まるっきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる
本表紙

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サラバ! 上 西加奈子

第一章 猟奇的な姉と、僕の少年時代
第二章 第二章 エジプト、カイロ、ザマレク
第三章
第四章
だ五章
第六章
第三章 サトラコヲモンサマ誕生日

サラバ!下 西加奈子第四章 圷家の、あるいは今橋家の、完全なる崩壊

第五章 残酷な未来

第六章「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」
第一章猟奇的な姉と、僕の少年時代
 1
 僕はこの世界に、左足から登場した。
 母の体外にそっと左足を突き出して、ついおずおずと、右足を出したそうだ。
 両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていのだろう。医師が、僕の腹をしっかり摑んでから初めて、安心したように全身を現したのだそうだ。それから、ひくひくと体を震わせ、皆が心配する頃になってやっと、僕は泣き出したのだった。
 とても僕らしい。登場の仕方だと思う。

 まるっきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる。そして、その停止をやっと解き、背中を押してくれるのは、諦めである。自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかないのだから、という諦念は、生まれ落ちた瞬間の、「もう生まれてしまった」という事実と、穏やかに、でも確実に繋がっているように思う。

 僕の後の人生を暗示したかのようなその出産は、日本から遠く離れた国、イランで起こった。首都、テヘランの郊外にある、イラン・メール・ホスタピタルという病院で、僕は産声を上げたのだ。

 母は、全身に麻酔をかけられていたから、その瞬間のことは、まったく、覚えていないそうだ。僕は逆子だったから、そのような処置を施したのだった。近代的なその病院では、出産は自然の為されごとというよりは、手術が必要な軽度の病気と同程度、というような認識があった。全身麻酔での出産は、だから、そう不自然なことではなかったらしい。

 実際、母が分免室に入ったときも、医師は、マスクをし、髪の毛を隠し、手袋をした両の掌を顔の高さまであげる。というあの、「映画やドラマを見る手術シーン」の仕草をしながら、部屋に入ってきたのだそうだ。

「麻酔をします、ということと、2時間で産ませてあげる、て言うてはったことは、覚えているねんけど、あとのことは、なーんも、覚えていないんよね」
 そう言った母は、イランの公用語であるペルシャ語も、英語も、まったく話すことができない。左足を突き出し、続いて右足を、という出産の一部始終も、母が後に医師から聞いたそうで、だから本当はどうだったのか、定かではない。だが、知る筈もない言葉が分かる、どういう回路なのかは説明できないが、何かすごく伝わってくる感覚は、僕の身にも覚えがあるから、僕は母を信じる事にしている。

 赴任先のイランで、母の妊娠が疑われたとき、父は母を日本か、医療技術の進んでいるドイツで出産させようと思っていた。だが、初めての検診から戻った母き、父にイランで産みたい、と訴えた。検診を担当した医師が、素晴らしい人だったから、というのだ。

 医師の名は、オストバール氏という。氏の写真が残っていないのが残念だが、母に言わせると、恰幅(かっぷく)が良く、優しい目をしていて、一見して。信頼に値する人物だと、分かるらしかった。
 母の人生は、ほとんどこのような直感によって成り立っていた。特に、人物評価に関して、それは顕著だった。

 例えば、テレビに出ている人を見る際に、母はその人がどのような肩書きの人間かを知る前に、ほとんど直感で「好き」「嫌い」を決めてしまっていた。そういった決断をする人間は、他にもいるだろうが、母の場合、その直感を、後々変えることが一度もなかったし、よしんばその人の行い知ったところで、全く揺るがないという強さがあった。最初に嫌いと思った人間は、一億円の寄付をしていたって、子猫をたくさん保護していたって、ずっと「嫌い」だったし、最初に好きと思った人間は、脱税をしていたって、赤ん坊の前で煙草を吸っていたって、ずっと「好き」なのだった。

 僕の名前である「歩」を決めたのも、母だった。テヘランで妊娠が分かった瞬間、母は生まれてくる子供が男の子だと決めていた。そして名前は「歩」だと。直感通り男の子あれば「あゆむ」もし女の子だったら「あゆみ」に替えられるフレキシブルな名前であるが、いかせん「圷(あくつ)」という1文字の苗字に対して「歩」という1文字だ。それも、どちらも「あ」で始まる。もう少し考えてみても良かったのではないかと思うが、母のこと、直感を覆すはずもなかった。僕が生まれる前から「圷歩」だったのだ。

 父の赴任先であるイランを決定したのも、母の直感だった。当時父は、会社から、メキシコかイランのどちらがいいか決断を迫られていたらしい。考えあぐねた父が母に尋ねたところ、母は即座に「イラン」と、答えたそうである。
「なんか、すごい素敵な場所に思えたんだよね」

 もちろんその後、母のその気持ちが揺らぐことはなかったし、後に、このイラン赴任を後悔したことも、一度もなかった。それどころか、家族にとって輝かしい幸福の一時期として、いつまでも記憶の棚に陳列していた。
 ただひとり父に対してだけは、その信念は貫けなかったようである。母の直感の「好き」は、とうとう覆され、ふたりは後に別れる事になったのだ。
 だが、僕がこの世界に登場したとき、ふたりはまだ、別れていなかった。それどころか、深く愛し合っていた。

 イラン・メヘール・ホスピタルの前で、僕を抱いた母と、その肩を抱いた父の写真は、当時4歳だった僕の姉によって撮影されたので、大きく歪み、ボケている。だが、後の僕たちをわずかに赤面させてしまうほどの幸福感に、満ちている。
 1977年、5月のことだ。

 母は、出産直後だというのに、太ももが露になった短いワンピース、その鮮やかな緑と同じ色のスカーフを頭に巻いている。そして驚くことに、ヒールのある、白い靴を履いている。

 イラン・メヘール・ホスピタルは、いわゆる金持ちのための病院だった。徒歩でやって来る人間など、ほとんどいなかった。すぐに車に乗る母がそんな靴を履いていたことを、だから、誰も責めなかったのだろう。

 だが、僕がそもそも逆子になったのは、僕を妊娠中、街を歩いていて母が二度転び、そして、就寝中に三度寝返りを打ったということが原因のひとつだった可能性もあるのだから、少しは注意する気になってもおかしくないのではないだろうか。ピンボケしているので、はっきりと確認できないが、母は唇を真っ赤に塗っているようだったし、つまり彼女は、母になっても自分のスタイルを変えないタイプの人間だったのだ。短いスカートを穿きたいと思えば穿いたし、それに合うヒールの靴を、ぺたんこの靴に履き替えることもなかった。

 隣に立っている父は、茶色の背広を着て、髪の毛を、ぴたりと後ろに撫でつけている。薄い色の付いたサングラスをかけて、白くて尖った靴を履いている様子は、なるほど母の夫、という感じだ。

 母の身長は、164センチあり、ヒールを履くと。もっと高くなった。奥二重で黒目がちの目、少しだけ上を向いた鼻、ぽってりして丸い印象の唇。オバケのQ太郎に出てくる、妹のP子みたいな顔だなと、僕は思っているのだが、すべてが小作りで、挙句背が高いので、美人に見られる。特に、本人曰く、ヨーロッパ旅行したときの人気は高かったそうだ。日本では地味だと思われる顔立ちが、そちらの人間にとっては「エキゾチックで可憐」なものに、なるのだろう。

 母は僕を27歳で産んだ。なので、そんなに若い、という訳ではなかった。だが、僕の友人たちは、度々母の事を綺麗だと言ったし、綺麗とは言わないまでも、若いとは絶対に言うのだった。
 父は、身長が183センチもあった。僕が覚えている限り、ずっと瘦せていた。とにかく何か美味しいそうに食べるということをしない男で、目の前に出されたものを、ボソボソと口に入れていた。という印象がある。そのくせ、山に登ったり、泳いだり。体を動かすことが好きだったので、まったく太らなかった。

 ナイフですっと切ったような細い目と、頑丈な鼻、薄いが大きな唇。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さに溢れた顔だと僕はおもうのだが、やはり、オストバール氏の写真が残っていないので、比べる事が出来ない。
 父は母より、8つ上だった。母が短大卒業後に入った、カメラのメーカーで、ふたりは出会った。当時、母、今橋奈緒子(いまばしなおこ)は21歳、父、圷憲太郎(あくつけんたろう)は29歳。

 母に、当時の父の印象を訊くと、「背の高い人」と答えた。父に同じことを訊くと、「顔が小さい人」と答えた。劇的な出会い、というわけではなかったようだ。だが、とにかくふたりは何らかの形で恋人同士になり、結婚した。今橋奈緒子は、圷奈緒子になったのである。

 結婚写真のふたりは、息子の僕から見てもため息をつくような美男美女ぶりである。すらりと背の高い父は、少しなで肩気味だが勇ましく、白無垢を着た母は、地味な顔立ちがここぞと際立ち、ちょん、と赤く塗られた唇が、なるほど可憐な人だった。

 結婚が決まってすぐ、母は会社を辞め、父も転職した。転職先は、石油系の会社だった。カメラとは大きな違いだが、ある程度の学歴があれば、大企業にだって転職が出来る時代だった。父は国立の四大を出ていたし、カメラ会社も名の知れたところだった。右肩上がりの経済、終身雇用、年功序列、そんな世界において、父はほとんど無傷で過ごしていられた。

 父は、転職早々、海外勤務を希望した。だが、英語があまり話せなかったため、しばらく国内勤務を余儀なくされた。英語の勉強をし、ある程度社内で実績を積んでから、ようやく念願の海外勤務が決まったのは、3年後だった。それがイランだ。
 その3年の間に、姉が生まれた。
 僕の家を、のちに様々なやり方でかき回すのがこの姉、貴子(たかこ)なのだが、生まれた瞬間から、もうすでに、その片鱗は現れていた。母の腹から、予定より2週間も早く生まれたがり、母が病院に就く前から、タクシーの中ですでに産道を通っていた。病院に駆け込んだ時には、頭が少し見えていたらしいのだが、姉はこのときなって、急に外に出たくなかったらしいく、その状態のまま、なんと2時間も踏ん張っていたらしい。

 僕が生まれたイラン・メヘール・ホスピタルでは、そんなことは間違いなくあり得なかったことだろう。オストバール氏が姉の頭をひんづかみ、早々に引きずり出していたに違いない。だが、当時、自然分娩に拘っていた母が選んだその病院では、赤ん坊の意思を尊重していた。おかげで母は、本人曰く死ぬほどの苦しみを味わったそうである。

 世界に対して示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。姉は産道ですでに、世界の不穏な気配を察していたのではあるまいか。そして生まれ落ちる前から、もう怒っていたのだ。怒りのような積極的な感情がなければ、2時間も踏ん張っていられはしないだろう。

 長じて、姉の態度には、どこか喧嘩腰の雰囲気があった。それは姉流の、身を護る術だったのかもしれないが、そもそもこの出産時の母との関係に、端を発しているように思う。母は何度も、
「はよ出てこいや!」
 そう、怒りに任せて叫んだと言うのだ。チンピラが喧嘩の際に使う、
「表に出ろ!」
 と同じ熱量で。もちろん母は、出てきた姉と喧嘩をする気などさらさらなかったが、産道にいた姉は、その言葉を母流の「表に出ろ!」であると受け取ったのではないだろうか。
 母の言い分はこうだ。
「出産はしんどいよ、さら覚悟してたよ。でも産道でずっと踏ん張るんやったら、なんで2週間も早く出てこようとしたんよ。嫌だったら、まだそこにずっとおったら良かったやんか」

 早く出たがったのは姉の生来の好奇心や、じっとしていられない性格から来るものだと、僕には理解できる。そして、急に出るのが嫌になったことも、姉の気まぐれな性格を知る身としては、納得がいく。だが、確かにそんな気まぐれで、産道に長いこと居座られ続けたら堪らない。僕には産道がないから、想像できても。「肛門まで下りてきながらもなかなか出てこないうんこ」程度のことだが、それでもやはり、やり切れないのは理解できる。
「ここまで来といて、何故出ない?」

 ようやく生まれ落ちた瞬間から、姉は激怒していた。
 赤ん坊の鳴き声というよりは、母猫が怒ったときに発するような叫び声をあげ、看護師に一発蹴りを喰らわせたというのだから、さすがである。そのおかげで看護師は、舌の先端を、ほんの少しだけ、噛み切ってしまった。噛み切られた舌は、姉と共に零(こぼ)れ落ちた体液や血にまみれ、二度と見つからなかった。

 姉は、長らく産道にとどまっていたせいで青黒い肌をし、頭も蚕豆(そらまめ)のような形になっていた。その姿で怒りの雄叫びをあげ、看護師の顎を蹴り上げる娘を見た母の第一声は、
「もっと可愛いくなるんやんな?」
 感動的な体面、という訳には、いかなかったようだ。姉はきっと、その言葉にも、激怒したに違いない。
 そんな経験から、母が拘っていた自然な分娩にあっさり別れを告げ、僕を妊娠した時は、麻酔上等、帝王切開も辞さない、という態度になっていた。

「母親って、お腹を痛めて産んだ子を愛するって言うけど、私はそうじゃないと思うわ。お腹を痛めれば痛めるほど。苦しめば苦しむほど、その痛みや苦しみを、子供で取り返そうとすんのよ。分かる? あんたはいいわよ、麻酔してなーんにも分からない間に、するっと生まれていたんだから、何も取り戻す必要ないの。ほらあんたって全然期待されていないじゃない? でも私は、覚えていないから迷惑な話なんだけど、だいぶあの人を苦しめたわけでしょ、だからあの人は、私から何か取り戻したいのよ。あんなに苦しんだから、せめて可愛い子であってほしい、とか、優秀であってほしい、とか。ご希望に添えなくて、申し訳ないけどね」

 姉が母の事を話すときには、ずっとこんな風だった。
 小さなころ、姉は母の事を、「ママ」と呼んでいたはずだった。だが、長じてからは、僕には「あの人」、本人に話しかけるときは、「あの」とか「ねぇ」とか、とにかく、決して「お母さん」に類する呼び名では呼ばなかった。

 姉のオリジナルティが発揮されるのは、呼び方だけではなかった。
 僕ら家族は、長らく大阪に住んでいた。家族内で会話するときは、皆自然に関西弁を使っていた。だが、姉だけは、前述のように標準語を話し、関西弁になるのを、頑(かたく)なに拒んだ。関西弁が嫌いなわけではない。標準語が飛び交う日本人学校では、僕たちも使わないようなオールドスタイルな関西弁で話したし、日本に帰国後は、なんと英語を交えた日本語を話すという暴挙に出た。

 とにかく姉の「かまってほしい」という気持ちの表れであり、それを遡れば、生まれる瞬間から母親にがっかりされていた。という過去にいきつくかもしれなかった。だが、人間の性格や言動を、すべて過去の出来事と繋げてしまうカウンセリング的な
考えは、僕は好きではない。姉はきっと、愛され慈しまれながら生まれてきても、きっと姉だったのだ。
 姉は、容姿に少し問題があった。
 あの両親から生まれてきた割に、可愛い、とは言えなかったのだ。目は母の黒目がちの目ではなく、父の切れ長の方だった。輪郭は、母の可憐なものではなく、父の逞しいそれを引き継いだ。唯一ふたりの長所を継いだのは身長だった。骨が父に似たのか、ごつごつとした筋っぽい体型は、のちに「ご神木」とあだ名をつけられるに至った。

 そんな女子生徒は、姉の他にもいた。「ゴリラ」と呼ばれる子だっていたし、「幽霊」と呼ばれる子だって、もっとシンプルに「ズス」と呼ばれる子だって。その子たちはきっと、各々で切実に傷ついていただろう。だが姉の場合は、その容姿にプラスして、「お母さんはあんなに綺麗なのに」という、いらぬオプションがついた。
 姉のような繊細な人間は、はっきりと伝えられなくても、例えば、
「お父さんに似たのね」
 という一言で傷ついたろうし、よしんば言葉にされなくても、母を見た後に自分を見る視線それだけで、その含意に気づくはずだ。その結果、いわゆる思春期に入るずっと前から、姉はその視線や自らの境遇に、姉なりに抵抗を試みるようになった。

「可愛い」と言われそうなこと、「女らしい」にまつわることを、徹底的に避けるのだ。
 女性として褒められる母と、真逆の自分であろうとしたのである。
 まず、母が買ってきた可愛い服には、絶対に手をつけなかった。代わりに、父の古びたジャケットを着たり(当然サイズが大きすぎる。姉はそれを着るとき、フランケンシュタインみたいに見えた)、ジーンズを切って穿いたりしていた(ぶかぶかのウエストは、どこかで見付けたロープで縛った)。

 母にとって姉は、得体の知れない、手に負えない子供だった。出産のときから。そして母は母で、例の「もっと可愛いなるやんな?」発言を、すんなり撤回するような人間ではなかった。母は姉に、もっと可愛くなってもらいたかったのだし、その願望を、姉の前でも隠さなかった。

 父は姉を溺愛していた。だが、いくら姉のことを「可愛い」と言ったところで、姉にとって父は「母が選んだ男」だった。姉も父を愛していたが、誰より愛した父その人が、結局女として優れている母を選んだ事実には、どうしたって耐えられなかったのだ。

 だから我々圷(あくつ)家では、「母VS姉、そして、その間をオロオロと揺れ動く父」という図式が、盤石な態勢で、長きに渡って顕在していた。いささかヒステリーの気がある母をなだめ、一方で無茶苦茶なことをする姉を認めてやり、父はきっと、疲弊していたに違いない。愛ゆえに耐えられることはたくさんあるが、その愛に忍耐が追いつかなくなることだった、それ以上にある。だから後年、父が我が家から離脱したとき、どこかほっとしたような表情を見せていた事を、責めることは出来ないし、残された男である僕が「あいつ、逃げやがった」と思ったのも、仕方のないことだった。

 僕は、姉と母の対立には、徹底して静観を貫いていた。
 申し訳ないが僕は、母の持つ長所を丸ごと引き受けていた。小さい顔、くるっとつぶらな目、長い首に、すべらかな肌。身長が高いのは姉と似ていたが、姉のようにごつごつした体ではなく、僕の体にはしなやかさがあった。つまりとても、女っぽかった。それが嫌で、僕もいずれ、姉と同じように「女らしさ」を捨て去る努力をするようになるのだが、それは後述べする。

 僕が母に似ていることを、姉は絶対に気に喰わなかったろうし、父が去ってからは、母にとって僕は「自分を捨てた男と同性の人間」であった。つまり僕が、少しでもどちらかに傾くと、もう片方からいわれもない攻撃を喰らう危険が、大いにあった。

 僕は家の中で、なるべく大人しく、目立たないように努めた。この顔だ、ちょっと愛想をみせればたちまち愛されてしまう。愛ゆえの嫉妬や妬みには、僕にとっては煩わしいもの以外の何ものでもなかった。

 母から姉の愚痴を聞いても、姉から母への憎悪を聞いても、いう事と言えば、「大変やなぁ」というようなつまらない感想までで、あとはほとんど無言で頷いているか、ふたりが僕の薄い反応に飽き飽きしてどこかに行くまで、ぼんやりしているかだった。母は僕のことを「何考えているか分からん」と言ったし、姉は僕のことを「自分の意見のない男だ」と言った。上等である。

