ヒナが大きく唇を開いて亀頭を頬張っていく。はちきんばかりに膨張したものを、生温かい口内粘膜でぴったりと包み込んで、唇をスライドさせる。じゅるっ、じゅるるっといやらしい音をたてて、唾液ごとペニスを吸いついてくる。そうしつつ、口の中でねっちこっく舌を躍らせる。

 本表紙草凪優 著

第三章 好きな人

 昼下がりの商店街はどこか望洋(ぼうよう)としてつかみ所がなかった。
 商売をする気がないのか、まだ客が来ないことを見切っているのか、店先に店員の姿がない店も多く、肉屋の揚げ物コーナーは空っぽで、八百屋の売り台には売れ残りのバナナしか並んでいない。

 最近できたばかりという百円ショップも、似たような有様だった。
 矢代とヒナが店に入っていても、パートらしきおばさんは丸椅子にどっしりと尻をのせたまま、レジの下に置かれたテレビを見ていた。「いらっしゃいませ」すらも言わず、お昼の連続ドラマに夢中だった。
「ねえねえ、これがいいよ。超カワイイ!」
 ヒナは棚に並んだグラスを手にして、はしゃいだ声をあげた。異常にテンションが高いのは、ふたりで連れ立って買い物をするのが初めてだったからだろう。毎日の食材を買っておくのは、ヒモである矢代の仕事だからだ。買い求めるのが揃いの食器というのも、機嫌がいい理由かもしれない。
「ねえ、いいでしょ、これで」
「うーん、いいかね!」
 矢代は苦笑して首をかしげた。ヒナが手にしているのは、黄色いヒヨコの絵が入った子供じみたグラスで、グラスというよりコップと呼んだほうがよさそうなものだった。
「そんなままごとみたいなやつ、酒がまずくなりそうだよ」
「そうかな。わたしはこれがいいな」
「実はさ‥‥」
 矢代はズボンのポケットから千円札を数枚出した。
「お前から毎日もらっている食事代、ちょっと余ってるんだ。これでもうちょっといいやつ買おうぜ。百円ショップじゃなくて、そこに普通の瀬戸物屋があったじゃないか」
「…‥へそくりしてたんだ?」

 じっとした上目遣いで見られ、矢代はバツ悪げに笑った。
「へそくりってほどじゃないだろう。少し残して置かないとたまに足りなくなる場合があるんだよ。酒買うときとか‥‥」
「ま、いいけど」
 ヒナは悪戯っぽくすまし顔をつくり、
「でも、コップはこれでいい。お金出して高いものを買えばいいというもんじゃないもん。安くたって気に入ったやつがいいもん」
「…‥そうか」
 矢代はしかたなく頷いた。ヒナの意見は正しかった。問題は矢代がヒヨコのコップをまったく気に入らないという点だが、スポンサーの意向には逆らえない。
(しかし、ヒヨコか‥‥)

 買い物かごにヒナから受け取ったグラスを入れつつ、内心で溜息がもれる。
 昔から不思議に思っていたことがある。女の子はなぜ、自分に似た動物のキャラクターが好きなのだろう? 高校生のころ、吊り眼の学級委員長はキツネのイラストが入ったノートを使っていたし、小太りの子はピンクの豚のぬいぐるみを鞄にぶら下げていた。どちらも他人から似ている事を指摘されば怒りだしそうなものなのに、どうしてそういうことをするのだろう、と。

 ヒナはヒヨコに似ているだろうか?
 小柄で童顔だし、年のわりには子供っぽいし、似ていると言えなくはないが、それ以上に名前と関わりがあるのかもしれない。本名は聞いていないけれど、名字が名前にヒナという言葉が入っていれば合点がいく。雛形とか、日向子とか‥‥。矢代はヒナのプライヴェートをなにも知らなかった。詮索する気になれないのは、知るのが怖いと本能で察しているからだろうか。
「矢代さん、ちょっと来てーっ!」
 店の奥でヒナが大声をあげ、慌ててそちらに向かった。
「ねえねえ、これすごくない? これも百円なんだよ? びっくりしちゃった」
 ヒナが手にしていたのはバトミントンのラケットだった。見るからに安っぽいつくりだったが、たしかに百円は破格に安い。ヒナは矢代の持っている買い物かごに、ラケット二本とシャトルを入れ、
「へそくりで買って」
 鬼の首を取ったような顔で言った。
「買うのはいいけど…」
 矢代の顔はひきつった。
「まさかやるのか、バトミントン?」
 ヒナは当然という顔で頷き、
「たまには太陽の下で汗をかいたほうが健康的でしょ、今日はせっかくの休みなんだし」
 矢代の背中を推してレジに向かった。

 河原の高い空は秋晴れに青く染まり、スポーツ日和と言ってよかった。
 時折強い川風が吹くが、バドミントンが出来ないほどではない。
 矢代とヒナはだだっ広い河川敷を占領して、ラケットを握りしめた。
 あまり乗り気ではなかったけれど、誰も見ていないならよしとしよう下手でも恥ずかしくないだろうと、矢代は青い空に白いシャトルを打ち上げた。
 ヒナが追いかけてラケットを振る。
 空振りだった。
「おいおい。パンツ見えているぞ‥‥」
 矢代は笑いながらもう一度サーブした。最初の空振りは偶然ではなかった。
 四十路(よそじ)も間近な矢代の動きも鈍かったけれど、ヒナは絵に描いたような運動音痴で、いくら絶好球を打ってやっても、ラケットにシャトルを当てることが出来ない。「えいっ、えいっ」と素っ頓狂(とんきょう)な声をあげながら、けれどもすべて空振りでラリーは続かず、まるでミニスカートから股間に食い込んだショーツをのぞかせるためにラケットを振っているような有様だった。

「いったいなんだよ、おまえは…」
 矢代は呆れた顔で言った。
「まさか、やったことがないのにラケットを買ったのか」
「おかしいな。もうちょっと出来ると思ったんだけどな」
 ヒナは手の甲で額の汗を拭いつつ素振りをした。
「お前がサーブしてみろよ」
「そうだね。サーブならあたるよ、絶対」
 言い終わった直後にあて損なった、下から思いっきりすくい上げたラケットは空を切り、バランスを崩してジャリの上に転んでしまう。危なっかしくて見ていられない。
「おいおい、大丈夫かよ」
 矢代は溜息交じりに近づいていった。
「痛いよ、お尻ぶつけた…」
 ヒナは泣きそうな顔で、尻をさすりながら立ち上がった。川風でめくれ上がりそうなミニスカートをラケットで押さえつつ、へっぴり腰で尻をさする様子が、吹き出してしまいそうなほどおかしい。
「もうやめとこうぜ。おまえ、体が資本の商売だろ」
 矢代は笑うのをこらえながら言った。

 膝小僧をすりむいたら、ソープの仕事に支障がでるだろう。バンドエイドや包帯に興奮するのは特殊な趣味の持ち主だ。
「やめない。もうちょっと頑張る」
「どうしてだよ。だいたい、なんでバトミントンなんてしようと思ったんだ? 百円で買ったからか?」
「違うの」
 ヒナは切なげに眉根を寄せて首を振り、
「たまにここでバトミントンやっているカップルがいるという夫婦? おじいさんおばあさんなんだけど、上手くて。いいなあ、わたしもやりたいなあ、って見るたびに、わたし‥‥」
 言葉を途中で切ったのは、ちょうどそのとき、ラケットを持ったふたり組がその場にやってきたからだ。

