あなたは仕事で疲れているからって、ひと月もふた月も‥‥下手したら三ヶ月も指一本触れてこないことがあったじゃない? そんなときに抱かれれば、いいに決まってるでしょう? 女にだって性欲があるのよ。したくてしたくて堪らなくなるときだってあるのよ‥‥

 本表紙 草凪優 著

第六章 昔の女

矢代は夢を見ていた。
 実際の出来事をなぞった夢なので、飛躍も荒唐無稽(こうとうむけい)さもない。
 ずいぶん昔のことのように思えるけど、考えてみればまだ半年ほど前のことだ。
 妻を寝取られた。

 会社が大変なときで、三日ほど泊まり込んで、着替えを取りに自宅に帰ったときのことだ。午後の二時か三時だった。玄関に見慣れない自転車が停まっていた、鮮やかなスカイブルーのロードレーサー。妻の麻美が乗るようなものではない。
 嫌な予感がして、矢代は玄関に鍵を差し込むのをやめた。気配をたてずに、裏の駐車場に回っていった。

 矢代の家の駐車場は、全面がガラス窓になったリビングに面している。クルマの陰に身を隠して様子をうかがった。窓には白いレースのカーテンが引かれていたが、南向きなので眩しい午後の陽光が差し込んでいて、室内で蠢(うごめ)く人影を確認することができた。
 麻美がソファの上で四つん這いになっていた。
 全裸だった。剥き出しの乳房をあられもなく揺らし、豊満なヒップを高々と掲げて、男に後ろから突きまくられていた。
 矢代は呆然とした。
 とても現実のこととは思えなかった。
 麻美とは、前に勤めていた製薬会社で、職場恋愛から結婚に至った。
 結婚願望の強い女だった。お茶くみとコピーとりが主な仕事の一般職OLだったし、矢代と付き合い始めたころは三十路(みそじ)を間近に控えた二十九歳だったから、とくに焦っていたに違いない。若くて可愛らしい新入社員は毎年続々と入社してくるし、このままではお局様になってしまう――そんな心の声が聞こえて来るようだった。

 矢代は三十歳になったばかりで、すでに営業部で頭角を現わし、未来のエース、出世間違いなしと言われていたから、都合のいい結婚相手に見えたのだろう。彼女の方から積極的なアプローチを受けた。昼休みに弁当を渡されたり、社内の飲み会で隣の席から動かなかったり、それはあからさまに、
 嬉しいといえば嬉しかったし、鬱陶(うっとう)しいといえば鬱陶しかったが、タイミングは悪くなかった。
 矢代には夢があった。いずれは独立して自分の会社を興すつもりだった。麻美の期待に応えてプロポーズしたのだから、恋愛のゴールということはなかった。麻美をもっていたほうが社会的に信用されるはずだという打算がなかったと言えば嘘になる。
 とはいえ、いったん結婚したからには、男としての責任が発生することもよく分かっていた。

 世の不景気に抗(あらが)うように行った外資系ホテルでの豪華挙式も、南の島へのハネムーンも、結婚指輪のブランドまで、麻美の望むままにしてやった。結婚三年目には世田谷のはずれに一戸建てを購入した。麻美は満足そうだった。

 矢代も満足だった。麻美は特別な美人ではなかったが、きちんとしていたからだ。社内のOLのなかで、それだけは一番だった。何事に対しても折り目正しいところがあり、料理も掃除も洗濯も、家事は完璧にこなした。玄関にはいつだって綺麗な花が生けてあった。矢代はそれが「女らしさ」に感じられた。一生を添い遂げてもらうことに、不満も不安もあるはずがなかった。

 それが‥‥。
 亭主が外で働いている間に、男を家に引っ張り込むとはどういうことだろうか? 女らしさには貞操観念がセットになっている筈で、夫を裏切ることなど許されないことではないか?
 思い当たる節がないではなかった。
 矢代が脱サラをして独立して以来、家計は逼迫(ひっぱく)していくばかりだった。最初は「軌道に乗るまで少しだけ我慢してくれ」という矢代の言葉を信じ、笑顔を絶やさなかった麻美だったが、二年経っても三年経ってもいっこうに生活が楽になる気配がなく、それどころかパートに出て欲しいと懇願するに至り、不機嫌な顔を隠さなくなった。家事は手抜きになり、玄関に花は飾られなくなった。

 それも仕方ながないと、矢代は思っていた。女らしい彼女に求める人生の伴侶は男らしい男であり、彼女が考える男らしさは金を稼いでくることだった。間違った考えではないだろう。矢代にしても彼女を満足させられるだけの金を稼ぎたかった、そのために身を粉にして働いた。それでも、上手くいかないときしは上手くいかないものだ。会社の業績はいつまで経っても頭打ちで、好転する兆しはなかった。

 四つん這いの麻美を後ろから突き上げていたのは、若い男だった。
 あとで分かったことだが、パート先のスーパーマーケットの社員で、妻よりもひと回り以上年下だという。背が高く、筋肉質な体つきで、精力も有り余っているようだった。
麻美のくびれた腰を両手でがっちりとつかみ、連打をいつまでも止めない。息継ぎをする暇も惜しいとばかりに、妻の豊満な尻を打ち立てる。

 肉と肉がぶつかり合う音が。ぴったりと閉められた窓の向こうから聞こえてくるようだった。獣の牝と化した妻の悲鳴が、窓ガラスを震わせていた。やがて、連打を浴び続けた麻美は、濡れた紅唇をひろげて叫び声をあげた。口の動きで、なにを言っているかわかった。「イク」と叫んでいた。オルガズスに達したことを伝えている妻を、若い男はさらに突いた。乳房を揉みしだき、汗ばんだ背筋を舐めまわし、尻肉に指を喰い込ませながら怒涛の勢いで腰を動かした。

