僕は想像の中で様々な女の子を登場させ、自慰に耽った。それは、僕くらいの年齢の男になら必ずある事なのかもしれないが、僕はいつも自慰の後、自己嫌悪に陥った。自分のことを、ひとりの人間を愛することが出来ない異常性欲者なのではないかと思った。

本表紙

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第三章 サトラコヲモンサマ誕生日

 23
 日本に向かう飛行機の中で、僕の耳に残っていたのは、ゼイナブの泣き声だった。
 ゼイナブは僕たちが帰国することを聞いてから、毎日のように泣いていた。母が座って泣いたあのソファに、今度はゼイナブが率先して座り、涙を流すようになっていたのだ。隣にはやはり母が、または姉が座り、ゼイナブの背中を撫でたり、共に泣いたりして、盛大に別れを惜しんでいた。
 僕だって、悲しかった。
 ゼイナブには本当にお世話になったし、時には、自分の母親以上の親しみを覚える事さえあった。でも、女たちに先に、あんな風に悲しまれると、僕の出番はなかった。つまり悲しむ余地がなかった。僕は帰国当日、ゼイナブにさわやかに別れを告げざるを得なかったのだ。
「いつかまたエジプトに戻ってくるよ!」
 明るくそう言った僕を、ゼイナブは泣きながら抱きしめた。それは僕の心からの想いだったが、ゼイナブにこんな風に泣かれ、抱きしめられると、自分が悪い事をしているような気持ちになった。泣きたかったが、やっぱり泣けなかった。
 結局僕が泣いたのは、機内のトイレでだった。
 僕の鼓膜の、(あるとするならば)襞(ひだ)のひとつひとつに、ゼイナブの泣き声がこびりついていた。その音が、カイロの思い出を、全て牽引していた、町中に響くアザーン、ガス売りの声、肉屋に吊られた首のない牛、大量の山羊の糞、ソファで泣く母。ヤコブのすべて、そしてナイル河に現れた白い、大きな生物。
 僕はゼイナブの泣き声に寄り添うように泣いた、飛行機の狭い個室は、花々のようなエジプトの思い出で埋め尽くされ、まるで棺桶のようだった。

 いつか必ず、エジプトに戻ってくるんだ。
 その瞬間強く、本当に強くそう思ったが、僕は、情けないくらい、圧倒的な子供だった。いつか自分が大人になって、両親の庇護のもとから抜け出すことになるなんて、想像も出来なかった。絶対に戻ってくる、そう思う心のどこかで、もう二度と戻ってくることは出来ないだろうと、諦めてもいた。

 父は、遅れて帰国する事になっていた。イランと同様、残務処理があったからだ。
 カイロでの別れが、事実上僕たち親子の別れになった。
 父は、苦しそうだった。姉を見て、そして僕を見て、何か言いたそうだった。でも、そこで結局何も言わない父、圷憲太郎だった。鍛えすぎて骨ばった腕で、僕と姉の肩を叩いた。そこでも僕は、ことさら爽やかに、別れを告げてしまった。

 本当は、僕だって悲しかった。泣きたかった。
 でも、その時の僕は、隣にいた姉に、心から賛同していた。
 僕は悪くない。
 姉は、憮然としていた。ファザコンだった姉だ、父と別れるのは辛かったに違いない。でも姉はきっと、こう思っていたのだ。
 私たちは悪くない。
 僕も、同じ気持ちだった。
 父と母が別れることになったのは、そして父が僕たちと離れなければならなかったのは、僕らの、少なくとも僕のせいではなかった。父がどんなに悲しんでいたって、苦しそうにしていたって、そのことで僕が胸を痛める義理はなかった。悲しいのであれば、僕たちと一緒にいればいい。家族みんなで一緒にいられる努力をすればいい。大人たちの問題に、子供たちが介入出来ないのであれば、僕たちだって、自分の感情を惜しげもなく手渡すつもりはない。そう思っていた。

 それに僕達は今後、自由に父に会う事が許されていた。永遠の別れではなかった。ここ1年ほど、父は、平日は夜遅くまで帰ってこなかったし、休日は一日中体を鍛えていたわけだから、実際僕たちと会う時間はほとんどなかった、姉は反抗期に入りかけていたし、僕は家より外の世界に注心していた。僕たちが必要以上に悲しむ必要は、だからほとんどなかったのだ。

 唯一心から悲しかったのは、僕たちの住んだあの家が、すでに売りに出されていたことだった。僕は自分の家に、ゆっくり別れを告げる事が出来なかった。父も母も、一度決意すると、やることが早かった。離婚を決めた途端、日本の代理人に動いてもらって、早々に買い手を決め、さらに僕たちが住む新しい家まで決めてしまっていたのだから。もちろん、僕たちに何も相談もせずにだ。

 父と母は、自分たちの思い出となるものと、とことん決別する魂胆らしかった。
 大人たちの身勝手さは身に沁みて分かっていたつもりだったが、これらには参った。ふたりにとっては消してしまいたい過去がある家でも、僕らにとっては大事な我が家だ。カイロにいるとき「日本帰りたいなぁ」と思う時は、必ずあの家を思い浮かべていたし、あの家が、僕の中の「帰る場所」なるものを、丸ごと引き受けていた。あの家に住んでいたとき、僕はまだ小さかったが、風呂場に大きな蜘蛛が出たこと、階段から落ちて血を流したこと、すべてが麗しき瞬間だった。あるいは僕が成長したからかもしれないが、驚くことに、姉が描いたあの恐ろしい巻貝だって、僕にとっては、尊い思い出の一つになっていたのだ。

 家を買った人は、母から聞いたところによると、僕たちと同じ4人家族らしかった。「巻貝の部屋」には誰が暮らすのだろうか。
 姉に未練があるのかどうかは、分からなかった。姉はますます無口になったし、眉間に皺を寄せる他は、表情らしい表情は見せなかった。姉は牧田さんとの恋を終えた瞬間から、積極的に感情を発露するのを止めてしまっていた。帰国時、牧田さんとも、なんともあっさり別れた。

 僕たちの新しい家は、祖母の家と同じ町会にあった。
 同じ町会どころではない。ブロックまで同じだった。だが、祖母の家よりも数段綺麗な一戸建てで、小さいながらも庭があった。のちに分かったことだが、購入資金はすべて父が出したのだったし、僕たちの養育費、生活費も、父が出すことになっていた。母は実質、ほとんど働かなくていい状態だったのだ。しかも、夏枝おばさんと祖母への仕送りも、父は続けていた。今橋家は、父・圷憲太郎に、とことん頼っていたし、これからも頼り続けるつもりのようだった。

 でも、そのときの僕は、そんな事をまだ知らなかった。
 とにかく、父は、母を傷つけ、それも相当な傷をつけてることをやってのけ、そして逃亡したのだ。そう思っていた。
「逃げやがった」
 今から思うと、子供らしい。だからこそとても残酷な感想だと思う。でも10歳の僕の想像力では、それが限界だった。
 僕は実質、母と姉の諍いのある現場に残された。姉は母、そして祖母と夏枝おばさん。僕の周りにいるのは、女だけになってしまった。

 僕は5年生の新学期から、小学校に通う事になった。
 1学期からの転入だったので、皆もクラス替えを経験し、まだ馴染んでいなかった。それでも、1年生からいる児童たちは顔見知りだったし、友達同士同じクラスになったりして、それなりに楽しそうにやっているようだった。

 僕は緊張していた。いや、ほとんど恐怖していた。
 カイロでは、クラスなんてひとつしかなかった。でも僕が通う小学校には、1クラス40人、それが5クラスもあった。僕がここまでの大人数を経験したのは、1年生の1学期だけだ。そんな頼りない記憶は、新しい環境を生き抜くよすがにわならなかった。

 僕が入る事になったのは、5年1組だった。転入生として紹介された僕が、
「エジプトから来ました」
 そう言うと、クラスメイトたちは知っている者同士歓声をあげたり、目配せをしあったりした。かなり盛り上がっているな、ということは理解出来たが、それが好意的なものなのか、別の何かなのかは、まだ分からなかった。

 僕はずっと、緊張していた。
 カイロにいたことをことさらアピールしては駄目だ、とは分かっていた。マイノリティをひけらかすと、ロクなことにならない。でも皆が僕を尊敬するくらいは、伝えなければ、僕は良い塩梅を探すため、頭を必死に働かせた。掌に大量の汗をかいた。探り探り自己紹介をしながら、僕は心の中で「サラバ、サラバ」そう唱えていた。隣にヤコブがいるところを想像した。たくましくして聡明で、頼もしいヤコブが。それは僕の心を束の間落ち着かせたが、想像すればしただけ、ヤコブの不在に、胸がぎゅっと締め付けられた。

 席は出席番号順だった。僕は会田という児童の後ろに座った。緊張は解けなかったが、僕が座っても、ヒソヒソ話や笑い声が起きなかったので、とりあえずホッとしていた。
 この世には、転入生に最初に話しかけてくれる人種がいる。

 その人種は、大抵お調子者で好奇心が強くて、そして優しい。転入生は、あらゆる場所で連中に助けられる。トイレの場所や流行っているものを教えてもらったり、クラスのなんとなくの人間関係を示唆されたり、ときには勉強の遅れまでサポートしてくれたり。

 だが不思議なことに、そういう連中と転入生は、次の学期には疎遠になっている。喧嘩別れをするしないではないし、お互いに幻滅するわけでもない。ただ、クラスの中にそれぞれの居場所が出来てゆくのだ。

 初めて僕に話しかけてくれたのは、長木という男子児童だった。
「今橋ってエジプトから来たん? すごいな」
 言い忘れていたが、苗字は今橋になった。
 圷歩から、今橋歩への変化だ。出席番号は、そんなに変わらなかった。長木は、わざわざ「な」行のエリアから僕の席にやって来て、話しかけてくれたのだ。
「すごくないで。僕は親に連れられて行っただけやから」

 謙虚さは幼少の頃から身につけていた。それに加え、僕にはカイロでの「彼ら」との邂逅(かいこう)があった。「彼ら」は、何もしていないのに、親のおかげで大きな家に住む僕に、決定的な羞恥心と罪悪感を植え付けた。偉そうにしちゃいけんい。自慢しちゃいけない。これは、僕の手柄ではないのだ。僕はしゅくしゅくと、長木の質問に答えた。

「でもエジプトに住んでいた奴なんて、初めて見たで」
「でも僕、いうても4年だけやから。もっと長く住んでいる人もおったし」
「へえ! お父さんもお母さんも日本人なん?」
「日本人やで。お父さんの仕事で行っていただけやから」
「恰好ええなぁ!」
「そんなことないよ」
「あ。俺長木って言うんねん」
 でも、長木が僕のことをすぐに「今橋は」と話し始めたことは、しっかり頭に入っていた。この場合ではこれがスタンダードなのだ。僕は、クラスメイトたちの話し方を注意して聞き、自分のことを「僕」と言うようにしていた。そんなことは簡単なことだった。僕は、転入生の自己紹介で、すでに関西弁を使っていたのだから。

 速やかに皆に馴染もうと努力するとき、僕の脳裏に浮かぶのは、必ず姉だった。姉は、恐らくやらかしているに違いない。教室にいるたくさんの生徒を見て、姉は例の強迫観念に駆られたはずだ。僕はそう思っていた。

 果たして、その通りだった。
 姉はやはり、やらかしていた。
 姉は市立中学校3年4組での自己紹介で、あろうことか、日本語と英語を混ぜて話したのだった。
「初めまして、今橋貴子です。エジプト、カイロから来ました、皆さんに会えてソー・ハッピー、日本は分からないことだらけだけど‥‥」
 というような具合だ。
 姉は気負ったのだ。
 たくさんの生徒、しかも同じ制服を着た何十人を前にして、久しく忘れていた、暴力的ともいっていい「私を見て!」願望を思い出したのだろう。どんな無口になった姉でも、精神的なやかましさは、まったく衰えていなかった。それどころか、強度を増していた。