 だがその当時、4歳の姉と、0歳の僕は、そのような未来を、まだ知るよしもなかった。姉にはすでに、変わり者の片鱗が大いに見られていたが、そのときはまだ、母のことを「ママ」と呼ぶ可愛らしさがあったし、母の選んだ服を着る健気さもあった。例えばレモンイエローのタフタスカートや、フリルのたっぷりついたパールホワイトのワンピースなどである。似合っていたとは言い難いが、幼い少女には、無垢な心でどんな邪念も吹き飛ばしてしまう強さがある。姉は可愛かった。僕はそう思いたい。

 母は母なりに、精一杯姉を愛していたし、父に関していうと、姉と、そして新しく生まれた僕を、ほとんど舐め回すように愛していた。
 日本から遠く離れたイランで、僕たち4人は、とても幸福な家族だったのだ。


 2
 さて、イラン・メール・ホスタピタルから、初めての帰路に着く僕である。
 乗っているのはバーガンディ色のベンツ、運転手付きという待遇だ。運転手の名はエブラヒム、もじゃもじゃと大きな頭をして、顔中に髭(ひげ)を生やした痩せた男だ。オストバール氏と同様、エブラヒムのことは僕は覚えていないのだが、氏と違って、エブラヒムは写真が残っている。これぞ中東の男、といういかめしい顔をして、姉を膝に抱いている。冬だ。姉は唐辛子のような真っ赤なセーターと、グレーのフラノのスカート、茶のタイツは膝のあたりで皺(しわ)が寄っている。自分の右手を手首まですっぽり口に入れているところなど、さすがであ。姉はこの写真の後。盛大にゲロを吐いたらしい。

 エブラヒムの年齢は分からないが、おそらく若かった。どうしてそう曖昧な情報しかないのかというと、父が、エブラヒムともうひとりいたメイドを、前任者から引き継いだからだ。前任者が雇っていた運転者やメイドを、素性や年齢すら知らないまま引き継ぐことは、駐在員の間では、おかしな事ではなかった。それだけ信頼していたのだと言えば聞こえはいいが、仕事さえしてくれれば素性などどうでもいい、というのが、大抵の人の意見なのではあるまいか。

 日本人は、メイドを使うことや、運転手を雇うことに、そもそも慣れていない。だから、彼らを引き継ぐ際、日本では当然ともいえることを見落としてしまう。新たに面接をし直したりしないし、住んでいる所や家族構成、年齢すら訊かない。日本では考えらないことだろう。だが、「海外に住む」、挙句「運転手を雇う」、「メイドを雇う」という非日常が、通常の判断を狂わせてしまうのだ。旅行に行った海外で、日本なら決して許せなかったことが簡単に許せてしまうことがあるが、それと似ている。その土地のやり方に任せる、というよりは、どうしていいのかが分からないのだ。

 その「分からなさ」は、彼らへの接し方にも現れる。結果的にざっくりとふたつに大別されるが、ひとつは雇い主なのだから、必要以上に尊大になり、彼らを見下すタイプ。もうひとつは、彼らに気を遣い、下手に出てしまうタイプである。

 僕と父は、明らかに後者のタイプたった。このタイプは、人を使うということに、いつまでたっても慣れない。曲りなりにも父はサラリーマンなのだから、上の立場、というものを経験しているはずである。だが、同じ社に属している部下と、自分が雇っている人間には、大きな隔たりがある。部下を使っているのは自分ではなく、結局は会社なのであって、自分は部下に教えているだけなのだ。

 問題は、教えているという感覚ではなく、使っている感覚にある。父が主に使うのは運転手のエブラヒムだったが、彼は、地理的なことや、ドライブテクニックなどに関して、父よりも上手だった。自分より上手い人間を使うという感覚に、父はいつまでも馴染めなかったようだ。しかも父は、「ひとり駐在」だった。

イランに駐在している企業は数社あったが、大抵は大企業、と呼ばれる企業で、駐在員も、各社最低3家族ほどいた。だが父の会社の駐在員は父だけ、誰かに教えを乞う事もできず、父はなんでもひとりで決めなくてはならなかった。そんな父にとってエブラヒムは、仕事の事はどうであれ、少なくとも自分よりイランを知っている人間として、尊敬し、頼らざるを得ない存在だった。恐らく父よりも年下のエブラヒムを、父はだから敬い、運転手してもらうときも、後部座席ではなく助手席に座った。

 そんな父を、他の会社の人間は笑っていたそうだ。だが、父の気持ちが、僕にはとてもよく分かる。後に家族はエジプトのカイロに行くことになるのだが、メイドや運転手に対して、僕は必要以上に感謝を表し、他人に見せるのとは違う「いい子っぽさ」を演出した。それは、助手席に座る父のやり方を踏襲したものだった。とにかく僕らは、いつまでも卑屈な雇い主だったのだ。

 もっとも自然に彼女らに接していたのは母である。テヘランのときも、カイロのときも、彼女らに対して母は、頼るべきところは便り、だが、駄目なことは駄目ときっぱりと駄目、と言った。その接し方があまりに自然なので、母には昔からメイドがいたのではないかと思うほどだったが、母の実家は貧窮していて、メイドに類するものなど雇えたものではなかった。

 おそらく、母の生来の素直な性格が、そうさせたのだろう。人に必要以上におもねったり、斜め構えて接することが、母にはなかった。真っ直ぐな、と形容される性格そのもので、だから実際はあまり男には人気がなかったのではないだろうか。僕自身、自分の母だからという以上に、母に色気のようなものを感じたことは全くなかった。色気、というのは、ある程度秘密めいたものや、得体の知れなさから生まれるものだ。

 得体の知れなさでいえば、トップクラスの姉であるが、残念ながら得体の知れなさの度合いが強すぎて、色気など知ったこっちゃなかった。姉は何を置いても、「ちょうどいい」という具合を知らなかった。メイドに接する時も、その複雑怪奇さで彼女らを困惑させた。

 後に付きまとっては、日本人のメイドをすることをどう思うか、しつこく訊いていたかと思えば、部屋からまったく出てこなくなり、出てきた後は、急な人見知りを発動させた。とにかく安定して人と接するこということが出来ない人なので、大抵の人は姉を「そういう人」というカッコの中に入れてしまい、それ以上関わろうとしなかった。それがまた姉の飢餓感に火をつけ、わけのわからない行動に走って人の気を惹こうとさせる、という悪循環になった。

 イランでのメイド、バツールに対しても、姉の「私を見て!」欲求は際限がなかった。バツールはバツールなりに、姉を愛してくれていたようだったが、やはり姉の複雑さに音を上げることもしばしばだった。

 だからなのか、それとも、イランで生を受けたことに特別な思いを持っていたのか、バツールは、病院から戻ってきた僕を溺愛した。

 母が産気づいたときから、バツールは台所で何枚も目玉焼きを焼いたらしい。それは、「するっと生まれるように」という、バツール流のおまじないだった。フライパンをするりと滑りながら皿に着地する、何枚もの目玉焼きを見て、姉は、
「あんたは生まれる前からもう愛されてるって思った。」
 と言った。
「あたしと違ってね。」
 という一言も、忘れなかった。
 イラン・メール・ホスタピタルは、近代的な病院である、ということは前述した。それゆえなのか、姉の同行は禁じられていた、小さな子供は菌をたくさん持っている、という理屈だ。なので姉は、母が父と一緒に病院に行った後も、バツールとふたり、家に残されていた。

 必死で祈るバツールの気を惹きたかったのか、僕が生まれる前から愛されているのが気に喰わなかったのか、それともも一番タチの悪い、ただの好奇心からか、姉はバツールが焼いた目玉焼きを一枚一枚床に並べて、その上をそっと歩いてみるという暴挙に出た。それを発見したバツールは激怒して、姉をバスルームに数十分、閉じ込めたそうだ。食べ物を粗末にされたことを怒ったのではない。お呪(まじな)いを台無しにされたことに怒ったのだ。

 姉をバスルームに閉じ込めるというお仕置きは、バツールがしばしば用いるもので、母も了解していた。母は母で、暴れん坊の姉をどう叱っていいのか分からなかったのだ。例えば姉は、家中にある植木鉢の土を食べることを止める事が出来なかったし、玄関の靴という靴をベランダから放り投げるということも、止める事が出来なかった。絵を画くときは画用紙ではなく壁、それも、クレヨンではなく母の口紅を使ったし、家にあるビデオテープやカセットテープの中身を、全て引っ張り出さないと気が済まなかった。

 出産しても、自分の生活スタイルをなるべく変えたくない母だったが、だからこそ、なるべく、子供の意見を尊重したいと思っていた。子供を押さえつけることなく、もちろん頭ごなしに𠮟りつけることなどしないで、のびのびと育ててやりたい、そう思っていた。だが、母のその思いを、姉の癇癪(かんしゃく)や好奇心は、やすやすと打ち砕いた。

 とにかく幼かった姉は、「話をすれば分かってくれる」「愛情をこめて接すれば理解してくれる」という範疇にはいなかった。いくら言い聞かせてもなだめても、様々に新しい何かを始める姉に対し、母はほとんどノイローゼのようになっていたのだ。

 今考えると、母の傍にバツールがいて、本当に良かったと思う。バツールは7人の子の母親だった。いけないことがあると、子供を容赦なくぶったし、年頃の娘には無用な外出を禁じていた。「親は偉いのだ」と堂々と言ってのけ、その親の代理であると心得て、遠慮なく姉を𠮟るバツールは、母にとって、母親の尊大先輩だったし、母の罪悪感を和らげてくれる存在でもあった。

 バツールは、姉が悪戯したり癇癪を起こしたりすると、「悪魔が降りてきた」と言った。姉が悪いのではない、悪魔が悪いのだ、と。そして、悪魔が姉の体を去るまで、バスルームに閉じ込めておくのだ。
 家にはバスルームが二つあった。バスルームに閉じ込めたら閉じ込めたで、ビデの蛇口を全開にして噴水にしたり、父の剃刀を口に入れようとするので、姉が閉じ込められるバスルームは、完全に機能を停止した二つ目のバスルームだった。蛇口にはきつく針金が巻かれ、バスタブにお湯がたまることはなく、シンクの上の棚には、何も入っていなかった。

 姉はまったくの無機質な白い場所に閉じ込められたのであり、よしんば怒り狂って放尿したり脱糞したところで、床はリノリウムのタイルだ、綺麗に拭き取ることが出来た。飛び降りようとしても窓がなかったし、首を吊ろうとしても、ロープに類するものがなかった。バツールと母にとって、姉を閉じ込める場所として、これ以上適したところはなかったのだ。

「あんたはバスルームに閉じ込められた経験、一度もないでしょう?」
 後年、姉はそう、憎々しげに言った。姉の中では「あのバスルーム」は虐待以外の何ものでもなく、自分が愛されなかったことの、そして、僕だけが愛されていたことの、厳然たる証拠だったのだ。

 だが、それは僕が姉のように、貴重な海苔を壁に貼ったり、家の中に植木鉢の土をぶちまけたり、水を張ったバスタブに家中の布を浸そうとしたりしなかったからだ。僕は、いい子だったのだ。とても。

 初めて僕は見たバツールは、僕の白パンみたいな顔に、かぶりつかんばかりだったという。喜びの余り泣き、神様の名前を叫んで、早々に母から僕を取り上げた。そして、何度も何度も、僕に頬ずりをした。

 産後に体調を崩した母に代わり、バツールは僕のお守りに没頭した。家事もやらなければいけないので、バツールはいつもより一時間も早く出勤し、早々に掃除を済ませ、僕と向き合った。その間母は、姉のぐずりや、突然の奇声で眠れなかった時間を取り戻すべく、ベッドに潜り込むのだった。

 海外で産んだ、と聞くと、皆も母に「大変だったでしょう」と声をかけるが、実際は日本で産むよりも心安かったのではないだろうか。お守りや家事、姉を𠮟ることも、バツールがしてくれた。しかも新生児である僕は、夜泣きもしなかったし、本当に聞き分けのいい赤ん坊だったのだ。

 バツールは、僕をよくあやしてくれた。ソファに座り、足を伸ばして、その伸ばした足に僕を乗せてぶらぶらと揺さぶる、そして、
「アームーナイナナーイ」
 と歌うのだ。母が教えた「アユム」は、バツールにとっては難しかったようだ。いつの間にか「アーム」になった。「ナイイナーイ」は、おそらくバツールオリジナルの唄だろう。その際、必ず邪魔を入れるのが、やはり姉だった。

 僕の頬をつねりに来たり、「ナイナナーイ」をかき消す大音量で「いないいないいない!」と叫んだり、とにかく「赤ちゃんがえり欲求」を剥き出しに挑みかかってきた。その度バツールは、姉の名を叫んで怒るのだが、バツールが叫ぶと、タカコが「タッコ」に聞こえるのだった。
「アームーナイナーイ」
 という歌と、
「タッコッ!」
 という叫び声が、僕の子守唄だったのだ。
 姉は幼稚園に通っていた。アメリカ資本のインターナショナルスクールだ。在イランのアメリカ人の子供たちがほとんどだったが、中にはイラン人もいた。そういう場所に自分の子供を通わせるイラン人は、多分に西洋化され、そして十分に裕福だった。ほとんどがイスラム教徒だったが、園のクリスマス会に子供を参加させていたし、息子や娘が自分たちより綺麗な英語を話すことに、誇りを覚えているようだった。

 日本人の子供も、姉の外にふたりいた。自分がオンリーワンでないことは、姉の本意に反するが、幸いなことに、ふたりとも男の子だった。そして、とてもいい子だった。

 姉たち3人は、園の中ではマイノリティだった。ハロウィンのときに浴衣を着て歌わされたり、皆に折り紙を教えなくてはならなかったり、とにかく過剰に「日本的なもの」を求められた。

 求められたことをしないという事にかけては、猫以上の高潔さを見せる姉だったが、マイノリティであるが故の要求であれば、喜んで応じた。姉は浴衣を着て「ふるさと」を歌い、折り紙を器用に折り、イラン人の女の子たちに自分のへその緒を見せて、驚愕(きょうがく)の叫び声を頂戴していた(後に母にこっぴどく𠮟られたが)へその緒を取っておく、という文化は、アジアだけのものらしい。ちなみにイランで生まれた僕のへその緒も、早々に捨てられてしまった。出産後、麻酔が覚めた母が訊いたら、看護師に怪訝な顔をされたそうである。

 姉はこの幼稚園時代に、英語とペルシャ語をマスターした。後年ペルシャ語は忘れてしまうのだが、トリリンガルだったこの時代は、姉にとって数少ない黄金時代だったのではない
だろうか。幼稚園での姉は、比較的安定していたといっていい。それでも、ときに現れる抑えがたい奇行への衝動は、園の先生たちを困らせた。絵を描くなら紙ではなく床が良かったのだし、隣に座っている女の子のおさげ髪をどうしても口に含みたかったのだし、アメリカ人のイザベラ先生とは、ある日から急に、絶対に口を利きたくなくなったのだった。

 幼稚園の先生は、姉がそのようなことをするたび、母をいちいち園に呼び出すようなことはしなかった。母も、姉に関しては、ぶとうが閉じ込めようが、園の方針に任せていた。幸い、と言っていいのか、姉と同じくらい乱暴な女の子(カナダ人のナターシャ)もいたことだし、そもそも幼稚園児なんて、大概が乱暴なものだから、姉の行動はそこまで問題視されることはなかった。

 姉の幼稚園のバスに乗って通っていた。家から3ブロックほど離れたそのバス停まで送り迎えをするのは、バツールの仕事だった。

 首が据わり、おんぶ紐で抱っこできるようになると、そのお迎えに僕も同行することになった。バツールは、でもなかなか、バス停までたどり着かなかった。途中途中で出会った人に、いちいち僕を見せびらかしたからだ。雑貨屋のおじさん、買い物途中のおばさん、交通整理をしている警察官にまで。バス停に着いたら着いたで、同じように子供を迎えに来ていたメイドたちが、代わる代わる僕の顔を覗きに来た。アームー。アームー、たくさんの人が、僕の名を呼んだ。僕はその声に反応して、くるくる目を動かし、その様子を見て、また人が集まった。

 バス停にいるメイドたちの勤め先は、アメリカ人家庭がほとんどだったが、中に金持ちのイラン人の家庭もあった、日本人家庭に勤めているのはバツールだけだが、バツールはそのことを、どこか誇りに思っているようだった。例えば買い物行くときも、ひとりで行くより、僕をおぶっていた時の方が、おまけをたくさん貰えるし、行列の順番を抜かしてもらえたりした。

 僕が生まれなければ、その恩恵を与っていたのは姉のはずだった。実際、バツールが、姉に綺麗な服を着せ、買い物に出かける事がよくあったのだ。特別扱いを何より望む姉だ、買い物の間中は、上機嫌だったし、バツールも、姉と一緒にいることを喜んでいた。だが僕が生まれてからは、バツールは姉を買い物に連れていたがらなくなった。バツールの気を惹こうと、姉が急に走りだしたり、店に並べられた果物を口に入れたりするからだ。

 僕はテヘランには、1歳半くらいまでしかいなかった。本当は、父の駐在は4年ほど、と決まっていたのだが、ある事情で、帰国せざるを得なくなったのだ。

 アーヤトッラー。ルーホッラー。ホメイニによる、革命が勃発したからである。いや、正確にはホメイニよる、という言葉は正しくない。ホメイニを精神的支柱とした。反政府勢力による革命、といったほうがいいだろう。何故ならホメイニは、革命が起こるまで、反体制の姿勢を政府から弾圧され、トルコ、フランスに15年間、国外逃亡していたのだ。1979年に、国王であるパーレヴイが国外に亡命し、イスラム原理主義にもとづいた「イラン・イスラム共和国」が樹立されると、ホメイニは15年ぶりにかの地を踏み、国の最高指導者となった。

 僕等がいた革命前のテヘランは、パーレヴイによる「白色革命」の影響で西洋化が進み、僕たち外国人にとっては、とても住みやすい国だった。母の印象も、「坂の多い、とても綺麗な町」、という事だったし、イスラム教の国ではあったが、酒を飲んだり。パーティーに参加したり、両親は華やかな駐在生活を送っていたようだった。

 だが、イラン国民たちはというと、急に西洋化によって生まれた激しい貧富の差や、パーレヴイの多分に独裁的なやり方に、反発を募らせていた。僕はそんなことはもちろん知らなかったし、母も、父だってそうだったのではないだろうか。姉に関しては、「革命が起こったことによる帰国」などという劇的なトピックに、夢中になっていた。

 姉によると、姉はイラン在住当時から、イラン人たちによる憎悪の視線を感じていたし、いつか革命が起こる気配を、痛いほど感じ取っていたそうである。
 おかしな話だ。
 まず、イラン人による憎悪の視線、というが、両親によると、イラン人、少なくとも僕たち家族が接するイラン人は、皆穏やかで優しかったそうだし(「アームー」と言って可愛がってくれた人たちを、僕は決して忘れない)、もし外国人に対する憎悪というものがあったとしても、それを姉のように小さい子どもに向けるだろうか。それに、革命が起こりそうな気配、というものがもしあったとして、5歳の子供が痛いほど感じるものなら、両親が気づかなかったのは、どうしてなのだろうか。