 麻美はめちゃくちゃになっていった。四つん這いの肢体を生々しいピンク色に染めあげ、生汗を光り輝かせながら、どこまで淫らに乱れていた。濡れた紅唇が「またイクッ、またイッちゃう」と叫んでいた。矢代はこれほど本能を剥き出しにした妻の姿をみたことがなかった、折り目正しい麻美はベッドでもどちらかといえばおとなしいほうで、みずからの欲望を示すことに恥らうタイプだった。

 それが若い男に後ろから突きまくられて半狂乱だった。ソファを爪で掻き毟(むし)り、閉じることのできなくなった唇から涎(よだれ)さえ垂らし、肉の悦びを貪っていた。まるで矢代の妻として生きてきた時間が虚偽だったのだと暴くように‥‥

「…‥ねえ、大丈夫? ねえ、矢代さんってば」
 ヒナに体を揺すられて、矢代は眼を覚ました。飴色に煤けたアパートの天井が、呆然とした意識を現実に引き戻してくれる。
「凄いうなされてたよ。どんな夢見ていたわけ?」
「あっ、いや‥‥別に‥‥」
 矢代は首を振った。全身にびっしょり汗をかいていた。額に浮かんだ脂汗が頬を伝わって顎まで流れてきたほどだ。

 寝取られた妻の夢は、最近は毎日のように見ていた。毎日見て毎日うなされている。けれどもそれは、おそらく麻美に対する未練だけが理由ではなかった。
「じゃあ、わたしは行ってくるね。お金、テーブルに置いといたから」
「ああ、ありがとう‥‥」
 矢代は横着にも、布団の中から見送った。外はすっかり冬の気配なのに、ヒナは相変わらずミニスカートを穿いて若作りに余念がない。とはいえ、秋に素足にミュールを履いていたときより寒々しく見えなかった。タイツとブーツとコートで防寒対策は万全だ。

 二日働いて一日休むというソープランドの勤務シフトは変えてしまった。可能な限り毎日出勤して、休みなく働いている。「なるべく早く借金返したいから、頑張ることにした」と言っていたが、おそらくそれは嘘だろう。休みの日、一日中矢代と顔を合わせるのを拒んでいるのだ。休みの日の日課であった性交を遠ざけたいのだ。

 ヒナが出勤シフトを変えたのは約ひと月前、大倉やレイコとともに行った温泉旅行から帰ってからだった。表面的には何食わぬ顔をしているけれど、あの肉欲に爛(ただ)れた4Pが彼女をしたたかに傷つけてしまったことは間違いない。

 ヒナのことを布団の中から見送ったのは、横着だけが理由ではなかった。
 矢代は痛いくらい勃起していた。
 久しくヒナを抱いていないせいか、いま見た夢のせいかわからない。しかし、息苦しくなるほど硬くなり、射精を求めて熱い脈動を刻んでいる。

 妻が寝取られた現場を目撃したとき、矢代は家に踏み込まなかった、踵を返して会社に戻った。
 三人いた従業員はすでに社を去っていた。がらんとしたオフィスにひとりでいても仕事など手に着かず、神聖な職場で性器をさらして自慰に耽った。
 夫婦の営みでは決して見せなかった麻美の本性を瞼の裏に思い浮かべては、硬くなるのをやめてくれない男根をしごき抜いた。窓の外は暗くなり、深い漆黒の時を経て再び白々と明るくなりだしてもまだやっていた。

 射精というものは回を重ねるごとに放出量が少なくなっていくが、噴射時の衝撃は強まっていくものだと初めて知った、勃起したペニスの表面がひりひりし、肉は漲る力が失われていく。それに抗い、自慰をしているだけとは思えないほど呼吸を荒げ、絞り出すようにして最後の射精を遂げたときは、オルガスムスに達した女のようにソファの上でビクンビクンと体が跳ね上がった。
 滑稽(こっけい)の極みだった。
 惨めで惨めでやりきれなかった。
 妻に対する憎悪や、寝取られた若い男に対する殺意がなかったわけではない。抑えきれない破壊衝動が自殺という言葉を生まれて初めてリアルに感じさせたのもこの頃だったけれど、できることは自慰だけだった。精を噴射する忘我の瞬間だけが、この世に残された救いだった。風が吹けば勃起してしまった少年時代でさえ行わなかった回数を行ない、人間性をかなぐり捨ててひとりであえぎ続けた。
 そしていまも‥‥。
 布団の中で痛いくらいに勃起している男根をつかむと、温泉宿でのヒナの姿が瞼の裏に蘇ってくる。大倉の男根に股間を貫かれて悶え泣いていたヒナは、やがて正気を失うほど肉欲に溺れ、自ら大倉にしがみついていった。「いいっ! いいっ!」と叫びながら腰を押し付け、激しいばかりに絶頂に達した。

 自分以外の男にも股を開く女は、男を打ちのめす。自分以外の男と寝てもエクスタシーに達するのだという事実に、立ち上がれなくなりそうになる。矢代にしてもあさましく勃起させたペニスをレイコの中に突っ込んでいながら、ヒナの口から迸(ほとばし)るオルガスムスの悲鳴に胸を掻き毟られた。

「あいつは…あいつは元々そういう女じゃないか‥‥ソープ嬢じゃないか‥‥」
 矢代は独りごちて立ち上がった。ヒナが大倉にしがみついてゆき果てていく姿を思い出して自慰に耽れば、ひどい気分になることはわかりきっていた。とても耐えられそうになく、散歩にでも出る事にして服を着けた。

 年の瀬も近いのに、駅前の商店街は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
 店先で眼につく「歳末大売り出し」の安っぽい貼り紙や、装飾が塵芥(ちりあくた)にしかみえないクリスマスツリーが物哀しい。時折耳に届くクリスマスソングさえ、飴色に煮染めたようなこの商店街で聞くと、かえって寒い気分にさせられた。マフラーをしていない首を撫で斬るように吹き抜けていく冷たい北風だけが、ここではリアルだ。