 姉のクラスも僕と同じ40人、クラスに至っては8組もあった。久しぶりに見た同じ年の子、姉にとっては無個性に見える同級生に対して、姉は精一杯虚勢を張ったのだった。

 日本にいたときのクラスメイトは、姉を「ご神木」と呼んでいた生徒たちがひとりもいなかったことも、もしかしたら姉の精神に悪い結果をもたらしたのかもしれない。姉はもう一度やり直したかったのだし、忌まわしい日本の思い出に、復讐をしたかったのかも知れなかった。かつて「ご神木」としい貶められた者が、今度は本当の「ご神木」のように、崇め奉られることを求めたのだ。

 確かに「エジプトから来た女の子」は、大きなトピックのひとつだった。僕の小学校と同様、姉の中学校にそんな生徒はいなかったし、姉の「日本語と英語交じりの自己紹介」も、姉の中学校を大きく賑(にぎ)わせた。
 だが、姉は失敗した。

 中学生が、どれほどややこしい感情を持っているかを、姉は知らなかった。姉は確かに彼らに驚きを与えたが、それ以上に戸惑いを、そして最終的に苛立ちを与えた。姉のやった事はつまるところ、関西弁で言う「いきり」以外の何ものでもなかった。調子に乗った奴、いきがった奴、しゃらくさい奴。つまり姉は、「エジプトという珍しい場所から戻ってきたことを、これみよがしに自慢する嫌な奴」だった。

 そして、ここには牧田さんはいなかった。牧田さんだけではない、牧田さんに代表される、大人びた同級生はいなかった。

 断じていうが、姉の新しい同級生たちが悪いわけではなかった。姉のような異質な、しかも自らの異質をプロデュースしようとする人間に対して、寛容な態度をとれる余裕はなかっただけだ。彼らはほとんど、生まれたこの町から出た事がなかったのだし、今年は受験を控えていた。

 芽生え始めてから、みるみる化け物のように成長した自意識を抱えながら、彼らは懸命に生きていた。懸命さでいえば、姉も同等だったが、姉のやり方は、皆とはあまりにも違っていた。そして異質なものは、排除される運命にある。

 姉は「ソー・ハッピー」と呼ばれるようになった。
 もちろん、好意的なあだ名ではなかった。姉は、皆に疎ましがれた。姉はそれに戸惑った。自分がどんな失敗を犯したのか、分かっていなかった。
 一方、僕らを新しい環境に追いやった張本人である母は母で、あれほど長く住んでいた日本の生活に、戸惑いを見せていた。

 まず、スーパーの品数と清潔さに打ちのめされた。一時帰国のときは、宝物のように見えたそれらが、これから永遠に手に入るものだと認識してしまった途端、どうしようもなく贅沢で、ふざけたものに変わった。
 予め小さく切られたネギのパック見て、母は「噓やろ」と言い、レトルトの袋に書いてある「ここから開けてください」の矢印を見て「阿保か」と言った。

 母が言うには、このままでは、日本人の手は退化し、脳みそも小さくなるに違いない、とのことだった。駅に行けば「電車の到着が1分ほど遅れましたことをお詫び申し上げます」、電車に乗れば「傘のお忘れものにご注意ください」、確かにこれは、自分で考える暇がなかった。

 いちいち値段交渉をしないといいタクシーや、ひねれば綺麗な炎が出るガスコンロ、絶対に停電しない電気と、永遠に綺麗なお湯が出続ける風呂、母は喜びと、同時に苛立ちで爆発しそうになっていた。
「なんやのこの国!」

 母にそんなことを言う権利はまったくなかった。そしてそれをはっきり言ってしまうところが、母に長年友人がいなかった所以(ゆえん)だった。カイロでの、母のあの煌びやかな生活、たくさんの人に囲まれ、有名人然として生きてきた母の夢の時間が、そのときまさに、終わりを告げたのだった。

 全く相いれないふたりだったが、図らずもカイロの生活が性に合っていたという点で、姉と母は母娘だった。DNAの力は侮れない。
 一方、その対極にいたのが僕だった。

 姉と母のように、会う場所があり、合わない場所がある人間とは違って、僕にとって場所は、それほどの力を持っているものではなかった。力があるのはこちら側だった。自分をなくすということにおいて、僕は最強の力を発揮した。僕はどんな場所にも、いずれは寄り添うことが出来た。

 僕は5年1組に慣れ、いつの間にかまた、「クラスの中心的な奴の親友」という地位を頂戴していた。世間のご多分に漏れず、長木とは疎遠になった。もちろん、険悪な別れではなかった。朝会ったら挨拶をしていたし、席が近くになったら話もした。でも、積極的に関わり合う事はなくなったのだ。

 僕の親友になったのは、大津という奴だった。
 体が大きく、切れ長の目をしていて、5年生なのに6年生よりも貫禄があった。ほとんどまだ半ズボンを穿いているクラスメイトの中で、ひとりだけ上下黒のジャージを着ていて、それが色の黒い大津の皮膚に相まって、黒豹のような雰囲気を演出していた。

 大津は僕のことを、今橋を略してイマバと呼んだ「し」くらい言えそうなものだが、その投げ出すような呼び方がイカしていたるクラスの皆が大津を真似した。4文字以上の苗字の生徒は、皆3文字に切られた。高橋はタカハ、永沢はナガサ。

 僕は正直まだ、今橋という姓に慣れていなかった。僕の中では僕は、やはり圷歩だった。でもイマバという呼び方は、わずかな違いでも、今橋から遠くなったような気がした。たった1文字が、今橋とイマバを隔てたのだ。

 僕はすぐにイマバになった。そして大津のことを、「おおつ」ではなく「オーッ」という感じで呼んだ。

 普通、僕たちのような帰国子女は、私立の学級に入れられることが多い。特に中学生や高校生は、帰国女子枠というものがあり、特別なクラスが設けられたりする。帰国女子はたいてい英語が話せ、そして裕福な家の子供が多い。

 僕と姉は、英語が話すことが出来なかったが、立派な帰国子女だ。それに、カイロでのあの暮らしを考えたら、裕福な家の子と言っても良かった。

 でも、僕らが通っている学校は、地域の公立の学校だった。生徒の中には、八百屋の子もいたし、サラリーマンの子もいたし、僕のような片親の子もいたし、スナックのママの子もいた。そのことに僕は驚いた。

 カイロのときの友達は、皆、商社や僕の父親のような一般企業のサラリーマンだった。それも、裕福なほうの、だ。とにかく親の経済状態は、大体似通っていた。でも日本では、特に僕の学校には、様々な出目の子供たちがいた。

 父親が働いていない子もいた。室井、という名前のその児童は、いつも同じ服を着て、淡(たん)をからませていた。オーツの話によると、すでにタバコを吸っているということだった。つまり僕らのエリアは、あまりガラいい方ではなかった。

 両親には、僕らの環境を考えて、私立に入れる選択肢もあったはずだ。だが、ふたりは自分たちの離婚のことにかまけていた。特に母は、とにかく実家の近くに家を買うことだけを、頑なに決めていた。それ以外のことは考えなかった。

 帰国子女がたくさんいる私立に転入していたら、姉があれほど目立つこともなかったのかもしれない。英語と日本語交じりの自己紹介も、あるいは普通の事だったのかもしれない。でも、それが普通のことである場所でなら、姉はそんな事はしなかったはずだ。姉はその場で一番特別であろうとするからだ。姉は、どこに行っても失敗していただろう。何より、そんな「たら」「れば」の話をする前に、僕たちの生活は、すでに始まっていたのだ。

 この街が。僕たちのすべてだった。
 僕は全力で街に馴染むように努力した。11歳は、 そろそろ体に変化が見られる年齢だった。クラスメイトの中には、うっすら髭が生えている男子がいたし、5年生にしてどこか中年の疲れた男のような雰囲気を持って者もいた。そんな中、僕は可愛い過ぎた。鼻の下に顎にも、髭が生えてくるような気配はなかったし、髪の毛は茶色くサラサラになびき、くりくりとした目は濁りがなかった。つまり美少年だった。美少年のままだった、と言っていい。

 それはきっと、人に誇れる事だった。でも、11歳、大人になりかけの僕ら男子にとって、それは長所ではなかった。特に、こういった、少し荒っぽい地域では。
 クラスの中には、僕と同じように、まったく髭の生える気配を見せない、どう見たって低学年にしか見えないような連中もいた。というより、そんな連中ばかりだった。だが僕は、そういう自分に安穏と胡坐(あぐら)をかいているような人間ではなかった。

 僕は早々に、男っぽくなる努力を始めた。
 美少年はやがて「女っぽい奴」になるだろう。すらりとした体型も、いずれは「ヒョロヒヨロ奴」になるだろう。「俺」と言っているだけではだめなのだ。現に、オーツはもう上腕に筋肉の筋が浮かぶようになっていたし、もちろん髭も生え始めていた。そして重要なことに、オーツのお父さんは、柔道の先生をしていた。オーツは小さい頃からお父さんに柔道をならない、オーツの中学2年生のお兄さんは、区の大会で優勝するほどだった。

 僕は迷わず、母にオーツの柔道教室に通わせてくれ、と懇願した。
 男らしくなるためなら、何も厭(いと)わなかった。母は、僕の願いを聞き、驚いていた。
「あんたが柔道? ガリガリやないの!」
 姉にガッカリさせられたから、母は僕の容姿をとても気に入っていた。
 母は僕に、どちらかというとお坊ちゃんぽい恰好をさせたがった。例えば青のチェックのダウンジャケットや白いポロシャツなんかだ。何度言っても恐縮だが、美少年の僕は、そういった服がとても似合った。母といるとき、ほかの日本人のお母さんに会うと、お母さんたちは僕を見て目を細め、「まあお上品な坊ちゃんね」などと言い、母を納得させてたものだ。

 カイロにいる間は、それで良かった。何故なら、僕の友人は皆、本当のお坊ちゃんだったからだ。でも、ここでは違った。イニシアチブを握っているのはオーツだったし、これからも、「オーツ的なもの」が主流であり続けるだろう。とにかく男は男らしくすることが、この町の流儀なのだ。
「あんた、苛められてるんと違うやろな?」
 母は、僕が柔道を習いたがることに疑念を抱いたようだった。
 僕はもちろん、苛められていたわけではなかった。でも、未来に可能性のある忌まわしき芽は、すべて摘んでおきたかった。美少年のこの顔が治らないのであれば、スペックで勝負するしかないのだ。

 僕の懇願以上に、母の拒絶も強かった。
「柔道やったら耳がつぶれるやん! いや!」
 母はとことんまで、そういう女だった。
 僕は珍しくごねた。とにかく男らしいスポーツをさせてくれ、と訴え続けた。
 結局母との妥協点となったのは、地元のサッカークラブへの入会だった。柔道ほどの男らしさはなかったが、いつだってスポーツが出来る人間は、簡単に尊敬されるものだ。僕は週に三度、放課後に行われるサッカーの練習に参加するようになった。

 半年も続けていると、だんだん足に筋肉がつき、顔は日に焼け、精悍(せいかん)になった。もうオーツの隣にいても、そんなに引けを取らなくなってきた。そして校外に友人が出来たことで、僕の世界は一気に広がった。


 24
 僕らは度々、祖母の家に行った。
 父が買ってくれた僕らの新しい家は綺麗で快適だったが、なんとなく祖母の家の古びた感じや、雑然とした風景の方が落ち着いた。僕らはよく祖母の家でご飯を食べた。

 姉と母の生活は、姉の学校生活と同様、前途多難だった。
 姉は、学校のつまらなさ、自分の待遇の悪さを、すべて母のせいにした。日本への帰国は決まっていたことなのに、まるで父と母の離婚のせいで、無理矢理帰国させられたかのようらに言い募った。
 前述したが、以前の街へ戻っても、姉はきっと苦しんでいたに違いない。なにせ、自分に「ご神木」とあだ名をつけた生徒たちの街なのだ。
 でも姉は、この下町の、少し乱暴な生徒がいる学校を憎んだ。そして、そんな場所に自分を無理やり連れて来た母を、私立中学に行かせるという選択肢をまったく度外視していた母を憎んだ。