 ヒナの顔から察するに、いま話題に出てきた夫婦らしい。ゆうに還暦を超えていそうな老夫婦だった。矢代とヒナがラケットを持っている事に気づくと、老夫婦は同好の士だと思ったらしく、こちらに会釈してからラリーを始めた。

 年齢を感じさせないラケットさばきだった。スパーン、スパーン。といい音を鳴らし、矢代とヒナがやっていたのと同じスポーツだとは思えないほど、シャトルが軽快に行き来する。
「‥‥まだやるか?」
「‥‥もういい」
 ヒナはさすがに恥ずかしくなったらしく、すごすごと土手のほうに歩き出した。肩を並べて斜面に腰をおろし、川風にも負けず行き来するシャトルの行方をぼんやり眺める。
「うまいなあ。どうすればあんなふうにできるんだろうなあ」
 ヒナは膝を抱えて深いため息をついた。
「何事も一朝一夕にはいないもんだよ」
 矢代はニヤニヤしながら囁いた。ヒナは不思議な女で、しょげかえった横顔がとても可愛い。可愛いが、もっとしょげかえらせてやりたくなる。虐めを誘発するような雰囲気が、どこかにある。
「おまえ、子供の頃体育の成績はいくつだった?」
「…‥2」
 横顔を向けたまま唇を尖らせた。
「考えが甘すぎるんだよ。あの人たち、きっともう何年も夫婦でバトミントンやっているね。その積み重ねが、あのラリーさ。体育2の女が百円ショップでラケット買ってきて、いきなり出来るわけないんじゃないか。努力なしに天才なしだよ」
「…‥わたしでもできるかなあ」
「コツコツ練習すればな」
「一緒にしてくれる?」
「えっ‥‥」
「あんなふうにうまくできるもで、一緒に‥‥」
 上目遣いでじっと見つめられ、矢代は息を吞んだ。
 とんだ藪蛇だったらしい。
 ヒナはずっと一緒にいたいということを伝えたいがために、慣れないバトミントンをやろうなどと言い出したようだった。ソープ嬢のくせに純情というか、ナイーブすぎるというか、おかしな女だ。

 しかし、悪い気分ではなかった、矢代の胸が熱くなったことも、また事実だった。眼の前の老夫婦の領域に達するまでは何年かかるかわからないけれど、ヒナと毎日ここでバトミントンをかる生活は悪くない。

 けれども、矢代は昨夜、決めたばかりだった。
 隣室から届く大倉の怒声を聞きながら、未来に対してある重要な決断をした。
 その決断をヒナに伝える、いい機会なのかもしれなかった。
「俺‥‥お前にはすごく感謝しているよ‥‥」
 ヒナは祈るような表情で矢代を見つめている。
「おまえを抱いたら自殺を思いとどまったし、その後も居候させてもらって、有難いというかなんというか‥‥」
「いいのよ、そんなこと」
「でもな、ずっと一緒にはいられない」
「…‥えつ?」
 大きな眼が哀しみに歪んだ。
「実は俺‥‥決めたんだ。前からおぼろげに考えていた事なんだけど‥‥」
 行き交うシャトルを眼で追いながら、矢代は言葉を継いだ。
「離婚した女房を取り戻そうって‥‥いやね、まだ惚れているとか、どうしても忘れられないほど愛してるって話じゃないんだ。そうじゃなくて、寝取られた女を寝取られたままにしておいたら、男としてもうお終いだって思わないか? だから、もう一度事業を興して、今度こそ成功して、金が出来たら…‥女房を迎えにいく‥‥。何年かかるかわかんないけど、それをまずの目標にしようって、決めたんだ‥‥」

 シャトルが地面に落ちた。おじいさんのほうが笑顔でシャトルを拾って、おばあちゃんに向かって打つ。再びラリーが始まる。
 いい夫婦だった。

 けれども、あのふたりにしても、それまで全く波風のない人生を過ごしてきたわけではあるまい。夫婦にしかわからない困難を乗り越え、涙を呑んだり、歯を食いしばったりしながら、あの年までようやく辿りついたのだろう。
「だから‥‥おまえのところで、これ以上世話になるわけには‥‥」
「わたしっー」
 ヒナがぎゅっと手を握ってきた。
「いまの話、感動した! 素敵だよ。取られた奥さん取り戻すなんて‥‥」
 矢代は思わずのけぞった。まるでスポ根漫画のヒロインさながらに、瞳に炎を燃やしているようなヒナの表情にのけぞったのだ。わざとらしいというかなんというか、人が真面目に話しているのに、呆れて笑うしかないようなリアクションだ。

「感動したって、おまえ‥‥」
「感動したから、わたし応援する。矢代さんの夢。矢代さんが取り返せるように、協力してあげる」
「協力?」
「だって、矢代さんいまうちから出て行ったって、仕事もないし、寝る所もないでしょう? お金が貯まるまでうちにいればいいじゃない」
 手を握る力が強まる。小さな手にびっしょり汗をかいている。
「私の事なら気にしないでいいから。部屋に誰か待ってくれると、それだけで帰って来るのが嬉しいから。そのうちいなくなっちゃう腰掛けの男だって、一緒にいてくれる間は幸せだし‥‥ね、そうして。奥さん迎えに行けるようになるまで、生活の心配はしないでいいから。わたしのところに‥‥」

 ヒナの言葉はどこまでも健気(けなげ)で、切実で、そして激しかった。激しさの裏側にある淋しさが透けて見えた。ソープ嬢という職業柄のせいかどうかわからないが、失笑を誘うような子供じみた振る舞いの奥に、凍てつくような淋しさが感じられた。矢代に対する愛情というよりも、ひとりで生きて行く事に恐怖しているような淋しさだ。
 矢代は握られた手を振り払うことができなかった。

 数日後、矢代は久しぶりに電車に乗った。
 ヒナの部屋に居候をするようになってから初めてだった。いずれそういう日が来るだろうと漠然と予期していたが、これほど早いとは思わなかった。なにしろ自殺を決意するまでに追い詰められ、全てを捨てて行方をくらましたのだから、かつての知り合いの前に顔を出すのは勇気が要る。
 それでもなにもせずにいられなかった。

 人間、落ちるところまで落ちてみれば、自然と這い上がるように出来ているのかもしれない。ヒナの厚意に甘えて居候は続けることにしたものの、ただ甘え続けているのだけではいけない。まだわずかに残っている男のプライドが朽ち果て、未来に待っているのは地獄だけとわかっていながら、自堕落な生活に淫してしまうかもしれなかった。
 向かった先は埼玉だった。

 かつては工業地帯として名を馳せたその土地も、いまではタワーマンションが建ち並び、すっかり東京で働く者たちのベッドタウンになっている。昭和の時代にフル稼働していた大工場もいまはなく、跡地の大半が倉庫になったり、ベッドタウンの様相を呈していた。

 タクシー代を節約して、駅前からバスに乗った。
 なにしろヒモの分際では、ポケットに入っているのはヒナが「食事代」として渡してくれる千円札が数枚だけ。
 バスを降りると砂埃(すなほこり)が眼に入った。広い道路を唸り声をあげて走る大型トラックと、塀に囲まれた大規模倉庫。コンクリートとアスファルトだけが織りなす、荒涼とした景色がどこまでも広がっている。大規模倉庫の裏手は悪臭漂う運河になっていた。目的の場所はその運河沿いにある、「清川印刷」という小さな印刷工場だった。