 このように、姉の言うことは、とにかくいつも胡散臭いがあった。いつどこだって、ドラマチックなものの渦中にいたがる姉の、それは悪い癖だと僕は思っているし、そもそも姉は噓つきだった。人の気を惹くことにかけては命を賭けることも辞さない姉だ、幼稚園ではというとう、皆から「ライアーフォックス(噓つき狐)と言われるようになっていた。残酷なあだ名だが、残酷な分、真実だと思う。
 いつも、姉の話になる。
 でも、僕にとっての世界がほとんど家族だけであった頃のことになると、どうしても姉に触れないわけにはいかない。僕が成長し、僕自身の話が出来る時期になるまで、しばらく姉の影は、物語にちらつくことになるだろう。
 とにかく、革命が起きたのだ。

 反政府勢力は、ホメイニが訴え、だからこそ王朝から弾圧を受けた、「イランを西洋の魔手から取り戻し、真にイスラム的な国を作る」という思想を持っていた。僕たちはアメリカ人ではなかったが、イランに在留している外国勢力は、彼らにとってみれば、ほぼご多分に漏れず「西洋的なもの」だった。そのため、たくさんの外国人たちが、暴動を恐れて次々に帰国し始めた。一番の敵とされたアメリカは、真っ先に帰国用の民間機をチャーターした。

 日本人はどうだったのか。
 僕の父親の会社に限っていえば、「帰国は自主判断で」だったそうである。決断を下すことを嫌う、いかにも日本人らしいやり方だ。そして、そんな風に言われて「じゃあ怖いので帰ります」と言えないのも、日本人の悲しさである。特に父がどっぷり浸かっていた「高度成長期」の連中のポリシーは、「何を置いても会社命」だった。真面目な父はきっと、会社の命令でしか帰れなかったのだと思う。

 父は、母と姉、僕だけを先に帰す決心をした。
 そう決意したときにはすでに、アメリカ人居住区や映画館に火がつけられ、その矛先がアメリカ人以外の外国人にも向かい始めていると噂がまわっていた。
 僕たちがイランを発つ前夜、バツールやエブラヒムと撮影した写真が残されてている。バツールは家族と、とりわけ僕と別れるのが辛くて、散々泣いたそうだ。たしかに写真の中のバツールは、カメラを見ず、赤い目を床に向けている。その隣に僕を抱いた母が、そして隣に、姉の肩に手を置いたエブラヒムが写っている。

 母は、カメラを向けられると笑顔を作ってしまうタチらしい。緊急事態であるというのに、にっこりと口角を上げ、抱かれている僕がそっぽを向いていても、気づいていない。

 エブラヒムは、ほとんど怒っているのか、というような厳しい表情をしているが、姉の肩に手を置いているので、もちろん怒っているわけでもないのだろう。だが、自国が混迷する中、アメリカ人ではないとはいえ、外国人の運転手をしていた自分の未来を、少なからず危惧していたのではあるまいか。エブラヒムはとバツールがその後どうなったかは、父にも分からないという。

 エブラヒムの下で姉は、赤いヘルメットをかぶり、父の大きなマスクをつけ、プラスチックのバットを持っている。まるで全共闘の学生である。革命のなんたるかを分かっていないはずの姉だが、そういう勘は鋭かったのかもしれない。ものものしい雰囲気の中、姉にとって「初めての革命」への興奮が伝わってくる写真だ。

 その日の写真に、父の姿は写っていない。おそらく、写真を撮影する事に徹したのだろう。母は、写真を撮ってもらったからといって、「じゃあ次私撮るわね」というような気遣いをみせる人ではなかった。いつも当然のように撮られる側にい続け、そのことも父は不満に思っていなかった。母は美しかった。

 写真には、父の影が、床に映っている。それはカメラを構えた男の影でしかなかったが、その影を見るとき、僕はなんとも言えない気分になる。革命という。日本人にまったく馴染みのないものが起こり、この先どうなるか分からない異国で、家族を帰し、自分一人が残るのだ。父は37歳だった。

 当時の僕たちからすれば、父は「父」以外の何ものでもなかった。父は僕たちを守ってくれるはずだし、怖がったり、怖気づいたりはしなかった。いつも適切な判断をし、危険を回避する。そういう存在だった。

 だが父は、37歳の、ただの男だったのだ。そのことに気づいたのは、後の事だったが、その頃には父は、家を出ていた。

 ただの男としての父の、たったひとりでのイラン滞在を、僕は時々想像してみる。それは恐怖に彩られた、ほとんど泣いてもいいような出来事だ。今僕は、そのときの父の年齢と同じ37歳だ。だが、そんなことはとても出来ないと思う。そもそも僕にはまだ、守るべき家族がいないし、自分を心配してくれる妻すらいないのだ。

 母は帰国後すぐに行動を起こした。
 父の会社に乗り込み、父に帰国命令を出してほしい、と、上司に訴えたのだ。現地に担当の危機に直面しているが、夫は自分から帰って来るような性格ではないので、会社命令にしてやってくれ、と。それは、圷(あくつ)家の数少ない美談のひとつだ。

 心動かされた上司は、ただちに父に帰国命令を出した。それでも父は、残った仕事をこなすためにさらに数ヶ月滞在し、最後の民間機で帰国の途に就いた。この後、イラン空港は反政府勢力により封鎖され、逃げ遅れた外国人たちは、陸路で国外―逃れた。父の知り合いの日本人も数名がその道をたどり、途中武装したイラン人たちに襲われ、命こそ助かったものの、金品から何から身ぐるみはがされたそうだ。
 圷家の日本での暮らしは、こうしてドラマテチィックな始まりを迎えたのだ。


  3
 帰国した僕たち、大阪の小さなアパートで暮らした。
 狭い玄関を開けるとすぐ小さい台所、その隣にトイレがあり、奥には6畳の部屋が2間続いていた。風呂はなかった。家を買おうと思っていた父が、国際電話の情報だけで、取り敢えず決めたアパートだった。母の実家のすぐ近くに在り、名前を「矢田マンション」といった。名前だけは立派なアパートの好例だ。

 大家はもちろん矢田さんというのだが、とてもいいおばあさんだった。おばあさんといっても、当時50歳くらいだったそうだ。
 自分がいわゆる大人になってから、僕は昔の大人たちを、あまりに「大人」として見過ぎていたことを知った。今では50歳といえば、まだまだおばさんだし、「綺麗なだな」と思う50過ぎの女優もいる。だが、幼い僕からすれば、50歳は「おばさん」でも「綺麗」の範疇でもない、紛れもなく「おばあさん」という生き物なのだった。それに母に対してもそうだったし、先生に対してもそうだった。「母」という生き物、「先生」という生き物に、年齢などなかった。

 僕たちが住んでいたのは、2階の角部屋だった。矢田のおばちゃん(母がそう呼んでいた)は、その下の階に住んでいた。申し訳ないが安普請のアパートのようだったし、ほとんど猛獣化していた姉の暴れる音や、ささやかではあるが僕の泣く声など、うるさい要因はたくさんあったはずなのだが、おばちゃんは嫌がるどころか、あれこれと世話を焼いてくれた。まるで日本のバツールのようだったと、母は言った。バツールと矢田のおばちゃんと違ったのは、矢田のおばちゃんは、姉を手な付けることに、完全に成功していたことだった。

 おばちゃんの背中には立派な弁天様が彫られていた。おばさんは独身だった。でも、小さくてみすぼらしいとはいえ、アパートをひとつ持っていた。その筋の人の恋人だったのか、それともおばちゃん自身がその筋の人だったのか、とにかくとても優しいが、迫力のある人だった。

 姉は、本来なら幼稚園に通うべき年齢だった。だが、父が帰ってきたらすぐに引っ越すこともあって、母は姉を幼稚園に行かせなかった。暇をもてあました姉は、だからたびたび、おばちゃんの部屋に遊びに行った。そして、おばちゃんと一緒に、近所の銭湯に行くのだった。体に消えない絵があるおばちゃんは、たちまち姉の憧れの存在になった。そしておばちゃんは、どこへ行っても面倒見が良く、人に好かれる性格は、尊敬に値するものだった。

 何か困ったことがあれば、皆、おばちゃんの所へ相談しに来た、姉は大抵おばちゃんのとろにいったので、やってくる人たちの相談事を、すべて聞いていたそうだ。

 ダイレクトな借金の相談もあれば、十代の娘が妊娠したことや、ご近所トラブルもあった。それらをおばちゃんは、軒並み解決していった。姉が後年「ゴッドファーザー」を見たとき、
「矢田のおばちゃんみたい!」
 そう叫んだ、ドン・コルレオーネのような役割を、おばちゃんは担っていたのだ。
 おばちゃんの信頼は、人間からだけのものではなかった。たくさんの野良犬や野良猫たちが、矢田マンションの敷地に集まった。おばちゃんは、どの犬にも、どの猫にも平等に接し、エサをやり、ときには里親を見つけ、彼らの最期を看取った。

 僕の最初の記憶も、実はおばちゃんの弁天様だった。
 僕はおそらく、姉とおばちゃんと銭湯にいった。僕の周りには、垂れたもの、ぴんと張ったもの、固い蕾のようなもの、様々な乳房があった。女風呂だった。小さなちんちんをくっつけた僕は、裸の女たちに代わる代わる撫でられながら、何故かぼっと突っ立って、体を洗うおばちゃんを見ていた。

 弁天様は、琵琶を持っていた。羽衣がふわふわと弁天様を取り囲み、肩にかけた布がたゆたっていた。弁天様の白い肌の上を、もっと白い泡が流れた。少したるんだおばちゃんの背中で、弁天様はいつまでも若く、どんな風に見たって。決して目が合わないのだ。

 アパートには、母の母、つまり僕たちの祖母も来てくれていた。
 祖母と矢田のおばちゃんは、仲が良かった。祖母の方が年上だったが、祖母とおばちゃんのことを姉のように慕い、実際見た目は、祖母の方がうんと若かった。

 母の容姿は、この祖母から引き継がれたものだったようだ。三人姉妹の一番上と母が祖母、二番目が祖父に似た。一番上のおばさんは好美(よしみ)おばさん、二番目は夏枝(なつえ)おばさんといった。

 姉は、この夏枝おばさんにも、よくなついていた。おばさんは、三人姉妹の中でひとり、結婚していなかった。実家に住んでいたので、近くにある矢田マンションに来やすかったということもあるし、本を読むのが好きだったり、ひとりで映画を見に行ったり、すこし芸術家っぽい雰囲気がするのも、姉は気にいったのだと思う。

 おばちゃんは、働いていなかった。祖父は、僕たちが生まれる前に肺を悪くして亡くなっていた。後を継ぐ男がいない今橋家で、姉と妹が嫁に行き、母の面倒を見るのは自分しかいないと思っていたのだと思う。だから、夏枝おばさんはどこか静かな諦観があって、その落ち着いた包容力は、僕たちをいつも安心させた。

 祖母も、好美おばさんも、僕たちの事を可愛がってくれた。でも、可愛がり方が大げさだった。面白い顔をするのも、絵本を面白く読むのも得意だったが、しばらく遊んでいると、飽きてしまうようだった。そして、いずれ大人たちだけで話をし始めてしまうのだ。そんな中、いつまでも遊んでくれるのが夏枝おばさんだった。絵本を詠むのも、面白い顔をするのも、好美おばさんや祖母にくらべて下手糞ではあったが、しつこさにかけては大人以上の粘りを見せる僕たち子供の、特に姉の飽くことのない要求を、いつまでも引き受けてくれた。

 好美おばさんと母は、顔だけでなく、性格もよく似ていた。簡単に言うと気が強く、何らかの自信や意思の強さみたいなものを感じさせる人で、やはり誰に写真を撮ってもらっても、「じゃあ次私が撮るわね」とは、決して言わないタイプだった。母の実家が貧乏なのは前述したが、いわゆる美人と言われた好美おばさんには、母と同じように、どこかにお嬢様、というか、「誰かに何かしてもらって当然」というような雰囲気があった。

 おばさんは、結婚して北摂(ほくせつ)に住んでいた。旦那さんの治夫(はるお)おじさんは紅茶や茶器などを輸入、販売する会社を経営していて、随分羽振りが良かった。祖母と夏枝おばさんが働かずに済んだのも、おそらくこのおじさんと父から援助があったのだろう。祖母にすれば、長女も三女も、いい男を捕まえたという訳だ。そういう部分で、母は、よく自分を好美おばさんと比べ、競っているようなところがあった。

 好美おばさんには、息子がふたりと娘がひとりいた。名を義一(ぎいち)、文也(ふみや)、まなえ、といった。僕たちのいとこだ。

 末っ子のまなえと、姉は同じ年齢である。そして、僕の見解だが、性格がよく似ていた。
 まなえは可愛い顔をしていたが、少し太っていた。その容姿が関係しているのかどうか僕には分からなかったが、小さなころからおばさんと折り合いが悪かった。まなえは、僕が覚えている限り、数十回の家出をしていた(美人で気の強い母親、というのは、娘に何らかの悪い影響を及ぼすものなのだろうか)。

 似た境遇にある姉とまなえの仲が良くてもよさそうなものだが、マイノリティ絶対主義の姉にとって、自分に似た人物は不要だった。姉の嫌忌を感じたのか、まなえも姉を嫌った。いとこ同士で集まると、何がしか喧嘩をしていたし、よりおかしなことを出来るか競い始めるところがあるので、集まりの後は、必ず、どちらかが怪我をしていた(姉は小学校一年のときに、傘をさしながら屋根から飛び降りて足を骨折、まなえは翌年金魚鉢の水を飲んで病院に担ぎ込まれた)。

 とにかく僕が家族の女性陣に臆しているのと同じように、義一と文也も、好美おばさんとまなえのピリピリした関係に臆していた。義一は僕より12歳、文也は9つ上だった。小さなころは、従兄弟というよりはどこかのお兄ちゃん、という感じだったが、長じるにつれ、ふたりが僕と似た性格であることが分かってきた。人の顔色を窺い、ことを荒立てないようにする。という消極的な性格だ。だが、義一と文也には僕と違い、加えておじさんの圧力というものがあった。

 一介のサラリーマンであった僕の父に対し、治夫おじさんは、成功した会社の社長だった。人を使うのが苦手な父と違って、治夫おじさんは、人を使って当然の地位にいたわけだし、恐らく父よりは男の矜持(きょうじ)的なものを持っていたに違いない。ほとんど家に居なかった治夫おじさんにとって、好美おばさんとまなえの内紛は、女同士の採るに足りないやり取りに過ぎず、それに臆し、遠慮する義一と文也は、おじさんにとっては情けない奴ということになるのだった。

 義一も文也も柔道や野球、男らしいと感じられるものは何でもやらされていたし、それに加え、頭脳明晰でなければならなかった。そのプレッシャーは、いかばかりだっただろう。僕は父の気の弱さを、のちになって感謝することになる。

 そんな父であったから、母の気の強さ、末っ子的な我儘ぶりは際限なくなっていったが、いう態度との闘いがあった。母は怒鳴ると、父は憔悴(しょうすい)し、それはもう分かりやすく弱ったものだが、好美おばさんが怒鳴ると、おじさんは「女のヒステリーが始まった」と一笑に付し、宝石でも買い与えておけば大丈夫と歯軋(ぎし)りをしていた。姉やまなえにとって、母と好美おばさんは、「美人で勝気だが男にも頼らないと生きてゆけない女」なのであって、それは絶対に、自分たちの味方ではないのだった。

 美人で、しかもひとりで生きていける能力をもった女、ということで、最強だったのは祖母だ。
 祖父が死んだのは、僕の母が12歳になった頃だった。それから祖母は、好美おばさんを短大にやり、14歳の夏枝おばさんと母の学費をひとりで払った。元々、金物の行商をしていた祖父の稼ぎも、妻子4人を支えるには、いささか、いや、かなり頼りなかった。家は傾いていたし、三人姉妹に自分の部屋などなくも家族5人、まさに肩を寄せ合って暮らしていたそうだ。

 祖母は、狭い家の土間を改造して、夏は氷屋、冬はうどん屋をやっていた。3人の娘を産んだ後なのに、住んでいた地区の小町に選ばれた祖母の店は、とても繫盛していた。ときには祖父の収入を超えたこともあるそうだから、祖父は肩身の狭い思いをしたに違いない。ただでさえ女4人に囲まれる生活というのも、男にとって居心地のいいものではなかったろうし、もし祖父が生きていたら、父や僕と気があったのではないだろうか。

 祖父の写真が残っている。公園だろうか、大きな桜の樹の前で、ハンチング帽を被って、煙草をくわえて立っている。背が高いところや、真面目そうな眉毛が、どことなく僕の父と似ている。

 祖母や祖父は、いわゆる美男美女カップルだったに違いない。昔気質の女性だったこともあって、祖母が祖父に対して文句は言った事はないそうだが、祖父が死んでからは、三姉妹に、「顔で男を選んではいけない」ということを、再三言い聞かせていたらしい。好美おばさんも母もおそらく、汗だくでうどん玉を茹でている祖母の背中を見て、財力のある男に嫁ごうと考えていたに違いなかった。

 娘に店を手伝わせないのが信条だった祖母だが、夏枝おばさんは、すぐに店に行き、もくもくとうどんを茹でるのを手伝ったそうだ。たまに、おばさんの同級生が店に食べに来ることがあって、そういうときはかわいそうだった、と祖母は言っていたが、それでも夏枝おばさんにも手伝わなくていいとは決して言わなかった。

 夏枝おばさんには、苦労性といおうか、人の嫌がることやしんどいことを進んで引き受けるようなところがあった。だが、他の二人の娘はほとんど箱入りにして、夏枝おばさんにだけ苦労をさせた祖母は、どういう気持ちだったのだろうか。夏枝おばさんは、それで幸せだったのだろうか。

「なっちゃんの浮いた話って、一個も聞いたことないわ」
 信じられない、というような顔をして話す母と好美おばさんを、僕は何度も見た事がある。おばさんは、母の好美おばさん的なものと、対極にいる人だった。
 とにかく夏枝おばさんは結婚もしなかった。そして、僕たちの面倒を見てくれた。僕にとって、姉と母、矢田のおばちゃんと祖母、そして夏枝おばさんが、ほとんど世界の全てだった。

 父が帰って来たのは、晴れているのに雨が降るという変な日だった。
 こういう日を「狐の嫁入り」というのだと、矢田のおばちゃんに教えてもらった姉が、どうしてもその狐を見たいとだだをこね、母を困らせていた。僕も出来る事なら目撃したかったが、それ以上に母を困らすことはしたくなかった。僕は大人しくプラスチックの積み木で遊んでいた。

「お父さん帰ってくるから家おらんなあかんやろ」
 母にそう言われても、姉が引き下がるはずもなかった。こんな日はない。狐が嫁入りするのを見られなかったら死んでやる、そんなことを叫んだりしたのだろう。おそらくその叫び声を聞いて、矢田のおばちゃんは母に悪い事をしたと思ったに違いない。