 駅に出た。
 カンカンカンカンカン、と踏切の鳴らす鐘の音がやけにうるさく耳に届いた。続いて電車がホームにすべりこんでくると、矢代は駆け出して切符を買った。どこかに用事がある訳ではなかった。けれども何となく、いや、何かに追い立てられるように切実な気分で、電車に乗り込んでみたのだった。

 あてもなく電車を乗り継いだ。
 いつの間にか皇居の反対側、西東京方面にいた。そちらのほうが昔から馴染んだ土地だから、当たり前かもしれない。昔通勤に使っていた路線に乗ると、心臓の早鐘がとまらなくなった。ふと思いたってある駅を目指した。都心からさして離れていないが、多摩川を渡るので住所は神奈川県になる。
 そこに麻美が住んでいる筈だった。一度も訪ねた事はないし、詳しい連絡先は携帯電話と共に捨ててしまったが、住所だけはしっかり覚えていた。地名と番地が覚えやすかったせいもあるが、いずれ彼女を迎えにいこうと思っている矢代にとって、心の支えのようなものだったからだ。

 住所の場所にあったのは、お菓子の家のような白い建物だった。
 アパートより高級感があるから、ハイツとでも呼べばいいのか。二階建てで、部屋数も似たようなものだが、ヒナのアパートとは絹と木綿ほどの違いがあった。背の高いビルの見当たらない住宅地なので、冬の午後の柔らかい陽射しが建物全体を繭(まゆ)のように包み、平穏や秩序ある暮らしや身の丈にあった小さな幸せや、いまの矢代が失ってしまったものばかりが詰まっているようだった。部屋のドアに飾られたクリスマス用のリースも、ここならきちんと幸福の象徴に見えた。

 麻美の部屋は、旧姓の表札がかかっていたのですぐに分かった。
 ドアの前で五分ほど逡巡(しゅんじゅん)したが、呼び鈴は押せなかった。
 一緒に住んでいる男が出て来るかも知れない、と思ったからだ。自宅のリビングで妻を四つん這いに這わせて後ろから突き上げていた若い男。二度と顔を見たくなかった。しかし、いまは平日の昼間。仕事に出ている筈だかに大丈夫ではないか――思考は堂々巡りを繰り返し、やがて部屋の前でぼっと突っ立っていると不審に思われるかもしれないと不安になり、その場を離れて近所を歩き回った。

 たとえ麻美ひとり部屋にいたとしても、会ってなにを話していいのかわからなかった。それでも切実に会いたいのは、やり直したい気持ちを伝えたかったからでも、裏切ったことをなじりたかったらでもない。会えば良くも悪くも感情が動くだろう、と思ったからだ。怒りでも嘆きでも屈辱だって構わない。暗色の閉塞(へいそく)感だけに塗りつぶされた今の生活から抜け出すための、きっかけが欲しかった。

 それでも結局、呼び鈴を押す勇気は最後までわいて来なかった。
 寒空の下にもかかわらずジャンバーの下は汗びっしょりにして住宅地を一時間近く徘徊(はいかい)と、ただ疲れただけだった。毎日大酒を食らってゴロゴロしているばかりなので、体力がめっきり落ちてしまったらしい。
 なにもかも面倒臭くなっていた、駅に向かおうとした。

 角を曲がってきた女と、ぶつかりそうになった。
 麻美だった。
 かつて夫婦だった女が、驚愕に眼を見開いて立ちすくんでいた。
「どうしたの? こんなところで‥‥」
「あ、いや…‥」
 矢代は顔を引きつらしながら、まじまじと麻美を見つめてしまった。
 別れた時は背中まであった長い髪がバッサリと切られ、耳を出すベィリショートになっていた。髪型だけではない。ひらひらしたスカートが好きで、フェミニンな装いを好むタイプだったはずなのに、コーデュロイのパンツにショートブーツ、白いセーターのスエードのブルゾンという、マニッシュなスタイルをしていた。ほんの半年ほど会わなかっただけで、雰囲気が凛々(りり)しく様変わりしていた。
「わたしのとこに来たの?」
「そうじゃないよ」
 矢代は苦笑交じりに首を振った。
「偶然さ。いや、驚いた。このあたりに住んでいたんだな‥‥」
「住所教えたじゃない? すぐそこのアパート」
「…‥そうか。元気でやっているか?」
「‥‥まあね」
 麻美は曖昧に笑う。白けた空気が行き交い、しばらくお互いに口を開けなかった。
「よかったら、お茶でも飲んでいく? わたし、今日はもう何もないから」
「いや、その‥‥お邪魔じゃないなら」
 驚き戸惑いながらも誘いを受けてしまったのは、断る方が不自然な気がしたからだ。

 憎しみの対象である自分を捨てた女と、道端で立ち話をし、お茶に招かれる展開が、不思議でならなかったけれど、いきなり罵る気にもなれない。
 別れ修羅場を経験しなかったせいだろう。
 麻美に離婚してほしいと切り出されとき、矢代はすでに抜け殻だった。他の男とのまぐわいを目撃し、そのことを責めることもできないまま、毎日毎日狂ったように自慰に耽って、身も心も疲れ果てていた。実は付き合っている若い男がいると告白されても、会社が大変なときだから慰謝料も財産分与もいらないと恩情をかけられても、なんの反応もできず、差し出された離婚届に黙って判を押した。

 外から見るとお菓子の家さながらに見えた白いハイツは、中に入るとインテリショップのようだった。
 1DKか2DKか、それほど広い部屋ではなかったが、テーブルも椅子もソファも、食器棚に並んだカップやグラスに至るまで、センスのいいアンティークふうで、住人のこだわりが強く感じられた。矢代と生活していたときの物はなにひとつなかったけれど、行き届いた掃除と出窓に飾られた一輪挿しが、かつてのことを思い出させた。とにかく家のことだけは、きちんとやる女だった。
「駅前に小さな商店街があったでしょう?」
 麻美は対面式のキッチンに立ち、ハーブティーをカップに注いでいる。