 脂じみた金属製の引き戸を開けて中に入っていく。印刷機を操作している職人が、矢代の顔を見て驚愕(きょうがく)に眼を見開いた。矢代は適当に会釈し、奥の事務所に進んだ。
「‥‥おいっ」
 事務所に入って行くと、険しい表情で帳簿を睨(にら)んでいた男がガタンと椅子を倒して立ち上がった。この工場の社長、清川芳郎だ。
「どうしたんだよ、突然‥‥」
「幽霊じゃないですよ、ちゃんと足はついていますから」
 矢代はおどけた調子で言ったが、清川は笑わなかった。元来が無口な男で、昔気質(むかしかたぎ)の親分肌、矢代の顔をまじまじと見ながらも、言葉を発しない。喉元まで出かかっていることはあるはずなのに、すべてを呑み込でいる。

 清川とは古い付き合いだった。
 矢代はかつて製薬会社の営業部に勤務していた。そこで全国の薬局薬店に配る小冊子をつくっていて、清川は印刷所の担当社員だった。小冊子の編集作業はプロダクションに任せていたし、年も矢代の方が十も下だったが、お互い無類の酒好きだったことから、気の置けない仲になった。飲めば朝までだったし、時には翌日の昼まで飲んでいた。

 清川が独立したのは、オーナー社長が急逝(きゅうせい)し、遺族が会社を整理することに決めたからだ。路頭に迷いそうな職人たちに泣きつかれ、新会社を設立するために奔走していた清川に、矢代はずいぶん力を貸した。

 知り合いの不動産屋関係者に頼み込んでこの場所を格安で借りられるようにしたのも、銀行の融資担当者に顔を繋いだのも、弁護士や税理士を紹介したのも、すべて矢代だ。まだ真新しい印刷機を囲んで新会社の前途を祝したとき。「この恩は一生忘れない」と清川は男泣きに泣いていた。
 しかし、矢代が倒産のピンチに瀕(ひん)したとき、連帯保証人にはなってくれなかった。
 ひと言も言い訳をせず、ただインクの染みのついたコンクリートに膝をつき、土下座した。一時間近く顔をあげなかった。

 インターネットの普及に伴い、紙媒体の産業は疲弊していく一方で、清川印刷の取引先も倒産の噂が絶えない。出版社や雑誌社の経営不振は印刷業者を直撃する。今日の受注額は昨日の八掛け、明日はそのまた八掛けかもしれない。仕事がないよりマシとはいえ、会社の体力は削られていくばかり。設備投資はもちろん、手に染みこんだインクを落とすための粉石鹼やトイレットペーパーや給湯室のお茶っ葉まで節約し、それでも足りずにボーナスの査定を見直す。いちばんとばっちりを受けるのが職人の子供らだと分かっていても、会社を守るために涙を呑むしかない。

 清川の土下座には重みがあった。
 矢代は連帯保証人のサインを諦め、その代わり、いよいよ倒産が逃れられなくなった段階で、ひとつだけ頼み事をした。新製品として開発したまま市場に流してなかった在庫品を、預かってもらうことにしたのだ。

 牡蠣肉エキスを主成分にした(牡蠣元気)という健康食品だった。研究開発にかなり投資をして出来上がった絶対の自信作で、倒産のどさくさで処分されてしまうのは忍びなく、社員にも内緒で隠したのだ。
 幸か不幸か、清川印刷の工場は義務拡張を視野に入れてかなり広いスペースを確保しており、けれども新しい機械を入れる余裕などどこにもなかったので、倉庫になってくれそう部屋がいくつも余っていた。

「事業、再開の目処が立つのかい?」
 清川が工場の奥に案内してくれながら言った。
「いえ、まだそこまでは‥‥」
 矢代は首を振り、
「俺が来たこと、他言無用でお願いします」
「わかっているさ」
「自分でつくった健康食品でも飲んで、元気を出そうと思っただけですから」
「そうかい‥‥」
 清川は鍵穴に鍵を差し込み部屋の扉を開けた。パレット三つ分、段ボール箱にして約百箱の(牡蠣元気)が、厳重にビニールに包まれて保管されていた。
「ひとつ謝らなくちゃならねえんだが‥‥」
 清川は言いづらそうに呟いた。
「矢代さん、行方不明になっちまったって噂だったしさ。もうここに来ることもないだろうと思って、少しだけいただいちまった」

「このサプリメントを?」
「ああ、実はここんところ疲れが抜けなくてなあ。飲み過ぎのせいもあるんだが、朝の起き抜けからぐったりしてる有様で…‥そういや、矢代さんが置いてった薬、疲れがとれるっていっていたじゃないかって…‥すまんことをした」
 清川は深々と頭をさげた。
「構わないですよ、それくらい‥‥」
 矢代はなんだか哀しくなってしまった。無断で商品に手を出されたからではない。一諸に朝まで飲み歩いた頃、健啖家(けんたんか)の彼の口癖は「体力は酒で養うもんだ」というもので、精力剤や健康食品など小馬鹿にしていたのだ。
「で、どうでした? 効き目の方は」

 おずおずと訊ねると、
「いやね‥‥それがすこぶるいいんだよ」
 再会して初めて、清川は相好(そごう)を崩(くず)した。
 初めは半信半疑だったんだが、牡蠣エキスってのは効くね。飲む前に飲むと、翌日ほとんど酒が残らない。流行りのウコンなんかよりずっといい。飲み始めて二週間ほどだが、なんとなく疲れにくくなって来たし‥‥」

 矢代は息を呑んで清川を見つめた。そういえば、以前より血色がよくなった気がする。安値のウコンを買うことすら節約し、行方不明の知人が残した効果も怪しいサプリメントに手を出すくらいだから、台所事情が好転したわけでもないだろう。とすれば、顔色がいい原因は(牡蠣元気)以外にはないということになる。
 地獄の釜からの脱出口が、ほんの僅かだが見えた気がした。

 サプリメント八十粒入りの瓶を五十、使い切り一回分の小袋を二百.(牡蠣元気)を紙袋に詰められるだけ詰めて、矢代はアパートに戻った。
 もう夕暮れだった。高い空がオレンジ色に染まっていた。
 矢代は居候中のヒナの部屋ではなく、その隣の大倉の部屋をノックした。建付けの悪いドアをギギッと開けて、大倉が顔をのぞかせた。
「なんだ‥‥矢代さんか」
 昼寝でもしていたのか、いつもきちんと撫でつけられた髪が逆立っている。
 矢代は苦笑し、
「ちょっと話があるんだけど、時間あるかい?」
「なんですか?」
「仕事の話さ。儲け話って言ってもいい。手を貸してほしいんだ‥‥いや、まずはアイデアだけでも聞いてほしいんだが‥‥」
 儲け話と聞いて、大倉の肩眉がピクリと跳ねる。
 だが、矢代は話の途中で、部屋の奥にいる人影に気づいた。
「なんだ。レイコちゃん、まだ出勤前だったのか。じゃあとで銭湯でも‥‥」
「いや、その…‥今日はあいつずっと部屋にいるし、俺もここから出られないから‥‥上がって下さい。べつにあいつが居てもいいでしょう?」