 母は姉のだだを軒並み無視していたが、姉が床に転がって大声を上げ始めたのを見て、とうとう我慢できなくなった。
「狐の嫁入りは、迷信や!」
 母の声が、姉の声を凌駕(りょうが)していた。
「そんなんおらんねん、ないねん、嘘やねん!」
 姉はその言葉を聞いて、大声で泣いた。悲しくて泣いたのではない。姉の涙は、いつだって怒りから始まった。大声で泣き喚くことが、大人を困らせる何よりの行動であるということを、姉は知っていたのだ。

 姉が泣くことに関しては、母曰く、帰国の機内でも散々な目に遭わされたそうだ。姉は座っていろという母の言うことを聞かず、機内を歩き回り、勝手にCA(その頃はスチュワーデスさん、と呼ぶのが普通だった。今でもCAと呼ぶより、僕の中で彼女らは「スチュワーデスさん」のほうがしっくりくる)の休憩室に入って怒られた。母がいい加減我慢できなくなって怒鳴ると、姉はその怒鳴り声の数倍の声で泣いた。結局、メーラバード空港を飛び立って、中継地の香港まで10時間あまりのフライトの、6時間ほど泣き続けたそうである。母が何を言っても、CAがお菓子を持って来ても駄目だった。周辺に座っていた客の心境を考えると、あからさまに良い子にしていた僕ですら、姉の代わりに謝りたくなる。

 やっとのことで香港に着くと、母は仕方なく姉の望む物を買ってやらなくてはならなかった。大きな大きな熊の縫いぐるみである。あまりの大きさに、機内持ち込みの制限に遭うほどだった。そこでも姉はまたひとしきり泣いた。結局折れた航空会社が持ち込みを許したが、座席に納まり切らないので。熊はCAが座る座席に縛り付けられた。姉はたびたび席を立って熊に逢いに行った。熊の御蔭で残りのフライトは無事だったが、イランを発って24時間も経たぬうち、母はもうバツールを恋しがっていた。今考えると、母もまだまだ子供だったのだ。

 そしてそんな子供っぽいところがある母には、姉の行動に我慢できなくなると、容赦なく子供の夢を打ち砕いてしまうようなところがあった。子供そのものより、子供っぽい大人のほうが、タチが悪い瞬間があるが、母は典型的なタチの悪い人だった。

 姉が小学校2年生のクリスマスのときもそうだった。さりげなく姉の欲しいものを聞こうと苦心していた母だったが、姉が頑なに「サンタさんにしか言わない」と繰り返すので、しまいに自棄になった。そしてとうとう、
「サンタはおらん!」
 そう叫んでしまったのだ。姉はそのときも、大きなショックを受けた。だが、姉はまだいい。僕はそのとき、たった4歳にしてサンタの存在を否定された僕のほうが、よほどかわいそうだと思う。でも僕は泣かなかった。僕が泣く前に、姉があらん限りの力を振り絞って泣いていたからだ。

 いつも大体、そんな感じだった。僕が怒る前に姉が激怒する。僕が泣く前に姉が号泣する。だから僕は、なんとなく躊躇してしまって、沈黙するだけになる。大人になってもその性格は尾を引いた。だから僕は、誰かが僕の「感情」を持っている状態になると、落ち着かなかった。
「何考えているの?」
「あなたの好きにしてよ」
「自分の意見はないわけ?」
 などという言葉や、それに類する言葉が、僕は怖かった。
 感情を発露するのは、いつだって姉だし、母だったし、とにかく僕以外の誰かだったのだ。

父が帰ってきたとき、姉は泣きつかれて眠っていた。父は眠っている姉を起こさないように静かに僕を抱き上げた。嬉しかったが、数ヶ月ぶりに会う父からは知らない匂いがして、こうしていることが、どこか不思議な、恥ずかしいような気持ちになった。
 助けを求めるように母を見ると、
「歩、人見知りしてるんやん!」
 嬉しそうに笑った。
 父は僕に、レゴブロックを買ってきてくれた。組み立てれば大きな御城になるもので、たくさんの兵士もついていた。当時の僕からすれば、それは信じられないほど素晴らしいプレゼントだった。ついさっきまで遊んでいたプラスチックの積み木が、急に色あせてしまったほどだった。その積み木は祖母がくれたものだったが、ひとつひとつのピースが大きく、新しくもらったレゴブロックに比べると、いかにも「幼児用」という感じがした。

 レゴブロックの御城セットをくれたことで、父の「お父さん」感は、急激に深まった。僕は無邪気に笑ってみせ、喜び、父と、それを見ていた母はすら喜ばせた。そして祖母がくれた積み木にはもう見向きもせず、レゴブロックに取り掛かり始めたのだった。僕が器用にレゴブロックを組み立てる様子をみて、
「歩は神童かもしれんへんな」
 父がそう言ったのも、無理はなかった。
 物音を聞いて起きてきた姉には、僕以上に信じられないお土産が用意されていた。なんと、狐の縫いぐるみである(本当は、狼の縫いぐるみだったのだが、姉はそれを都合よく狐と解釈した)。

 姉は狂喜した。大好きな父に会えること、その父が、自分の気持ちをまるで分かってくれていたように、狐(狼)の縫いぐるみをプレゼントしてくれたこと。さきほど号泣した勢いそのままに、いやそれ以上に姉は喜び、叫び、久しぶりに会えた父を、わずかながら引かせた。

「さっきまで狐の嫁入り見たいって言うててんで。お父さん帰ってくるからあかんよ、て言うてるのに」
 そう言った母は、姉を睨み付けた。母にして見れば、子供の気まぐれ心変わりを、父と一緒に笑おう、くらいの魂胆だったのだろうが、姉は、父に関してのライバルである母による牽制、としか捉えられなかった。母はきっと、男の人の前でぶりっ子した友人に、
「あんたいつもと違うやん」
 そう、事もなげに言ってしまえるタイプなのだろう。しかも恐ろしいことに、何の悪気もなく。

 姉は母を睨みつけながら父の膝に乗り、絶対にそこから降りようとしなかった。風呂に入りたいと父が降りてくれと頼んでも、夕飯を食べる段になっても、決して。また我慢できなくなった母が姉を怒鳴ったが、姉は母に怒鳴られるほど、頑なに動こうとしないのだった。

 帰国1日目にして、父はすでに母娘の争いの渦中に飛び込んでしまったのである。しかもイランと違って、ここにはバツールがいなかったし、姉を閉じ込められる大きなバスルームもなかった。父が早々に家を買うことを決めたのは、このことが大きな原因のひとつではなかったか。矢田マンションにい続けたら、狭い空間の中、母と姉の戦争は、ますます過酷なものになったに違いなかった。姉のようなタイプには、早々に自分の部屋を与えた方がいいのだ。

 ということで両親は、父が帰国してすぐに家探しを始めた。家探しは日曜日に限られたが、僕と姉は連れて行ってもらえなかった。恐らく姉が暴れたりわがままを言うことを避けるためだろう。姉はその事に関しても、散々不満を撒き散らし、母に怒鳴られ、そして結局父に甘やかされて眠った。留守番をしている僕たち見てくれたのは、やはり矢田のおばちゃんだったし、祖母だったし、夏枝おばさんだった。

 最終的におばちゃんと祖母が長々と話し込む形になり、僕らの相手をしてくれたのは夏枝おばさんだけになった。おばさんは、僕の作ったレゴを褒めてくれた。神童とはいえ、僕にはまだ城を組み立てる技術はなかった、すぐに城を完成させてしまうおとする姉や父と違って、夏枝おばさんは、僕が何かを作り上げるのを、辛抱強く待ってくれた。そして、出来上がったものがちっとも素晴らしくなくても、必ずどこかを褒めてくれた。

「綺麗な色やね」
「頑丈やなぁ」
 それは僕ではなくレゴ社の手柄だが、それでも僕は、おばさんが僕の造形物に興味を持ってくれることが、本当に嬉しかった。おばさんの遊び方は徹底的に受け身で、おばさんの方から何か面白い遊びを提案してくれることはなかったか、こちらが飽きるまでつきあってくれるおばさんの忍耐強さに、母も感心させられていた。

「なっちゃんのほうが絶対母親に向いている」
 母がそう真剣に言っているのを、何度か見たことがある。夏枝おばさんはその都度困ったように笑って、結局何も言わないのだった。

 夏枝おばさんは、僕らを毎日、近所の神社に連れて行ってくれた。歩いて2分ほどの所にあるその神社は、ここら一番の氏神様ということだった。とても小さくて、僕たち以外にお参りしている人を見たことがなかった。

 幼い僕には、狛犬(こまいぬ)の形相や社の古めかしさが恐ろしかった。でも、夏枝おばさんが熱心に熱心に、いつまでもお祈りをしているので、待っているしかなかった。おばさんが目を瞑って、何かぶつぶつと呟いている横顔を、今でも覚えている。それは家では見せない。夏枝おばさんのシリアスな一面だった。

 父が買ってきた姉の奇跡の狐(狼)だが、あれだけ喜ばれ、運命を感じてもらったにも拘わらず、早々に土に埋められるという憂き目にあった。

 新居が見つかるまでの数週間、姉の中で「葬式ごっこ」というのが流行った。いずれ捨ててゆく(捨ててゆくわけではないのだが)この家に、姉なりの郷愁を感じていたのかもしれない。姉は、家中の物を埋め始めた。ちょうどというか、不幸にもというおうか、矢田マンションの隣は空き地になっていた。そこが、狐(狼)の縫いぐるみの、僕の幼稚なほうの積み木の、母のお茶碗の、こたつカバーの、そのほか様々な圷(あくつ)家の品々の墓場になった。

 ちょくちょく物がなくなることに気づいた母は、姉は母の決めつけに反撥し、決して口を割らなかった。発覚したのは、矢田のおばちゃんがある晩、腰まで埋まった熊を見つけた時だった。

 青白い街灯に照らされた熊を見たとき、豪気なおばちゃんもさすがに悲鳴を上げ、腰を抜かした。あわれな熊の縫いぐるみは、香港からわざわざ我が家までやってきて、姉に半分土に埋められてしまったのだ。きっと、全身が埋まる穴を、姉が掘ることが出来なかったのだろう。そういうところ、姉は本当に詰めが甘いというか、雑なのだ。

 当然ながら、母は激怒した。
「バツールの言う通りやわ、あんたには悪魔がついてんのか!」
 恐らく「体の半分を埋められた縫いぐるみ」というビジュアルのおどろおどろしさに引っ張られての発言だろう。母はとても素直な人だから。

 だが率直なその言葉は、姉を傷つけたに違いない。いや、その言葉で、姉は自分が本当に「悪魔の子」なのだと、思い込んでしまったのかもしれない。何度も言うが、母は母なりに、姉に愛情を注いでいた。しかしそれは、姉が望んでいるものではなかった。姉は、実の母が娘をこんなに憎むわけがない、つまり私は悪魔の子なのだ、という、いかにも姉の好きそうなストーリーを、でっち上げてしまったのだ。

 それから姉は、家出を繰り返すようになった。まあ、遅かれ早かれそうなっていたとは思うが、「実の子ではない」という事実は(事実ではないのだが)、姉が家を出る、恰好の理由になったのだ。

 矢田マンショにいる間の姉の家出先は、マンションから大人の足で数分の公園の、巻貝型の遊具の中だった。まだ姉も、はるか遠くに行けるような知恵も勇気も持ち合わせていなかった。それに家出自体、本当に家を出たいのではなく、やはり姉流の「私を見て!」欲求の一環だったし、「悪魔の子として生きる」という、ほとんど完璧な自己陶酔にふけていられる行為だった。

 母が僕を抱いて迎えに行っても、姉は絶対に遊具から出てこなかった。母が宥めたり、空かしたり、怒鳴ったりしても、姉は一言も発しなかった。結局は飽きた僕が砂場で遊んでいるのを、母が見ている事になり、そばの遊具で姉が家出をし続けているという、おかしな状況になった。

 最終的に、見かねた矢田のおばちゃんが迎えに来てくれるか、遅く帰宅した父が迎えに行くことで、姉はやっと帰路に就いた。半日食べない事がザラだったので、その頃の姉はとても瘦せていた。ついでに、母も。

 それはそうだ。若かった母も、随分傷ついたと思う。母にとってわが子である姉には、謎があり過ぎた。どうしていつも反抗するのか。訳の分からない事をするのか。それが姉の愛への飢えに基づいたものであっても、まっすぐな愛情しか理解出来ない母にとっては、不可解なものでしかなかった。愛情を求めているのなら、もっと自分に甘えればいい、そうしたら、いくらでも抱きしめてあげるのに。母はそう思ったに違いない。

 母こそ、誰かに抱きしめてもらいたい状況だったのだろう。そしてその願いは、姉と違って、やすやすと叶えられていた。あるとき矢田のおばちゃんに、あるときは祖母に、そして、あるときは父に。母は姉と違って、人に甘えることにおいても、とてもまっすぐな人だったのだ。そして抱きしめられるから万事OK、というわけではなく、母なりに素直に、姉の事を憂いていたのだ。


 4
 姉の家出時間が7時間を記録した翌日、とうとう両親は、新居を見つけて来た。
 築年数は20年、駅から歩いて10分ほどで。3LDKの広さだった。矢田マンションから、電車を2回ほど乗り換えたところだ。そこから父の会社までは、電車で30分ほどだ。

 実家から離れていることを、初め母はしぶった。祖母や夏枝おばさん、矢田のおばちゃんと離れていることは、つまり姉を簡単に預ける事が出来なくなるということだ。

 言っておきたいが、母は決して甘えた人間ではない。イランで僕を産んだとき、手伝いに行くと言った祖母を、「バツールがいるから大丈夫」と断ったそうだし、そもそもイランに行くこと自体を、まるで怖れなかった。だがそれは、姉がこんなであると知る前だ。ほとんど育児ノイローゼに陥っていた母にとって、協力者が減るということは、何よりの恐怖だったのだろう。

 だが、家だ。恐怖以上の力で、母はその家を気に入ったのだ。築年数や間取り、駅からの距離など考えて、これ以上の好条件は見つからなかった。それに小さいながら、庭がついていたし、南向きにベランダもあった。家族4人が初めて住む家として、これ以上理想的な家はなかった。

 両親が購入を決めてから、僕と姉も、初めて内見に連れて行って貰らった。見知らぬ店、見知らぬ道、見知らぬ木、角度が違って見える空、何もかも新鮮で、眩しく見えた。姉なんか珍しく、父の手をじっと握ったまま、大人しく歩いていた。そうやっていると、姉もただの子供でしかなかった。
 僕らの家は、素晴らしかった。
 おばちゃんには申し訳ないが、矢田マンションで暮らした半年があったから、素敵に見えたのかもしれなかった。2Kの小さなアパートから、庭付き一戸建ての3LDKへの格上げなのだ! 
 内見に入った家で、姉は扉という扉を開け、早々に自分の部屋を決めてしまった。もちろん2階の、ベランダがある部屋だった。ベランダは小さかったが、棚がアーチ型になっていて、いかにも薄幸のお姫様」になることを選んだのだった。

 ベランダはあったが、その部屋は4畳半と狭かったので、母にも異論はなかった。その隣にある6畳の部屋を両親と、取り敢えず僕の部屋にすることにして、それでも6畳の和室が一部屋余った。そこを日本ではほとんど機能しない来客用の部屋として、圷家の新生活はスタートしたのである。

 ベランダが、そして自分だけの部屋が嬉しかったのか、姉は矢田のおばちゃんや夏枝おばさんを、それほど恋しがらなかった。姉は早々に自分の城を築き上げることに専念し、一日のほとんどを部屋で過ごすことになった。

 姉は小学校に行くことになった。
 小学1年になった姉は、入学式からその存在を存分にアピールした。簡単に言うと、やらかした。
 姉にとってまず、こんなにたくさんの数の子供を見たのは初めてのことだった。矢田マンション時代はいわずもがな、テヘランのときも、1クラスだけ、全員で30人ほどの子供しかいなかった。しかも、日本人は3人だけだったのだ。

 日本の小学校には、当然ながら日本人の子供がたくさんいた。姉はベビーブームで生まれた子供だから、40人のクラスが6つあった。皆髪が黒く、黒い目をしていて、皮膚の色も大体同じ。つまり、自分と似たような子供たちが。240人余りいたのである。
 その状況を、姉が喜ぶはずが無かった。

 しかも、母に着せられた服は、ネイビーと赤のチェックのワンピース、それはとても可愛らしいものだったが、姉が目視しただけで、そんな服を着ている女の子が、30人はいた。胸には作り物の花もしかも男の子は青、女の子は赤と決められている。クラスごとに並ばされて入場、しかもそれが背の低い順というありさまだ。

 自分はなんて「平凡な人間」として扱われていることだろう。姉は、誰にも何もされていないうちから、ほとんど激怒していた。

 まず姉は、入場を拒否した。3組だけ入場が遅れていること、それが姉のいるクラスであることに、両親は嫌な予感がしていた。案の定、やっと入場してきた姉は、何故か両手で耳をふさいでいた。こんな場所で、こうやって行進させられているのが、苦痛で仕方ないという顔だ。誇らしげな顔で両親を探す男の子や、可愛いワンピースを着てはにかんでいる女の子と、姉は全く違った。

 それだけに留まらず、姉は校長先生の挨拶の途中に奇声をあげたり、椅子の上に立ったり、その他様々な狼藉(ろうぜき)を働き、とうとう式の途中で体育館の外に出されてしまった。
 その後母は学校から呼び出され、特別学級への編入を勧められることになった。

 その選択肢もありだった。なにせ、「特別」と名の付く場所なのだ。姉は満足しただろう。だが、母はそれを認めなかった。姉には散々苦労させられていたが、苦労させられた分、自分の子育てを否定されるようなことを、母は望まなかったのだ。姉の言っていた、「母親は出産時に苦しめられたその分を取り戻そうとする」という話は、もしかしたら真実なのかもしれなかった。とにかく、母は諦めなかった。

 言っておくが、特別学級に自分の子供が入る事は、まったく不名誉なことではない。少なくとも僕はそう思っている。だが母にとって、とても素直なあの人にとって、それは許し難いことだった。そういう母の偏狭さが、姉を苦しめていたのも確かだし、それ以上に母本人を苦しめていたに違いない。

 姉が学校に通っている時間は、母と、そして僕にとってもつかの間の平穏が訪れるときだった。姉がいる間も母は姉のいつもハラハラさせられているか、怒っているかで、結局僕のことをあまり熱心に構う事ができなかった。姉は、自身が思っているのとは違うやり方で、母の関心を独り占めしていたようなものなのだ。姉は母と二人になって初めて、寂しかったのだと気づいた。そして、子供が返りを始めた。恥ずかしいが仕方がない、僕はそのときまだ、ほとんど赤ん坊だったのだ。僕は母にべったりとつきまとい、母の関心をシャワーのように浴びたかった。