「あそこでね、リサイクルショップをやっているの。家具とか食器とか、ネットオークションやフリーマーケットなんかで安く買い集めてね。この町、新婚さんが多いから、けっこう需要があるのよ」

 歌うように話す声を聞きながら、矢代は所在なくテーブルの席についていた。独り暮らしなのか、男と一緒に住んでいるのか? にわかには判断できない。
「やっているって…‥経営してるのか? そのリサイクルショップを」
「そう。友達と共同でね。開業資金もろくになかったんだけど、いろんな人に助けてもらって…どうぞ」
 麻美はハーブティーを矢代の前に運んでくると、テーブルに相対して腰かけた。
「はああ、そういう事をするようには見えなかったけどな」

 OL時代の彼女は「夢はお嫁さん」という月並みなタイプで、結婚してからは「幸せな妻」を演じることに余念がなかった。
「わたしもね、自分で自分にびっくりしてる」
 麻美は鼻の頭に皺を寄せて笑った。
「人間、変われば変わるものよ。いまは仕事が生き甲斐って、胸を張って言えるもの」
「そうか…‥」
 矢代は苦笑して眼をそむけた。
 このところ、ソープ嬢やキャバ嬢といった、世間からいささかはみ出してしまった女とばかり接してきたせいだろうか。麻美の真っ当さが、まぶしかった。自立した大人の女という雰囲気にも気圧(けお)される思いだった。
「あの若い男とは、一緒に住んでいるのか? ここで‥‥」
 肝心な質問を投げかける。
「アキノブくん?」
「ああ」
「ううん」
 麻美はバツの悪そうな顔で首を振り、
「彼とはとっくに別れた。結婚しようってしつこいから…‥わたし、結婚はしばらくいいって思ってたし‥‥」
 遠い目でハーブティーを啜った。
 ずいぶんあっさり言ってくれる、と矢代は憮然とした。心に風穴が空き、そこからドロドロした熱い感情が流れ出しいくようだった。すでにふたりは別れてしまったということは、寝取られた女を寝取り返すことが、永久に果たせなくなるということだ。
「なんかね‥‥」
 麻美は続けた。
「彼には悪いけど、彼と付き合っていたのは、あなたと別れる方便が欲しかったからかもしれない。って最近になって思う。あのころ、あなたは仕事にかかりっきりで、わたしのことなんか見向きもしてくれなかったから‥‥こんなはずじゃなかったって、どうして自分だけが不幸になるのって、わたし、ひとりでものすごく足掻(あが)いてて…‥」
「…‥悪かったよ」
「いいのよ。わたしだって力になってあげられなくて申し訳なかったって、後悔してるんだから‥‥別れたときだってバタバタしてて…‥わたし、ひどい女だったね‥‥本当にごめんなさい‥‥」

 息をつめてみつめられ、矢代は困惑した。
 麻美から伝わってきたのは、妙に艶めかしい感情だった。未練というほど確固としたものではなかったし、同情や憐憫(れんび)だって混じっているに違いなかったが、元妻の瞳にはたしかに好意の残滓(ざんし)が感じられた。
 感情が複雑に揺れる。

 結婚していながら他の男に走った事に対する憤りは、いまでも心の奥底にしっかりとこびりついていて、永遠に消え去ることはないだろう。だが麻美は、その男すらさっさと捨てた。寝取られた女を寝取り返すチャンスさえなくなってしまったことに対する、言いようのない無力感がこみ上げてくる。
 ふいにむらむらした。

 凛々しく変貌した彼女に、耐え難いほどの欲情を覚えてしまった。
「ねえ、あなた‥‥」
 麻美が顔をのぞきこんでくる。
「なんだか、顔色あんまりよくないね? ちゃんと栄養あるものを食べている? これから夕食つくるから、よかったら一緒に‥‥」
 矢代はガタンと音を立てて立ち上がり、麻美のほうに回り込んだ。
「えっ? なに‥‥」
 と驚いて眼を丸くしている元妻の腕を取って立ち上がらせ、奥の部屋に向かった。部屋のほとんどをベッドが占領していた、東南アジアふうのデザインで、籐(とう)でできたクイーンサイズのベッドだった。
 麻美を押し倒し、覆いかぶさった。白いセーターに包まれた胸が、存在感を誇るように隆起している。
「何をするの?」
 下から睨みつけくる麻美の眼は、怒りに縁取られていた」
「わたしはこういうつもりで部屋にあげたんじゃないだけどな」
「俺だって、こういうつもりで上がり込んだわけではないさ‥‥」

 矢代は上から睨み返した。麻美には、専業主婦をしていたころの、男に保護されていたときには感じなかった色香があった。もっとはっきり言えば、「仕事に生き甲斐を感じる」などと珠勝なむ言葉の裏側に、恋もセックスも自由に楽しんでいるような雰囲気が透けて見えた。
「じゃあ、どいてよ」
 麻美は吐き捨てるように言った。
「それとも自分を捨てた女に未練があるのかな? やり直したいとでも思っているの? あんなにあっさり離婚届けに判を押したくせに」

