ヒナと最初に会ったときも、死を意識していた。生まれて初めて足を踏みこんだソープランドで、後ろから突き上げながら慟哭(どうこく)を堪え切れなかった。あのときなぜ、セックスをしながら泣いてしまったのだろう? いまになってはよく思い出せないけれど、いまほど絶望的な状況だったわけではあるまい。

 本表紙 草凪優 著

第七章 エロスの化身

年の瀬が迫ったとき。
 ちょうどいい区切りのときだと、今年の残った日数が減っていくごとに矢代は思いを嚙みしめた。そろそろ決断しなくてはいけない。今日を入れてあと三日で、今年は終わる。新しい年は、新しい生き方に向けて一歩でも二歩でも踏み出す形で迎えたい。
 ヒナはきっと、男を駄目にする女なのだろう。
 本人に自覚がなくても、結果としてそうなってしまう。
 彼女に貢がれて貢がれて、結果彼女の前から消えてしまった男たちに思いを馳せれば、責めるよりも前に同情が先走った。新宿あたりで手練手管(てれんてくだ)を屈使してキャバ嬢や風俗嬢から金を絞り取るホストのような男を、どうしてもイメージできない。なにしろ、あんな場末のソープランドに憩いを求めて来るような客なのだ。現実に打ちのめされ、疲弊(ひへい)しきった心と体を、せめて刹那(せつな)の快感を忘れようとしている男たちが、女を食いものにする極悪非道のはずがない。

 ヒナが悪いのだ。
 ソープでの稼ぎと、蕩(とろ)けるようなセックスと、病的に寂しがり屋の発露(はつろ)としての惜しみない愛情――それが男をダメにする。性根を腐らせる。真綿て首を絞めるようにじわじわと、だが果実に男が男であるために必要なプライドを抹殺(まっさつ)してしまう。

 矢代はそれが怖かった。
 チェストの引き出しにあったヒナの三万円、それを平然と盗んでソープランドに駆け込んだ自分が恐ろしかった。なにかが壊れはじめていた。
 三万円が平気なら、今度は三十万円を盗むかもしれなかった。チェストになければ、返す算段もなしに貸してくれと頭を下げるかもしれない。腹の中でペロリと赤い舌を出しながら。そしてその金は、酒に化ける。ソープランドにだってまた行くかもしれない。身銭を切っているわけではないので痛くも痒くもない遊びだ。ヒナに頭を下げれば小遣いには不自由しない。拒まれれば怒鳴るだろう。そういえばおまえの借金のために、俺は百万出したはずだと責めるだろう。

 あの金は、曲がりなりにも命の恩人であり、居候(いそうろう)させてくれたことに対するせめてもの札だった。金に色が付いている。あの金は清らかな金だった。それを巻き上げ返して、酒と女で浪費する。自己嫌悪から逃れるために、ますます溺れる。そんな地獄のような暮らしから逃れる手段はひとつしかない。ヒナからまとまった金を引っ張り、なければ高利貸しに借金でも何でもさせて、それを懐に逃げ出すしかない。

(友達の連帯保証人なんて、馬鹿のくせにありそうな嘘つきやがって‥‥)
 矢代は洗濯物を干しているヒナの背中を眺めながら、歯軋(はぎしり)りした。開け放された窓から吹き込む風は冷たかった。尋常ではない寒さだった。この部屋にある暖房器具は炬燵だけなので、それも当然だろう。窓を閉めたところですきま風が酷く、炬燵から両手を出すことができない。
「あのう‥‥」
 洗濯物を干し終えたヒナが、窓を閉めて振り返った。
「ちょっとこれから、散歩がてら店まで送ってくれませんか?」
 矢代は苦笑した。
「このクソ寒いのに、散歩かよ」
「いいじゃない。ダウン買ったばかりだし。お願いだから付き合って」
 ヒナは拝むように両手を合わせた。
 矢代は酒臭いため息をついた。正確には「買ってもらった」のだ。矢代には金がなかった。それまでは駅前の商店街で投げ売りされている粗末な服しか買えなかったし、身なりに構う立場でもないからそれで充分だと思っていたのに、ヒナは数日前、突然デパートでブランドもののダウンジャケットを買ってきた。そんな金があるならストーブでも買ったらどうなんだと、矢代は思ったが言わなかった。そのダウンジャケットが軽くて暖かくて、とても着心地が良かったからだ。

 結局、ヒナに押し切られる形で散歩に出た。
 風が強く吹いていた。ヒナはわざわざ遠回りになる道を選んで河原に出ると、土手に登った。ダウンジャケットを着ていても、遮るものがなく川風が吹きつけてくるので、首から上が寒さに削り取られそうだった。

 河原から見上げる空は相変わらず高かった。季節が冬に近づくに従ってますます高くなっていくような感じがした、昼下がりにもかかわらず、野球やサッカーをしている少年の姿はない。あと二日で今年も暮れるので、その準備に手伝わされているのだろうか。年が明ければ、この高い空に凧(たこ)をあげたりするのだろうか。

 遠くにソープランドの看板が見えた。
思えばヒナに初めて会ったあの日、矢代はこの道を歩いていたのだった。夏の終わりだった。草いきれがむっと鼻先に迫り、蒸し暑さに大量の汗をかいていた。ほとんどが冷や汗だったのかもしれない。正直に言えば、もう死んでやるという衝動より、死ぬのが怖いという想いの方がずっと強かった。飛び込もうとした銀色の橋に背を向けて、まるで逃げ出すように早足で歩いていた。

「あのう‥‥」
 ヒナが急に立ち止まったので、矢代もあわてて歩をとめた。
「これ」
 ヒナは寒さでリンゴのように赤くなった顔を伏せ、持っていた紙袋を渡してきた。ソープの同僚に貰った田舎土産の入っていた紙袋だった。矢代がゴミ袋にしようとすると、「捨てないで」とヒナはとめ、大事そうに折りたたんでチェストにしまった。紙袋に印刷された安っぽいヒヨコの絵が気に入ったらしかった。
「なんだよ?」
 受け取った矢代が尋ねても、ヒナは眼をそらして頬を引きつらせるばかりだった。しかたなく中身を見た。中に茶色い紙袋が入っていて、びっしり札束が詰まっていた。使い古された札で、ざっと三百万から四百万。
「おまえ‥‥」
「わたし‥‥」
 ヒナは矢代を制して言った。
「本当は借金なんてないの。正確にはあったけど、とっくに返し終わってるの。だけど、普通の仕事に戻れる自信がなかったから、ソープの仕事をずるずる続けちゃっただけ。だからお金もっているの‥‥」
 びゅうっと川風が矢代の頬を撫でていく。
「それ、矢代さんにあげるから、生活を立て直す足しにして。きちんと仕事して、奥さんのことを迎えにいって…‥もう、これ以上は悪いから‥‥矢代さん、このままだとダメになっちゃいそうだから‥‥」
「…‥出ていけってことか?」
 矢代が声を絞り出すと、
「そうだね、ひと言でいえば」
 ヒナはいままでに見せたこともないような大人びた顔つきで言った。眼つきが冷たく、いつも半開きの唇を真一文字に引き結んでいる。
 矢代は戸惑った。
 申し訳ない、というのがいちばん最初に心の中で呟いた言葉だ。自分からさっさと出て行く決断をつけられなくて申し訳ない。女の方からそんなことを言い出させてしまって申し訳ない。馬鹿な女を馬鹿なままでいさせてやることができない男に、生きている価値などあるのだろうか?