 燐家にあがるのは始めてだったので、矢代は一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、レイコがいるのはかえって好都合かもしれないと思い直し、
「じゃあ、ちょっとお邪魔する」
 玄関で靴を脱いでだ。
 間取りは一緒でも、住んでいる人間が違うとこれほど部屋の印象は違うものか、と思った。畳の上にピンクのカーペットが敷き詰められ、カーテンは白いレース。ダブルベッドの枕元にはぬいぐるみが鈴なりに置かれていて、チェストやソファやテーブルクロスのセンスも、ひと言で言えば少女じみた趣味にあふれていた。
 もちろん、大倉のセンスはないだろう。クールというか無愛想というか、とても二十歳とは思えない落ち着きのあるレイコであるが、中身は年相応なのかもしれない。

「その辺、適当に座ってください」
「ああ‥‥」
 ガラスのテーブルを挟み、斜めに向き合うような格好で、互いにあぐらをかいた。レイコは少し離れた窓際で、片膝を抱えてぼんやりと夕焼けを眺めていた。
 部屋着らしいスエットスーツに身を包み、メイクもしていなかったが、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。金髪が夕陽を浴びてオレンジに輝き、肌の白さを際立たせている。ヒナも肌は白いが、ヒナがミルク色とすれば、レイコの肌には抜けるような透明感があった。虚ろな眼つきが儚(はかな)ささえ感じるほど美しかった。
「どうも」

 矢代は会釈したが、いつも通りに無視された。
「…‥大丈夫なのかい? 最近、毎晩派手に喧嘩してるみたいだけど」
 声を潜めて大倉に言うと、
「やっぱり聞こえちゃいましたか‥‥」
 大倉はふうっとひとつ溜息をつき、
「あいつの浮気疑惑、結局は濡れ衣だったとわかったんですけどね。俺、好きだから‥‥あいつにマジで惚れてるから、頭に来るともうわけが分からなくなっちゃって‥‥」
「暴力はやめたほうがいいぞ」
 部屋はファンシーに飾られていたが、壁の凹みや、割れた窓ガラスを塞いだダンボールが痛々しかった。
「いや、まあ、…‥わかっていますよ」
 大倉はもう一度深い溜息をついてから、話を打ち切るようにパンと膝を叩いた。
「で、話っていうのは‥‥」
「あ、うん…・」
 矢代は紙袋の中から〈牡蠣元気〉の瓶を取り出した。
「俺が前、健康食品の仕事をしてたって話したよね?」
「ええ」
「これ、まだ市場に流す前に会社が潰れちゃったんだけど、絶対の自信作なんだ」
「へええ、〈牡蠣元気〉‥‥」
 矢代の渡した瓶を手にし、大倉は能書きを読んだ。
「海のミルク、海のフルーツ、海の玄米‥‥高級牡蠣肉エキス配合‥‥」
「牡蠣肉エキスっていうのは主に肝臓に効くんだ。疲れがとれる。宿酔い防止にはウコンなんかよりもずっと効く。亜鉛もたっぷり入っているから、男性機能にもな‥‥」
「これを売ろうというわけですか?」
「そう。在庫が大量に余っているから。俺に残された唯一の財産なんだ」
「でも…‥言っちゃ悪いけど、売れなかったから会社潰れたんでしょ?」
「だから考えたんだ。売り方を‥‥」
 矢代は眼力を込めて大倉を見た。

「こういうのは通販で売っていくのがセオリーなんだけど、手売りで売ってみたらどうかってね。それも、ソープ嬢とかキャバクラ嬢とかが、客に勧めるんだよ。客も女の子に勧められたら無下には断れない。サプリメントの効果はそれなりにあると思う。欲しくてもどこにも売ってないから、客はまた店に来るしかない。ソープ嬢やキャバ嬢にとっては営業にもなるし、一石二鳥ってわけさ」

「…‥なるほど」
 大倉は頷き、視線をレイコに走らせた。レイコは相変わらず夕焼けを眺めるばかりで、話を聞いている素振りはない。
「だから、俺に話をもってきたわけだ。あいつを巻き込むために‥‥」
「まあね。それに彼女以外にもキャバ嬢の知り合いがいるだろう? 元黒服なんだから」
「そりや、まあ…‥」
「力を貸してくれないかな? これ、本来は一袋五百円なんだけど‥‥」
 五粒入り、一回使い切りの小袋を渡す。
「超プレミア商品ってことにすれば、三千円でも売れると思う。薬局で売っているいちばん高い強壮剤ドリンクがそれくらいだし、キャバクラで遊んでいる客なんて、金銭感覚おかしいなっているじゃないか」
「じゃあ、こっちの瓶は?」
「三万から五万だな。ひと瓶でだいたい二週間ぶんだから、なくなるころには、また店に行きたくなる頃合いっていうわけだ」
「ちょっと待ってくださいよ」
 大倉は手を挙げて眼を瞑(つむ)った。
「ひと瓶三万から五万ってことは‥‥百本売れば三百万から五百万」
「そう。仕入れコストも運転資金も必要ないから。丸儲けさ。うまくいけば、一千万や二千万つくるのに半年もかからないと思う」
「すげえ」
「ただし、あまり大々的にはできないがね。税務署に眼をつけられたくないし、なにより店には内緒でセールスしなけりゃならん」
「しかし、それだけあれば‥‥」
 眼を見開いた大倉の顔が、にわかに脂ぎった。
「なあ、レイコッ!」
 大倉が膝を立てて声をあげたときだった。
 隣の部屋のドアが開く音が聞こえたので、大倉はレイコから矢代に視線を移した。
「ヒナちゃん、帰って来たんじゃないですか?」
「そうみたいだな」
 矢代は首を傾げた。
「こんなに早く帰ってこないはずだけど‥‥」
「いまの話、ヒナちゃんにも協力してもらうんですよね?」
「ああ、もちろん」
「だったら、呼んできましょうよ。四人で話した方が早いでしょう」
「そうだな‥‥」
 矢代は腰を上げ、隣の部屋に向かった。