 姉と違ったのは、僕の「僕を見て!」願望は、母の理解できる範疇にあったということだ。可愛く甘えて見せたり、ちょっと拗(す)ねて見せたり。そして何より重要なことに、僕はいつだって良い子にしていた。ブロックを組み立てて母に見せる時も、母が他の事に集中していたら手が空くのを待ったし、母にだめだと𠮟られることは、二度とやらなかった。

 母はそんな僕を誉め、ときには抱きしめてくれた。それでますます僕は素直な、いい子になった、というより、「素直な、いい子でいよう」と、強く思うようになった。幼い僕から見ても、姉の暴挙は損だった。素直ないい子でいればいただけ、母や周囲の大人たちは、僕の求める愛情を注いでくれるのだから。僕はそのときまだ損得という言葉を知らない子供だったが、その感情は、すでに経験していた。そして4歳になり、幼稚園に入園する頃には、すっかり空気を読める子供になっていた。

 入園式で、僕は姉のほかにも、姉のような子供がいることを知った。
 名前を、「たはら えいじ」といった。「たはら えいじ」は、入園式で入場を拒否、先生になだめすかされ、しぶしぶ入って来た後も、事あるごとに喚き散らし、式の途中で外に出された。

 皆恐らく、そんな子供に会うのは、そのときが初めてだったのだろう。驚き、次に怯え、「たはら えいじ」のただならぬ迫力に影響されて、泣き出す子までいた。
 その点僕は有利だった。何せ、生まれた時から、あの姉の傍にいるのだ。僕は姉の機嫌が悪い時、姉が癇癪を起こしたとき、いかにして自分の気配を消すかを身に着けていたし、姉に辟易(へきえき)した大人たちを笑顔にする方法を知っていた。

 今思えば、しゃらくさい子供だ。でも、必死だった。すごく極端な話だけど、そうしないと、生きてゆけなかったのだ。

 子供にとって大切なものは、食事から摂る栄養だけではない。母や、母に類するものや、やはり大人の愛情である。愛情が足りないことで物理的に死ぬことはなくても、子供の心はほとんど死と同じ孤独を味わう。僕は姉とは違う人間でなければいけなかったし、「素直ないい子」でいる限り、死ぬことはなかったのだ。

「たはら えいじ」は、僕と同じ「さくら組」になった。式が終わり、教室に入る際、「たはら えいじ」はまず、その「さくら組」にいちゃもんをつけた。女みたいだと言うのである。確かに「さくら組」の名札はピンク色の桜の形をしていて、いかにも女っぽかったが、それがどうだと言うのだ。「ばら組」だって赤い薔薇(ばら)だったし、「ゆり組」も白い百合だ。そもそも僕が通った幼稚園のクラスは、すべて花の名前を冠しており、おしなべて女っぽいものなのだった。「なのはな組」「チューリップ組」「パンジー組」。

 僕らの担任になったモモエ先生(「たはら えいじ」は、その名前にもいちゃもんをつけた。いわく、「女っぽい」と。当たり前だ、女なのだから)は、「たはら えいじ」を宥めるため、様々な形で桜を擁護した。

「えいじくん、でもほら、桜って、すごく綺麗やろ?」
「今がちょうど一番綺麗な花やで」
 僕は、そんなんじゃだめだ、と思った。「たはら えいじ」が、姉ほどの気概を持った人間であるならば、そんなお為誤魔化されるはずがなかった。案の定、「たはら えいじ」は名札を放り投げたり床をゴロゴロ転がったりして、「桜の美しさ」なんてくそくらえ、と、全身で訴えていた。

 だだをこねたいだけなんだ、僕は思った。
「たはら えいじ」は、本当に「さくら組」が嫌なのではない。「ピストル組」でも「せんしゃ組」でも、結局は名札を放り投げ、床をゴロゴロ転がるのだ。自分が幼稚園に入園すること、母親と離れなければならないこと、知らない子供たちと過ごさなければいけないこと、とにかく何もかも気に入らなくて、だだをこねているだけなんだ。

 バツールのやり方は正しかった。ただただ、だだをこねていたいだけの人間は、タイル貼りの床の、何もない空間に閉じ込めて置けばいいのだ!

 教室には、僕たちの親もいた。後ろに並んで立っている親たちの中、「たはら えいじ」のお母さんは、すぐに見つかった。あまりにも「たはら えいじ」に似ていた(「たはら えいじ」のほうが、お母さんに似たのだが)。太い眉毛に隠れるように細い目があって、鼻も口も大きかった。
「たはら えいじ」はずっと顔をくちゃくちゃにしていたが、「たはら えいじ」のお母さんは、眉毛を八の字にしていた。そして、周りの大人たちに、ぺこぺこと謝っていた。

 僕は、母を見た、母は、「たはら えいじ」のお母さんなんて、そして泣き叫んで床を転がる「たはら えいじ」なんて、まるでそこにいないように、じっと前をみていた。母が見ている「前」には、「にゅうえんおめでとう」と書かれた黒板以外、何もなかったのだが、それでも母は、そこに何かがあるように、熱心に前を見つめていた。

 姉の入学式で、同じような思いをした母だ、あの日の母は、「たはら えいじ」のお母さんみたいに、眉毛を八の字にしなかったし、周囲にぺこぺこと謝ったりはしなかった。僕は母の膝の上に載って、姉の狼藉を遠くから見つめていた。見上げた母は、姉が何か叫んだり動いたりするたびに、こめかみをピクピクと動かした。それは家にいるときの母が、怒鳴る前触れだった。だが母は、決して怒鳴らなかったし、取り乱さなかった。どちらかというと、隣に座っている父のほうが、「たはら えいじ」のお母さんみたいな顔になっていた。母が止めなければ、父は立ち上がって、周囲に謝ったかもしれなかった。だが母は、それを許さなかった。
 私たちが悪いんじゃない。

 母は全身で、そう訴えていた。特に、私は悪くない。ものすごく、努力している。母として、あの子を、一生懸命、育てている。あの子は、まだ、6歳なのに、自分の部屋を、持っているし、その部屋には、可愛い、バルコニーまで、ついているのだ。この環境を、もってして、ああいった、態度を、見せるなら、それは、あの子、ひとりの、意思でもある。母は全身で、そう言っていた。

 あまりにも堂々とした母の態度のせいで、同級生の両親たちは、あの圷貴子という暴れん坊の両親は誰なのか、結局見抜くことは出来なかった。
 今母は、さくら組の教室で、あのとき自分が周囲にしてほしかったことをしていた。
「たはら えいじ」のお母さんを、見ないでいること。
 こんなことは普通だ、という顔をしていること。
 それがおそらく母の出来る、「たはら えいじ」のお母さんへの、最大限の配慮だったのだと思う。
 僕の入園式に、父は来なかった。仕事が忙しかったのだ。
 もし父がこの場に居ても、母は父に自分と同じような態度を取ることを強要しただろう。そして父も、母のその気持ちを汲んで、というより、父が母に盾つくことはあり得なかったから、ふたりでまっすぐ前を見つめていただろう。そこに「にゅうえんおめでとう」と書かれた黒板しかなかったとしても。
「たはら えいじ」は結局、先生の話が終わる前にお母さんに手を引かれ、帰って行った。後ろに並んだ母親たちは、ホッとしたような表情を浮かべていたが、中には終了後先生に駆け寄って、何か熱心に訊いている人もいた。「たはら えいじ」と自分の子供が同じ組であることに不安を覚えているのかも知れなかった。

 母というと、僕の手を引き,長居は無用だとばかりに、さっさと帰宅した。門を出るとき、僕をそばに立たせ、何枚か写真を撮影したが、それも「撮っておけばいいだろう」というような態度だった。母は僕のことを可愛がってくれたが、やはりどうしても、写真を撮影し続ける側の人間ではない。

 家から幼稚園までは、園のバスで通うことになる。だが、入園式では、バスはまだ出なかった。家から園まで、母と僕は市営のバスで来たのだったが、帰りは、(大人の足で)徒歩30分ほどの距離を歩いた。歩く事に異存はなかったが、僕の手を引いてももくもくと歩く母の気配にただならぬものを感じ、次第に緊張しはじめた。

 園から離れたところに緑道があり。その道が僕たちの家までの近道になっていた。緑道には桜が植えられ、目が痛くなるほど咲き誇った桜の花びらが、時々僕の頭上を舞った。園から同じように帰宅している親子連れが何組かいて、皆写真を撮ったり、楽しそうに話して歩いていた。

 僕と母のように、ふたりだけの親子もいたが、大抵が父親と3人で、中には小さな弟や妹と来ている家族もあった。
 僕は母とふたりでいることに、何の不満もなかった。もし姉が入園式に来たら、また何かしらしでかす可能性があることは分かっていたし、姉の担任から、母が何度も呼び出されていたことも知っていた。姉が家にいる時間が減った分、母と姉の戦いは少なくなったが、その分母の知らない学内での姉の動向を思う心労は増えていた。姉は相変わらずやらかし続けていたようだったし、学校側は母に特別学級を勧め続け、母はそれを拒否し続けていた。

 桜並木を母と歩くこの時間は、それはそれは平穏なもののはずだったが、僕は勝手に母の気配に当てられ、緊張していた。様々な様子で和んでいるほかの家族たちを見て、初めて、僕たちは少しおかしいのかもしれない、と思った。だが、そう思うよりももっと深い場所で、僕は、だからどうなるものでもない、と思っていた。

 もう生まれ落ちてしまったのだ。
 僕には、この可能性以外なかった。
 そんな言葉は、やはり知らなかったが、僕はその思いを経験していた。もしかしたら、すべての子供がそうだったのかも知れなかった。今ある環境がすべてで、それ以外の可能性はなくって、自分はずっとずっとここで生きてゆくのだと、思うより先に、ほとんど生存本能として身に着けている事なのかもしれなかった。一方でスーパーマンになりたいとか、お姫様になるのだと強くおもったにもかかわらず、自分の世界には無限の可能性、無限の選択肢があるなんて、実は小さなころは、思いもしなかったのだ。
 僕には、この家族しかいない。
 母の手をぎゅっと握ると、母は初めて僕に気づいたかのように、こちらを見た。僕がにっこり笑っても、母はどこかぼんやりしていて、そのことに僕は、焦ってしまった。
「たはら えいじって子、姉ちゃんに似てるな」

 母の気を引こう、という思いもあったが、それは僕なりの母への労いだった。姉のことは実は「たはら えいじ」のお母さんのように、あんなに眉毛を八の字にして、ペコペコと謝らなければならないことなのだ。母はいつもそのことに対峙しているのだ。

 だがもちろん、その言葉は迂闊(うかつ)だった。ぼんやりした表情から一転、母はほとんど怒ったような顔になった。
「全然似てへんよ」
 やってしまった、と思ったが、もう遅かった、母は桜並木の中、様々な親子を次々と追い越して行った。手を引っ張られた僕は、ついてゆくので精一杯だった。だが、母に待って、と言うことは出来なかった。
 緑道の中で、一番立派な桜の樹の前に、渋滞が出来ていた。入園式帰りの親子だけでなく、普通に花見にやって来た人たちがなんとなく溜まってしまって、追い越すことが出来なかった。

 母はイライラした様子で人混みをかき分けていたが、列はとうとう止まってしまった。足が疲れていたのでホッとしたが、母の機嫌がますます悪くなるのではないかと思って、僕は気が気ではなかった。
 そのとき、母の前を歩いていた男の人が、こちらを振り返った。
「すごい人ですね」
 イライラしていたはずなのに、母は反射的に笑顔を作っていた。
「そうですね、本当に、みんな桜見たいんでしょうね」
 男の人は、母の顔を興味深げにじっと見て、次に、母の手につながった僕に気づいた。
「入園式ですか?」
 男の人の隣には、僕と同じ幼稚園の制服を着た女の子と、その子と手をつないだお母さんがいた。お母さんは母を、女の子は僕を見ていた。ふたりとも、目と口が大きくて、トカゲみたいだった。
「そうなんです。夫が仕事で」
 お母さんは曖昧に笑っていたが、母が気付かないでいると、すぐに真顔になった。女の子は僕のことを熱心に見続けていて、その視線が疎ましかった。
「良かったら、写真を撮りましょうか? 桜の下で」
「いいんですか? 歩、ほら、写真撮ってくれはるって」
 そう言っても、しばらく列は動かなかった。母とそのお父さんは列を逆行して、そこそこ大きな桜の前に陣取った。ふたりの後ろに僕と、トカゲの母娘が従い、3人とも、何も喋らなかった。
「歩、ほら、おいで」
 母は僕を前に立たせた。肩に手を置いて、自分はその桜の樹に持たれるようにした。
 カメラを構えるお父さんの後ろで、母娘が僕たちを見ていた。やはりお母さんのほうは母を、娘は僕を。ふたりとも、ちっとも笑っていなかった。

 母はその日は、襟の白いレースになった。グレーのワンピースを着ていた。スカートの丈は他の人より明らかに短く、茶色い革のヒールも、他の人より高かった。僕はストッキングをはかない母の太ももの生暖かさをお尻のあたりに感じながら、笑ったほうがいいのかな、などと思っていた。結局僕は笑わないままシャッターは切られ、そのたびお父さんは、「いいですね!」と言った。
 見上げると、母が満面の笑みを浮かべていた。


 5
 幼稚園は、概ねうまくいっていた。
「たはら えいじ」のような厄介者は他にも数人いることはいたが、気配を消す技術のおかげで、僕はこれといった被害はなかったし、園は平和だった。僕はすぐに、母に会えない数時間を楽しむようになった。

 モモエ先生は、前髪から鬢(びん)の毛から、とにかく髪の毛が異常に多く、それはしばらずに垂らしているものだから、全体の印象として「毛の人」という感じだった。それに、他の先生に比べて声が小さいので、なんか暗いなぁと、僕は思っていた。

 それでも、というのは失礼だが、みんな組の唯一の大人に甘えて、昼寝の時間には、先生に寝かしつけて欲しい子供たちが列をなしていた。僕はそれを、もちろんみっともないことだと思っていた。中でも一番みっともなかったのは、列に加わっている「たはら えいじ」だった。「さくら組」は女っぽい「モモエ」なんて女っぽい、そう散々女っぽいさを否定していた「たはら えいじ」が、ぐずる女の子たちに混じって、先生に抱きつき、甘え、結果先生を独り占め出来ないことにいらだって泣き叫ぶという、最も女っぽいことをしているのだから。

 僕は昼寝のときはいつも、教室の隅で寝る事にしていた。そこにはアップライトピアノが置いてあった。普段は、そのピアノを取り合う園児で混雑する場所なのに、昼寝をするとなると人気がなかった。カーテンを閉めた教室は薄暗く、黒いピアノが、ちょっとした化け物みたいに見えるからだった。正直僕だって、うとうとしているさなか、薄目を開けて見上げるピアノの、異様な大きさと沈黙の重さに気おされそうになることはあった。でも、ピアノはピアノだ。僕はそのときすでに、母親の「サンタはおらん!」発言を耳にしていたし、ここにいる誰よりもお兄さんである、という自負があった。

 僕はその場処に率先してタオルケットを持ってゆくことで、皆から尊敬のまなざしを頂戴した。そんなことぐらいで尊敬されるなんて、ちょろいものだ。そのおかげで、僕は女の子から人気があった。体操をするとき、園の外に散歩に行くとき、二人組にならないといけないとき、何人かの女の子たちが、僕の所にやって来た。

 僕は一番人気があったわけではない。「さくら組」」で一番人気があったのは、「すなが れん」という男の子だ。「すなが れん」は背が高く、色が黒くて、唇が厚い、ちょっと黒人っぽい雰囲気を持った園児だった。よく話すし、足も速くて、分かりやすい人気者といった感じだった。女の子たちは「すなが れん」を取り合って喧嘩をしたり、貢物(組で一番人気の絵本や、綺麗な色のバケツなんか)を渡したりしていた。

 当時、組の中で、クレヨンを交換する、ということが流行っていた。自分の好きな色を集めるため、色をトレードするのだ。例えば黄色が好きな子は、黄色をたくさん集めるために、オレンジが好きな子にオレンジを渡して、黄色を貰う、という風に。だが、黄色もオレンジも主流ではなかった。それは「本当に黄色とオレンジが好きな子」がする行為だった。クレヨン交換が真に意味するものは、他にあったのだ。

 人気投票である。
 女の子に一番人気の色がピンクで、男の子に一番人気の色が青だった。すなわち、ピンク色を一番集められている女の子が一番人気で、青色を一番集められている男の子が一番人気、というわけである。

 結果一番青を集めていたのは「すなが れん」で、ピンクを集めていたのは「なかの みずき」という女の子だった。
「なかの みずき」は、実はとりたて可愛いというわけではなかった。「ますだ やんぬ」という、お母さんがスウェーデン人の女の子は、栗色の髪と大きな目、ピンク色の耳たぶが可愛かったし、「さじ みおり」という女の子だって、くるくるした天然パーマの髪をして、背が高くて素敵だった。

 そんな中、「なかの みずき」は、黒いおかっぱ頭に、ほとんど黒しかない目をして、すごく大人しい女の子だった。ふたり比べて、いや、組の女の子の中でも目立たない、地味な女の子だったのだ。でも、「なかの みずき」のクレヨン箱の中は、ほとんど半分が「あなたが一番です」の思いが込められた。ピンク色のクレヨンで埋まっていたのである。

 モモエ先生は、僕たちがクレヨンのトレードをしていることに気づいていたが、その底にある人気投票の真実には気付かないでいた。「なかの みずき」のクレヨン箱の圧倒的なピンク色を前にしても、モモエ先生は、
「みずきちゃんはピンク色が好きなんやね」
 そう、微笑ましそうに言うにとどまった。「すなが れん」のクレヨン箱の中の「半分青」という結果を受けて、気づいてもよさそうなものなのに、どうもモモエ先生は、鈍い所があるのだった。

 とにかく男の子の一位は「すなが れん」で、それは納得のいく結果だったが、「なかの みずき」の一位には、組の女の子たちの納得が得られなかった。僕もそうだ。

 だが僕なりに「なかの みずき」を観察し続けた結果、あることに気づいた。女の子たちが率先して好きな男の子や二番目に好きな男の子や三番目に好きな男の子にクレヨンのトレードを持ちかける中(「ますだ やんぬ」は、れんくんに早々に青を渡していたし、「さじ みおり」は僕に青を渡していた)、「なかの みずき」は、自分から決してトレードを持ちかけていなかった。

 組の男の子たちにクレヨンを持って来られたら、ぼんやりした顔で受け取り、黄緑色や茶色など、一応男の子っぽいけど、とりたてて意思のこもらない色のクレヨンを渡した。その徹底的に受け身の姿勢が、男の子たちの好奇心や嗜虐(しぎゃく)心をあおるのだ。そして最も重要なことに、クレヨンのトレードが始まって数ヶ月経っても、「なかの みずき」のクレヨン箱の中には、まだ青が残っていたのだ!

