方がなっていない。母性本能をくすぐることは、つまるところ同情しているのだ。
 ソープランドで彼女を初めて抱いたあと、朝鮮料理屋で偶然顔を合わせたときのことを思い出す。

 酔った勢いで自殺を思いついた顛末をぶちまけた矢代に対し、ヒナは「可哀想」と言いながら泣きじゃくった。あれは掛け値なしに同情だろう。百歩譲って、同情から発する愛があったとしても、矢代はそういう愛に慣れていなかった。ひとりで生きていけない赤ん坊のように、あるいは、道端で餌を求めて鳴いている捨て猫や捨て犬のように、生活のすべてを相手に委ねてしまうには、プライドが高すぎた。こういう状況に陥りながら、男としての誇りや矜持(きょうじ)をもちだすことなど滑稽(こっけい)だとわかっていながら、彼女の母性本能に縋(すが)りついて生きていくことはできそうにもない。

「ねえねえ、矢代さんは?」
 ヒナが顔を覗き込んでくる。
「わたしのこと好きになった? こんなボロアパートに住んでいるソープ嬢だけどさ、ちょっとは可愛いところがあるな、とか思っちゃったりとかした? べつに好きじゃないなら出て行ってよとか言わないから、本当のこと教えて」
「それは‥‥」
 矢代は口籠った。好きだと答えても、好きじゃないと答えても、嘘になりそうだった。行動で裏付けられない言葉は嘘であり、いまはどんな態度で示そうにもない。このままヒナと一緒に暮らし、自堕落に生きていくのも悪くないと思いつつも、ソープ嬢のヒモなんて男の風上にも置けない、唾棄すべき生き方だと糾弾するもうひとりの自分がいる。

「それは‥‥なんていうか‥‥俺はいま‥‥」
 矢代が言い訳じみた言葉を継ごうとすると、
「待って」
 ヒナは矢代の口に手で塞(ふさ)いだ。
「やっぱり言わなくてもいい‥‥矢代さん、約束守って毎晩抱いてくれるから、それだけで‥‥だってさ、好きじゃなかったら、毎晩同じ女を抱けないと思うし‥‥少なくとも嫌いじゃないから、抱いてくれるんだと思うし‥‥最初に抱かれたときより‥‥お店に来たときより、いまのほうがずっと優しいやり方で抱いてくれるし‥‥」
 言葉を重ねるほどに泣き笑いのような顔になっていくヒナを見ていると切なくなり、矢代は抱きしめようとしたが、そのとき――。

 ガチャンッ、と隣室でなにかが割れ、大声の怒声が弾けた。
「しらばっくれるのもいい加減にしろよ! テメエに男いんのわかってんだよ! ちげえのえ? あの客と寝てねえのか? だったらこの着信なんなだよ、コラッ!」
 棚が倒れるような音が響き、レイコの悲鳴があがる。壁になにかドンッとぶつかった。大倉が暴れていることは間違いなかった。もしかするとレイコにまで暴力を振るっているのかもしれない。

「怖いからやめて」
 矢代が立ち上がろうとすると、ヒナは腕にしがみ付いて首を振った。
「でも止めなきゃまずいだろ」
「大丈夫よ。いつものことだし。レイコちゃんには絶対手を上げないから」
「そうなのか?」
「そうよ。食べさせてもらっているんだから当たり前じゃない」
 ヒナは苦々しい顔で吐き捨て、
「それに、大倉さんってキレると超ヤバいから、とめに行ったってとばっちり受けるだけだもん」
「ヤバいって?」
「前に下に住んでいる人が止めに行って、ボコボコにされちゃったの。示談金ものすごく払ったみたいって、大家さんが言っていた」
「…‥そうか」
 矢代は起き上がりかけた体を再び横たえ、溜息を呑み込んだ。どうやらレイコの借金は、売り掛けの客に逃げられただけではないらしい。
「どうなんだよ、おいっ! 寝たなら寝たってはっきり言えようっ!」
 大倉の怒声(どせい)が聞こえてくる。レイコの悲鳴がそれに続き、壁に何かが当たって砕ける。地獄のようだった。そうでなければどん底だ。這い上がることのできない焦燥感(しょうそうかん)が悪意を生み出す吹き溜まりだ。

 矢代はやり切れない気分で眼を閉じた。
 射精の余韻が一瞬で覚め、ソープ嬢のヒモとして生きていこうなどという考えが、愚かで甘ったれたものであることに気づかされる。男のプライドがどうかしたとか、自堕落に生きてるのも悪くないとか、そんなことよりも前にこれが現実だった。そして未来だ。いまは蕩(とろ)けるようなセックスに溺れているだけでよくても、やがて自分だって、誰とでも寝るヒナの生業(なりわい)に苛立ち、暴れ出してしまうかもしれない。身をよじるような嫉妬と自己嫌悪によって、人間性を失ってしまう可能性がないとは言えない。

 隣室から聞こえる物音や怒声は延々と続き、ヒナが「怖いよ、怖いよ」と腕にしがみついていつまでも離れなかった。
つづく 第三章 好きな人