「それもいいっ! すごいっ! グッドアイデアだよっ!」
 話を聞いたヒナは眼を輝かせ、シンバルを持った猿のオモチャのように手を叩いた。
「ソープに来るお客さんって、意外にみんな疲れてるから、すぐ食いついてきそう。わたしの指名客でも、瓶買いしてくれそうな人が…‥五・六人はいると思う」
 視線を泳がせ、指折り数える。その日帰りが早かったのは、「店がめちゃくちゃ暇すぎた」からだそうだ。「待っているのも疲れたから帰ってきちゃった」と言っていたが、実際には店に帰されたのだろう。前にも一度あった。
「たったの五、六人かあ‥‥」
 大倉は苦笑したが、
「いや、馬鹿にしたもんじゃないぞ」
 矢代は諭すように言った。
「ひと瓶三万として、五人で十五万。ひと月に二本買ってくれるなら三十万だ。健康食品のいいところは、毎日続けて飲まなきゃいけないところだから、半年継続してもらえば百八十万。頑張って十人に増やせば三百六十万‥‥」
「なるほど。まさに倍々ゲームだ」
「売り子になってくれる仲間を増やせば、あがりを折半したとしても、さらに倍だ」
「でも‥‥」
 大倉は不敵に眼を輝かせた。
「売り子の本命はソープより、キャバですよね。色恋の駆け引きしてるキャバの方がこういう商売には向いてますよ。買えば女の子の気が惹けるから。肝臓に効くっていうのも、酒場のほうが関心高いだろうし」
「まあ、そうだな」
 矢代は頷いた。この話を大倉にもちかけた理由は、その意見に集約されていた。
「なあ。レイコ」
 大倉が声を上げる。夕焼けはすでに終わりかけていたが、レイコはまだ窓の外を眺めていた。風に揺れる金髪とは裏腹に、横顔に感情の起伏はない。
「おまえいまの話どう思う? っていうか協力してくれるだろう?」
 レイコは答えない。
「協力してくれよ。もちろん、俺もどっかのキャバに潜り込んで、売るからさ。早いとこ金稼いで、ふたりで店をやろうぜ。そうすりゃ全部うまくいくんだ」
「そうかなあ‥‥」
 レイコは横顔を向けたまま呟いた。
「そんなに上手くいかないと思うけど‥‥」
 矢代は驚いた。言葉の内容にではなく、初めて聞いたレイコの声にだ。気高くも美しい容姿に不釣り合いなほど、甘ったるいハスキーヴォイスだった。
「どうしてだよ? 店をやればきっと上手くいくよ。俺がいつも側にいてやれば‥‥その…焼き餅だって焼かなくなるじゃないかよ」
 矢代とヒナの眼を気にしてか、大倉の言葉は後ろにいくほど細かくなっていった。
「そうじゃなくて‥‥」
 レイコは大倉が持っている〈牡蠣元気〉に視線を向けた。
「そういうの売れないと思う。飲みに来ているお客さん、興ざめだよ。いちいち席でバッグから出してたら、黒服だってなんか言ってくるだろうし‥‥」
「そんなことないだろう」
 大倉は眼を吊り上げた。
「おっちゃんの客とか、よく病気自慢しているじゃないか。席で売って目立つなら、同伴のときに買わせるとか、いろいろ手はあるし‥‥」
「だいたいね‥‥」
 レイコが大倉の言葉を遮(さえぎ)った。
「〈牡蠣元気〉って名前がイケない。カッコ悪い。ダサすぎて人に勧めたくない」
「ネーミングだけの問題なら‥‥」
 矢代は堪らず言った。
「いずれは変更も可能だけど。でもとりあえずは、このままで売ったほうがいいと思うんだよ。ラベルを印刷するコストも節約できるし」
 レイコは矢代を一瞥もせず、大倉だけを見て、
「ダメだと思うなあ。精力剤とか健康食品なんて、わざわざお店の女の子から買わないって。そのへんのコンビニで売ってるんだから」
「そんなことさあっ!」 
 大倉が不愉快そうな怒声をあげた。
「やってみなくちゃわからねえじゃん。だいたいなんだよ、その態度。俺に対して怒ってるのはいいよ。浮気を疑って暴れたのは俺が悪かったよ。でもさあ、こうやって矢代さんが仕事の話をもってきてくれてさあ‥‥きっと矢代さんは、俺らの修羅場を隣で聞いてて、いたたまれなくなって来てくれたんだよ。一緒にどん底から這い上がろうっていう、そういう友情みたいなものを俺は感じたよ。なのにおまえは…‥」

「…‥だって、ダメなものはダメだもの」
「なんだと!」
 大倉が拳を振り上げので、矢代とヒナは慌ててとめた。
「じゃあ言っててみろよ。どうすりゃダメじゃないんだよ。どうすりゃさつさとお前の借金返し終わって、店の開業資金つくれんだって!」
 矢代とヒナにふたりがかりでしがみつかれながらも、大倉は真っ赤な顔でレイコを怒鳴った。鬼の形相でふうふうと息を荒げていた。驚くべきことに、それでもレイコは顔色を変えず、
「…‥お金持っているのは、客じゃなく女の子のほう」
 俯いたままポツリと言った。
「はあ? なんだって?」
「客なんて女の子にお金を引っ張られてキュウキュウだもの。でも女の子の方は、ナンバーに入っていない子だって、そのへんのサラリーマンの何倍も稼いでいるじゃない」
「じゃあなか?〈牡蠣元気〉を女の子に売ればいいって、そう言いたいのか?」
「だから買わないってば、女の子はそんなダサイもの」
「ダサイって言うな! 矢代さんに悪いだろっ!」
 大倉が怒鳴り、
「いや、まあ、ダサイならダサイでいいんだけど…‥」
 矢代が間に入る。
「もし、もっとうまくいきそうなアイデアがあるなら教えてくれないかな? こうすう感じなら、女の子が喰いつきそうなとか‥‥」
「そうだよ。イチャモンつけるなら、テメエでいいアイデア出してみろよ」
 レイコは金髪を掻きあげ、しばし思案に耽(ふけ)ってから言った。
「たとえばだけど‥‥夜仕事してる女の子って。ペット飼ってる子が多いでしょ。犬とか猫とか。そういう子ってペットのことを溺愛(できあい)してるじゃない? だからたとえば‥‥ペットフードとか? 同じプミアム健康食品なら、人間向けのやつじゃなくて、犬猫向けのやつとなら売れるんじゃないの? みんな、やれトリミングだの、服だのキャリーバックだの、馬鹿みたいにお金を使ってるもん‥‥」

 矢代と大倉は顔を見合わせた。
 悪くないアイデアだった。
「しかし、おまえってホント、ビビリだな…‥」
 部屋に戻ってくると、矢代はヒナに言った。
「最初は手叩いてはしゃいでいたくせに、レイコが喋り出したら、言葉忘れたみたいに黙りっぱなしだったじゃないか」
「だってえ‥‥」
 ヒナは肩を落として呟いた。
「あんなに若くて綺麗なのに…‥しっかりしてて敵(かな)わないよ…‥」
「まあ俺もちょっとびっくりしたけどさ」
 矢代は急に重たくなった〈牡蠣元気〉入りの紙袋を置き、畳に腰を下ろした。

「キャバ嬢って、頭の回転もよくなきゃ務まらないのかもなあ。俺なんかより、ずっとビジネスセンスもありそうだし」
「ペットフード、やってみるの?」
 ヒナも畳に膝をつき、身を寄せて来る。ピンク色のニットに包まれた体からは、珍しく安っぽいローションの匂いがしなかった。
「考えてみるよ。ただ、最初の資本がな…‥」
「わたし、ウレカナシイ」
 ヒナがせつなげに眉根を寄せてつぶやく。
「んっ? なんだい?」
「矢代さんが仕事する気になるくらい元気になって嬉しい。でも、成功したら、ここから出ていっちゃうから哀しい」
「なんだよ。応援してくれるんじゃないのかよ」
 矢代は苦笑しようとしたが、ヒナの表情があまりにも切実だったので出来なかった。
「あのな、よく考えてみろよ。金が入ってきたら、お前だって借金きれいにしてソープから足を洗えるんだぜ」
「それは‥‥そうだけど‥‥」
 ヒナは前髪を押さえて俯いた。
「そうだけど‥‥なんかずるい。もしお金儲けがうまくいっても、大倉さんレイコちゃんとはお店やるでしょ? 矢代さんは奥さんのことを迎えに行くでしょ? わたしばっかり、ハッピーエンドじゃないじゃない」
 畳に転がっていたバトミントンのシャトルを投げて来る。
「なんていうか‥‥矢代さん、立ち直るのが早すぎる。この前まで川に飛び込んで死んじゃおうと思っていたくせに。私のことを乱暴に抱きながら泣いたりしちゃったくせに‥‥たったの一カ月で前向きな感じになっちゃうなんてさあ」
「じゃあ、どれくらいならいいんだ?」
「わからないけど‥‥一年とか」
「長いな。ずいぶん」
「だってわたし、情がわいちゃったもん。たったの一カ月しか一緒に住んでいないけど、矢代さんに…‥」
 ヒナの意見は支離滅裂で、取り乱しているだけだった。
 だが、悪いとは思わない。
 金さえ入れば、ヒナだって変わる。
 ソープで働く必要がなくなるということは、ヒモを養うというどこか歪んだ心の支えも必要なくなるということなのだ。
 過去を隠して小奇麗な格好をし、バイトや派遣で働けば、恋人だってすぐにできるに違いない。それなりに可愛い容姿をしているし、なによりソープで鍛えた床上手。ベッドで男を骨抜きにすることくらいわけもないはずで、玉の輿に乗ることだって夢じゃない、と言ったらいささか大袈裟かもしれないけど、案外、矢代や大倉やレイコよりも明るい未来が待っているのではないだろうか。