「なかの みずき」は、まだ本心を言っていない。
「なかの みずき」が好きなのは誰だろう。
 すでにつまらない色を貰った男の子たちでさえ、「なかの みずき」の青いクレヨンの動向にはハラハラさせられていたし、そんな気配を察しているのかいないのか、相変わらず「なかの みずき」は、ピンク色を増やし続けていたのだった。

 このゲームの残酷さは、一度ピンク色や青色を貰ったからと言ってそれで終わりではなく、のちに、「僕が上げたピンク色返して」「私があげた青色、別の子に上げたいの」などと、決定を覆せるところもあった。

 運動場で転び、鼻水を垂れ流して泣いた「ますだ やんぬ」は、それを目撃したふたりの男の子に「ピンク色返して」と言われたし、そっけない態度をとり続けていた僕も「さじ みおり」から「青色返して」と言われた。

 というわけで、見た目の印象に引っ張られ、「ますだ やんぬ」や「さじ みおり」にピンク色をあげた男の子たちも、次々とピンク色を回収し始めた。当然そのピンクは「なかの みずき」に渡るわけだが、「なかの みずき」依然ぼんやりと、ただ受け取るということをし続けるのだった。

 さて、組の中で、「なかの みずき」の他に、重大な決定を下していない園児がいた。青色を残している「なかの みずき」に対し、その園児は、ピンク色を残していたのである。
 僕だ。
 僕のクレヨン箱のなかには、ピンク色のクレヨンが鎮座していた。一度も動いたことがなかった。誤解しないでほしいが、決して「なかの みずき」を真似たわけではない。「なかの みずき」のように、決定を先送りしていたら人気がでるなどと、そんなずるいことを考えていたわけではない。何せ僕はまだ5歳だったのだ。そんな嫌らしい智恵なんて働かなかった。

 僕のクレヨンの中には、数本の青のほか、大量の水色があった。
 言い忘れていたが、水色のクレヨンは、女の子たちの「私、二番目にあなたが好き」という気持ちを表すものだった。「すなが れん」のクレヨン箱は、青が半分ほどあったが、そのほかの色は黒、茶色、白、黄土色、など、地味なものだった。「すなが れん」を大好きな女の子が多いのは確かだったが、「すなが れん」を嫌いな女の子もいる、という、それは証拠だった(茶色や黄土色にとことん申し訳ない。もうしわけないついでに、いえば、「たはら えいじ」のクレヨン箱の中は、おおむねそんな色ばかりだった)。

 その点、僕のクレヨン箱は非常に鮮やかだった。数本の青とたくさんの水色、黄緑色、緑などの美しい色たち。僕は決して一番人気の園児ではなかったが、2番か3番にはつけていた。そしてもしかしたら、そのほうがアンチもいる1番の「すなが れい」より優れていたのではないだろうか。

 嫌らしい智恵なんて働かなかった、と書いたが、5歳の僕は、そのへんのところはしっかりと自負していた。1番になんてならなくてもいい。だって僕のクレヨン箱のほうが、うんと綺麗だから。

 そしてその中に残っているピンク色のクレヨンは、組の女の子たちを少なからず刺激していたに違いない。だが、男の子と違って、「さくら組」の女の子たちは、白黒をはっきりつけてくれる男の子を好んだ。「さじ みおり」が僕から青色を回収してきたのもそういう理由だったし、僕のクレヨン箱に青色が少ないことも、そういうことだろう。女の子はいずれ、煮え切らない男には、見切りをつけるのだ。

 だが僕は、けっして曖昧な態度でいたわけではないし、本心を打ち明けるのを先送りにしていたわけではなかった。

 僕はすでに渡していたのだった。僕の「心の中のピンク色のクレヨン」を。
 それは、「みやかわ さき」という女の子だった。大きなアーモンド型の目が、だいぶ離れた位置についていて、鼻が小さく、口がすごく大きかった。一見してイグアナとかトカゲとか、そんな爬虫類に似ていた。

 組の男の子からも人気はなかったし、「みやかわ さき」は女の子とも遊ばなかった。つまり大体いつもひとりでいた。得体の知れなさでいえば、「なかの みずき」なんて目じゃなかったが、「みやかわ さき」「なかの みずき」のように、ただぼんやりしていたわけではなかった。それどころから、積極的に遊んでいた。組に或るおもちゃで、空いたピアノで、運動場の遊具で。
 それがいつもひとりだったというだけの話だ。そして驚くことに、「みやかわ さき」は、そうやってひとりでいることに、何の寂しさも困難も感じていないようだった。

 僕が「みやかわ さき」に惹かれたのは、まさにそういうところだった。姉ほどの積極性はないにしても、女の子たちは大抵自分のことを見てほしかった。「さじ みおり」は、僕のことを何度も呼び、僕がそっけない態度をとると拗ねるのだったし、「たはら えいじ」は別として、モモエ先生を取り合うのも、大抵が女の子たちだった。

 昼寝のとき、さっさと寝場所を決めてしまう僕と同じように、「みやかわ さき」もすぐにタオルケットを持って、僕と反対側の隅に寝転がった。そして、いつだって最後に起きてきた。先生がカーテンを開けると、昼寝が終わった合図だった。待っていましたと起き上がる子、まだ寝ていたい、とぐずる子(ときには泣き出す子までいた!)、そして大概がノロノロと目を覚ましていく中「みやかわ さき」は、死んだようにいつまでも寝ていた。胸のあたりまでタオルケットをかけ、その上でお祈りしているように手を組んでいた。目が大きすぎるのか、まぶたを閉じ切れておらず、いつも白目になっていて、本当に死体のようだった。

 様々な園児を宥め、すかし、起こしてから、先生が最後に「みやかわ さき」を起こしにゆくと、「みやかわ さき」は、死体みたいに寝ていたことが嘘のように目をぱちりと開けて、また粛々とタオルケットを畳むのだった。

 僕以外、こんな「みやかわ さき」を気にしている園児はいなかった。
 モモエ先生すら、初めの頃はみんなで遊んでいる中に「みやかわ さき」を無理矢理混ぜたりしていたのだが、「みやかわ さき」が何の気負いもなく皆から離れ、「寂しい」とか「こっちを見て」に類するややこしい雰囲気を微塵も出さず、楽しそうに遊んでいるのを見て、いつしか気遣う事を止めてしまったほどだった。

 クレヨンのトレードが始まってすぐ、僕は「みやかわ さき」を思い浮かべた。思い浮かべると、今までの淡い思いが急に現実のものになった。僕は「みやかわ さき」以外に、ピンク色のクレヨンを渡す相手はいない、そう思った。だから、早々に僕に青いクレヨンを渡してくれた「さじ みおり」や他の女の子たちに、決してピンク色のクレヨンを渡さなかった。

 僕は「みやかわ さき」と話したことがなかった。いえ、「みやかわ さき」は、組のどんな子供とも話していなかった。無視するとか、怖がっているとか、そういうことでは全然なく、「みやかわ さき」はいつだってやっぱり、ひとりで遊んでいるのだった。

 だが、クレヨンのトレードが。「みやかわ さき」に変化をもたらした。といっても、他の女の子のように青色のクレヨンを持ってウロウロするわけではなかった。「みやがわ さき」は、クレヨンを、好きな色と交換する」という、表面上の遊び方に夢中になっていたのだ。
「みやかわ さき」の好きな色は、緑色だった。
 緑色は、僕たちの組では、男の子の色だった。順位でいえば、大体4番目くらい好きな男の子に渡す色だ。「みやかわ さき」は、そんなことに頓着せず、自分のクレヨンの赤や黄色や青を、惜しげもなく渡しまくって、男女問わず、次々と緑色をもらっていた。

 組の子たちも、普段ひとりで遊んでいる「みやかわ さき」が、急に嬉々として自分たちとクレヨンを交換したがるのを見て、驚いていた。だが、「みやかわ さき」が集めているのが緑色のクレヨンだと知るや「ルールを知らない奴」というレッテルの中に追いやった。
 唯一、モモエ先生だけは、
「わあ、さきちゃんのクレヨン、緑ばっかりやねぇ。そんな好きなん?」
 と、表面的には正しいことを言い、僕たちの間では間違った判断を下していた。
 僕は「みやかわ さき」に緑色のクレヨンをあげた。すごくドキドキしていた。それは目視できうる限りでは緑色だったが、僕の中では、間違いなくピンク色のクレヨンだったのだから。
「なあ」
 僕が言うと、「みやかわ さき」は、絵を描いていた手を止めて、僕を見上げた。
 僕は初めて、「みやかわ さき」と、はっきりと目を合わせた、そのとき、僕は「みやかわ さき」の顔に覚えがある、と思った。当たり前だ、同じ組なのだから。そのうえ、僕の好きな女の子なのだから。でも、その覚えは、いま現実にいる「みやかわ さき」の実体を超えて、僕の頭の奥のほうにいる「みやかわ さき」を呼び起こした。

 桜並木。母に話しかけてきた男の人。その後ろで、僕たちをじっと見ていたトカゲの母娘。
「みやかわ さき」は、トカゲの娘のほうだった。僕のことをじっとみつめ、その視線を僕が煩わしいと思った、あの女の子だったのだ!
 どうして今まで気付かなかったのだろう。「みやかわ さき」の特徴的な顔は、忘れられる類のものではなかった。しかも僕の好きな女の子なのだ。僕はそのとき初めて、自分の脳の力を疑った。その頼りなさに、不安を覚えた。

 今こんな好きな女の子を、あのとき好きじゃなかったのは、どうしてだろう。
「みやかわ さき」の、誰も必要としない態度を好きになったのは確かだったが、僕は、「みやかわ さき」の顔も、はっきりと好きだと思ったはずなのに。

 僕は、「みやかわ さき」を、もうすでに知っていたはずの女の子の顔を、じっと見つめた。「みやかわ さき」は、僕のことを、僕がするようにじっと見つめていたが、その視線はどう考えたって煩わしくなかったし、それどころか僕の耳たぶを赤くして、僕を幸せな気持ちにするのだった。

 僕は、あのときすでに「みやかわ さき」に会っていたことを、何かとても重大なことのように思い始めた。後年、皆がそういう感情のことを「運命を感じる」と言うのだと知ったが、それを知るには、僕はまだうんと子供だった。でも、僕にとって「みやかわ さき」が、とても大切な何かに、以前にも増して変わりつつあることは分かった。
「これ挙げる」
 勇気を出して、僕はそう言った。緑色のクレヨンを見せると「みやかわ さき」の大きな黒目が、ぎゅうんと横に伸びた気がした、本当に、爬虫類みたいな顔だった。背景に大きな桜の樹はなかったが、それはやっぱり、あの時見た「みやかわ さき」の顔なのだった。
「ありがとう」
「みやかわ さき」の声は、男の子みたいに低かった。僕は嬉しくて、その場で飛び上がってしまいそうだった。自制心に長けた僕だ、もちろんそうはしなかったが、クレヨンを渡すとき、僕の心臓は最高にドキドキしていた。だが、本当にドキドキするのはこれからだった。

「みやかわ さき」は、僕に何色のクレヨンを寄越すのか。
 それは、彼女が僕をどう思っているかの証だった。
「みやかわ さき」の青色のクレヨンは、すでに「うすだ さなえ」という女の子に渡されていた。もちろん「あなたが一番」という意味ではない。「みやかわ さき」は、ただ「うすだ さなえ」が持っている緑のクレヨンが欲しかっただけだからだ。

「うすだ さなえ」にとっては、悪いことではなかった。青のクレヨンを2本にし、「うすただ さなえ」には、「一番好きな男の子」ふたりを選ぶ、という選択肢が出来たのだ。「うすだ さなえ」は一本目を「すなが れん」に、2本目を「もりなが ひんたろう」という、色の白くて綺麗な顔をした、「すなが れん」とは違うタイプの男の子に渡していた(女の子っていうのは!)。

 それを知っていたら、「みやかわ さき」にとって何色を誰に渡すかは、重要なことではないと分かっていた。でも、やっぱり、いざ「みやかわ さき」を前にすると、彼女がどんな色のクレヨンを選ぶのか、そしてそのクレヨンにはどのような思いが込められているのかを、考えてしまうのだった。僕は一瞬、心のどこかで、「みやかわ さき」がピンク色のクレヨンをくれるのではないかと期待した。

 初めて会った桜並木のことを、「みやかわ さき」も覚えているのではないか。その色をしたクレヨンを僕にくれるのではないか。ピンク色は女の色だったが、僕には関係がなかった。

 見下ろした「みやかわ さき」のクレヨン箱の中には、ピンク色がまだ一本残っていた。それは誰かが「みやかわ さき」に渡したものではなかった。「みやかわ さき」が、自主的に取っておいたピンク色だった。僕はクレヨン箱を探っている「みやかわ さき」の指が、ピンク色を探り当てるのを、辛抱強く待った。
「ほな、これあげる」
「みやかわ さき」が選んだのは、「はだいろ」だった。
 僕はその場で、立ち尽くしてしまった。手にした「はだいろ」は、一度も使われたことがないのか(最近、組の課題で、『お父さん』の顔を描く機会があったはずなのに? 「みやかわ さき」は、お父さんの顔を、何色で描いたのだろうか?)新品のままだった。

「みやかわ さき」は新品をくれたのだ、それは特別なことだと、ひとり僕が言い、もうひとりの僕は、「はだいろ」という色に、何の思いも「特別」もないことは、自分もよく知っているだろう、と言っていた(もちろん、実際はもっと稚拙な言い方だ)。

「みやがわ さき」は、僕に新品の「はだいろ」をくれた。ただそれだけだった。僕にそれを渡した後、「みやかわ さき」は、僕のすり減った緑色のクレヨン(木を描いたのだ)を大切そうに箱に仕舞、それから僕のことを、見なかった。

「みやかわ さき」は、僕のことをなんとも思っていなかったのだ。桜並木の出会いのことを覚えていなかったし(あんなにじっと僕の顔を見つめていたのに!)、僕のクレヨン箱に青と水色がたくさんあることにも、興味が無かったのだ。

 僕は4歳にしてサンタクロースの存在を否定されたが、今ここにきて、言葉を知る前の「運命」という感覚も、否定されたのだった。
 僕はそれでも、その「はだいろ」を大切にしていた。ずっと。
 今では「はだいろ」という色はもうない。肌の色があわいオレンジだと決め付けるのは差別だということで、「はだいろは」は、「うすだいだい」という色に変わったのだ。


 6
 姉は相変わらず、小学校の問題児だった。
 2年、3年と進級するにつれ、入学式で見せたような破壊的な態度は、徐々に収まっていたようだったが、授業中にじっとしていることはまだ出来なかったし、他の女の子たちのように、まとまったグループで仲良くすることは出来なかった。簡単に言うと、「姉には友達がいなかった。

 帰宅するのは僕のほうが早い、はずだった。だが、僕が帰宅する頃に、姉はもう家にいることが、度々あった。姉が勝手に学校から抜け出すこともあったし、教師が音を上げて、姉を家に帰すこともあった。

 幼いときは、只々泣き喚く、暴れる、といった態度を取っていた姉だったが、長じるにつれ、何か自分の想い通りにいかないときには、てんかんの発作のようなものが出るようになった。
 初めてそれを見たときのことを、覚えている。

 風呂上がり、母と言い合いになった(どんな理由でかは覚えていない。母と姉が言い争いになることなど日常茶飯事だったからだ)姉が、急に白目を剥いた。と思うと、ブリッジをするように背中を反らせ、そのまま床に倒れた。そしてすぐにブルブル震え出し、やがてその震えは、姉の体を床からバッタンバッタンと浮かすほど大きなものになった。

 僕は恐怖で、姉から目を離すことが出来なかった。母は救急車を呼んだ。受話器を持つ母の手が震えていたことが、僕を余計に怖がらせた。
 だが、不吉なサイレンを鳴らして救急車が到着する頃には、姉の発作はケロリと治まっていた。念のために病院に連れて行かれた姉だったが、別に何も異常はないということだった。姉はそれを何度も繰り返した。そのうち、母は姉の発作が始まっても放っておくようになった。長引くときには、頭から水を掛けた。

 だが、姉の担任はさすがに姉に水を掛ける事は出来なかった。姉が発作を起こすとオロオロしながら姉を見守り、保健の先生を呼び、発作が収まると同時に、姉を家に帰した。担任教師にとって、姉は関わりたくない類の生徒だったのだ。
 発作は、姉の仮病だったのだろうか。
 嘘つきの姉だったが、発作の様子はあまりに真に迫っていたし、何度見ても「死ぬんじゃないか」とこちらに思わせる迫力があった。姉自身、発作が起こると意識が遠くなり、このまま死ぬのだと思う、と言っていた。だが、母は姉の言うことを信じなかった。異常はないと言った医師のことを、母は信じた。

「信じられる? 実の娘の言うことは信じないで、たった一度会ったヤブ医者のことは信じるのよ」
 その頃の姉と母は、小学校4年生の娘とその母親が作る関係性において、ほとんど最悪の状態になっていた。姉は、家にいる間はほぼ部屋から出てこなかったし、たまに出てきたと思っても、母に対しては反抗的な態度しか取らなかった。イラン時代や矢田マンション時代のような積極的な攻撃性はなくなっていたものの、むっつり黙って、雰囲気で不満を表明するようになり、それによって得体の知れなさは、加速度を増していた。

 例えば僕が家で見る姉は、こんな風だった。
 部屋に籠り、しきりに何かを呟いている。時々音階のようなものも聞こえるが、決して明るい歌じゃない。壁をゴリゴリこする音がする。きっと棒状のものだ。壁に絵を描いているのかもしれないが、クレヨンやその類じゃない。何か硬いものだ。姉の手の届かないところから音がするということは椅子にでも乗っているのだろう。その証拠に、時々ドスン、と飛び降りる音が聞こえる。

 夕食時、部屋から出てくると、姉は食卓に着くのだが、なかなかご飯に手をつけようとしなかった。母はもう慣れているので、無理に食べさせようとはしなかったが、姉が黙ったまま席に座り続けていることに、はっきりと苛立っていた。出産のときと同じだ。「早く生まれたがったのに、何故ふんばる?」が「食卓に来るのに、どうして食べない?」に変わっただけ。

 僕にとっても、姉の態度は謎だった。ご飯を食べたくないのなら、そもそも食卓に着かなければいい。それでも姉は、毎度律儀に席に着き、律儀に食べないでいるのだった。たまに箸で食べ物をつつくが、あとはぷいと席を立ち、冷蔵庫からプリンとヨーグルトを出して、部屋に引っ込んでしまう。おそらく姉は、本当に食べたくないのではなく、「食べたくない自分」を、母に見せたかったのだろう。母に「どうして食べないのけと言ってほしかったのだろうし、それに対してダンマリを決め込んでいる自分を、いつまでも追求してほしかったのだ。

 様々なことに執着できる母だったが、姉に関しては、簡単に関心を手放していた。そうしないと、母もやっていられなかった。
 初めこそ姉に「食べなさい」「何が嫌なの」そう訊いていた母だったが、姉が4回返事を無視すると、もう何も訊かなかった。食事から音を立てて席を立っても、母は姉の方を見なかったし、冷蔵庫を乱暴に閉める音にも、何も反応しなかった。でも、僕は見ていた。母のこめかみを。母のこめかみは、冷静であろうとする母の感情を、唯一表す部位だった。姉が何か行動を起こすたび、母のこめかみはびくびくと動いた。浮き上がった血管は、まるで顔を流れる大きな川みたいだった。