 おまえはどうしてそんなに優しいんだ、と訊ねたかった。自分の部屋から男を追い出すのに、なぜまとまった金が必要なのか?

 あるいは、おまえは病的な男好きなのか、と訊ねてもみたかった。ソープの仕事だけじゃ足りず、客を好きになって、アパートに引っ張り込まずにはいられないのか?
 その可愛い顔の下に、いったいどれほどの闇を抱えて生きているのか教えてくれ。
 だが、別れを選ぶならすべては無駄な質問だ。
 ヒナにすら別れを決断させるほどダメな男になっているなら、他に選ぶ道などなかった。

「わかった。俺もそうしたほうがいいと思ってた‥‥」
 こみ上げくる熱いものをこらえて、紙袋をヒナに付き返す。
「でも、こんな金は受け取られないよ。自分で使え。こんなに持っているなら、ソープ嬢なんて辞められるじゃないか」
「いいの」
 ヒナは両手を後ろにまわして受け止め事を拒否した。
「ソープ嬢は辞めないから」
「なんで?」
「だって‥‥」
 ヒナは苦笑しようとしたが、頬がひきつりすぎてうまく笑えない。
「わたし、決めているし」
「なにを?」
「仕事あがるときは‥‥きちんとした彼氏ができたときだって‥‥」
 冷たかった眼つきがにわかに潤み、半開きになった唇から言葉にならない声がもれる。矢代はたまらなくなった。抱きしめてやりたかった。しかしそんなことをしてしまえば、元の木阿弥(もくあみ)だ。勇気を出し、心を鬼にして別れ話を切り出してきた、ヒナの気持ちを台無ししてしまうだろう。

 ぴゅっと川風が頬を撫でていく。
 もっと吹け、と思った。立っていられないくらい風よ吹け。そうすればヒナを抱きしめられる。偶然を装って別れの抱擁が味わえる。
 だが、風はとまった。
 同じタイミングでヒナの携帯が鳴った。
 ヒナが首を傾げてバッグに手を突っ込んだので、
「出るなよ、こんなときに」
 矢代は思わず言ってしまった。別れ話の最中に、電話に出る馬鹿がどこにいる? 呆れるほどの無神経さだ。

「でも‥‥」
 携帯電話を握り締めたヒナは困惑していた。着信のメロディで相手が分かっているらしく、出なきゃ不味そうだと書いてある。
「はい‥‥はい‥‥ええ、一緒ですけど‥‥」
 ヒナが二言、三言会話を交わすと、携帯電話を矢代に差し出してきた。
「大倉さんが、矢代さんに代わってって」
「はあ?」
 今度は矢代が困惑する番だった。矢代が携帯電話を持っていないので、連絡を取りたくてヒナの携帯を鳴らしたということか。「もしもし、矢代さんに‥‥」
「もしもし、矢代さん‥‥」
 電話の向こうで大倉の呼吸は激しく弾んでいた。
「ああ、なんだい?」
「あんた、とんでもないことをしてくれたね。そんなことをしたらどうなるか、わからないわけじゃないだろう?」
「何の話だよ、いったい‥‥」
「いいんですよ、しばらっくれなくて。いま錦糸町(きんしちょう)の立粋(りっすい)会のヤクザがアパートに来たから。矢代さんの部屋めちゃくちゃにして、うちまで‥‥とばっちり受けるのは嫌なんで、悪いけど知っている事は全部しゃべったよ‥‥」
「ちょっと待ってくれよ」
 早口でまくし立てる大倉は、矢代は必死で抑え、
「なにを言っているのか、本当にわかないぞ、順序立てて説明してくれよ」
 大倉は電話の向こうで押し黙ったが、やがて、
「…‥シャブ捌いてたんでしょ?」
「えええっ?」
「ヒナちゃん使ってけっこう手広く。たしかにそんなことすりゃ儲かるよ。濡れ手に粟だよ。ペットフードどころの話じゃない。でもさあ‥‥いくらなんでもヤバいに決まってじゃん。ショバ荒らししたプッシャーの末路なんて‥‥」

 矢代はゆっくり息を吸い、ゆっくりと吐いた。手にしたヒヨコの紙袋が、急にずっしりと重く感じられた。ソープ嬢マミコの話では、ヒナはいつでも借金漬けでピーピー言っているらしい。では、この紙袋に詰まった金の出所は? 一瞬にして頭の中で図式が成り立ち、気が遠くなりそうになった。
「‥‥逃げたほうがいいっすよ」
 大倉が低く声を絞った。
「ヒナちゃんと一緒に外にいるんでしょ? やつら、ソープに向かったから。そこにいけば女のほうはいるはずだって俺が教えたんだけど‥‥やっぱ…やっぱさあ、明日の朝、川でふたりの溺死体が発見されたりしたら、寝覚めが悪そうで‥‥」
 大倉が話している途中で、土手の下の道路を黒塗りのメルセデスベンツがソープの方向に走っていった。六本木でも錦糸町でも、極道の乗る車は似たようなものらしい。
「‥‥恩に着る」
 矢代は短く言って電話を切った。
「えっ? なにっ? どうしたの?」
 素っ頓狂(とんきょう)な声をあげているヒナの手を掴み、ソープとは反対方向に全速力で走りだした。ヒナがなにを言っても答えなかった。ただ走った。どういう事情があろうとも、ヤクザに追われているなら、とにかく逃げなければならなかった。相対すれば身がすくみ、監禁されれば手も足も出なくなることを、身をもって知っていた。

 息が上がり、心臓が爆発せんばかりに早鐘を打ち、胃から酸っぱいものがこみあげてきて何度もそれを飲み込んだ。
 土手の下の道路にタクシーの姿は見当たらなかった。年の瀬のせいか、そもそもクルマの通行量の極端に少ない。銀色の橋の上でようやく拾うことができた。かつて死刑執行台に見えた橋の上で九死に一生の助け舟と出会えるなんて、皮肉といえば皮肉だったが、笑うことなどとてもできなかった。

 タクシーを何度か乗り換え、多摩川を越えて横浜まで出た。
 ヤクザの縄張りがどの程度の範囲なのかわからなかったが、そこまで逃げればひとまず安心だろうと思った。途中、ヒナに大倉からの電話の内容を耳打ちすると、ひと言も口を利かなくなった。顔色を失って、膝の上で握り締めた拳を小刻みに震わせていた。矢代はその手をずっと握っていた。やさしさからではなかった。酒浸りの体で全力疾走したせいで吐き気と眩暈(めまい)がすさまじく、突然車を飛び出して逃げられたら追いかけることが出来なと思ったからだ。