 あっさり判を押されたことで逆にプイラドが傷つけられたとでも言いたげに、挑むような眼を向けてくる。
「俺はおまえに貸しがあるんだ」
 矢代は低く声を絞った。
「離婚届にあっさり判を押したのは‥‥見ちまったからだ。おまえがあの男と‥‥アキノブとうちのリビングで盛(さか)ってるところを…‥」
 麻美の瞳が凍りついた。
「着替えを取りに会社から帰って来たときだよ。真っ昼間だった。玄関に見慣れない自転車が置かれてて、おかしいと思って駐車場のほうから庭にまわりこんだんだ。そうしたらおまえが‥‥おまえが四つん這いになってアキノブに後ろから…‥」
 白いセーターを捲り上げると、
「いやっ・・‥」
 麻美は悲鳴をあげたが、声も抵抗も弱々しかった。自宅での情事をみつかったことが、よほどショックだったらしい。
 矢代はかまわず首もとまでセーターを捲り上げ。ブラジャーを露わにした。昔から、下着には贅沢をする女だった。高級感に満ちたモスグリーンのサテンのカップに、白いレースで飾られたブラを着けていた。
「おまえはまるで牝犬みたいだったよ‥‥」
 矢代は囁きながら、ブラの上から双乳を揉みしだいた。ブラ越しにも、熟れた女体の柔らかな乳肉の感触が手のひらに伝わってきた。
「若い男に後ろからガンガン突かれて、牝犬みたいによがっていた。分かるか? そんなとみころを見せつけられた、俺の気持ちが‥‥」
「見せつけたわけじゃ‥‥ない‥‥」
 麻美は顔をくしゃくしゃにして言った。
「見せつけるのと同じなんだよっ! 俺が建てた家でセックスしてるんだからっ!」
 矢代は怒声をあげてブラジャーを捲り上げた。あずき色にくすんだ乳首ごと、胸のふくらみを揉みくちゃにした。
「くぅううっ! や、やめてっ‥‥許してっ…‥」
「許せないよ‥‥」
 矢代の声は震えていた。憤怒ではなく、興奮に震えているのだった。麻美と愛し合っていた日々が、走馬灯のように頭の中を流れていく。打算交じりの結婚だったけれど、この女を愛していないわけじゃなかった。結婚式で誓ったように、生涯の伴侶であることを疑ったこともない。純白のウエディングドレスに身を包んだ彼女は眩しいほどに美しく、婚前交渉があったにもかかわらず新婚初夜は朝まで彼女を求め続けた。
「謝れ」
「くぅうううっ!」
「いやっ! 見ないでッ! 見ないでえええっ‥‥」
 麻美が恥辱で身をよじる。寝室は明るかった。遮光カーテンは窓枠のところでとめられていて、白いレースのカーテン越しに午後の陽光が降り注いできている。
「どうしたのよ、あなた‥‥」
 麻美はハアハアと息を弾ませながら、縋(すが)るような眼を向けてきた。
「したいんだったら、させてあげてもいいけど‥‥でも、するんだったら。もう少しやさしく‥‥」

 矢代は全身の血が沸騰していくのを感じた。
 プライドがしたたかに傷つけられた。たしかに獣欲で昂ぶりきっていたが、ただセックスがしたいわけではない。溜まったものを吐き出せば、それでおとなしくなる若いだけの男とは、訳が違うのだ。

 矢代は麻美の両脚からナイロン製のソックスを脱がした。生脚を撫でるためではなかった。ソックスを使って麻美を後ろ手に縛り上げて抵抗の術を奪い、うるさい口には下肢から脱がしたショーツをねじ込んだ。

 そうしておいて剥き出しになった股間に顔を近づけた。
 牝の淫臭がむっと漂ってきて、鼻先で揺らぐ、麻美の匂いは磯の香りが強かった。懐かしさを覚えながら、クンニリングスを施した。夫婦の閨(ねや)で何度なく行った愛撫だったが、矢代の舌使いはかつてとは違うはずだった。ソープ嬢のヒモとしての技量が宿り、長々と行える執拗さも身に着けていた。
「ぅんぐっ! ぐぐぐっ‥‥」
 剥き身のクリトリスを舌先で転がすほどに、麻美はショーツをねじ込まれた口から悶え声を上げた。顔も首筋も、ベィリショートの髪から出された耳まで生々しいピンク色に上気させて、よがりによがった。

 わけもなく絶頂に導くことができそうだった。しかし矢代は、麻美がオルガスムスを欲しがって体を海老反らせるたびに、意地悪く愛撫の焦点をずらした。クリトリスから花びらや粘膜へ。時にはアヌスや蟻の門渡りへ。濡れすぎた唇をぶるぶると震わえている内腿で拭いながら、性感帯への刺激をいっさい辞める事もあった。

 そうしつつ、再びクリトリスを責めた。吸ったり噛んだり、蜜壺に指を入れて裏表から刺激したり、急激に高みに追い詰めては、恍惚が見えるか見えないかのところで焦らし抜いた。やがて、麻美の口からショーツが吐き出された。

 それでも口を閉じることができず、あうあうと獣じみた声をもらすことしかできない。白いセーターからまろび出た双乳を揺れ弾ませ、大胆に開かれた太腿をひきつらせては震わせて、生殺し地獄に悶絶するばかりだ。
「ねえ‥‥ねえ、あなた‥‥」
 三十分もそんなことを続けてると、麻美はいまにも泣き出しそうな顔で哀願を始めた。
「と、途中で止めないで‥‥意地悪しないで‥‥」
「だったらさっきの質問に答えろよ」
 矢代は不敵な笑みで答えた。
「そんなによかったのか? 
アキノブとのセックスは?」
「…‥よかったわよ」
 麻美ははっきりと眼を細めて、挑むように言った。
「あなたは仕事で疲れているからって、ひと月もふた月も‥‥下手したら三ヶ月も指一本触れてこないことがあったじゃない? そんなときに抱かれれば、いいに決まってるでしょう? 女にだって性欲があるのよ。したくてしたくて堪らなくなるときだってあるのよ‥‥」