「ねえ、そういうのない? 一カ月も一緒に住んで、情とかわかない?」
 ヒナが腕を取って揺すってくる。
「わくさ、そりゃあ」
 矢代は間髪入れずに答えた。嘘ではなかった。だからこそ、できるだけ早くここから出ていかなければならないのだ。ヒナの優しさは人工甘味料にも似て、甘いだけではなく毒がある。その毒がまわってしまう前に、決別しなければならない。
「前にも言ったけど、元のカミさんを取り戻すのはケジメなんだよ。好きだとか愛しているとか、そういうのはもう全然ないよ。でも、女房を寝取られたまますっこんでいたら、男じゃないんだよ」
「‥‥そうだね」
 ヒナは立ち上がって、台所に向かった。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、背中を向けたままヒヨコのコップに注いで飲んだ。
「ごめんなさい…‥」
 華奢な背中を震わせてしおらしく呟く。
「矢代さん、そう言ったもんね。わたし応援するって約束したもんね‥‥わたし馬鹿だから、そういう大事なことすぐ忘れちゃう…‥」
 だからせめて、一緒にいるときだけはたくさん愛してほしい――そんな女らしい情感が、背中越しに伝わってきたときだった。
「んんんっ…‥ああああっ…‥」
 と隣の部屋からくぐもった女の声が聞こえて来た。
 大倉とレイコが愛しあい始めたらしい。
 にわかに部屋のムードが気まずくなり、
「…‥ちょっとー」
 ヒナは眼を吊り上げて振り返ると、脱兎(だっと)の勢いで矢代の側に戻ってきた。
「いま想像したでしょ?」
「えっ?」
「レイコちゃんがエッチしてるとこ、想像していたでしょ?」
「いやべつに‥‥」
「矢代は首を横に振ったが、もちろん想像していた。高貴な猫のような美貌に、気だるげな表情。甘ったるいハスキーヴォイス。あれほどの美女が丸裸に剥かれ、大倉に貫かれてあんあん悶えていると思うと、想像せずにはいられない。
「バンッ!」
 ヒナが人差し指を胸に当てて叫んだ。
「…‥ううっ…‥や、やられた‥‥」
 一瞬遅れてしまったけれど、矢代はピストルで撃たれたふりをして、畳の上に仰向けに倒れた。ヒナはその上に馬乗りになって唇を尖らせ、
「想像しないで! 耳も塞いで!」
「なんなんだよ…‥」
 矢代は言われた通りにしなが苦笑した。
「こんな壁の薄いアパートなんだからしようがないじゃないか。おまえがひいひいよがってる声だって、きっといつも隣に筒抜けだぜ」
「それはいいの。聞かれるのは全然恥ずかしくないもん。こんなに愛されてるんですよって、幸せを振りまいてるみたいで」
「向こうもそう思ってるんじゃないか?」
「わたしの声が聞かれるのはいいけどレイコちゃんの声を矢代さんが聞くのやなの」
「なんで?」
「だって‥‥すごい美人じゃないの‥‥若いし‥‥」
 矢代は笑った。ヒナは本当に馬鹿だが、本当に可愛い。言っている事は理不尽で、やっていることは頭のネジが一本抜けても、心根は純粋でまっすぐだ。
 腕を首に回し、下から抱き寄せた。

 こわばっていたヒナの体が、腕の中で柔らかくなっていく。
 いつもなら、それが十分も二十分も続くはずだったが、ヒナはすぐに唇を離し、
「今日はわたしが気持ちよくさせてあげるね。お茶ひいちゃったから元気だし」
 照れくさそうにつぶやいた。「お茶をひく」とは、ひとりも客がつかなかったという、ソープランドの業界用語だ。

「いいよ」
 矢代は首を横に振り、ヒナの黒髪を撫でた。
「いつも通りでいい。あれで充分だ。すごく感じるから‥‥」
「いいの、させて」
 ヒナはかまわず矢代のシャツのボタンを外していった。馬乗りになったまま、上半身をはだけさせてしまう。
「だって、エッチは…‥エッチだけはわたしのほうがきっと上手いし」
 剥き出しになった乳首を、指でいじりながらささやく。
「レイコよりか?」
「そうよ、あの子はきっとマグロだもん」
「ひでえな」
 矢代は笑った。
「それは勝手な妄想だ」
「そんなことないですぅ。絶対マグロだすぅ」
 ヒナが唇を歪めた憎たらしい顔で応戦する。
「根拠を示せ」
「だって‥‥」
 憎たらしく顔がくしゃっと歪んだ。
「あんなに美人だったら、女を磨くチャンスがないもの。みーんな、男の子がやってくれちゃって」
 眉根を寄せて呟くヒナは、いまにも泣き出してしまいそうだった。矢代はもう一度下から抱きしめた。
「おまえだって、けっこう可愛いよ」
「…‥嘘ばっかり」
 裸の胸で感じるヒナの顔は、熱く火照っていた。
「噓じゃないよ。レイコは美人だけど、おまえは可愛い。可愛いところがたくさんある」
黒髪を撫でてやると、
「…‥もっと言って」
 ヒナは甘えるように乳首に鼻をこすりつけてきた。
「もっと言ってくれたら‥‥お客さんには絶対にしない、ヒナスペシャルしてあげる」
「ハハハッ、それは楽しみだ」
 矢代はヒナの黒髪を撫でた。随分と長い間、撫でていた。情が湧いてしまいそうで怖かったが、優しくする事を止めることは出来なかった。

 矢代は奥の四畳半に布団を敷き、全裸の体を横たえた。服も下着も、すべてヒナによって脱がされてしまっていた。
 ヒナはいつものように蛍光灯を橙色の豆球に変えると、自分も服を脱いだ。ニットにミニスカート、ブラジャーまではずして、矢代の上に馬乗りになってくる。
 たわわなふくらみを見せていたが、珍しく下は穿いたままだった。