 2階にある姉の部屋から、ドシンッと飛び降りる音が聞こえるときも、母のこめかみはぴくりと動いた。だが、こめかみがぴくぴくと動けば動くほど、母はことさら僕に優しい言葉をかけた。
「歩、お魚の骨取ってあげようか」
「美味しい? おかわりは?」
 母の優しい言葉は嬉しかったが、それが本心から発せられている言葉ではないことは、幼い僕でも分かった。母は、こんなことは何でもない、私たちは万事OK、そう自分に言い聞かせるために、優しい母をことさら演じたのだ。まるで母は、今後一生、姉のことで心を煩わされないようにと、堅く誓っているみたいに見えた。そして姉は、母のその誓いを破るべく存在し続けようと決意しているみたいだった。

 姉は、何が不満だったのだろうか?
 その頃の僕にとって、毎日はばら色、とまではいかなかったが、概ね良い色だった。幼稚園は楽しかったし(年長になって「みやかわ さき」とクラスが離れた僕だったが、新しいクラスである『かえで組』の中で、もうすでに他の好きな女の子「よだい えり」を見つけていたし、「よだい えり」も、僕に好意を持っているのは分かった)、毎朝目が覚めると、今日一日が始まることに、体中がワクワクと高鳴った。僕は世界が好きだったし、世界は僕に優しかった。

 母も、本心から僕を優しくしてくれるときがあった。例えばお風呂に一緒に入る時は、僕の足指から耳の裏まで丁寧に洗ってくれたし、僕が眠るまで絵本を読んでくれた。時々、「こめかみの感情」が母の優しさに勝り、僕にも攻撃をしかけてくるときもあったが、そういうとき僕は、ここぞとばかり空気を読める能力を発揮した。部屋を速やかに出て、寝室でブロックを広げて遊んだり、近所の子供と追いかけっこをして遊ぶのだ。そしてしばらくして戻ると、母はまた僕に優しくしてくれるのだった。僕は、うまくやっていた。

 一方、姉の僕に対する態度にも、波があった。気まぐれに僕のブロックを手伝ってくれるときもあれば、急にブロックを隠したり、耳をつねったりして意地悪をしてきたりもした。姉の暴力性は今に始まったことではなかったが、それでも身体的な被害には困った。姉につねられた耳は赤く腫れあがった。僕は初めそれを母に見せたのだが、怒り狂った母が姉の部屋の扉を蹴り、姉が奇声を上げる、というような修羅場になるので、いつしか母に告げ口をするのは止めにした。そこから僕は本格的な静観が始まったといってもいいだろう。姉に意地悪をされても、僕はじっと耐えたし、母には何も言わなかった。

 僕が静観の姿勢を貫いていたのに対して、父は度々ふたりの間に介入していた。というより、させられていた。
 父の帰宅は、毎晩遅かった。当時のサラリーマンたちのご多分に漏れず、父の仕事は「仕事をすること」だった。家庭の事を母に任せるのは、だから父だけに限ったことではなかったが、母はそれを許さなかった。僕たちが寝静まったと思ったのか、母が父に訴える声を、よく聞いた。
「私ひとりやん?」
「分からんわ」
 そのふたつが、僕がよく覚えている母の言葉だった。父の声は小さくて聞こえなかった。というより、父は何も言っていなかったのではないだろうか。

 父が姉ときちんと接することが出来たのは、土曜日の午後と日曜日だけだった(今となっては信じられないことに、週休二日制になったのは、もっと後のことなのだった)。父は姉を外に連れ出し、キャッチボールをしたり、プールで泳いだり、とにかく体を動かした。姉は父と出かけるときだけ、僅かに笑っていたし、帰ってからは、珍しく母の料理をがつがつと食べ、風呂に入ってすぐに眠る。健康的な4年生に戻った。

 その外出に、僕もよく同行した。
 僕がついてゆくことを姉が歓迎してくれる日もあったし、不満を表明する日もあった。歓迎してくれる日の姉は最高だった。お菓子もたくさん分けてくれたり、僕の荷物を持ってくれたりもした。不満を表明するときだって、車に乗っている間、ずっとそっぽを向いているだけで、身体的な被害がないのでまったく問題が無かった。僕はただ空気を消していれば良かったし、しばらくすると父が、何らかの方法で姉の気を惹いてくれるのだった。

 父は、体を動かすことが好きだった。一番気に入っていたのは、登山だった。スニーカーで気軽に登れる山から始まり、最終的には岩肌を越えて登るような山まで、僕たちはたくさんの山に登った。すれ違う登山者は、僕たちを見て驚き、大抵「偉いねぇ」と褒めてくれた。姉はそれを聞いて得意そうだったが、もっぱらその賛辞が向けられるのは僕だった。父に荷物を全部持ってもらっているとはいえ、まだ幼い僕が、大人の難儀する山道を、泥だらけになりながら登っているのだ。頂上では、一緒に写真を撮ってくれとせがまれたりした。登山はすごく辛かったが、皆の賛辞や頂上の風は気持ちよかった。そしてこの登山が、結果的に僕の体を強靭(きょうじん)にしてくれた。

 山に登ると、姉はいつもより穏やかになり、そして僕にも優しくなった。姉は僕の額の汗を拭ってくれ、水筒の水を飲ませてくれた。乱暴者の圷貴子は、どこらどう見たって、優しいお姉ちゃんだった。僕はそんな姉が好きだったが、その状態をどうして家でも維持できないのか、まったく理解できなかった。

ここにいない母が原因であることは歴然としていたが、もしかしたらやはりここに居ない同級生や担任教師や、学校そのもののせいかもしれなかった。とにかく姉は、何らかのことが気に入らず、腹を立て、思いが伝えられないときはてんかんの発作を起こし、そしてご飯を食べないという意思を伝えて、部屋にこもっているのだ。そしてそれに関して、僕が介入できる事は全くなかった。

 僕が家族の一員として、家族と一対一でいるときの自分を大切にしようと思っていた。姉といるときは姉といるときの僕を、母といるときには母といるときの僕を。決して3人でいるときに、あとのふたりをなんとかしようとしないでおこう。それは僕が決意したことだったし、そう決意せざるを得ない事だった

 父の関係はどうだったのだろう。残念ながら、この時期のことは、とてもおぼろげだ。こうやって外に連れ出してくれる父はいつも優しかったが、特別話することもなかった(僕たちがする事は、それほど会話を必要としないものだった。登山、水泳、アスレチック)。

 もちろん、僕は父に感謝していた。背の高い父は僕からみても恰好良かったし、母が禁じるようなことをさせてくれた(アイスクリームの2個食いや、服を着たまま川に飛び込むこと、など)。きっと父は、すごくいい父親だったのだ。だが、いかんせんわが圷家では、姉と母のインパクトが強かった、自然父の印象は、僕の中で薄くなってしまった。

 父は山頂で必ず煙草を吸った。そうするときの父には、僕や姉でさえ話しかけられない雰囲気があった。何度も言うが、父は優しかった。母と違ってこめかみをピクピクと言わせなかったし、扉を蹴ったりもしなかった。だが、山頂で父が煙草に火をつけた瞬間、父からは他の人を介入させない独特のオーラが出た。

それは母にもない、乾いた、そしてひんやりとした空気だった。僕たちに背中を向け、紫煙の煙を吐き出している父を、僕と姉は見ているしかなかった。絶対にそんなことはしないと分かっていたが、そのときの父には、僕たち姉弟を、簡単に山頂に置き去りにしてしまうような雰囲気があった。

 帰りの車の中で、僕はいつも眠ってしまった。時々、助手席に乗った姉と父が何か話しているのをおぼろげに聞いた。姉は興奮して、ダッシュボードをガンガン叩いたりしていた。
 一度、姉が家に持って帰ると言って、大きな植物の種を拾ったことがあった。棘(とげ)のついたアーモンドみたいな形の種で、綺麗な黄緑色をしていた。何の種なのか分からなかったが、父の親指ほどもある大きさと、その形から、きっと大きくておかしな植物が生えるに違いないと決めた姉が、庭に植えるために持って帰ったのだった。

 帰りの車の中で、僕はいつものように眠っていた。その間に父と姉とでどんな話し合いがあったのか(おそらく父の計らいだろう)、種は姉から母へのお土産、ということになった。僕は嬉しかった。姉が母に対してそのようなことをするのは、恐らく初めてのことだったからだ。

 家に着くと、車の音を聞いた母が玄関に出てきた。
 夏だった。母は逆光が眩しかったのか、右手でひさしを作って、左手を腰に当てていた。カナリアイエローのワンピースを着ていて、それが母にはとても似合っていた。父が車を駐車場に入れる間、僕と姉は先に車から降りた。いつもなら、姉はすぐに家の中に入ってしまうのだが、その日は違った、姉は種を握りしめた左手を後ろに隠していた。僕はそれを知っていたから、落ち着かなかった、この出来事がきっかけで、姉と母の関係が好転すればいいと願った。
 だがそうはいかなかった。近づいて行った姉が、ぱっと左手を開いたとき、
「きゃあっ!」
 母は大声をあげてのけぞった。
 恐らく姉がみせた種が、毛虫か何かに見えたのだろう。父が車を降りてくるよりも前に、姉は母に種を投げつけ、そのまま家の中に走って行った。
「何なのあの子!」
 まだ種を毛虫だと思っていた母は、姉の背中にそう叫んだ。僕は、少し離れたところで、しばらく立ち尽くしていた。

 説明すべきは僕だった。これは毛虫じゃない。お姉ちゃんが、お母さんにプレゼントしたいと思って持ち帰ってきた、素敵な種なんだ、と。でも僕は、姉と母の3人でいるときは、とにかく静かにしているだけの男だった。何も言わず、勝手に傷ついて、僕はじっと自分の足元を見ていた。
「歩、どないしたんや」
 車から降りてきた父が、そう言った。僕は何も言わなかった。
 母はすでに家の中に引っ込んでしまっていた。その背中で、母も傷ついていることは分かった。
 僕は足元を見ていた。山で付いた泥が、靴の先で干からびていた。


 7
 僕は、姉と同じ小学校に入学した。
 担任教師は、圷貴子の弟が入って来ることに、恐らくビビっていのだだと思う。入学式の後の顔合わせ、初めての出欠で、僕のことを多分に意識している様子が見て取れた。
 僕の出席番号は1番だった。担任は、
「圷(あつく)歩くん」
 そう言った後、僕の顔を確認するように見た。生徒の顔を覚えよう、という表情ではなかった。これが圷貴子の弟か、似ていないな、だが油断するな、なんたってあの圷貴子の弟なのだから、という感じだ。
「はい」
 僕は、速やかに、そして丁寧に返事をした。その静かな声は、悪意や暴力的なものからは、遠く離れていた。
 僕は僕で、小学校入学という出来事に、すごくビビっていたのだ。新しい世界に踏み出すときは、いつだって勇気が要るものだ。そのうえ僕には「あの圷貴子の弟」というおまけがついた。
 小学校で相変わらずやらかし続けていた姉だったが、つまり姉は変わっていなかったが、姉の周囲にいるクラスメイトの態度には、変化が見られるようになっていた。低学年のときは、皆姉を恐れた。乱暴者、得体の知れない人物として、姉を遠巻きにみていたし、「怖い」や「嫌い」に類する拙(つたな)いかたちでしか、姉の事を表現することは出来なかった。

 だが中学生になり、高学年になってくると、皆姉の狼藉を疎(うと)ましく思うようになった。相変わらず不気味な姉ではあったが、成長するにつれて衝動的な暴力行為はかなり潜めていたし、そうなると姉は恐れるに足りなかった。つまり、ただの「鬱陶しい奴」になり下がった。

 皆「怖い」や「嫌」以外の言語を持つようになり、姉をからかう罵詈雑言(ばりぞうごん)やあだ名を考えるようになった。頭の足りない男子生徒は、姉の事を「ぶす」と言ったし、意地悪な女子学生は、姉の事を「ガリガリ」と言った。十分残酷だったが、とても稚拙だった。姉はだから、彼らのことをまだ、下に見ることが出来た。言葉を知らない、馬鹿な子供なのだと、そう思うことが出来た。

 だがある日、姉を徹底的に傷つける言葉が誕生してしまった。
 例の「ご神木」である。
 考えたのは、男女問わず人気があった女の子だった。可愛くて、大人びていて、魅力的、つまり彼女が何か言うごとに、クラスの皆が従うような女の子だ。
「圷さんって、ご神木みたいやない?」
 その瞬間の皆の、けたたましい笑い声を、姉は忘れられなかった。

 皆の笑いは、すなわち彼女への同意だった。そしてその笑いの中に、大いなる尊敬の念がはっきりと存在していたことに、姉は何よりショックを受けた。
 姉は彼女のことを、下に見ることが出来なかった。彼女は尊敬されていたし、彼女がつけた「ご神木」という呼び名は「ぶす」や「ガリガリ」とは違った。とても大人びていたし、何より上手いこと言っていたのだ。
「ブタ」や「幽霊」と呼ばれていた子たちと、姉はだから、一線を画してしまった。
 皆、「ブタ」や「幽霊」よりも、もちろん「ご神木」と言いたがった。それを言うと、自分が頭のいい大人になったような気がした。皆、姉ばかりを呼んだ。
「ご神木!」
 そしてその言葉が、彼らを飛躍的に成長させてしまった。
 彼らは自分たち間に格差があることを知り、噓を覚え、世の中には傷つけてもいい人がいることを認識した。
「おい、ご神木!」
 姉は皆の感情を、一身に受けた。皆と同じように、姉もまた、自らの少女時代を、はっきりと失ったのだった。
 可哀想な姉。
 だが残念ながら、当時の僕には、そんな姉を慮(おもんばか)る余裕などなかった。僕は僕で必死だったのだ。入学2日目に、姉の同級生が、クラスたに顔を出した。
「圷ってどいつ?」
 僕は逃げも隠れもしなかった。ただ静かに、「きたか」、そう思っただけだった。
 遠くからそいつの顔を見ると、暴力に訴えかけてきそうな人間ではないと分かった。恐らくクラスでも人気があるほうではない。人をからかうことで優位に立ち、なんかクラスでの地位を確立しているタイプだ。その地位を守るためには、ちょっとくらい辛辣(しんらつ)すぎるからかいは辞さないだろう。

「なんやお前、全然似てへんな」
 僕がそんなことを考えているとも知らず、そいつは僕のことを精一杯見下していた。僕が美少年だということに怖気づいているようにも見えたし、そのことがきっかけで、より醜悪な言葉を浴びせてきそうにも見えた。クラスの皆が、息を呑んで僕たちを見つめているのが、振り返らなくても分かった。

 僕は彼に対して生意気な態度は取らなかった。かといって必要以上におもねったりもしなかった。自分が中庸であることで、そいつの心を波立たせないようにした。もちろん僕はガチガチに緊張していた。悪意あるからかいは我慢できたが、それが暴力に変わることだけは、勘弁してほしかった。

「お姉ちゃん。ご神木って呼ばれてんねんぞ。知っているか?」
 僕は返事しなかった。でもそれが、反抗的な態度だと取れないように、なるべくまっすぐな目で、そいつを見た。僕の体内は震えていたが、それが体の外まで伝わらないように、必死で耐えた。自分の威圧によって相手が震えていることが、そいつにとっては一番のご馳走になることは、分かっていた。

 そいつはしばらくニヤニヤと笑いながら僕を見つめていた。だが、僕にとりたてて突っ込むべき要素がないのを見て取ると、つまらなそうな顔になった。そしてどこか、ほっとしているようにも見えた。自分の義務は果たしたのだ、という顔だ。あの「ご神木」の弟を一応見てきた。ちっとこづいてみたが、頭が悪いのか、自分におびえていたのか(その方がいいが)、弟はとりたてて面白い事は言わなかった。そして、姉には全然似ていなかった。もうこいつに構う道理はない。そんな風に。

 それから、姉の同級生がクラスを訪れる事はなかった。僕は、危機を切り抜けたのだ。
 小学校には、そうやって少しずつ慣れていった。
 クラスには乱暴な奴はいたが、有難い事に、僕が姉の同級生を退治したという勘違いをされていたので、僕に意地悪する奴はいなかった。恐る恐るだが、僕は小学校を楽しみだした。

幼稚園より広い運動場があるのが良かったし、自分だけの机があるなんて、恰好良かった(僕にはまだ自分だけの部屋がなかった)。そして僕が何より気に入ったのが、給食だった。

 母には申し訳なかったが、母の作る料理より、給食はうんと美味しかった。きな粉のかかった揚げパン、ジャガイモがとろとろに煮込まれたカレー、ぶつぷつと千切れた甘いスパゲッティ。そして何より、瓶に入った牛乳! 家で飲んでいる牛乳と中身は同じはずなのに、瓶に入っていると、パックの五割増しで美味しくなるのだった。

 母の名誉のために言っておくが、母の料理が下手くそなわけではない。どころか、母の料理上手だった。イサキのアクアパッツァや、ハーブがたくさん入ったミートボール、ニンジンのポタージュ。母の作る料理は、華やかで豪華だった。でもどれも、僕には幼すぎたのだ。僕はケチャップの味が好きだったし。マヨネーズの味が、とんかつソースの味が好きだった。魚肉ソーセージなんて最高だったし、べちゃべちゃに伸びたインスタントラーメンはご馳走だった(それらは大抵、父と登った山の山頂でしか食べられなかった)。

 思えば、母も気の毒だった。せっかく手の込んだ料理を作っても、姉はヨーグルトとプリンの食生活だったし、僕は幼かった(それでも僕は母の料理を「美味しい」と言い続けた。その年頃の少年にすれば、涙ぐましい気の使いようだ)。

 父は平日、家でご飯はほとんど食べる事が出来なかった。やっと週末に食べることがあっても、ぼそぼそと口を動かすだけで、ちっとも美味しそうではなかった。母はよく父に、
「もうちょっと嬉しそうに食べられへんかね」
 そう文句を言った。父は申し訳なさそうにしていたが、申し訳なさそうにすればするほど、「ご飯を美味しそうに食べる夫」からは、遠ざかるのだった。

 一度こんなことがあった。食卓に置かれた、野菜の餡をかけた中華風の蒸し魚を見て、父がぽつりとつぶやいたのだ。
「普通に焼くだけで美味しいんやけどなぁ」
 それを聞いた母は、皿を持ち立ち上がった、そして、まだ誰も手を突けていない魚を、丸ごとゴミ箱に投げ入れた。

 姉がそれをみてにやりと笑ったのを、僕は見逃さなかった。僕の視線に気づくと、姉は僕の目を睨み返してきた。とばっちりを受けるのはかなわなかった。僕は俯き、自分の皿とお箸に集中した。皿には何も入っていなかった。つるつるとすべらかな青い皿は、母が気に入って、わざわざイランから持ち帰ってきたものだった。

 母は空っぽの皿を流しに投げ入れ、冷蔵庫からウメボシや漬物、生卵や瓶詰めの何か、出せるだけのものを出して、食卓にガンガン置き始めた。父は初め、モゴモゴと何か言っていたが、やがて完全に黙ってしまった。こういうとき、姉は全然部屋に引っ込もうとしなかった。この成り行きを全て見てやろうというギラギラした顔で食卓に座り、母の手元をじっと見つめているのだった。嫌な奴、僕はそう思った。