 麻美の自分の性欲について、そこまで赤裸々な言葉を口にしたのは初めてだった。
「だからって浮気していいのか?」 矢代はツンツンに尖り切ったクリトリスを、指でくるくると刺激した。
「若い男を連れ込んで、牝犬みたいによがっていいと思っているのか?」
「くぅうううっ‥‥くぅううううっ‥‥」
 麻美の眉間の皺をどこまでも深めてむせび泣いた。股間の刺激に翻弄されて唇が震え、言葉を継ぐことができない。
「そ。そうだけど‥‥」
「俺がセックスできないくらい仕事をしていたのは誰のためだ? おまえに何不自由ない暮らしをさせるためだろう? それなのに、おまえってやつは‥‥」
 麻美はついにわっと声を上げて泣き出した。
「そうだけど、我慢できなかったのよ‥‥相手なんて誰でもよかったの‥‥したくてしたくてしようがなかったのよ‥‥そうよ、わたしはいやらしい女よ。軽蔑すればいい。牝犬だって馬鹿にしたっていい。でも、我慢できなかったの‥‥どうしようもなかったのおおおおっ‥‥」
 嗚咽まじりに言葉を最後は、ほとんど慟哭(どうこく)と呼んでよかった。けれどもそれは、懺悔(ざんげ)による慟哭ではなかった。もっと強い刺激が欲しいと、股間を上下にくいくいっと動かしながら声を上げていた。昔の話はどうでもいいから、いま眼のまえにある恍惚が欲しいと、身をよじってねだっていた。
「いまはどうなんだ?」
 矢代はクリトリスから指を遠ざけ、浅瀬をぬぶぬぶと窺(うかが)った。
「そんなにしたくてしようがないなら、なんでアキノブと別れたんだ? 他に男がいるからか?」
「ああっ、そうよ‥‥」
 麻美は欲情のあまり、大粒の涙を流しながら言葉を継ぐ。
「若い男の子と、年上と、ふたり‥‥ごめんなさい‥‥わたしね、淫乱だったみたいなの‥‥自分でも驚いてるの‥‥あなたと結婚したときはそんなこと全然思ってなかった‥‥若い頃はもっとそうだった。男の人がしたがるから、しかたなく付き合ってるみたいな‥‥でもね‥‥、三十代も終わりに近づいて、若い男の子と付き合うようになって、行為そのものがどうしようもなく大好き…‥」

 矢代は麻美から体を離した。牡の本能が燃えていた。麻美が性欲を処理するために付き合っている男たちを凌駕(りょうが)するような、凄まじい絶頂に導いてやろうと思った。
「‥‥いくぞ」
 M字に開いた麻美の両脚の間に、猛り勃つ男根をあてがった。涎じみた発情のエキスでぐしょ濡れになった女の割れ目に、ずぶり入っていった。
「んんんんーっー」
 麻美が背中を弓なりに反らせる。後ろ手に縛られた不自由な体をしきりによじって、結合の歓喜に打ち震える。
 矢代は麻美の両膝をつかんで腰を動かした。
 かつて馴染んだ女のものとは思えない、新鮮な結合感がした。きっと、いま付き合っている男に馴染んでいるのだろう。そう思うと牡の本能はますます激しく燃え狂って、腰の動きに力がみなぎっていく。はちきれんばかりに勃起した男根を抜き差しし、凶暴に張り出したカリのくびれで内側のひだを掻き毟っていく。

「あああっ、嫌々いやっ‥‥いいわあっ‥‥」
 クンニリングスでさんざん焦らし抜いたせいか、みずから淫乱だと言ってのけるほど性感が熟しているせいかわからない。麻美は恍惚への急勾配を呆れるほどの速さで駆け上がっていった。矢代がそれでも律動のピッチを落とさないと、二度、三度、と立て続けにオルガスムスに達し、くしゃくしゃに顔を歪めてよがり泣いた。

 矢代は歯を食いしばって麻美の肉をむさぼった。
 全身が紅蓮の炎に包まれたように欲情しつつも、哀しくてしかたなかった。
 理由はふたつある。
 麻美としたセックスで、これほど気持ちよかったのは初めてだった。吸い付くような密着感も、ひとこすりごとに訪れる痺れるような快美感も、凄まじいばかりだった。麻美も同様らしく、時折眼を開けて見つめて来る表情が切羽詰まっている。またイッてしまいそうだと、眼顔で訴えてくる。

 夫婦のうちになぜ、これほどまでの熱い営みができなかったのだろう? 過ぎ去った時間の遠さが哀しくて、やりきれなくなる。
 そして、別れの必然が、もうひとつの理由だった。

「おうおうっ‥‥出るぞっでるぞっ‥‥おおおおおううううっー」
 雄叫びとともに煮えたぎった欲望のエキスを噴射した瞬間、はっきりとわかった。寝取られた女を寝取り返すなんて、なんと愚かな考えだったのだろう。そんなことでプライドを取り返せるわけがない。麻美が若い男と浮気をし、離婚を決意した時に、ふたりの人生は別々の道に分かれてしまったのだ。覆水盆に返らず、いいか悪いか、善か悪かではなく、二度と交わらない未来だけがふたりにとって真実なのだ。

「ああっ、イクッ! またイッちゃううううううーっ!」
 麻美は射精の衝撃で我を失い、釣りあげられたばかりの魚のように体を跳ねさせた。体の肉という肉を躍らせて、淫らな痙攣がとまらなくなった。ペニスを喰い締めてくるヴァギナの力が痛切すぎて、矢代の眼尻には歓喜の熱い涙が浮かんだ。
 たまらなかった。

 彼女はもう、かつての妻ではなかった。
 セックスが好きであることを認め、それをファーストプライオリティにして生きていく、自立した大人の女――-それが麻美だ。物のように奪ったり奪い返したりすることが許さない、自由な存在なのだ。

 男の保護など必要としない女の生き方は、それはそれで尊重されるべきものであろう。けれども、そんな女は男を熱くさせない。どんなことをしてでも手に入れてやろうと。男を奮い立たせることがない。
 少なくとも自分はそうだと、矢代は思った。