 でも母は、姉のそんな抗議に、一切取り合わなかった。母にとって悪いのは父だった。父だけだった。その理由を僕は知らなかったが、それだけ頑なであったら、そうなのだろう、という程度の感想しか持たなかった。僕も僕なりに、新しい環境に馴染むのに必死だったのだ。
 姉と母の仲は、日を追うごとに悪化していった。
 部屋の壁に巻貝を彫ることはしなかったが、姉はまたご飯を食べなくなった。部屋に閉じこもり、出てきたと思ったら母に反抗的な態度をとった。家の中の雰囲気は、はっきり言って最悪だった。
 僕らの避難場所は、だから祖母の家というわけだった。
 僕は雰囲気の悪さから逃げるために、母は子育ての難しさから逃れるために、ほとんど祖母の家に入り浸った。あわれ父が購入した綺麗な家は、ほとんど姉の家としてしか、機能しなくなったのだ。

 しかもその姉も、祖母の家にはよく来た。姉は夏枝おばさんが好きだったし、祖母の家にいると母との関係も和らいだ。僕らは祖母の作ってくれた茶色っぽいご飯を食べ、ときには狭い風呂に入り、そしてしぶしぶ家に帰って、いつまでも綺麗なままの部屋で眠った。

 祖母の家には、僕らだけでなく、様々な人が遊びに来た。
 それは大抵祖母の友人だったが、女ばかりだった。つまり僕は、日常的に女の人の様々な体の不調、悩みを聞かされことになった。
 例えば僕は、クラスの女の子が生理になった事を驚かなかった。
 オーツのように、男兄弟しかいない、しかも男臭い環境で育ってきた奴からすれば、女子の生理は脅威だった。女子が恥ずかしそうにポーチを持って立ち上がると、それだけで騒ぎ立てた。名指しでからかわれた女子は可哀想に、顔を真っ赤にして、中には泣き出してしまう子までいた。

 でも、オーツはきっと、どうしていいか分からなかったのだ。分からない事を黙ってやり過ごせるほど、オーツは大人ではなかったし、真っ赤になって俯いてしまうほど子供でもなかった。つまりとても中途半端な状態にあった。男子たちにとって、女子の体の変化は只々脅威でしかなく、そのような脅威には、からかうという行為でしか立ち向かえなかったのだ。

 僕にとっても、女子の成長は脅威であった。
 前の席に座っている女の子の背中に、ブラジャーの線が見えた時はドキッとしたし、体育の時間、校庭を走っている女子の太ももの艶めかしさに、おののいたこともあった。ただ。僕はオーツのようにみっともなくうろたえはしなかった。だからからかうのという攻撃に出なくて済んだ。

 祖母の家のトイレには、生理用品が隠すことなく積まれていた。それは祖母のゆるさから来るものだったが、今思うと、あのとき祖母に生理があったはずはなかった。あれは夏枝おばさんのものであったのだし、母の物でもあったのだろう。

 母は父と別れてから、どんどんだらしなくなっていった。日本に住んでいる安心感、何をするにしてもいちいち声を張り上げて交渉しなくてもいい環境も背中を押していた。僕の目から見ても分かる程、母は緊張感というものを手放していた。

 例えば僕が知っている母は、家の中でもきちんと化粧をし、髪を束ね。ぴたっと体に沿う服を着ていた。でも、帰国後の母は、ゆったりした服を身に預け。気まぐれにしか化粧をしなくなった。ご飯は大抵祖母に任せていたし、部屋の隅にうっすらと埃が溜まっていても、気にしないようになった。

 存在感のない父だと思っていたが、父の存在は大きかった。
 母は父という男に向けて生活していたのだと、父が居なくなって初めて分かった。母は、良い母である前に、いい女でありたかったのだ。

 その証拠に、母はその後様々な恋人を作る事になるのだが、恋人がいる時期といない時期の相違は、見ものですらあった。恋人が出来た事を、僕にいちいち報告することはなかったが、母に恋人が出来ると、すぐに分かった。緩んでいた輪郭がきっちりと引かれた線になり、その線がキビキビと動いた。家の中は綺麗になり、それ以上に母は自分を磨いた。

 帰国直後の母は、母の人生史上もっとも緩んでいた時期だったのだろう。
 エジプトという異国で、社交界(というぼどの大きなものではなかったが)の華として謳われていたステイタスを手放し、自分の地元で、思う存分自らを甘やかしたのだ。
 祖母は祖母で、そういう母を叱るようなタイプではなかった。
 祖母の家は父で持っているようなものだったし、それにもともと、祖母も緩い人だった。いや、緩くなったのだ。

 地元の小町として店の采配を振っていた時期が去り、今では働かなくても暮らしてゆけた。祖母には何人か恋人のような人はいたようなのだが、祖母は母と違って、男の前でいい女たろうとしなかった。祖母は緩い人のまま恋人をつくり、決して繕わなかった。まるで、娘3人を育て上げたことで、すべての糸が切れてしまったかのように、祖母はとことん緩い人として生き、その緩さは家の形態にもなっていた。つまり、近所の女の人が勝手に出入りするような、誰にも開かれた場所として、祖母の家はあった。

 そんなところに集まっている人たちだ、やはり緩かった。
 例えばその人たちは、僕がいるからと言って話題を選ばなかった。「生理痛がひどい」に始まり、「生理があがった」ゃ「更年期障害がつらい」。果ては「夫との性生活」にまで及ぶあけすけな話を聞き続け、僕は否応なしに女の様々なことを解する男になってしまった。

 だから僕は、オーツたちのように女の子がポーチを持って席を立ってもからかわなかったし、揺れる胸を見ないようにしてあげた。オーツのような生徒と一緒にいて、そういうスタンスを保つのは難しいことだったが、僕には伝家の宝刀、存在を消すという技があった。オーツたちがそういう気配を出すと、僕は何気なくその場を離れたり、ほかのことに心を奪われているふりをした。

 姉にどうやら生理が来ていないようだと僕が気付いたとき、姉はもう学校に行くことを放棄していた。冬の気配が感じられる頃で、僕はジャンバーを着て、近くの公園でリフティングの練習をしていた。

 公園でリフティングをしながら、どうして姉の生理のことに思い至ったか、今でも分からない。トイレにあるナプキンを数えていたわけではないし、姉に直接聞いたわけでもなかった。でもそのとき僕は、姉の生理が来ていない事を、急に悟ったのだ。

 姉は、本当に痩せっぽっちだった。
 母の作ったご飯を食べなかったが、祖母や夏枝おばさんが作るものは食べた。だが、それだけの食事では、育ち盛りの姉の体を肥え太らせるには十分ではなかった。姉はそもそも、中学の給食を食べなかった。数百人が同じメニューを、プラスチックとアルミの食器で食べるなんて、まるで囚人だと言ったのだ。

 そう、姉は確かにそう言ったのだった。
 姉は、自分の意見が注目されるなら、それがどんな種類のものであれ、積極的に発言した。
「みんな同じものを、同じ食器で食べるなんて、まるで囚人だわ」
 それを聞いた生徒たちは、こう思ったに違いない。
「では、それを嬉々として食べる俺たちは、囚人だってこと?」
 姉の言葉は、いちいち生徒たちの心を砕き、苛立たせた。もはや「ソー・ハッピー」は、皆の攻撃対象以外の何ものでもなかった。
 姉は、苛められるようになった。
 最初は、英語の時間だった。リーディングを命じられた姉が、あの流暢(りゅうちょ)風の英語で読み始めると、皆耳をふさぐようになった。それは次に国語の時間の朗読に移り、最終的に皆、姉のことを見ないようになった。

 姉が登校してくると、皆机に突っ伏したり、掌で目を覆ったり、とにかく「あんたを見ない」ということを、姉に知らしめた。
 苛めには色々な種類がある。
 どれも卑劣で、だから許されるものではないし、優劣をつけることはナンセンスだ。でもその時の姉にとって、「無視されること」「いないことにされること」ほど辛い仕打ちはなかった。姉は見られたがった。いっだって誰かの視線の中に在りたがっていた。それを渇望するあまり、おかしな言動を繰り返し、それが誰かを傷つけ。苛立たせるという、最悪の循環に陥っていた。

 姉にとっては肉体的な、そうでなくとも、罵られたり、ちょっかいを出されたり、とにかく積極的に介入されるような苛めのほうが、救いになったかもしれなかった。暴力を受ける事であれ、罵られることであれ、攻撃者は少なくとも姉を見ている。姉はもしかしたらそのとき、ドイツ軍に捕らえられるアンネ・フランクの気持ちに近づけたかもしれないし、ユダヤ人に罵声を浴びせられるキリストの気持ちを追体験出来たかも知れなかった。姉は想像力が、とても豊かな人だったから。

 だが姉は、自分が再び見られていると知ったとき、決定的に傷つけられることになった。
 ある日、日直だった姉は、授業が終わった後の黒板を消していた。共に日直だった大嶽(おおたけ)という男子生徒は、姉を手伝いもしなかったし、そもそも、やはり姉を見ることもしなかった。

 姉は真面目だった。皆に無視されながらも、日直の仕事は投げやりにこなすことは出来なかった。理科の先生が書いた細かな文字を、左端から丁寧に、丁寧に消していった。チョークの粉がかかることを気にしなかったし、背伸びした自分の背中が、セーラー服の裾から見えることも気にしなかった。やはり誰も、姉を見る事はなかったからだ。

 だが、黒板の右半分に差し掛かったとき、教室内で、くすくす笑う声が聞こえた。
 姉は敏感な人だった。特に見られなくなったその時とあっては。
 姉はその笑い声が、自分に向けられていることが分かっていた。皆は。自分を見て笑っているのだ。それは数ヶ月ぶりの視線だった。
 姉は、少しおかしくなっていた。
 いないものとして扱われていた数ヶ月の渇望を経た姉には、その蔑んだようなくすくす笑いさえ有難かった。「自分がここにいること」の証として、受け止めていた。すべてきちんと、受け止めたかった。
 姉はますます丁寧に、黒板を撫でた。どれだけ時間がかかっても構わないと思った。姉がそうする度、笑い声は大きくなった。姉は見られていた。
 だが最後、すべて消し終わった姉の目に飛び込んできたのは、この文字だった。

『本日の日直 大嶽
  今橋←ご神木』
 姉は、ひっと、声を出した。
「ご神木」を知っている生徒は、居ないはずだった。姉はだからこそやり直したかったのだ。結果気負って失敗してしまったし、「ソー・ハッピー」は姉を貶める呼び名だったが、それでも姉はそれが「ハッピー」という肯定的な言葉であることにすがった。
 ご神木。
 それは誰が書いたものか分からなかった。
 だが姉にとって、それは問題ではなかった。自分は知らない場所でもなお、自分は「ご神木」なのだ。どんなに変わろうとしても、自分は「ご神木」にしか見えないなのだ。
 姉は自分の容姿に構っていなかった。
 浅黒く瘦せた肌が木の幹のように見えること、セーラー服のリボンの白が、しめ縄を思わせることが、分からなかった。つまり、小学校の頃そう呼ばれた時期よりも尚、そう見えることに、気づいていなかった。

 姉にとってその呼び名は、ただの容姿に対する中傷ではなかった。それは、自分の存在に対する呪いだった。
 自分は「ご神木」なのだ。どこに行っても。
 姉は、学校に行かなくなった。そして、進学することも拒否した。
 大騒ぎしたのは、母だった。
 姉の難解さ、手に負えなさには慣れているつもりでも、登校を、そして進学を拒否するとまでは思っていなかったのだ。
 僕は正直、それくらいの事は覚悟していた。母としてではなく、弟としてでもなく、年の近い者として見る姉には、それくらいの危うさはあった。

 でも母は、姉のことを、まだ自分の子供だと思っていた。どこかで「話せばわかる子」、母のとして愛情をもって接すれば、いずれ「まっとうな娘」になると信じていた。つまり、とても楽観的だった。

 何度も言うが、母は、息子の目から見ても、母親であるより女である自分を優先するタイプだった。離婚に関して悪いのは父だ、父だけだという態度は天晴(あっぱれ)だったが、誰よりわるくない僕たち子供への配慮は、あまりにもなさすぎたような気がした。それどころか、母の態度には、どこかに「あんたたちのために私が犠牲になったのだ」とでもいうような気配がある。