 中華街の裏手にあるビジネスホテルに部屋をとった。
 賑々しい店構えの中華料理店が居並ぶメインストリートは観光客でごった返していたけれど、ホテルの周辺は驚くほどひっそりとしていた。大陸と日本を行き来している貿易関係者の商人宿のようなものらしい。一般的なビジネスホテルとは趣が違い。無骨な殺風景さに支配されていた。従業員は判で押したように無表情で、愛想というものが微塵も感じられない。部屋は狭いうえに陽当たりが悪く、壁のシミまで孤独の匂いがした。異境に身を置く商人たちの、壁を見ながらもらした嘆息が聞こえてくるようだった。

「ごめんなさい‥‥」
 ヒナはふたつあるベッドのひとつに腰かけて、さめざめと泣いていた。
「わたしどうしても‥‥どうしても矢代さんにお金を渡したくて‥‥これで社会復帰してって言いたくて…‥応援するって約束したから‥‥」

「ったく信じられんよ。ビビリのくせに、麻薬なんて手ぇ出しやがって‥‥」
 矢代は檻に捕らわれた獣のように、狭い室内をうろうろと歩き回っていた。部屋の中は壁も天井もカーテンも、どこを見渡してもうんざりするほど灰色だった。

「大体、おまえの話はどこもかしこも嘘ばっかりじゃないか。え? おまえ、もう四、五年もあのソープで働いてるんだってな? 信じた俺がアホだったけど、最初は二、三ヶ月とか言っていなかったか? ええ? なにが友達の連帯保証人だよ。本当は借金してまで男に貢いでいただけだろうが。しまいには、実はシャブの売人でした、か‥‥啞然とするよ、まったく‥‥」
「違う‥‥」
 ヒナが首を横に振り、
「わたし売人なんかじゃない。それはその、ちょっとしたアルバイト感覚っていうか‥‥」
「ふざけるなっ!」
 矢代は怒りに唇を震わせた。
「ピザ屋の出前じゃないんだぞ。なにがアルバイト感覚だよ。元々やってなかったら、クスリ売る仕事なんて出来るわけがないんじゃないか」
「違うの。元々なんてやっていない。クスリだってやったことないし」
「おまえの話は嘘ばっかりだから、もう信用しないよ」
「言うのが怖くて、ずっと黙ってたけど‥‥」
 ヒナは大粒の涙をボロボロと流しながら言葉を絞った。
「峯岸さんていう人が、うちにきて‥‥矢代さんと大倉さんが事務所に連れて行かれる少し前に。ペットフードのことをいろいろ訊かれた‥‥六本木のヤクザだっていうし、ニコニコしながらトラブルを事前に防ぐためだからと言われたから、わたし余計なことまで喋ってちゃって‥‥」
「‥‥そんなことがあったのか」
 矢代は大きく息を吐き出した。事務所に連れて行かれたとき、彼らがこちらの情報を事細かに掌握していた理由がわかった。
「…‥怒った?」
 ヒナはしゃくり上げながら上目遣いで見つめてきた。経緯を隠していたことに怒りを感じないわけではなかったけれど、ヒナが喋らなければ、矢代と大倉が腕ずくで全てを白状させられていたのだろう。

 問題はその先だった。
「いいから続きを話せよ」
 ヒナは涙を指で拭いながら頷き、
「あのころ‥‥わたし、ちょっと可哀相な感じだったじゃない? みんな頑張っているのに、わたしばっかり戦力にならないで。レイコちゃんのほうはいっぱい注文とってるのにって‥‥そういうこと、峯岸さんに話したの。愚痴っぽく。そうしたら、『ハハハッ、ソープで売るなら犬猫の餌なんかよりシャブだよ』って。『よかったら少し回してやろうか』って‥‥」
「回してもらったのか?」
 ヒナがこっくりと頷き、矢代は天を仰いだ。
「峯岸さん言った通り、お店の女の子たち、みんな喰いついてきた…っていっても仲良くて口固そうな子だけだから、三、四人だけど、その子たちの友達とか、友達の友達とか、だんだん増えていって‥‥それで、ペットフードの仕事がダメになったとき、矢代さんがわたしにお金くれたでしょう? 借金きれいにしろって、百万円ちょっと。まいったな、私の方が金をあげたいのにって…だから、あれを全部クスリに替えたの。さすがにソープ関係だけでは捌ききれない量だったから、昔ちょっとサクラやっていた錦糸町のデートクラブに行って、女の子とかお客さんとかに勧めてみたら‥‥」
「どうなった?」
「…‥売れた‥‥飛ぶように」
「おまえなあ‥‥」
 矢代は反射的に手のひらを振り上げた。ヒナが両手で顔を隠した。女を殴ったことなどなかったので、それ以上はできなかった。ダウンジャケットを探ったが、タバコは入っていなかった。そのままではまともに言葉を継げそうになく、灰色の壁に拳を打ち下ろした。コンクリートの壁だった。骨が砕けるような強烈な痛みが、かろうじて正気を保たせてくれる。

「おまえ‥‥どうなるかわかってて、そんなことしたんだろうな?」
 にわかに体が熱くなり、ダウンジャケットを脱いで空いているほうのベッドに投げた。
 この高価な服も、覚醒剤を売りさばいた儲けた金で買ったのだろうと思うと脳みそが沸騰しそうだったが、もう一度壁を殴る気はしなかった。

「どうなるかって?」
 ヒナの罪のない顔で訊ねてくる。
「ヤクザが血相変えて捜してるってことは、縄張り争いにでも巻き込まれてるんだろう? それしか考えられないよ」
 部屋のデスクにはパソコンが常備されており、インターネットにアクセスできた。部屋に入ると真っ先に錦糸町の立枠会について調べた。武闘派で知られる指定暴力団の二次団体だった。捕まれば、待っているのは死か、死よりも苛酷な運命に違いない。

「峯岸さんに電話する」
 ヒナがバックに手を突っ込んだので、
「よせって」
 矢代はあわててヒナの手から携帯電話を取り上げ、電源を切った。
「どうして? 峯岸さんなら助けてくれるかも‥‥」
「‥‥無理だよ」
 ヤクザの事を良く知らない矢代でも、その程度の事はわかった。現代ヤクザは任侠の徒でもなんでもなく、要するに金の亡者だ。金のためならなんでもする。
 覚醒剤は暴力団にとってももっとも太い資金源のひとつであり、ナーバスな扱いをしていることは想像に難くなかった。自分の所でタネを卸していない売人が自分の縄張りで荒稼ぎしているのを、黙って見逃すはずがない。

 しかし、そんなことは同じ極道の峯岸が分からないわけがないだろう。分かっていてヒナを泳がせていたということは、裏があるということだ。もしかすると峯岸は、ヒナを使ってわざとわざトラブルを起こし、利権に食い込むきっかけをつくる、という絵図を描いているのかもしれなかった。であるなら、ヒナの役割は手打ちのかわりの生贄(いけにえ)だ。峯岸のところにのこのこ助けを求めにいったりしたら、待っていましたとばかりに錦糸町の組に差し出されるのがオチだろう。