 以前よりはるかに抱き心地のよくなった女体にどくどくと白濁液を注ぎ込みながら、けれども快感以上に、別れの哀しさを痛切に嚙みしめなければならなかった。
 セックスを終えると、シャワーも浴びずにアパートを出た。
 麻美も引き留めてこなかった。かつてなく燃えあがった情事が、ふたりの距離の遠さだけを浮き彫りにしたと考えたのは、矢代だけではなかったらしい。

 河原の街に戻った。
 師走の冷たい風が吹く夕暮れの時の商店街を、早足で歩いていく。
 下着代わりのTシャツが、汗びっしょりで気持ちが悪かった。早くアパートに戻って洗面用具を取り、銭湯に行ってさっぱりしたい。
 だが、途中で大倉とばったり顔を合わせてしまった。
 温泉の一件以来、気まずい関係になっていた。人としてやってはいけないことをやり、見せてはいけないものを見せあったのだから、それも仕方ないだろう。大倉は、ヒナを抱いてしまったことも、矢代にレイコを抱かせたことも、酷く後悔しているようだった。顔を合わせてもまともに話しかけることもなくなり、日課のようだった銭湯への誘いも途絶えていた。
「やあ‥‥」
「どうも‥‥」
 お互いに眼をそむけたまま挨拶する。大倉にヒナを抱かせ、レイコを抱いてしまったことを後悔しているのは、矢代も同じだった。言葉を交わすことなく別れようとしたが、
「あの…‥いま時間ありますか?」
 大倉が言ってきた。
「ちょっと話があるんで、付き合ってくれません?」
「話?」

 矢代は苦々しく顔を歪めた。一刻も早く麻美とのセックスでかい汗を流したかったが、大倉は珍しく真剣な面持ちで、断りずらい雰囲気だった。
「僕が払いますから」
 大倉にうながされ、赤提灯の縄暖簾をくぐった。開店直後だったので他の客の姿はなく、カウンターの中の板前も仕込み作業に追われていた。
 瓶ビールをお互いのグラスに注ぎ合いも気のない乾杯をした。グラスがチンとぶつかっても、お互いの視線はぶつからない。
「話って言うのは、その‥‥」

 ビールをひと口呷(あお)った大倉は、横顔を向けたまま言った。
「実は、年が明けたら引っ越そうと思いまして。田舎に帰る友達が居て、そいつが敷金残してぃってくれるというから‥‥」
「‥‥そうか」
 矢代は力なく頷いた。
「だから、その‥‥引っ越したら、矢代さんと会うこともなくなるって言うか‥‥」
「もっとはっきり言えばいいじゃないか」
 矢代はグラスのビールを飲み干し、手酌でビールを注いだ。
「俺の顔が見たくないから引っ越すんだろう? わかるさ、それくらい」
「‥‥まいったな」
 大倉は泣き笑いのような顔で苦笑し、
「ぶっちゃけ、そうなんですけど‥‥いやね、矢代さんが悪いってわけじゃないんですよ。ペットフードの商売で、誘ってくれたときは嬉しかったし、またチャンスがあれは一緒になんかやりたいってマジで思ってたし‥‥でも‥‥」
 大倉は言葉を切ったが、矢代には心の声が届いた。温泉での4Pはやりすぎだった、と。もちろん、矢代にも異論はない。
「気を遣ってもらうことはないさ。俺も正直、キミの顔を見るのがつらかったし‥‥」
「…‥すいません」
「謝る事はないって」
 矢代はグラスを持ち上げ、
「別れの盃にしよう。俺だって、いつまであのボロアパートにいるか分からんが‥‥」
 もう一度、チンとグラスを合わせた。乾いた物悲しい音が、胸の奥まで染み込んできた。麻美に大倉、今日は別れがまとめてやってくる。
「やっぱり、あそこから出ていきますか?」
 大倉がビールを呷ってつぶやく。

「ヒナちゃん、いい子なんだけど‥‥やっぱりね‥‥」
「なんだよ?」
「いや、その…‥最後だから言っちゃいますけど、俺。けっこう心配してたんですよ。矢代さん、ヒナちゃんと世帯もつなんて言っていたし‥‥」

 矢代は突き出しの貝の煮物を口に運んだ。味が分からないほど、しよっぱかった。
「やめといたほうがいいと思いますよ。前から思ってましたけど、ソナちゃん、マジで危ない女ですから。矢代さんがあのアパートに来たときも、大家さんが『また男引っ張りこんで』なんて言っていたし。ヒモがいなきゃ生きていけない、セックス依存症かなんかですよ。ソープ嬢なんてやっているくらいだから、病的な男好きなのはしょうがないのかもしれないけど‥‥」

 大倉がうかがうような上目遣いを向けて来たので、
「なんだよ?」
 矢代は先を急がした。
「言いたいことがあるなら、この際全部言ってくれ」
「…‥怒りません?」
「ああ」
「実はその‥‥俺も前に誘われたことあるんですよ。矢代さんが来る前ですけど。俺、あのアパートに入る前はレイコと別々に住んでいたから、先に引っ越してきたんです。ひと月料理のお裾分けにやってきて、『わたしの部屋でお酒飲まない?』とか‥‥ヒナちゃん、可愛い顔して妙な色気を出すから、俺はドキドキしちゃつて。レイコと一緒に住む予定がなかったら、確実にやってましたよ…‥」

 ありそうな話だと思いながら、矢代は聞いていた。
 ただ病的な男好き、というのはなんだか違うような気がした。セックスが好きで好きでしようがないと告白した麻美のような熟女と、ヒナは違う。病的な寂しがり屋、とでも言った方がしっくりくる。

「それにね‥‥俺、レイコと喧嘩したとき、一回だけヒナちゃんが働いているソープに行ったことがあって‥‥あ、ヒナちゃんに付いたんじゃないですよ。でも、そのときの女の子が、けっこう口汚くヒナちゃんの悪口言ってて‥‥いやあ、店じゃ、すこぶる評判が悪いみたいですね。男だけじゃなくて、金にも相当だらしないって‥‥」
「もういいよ」