 僕は当時ガキだった。
 両親が離婚することになったとき、子供たちを引き取るべきなのは、紛れもなく母親だと思っていた。いや、当然すぎて、そう思いもしなかった。
 母には、僕たちを父親に預けるという選択肢もあったのだ。
 独身の身軽な女性として、人生をやり直すことも母には出来たのだ。
 そんなこと、僕には想像すら出来なかった。僕は母の事を、どこかで母親失格だと思っていた。母さえちゃんとしてくれれば姉は、ここまでの事にはならなかったのではないか。僕は何度も、そう考えた。

 だが、そんなことを言っている僕自身、何もしなかった。何もだ。

 僕は、姉がご飯を食べなくとも「食べろ」とは言わなかったし、母に反抗的な態度を取っても、母と姉が激しく罵りあっても、「やめろ」とは言わなかった。僕は家の中で、只々、空気と化していた。とことんまで中立であろうとすると、人間は輪郭がなくなるのだと、そのとき学んだ。僕はもう母と姉から評価されることを望んでいなかった。

 僕は人の世界に夢中だった。オーツ達と遊んだり、サッカーの練習試合でいい動きをすることで、もう僕のキャパシティーはいっぱいになった。
 だから僕は、カイロ時代の思い出を、いつの間にか手放していた。
 最初の数ヶ月は、日ごとにカイロのことを思い出しては、ヤコブに会いたい、ヤコブに聞いてほしい、そんな事ばかり考えていた。でも2学期が過ぎ、3学期が過ぎると、僕の頭の中は、ほとんど学校とサッカーだけになっていた。

 そしていつの間にか、「サラバ」とも言わなくなっていた。
 あれほど僕を助けてくれた「サラバ」は、いつしか、ただ遠い日の記憶に成り下がってしまっていた。
 成長期の少年は、かくも残酷なのだ。


 25
 学校に行かなくなった姉は、でも自分の部屋に引きこもっていたりしなかった。
 姉はたびたび祖母の家に顔を出し、夏枝おばさんと映画や小説の話をしていた。夏枝おばさんは以前から芸術を解していたが、その愛情は年齢を重ねるにつれて増していた。
 夏枝おばさんは、働いていなかった。祖母と同様、僕の父や治夫おじさんの世話になっていることに、全く良心の呵責(かしゃく)を感じていなかった。おばさんは貰ったお金を映画や小説、音楽につぎ込んでいた。た。

 つぎ込んでいたと書くと、とんでもない散財屋のように思われるだろうが、それは違う。おばさんは、とてもつつましい人だった。僕が覚えているおばさんは、大体パターン程度の洋服しか持っていなかった。(恋人が出来たら)毎日違う服を着て、時には一日二度ほども着替える母とは大違いで、おばさんはそもそも化粧をしていなかったし、白髪を染めることもしなかった。
若く見える母より、だからうんと年上に見えたし、姉であるはずの好美おばさんの、年の離れた姉のように思われていた。

 映画を見に行くときも、厳選に厳選を重ねていたし、大概は家の小さなテレビで借りてきたビデオを見るにとどめていた。レコードと本をたくさん持っていたが、すべて古レコードか古本で、どれも擦り切れていた。

 姉はおばさんの本棚から本を借りて読み、レコード棚からレコードを出してターンテーブルに置いた。おばさんの棚は脈略がなかった、例えば本棚には、概ね日本の近代文学が並んでいたが、その中にミヒャエルやジェイムズ・エルロイが混ざり、壇一雄の料理本の隣に新約聖書がある。といった具合だった。レコード棚もそんな感じで、のちに真似事でDJを始めるようになった僕は、よくおばさんの棚からレコードを拝借してものだった。

 オーティス・レディング、サム・クック、シュープリームスは分かるが、その間にあるショパン、登川誠仁には驚いたし、もっと後に除いた棚には、ニルヴァーナやウータン・クランまであったのだから、計り知れなかった。

 おばさんの選ぶものは脈略がなかったが、脈略がないからこその真剣味があった。おばさんは、誰かに知らしめるためにそれらを吸収していたわけでもなかった。つまり自分のアイデンティティを形成するために芸術を利用することは、決してしなかった。おばさんは自分のために、あるいは自分を慰めるためにだけそれらを欲した。おばさんはおそらく、エラ・フィッツジェラルドにもビョークにも太宰治にも相米慎二にも平等に力をもらい、それを糧としていた。時にボンジョビを口ずさみ、銀色夏生の詩をそらんじ、スパイク・リーの劇中のセリフを真似た。

 姉はそんなおばさんを愛した。おばさんが好むものは理解できないことが多くても、おばさんの真実味だけは、なにを置いても信じられるものだった。
 おばさんは、昔のおばさんと変わっていなかった。僕らが積極的に何かをすることはなかったが、僕が発したことはすべて受け止めてくれた。つまり徹底して受け身の姿勢を取り、決して否定しなかった。

だから姉が不登校である事に関しても、おばさんは何も言わなかった。母は、おばさんのそういう態度が不満であるらしかった。
「あの子、なっちゃんの言うことを訊くんやから、なんか言うたってよ!」
 そう夏枝おばさんに詰め寄る母を、何度も見たことがある。そのたびおばさんは、
「せやなぁ‥‥」
 と、言葉を濁し、結局うなずき断りもしないのだった。
 姉は一日の大半を夏枝おばさんの部屋で過ごした。だから姉は孤独ではなかった、姉は無口な伯母だけでなく、たくさんの音楽と小説と映画に囲まれていた。

 やがて姉は、高校に行かない16歳になった。
 僕は6年生になり、サッカークラブのレギュラーを獲得した。ポジションは左のサイドバック。僕は右利きだが、サッカーにおいては、密かに左で蹴る練習をしていた。左利きの選手は珍しかったし、僕はよく練習していたから、レギュラーは比較的簡単に取ることが出来た。でも、僕が本当にやりたかったのは。ミッドフィルダーだった。

 ミッドフィルダーは試合運びを決め、中心となってチームを動かす。運動量も負担も大きいが、華もあった。でも、サッカーをやればやるほど、自分にはサイドバックが似合うと思うようになった。サイドバックは、ミッドフィルダーに比べると、受けの姿勢が問われるポジションだ。自ら試合を動かすというよりは、徹底的にチームを守ることに重点を置かれる。守りだけでなく、攻めに転じる事もあるにはあるが、それは厳密に言うと僕らの仕事ではなかった。

 僕には受けのサイドバックはぴったりだった。自分から能動的に行動を起こさず、メンバーを背後からじっくり観察しながら動く事には、すぐに馴染んだ。そし時折、勇気を出して誰も中継しないフォワードへのロングパスを出し、皆に歓声を挙げられると、快感で頭が爆発しそうになった。実際にゴールを揺らすのも、ゴールを守るのも僕ではなかったが、それでも自分が勝利に貢献しているのだという思いは、僕が思っている以上に高揚させた。

 別れた父は、僕がサッカーをやっていると知ると、喜んだ。
 父とはよく電話で話し、1ヶ月に一度ほど会ってもいた。日曜日にサッカーの試合があると見に来てくれたし、クリスマスや誕生日にはプレゼントもくれた。

 母は、僕と父の接触をまるでなかったことのようにふるまった。
 僕が父に会うために出かけても、不機嫌になったりしなかったが、僕が帰って来ても、今日はどうだったかで始まることを一切訊かなかった。母は何事もなかったようにご飯を作り、またはテーブルの上に「おばあちゃんちにいます ご飯はそこで」という置き手紙を置いて行った。

 母はそのときそろそろ、新しい恋をしていたのだと思う。
 話は前後する。
 帰国後、僕たちがすぐに会いに行ったのは、矢田のおばちゃんだ 矢田のおばちゃんの家に、大きな祭壇が出来た事、そこには知らない人が出入りしていること、そして「サトラコヲモンサマ」という、なんだか声に出したくなる神様のようなものを祀っていることを、姉がどう思うか、僕はおおいに興味があった。

 姉はアンネ・フランク以外にも、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング、坂本龍馬、チェ・ゲバラなど、様々な人物に傾倒してきた。つまり、とても影響を受けやすい人だった。

 どれも大人物で、おしなべて孤独だったが、孤独であればあるほど、姉は彼らと自分を重ね合わせた。そう言えば6年生のときには、牧田さんとふたりでジャンヌ・ダルクの劇の本を書いていたこともあった。その劇は上演されることはなかったが、リビングで脚本を見つけた僕は、上演されなかったことを、心から喜んだ。どうせ姉がジャンヌ・ダルクをやるに決まっているからだ。

 矢田のおばちゃんは、もちろんジャンヌ・ダルクでもアンネ・フランクでもなかったが、姉に影響を与えたのはという点では遜色がなかった。姉は良く、おばちゃんの背中に彫られた弁天様の絵を描き、僕はそのあまりの精微さに驚かされた。姉には絵の才能があった。
 僕は壁中に、そして天井にまで描かれた巻貝の絵を忘れていなかった。

 あの巻貝は、7歳の僕だけでなく、母親まで圧倒してしまったのだ(もちろん、母は別の意味で圧倒されたのかもしれないが)。でも、とにかく姉は、おばちゃんの弁天様をしっかり思い出すことが出来るほどおばちゃんの背中を見ていたのだったし、ドン・コルレオーネ的なおばちゃんの存在に憧れていたことは確かだった。

 おばちゃんの家には、相変わらず大きな祭壇があった。
 一時帰国したときと違っていたのは、おばちゃんの家に訪れる人数が、明らかに増えていた事だった。

 矢田のおばちゃんの家には、母と姉、僕と祖母の4人がいた2時間ほどの間に、知らない人間が5人来た、それも驚くべき事だった。

 人が来るたびに、僕達は話を中断しなければいけなかった。来る人来る人、祭壇に何かをそなえ、熱心に拝んでゆくのだが、その間僕らはもちろん気まずい思いがした。特に母と、矢田のおばちゃんを姉のように慕っていたはずの祖母は、居心地が悪そうだった。

 話をしたのは、主に僕以外の4人だった。僕は30分も経つと、完全に飽きていた。
 姉はまず、部屋の中央に置かれた大きな祭壇を見て絶句した。だがそれを見ても何も言わなかった。もしかしたらすでに祖母から何か聞かされていたのかもしれないし、姉が大人になったのかもしれない。
 姉は矢田のおばちゃんのスキンシップを喜び、おばさんの昔話(熊の縫いぐるみが半分埋められていたとき腰を抜かしたで、あんなに狐の嫁入りをおしえたばっかりになぁ、など)に照れ、矢継ぎ早に繰り出される質問に答えながら、時々祭壇をチラチラと見ていた。

「サトラコヲモンサマ」と書かれた札は色褪せ、その札が置かれた祭壇も、白い布がところどころ黄ばんでみすぼらしくなっていた。それとは対照的に、祭壇に置かれた供え物は、どれも新しい光を放っていた。以前僕が見たときは、お酒や米といった、比較的庶民的なものばかりだったが、そこには高価そうなワインや電化製品、男の人がプロポーズするときに用意するように指輪が入った小箱まであった。

 姉は、人が来て祭壇に祈りを捧げるたび、目を大きく開け、まるでその瞬間を見逃すまいとするように、集中していた。祈りは相変わらずおかしかった。皆、両の掌を順番に踏みしめ、そのせいか、おばさんの家の畳は一か所だけ大きく変色していた。

 ちらりとおばさんを見ると、以前と同じだった。いつものこと、とだも言うように、相手より少し下に視線をやりながら、ぼうっと座っていた。おばさんが来る人に声をかけるのは、最初と最後だけだった。来る人は来る人で、挨拶もそこそこに無言で祈り、そしておばさんに頭を下げて、または祭壇に何かを置いて、帰ってゆくのだ。

 矢田のおばちゃんの家が、ちょっとおかしなことになっているのは、僕も分かっていた。十分に分かっていた。母は訝(いぶか)しさを隠せる人じゃなかったし、あれだけ矢田のおばちゃんと仲が良かった祖母の足が、あまりおばさんの家に向いていない事にも気づいていた。

 その時の僕には、いわゆる「新興宗教」の知識はなかったが、矢田のおばちゃんの家で、それに類する何らかのことが行われている、ということは理解していた。
 姉はおそらく、僕よりうんと知識があったのだろう。大好きな矢田のおばちゃんの家で行われている諸々のことに、ある程度のショックを受けたに違いなかった。