 母は一通り冷蔵庫の中のものを出し切ると、
「好きなん食べたら」
 そう言い放った。

 今度は、母が部屋に引き込む番だった。そのときこそ、不満を表明するべきだった。だが母は、そうしなかった、姉と一緒のことをするのを拒むように。がっつりと椅子に座り、食卓に並べられた何にも手をつけないで、ただ黙々と白米を食べ続けた。

 その後、父がどうしたのか、僕は覚えていない。あまりの緊急事態に、脳が記憶することを拒否したのだろう。はっきり覚えているのは、いつまでも食卓に座り続ける姉と母の姿だけだ。

 それからしばらく、母の作る料理は手抜きが続いた。すうどん、オムライス、ルーで作るカレー。僕にとってそれらは、何よりのご馳走だった。だが、母のあの様子を思い出すと、僕はこういう料理が好きなんだ、とは、絶対に言えなかった。

 ぼくは毎日給食表をみつめ、今日はうどんだ、カレーまであと何日だと考えた。そして家に帰って手の込んだ母のご飯を食べ、「美味しい」と言うのだった。

 母は料理だけでなく、家と自分を綺麗に保つことにかけても、並々ならぬ努力をしていた。6畳の居間にはいささか大きすぎるソファを購入し、ソファの背には自作のレース編みをかけた。姉は小さい頃は、そのレースを使って姉の服を手作りしていたのだが、姉が喚き散らして反抗するようになって、矛先を家具に向けたのだった。

 僕の家には、母が創ったありとあらゆるレースがあった。受話器のカバー、トイレの取っ手、食卓の脚、台所のカーテン。それは年を追うにつれ、どんどん精緻を極めたものになっていったが、それと反比例するように、姉はどんどんみすぼらしくなっていった。父のお下がりの服を着だしたのもその頃だ。姉は、伸びた髪の毛を梳かすことすらしなかった。長年「食べなかった」結果、げっそり痩せ、浅黒い肌は子供らしからぬ荒れ方をしていた。僕は姉が「ご神木」と呼ばれる前から、姉のことを枯れた木みたいと思っていた。

 髪を梳かすとき、母は、まるで一切構わない姉の髪を哀れむように、自身の髪に対峙した。風呂上がり、母は鏡の前に30分は立ち続けた、髪を乾かし、椿油で頭皮をマッサージして、豚の毛のブラシで、何度も何度も髪を梳かした。黒くて真っ直ぐな母の髪の毛を僕に触らせてくれた。それは僕が今まで触れたものの中で、一番細くて、一番綺麗なものだった。

 僕にとって母は母以外の何ものでもなかった。だが、同級生の家に遊びに行くと、僕の母の容姿が他の母親と違う事は分かった。同級生の母親たちは、Tシャツにずるっとしたスカートを穿いていたり、ジーンズを穿いていることが多かったが、母はぴったりしたタイトスカートや、華やかな色のワンピースを着ていた。

 僕をスーパーに連れて行くときでさえ、ヒールの靴を履いていたし、髪の毛を綺麗にまとめることも忘れなかった。見栄えをよくする事に関しては、母は女優顔負けの矜持(きょうじ)を持っていた。隙間なく塗られた桜色の指先で果物を選んでいると、八百屋のお兄ちゃんは絶対におまけしてくれたし、薄い水色の日傘を差して歩いていると、必ず誰かが声をかけてきた。母はそういう様々な好意に、ときに笑顔で返し、ときに気のない返事をしたりしていた。

 僕らの家には、たまにお客さんがやってきた。
 頻繫にやって来るのは祖母と夏枝おばさんで、稀にやってくる好美おばさん家族だった。まなえは、姉の部屋にベランダがあることを悔しがっていたが、姉の部屋に入りたいとは言わなかったし、姉も決して部屋に入れなかった。というより、姉の部屋には、僕たち家族さえ入る事は許されなかった。姉の「ゴリゴリ」は、今や天井にまで展開していたが、姉がどうやって天井に絵を描いているのか、それがどんな絵なのかは、姉以外誰も知らなかった。

 まなえは5年生になって、ますます太っていた。食べているものがいいのか、血色が良く、肌は透明感があって、愛されているイルカといった感じだった。まなえと姉の仲は相変わらず悪かったが、姉は特に、まなえのこの体型を嫌っているようだった。まなえは、姉と違い、母が作った料理をどれも美味しそうに食べた。食べない姉と並んで立つと、発育の不思議を思わずにいられない、歴然とした差があった。

 まなえが何でも美味しそうに食べてくれることを、母は喜んだが、好美おばさんは難色を示していた。母が女優ほどの気概で身綺麗に整えているのに対し、おばさんは政治家の妻のような隙のない恰好をしていた。大きく巻かれた髪の毛はガチガチに固められ、嵐が来たって揺るがなそうだったし、胸元に光るパールのネックレスは、ひとつひとつが鏡になりそうにピッカピッカに磨かれていた。

 母と好美おばさんは、長女に手を焼いているという共通点があった。その点では気が合ったから、仲が良い筈だった。お互いの爪を褒め、枝毛ひとつない頭髪を讃えたりしていたが、ふたりが並ぶと、でもどこかでぴりぴりした空気が蔓延した。お互いから、相手に負けたくない、というような気配が滲み出ていた。

 治夫おじさんは、とにかく自慢できる相手がいれば案山子(かかし)だって構わないというような人だったので、無口で我慢強い父は相手として最適だった。治夫おじさんは、自分の事業がいかに成功しているか、自分がどのような采配で社員をうまく使っているかをとうとうと父に語って聞かせて、父は時折「はぁ」「それは」などと気のない返事をしながら、結局うまくやっていた。

 自然、僕たち子供だけで残されることになるのだが、そうなると大体始まるのが、姉とまなえの、例の「私の方がマイノリティ」合戦だった。成長したふたりは幼い頃のように肉体的に困難なことをしてみせるのではなく、もっぱら討論に頼った。それも、すぐそばにいる両親たちに聞こえないような小声で、ちくちくとやり合うのだ。

 姉は何よりまなえの太った体を揶揄した。まなえとの口論により、やっと知る事になったのだが、姉がご飯を食べないのは、母への反抗からではなく(それももちろんあるだろうが)アンネ・フランクの日記を読んだことに端を発していた。

「アンネ・フランクの人生を思うにつけ、自分は吞気にご飯を食べることなんて出来ない。ご飯を食べないことによって私はアンネの気持ちになろうとしているのだ」
 姉の想いは強かった。僕は当時アンネ・フランクを知らなかったが、姉がただ単にだだをこねるためではなく、何らかの理由をもって行動を起こしていたのだと知って、小さく感動した。
 一方まなえは、そんな姉を馬鹿にした。
「ほんなあんたは、アンネ・フランクみたいに毒ガスで死ねるん?」
 正確にはアンネが亡くなった理由は毒ガスではない。なのに姉は、それを知らなかった。
 姉の詰めの甘さだ! それだけ強い思いで寄り添ったアンネの、正確な死因を知らないなんて! だが、ここで引き下がる姉ではなかった。昔なら「死ねる!」そう宣言した後、バスルームにでも閉じこもり、なんとか毒ガスを出そうと試みただろうが、そのときの姉は聡明な女の子だった。

「あんたみたいにブクブクと太るくらいだったら、毒ガスで死んだほうがまし」
 聡明な、という言い方は少し間違っている。「人を傷つけることにかけては優れた女の子」だった。なにせ姉は、人を傷つけ以上に、傷つけられてきたのだ。姉に浴びせられた罵詈雑言は想像がつかなかったが、姉はそのたび傷つき、そして心の中でそのつらさをののしる言葉を考え続けてきたのだろう(それにしても「毒ガスで死んだほうがまし」とは、結構な言い分だ。アンネだって怒るのではないだろうか)。

 まなえは、姉の思惑通り、姉の言葉に傷つき、顔を真っ赤にした。
まなえの学校には、まなえの体型をからかう児童いなかったのだろうか。そういえばまなえからは、姉の体から漂ってくる怒りのようなものはなかった。それが「アンネ・フランクを思うことと思わないこと」によって出来る違いなのかどうか、僕にはわからなかったが、とにかくまなえは、自分が恵まれていること、美味しいものを毎日思う存分食べている事を、まったく恥じていない様子だった。そして、ここが重要なところだが、自分は可愛いと思っているようなふしがあった。

姉のマイノリティ願望が「辛い思いを知っている人間になりたい」というものなら、まなえのそれは「自分はお嬢様でしかも可愛い、選ばれた人間なのだ」というものだった。
好美おばさんとの確執は続いたが、まなえは、まなえで、おばさんとは違う美しさを自分の中に見出したのだろう。まなえの逞しさを、僕は眩しく思った。

 姉とまなえの口論が白熱し始めるきざしが見えると、僕はこっそりと食卓を離れた。自分の部屋はなかった。両親の寝室に引っ込むのは子供っぽかったし、かといって居間で両親たちのやり取りを見るのは退屈だった。特におばさんと母の「ぴりぴり」に触れるのは怖かった。

 居間には義一と文也もいるはずだった。でもふたりは僕からして見ばうんと大人で、従兄弟というよりは知らないお兄さんという感じだった。

 ふたりともガタイが良かった。義一はラグビー、文也は柔道をやっていた。家に来ると行儀よく席に座って、両親のやり取りを聞いていた。特に義一は母の御気に入りだった。母の作る料理を、美味しい、美味しい、と言いながらいくらでも食べ、母がお代わりを渡すと、にっこり笑って礼を言った。「さわやかな好青年」を、絵に描いたような人だった。

 文也は、義一に比べて、もう少し陰があったが、それでも優しい兄さんだった。僕にあれやこれや質問をしてくれのだが、僕はすっかり人見知りしてしまって、ろくに返事をすることも、彼らに近寄ることも出来なかった。

 逃げ場を求めて入った和室には、義一と文也がいた。
「びっくりした、歩君か」
ふたりが驚いた以上に、僕も驚いた。そして驚いた後は、すぐに居心地が悪くなった。
 ふたりの邪魔をしたみたいで申し訳なかったし、ふたりと3人だけになるのはこれが初めてで、恥ずかしかった。僕は黙って出てゆこうとすると、義一が僕を手招きした。
「歩君、ちょつと」
 文也が笑いながら、義一をこづいた。義一は笑顔を崩さず。ずっと手招きしていた。仲間に入れてもらえるんだ。そう思うと嬉しかったが、まだ声には出せずにいた。僕が近づくと、義一はちらりと入口を見て、背中に隠したものを見せてくれた。
 裸の男の人がいた、ふたりだ。
 幼い僕の記憶は定かではなかったが、ひとりの男の人が、もうひとりを食べようとしているように見えた。ふたりの体がどうにかなっていたが、それがどういう状態なのか、そもそも本当にふたりの体なのか、分からなかった。そして恐ろしいのはここだが、そのふたりは、義一と文也に見えた。

 義一は髪の毛を逆立てて、ジェルでガチガチに固めていた。文也はくせのある髪をそのままにしていたが、耳の上だけ刈り上げていた。全然違う髪形だったが、ふたりはとても似ていたし、それはそのまま、僕が今見ている写真のふたりにも似ている。

 義一と文也は、僕の反応みて、声を上げて笑った。僕は何故か、自分が辱められたことだけを理解した。顔を真っ赤にして、口を真っ直ぐ結んで、でも、その場を忘れなかった。義一は、そんな僕を憐れみに思ったのか、
「ごめんな、忘れな。な」
 そういって、僕の頭を撫でた。
 あれはそういう雑誌だったのだと分かるのに、あと数年を要した。もしかしたらあれは僕が見た夢だったのかもしれない。ハイティーンになった義一が、律儀に我が家に来るとは思えないし、文也だってそうだ。そして、自分たちに似ているそういう雑誌を、兄弟で笑いながら見るはずがなかった。

 でも、もしそれが夢だったとして、どうして僕はそんな夢を見たのだろうか。当時の僕の中に、何かしらそういう傾向があったのだろうか。だが、そもそも僕は性行為すら知らなかった。恐らく僕が見た雑誌には、男女の性行為以上のものがあった。僕は何がどうなっているのか分からなかった写真の中で、男の人の体の真ん中にそそり立っている、塔のようなものをはっきりと覚えていた。

 その日の夜、僕は熱を出した。冷静な母も、声を上ずらせたほどの高熱だった。歯の根も合わないほどの悪寒に見舞われ、布団やタオルでぐるぐる巻きにされながら、僕はもちろん、あの写真の事は忘れられないでいた。両親には言わなかった。義一も文也も僕に「わすれな」とは言わなかったが、それが言ってはいけない類のことだというのは分かった。僕は自分の頭から、必死で映像を追い払った。だが、ふたりだった男の人は3人になり、4人になり、ついには数え切れないほどの大人数になって、僕の頭にいつまでも居座るのだった。

 寝入り際、姉が部屋の壁を削っているのが聞こえた。姉はまた、あの「アンネ・フランク」とかいう人のことを考えているのだろうか。
 僕の熱が下がったのは、2日後だった。
 5月に入って、僕と姉は誕生日を迎えた。

 ある日、珍しく早く帰っていた父が、僕に一緒に風呂に入ろうと言ってきた。姉は、父と風呂に入るのはとうに止めていた。どころか、あんなに好きだった父にすら、避けるような態度を見せ始めていた。夕飯をいつも通りつつくと、姉は冷蔵庫からヨーグルトとバナナを出して、自分の部屋に引っ込んでしまった。
 僕が母を見ると、母は食器を片付けながら、小さく頷いた。何かが起こるのだと直感的に察して、僕は父の後にしたがった。

 風呂に入ると、父はまず髪の毛を洗った。どうやったらそんなに、と思うほどシャンプーをもくもくと泡立て、音がするほど頭皮をこすった。それからタオルで石鹼をまた大きく泡立て、首から始まって、足の指の間まで、丁寧に、丁寧に洗った。父のタオルは、他の家族のもとは違って、ごわごわと硬い素材で出来ていた。一度それで体を洗ったが、ひりひりと痛かった。

 父は僕の体を僕のタオルで優しく洗った。「目を瞑れ」と言って、頭からお湯をかけた。お湯を掛けられる瞬間、耳の中は無音になり、水の中にいるような気持ちになった。それは少し怖くて、同時にわくわくすることでもあった。

 「歩」
 湯船にふたりで浸かると、父が僕の目をじっと見た。そんなことは珍しかった。ますます何かある。僕は湯船で身構えた。僕は何故か、数週間前に見た、義一と文也の雑誌のことがバレて、そのことを咎められるのだと思っていた。
「なに」
 僕の声は上ずっていた。父はしばらくお湯を掻き廻していたが、やがて、
「学校は楽しいか」
 そう言った。下半身からゆるゆると力が抜けて行くのが分かった。でも、まだ油断は出来なかった。僕はつとめて平静に答えた。
「うん」
「特に何が」
「給食」
「はは、給食って。授業ちゃうやん。授業やったら何が楽しい?」
「体育と国語」
「お、国語か。歩は文系なんやな」
 ぶんけい、というのが何か分からなかったが、父は楽しそうだった。どうやら怒られるわけではなさそうだ。僕はゆっくり安心しだした。
「国語で何習ってん」
「先生あのね」
「なんやそれ」
「あんな、先生あのね、ていう言葉から始まる文」
「それを読むんか」
「読むし、書く」
「書くんか」
「うん」
「先生あのね、て?」
「うん」
「そうか」
 父はお湯で顔をばしやばしゃと洗った。なんとなく気まずい感じだった。
 せっかく父が自分に興味を持ってくれたのに、面白い話ができなくて申し訳なかった。だが「先生のあのね」に関して、父を爆笑させられるような話を、僕は持っていなかった。
「歩、エジプトって知っているか」
 急だった。
「エジプト?」
「そう」
 僕の頭に咄嗟に浮かんだのは、教室に置いてある一冊の絵本だった。僕らの学校には図書館があったが、教室内に別に、学級文庫と呼ばれる本棚があった(指で口の両脇を横に引っ張った状態で「学級文庫」と言うと、「学級うんこ」になる、という遊びに夢中になったのは、僕たちだけではないだろう)。そこに「エジプトのみらい」という本があった。エジプトのミイラの作り方を、絵入りで説明している絵本だった。子供向けとはいえ、内臓を取り出す工程など結構グロテスクな表現が多く、僕の脳裏に強烈な印象として残っていた。

「ミイラ? あ、ミイラ? はは、まあそうやな。歩、よう知ってんな」
「学校で見てん」
「ミイラを?」
「ううん。ミイラの本」
「そんなん置いてあるんか」
「うん」
「ミイラなぁ」
 父は、何故か満足そうだった。山で、先に登っていた父が、振り返って僕たちを見る時の顔だった。
「そのミイラの国にな。エジプトにな」
「うん」
「行くことになってん」
「そうなん」
「そうなん、て。驚かんのか? お父さんも、お母さんも、貴子も、歩も行くんやぞ?」
 僕はすでにのぼせ始めていた。でも、父のいう事にうまく返事が出来なかったのは、そのせいだけではなかった。
 エジプトに行く? 自分たち家族が?
 それはあまりにも、非現実的なことに思えた。「エジプトのみらい」を見ている限り、エジプトは「ほとんど砂漠」だった。そこに住む、ということは、どういう了見か。テントを張るのだろうか。それともレンガで建物を造るのか。そして一番大事な問題だが、僕たちもミイラにされてるのか?

「歩も、一緒に行くよな?」
 黙り込んだ僕を見て、父は不安になったようだった。
「歩は小さかったから覚えていないかもしれへんけど、言うたやろう、歩はイランで生まれたんやで。イランとエジプトは近いねん」
 イランのことなんて、何も覚えていなかったし、近いと言われたところで、今僕たちが住んでいるのは、イランではなかった。

「友達と離れるのは辛いやろけどな、4年くらいしたら、またこの家に戻ってこれるねん。歩、5年生になっているけど、また同じ小学校に通えるやろ」

 自分が5年生になったところなど、全く想像出来なかった。僕にとって5年生は、アンネ・フランクの本を読んでご飯を食べなくなる年齢だったし、同級生の弟をからかってやろうと、意地悪な顔をしてやってくる年齢だった。僕がそっち側の年齢になるなんて、思いもよらなかったし、素直に言って、嫌だった。
「な、歩」
 父は、僕の頭を撫でた。僕は完全にのぼせてしまっていた。鼻の奥が、じんと熱くなった。
「あ」
 僕の鼻血が、ぽたぽたと、湯船に落ちた。血はお湯に滲んで、ふわふわと消えていった。

キーワード エジプト、マイノリティ、アザーン、モスク、エジプシャン、ピラミッド
カイロ、日本人学校
僕は、僕らのあずかり知らないところで、僕の運命が決定されてしまうことに絶望していた。圷家がバラバラになること、ヤコブと離れる事、その事実そのものよりも、その決定に僕が微塵も関われなかった事が悲しかった。

つづく 第二章 エジプト、カイロ、ザマレク

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