 ピンクとベージュの地味なショーツを股間にぴっちりと喰い込ませた姿が、やけに生々しい色香を漂わせていて、矢代はペニスに硬い芯ができていくのを感じた。
「…‥ぅんんんっ!」
 ヒナは上から唇を重ねてくる。チュッ、チュッ、と音をたてて何度か唇を吸ってから舌を差し出し、上唇と下唇、そしてその合わせ目を丁寧に舐めてくる。
 矢代は口を開いて、ヒナの舌を迎い入れた。
 吐息と吐息をぶつけあいながら、舌をからめあい、吸いあう。
 いつもの、矢代がヒナを横から抱き寄せ、顔を上にしてするキスとは何かが違った。
 ヒナの長い黒髪と、下に垂れているふたつの乳房が、体に触れるからだ。
 シルクの手触りをもつ長い黒髪は、ヒナが頭を振って首筋や頬にもキスをしはじめると、まるで生き物のようにうねうねとうねって素肌を愛撫してきた。豊満な双乳はピンク色の先端をいやらしく尖らせて、胸板やわき腹をかすっていく。どこまで計算されたテクニックなのかは分からないが、触る触わらないかのフェザータッチを、それも他ならぬ乳首でされると、言いようのない快感に身震いが起きた。

 首筋から胸元、そして乳首へと舌を這わせていくヒナの表情は真剣そのもので、いつもへらへらと馬鹿っぽい笑顔を浮かべている女と、同一人物とは思えなかった。
 眉根を寄せて、目を細めているときのほうがずっと顔立ちが端整に見えて、美人とさえ呼んでもいい。いちばん飛び切りの顔を情事のときしか披露できないのは、女として幸せなのか不幸なのか、わからないけど。

「ふふっ、勃ってきた」
 矢代の乳首が米粒状に突起してくると、ヒナは嬉しそうに目を細め、甘嚙みしてきた。歯の使い方が絶妙だった。硬い葉の感覚と躍る舌先のハーモニーがたまらなく心地いい。
「それがヒナスペシャルかよ?」
 矢代が身をよじりながら訊ねると、
「全然」
 ヒナはびっくりしたように眼を丸くして首を横に振ったが、
「こんなのは‥‥レギュラー…‥ですから‥‥」
 言葉は後ろにいくほど弱々しくなっていった。
 いつもならこの時間、店の客に施しているサーヴィスなのだ。
 そのことを指摘されたくないとばかりに、顔を伏せてひときわ熱心に舌を使ってきた。
 四つん這いの体をじりじり後ろに下げていきながら、脇腹やヘソのまわりや、そんなところに性感帯はないだろうというところまで舐めまわしてくる。不思議なことに、ヒナに舐められるとどんなところでも敏感になって、矢代は身をよじってしまう。

「ぅんんんっ‥‥ぅんんんっ…‥」
 ヒナは黒髪を揺らして舌と唇を使いながら、両脚で矢代の足を挟んできた。矢代の膝の下あたりに、ちょうど股間があたっている感じだ。女陰を包んでいるコットンの薄い生地が、熱く湿っているのが伝わってくる。
「なあ」
 矢代は興奮に息を弾ませながら訊ねた。
「どうしておまえ、今日に限ってパンツ穿いたままなの?」
「女の楽屋に興味を持たないでください」
 ヒナは下を向いたまま答えた。
「いいじゃないないか、教えてくれたって」
「…‥もうぉ」
 ヒナは顔を上げて憎々し気に唇を歪めた。
「自分で自分を焦らしているんですぅ。なかなかパンツを脱がないほうが、もどかしって興奮しちゃうから」
 言いながら、ショーツに包まれた股間を矢代の脛(すね)に擦りつけてくる。柔らかな女の肉を、大胆なほどぐりぐりと押しつける。
「へええ」
 矢代は感心した。たいしたものだと思った。百戦錬磨のソープ嬢は、男の性感のポイントだけではなく、自分の性感のポイントも熟知しているものらしい。攻め手に回っていても、ショーツを脱いだときはびしょ濡れ、というふうにしたいのだろ。感心すると同時にからかってやりたくもなったが、出来なかった。

 ヒナがいよいよ横向きの四つん這いになり、フェラチオをする体勢を整えたからだ。
 男根ははちきれんばかりにそそり勃ち、臍に向かって反り返っていた。
 けれどそれには触れず、まずは玉袋をやわやわと揉みしだいてきた。矢代の脚がVの字に開いていくと、敏感な内股にキスの雨を降らしてきた。それから、ピンク色の舌を差し出しだし、ねっとりと這わせた。ぬるぬるの生温かい舌が、内腿から膝のほうに這っていき、膝小僧まで舐め回される。ヒナの唾液の分泌量は普通ではなく、下半身があっという間に唾液にまみれていく。

 やがて舌は玉袋へ這ってきて裏筋を何度も舐め上げ、肛門にまで到達した。
 矢代はくすぐったさに身をよじった。
 くすぐったい上に、クンニリングスの皺(しわ)を舐めはじめると同時に、ヒナが男根の根元をそっと手指で包み込み、しごき出してきたからだ。
 肛門への刺激そのものはくすぐったくとも、同時にペニスをしごかれると、感覚が劇的に変化した。得体の知れない痛烈な快感が襲いかかってきて悶絶(もんぜつ)し、顔が火を噴きそうなほど熱くなっていく。

 つるつるした舌先をすぼまりにねじ込まれると、声をもらしてしまいそうになった。まだ軽くしごかれているだけの男根から熱い先走り液が吹きこぼれ、それが包皮に流れこんでニチャニチャと音がたつ。
 ヒナを見た。
 瞼が半分落ちたトロンとした眼を矢代の顔に一瞬向けてから、右手で摑んでいる肉芽に視線を移す。サクランボのような唇を半開きにして、ツツーッ、ツツーッ、と唾液を垂らしてくる。ごく微量にもかかわらず、とろみのある唾液が亀頭に垂らされる感触はこの世のものとは思えないほどいやらしく、矢代の腰はピクンピクンと跳ね上がった。

 ヒナが大きく唇を開いて亀頭を頬張っていく。はちきんばかりに膨張したものを、生温かい口内粘膜でぴったりと包み込んで、唇をスライドさせる。じゅるっ、じゅるるっといやらしい音をたてて、唾液ごとペニスを吸いついてくる。そうしつつ、口の中でねっちこく舌を躍らせる。 
「むむっ…‥おおおっ‥‥」
 矢代はモウ、口からダラシナイ声がモレルノヲ堪えられなかった。身をよじるタクナルホド、恥ずかしかった。いつもは馬鹿にしているヒナにいいように手玉を取られている自分が、情けなくもあった。
 しかし、そういった被虐的な感覚まで、ヒナの唇は包み込で快楽に変える。
 ぎゅうっと眼を瞑ると、目尻に熱い涙が滲んだ。

 思い起こせば初めて会ったソープランドの個室で、矢代はヒナを乱暴に犯した。そうしながら声を上げずに慟哭(どうこく)した。けれども、体を翻弄し、歓喜の涙を絞りとっていく。あまりの気持ちよさに、早くも射精の前兆がやってきそうだ。
「…‥っんあっ!」
 ヒナが唇からペニスを吐き出した。愛撫の手も止めたので、矢代は全身を弛緩(しかん)させてハアハアと呼吸だけを弾ませた。
「さ、さすがだな‥‥」
 フェラチオだけで射精寸前まで追い込こまれたことが照れくさくて、軽口を叩く。
「さすがヒナスペシャル‥‥たまんなかったよ‥‥」
 ヒナは答えずにショーツに手に掛けた。唇の片端だけで不敵に笑っていた。まだまだ全然、こんなのはスペシャルじゃありませんとでも言いたげに、艶光りする黒い草むらを露にすると、矢代の腰にまたがってきて両膝を立てた。
 騎乗位で繋がるのは初めてだった。