 夜、矢代はひとりホテルから出て買い物をした。
 元々陽当りの悪い場所だったが、夜になると漆黒(しっこく)の闇が窓から侵入してくるような不気味な雰囲気になり、ひときわ気分が滅入らせてくれた。コンビニで酒とタバコを買い、中華料理屋でティクアウトの弁当を買った。食欲などまったくなかった。しかし、あの灰色の部屋でただ黙って過ごしているのが耐えられなくなり、とにかく熱い風呂に入って、無理やりでも腹を満たすことにしたのだ。そんなことでもして気分を落ち着けないと、苛立ちと恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだった。
 刻一刻と暗くなっていく部屋で、矢代はずっと考えていた。
 助かる方法を探していた。
 警察に駆け込むか?
 しかし、そうなればヒナは覚醒剤を売りさばいた罪で懲役だろうし、矢代は身の潔白が証明されても下獄を免れたとしても、やくざからの恨みをひとりで背負って、追い回されることになるだろう。
 ヒナとふたりでもっと遠くに逃げてはどうか?
 しかし、逃亡するならそこで人生は終わったも同然だ。まともな職にも就けないし、社会的な立場を捨てなければならない。風俗を含めた風俗を含めた裏社会の仕事で稼ぎたくても、極道のネットワークが眼を光らせている、逃亡資金があるうちはいいが、無くなれば無残なホームレス。とても耐えらそうにもない。

 状況は絶望的だった。
 無事に済む見込みは万に一つもありそうもなかった。
 いや…‥。
 残された方が一つだけある。
 ヒナがひとりで立粋会に行き、儲けた金を返して詫びを入ればいいのだ。その際、矢代はこの件についてまったく知らなかったことを伝えてもらえば、助かる可能性がなくはないだろう。
 実際に知らなかったのだから、でたらめな話ではないはずだ。それに、ヒナがひとりで捕まれば殺される確率は少ないような気がする。体を売らせれば金になるからである。一方、社会的に立場のない中年男など、ためらうことなく命を奪われるに違いない。いくら知らなかったと事実を告げても相手にされず、ピストルの弾丸代すら節約されて首でも絞められ、師走の冷たい川に死体となって浮かび上がるのだ。

(なにを考えているんだ、俺は‥‥)
 自分で自分に戦慄(せんりつ)してしまった。
 仮初(かりそ)にも一緒に住んでいた女を犠牲にして自分だけが助かろうと考えていることに、人として、男として、身をよじるほどのおぞましさを覚えずにいられない。

 それでも、それ以上にヤクザが怖かった。彼らが漂わせる暴力の匂いは、死そのものよりもむしろ恐ろしく、矢代の身をすくませた。醜いほどに心を歪めた。峯岸の事務所に連れ込まれたときのことを思い返すと、とても冷静な判断などできず、「おまえが勝手にやったことなんだからおまえが責任をとれ」という子供じみた罵声だけを、心の中で何度もヒナにぶつけていた。

「…‥おかえりなさい」
 ホテルの部屋に戻ると、ヒナが幽霊のような顔で立っていた。可愛らしい童顔は紙のように白く、このホテルの従業員さながら無表情が貼り付いていた。チャームポイントの大きな眼を虚(うつ)ろ泳がせ、サクランボのような唇は可哀相なほど震えている。
「お風呂、もう沸いてるけど」
「先入っていいよ」
 矢代が荷物をテーブルに置いてベッドに腰を下ろすと、
「一緒に入って‥‥くれませんか?」
 ヒナは蚊の鳴くような声で言った。祈るように眉根を寄せていた。
「最後だから‥‥一緒に‥‥」
「なんだよ、最後って?」
「わたし‥‥」ヒナは大きく息を呑んでまなじりを決した。
「私行くから。錦糸町のヤクザの事務所に。ひとりで‥‥」
「なんだって?」
 矢代も大きく息を吞んだ。
「行ったら、殺されるんだぞ‥‥最悪の場合」
「でも、行かなかったら‥‥矢代さんまで巻き添えになるし‥‥」

 ヒナは華奢な双肩を震わせて、泣くのを堪えている。
「それはやっぱり、悪いっていうか‥‥あんまりっていうか‥‥矢代さんの知らないところでわたしひとりでやったことだから、自分で責任とらなくちゃって‥‥」
「いや、しかし‥‥」
 矢代の心はぎりぎりと音を立てて軋(きし)んでいた。そうしてくれれば、自分の命は助かる可能性はあるのだ。生きてさえいれば復活のチャンスはあり、時が経てばどんな記憶だって薄まっていく。そして彼女の言う通り、責任の所在は彼女にある。

 重苦しい沈黙が訪れた。
 壁の時計が刻む秒針の音が針のように胸に刺さった。
 ヒナは濡れた小鳥のように全身を震わせながら、眼顔であなたが好きだと訴えていた。好きな人の為に死ぬのなら本望だという覚悟が伝わってきた。
「おまえ‥‥」
 矢代はぎゅっと拳を握り締めた。手のひらは脂汗に塗れていた。
 男なんて誰でも良かったんじゃないのか? という言葉が喉元までこみあげてくる。客だろうがなんだろうがすぐに気を惹かれてしまい。アパートに連れ込んで尽くせるだけ尽くし、貢げるだけ貢ぐのが、お前のやり方じゃなかったのか? ただ、淋しさを埋め合わせるために。
「…‥好きにすればいいよ」
 矢代は眼をそむけて呟いた。自分で自分に吐きそうだった。申し訳ない。命が惜しいのだと、泣きじゃくりながら土下座して謝ることが出来れば、あるいは少しは気が楽になっただろうか。
「おまえの好きにすればいい。俺は行けと言わないけど、行くなとも言わない」
 死ね、と宣告したのと同じなのに、ヒナは動じなかった。
「うん」
 と小さく頷き、
「じゃあ、最後に‥‥一緒にお風呂に入ってください」
「ああ…‥」
 矢代は頷いて立ち上がった。
 風呂は狭いユニットバスだったので、お互いその場で服を脱ぎ始めた。言葉を交わさなかった。ヒナはミニスカートの下に、ストッキングより熱い生地の黒いタイツを穿いていた。くるくる丸めて脚から抜いた。久しく見ていなかった生脚が白く輝き、矢代の眼を眩しく射った。
 バスルームの鏡は湯の蒸気で半分以上曇っていたけれど、現実をありのままに映す力を失っていなかった。狭い空間に、体を重ねるようにして入っていくか否や、矢代は鏡に映った自分の姿を見て衝撃を受けた。

 ヒナは美しく。可憐で、エロティックだった。
 こんなに綺麗な女だったのだろうか? いままで何度となく見てきているはずなのに、ともすればうっとりと見とれてしまいそうだった。

 つやつやと輝くミルク色の肌も、童顔に似合わないたわわな乳房も、その先端に咲いたピンク色の乳首も、悩殺的にくびれ腰も、股間で黒々と艶光りしている恥毛さえ、もぎたての果実さながらの瑞々(みずみず)しさをたたえていた。それでいて、たまらないほど濃厚な色香が匂ってくる。