 でも難しいのは、矢田のおばちゃんが、全く変わっていないことだった。
 祭壇の禍々(まがまが)しさ、来る人たちの持つ不穏なオーラをものともせず、おばちゃんはおばちゃんだった。威厳のある佇(たたず)まい、僕らに話しかける時の何とも言えない朗らかさ、そして野良猫を撫でるときの慈悲のこもった仕草は、僕らが親しんでいたものだし、おばちゃんは、数年ぶりに会っても、とっても老けていなかった。あまりにもおばちゃんすぎるおばちゃんと、おばちゃんの家の環境との落差に、僕らはとまどった。

 だからこそ母も姉も、おばちゃんにズケズケと「これどういうことなのか」と訊けなかったのだと思う。大きな祭壇はまさにおばちゃんの家にあるのに、その住人であるおばちゃんのが、祭壇になど気づいていないかのようなのだから。

 それに、おばちゃん自身が祭壇に祈る事はなかった。ただ来る人が祈っているだけだった。おばちゃんの部屋の中に、急に木が生えてきたようなものだ。木はおばちゃんの部屋の日常になり、おばちゃんはそれに煩わされることなく、生きていた。

 でも「サトラコヲモンサマ」という札の文字は、明らかにおばちゃんの字だった。マジックで書かれた、男のような力強い字には、僕も見覚えがあった。この祭壇の上に祀られる何かが「サトラコヲモンサマ」だと決めたのはおばちゃんなのだ。それがどのようなものなのか、何故それなのか、でも結局、誰も訊くことは出来なかった。

 帰り道でも、姉は以前の母のように、あれはどういうことかと騒いだりはしなかった。じっとおし黙り、何かを熱心に考えているようだった。姉はそのとき膝丈のスカートを穿いていた。スカートの裾に、おばちゃんの家に上がり込んだ猫の白い毛が、びっしりついていたことを、僕は今でよく覚えている。

 帰国してから1年、母も僕も、祖母ですらも、矢田のおばちゃんの家から足が遠のいていた。僕は学校や地域に馴染むことに忙しかったが、働いていない母や祖母はそれを言い訳にはできなかった、ふたりは意識して行かなかったのだ。おばちゃんの家で行われる何らかのことに、警戒の念を抱いていたのだろう。

 だが、姉はぽつぽつ、おばちゃんの家に行き始めていた。
 特に、学校に行かなくなってからは、頻繫に行くようになった。前述したように、姉は引きこもりではなかったが、姉が接する人間は家族と祖母、夏枝おばさんだけになっていた。ミドルティーンの多感な少女からすれば、あまりにも狭い世界だ。その小さな世界の中で、矢田のおばちゃんが未だに燦然(さんぜん)と輝いていることを、僕らは驚かなかった。

 母は特に、姉が出かけるとホッとしているようだった。家の中で、朝から晩まで姉と二人でいることに、耐えられなかったのだと思う。母は気兼ねなく恋人と会うことが出来た。
 母がどこで恋人を見つけて来るのか、当時の僕には分からなかった。

 母は父の仕送りを当てにしていてちっとも働かなったし、僕が学校から帰ると、大体家にいるか、祖母の家にいた。出かけるといったら、スーパーに買い物に行くか、祖母と洋服を買いに出かけるくらいで、だから母がいつの間にか綺麗に化粧をし、どうやら恋人に会いに行っているのだと分かった時は、まるで魔法のようだと思った。

 僕は、いわゆる思春期に入りかけていた。もやもやした想いと、体の変化をこれでもかと感じていた。母が恋人を作る事は、僕にとって歓迎できる事ではなかったが、それよりも「どうやって?」という驚きの方が勝った。
 僕もどこかで、母がこのまま終わるわけがないと思っていた。母が、僕たちに気を遣って何かを我慢するというタイプでないことも。だから母が、魔法のように恋人を作ってしまったその鮮やかさを嫌悪する前に、僕は只々、感心することが出来たのだった。


 26
 ある晩、姉と僕が珍しく自宅のリビングでふたりきりのときがあった。
 僕はすごくくたびれていた。「ご飯はおばちゃんちで」という置き手紙があったが、面倒くさかった。僕は台所でふたつカップラーメンを作り、貧り食った。
 祖母の家から帰ってきた姉が、リビングにやってきた。
 姉は無言で僕の対面に座った。そしてじっと、ラーメンをすする僕を見ていた。
「何」
 正直、鬱陶しいなぁと思った。だが、無視するには、姉の視線は不躾すぎた。
「そんなものばかり食ってると、早死にするわよ」
 姉がカップラーメンのことを言ってることは分かったが、僕は返事しなかった。
 当時は、今のように食品添加物や食べ物に関して注意を払っている人は珍しかった。姉のように10代で気にしている人は稀だったが、姉は真剣だった。この界隈に無農薬野菜を買えるようなスーパーなどなかったが、夏枝おばさんの代わりにお使いに行った八百屋で、産地はどこか、農薬を使っていないかと訊く姉は、近所でもちょっとした有名人だった。もちろん、「面倒くさい奴」としてだ。

 僕は、姉がダメなほうの有名人であることは、慣れているつもりだった。だが、中学に入るとなると、そうも言っていられなかった。

 姉の存在は、僕が入学した頃でも、ちょっとした語り草になっていた。何せ、あの「ご神木」である。しかも途中から姿を消し、進学を拒否した女子生徒なのだ。
 なかでも僕が問題にしていたのは、姉が苛められているということだった。
 兄弟がイケているかそうでないかというのは、当時の僕たちにとって、いや少なくとも僕にとっては重大なことだった。オーツの兄は柔道で府の大会に出ていたし、安井という生徒の姉は、美人のヤンキーだった。オーツも安井も、彼ら自身の力で人気者だったが、やはりどこで、「あの○○の弟」、という見られ方をしていたように思う。

 だからこそ僕は、「あのご神木の弟」という風に呼ばれてはならなかった。
 僕は怯えていた。小学校に入った時、僕のクラスにやって来た意地悪な5年生のことを、僕は忘れてはいなかった。持ち上がりだったので、6年生もオーツたちと同じクラスで遊び、そこそこの地位を確立していた僕だったが、中学という新しい世界は、やはり僕を不安にさせた。

 結果的に、地元のサッカークラブに入っていたことが、僕を救ってくれた。
 僕らの通う中学校は、ふたつの小学校を統合していた。僕らが通っていたのは南小だが、中学には北小からも生徒がやって来た。つまり、学校の半分が初めて会う連中だった。でも僕は、地元のクラブに入っていたから、北小の奴らとも親交があったのだ。

 僕が入ったのは1年1組、オーツと離れたが、そこにはサッカークラブで一緒だった小池と大垣がいた。だから僕は、入学初日から一人で居るという事が無かった。初日から仲良く話している僕たち3人は、とても目立った。目立たないようにすることを自分に課していた僕だったが、それが実は功を奏した。交友関係は僕らを中心に広がり、だから自然僕は、なんとなくクラブの中心にいることになったのだ。小池も大垣も、特別お喋りで目立つタイプではなかったが、サッカーがうまかった。小池はミッドフィルダー、大垣は右のサイドバック。

 思春期の僕らにとって優劣を決める条件は、「喧嘩が強い」「運動が出来る」、稀に「誰かの弟であること」だった。勉強が出来る奴なんて論外だったし、オタクっぽい奴はランクの対象にもならなかった。

 僕には「姉があんな奴」というとんでもないハンディがあったが、サッカー部だった。運動部に入っているということが、男子の男子たる最低限の条件だった。そして僕は、背が高かった。正直小学校の頃には、男子の容姿などあまり関係がなかったが、中学に入ると、それが俄然重要になってくる。ハンサムだとか、そういう事はどうでも良かった。重要なのは体格だった。オーツのように背が高くて体格もいいのが最強だったが、僕は少なくともチビではなかった。これからの中学生活は、今のところ安泰であるように思えた。

 だから姉に話しかけられたとき、僕は正直ドキリとした。障害物に、思いがけず足をひっかけられたような気分だったのだ。
「歩」
 姉は珍しく、僕の名前を呼んだ。
「少なくともスープは全部飲んじゃダメよ。毒の塊みたいなものだから」
 うるせいぇな。と僕は思った。ラーメンの汁のことをスープという言い方に腹が立ったし、姉が未だ、かたくなにアナウンサーのような標準語を話しているのが鬱陶しかった。

 僕は姉を無視した。姉はその場を去らなかった。
 イライラしたが、それを姉にぶつけるほど勇気があるわけでもなかった。ただ黙ってラーメンをすすっていると、
「あの人の恋人って知っている?」
 姉の言う「あの人」とは母しかいなかった。
 くたびれていたと書いたが、僕はその日、後輩が出来ていきがっている2年の先輩に、意味もなく「全力でグランド10週」を命ぜられたところだった。太腿はパンパンだったし、食べても食べても空腹が収まらなかった。一日の中で最も弱っているそんな時間に、その類の話なんて聞きたいはずもなかった。

 でも僕は、とことんまで受け身の人間だった。姉は無視し続けるということが、どうしたって出来なかったし「うるせぇよ」とすごむことも出来なかった。

 ほんの数か月前に、まさに思春期に突入した僕だったが、それでも姉を傷つけるようなことは決して言えなかった。優しかったのではない。怖かったし、面倒くさかったのだ。
「知らないよ」
 だから僕は、極力面倒くさそうにそう言うに留まった。姉はもちろん、僕の気持ちを汲んでくれるようなタイプではなかった。
「高校の同級生なのよ」
「え?」
「あの人の、高校の同級生」
 そう言われても、僕はピンとこなかった。そもそも僕は母の高校時代があったということを、今いちうまく想像できていなかった。母は生まれた時から「母」として生きているような気がしていた。母は世間一般でいう母らしくはなかったし、離婚してひとり女性になったというのに、だ。

「卒業アルバムで連絡先を調べて。目ぼしい人に電話してたのよ、あの人」
「目ぼしい人?」
「自分のことを好きだった人とか、好きになりそうな人とか」
 そのくらいから、僕は姉の話を聞くことが、本格的に嫌になっていた。姉の言っている事は意味が分からなかったし、そもそも僕らに話さない母のやり口を、どうしてお前が知っているんだと訝った。
「テレフォンショッピングみたいよね」
 姉は、僕のことをじっと見ていた。ちょっとおかしいくらいの眼力だった。しばらく身内以外と接していないので、人との距離感がきっと、分からないのだ。人の目をいたずらに見続けることが失礼だとか、気配を察するとか、そういうことを、姉は一切学んでこなかった。
「知らんよ」
 僕は目を伏せた。それしか言えなかった。ラーメンが不味くなった。脂が浮いて、麺が伸びて、なるほどそれは確かに、体に悪そうに思えた。
 僕はカップを持って立ち上がると、
「家族ある人でも関係ないの」
 姉の声は、広いリビングに響いた。テレビをつけていたが、姉の声がきちんと聞こえることが嫌だった。
「つまりあの人、不倫してるのよ」
 僕は、グウ、とか、フウ、とか、とにかくおかしな声を出した、と思う。
「人間として、どうかしてる」
 台所に行き、シンクにラーメンの残りを捨てた。
「きっとバチが当たるわ」
 リビングから、姉の声が聞こえた。
 僕は返事をせず、自分の部屋に逃げた。
 とても悔しかったが、自分が動揺していることは否めなかった。それも、かなりの動揺だった。母が不倫をしている。
 当時僕はまだ。性行為を経験していなかったが、精通はしていたし、自慰も知っていた。一度覚えると、毎日毎日その事ばかり考え、右手が止まらなかった(ときには趣向を変えて左手も使っていたが)。

 性交がどのようなものかは知らなかったが、知らなかったからなおさら、それはとてもなく嫌らしいものになって僕に突き付けられた。僕は性交にまつわる言葉すべてに反応した。そしてその中に「不倫」という言葉もあった。覚えたての自慰に明け暮れる、猿のようなガキにとって、「母の不倫」という言葉ほど衝撃的な言葉はなかった。それは、母が、性交と繋がった瞬間だった。

 僕はどうしたか。
 姉を憎んだ。
 今まさに不倫を、性交をしているかもしれない母その人より、それを僕に伝えて来た姉を憎んだのだった。そうしないと、このどうしょうもなくやりきれない思いを、どう昇華したらいいのか分からなかった。