 矢代は立ち上がり、千円札を一枚カウンターに置いて赤提灯を後にした。
 大倉の気持ちもわからないではなかった。ヒナを抱いてしまった後悔を、悪口を言うことで晴らそうとしているのだろう。
 だが、矢代にとっては聞くに耐えない話だった。
 アパートに戻った。
 ビールを飲んだせいで、銭湯に行く気力が削れた。
 かといって眠るためには酔いが足りず、買い置きの酒も見つからなかった。汗まみれのTシャツを着替えると、落ち着かない気分だけが残った。
 ふと思いついてチェストの中を漁ってみた。
 一万円札が三枚出てきた。ヒナのへそくりだ。
 それを握りしめてソープランドに向かった。麻美の中に精を吐き出したあとだったので、欲情を持て余していたわけではない。ヒナのソープでの評判がすこぶる悪いという話が、どうにも気になったからだった。

 鳥の巣のようなパンチパーマをした黒服は、女の子の写真を三枚見せてくれた。その中にヒナの写真はなかった。つまりいまはサーヴィス中だ。複雑な思いに駆られながら、適当な女を指名した。

 三十代後半の、マミコという女だった。
 ソープ嬢にしては年増の部類に入るだろう。それでも、柔和な笑顔とグラマーなボディをした、悪くない女だった。
 裸になって体を洗ってもらった。
 洗い方はヒナよりこなれていた、年季を感じさせた。
「お客さん、よく遊びにくるの? 真面目そうに見えるのにね」
「いやあ、たまにですよ」
「外寒いもんねえ、人肌恋しくなっちゃったのかな?」

 当たり障りない会話を交わしながら陰部を洗われるのは、二度目でも慣れなかった。湯に浸かるとようやく人心地がつけた。マミコも一緒に湯船に入ってこようとしたが丁寧に断り、マットプレイの誘いも固辞した。

 ペニスを隅々までいじられても、欲情はこみ上げなかった。
 マミコのせいではなく、ヒナについて話を切り出そうかということで頭がいっぱいで、勃起すらしていない。
 風呂に上がっても溜息ばかりついて、女体に指一本触れないと、マミコもさすがに気分を害したらしく、
「タバコ吸っていい?」
 柔和な笑みをつくるのをやめ、露骨に剣を浮かべた。
「あ、どうぞ」
 矢代はベッドテーブルに置かれていた灰皿を渡した。密室での接客中にタバコを吸うなんて褒められたものではないが、ソープランドに来てサーヴィスを受けようとしないこちらに落ち度がある。タバコくらいいくら吸ってもかまわない。
「もう少し、若い子が良かったかしら?」
 マミコが紫煙を吐き出し、遠い目でつぶやく。
「いや、そういうわけじゃ…‥」
「あのね。ソープ嬢なんて熟女のほうがいいものよ。酸いも甘いも嚙み分けたほうが、濃厚なサーヴィスが受けられて」
「だから、別にあなたに不満があるわけじゃないんです。急にそんな気分じゃなくなったというか、なんていうか‥‥」

 失敗した、と矢代は胸底で舌打ちした。あまり険悪なムードになってしまっては、聞きたいことも聞き出せない。機嫌を直してもらう話題はないか、いっそ抱いてしまった方がまだマシかと考えを巡らせていると、隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえてきた。

「ああ、いいっー イッちゃうっー そんなことしたらイッちゃうううううーっ!」
 矢代ははじかれたように壁を振り返った。
「…‥ハハッ、相変わらず頑張ってるわねえ」
 マミコは紫煙を吐き出しながら呆れ顔で笑った。
「隣、若い子なんだけど、ギャーギャー喚いてうるさいったら。なんていうかしら、ちょっとオツムが足りない子でね、あんまりうるさいから『そんなに毎回イクわけないだろう』って嫌味言ったら、『わたし、きちんと毎回イケるように頑張ってます』なんて胸張って答えるわけ」

「へええ、そりゃあ立派な心掛けだ‥‥」
 答える矢代の声は震えていた。隣から聞こえる声に聞き覚えがあったからだ。
「立派なんかじゃない」
 矢代が話に喰いついてきたと思ったのだろう。マミコは得意げな顔で話を続けた。
「うちら一日中客とらなきゃならないだから、流すところは流さないと体が持たないの。わたしもこの仕事長いけど、たまにいるんだ。ああいう子。一生懸命サービスして、夢中になって抱かれて、そのうちわけわかなくなっちゃって…‥」
「わけわからなく?」
「好きになっちゃうのよ、お客さんのこと」

 マミコは侮蔑に底光りする瞳で吐き捨てた。
「でも、ソープ嬢が客のことを好きになったってうまくいくわけないじゃない? 貢(みつ)ぐだけ貢がされて飽きたらポイよ。よせばいいのにお店経由で高利貸しに借りたりするから、年中ピーピー言ってて、もう四、五年やってるかしらね。やればやるほど金がなくなっていくだから、笑っちゃうわよ。『もうすこし利口に生きられないの』なんてたまに説教してやるんだけど。『わたし馬鹿でから』ってヘラヘラしているばかりで‥‥」
「はぁうううっー はぁううううっー イッちゃうっー 続けてイッちゃううううっ‥‥はぁうおおおおおーっ」

 隣から聞こえる悲鳴が歓喜に歪み、獣じみてくる。
「…‥一本もらっていいかな?」
 矢代がタバコに眼をやると、
「あら、ごめんなさい。気が利かないで」
 マミコは一本取って火をつけてくれた。二十代の終わりに、苦労してやめたタバコだった。久しぶりに吸い込むと咳きこんで、口の中に不快な苦みがひろがった。立ち昇る紫煙が眼入って、涙が止まらなくなった。
 つづく 第七章 エロスの化身