 一方、その後ろに立った中年男は、つくづく醜かった。酒浸りの日々のせいで下腹を中心に全身を覆って脂肪、くすんでたるんだ皮膚、卑劣さを厚顔で隠しているような恥にまみれた表情‥‥なにもかもが眼を覆いたくなる醜悪(しゅうあく)さで、自分のことながら殺意さえこみ上げてくる。
 一緒に湯に浸かるとその落差はますます顕著(けんちょ)になった。
 ソープランドの浴槽よりふたまわりも狭かったので、ふたりは最初、膝を抱えて横に並んだ。収まりが悪く、結局、矢代がヒナを後ろから抱きしめるようにして、体を密着させた。

 見た目も美しいヒナの肌に触るとその何倍も魅力に満ちて、湯の中でぴちぴちしていた。手のひらで腕を撫でているだけで、身の底からエネルギーが沸いてくるようだ。

 この女を生かさなければならない、と思った。
 鏡を見たときに気づき、いまはっきりと確信した。
 死ぬべきなのは彼女ではなく、自分の方だ。どちらかが死ななければならないのなら、誰がどう判断しても、そういう結論に至るに違いない。
 いや。

 誰がどう判断しようが、知った事ではなかった。
 問題は、自分にとって彼女がどれだけ大切かということだけだ。
 たとえヒナが男なら誰でも良くても、寂しさを紛らわせるだけの存在だったとしても、そんな事だって問題じゃない。
 それまで歩んできた人生とは別の世界を見せてくれたヒナ。
 あの蒸し暑い夏の夜、予定通りに橋から飛び降りて死んでいれば、いまよりずっと味気ない人生で終わっていただろ。

 抱き合って、笑い合って、手ひどく傷つけてたくさん泣かせて、それでもずるずると離れられなくて…‥裏側にどんな深い闇を抱えていようとも、彼女のけなげな純情で時にお馬鹿な振る舞いにはいつだって心が揺さぶられた。人間らしさを味わえた。挫折によって失われていた感情の起伏を取り戻すことができた。
 ヒナ。
 本当のビビリはおまえじゃなく俺のほうだな。
 いったいなにを怖れているのだろう。といまになって思う。
 まっすぐに、おまえと暮らしていく事を考えていればよかったのだ。
 過去も未来も関係ない。
 おまえと暮らせば毎日が楽しそうだ。
 一瞬一瞬、心が踊るに決まっている。
 ソープなんて辞めて、夢だったというお嫁さんになって、俺が仕事から帰って来るのを待っていればいい。料理なんてカレーとハンバーグで充分だ。休みの日にバドミントンをしよう、セックスだって毎日…‥。
 ああ本当に楽しそうだ。
 それはもう、叶わぬ夢になってしまったけれど。
「…‥んんっ!」
 両腋の下から手を入れて乳房を揉むと、ヒナは小さく呻いた。それ以上の反応はなかった。声も出さなかったし、振り返りもしない。矢代も黙って揉んだ。湯の中で悩ましい隆起主張している膨らみを嚙みしめるように揉みつづけた。勃起はしていなかった。

 このどこまでも柔らかく、どこまでもやさしい揉み心地を指に記憶させ、怖くなったら思い出そうと思った。修羅場のそのときまで、指よどうか覚えていてくれと祈った。そうすれば、ちょっとはヤクザ者の放つ暴力の匂いに対抗できるかもしれない。
「…‥あのう」
 ヒナが振り返った。童顔がピンク色に染まり、つらそうに唇を嚙みしめている。
「んっ? 熱いか? もうあがる?」
「そうじやなくて‥‥」
 ヒナは情けなさそうに眉を八の字にさげた。
「わたし馬鹿だから‥‥」
「なんだよ?」
「こんなときなのに‥‥オマンコ濡れちゃった」
 泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにするヒナを見て、矢代は絶句した。次の瞬間、噴き出してしまった。腹の底からの大笑いだ、狭苦しいユニットバスを満たした。

 釣られてヒナも笑う。
 笑いながら眼尻の涙を拭っている。
 この女は本当にどうしようもない。
 どうしようもなく馬鹿で、どうしようもない淋しがり屋で、どうしようもなくスケベなのに、どうしようもなく愛おしい。
 矢代の腹は決まった。
 もう、みっともなく生にすがりつくのはやめよう。
 ヤクザの事務所には自分ひとりで行けばいい。彼女だけ見逃してほしいと、命を賭けて懇願すればいい。懇願が通じる相手ではないことはよく分かっているけれど、この女を生かすためならきっと、死ぬのもそれほど悪くない。

 なにもかも殺風景なホテルだったが、ベッドにかけられた白いシーツだけはまともだった。きちんと糊がきいていて、湯上りの火照った体に気持ちが良かった。
 ヒナの素肌は、もっと気持ちよかった。

 肌と肌を擦り合わせながら、久しぶりに長い口づけを交わした。
 考えてみれば、ヒナと最初に会ったときも、死を意識していた。生まれて初めて足を踏みこんだソープランドで、後ろから突き上げながら慟哭(どうこく)を堪え切れなかった。あのときなぜ、セックスをしながら泣いてしまったのだろう? いまになってはよく思い出せないけれど、いまほど絶望的な状況だったわけではあるまい。

 そして、いまほど清々しい気分でもなかったはずだ。たったいま肌を擦り合わせ、舌を吸いあっている女は、通りすがりに端金(はしたがね)で買った売春婦ではなく、愛する女だった。いや、端金で春をひさぎ、金次第でどんな男にも脚を開くようなやつなのだが、自分はたしかにこの女が好きだ。どうしようもなく愛している。認めてしまえば、心に羽根が生えたように気分が軽くなり、心置きなく勃起してしまうことができた。
「ぅんんんっ‥‥ぅんんんっ‥‥」

 舌を絡め合いながら、ヒナは切なげに眉根を潤んだ眼を限界まで細めてすがるような視線を向けてくる。その瞳は絶望に縁どられ、闇色に沈んでいた。彼女もまた、死を意識している。助けてやると決めたのなら、早く伝えて安心させてやるべきかもしれなかった。しかし、言いたくない。彼女が情事に疲れ果て、眠りについた夜明け、書き置きを残して出て行けばいい。いままでさんざん意地悪をしていたが、これが最後の意地悪だった。セックスの天才である彼女が、死を意識して行なうそれをどうしても味わってみたかった。わがままを許してほしいと胸底で詫びる。

 口づけをしながら、頬を撫でた。
 童顔なのでふっくらとしたヒナの頬には、女らしい丸みがある。首は細く、鎖骨の目立つ肩は華奢で、不釣り合いに、乳房は大きい。片手では掴みきれない量感がある。矢代は揉んだ、湯の中の瑞々しい感触も堪らなかったが、手のひらにしっとりと吸い付いてくる湯上りの感触も極上だった。突きたての餅と戯れているような気分になる。先端の乳首はすでに硬かった、痛さすら伝わってくるほどの尖り方だ。

 口に含んで吸った。ヒナが呻く。矢代は左右の乳首を交互に口に含んで、両方ともねっとりと唾液まみれにさせた。そうしつ突きたての餅のように乳肉を執拗に揉みしだく。ヒナは背中をきつく反らせ、双頬と胸元をピンク色に染めながら、矢代の乳首に指を伸ばしてくる。