 僕には、姉を憎むというブラックボックスに、すべてのやりきれない感情を放り込んでいたようなところがあった。つまり僕は、小さい頃からめちゃくちゃだった姉のことを、いつの間にか、恨んでもいい存在だったと思うようになっていたのだ。

 父も恨むことも、母を恨むことも、僕には結局本格的に出来なかった。家族を憎むことが怖かったのだし、母を恨むことは尚更だった。姉は僕の紛れない家族だったが、でも余りにも常軌を逸して姉を、僕はどこかで化け物のように思っていた。

 僕は無意識で、僕の鬱屈した黒いものをすべて、姉を恨むという箱に入れたのだ。
 もちろん、姉への嫌悪をあからさまに表明することはしなかったし、姉に直接ひどい言葉を浴びせるようなことはしなかった。僕はそれだけで、自分がとても優しい弟だと思っていた。こんな姉を拒否しない。僕はとても出来た弟だと。

 姉はとても敏感な人だった。僕が姉のことをどう思っていたかは、きっと分かっていたのだと思う。
 姉はおそらく、なかなか発露できない僕の悪意を、一身に受けた人だった。
 その夜を境に、姉は、矢田のおばちゃんの家へ、ますます頻繫に通うようになった。
「バチが当たるわ」
 それは姉の予言でもあったのだろうし、呪いでもあったのだ。

 矢田のおばちゃんの、いや、サトラコヲモンサマの新しい家が建ったのは、矢田マンションの4ブロックほど向こう、僕らが小さな頃、ローラースケートパークだった土地の一角だった。
 とにかく不気味な建物だった。打ちっぱなしのコンクリート、ほとんど立方体の建物自体小振りだったが、中に入ると3階までの吹き抜けになっており、周囲をぐるりと囲むように2階、3階の廊下があった。つまり、そこはものすごく大きなワンルームだった。

 サトラコヲモンサマの祭壇(といっても、真っ白い布が敷かれた横に長い台に、例の「サトラコヲモンサマ」の札が乗っているだけだった)は、1階の奥に置かれていた。それは2階、3階からも見下ろされるようになっていた。

 おばちゃんは、サトラコヲモンサマのことを、神様だとは言わなかったし、サトラコヲモンサマ教、という風に名乗る事もなかった。当然自分のことを教祖だなどと喧伝してはいなかったし、そもそもおばちゃんは、新しい建物が建っても、あの2Kの狭い矢田マンションに住み続けた。

 どこにも、その建物が新しい宗教施設であると明言するものはなかった。その雰囲気だけで十分だった。その建物は、わが街で、浮きに浮いていた。
 これは後に姉に聞いたことだが、建物を建てたあたりから、町内だけではなく、ほかの街からもたくさんの人がやって来たということだった。サトラコヲモンサマは、何がしかの理由で、様々な人を惹きつける存在になっていた。
 姉は、新しい建物にも通うようになった。
 はっきりは言わなかったが、姉もサトラコヲモンサマを信奉しているという、それは証拠だった。姉はもちろん、矢田のおばちゃんのことが大好きだったし、おばちゃんもそうだった。でもそれが、姉が新しい建物に行く理由にはならなかった。姉は明らかに、サトラコヲモンサマ自体に心を奪われていたのだ。

 姉やほかの人たちが、何を持ってサトラコヲモンサマを信じ、何を祈っているのかは分からなかった。ただ、母はいい顔はしなかった、それもそうだろう。登校拒否になり、高校進学を拒んだ娘が、得体の知れない宗教(明言は出来ないが、母がそう思っているのは明らかだった)に熱心になっているのだから。

 だが母は、もはや姉に何かを禁じること、何かを強制することを諦めていた。母は、「貴子は矢田のおばちゃんに懐っいているのだ」と思う事で、この状況を受け入れているようだった。

 実際矢田のおばちゃんは、やはり全然変わらなかった。
 あんな建物を建てたことで、最初は矢田のおばちゃんを訝っていた近所の人たちも、やがておばちゃんのあまりの変わらなさに安心し、黙認するようになった。それに、おばちゃんはこの街のコルレオーネだ。大なり小なり、世話にならなかった人などいなかった。おばちゃんは、皆からの厚い人望があったのだ。
 ある人は、
「あれだけ人望と影響力がある人なんやから、教祖なんてぴったりやん」
 そう言ったし、ある人は、
「いや、そもそもあれはおかしな宗教みたいなもんやない。あの人は優しい人やから、困った人が行ける駆け込み寺みたいなもんを作ったんやろう」
 そう言った。
 つまり誰も、おばちゃんのことを
嫌いたくなかったのだ。
 その証拠に、あの建物を建てるための資金が、サトラコヲモンサマの祭壇に置かれた数々の金品によるものだと知っていても、誰もその事に触れなかった、古びた矢田マンションの家賃収入だけで、サトラコヲモンサマ御殿を建てられるはずもなかったが、皆そう信じようとしているみたいに見えた。

 僕だって、おばちゃんが好きだった。
 僕は中学2年になっても、つまりややこしい時期を迎えるようになっても、おばちゃんのことが好きだった。おばちゃんは道で会うと、僕にサッカーの調子はどうか、と訊いてくれた。僕が話すと、静かに頷き、時々嬉しそうに笑った。そして別れ際に、500玉や、多い時は1000円札をくれ、
「これでジュースでも買い」
 そう言って肩を叩いてくれるのだった。
 時々、姉と一緒に歩いているところも遭遇したことがあった。姉は、何を気取っているのか、黒い服しか着なくなった。おばちゃんは、スパンコールのついた派手なスエットやセーターを身に着け、その貫禄たるやアメリカのギャングスターのようだったが、その隣で、全身黒い服で身を包んで歩く姉の姿は、喪に服した未亡人といった体だっだ。姉は18歳になっていたが、おばちゃんにも見えたし、小さな子供みたいにも見えた。とても瘦せていて、細い目だけがギョロリと光った。おばちゃん自身は怪しくないのに、姉が率先して「サトラコヲモンサマ」を怪しくしているようなものだった。

 それでも姉は、「サトラコヲモンサマ」に参ると、心が落ち着くようだった。
 姉と母の冷戦は、今橋家で継続されていたが、以前のような一触即発といった雰囲気ではなく、惰性で憎しみ合っているという感じになった。

 姉は、直接母に攻撃を加える事は止め、「いつかバチが当たる」という大いなる力に委ねるようになったのだ。自ら恨み攻撃することを止めた姉は、少しスッキリしているように見えた。だから夏枝おばさんも、姉が熱心にサトラコヲモンサマに参ることを、止めさせることが出来なかった。

 サトラコヲモンサマが、誰かの代わりにバチを与える類のものであったのかは分からなかった。そもそもサトラコヲモンサマがどのような教義(あるとすればだが)を持っているのか、どのような神様(神様であったなら)なのか、だれも知らなかった。当のおばちゃんが一番知らない顔をしているのだから、話はややこしかった。

 だが、おばちゃんが無関心でいようが、姉が熱心でいようが、サトラコヲモンサマは、それ自体でどんどん大きくなった。小さな建物には毎日のように人が訪れ、様々な金品を置いて行った。

そうして建物は大きくなった。おばちゃんは、ローラースケートパークだった土地のほとんどを買えるほどまでになっていた。


 27
その頃、僕に、生まれて初めて彼女が出来た。
彼女と言っても、デートをするわけでもない、もちろんキスなんてすることもない、ただお互いすきを確認し合った仲の女の子だ。
中学2年になった途端、校内で急に色恋沙汰が盛んになった。
 初めは中学1年の続き見たいなもの、誰が誰を好きらしい、に始める、他愛のないことだったが、それはたちまち学生最大のトピックスになった。

 これまで僕にも、いいなと思う女の子は数人いたし、サッカー部の部室で「●組の誰それは可愛いよな」とか「○○は走るとおっぱいが揺れる!」などと言って盛が上がることはあった。だか、そこまでだった。僕らはサッカーの練習があったし、先輩からのいびりもあったし、慣れない中間、期末試験があった。女の子のことを思うことがあっても、日常の様々な雑事に心煩わされ、なかなか恋を現実の領域にまでおろすことが出来なかった。中学1年生の僕らにとって、恋愛はまだテレビの中で起こることだったし、3年生のヤンキーたちにだけ許された僥倖(ぎょうこう)だった。

 でも2年になり、学校にも慣れ、僕たちにも余裕が出来てきた。
 サッカーゴールを仕舞うことも、運動場をならすことも、新しく出来た後輩の役目となったし、中間、期末試験の手の抜き方も分かって来た。レギュラーを獲得するという最大の目標はあったが、それはおのおのの熱意に任されていた。僕たちはもちろん熱意があったが、それで身を焦がすほどではなかった。

 クラブチームで活躍するサッカー選手になりたいと思ったのは6年生のある一時期だけだった。僕はこのまま楽しみながらサッカーが出来ればいいと思っていた。夢のない中学2年生だ。でも実際、僕には目を見張るほどの才能はないと思っていた。僕らのチーム自体も凡庸だった。たまに練習試合で、私立の強豪チームに当たると、彼らの技術と熱意、何より絶対に何者かになってやる、というギラギラした野心に怯えた。こんな奴らがきっとプロになるんだ、僕にはその資格はない。僕は早々にそう思うようになった。

 空前の恋愛ブームに最初に火を点けたのは、ある生徒だった。
 環境クラブという地味なクラブに所属している生徒だった。長内という奴で、天ぱの髪の毛は爆発し、顔にニキビのある、いかにも冴えない生徒だった。その長内が、同じ環境クラブの部員である土生(はぶ)ちえりと付き合い始めたのだ。

 正直、土生も全然可愛くなかった。なんだか全体的にもちゃっかりしている印象で、乱暴にしばった髪の毛は腰まであって、その上パサパサと乾燥していた。ぴちびちした女子生徒というよりは、どこかおばちゃんっぽい雰囲気があった。
 そんなふたりが、手を繋いで登校するようになったのだ。それは、センセーショナルな風景だった。皆、ふたりが登校してくると、囃(はや)し立てたり軽口を叩いたりした。
「まじで羨ましくないわー!」
 そんな失礼なことを言う奴もいた。でも、ふたりがお互いを恋人であると認めているその状況を、結局皆、心のどこかで羨ましがった。

 長内は2組、土生は4組だったが、長内はわざわざ土生を4組まで送って行った。そして、頭を撫でて別れるのだった。その仕草も、もちろん散々なからかいの対象になったし、中には「オエーッ!」とゲロを吐く真似をする奴までいたが、最後にはやはり皆黙ってしまった。ふたりは幸せそうだった。

 長内は、相変わらず爆発した天パでニキビ面、みっともなかったが、その仕草はとても大人に見えた、全然「おさない」なんかではなかった(やがて長内のことを「おさなくない」と呼ぶのが、僕らの間で流行った。中2の男子なんて、そんなものだ)。

 あんな奴に先を越された、皆そう思った。
 正直サッカー部は環境クラブより格が上だ(そもそも環境クラブって、何をするんだ!?)。格上の俺たちに彼女がいないなんて、おかしいではないか! というわけだ。
 それは僕たちだけが思ったことではなかった。バスケ部も野球部もハンドボール部も、きっと吹奏楽部も、漫画部だって思っただろうことだった。

 俺たちは、環境クラブには負けない(だから、環境クラブって、何をするんだよ!)。
 そこから、学年中に告白の風が吹き荒れたのだ。
 告白には二種類あった。まず、好きな人を友人に告白すること。そして実際、その思いを本人に告白することだ。そのどちらも、盛大に盛り上がった。もちろん最大の目標は後者であったが、生えたての毛のあるちんちんを、自慰で酷使していた僕らにとって、好きな女の子がまず出来るということ、そのことを仲間と共有するだけでも、十分センセーショナルなことだった。

 サッカー部でも、「お前誰好きやねん?」は、もはや合い言葉のようになった。皆最初は教えたくないと散々ごねたが、いずれ素直に自分の好きな人を告白した。結局皆、言いたくてたまらないのだった。