 ソープの時はバックだったし、一緒に住み始めてからは正常位ばかりだ。
 めくるめくプロのテクニックが待っていた。
 ヒナはいきなり結合しようとはせず、まず反り返ったペニスの裏側に女の割れ目をあてがって。ショーツを脱がなかった効果は充分にあったようで、ぬるりとした感触がペニスの裏側に襲い掛かってくる。ヒナはそのまま腰を前後に揺り動かした。ペニスのほうもフェラチオの唾液でぬるぬるの状態なので、よくすべる。股間の刺激にヒナの頬が引きつり、生々しいピンク色に上気していく。矢代の顔はもっと真っ赤に茹っている。

 ヒナが腰をひねり、ペニスの先を穴の部分に導いていった。
 そこからの展開が、また凄かった。ヒナは両脚を立てているので、アーモンドピンク色の花びらが亀頭に吸いついている様子が、矢代からはつぶさに窺える。ヒナは見せつけるようにして、股間をゆっくり上下させた。二枚の花びらがまるで唇のように動き、亀頭だけをチャプチャプと舐めしゃぶってくる。執拗なまでに、一分も二分もそれをつづける。獣じみた匂いのする発情のエキスがあふれ、血管の浮き立つ肉竿に蠟(ろう)のような跡を残して垂れ流れていく。
「むむむっ‥‥」
 矢代はいても立ってもいられなくなってきた。亀頭だけをぬるぬるした肉襞(ひだ)で刺激され、あまりの興奮に全身から脂汗が噴き出してくる。
「もう欲しい?」

 ささやくヒナの眼は、ほとんど瞼が落ちてしまいそうだった。ぎりぎりの薄眼の奥で、黒い瞳を怪しいほどねっとりと潤ませていた。
 矢代はうなずいた。何度も顎を引いて結合を求めると、
「わたしも‥‥」
 ヒナは長い睫毛をフルフルと震わせ、
「わたしも、矢代さんが欲しい」
 ゆっくりと腰を落としてきた。濡れまみれたアーモンドピンクの花びらで、いきり勃つ男根を咥え込んできた。根元まで吞み込むと立っていた両膝を前に倒し、矢代の腰を左右の太股でぎゅっと挟み込んだ。
「んんんんんーっー」
 ヒナは結合の衝撃にうめきながら、くびれた腰をグラインドさせだす。お互いの陰毛を絡み合わせるような、粘っこい動きだった。それがだんだんとテンポアップしてきて、股間を前後にしゃくるような動きになる。胸元で汗ばんだ双乳を弾ませながら、性器と性器をしたたかにこすり合わせる。

 矢代は下から手を伸ばして胸のふくらみを揉みしだいた。騎乗位で女に腰を使わせているとき、そんなことをするのが礼儀のように思えたからだが、すぐに手指はぞんざいな動きになっていった。ヒナの腰振りがあまりにも気持ちよくて、愛撫をすることなどどうでもよくなってしまったのだ。

「んんんっ‥‥んんんんっ…‥あああああーっー」
 汗ばんだ体をリズムに乗せ、時には自分のつくったリズムを壊しながら腰を振りてるヒナの姿は、ただいやらしいとしか言いようがなかった。本能などという安っぽい言葉をやすやすと超越してしまえるほど、男を奮い立たせる名人だった。盛(さか)るだけなら獣にでもできるけど、ヒナは人間にしかないエロスの領域で舞い踊る。
 たまらなかった。

 矢代はまるで、愉悦(ゆえつ)の大海原(おおうなばら)を航海しているような気分でヒナを見上げていた。そそり勃った男根はマストだった。そしてヒナは、風でいっぱい膨らんだ帆だ。大空に向かって両手を広げ。飛び交う淫(みだ)らな風を全身で受けとめて、そのエネルギーを余すことなくマストに伝えてくる。波を切って前進するのだと命じてくる。お互いが一体となって、甘い果実の実る新大陸を発見しようと誘いかけてくる。

 矢代は怒涛(どとう)の波を受けている事に耐えきれなくなり、ヒナを抱き寄せた。唇を重ねて、舌をからめた。少しペースダウンしてほしかったのだが、ヒナにその意志はないようだった。舌を吸い合いながらも、ヒップを弾ませて男根をしゃぶりたててきた。四つん這いに近い状態で矢代に覆いかぶさったことで、ヒップを弾ませるスペースができたのだ。

ヒナはそのスペースを絶妙に使い。女の割れ目で、ペニスの根元からカリまでを舐めるように出し入れさせた。一度半分以上抜かれてから、あらためて深々と結合されると、新鮮な快感に矢代の背中はきつく反り返った。

 ヒナの締まりは強まっていく一方だった。
 律動が続き、快感が高まるほどに食い締めが高まっていくのはいつものことだが、今日の締まりは尋常ではなかった。尋常ではなく密着して、一体感がすごい。
 矢代のほうもいつもより大きく膨張しているのかもしれなかった。
 ほとんど射精寸前のサイズになっているのだ。
 いや、実際に射精が近づいているのだ。

 ヒナのペースに翻弄されているせいで、いつもより早かった。恥ずかしかったけれど、先送りする余裕もなく、仰向けの五体が小刻みに震え出す。
「も、もうダメだっ…‥」
 矢代は震える声を絞り出し、下からきつくヒナを抱きしめた。
「もう出るっ…‥出るっ‥‥おおおおおーっ!」
 雄叫びにも似た声をあげて、煮えたぎった欲望のエキスを噴射した。

 ヒナは腰振りをやめなかった。もっと出してと言わんばかりに、したたかに性器を擦り合わせて男の精を搾り取った。いつもの倍近い回数の発作が起こっているのに、かかった時間は極端に短かった。頭の中が真っ白になっていて、最後の一滴を漏らし終えるころは、時間の感覚などなくなっていたが…‥。

 ヒナが結合を解き、腰からおりても、ほとんど呆然としていた。全身をピクピクと小刻みに痙攣させることしかできなかった。完全にノックアウトだ。このまま眠りにつけば朝まで深い眠りにつけるだろうと確信したが、それは叶わなかった。

 ヒナがペニスを口では咥えてきたからだ。
 お互いの分泌液でドロドロになったものを舐めしゃぶり、先端をチューッと強烈に吸いたてた。
「おおうっ!」
 矢代の腰は跳ね上がり、最後の一滴まで漏らし終えたと思っていた精が出た。絞り取られる感じだった。ほんの微量にもかかわらず、尿道を駆け下る瞬間、体の芯に稲妻が走り抜けるような衝動が訪れ、叫び声まであげてしまいそうだった。
「…‥ヒナスペシャル」

 ヒナは喜色満面で呟いた。ソフトクリームを頬張った少女のように、唇についた白濁液をペロリと舐めると、
「これはあれよ、好きな人しかしないんだから‥‥」
 悪戯っぽい上目遣いを向けてきたが、あまりに凄すぎて、矢代はもう、苦笑を返すことすらできなかった。
つづく 第四章 華やかな獲物