 ヒナは相手の性感帯をけっして忘れない女だった。乳首をいやらしくいじられた。乳繰り合うというのは、きっとこういうことを言うのだろう。と馬鹿な想念が頭をよぎる。身をよじりそうな刺激とともに、お互いの気持ちが行き来する。気持ちの上澄みにある胸焼けするほど甘ったるい部分だけを、大事にすくって育て上げるように、時を忘れて乳繰り合った。
「むうううっ‥‥」
 先に耐えられなくなったのは、矢代の方だった。乳首をいじっているヒナの手指を振り切って、体を下の方にずらしていった。湯に湿った草むらに顔を埋め、頬ずりしながら、太腿を撫でまわした。乳房と違って肉の張り詰め方が逞しい。パンパンに空気を入れたゴム毬みたいな弾力があり、指を喰い込ませても簡単に押し返される。そして、色は体のどの部分よりも白かった。皮膚が透けて、青白い血管が見える。矢代は強く吸ってキスマークをつけた。桜の花びらが散るような模様が、太腿に浮かび上がってくる。十個まで数えた。鼻先に異変を感じた。黒光りする草むらの奥から、牝の匂いが漂ってきた。

 両脚を開いた。
 アーモンドピンクの花は、濡れて光沢を放っていた。指でくつひろげると、薄桃色の粘膜が姿を現わし、あふれた蜜がセピア色の尻の穴のほうまで流れていた。
 口を押し付け、蜜を啜(すす)りたてる。匂いも味もいつもより濃厚に感じられた。舌を使いはじめると、反応はいつもの以上だった。薄桃色の粘膜と舌先がわずかにこすれ合っただけで、ヒナはまるで傷口に塩を擦り込まれたように体を跳ねあげた。

 矢代は薄桃色の粘膜を舐めては蜜を啜り、吸っては舐めた。くにゃくにゃした花びらを口に含み、ふやけるほどにしゃぶりたてた。やがて肉の合わせ目に真珠のようなクリトリスが突起してくると、包皮を剥いて舌先で転がした。ヒナは手放しの悲鳴をあげ、矢代の首に両脚を巻きつけて来た。逞しい太腿でぎゅっと顔を挟まれ、一瞬息がとまった。それでもかまわずに舌を動かし、溢れる花蜜を音を立てて啜り上げていく。

「ねえ、させて‥‥わたしにもさせて…‥」
 ヒナがフェラチオをねだってきたが、矢代は取り合わなかった。久しぶりの情事だからか、それとも今生(こんじょう)で女体に触れる最後になるせいか、欲望が凶暴に尖っている。ヒナの優しさに包み込まれるより、ヒナを組み伏せてやりたい。両脚を開いたままでんぐり返しのような格好にして、いつまでもクンニリングスを止めなかった。口に陰毛が入りこんでくるのもお構いなしに熱っぽく女の割れ目を舐めまわし、クリトリスを吸いしゃぶった。
溢れた蜜が草むらを濡らし、光沢のある筋を残して臍のほうまで垂れていく。
体を逆さまにされたヒナは顔を真っ赤にして、ひいひいと喉を絞る。ちぎれんばかりに首を振り、長い黒髪を振り乱す。

 矢代は興奮を堪え切れなくなった。
 出来る事ならいつまでも、
唇と割れ目が溶けあってしまうまで舐め続けていたかったけれど、ヒナの体は扇情(せんじょう)的すぎた。いつだってそうだった。男の欲望をいやらしいほど挑発してきた。この程度の破廉恥ポーズなどいままでうんざりするほどさせられてきたはずなのに、真っ赤に染まった顔をくしゃくしゃにして恥じらっている。底知れぬほど深い、自分の欲望を恥じているのだ。ひとたび男と体を重ねれば、オルガスムスに達することを夢中で追いかけてしまうことを恥じている。絶体絶命の窮地に立たされてなお、股間をぬらしてしまうすけべな自分を馬鹿だと思っている。

 可愛いやつだとしか言いようがなかった。
 矢代はでんぐり返しのようにしたヒナの体を元の仰向けにして、両脚の間に腰をすべりこませていった。
 猛りたった男根を割れ目にあてがうと、ただそれだけで、背筋にぞくぞくと戦慄が這いあがっていった。ヒナが首に手を回してこようとしたが、矢代はそれを拒んだ。両手を左右に開いて、白いシーツの上で磔(はりつけ)にするように押さえ込んだ。眼に焼き付けておきたかった。男を迎い入れとき、ヒナがどんな風に顔を歪ませるのか、長い睫毛や閉じることのできなくなった唇を震わせるのか、喉や背中を反らせるのか、余すことなく記憶しておかなければならない。

 息を呑み、腰を前に送り出していく。
 貫かれたヒナが、眼を見開いて甲高い悲鳴を上げる。
 矢代も眼を見開いていた。
 視線をぶつけ合ったまま、深々と根元まで送り込んだ。
 ああっ。
 いったいなんというやさしい感触だろう。
 いまはっきりと思い出した。かつてこのぬぬぬめした感触に命を救われたことを、いまとなってはどうでもいいことだが、仕事に失敗した挫折感や、妻を寝取られた喪失感や、嫉妬や破壊衝動や自己嫌悪や、それらの一切合切(いっさいがっさい)を包み込み、ただ生きようと命じてきた感触だ。ヒナの柔らかな肉ひだは熱くたぎり、どこまでもいやらしく収縮し、生きてこの愉悦を貪れと伝えてきた。それだけで人生には意味があると教えてくれた。

 今度はこっちの番だった。
 鋼鉄のように硬く勃起した男根を抜き差しした。漲るエネルギーをヒナの中に送りこんでいった、肉と肉とがこすれあった。からめた指をしっかり握り締め、視線も同じようにしっかりと絡め合って、猛々しく腰を振り立てていく。

 ヒナは長く尾を引く悲鳴をあげた。
 見開かれた眼に涙をあふれさせ、泣きじゃくりだした。
 肉の悦びに悶えているだけではなく、別れの哀しさを嘆いているだけでもない。矢代には理解できた。五体の肉という肉が歓喜に震え出したいまこのときの生の輝きが、耐え難いほどまぶしすぎるせいだ。今際(いまわ)の際(きわ)で振り返り、逆光の眩しさに泣いているのだ。
 しかし、心配する必要はない。
 ヒナはいましばらく、眩しい光の中で生きられる。たとえ逃亡生活を余儀なくされ、ソープ嬢を続けられなくなっても、ヒナは寂しがり屋だから、この体はすぐに他の男に抱かれることになるだろう。できることなら、これからもたくさんの男に抱かれてほしい。

 熱いものがこみ上げてきて、涙で視界が曇った。
 泣き顔を見られるのが嫌で、絡めた指をほどいてヒナを抱きしめた。反り返った背中に腕をまわし、結合をときわ深めていく。これ以上密着できないというところまで体を密着させ、呼吸と動きを重ねていく。

 お互い手放しで泣きじゃくっているのに、腰の動きだけはどこまでも淫らに、いやらしくなっていく。滑稽なほど息がぴったり合っていた。ヒナは獣じみた悲鳴の合間に「ああっ、すごいっ!」「壊れちゃうよっ!」と絶叫し、最初のオルガスムスに達した。