 僕がこの部活を好きなところは、好きな人が被っていても、それでチームの雰囲気が悪くならないことだった。
 僕らの一個上の先輩は、嫌な奴ばかりだったが、僕らの学年はどういうことか、素直ないい奴ばかりだった。もしかしたら、先輩にさんざんいびられたからこその団結だったのかもしれないし、こんな雰囲気だからこその凡庸だったのかもしれないが、とにかくチームの雰囲気はとても良かった。特に夏が終わり、3年生が引退してからは、僕らの結束はより強くなった。1年生をいびったりすることもなかった。中には、僕らに対してタメ口で接してくる1年生までいたが、それはそれで、そういう奴だと認める穏やかな雰囲気が、僕らの部室にはあった。僕は部室が好きだった。

 学年の可愛い子は限られていた。サッカー部内でも、4人が同じ女の子のことを好きだった。雑賀真琴(さいがまこと)という、陸上部のショートカットの女子だ。雑賀を好きな4人は、その事実を知ったところで、
「やっぱりなぁ!」
「お前もか!」
「雑賀可愛いもんなぁ!」
 という感じだった。つまり、友人と女の子を取り合う、という状態を想像する事が出来なかったのだし、そもそも女の子とつき合う、ということ自体現実的ではなかったのだ。

 僕も正直、雑賀は可愛いと思っていた。でも、自分が可愛いということを、すごく分かっている感じがして、それが鼻についていた。まず雑賀は、陸上部なのに全然焼けていなかった。日焼け止めを塗っているのだ。真っ黒に焼けた部員の中で、色の白い雑賀は目立った。それに雑賀は、陸上部のユニフォームの着方が人と違っていた。部員はランニングシャツにショートパンツを穿いていたが、雑賀はシャツの裾をキュッと縛っていた。だからシャツの裾からもお腹がちらりと見えた。その皮膚も真っ白で、つまり雑賀はお腹にも日焼け止めを塗っているのだった。

 雑賀を姉に比べるのはまったく申し訳なかったが、僕はどうも「私を見て!」的な女の子には、恐怖に似た恐怖感に似た嫌悪を感じるようだった。だからといって、自分の容姿にまったく構わない、例えばすね毛が渦になっている遠地香苗(おんちかなえ)や、眉毛が繋がっている城之内より子などは論外だった。
 僕以外に有島を好きな部員はいなかった。そのことに僕は驚いた。中には、
「有島って誰?」
 そんなことを言う奴までいた。
 有島は部員に入っていなかった。部活のさかんな僕らの学校で(環境クラブまであるのだから)、それは珍しいことだった。だから皆おそらく、有島のことは知らないのだろうと思った。サッカー部に接することが出来るのは、クラスメイトか、放課後運動場で部活をしている生徒だけだったからだ。

 有島は、確かに一見すると地味に見えた。
 目が特別大きいとか、エクボが出来るとか、分かり易い美点を持っていなかった。でも、有島はとても綺麗な肌をしていた。透き通るような、という表現がぴったりのきめ細やかな肌を、僕がどうして知ったのかというと、それはある日の放課後の事だった。

 勇んで部活に行こうとした僕が教室を出ようとすると、有島がちょうど入って来るところだった。有島は僕のクラスではなかったが、僕のクラスにいる八幡恵子(やわたけいこ)と仲が良かった。八幡も、有島と同じく部活に所属していない珍しい生徒の一人で、でも地味だったし、だからといって馬鹿にされたりからかわれたりするようなタイプでもなく、ただひっそりと教室にいる生徒だった。

「あ!」
 ぶつかりそうになって、咄嗟(とっさ)に身をかわすと、有島もかわした先が同じだった、その瞬間、前のめりだった僕と有島の距離は、数センチほどになった。すぐに離れたので、それは1秒にも満たない時間だったが、そのとき僕は、有島の皮膚をありありと見た。有島の頬はうっすらとピンク色で、薄い陶器のようだった。それが僕の心を射抜いてしまった。

 女子生徒の中には、おそらく有島のように肌のきれいな子もたくさんいたと思う。でも、その子たちと僕が、数センチの距離に近づくことはなかった。ただそれだけか、と言われると本当に恥ずかしいが、それだけだった。僕は有島の肌を、数センチの距離で見たのだ。

 有島の事など、まるで気にしていなかったのに、それからの僕は度々、有島の肌を思い出すことになった。毛穴がほとんど見つからない、すべすべの音がしそうな肌を、僕はスローモーション再生で反芻(はんすう)した。

 僕は有島を、意識してみるようになった。廊下を歩いている有島を、そして放課後僕の教室にやってくる有島を。

 有島は大体ひとりだった。イチャイチャとつるんだ女子生徒の中で、それは珍しいことだった。その孤高な感じにもグッときたし、有馬はつまり、誰にどんな風に見られてもあまり気にしないのだろうなと思った。姉や雑賀とは真逆のタイプだ。だからといって、遠地や城之内とは違って、有島には清潔感があった。

 有島は肩くらいまでの髪の毛をしていた。肩に届く髪は縛ること、という学校の校則を、ギリギリでかわすことが出来る長さだった。髪の量が少ないのか、耳が大きいのか、俯くと髪の間からは耳が見えた、それが僕をどうしようもなく興奮させた。耳は耳だ、僕にはオーツにも顧問の滝谷にもついているものなのに、それが有島のもので、有島の髪の間から出ているものだと、途端に尊いものになった。

 部員たちは、僕が有島を好きだと言ったことで、有島を意識して見るようになった。皆大体、初めての感想に「地味やん」だったが、日を追うごとに、
「なんか可愛いく見えてきた」
 そういう事だった。僕は有島の可愛いさを僕だけが見つけることが出来たことを喜び、ひそかにおごった。
 そしてある日、僕らは「お互いに好意を持っていると認識する仲」になった。僕が告白したのではない。僕にはそんな度胸はなかったし、それはつまり恰好悪いことにはなりたくないというプライドから来るものだった。

 部員には勇気のある奴がいて、誰かに告白していた。中には成就する奴もいたし、玉砕する奴もいた。僕らはそのどちらにも喝采を送った、僕らはきっと、告白する行為そのものを楽しんでいたのだと思う。

 溝口という奴なんて、一番好きな玖波沙織(くわさおり)にフラれてからは、2番目、3番目と告白してゆく告白アディクトみたいになっていた、そしてとうとう、7番目に好きな子に告白して成就したときには、実はそんなに好きではなかったことに気づき、随分気まずい思いをしていた。僕らは溝口を笑ったが、それは溝口の勇気に対する称賛でもあったし、溝口の馬鹿さ加減に対する好意的な蔑みでもあった。正直、女の子の気持ちなんてどうでも良かった。僕らはとことん自分勝手に、このブームを楽しんだのだ。

 サッカー部以外の奴でも、何人か告白をし、成就している奴がいた。
 雑賀は様々な男子生徒から告白され、最終的にバスケ部の須崎という奴と付き合う事になった。須崎は男から見てもハンサムだったし、なによりもちょっと不良っぽい雰囲気があった。雑賀は須崎のものとなったときも、サッカー部の部室は賑やかだった。雑賀のことを好きだった4人は、告白する勇気がないまま雑賀を失ってしまったことを嘆いてはいたが、どこかでそんな自分たちを笑ってくれ、というような自虐の楽しみを感じているようだった。僕らは大げさに4人を慰めた。雑賀が誰かに告白されるたび、その情報が学内を駆け巡るので、僕は雑賀が言いふらしているのだろうと思っていた。そんな女、僕なら願い下げだったが、4人は地団駄を踏んだり、床をゴロゴロ転がったりして、ショックを表していた。そしてますます結束を固め、
「僕らはサッカーしかないんじゃん!」
 そんな風に叫んで、また爆笑を誘っていた。
 正直僕は、この4人のように、いつまでも男同士でつるんでいたかった。有島のことははっきりと柿だと言えたが、有島との恋が成就して皆に羨ましがられるよりか、こうやって皆を笑わせ、肩を組んでいたほうが楽しいだろうと思っていた。僕は背が高く、顔も整っていたので、部員の皆には、
「イマバは絶対モテる!」
 そんな風にいわれていた。もちろん嬉しかったが、そういう役回りよりは、溝口みたいな、皆に愛される。憎めない奴という称号を頂戴したかった。実際溝口は、顔が大きく、背も低くてずんぐりしていたが、男子にも女子も人気があった。学園祭では4人組のひとりである高知とコンビを組んで漫才をしたのだが、ネタは溝口が書いた。今思うと、中学生らしくないネタだったが、全校生徒の前で道化をやってのけ、皆に笑われている溝口は、すごく恰好良かった。それはオーツとはまた違う男らしさだったし、僕には決して持ちえない魅力だった。

 僕と皆と一緒になってふざけていたが、やはりどうしても受けだった。自ら率先して面白いことが出来なかったし、やったところで溝口のような破壊力がないことは分かっていた。溝口の笑われる笑いは、溝口だから成立するのであって、僕のような人間がやると、同情されるか、白けてしまうのだ。

 僕は溝口や4人組に強烈な憧れを持ちながら、皆と一緒になって彼らを馬鹿にし、からかった。皆で笑っている時、この時間がいつまでも続けばいいのにと、何度も思った。
 自分のプライドの高さもあるが、僕はだから、告白しなかった。有島が通るたび、
「めっちゃ可愛いんじゃん!」
 そんな風に叫んで皆に笑われる状態で居続けるのは、とても居心地が良かった。それは僕が唯一笑われることが出来るトピックスだった。つまり、皆に好意的に馬鹿にしてもらえる瞬間だった。

 だが有島は、そんな僕の気持ちなど、もちろん察していなかった。有島はいよいよ、僕に告白してきたのだ。
 僕が有島に対して好意を持っている事は、伝わっているようだった。
 例えば有島が通ると、部員たちは「イマバ!」と叫んだし、偶然廊下などですれ違うと、クラスメイトが僕をつついたりしていたからだ。だからか、僕が有島を見ると、有島も僕を見ていることがよくあった。

 僕はそれで十分だった。
「目があった!」
 と騒ぎ、皆にからかわれ、「はよ告白せぇよー!」「いやあかん、怖すぎ!」そんな風に言い合う時間を、大切にしたかった。
 でもある日、僕は八幡恵子から手紙を渡されたのだ。
「これ、美優から」
 普段地味な八幡と、僕はこのとき初めて喋ったのだと思う。八幡も、ちょっと緊張しているみたいに見えた。手紙は薄い水色に、小さな白い水玉があしらわれていた。

 手紙の内容は開かなくても分かった。でももちろん開いた、読んだ。
例の数センチの瞬間のこと、そのときから僕のことを意識していること、何度も目が合う事が嬉しいこと、などが、小さい丸い文字で書かれていた。

 最初の反応は、恥ずかしながら勃起だった。僕はこんな神聖な瞬間に出しゃばって来る性器を責め。取り敢えず黙らせるために左手でケリをつけた。そしてスッキリした体と頭で、また改めて手紙を読んだ。僕はそのとき初めて、心から喜ぶことが出来た。

 両想いだ。
 そのとき僕の心に浮かんだのは、たくさんのクレヨンだった。ピンク色と、青色のクレヨン、僕の記憶の棚から、幼稚園の頃のクレヨンが溢れて来た。僕は自分の記憶に驚いた。そしてクレヨンと同時に浮かんできた「みやかわ さき」という文字ひとつひとつまで、はっきりと覚えていた。「みやかわ さき」にもらった、はだ色のクレヨンのことも、「みやかわ さき」の、爬虫類みたいな顔も、今ここで見ているように、網膜にはっきりと浮かんだ。

 するとまた、固く勃起した。僕は自慰にふけりながら、もしかして自分には幼児性愛の傾向があるのではないだろうかと不安になった。


 28
 有島との恋が始まるということは、男同士の、他愛なく楽しい時間が終わるということだった。
 部員の中で恋が成就した奴は、皆から祝福を受けたが、同時にどこかで線を引かれることにもなった。
「お前は彼女と帰るんやろ? えーなぁ!」
 というような。
 彼女と一緒に帰る奴を見ると、すごく羨ましいのは事実だったが、男同士でふざけながら帰る楽しさには、到底替えられなかった。ヒューツとはやしたてられる側より、囃し立てる側の方が、いつだって嬉しそうな顔をしていた。僕らはガキだったのだ。