 ヒナだけを一方的に、これほど早く絶頂に追い込んだのは初めてだった。
 不思議でもなんでもなかった、自惚(うぬぼ)れではなく愛し合っている実感があった。体と体だけではなく、心と心もしっかり結ばれているから、絶頂に導く事などわけもない。求め合う心と心が、肉にと肉との一体感をどこまで高めていく。

 ヒナが絶頂に達しても、矢代は貪るような腰使いを止めなかった。
 まるで荒狂う嵐の海に向けて艫綱(ともづな)をといた小舟の中にいるようだった。暴風雨に揉みくちゃにされ、辛うじて身を寄せ合っているだけの男と女。いや、男が船頭で、女が舟か。ずちゅっ、ぐちゅっ、と肉がこすれあう音に乗って、仰ぎ見るような高波が迫ってくる。しがみつくものは、汗ばんだお互いの体しかない。腰を振り合い、火照った肌に爪を喰い込ませ、息が上がっているのに口を吸い合う。

「あうううっ!  いいっ! いいっ!…はぁああああああーっ!」
 矢代は耐え難い射精欲を耐え抜いて、ヒナだけもう一度高波の頂点に放りだした。放りだしながらも離さない。まだ船を降りるわけにいかない。衝撃にバラバラになりそうな華奢な体をきつく抱きしめ、しつこく連打を送り込んでいく。次の高波が迫ってくる。空は暗黒の雲に覆われ、彼方に稲妻が光っていた。それに打たれれば、ふたりの小舟は木っ端微塵に打ち砕かれるだろう。

 恐怖に身をすくませながらも、稲妻に向けて舵を切られずにはいられなかった。すべてを
失う恐怖と、すべてを失ってしまいたい衝動が、背中合わせに貼り付いている。嵐の海では、死だけが恍惚(こうこつ)を予感させる。持てる力を総動員して、船を漕いだ。ヒナのいやらしすぎる腰使いが、無尽蔵のエネルギーを与えてくれる。怖いくらい力がみなぎり、みるみる稲妻が近づいてくる。

 遠眼には糸のように見えた稲妻なのに、間近でみると光の洪水だった。落雷の爆音が耳をつんざき、なにも聞こえなくなった。視界も真っ白だった。確かなはただ、腕の中でもがくヒナの体だけ。淫らな分泌液に濡れて勃起しきった男根を咥え込んだ、よく締まる一塊のみ。矢代は狙いを定めた。タイミングを誤るわけにはいかなかった。小舟がすさまじいスピードで水面をすべりあがり、眼も眩むような高さまで押し上げられた瞬間、引きかねを引いた。

「おおおおっ‥‥おおおおおーっ!」
 雄叫びをあげて、煮えたぎる男の精をドクンッと噴射した。暴れ出した男根が、ヒナをひときわ激しいオルガスムスに導いていく。お互いがお互いの体にしがみつき、五体の肉という肉を恍惚の痙攣に打ち震わせた。肉の悦びと呼ぶにはあまりにも痛切に痺れるような快感を、泣きじゃくりながら分かちあった。
 ふたりはたしかに、高波の頂点で稲妻の閃光(せんこう)に撃ち抜かれていた。


 最終章
 矢代は穴を掘っていた。
 深夜未明。頭上に覆われた木々で月が星も見えない山奥でのことだ。車高の異様に高い4WDのヘッドライトが、矢代の吐き出す息の白さを照射し、車の脇に立った男の構える拳銃を鈍色(にびいろ)に光らせていた。
「さっさとしてくれよ。俺あ、早く帰って年越しそば喰いてえんだからよ」
 そう言われても、スコップを持つ手は寒さにかじかんで握力をなくし、両脚はガクガクと震えっぱなしで立っている気がしなかった。そもそも、わずかに体を動かしただけで、さんざん痛めつけられた首や脇腹が軋み。咳きこめば鼻と口から大量の血があふれた。それでも、恐怖と絶望感に思考は停止してももはやなにがなんだかわからず、ただのろのろと地面に穴を掘ることしかできない。たしかなことはただ、自分の末路が川で土左衛門(どざえもん)ではなく、山で生き埋めということだけだった。

 前日の朝早く、横浜中華街の裏手にあるホテルにヒナを残し、矢代はひとりで東京に戻った。
 予定通り、書き置きを残してきた。けっして後を追ってこないこと、麻薬の売買は確実に実刑を受けるので警察には行かない事。目が覚めたらすぐにホテルを出て、しばらくは遠くの街で目立たないように暮らすこと。ヤクザ者には絶対に近づかないこと…‥言いたいことは山ほどあったが、なにしろ相手の理解力に不安が残るので、その程度にとどめた。ヒヨコの紙袋に入った金を数えると、一万円札が全部で四百二十六枚あったので、ヒナの逃亡資金に百万円と端数を残した。どうせ殺されるのなら全部置いてもよかったのだが、三百万というまとまった金を渡して詫びを入れれば、極道も少しは情けをかけてくれるのではないかという甘い考えを抱いてしまったのだ。

 もちろん。蜂蜜より甘い考えだった。
 錦糸町のギラギラした繫華街にある立枠会の事務所に行くと、有無を言わさずいきなり暴行を受けた。クリスタルの灰皿が側頭部にめり込み。悲鳴をあげてうずくまると、取り囲んだ男たちがよく磨かれた靴で蹴ってきた。顔や頭や首や背中や脇腹を嵐のように蹴りまくられた。鼻の骨と前歯が何本か折れたことだけははっきりわかったが、そこから先は失神していた。失神する前に、
「あの女はただのバイトですっ! 全部自分が命令したことですっ!」
 それだけは何度も叫んだ。それを言わなければやってきた意味がなかった。気付くと、口と両手両足をガムテープでぐるぐる巻きにされ、薄暗い倉庫のようなところに転がされていた。二、三時間置きに男たちが入れ替わり立ち代わりやってきて、痛めつけられた。女の居場所を教えと、と言われた。知らなかったので言えなかった。この事務所を訪れる直前、横浜のホテルに連絡を入れ、ヒナがチェクアウトしたことを確認していた。

 暴行を受けている時よりも、待っている時間のほうがキツかった。いつまた折れた鼻を踏まれるのだろう? 皮靴の爪先を鳩尾(みぞおち)にめりこまされ、息苦しさに気を失ってしまうのだろう? という想像が精神を崩壊させ、監禁が一昼夜続くと、半ば発狂状態になって暴れ出した。生まれて初めて銃口を突きつけられて、糞小便を漏らした。本当のことを話した。それで助かるとは思っていなかったが、もう限界だった。本当のことを話したところでヒナの居所は分からなったので、幹部らしき男が、

「もういいから捨ててこい」
 と若い衆に命じた。
 若い衆は矢代を一瞥し、
「ったく。面倒かけやがって。今日は大晦日なんだぜ」
 と火の付いたタバコを瞼に押し付けて来た。
 とにかく一刻も早く殺してほしい。もう痛いのも怖いのも嫌だ、と矢代はそれだけを祈りつづけた。ブルーシートに包まれて山奥へ運ばれ、穴を掘らされた。自力じゃ立っているのも辛いほどだったので、二、三センチ掘るのに何分もかかった。自分の身長と同じだけ掘れと言われたが、気が遠くなるほどかかりそうだった。
「さっさとしろって言ってんだろうっ!」
 尻を蹴飛ばされ、矢代はまだ浅い穴に倒れた。バタンと力なく倒れただけで、全身を何百本もの針金で貫かれたような激痛が走った。
「もう殺せばいいじゃないかっ!」
 気がつけば半狂乱で叫んでいた。
「体が痛くて力なんか入んないんだよ。人を殺すなら、穴くらい自分で掘ったらどうなんだっ!」
 大声を出しことで、口も喉も裂けるように傷んだ。寒さでかじかんだ手には、ヒナの乳房の感触はもう残っていなかった。痺れるような射精の快感も思い出せなかった。それでも満足だった。少なくとも人ひとりの命を奪えば、ヒナを追う手も緩むだろう。緩むはずだ。こんな人殺しをなんとも思わない連中が相手では心許ない希望的観測だったが、そうとでも思わなければやりきれない。
「わかったよ。じゃあ、そうさせてもらうわ」
 若い衆が鬼の形相でスコップを拾い上げ、矢代に襲い掛かってきた。刃を横に向けて脚に打ち下ろした。切断されたかと思うような衝撃に、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の悲鳴をあげる。
「だけど、俺のやり方は辛口だよ。チャカなんかで殺してやらないよ。手足チョン切って生きたまま埋めてやつから、二、三日かけてじわじわ死ね」

 刃を横に向けたスコップが襲い掛かってくる。転がるように逃げる矢代の、脚を叩き、腕を叩く――。

「うわああああーっ!」
 叫び声をあげて眼を覚ました。
 病院のベッドだった。
 叫び声をあげて目を覚ますのは、入院してこれで何度目だろう?
 白一色に統一された室内はリアリティがなく、いままで見ていた夢だけがどこまでも生々しい。

 ようやく腫れがひきかけた唇から、ひゆうと溜息がもれていく。
 矢代が助かったのは、ヒナが逮捕される覚悟で警察に駆け込んだからだった。
 もう少し駆け込むのが遅く、警察の対応が遅れていれば、若い衆に生き埋めにされていたらしい。立枠会はかねてから麻薬関係の事件で当局に眼をつけられており、それが功を奏した格好だという。

「矢代さん、お目覚めかしら」
 ナースが部屋に入って来た。
「…‥ええ、はい」
 矢代は視線だけを動かしてナースを見た。入院してもう一週間は経つはずなのに、それ以外は痛くてどこも動かせなかった。首にはコルセット、右腕と右脚にはギブス。左腕と左脚かかろうじて骨折は免れたようだったが、腱(けん)が損傷し、肉がえぐられていた。むろん。目立つ外傷が一番多いのは顔で、包帯や眼帯を外したところを想像したくもなかった。

「それじゃあ、点滴しましょうね」
 五十絡みのナースは柔和な笑みを浮かべてギブスをしていない左腕に針を刺し、点滴を台に吊った。
「退院まで、あとどれくらいかかりますかね?」
「またその質問?」
 ナースは苦笑いし、
「全治五ヶ月っていったら五ヶ月よ。リハビリもあるし」
「遠いなあ」
「大変な事件に巻き込まれたんだから、少しは安静にしていなさい。体もそうだけど、心も労わってあげなくちゃ‥‥あ、そうそう」
 ナースは白衣のポケットから封筒を出した。
「いま警察の人が院長先生のところに事情聴取に来ててね、手紙預かってたんだ。あなたを助けてくれた女の人から。読む?」
「ええ」
 矢代が頷くと、両手の自由がきかない矢代にかわって、封を開け、目の前で手紙を広げてくれた。
――言いつけを守れなくてごめんなさい。助けてくれてありがとう。生きていてくれて、本当に、本当に、本当によかった。
 細いボールペンで書かれた字が、ミミズがのたうっているように汚かった。わたし馬鹿だから、が口癖のヒナらしい、と苦笑がもれる。

 しかし、すぐに思い直した。
 ヒナは今、慣れない留置所での生活に怯え、実刑を受けて刑務所に行くことに不安を募らせているはずだった。なにより彼女の事だ、一匹だけ檻のなかに隔離されたうさぎのように、淋しくて淋しくて、普通に字も書けなかったのかもしれない。
「警察の人、まだこの病院にいるんですよね?」
 矢代はナースに訊ねた。
「ええ」
「手紙の返事、渡したいんですけど、代筆してもらえませんか?」
「いいわよ。ちょっと待ってて」
 ナースは便箋を持って来てくれると、
「どうぞ、なんて書けばいい?」
 ベッドの腋の丸椅子に腰を下ろして言った。
「あ、いや‥‥そうですね‥‥」
 矢代はしばし逡巡(しゅんじゅん)してから、
「…‥ありがとう」
「‥‥はい」
「お前の御蔭で助かった」
「‥‥はい」
「寒いから体に気をつけてな‥‥」
「‥‥はいはい、それから?」
「‥‥以上です」
「もういいの?」
 ナースが柔和に目を細める。
「遠慮しないでいいから、本音を言ってあげれば? しばらく会えないんでしょう?」
「いや、その‥‥」
 矢代は苦笑して首をかしげた。たしかにしばらく会えない。麻薬売買の罪なので、一年や二年は塀の中から出られないだろう。
「‥‥待っているから」
 勇気を振り絞って言った。いい年をした中年男が第三者の前で色恋の言葉を口にするのは、包帯で巻かれた顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
「はいはい、待っているから‥‥」
「おまえ‥‥家に帰ってきたとき‥‥」
「‥‥はい」
「灯りがついていると嬉しいっていっていただろう? あの河原のアパートに、灯りつけて待っててやるから‥‥」
「ちょっと待って、速い速い‥‥」
「おまえが刑務所から出てきたら、今度は俺がお前を養ってやる。遠慮しないでいいよ。炬燵の上のウイスキーの瓶の下に‥‥」
「速いってば‥‥」
「瓶の下に‥‥毎日千円札を滑り込ませてやる。それ持って毎日遊んでればいい。俺のパンツは洗うんだぜ。バンって言ったら死んだふりだ。今度は俺が主人様なんだから当然だろう? おもえ、言っていたよな? きちんと彼氏ができたら仕事あがるって‥‥ソープ嬢やめるって河原で言っていたよな? 俺にしてけよ‥‥おまえみたいな女に、男を選り好みできる権利なんてないんだよ‥‥馬鹿だし、噓つきだし、ビビリだし、救いようのない淋しがり屋だし‥‥おまえに売春婦で、シャブの前科までついて‥‥なあ、俺にしとけ‥‥ヒナ‥‥」
 ナースはもう、言葉をとめて来なかった。便箋にペンを走らせず、ただ息を吞んで切なげに眼を向けて来るばかりだった、それでも矢代は喋り続けた。やがて慟哭に遮られるまで、言葉はいまでもとどめなく溢れてきた。
 どうしよもない恋の唄
 平成21年12月 初版発行
 平成27年2月 第10刷発行
 著者 草凪(くさなぎ)優(まさる)