 皆に羨ましがられることは間違いなく快感になったが、でもそれで皆と距離が出来ることが、僕は嫌だった。実際溝口は、皆と帰ることが出来なくなったことが寂しくて彼女と別れたのだったし、それから誰かに告白されても、滅多なことで付き合わなかった。

 僕はどうしたか。
 保留にした。有島の気持ちが分かっただけで十分なのだから、僕はその優越感、幸福感を棚に上げることにしたのだ。そして当然、部員にもそのことを言わなかった。
 有島からしたら、じれったかったことだろう。
 僕の好意という確信を得て手紙を渡したのに、いっこうに変事がこない。しかも張本人の僕は、有島がそばを通るたび「ほら」とか、「がんばれよ」とか言って、皆にからかわれているのだから。

 そんな状態が1ヶ月ほど続いただろうか。有島はとうとう、強硬手段に出た。
 サッカー部の練習が終わるのを、待つようになったのだ。
 それには僕も困った。僕が手紙を貰ったことを知らない連中からすれば、有島が運動場の端にあるベンチに座り、じっと僕らの練習をみている状況は、落ち着かないものだろう。

 手紙を貰ったことを隠していたことがバレたら、楽しい時間どころか、友情すら失いかねない。僕もとうとう腹を決めなければならなかった。
 おかしな話だが、僕は両想いの女の子に、しぶしぶ告白しなければならなかったのだ。
 僕は皆の前で、有島に告白した。

 ひとりで有島の前に立つ勇気がなかったこともあるし、この告白そのものを、皆で笑ってほしかったという意図もあった。成就することが決まっているのであれば、なるべく滑稽で、親しみのあるやり方で、皆を喜ばせたかった」
「有島さんのことが好きです」
 皆、ベンチで告白している僕を、グランドで見ていた。有島は、すごく嬉しそうな顔をした。同時に、「あれ、手紙は?」というような、不思議そうな顔も。僕は手紙の話が出たら、無視しようと決めていた。僕の背後には、サッカー部員が全員いた。皆、聞き耳を立てていたのだ。幸い有島は手紙のことに触れることなく、
「私も好きです」
 と言ってくれた。背後で、皆がオーッとどよめくのが分かった。有島の口から、実際「好きです」という言葉を聞くと、僕の体は高揚し、くらくらするほど嬉しかった。だが同時に、「ああ、あのどよめきの中にいたかった」と、悲しい気持ちにもなった。僕はまったく、おかしな状況にあったのだ。

 僕と有島が恋人同士になったことは、たちまち学年中に伝わった。
 それはそうだ。皆の前で告白したのだから、僕はクラスメイトにからかわれ、女子達にチラチラと見られるようになった。自業自得であるが、恥ずかしくて仕方なかった。

 一方有島は、堂々としたものだった。休み時間になると僕のクラスを訪れ、僕に手紙を渡していった。皆はもちろん僕のことを見ていた。僕はその視線に耐えられなかった。だから有島に、ものすごく素っ気なく接することになった。そうしたときの有島の、失望した顔を見るのは嫌だったし、それでも有島がめげずにクラスに来ることも嫌いだった。

 もっと嫌いだったことは、八幡の僕に対する態度が変わってきたことだった。クラスでも地味な存在だった八幡が、何かにつけ僕に話しかけてくるようになったのだ。それも、とても親し気に、例えば。
「今橋ぃ、あんた、宿題ちゃんとやってきたん?」
「ちょっと、今橋、消しゴム貸して!」
 などといった感じだ。僕が憮然としているとわずかに怯んだが、そうすると八幡は、
「美優に返事書いてやってよー」
 そう、有馬の名前を出すのだった。
 八幡がそんな風に言うとき、クラスの女子が不穏な空気になるのが、自分にも分かった。八幡は、クラスの女子にアピールしているのだ、私は堂々と、こんなに仲良く今橋と話せるのよ、と、八幡は言っているのだ。ということはつまり、僕は、女子が気安く話せることを、自慢されるような男子生徒なのだった。

 僕は自分をみくびっていた。今まで告白されたことが無かったものだから、自分の、女子の中での格を考えた事もなかった。
 僕の格は、上なのだ。

 サッカー部、身長、顔。僕の手元には、たくさんの青いクレヨンがあったのだ。
 調子に乗った馬鹿だと思われるだろう。だが、許してほしい。僕は14歳だったのだ。実際有島の手紙にも、こんなことが書いてあった。
『私が今橋君とお付き合いするようになって、みんなが私をうらやましそうに見ています。はやく一緒に帰りたいです。一緒に歩いて、この人は私の彼氏よと、みんなに自慢したいな』
 僕はもちろん、有島の「一緒に帰りたい」に喜んだのではなかった。「みんなが私をうらやましそうに見ている」ことを、喜んだのだった。
 嫌な奴だと蔑まれても構わない、思春期の男子なんてそんなものだと、僕ははっきり断言しよう。
 僕はだんだん、有島に告白した事を、後悔するようになった。有島はマメに手紙を書き、僕に寄越したが、僕からは返事は出さなかった。そして一番重要なことだが、有島美優そのものに魅力を感じなくなってきていた。

 僕の中で有島は女子と群れない孤高の女子生徒のはずだった。でも実際の有島は、ただの友達がいない奴だった。八幡、という地味な友達以外には。

 僕、という恋人を得て、しかも、皆の前で告白されるという出来事によって、有島は俄然学年の有名人になった。白い肌は相変わらず綺麗だったし、髪の毛からちらちらと覗く耳は僕をドキリとさせたが、有馬の表情に、なんともいやらしいものが見受けられるようになった。

 有島は僕のクラスに来るとき、いつもどこか誇らしげだった。少し口角を上げ、髪の毛を耳にかけ、以前はそんな事はしていなかったのに、制服のブラウスの第二ボタンまで開けるようになった。それは、学校でも、美人のヤンキーにしか許されないことだった。
 有島はつまり、自信を得たのだ。
 それは決して、悪いことではなかった。しかも自信をつけさせた相手が僕となると、男として喜ばしいことのはずだった。

 でも僕はどうしても、有島の。「私を見て!」という雰囲気に、ガッカリしてしまうのだった。それはもちろん、悪名高い姉の影響だったし、僕自身の処世術から、最も忌避していたものでもあった。

 有島は僕の前で可愛らしい仕草をするようになった。それは実際可愛かった。有島は驚くことに、本当にどんどん可愛くなっていった。今まで有島なんか洟(はな)もひっかけなかった男子が、有島のことをチラチラ見るようになり、そうすると有島は、もっと輝いた。だが僕は、有島から垣間見える「見て!」という欲望を、どうしても可愛いと思うことが出来なかった。

 僕は有島に雑賀と同じような印象を持つことを悲しんだ。しかも有島は、雑賀ほど可愛くなかった。自分が好きになっておいて、有島にそこまで出来る権利はないと思っている僕は、すごく嫌な奴だった。

 一方で僕は、有島といやらしいことをすることを想像して、自慰に耽ってもいた。想像の中で有島は、昔の有島だった。廊下をひとりで歩き、人に見られる事など意識しない、僕が好きなだけだった頃の有島だ。陶器のような肌を、髪の毛の間から見える耳を想像しながら、僕は右手を、ときには左手を動かした。

 自分勝手なことは分かっている。でもそれを、実際の有島に要求しないだけの配慮は、僕にもまだあった。
 僕達は、何もしないまま別れたのだ。
 考えられない? そうだろう。僕はそう思う。でも、追い詰められた僕には、ほかに選択肢がなかった。
 僕達は、キスもしなかったし、手も繋がなかったし、そもそもふたりきりで会ったことすらなかった。ガキの恋とはいえ、あまりにもお粗末だった。
 別れを告げたとき、有島は傷ついたようだった。それはそうだ。僕たちの間では、まだ何も始まっていないのだ。それにそもそも、告白したのは僕の方なのだ。
 有島の傷ついた顔を見て、僕の胸はとても痛んだ。自分がただややこしい男というだけで、有島を翻弄してしまったことが申し訳なかった。申し訳なさのあまり、別れを撤回しようとも思ったほどだった。

 だが。次の言葉を聞いて。僕は固まってしまった。
「恵子に何か言われたん?」
「え?」
 訊き返した僕に、有島はさらに詰め寄った。
「恵子に、何か言われたんやろ?」
 今まで見たこともない、厳しい表情だった。
「だってあの子、今橋君に手紙渡してくれへんかったやん」
「え」
「私が初めて渡した手紙」
 それは貰った、とは、言えなかった。ではどうして放っておいたのか、あんな告白の仕方をしたのかと訊かれると、うまく説明する自信がなかった。僕は卑怯にも、黙っていた。
「あの子絶対、今橋君のこと好きやん」
 今目の前で、有島から何かが溢れようとしていた。それはきっと悪いものだろう。僕が見たくないものだろう。だからこそ僕は動けなかった。臆しながら、ただ黙って、有島を見ていた。

「私が今橋君と付き合うようになったから、あの子も今橋君と対等みたいな感じになっているけど、違うやん? 調子に乗ってるねんて。あの子に私のことで何か言われたんやったら、絶対信じんといて。絶対私らの事、嫉妬してるんやし」

 僕の心の中で、クレヨンが折れた、何色か分からなかったが、とにかく折れた。ポキリ、という音がした。僕はもしかしたら、わずかに震えていたかもしれなかった。だが、別れのその瞬間まで、有島の前では恰好悪い自分を見せたくなかった。僕は力を振り絞り、
「八幡は、関係ないよ」
 やっと、それだけ言った。
 有島は、ハッとした表情をした。思いがけず動揺したその顔は、可愛かった。とても可愛かった。でも僕は、もう有馬のことを好きだとは思えなかった。
「サッカーせなあかんし」
 僕はそう言って、その場を去った。つまり、逃げた。

 あんな憂鬱な帰り道はなかった。でもそれは僕のせいだった。
 僕はきっと、有島と一緒に帰り、恥ずかしそうにお互いのことを教え合ったり、次に会う約束をしたり、手を繋いだり出来たはずだったのだ。でもそれを、こんな風に終わらせてしまった。

 この初めての、そしてとてつもなく苦い恋愛経験は、のちの僕の恋愛に、少なからず影響を与えるようになった。


 29
 僕の初めての恋愛は、僕に消えない傷を残したが、母にとって父との離婚は、そこまでの傷にはなっていないようだった。少なくとも、僕にはそう見えた。
 僕はもちろん、圷家の阿鼻叫喚を、そしてその後にやってきた不気味な静けさを忘れてはいなかった。帰国直後の母は、それらの残滓(ざんし)を感じさせるほどに、とても疲れた人だった。祖母に甘え、夏枝おばさんに愚痴を言い、そして好美おばさんには、あまり会いたがらなかった。

 以前の母は、金持ちに嫁いだ美人の好美おばさんを、自分と比べているようなところがあった。海外赴任でリードしていたと思っていた自分が、その海外赴任終了と共に離婚してしまったことで、なんとなく好美おばさんに引け目を感じていたのだろう。もちろん好美おばさんは祖母の家を訪ねて来たし、そのとき母もおばさんと長い話をしていたが、好美おばさんの「家に遊びに来てよ」という誘いは、なんだかんだ理由をつけて断っていた(僕にとっても姉にとっても、それは都合が良かった。姉はまなえに会いたくなかったのだし、僕は義一と文也に会たくなかった)。

 好美おばさんから隠れるようにしている母は、いかにも失敗した人といった感じだった。少なくとも母は、そう思っているようだった。でも今は、まるでそんな過去などなかったように、今橋奈緒子として、生き生きと自分の時間を楽しんでいた。

 まず母は瘦せた。元々すごく細い人であったが、日本に帰国してからの数年で、腰回りや顎の下にうっすらと肉がついていた。太った、というほどのことはなかったが、なんとなく輪郭がぼやけた、といった印象があった。その輪郭が、いつの間にかまたキリリとしまってきた。ゆったりとした服をやめ、家の中でもタイトスカートを穿くようになった。祖母にほとんど任せていた料理にもまた精を出し、育ち盛りの僕でも食べきれないほどの皿をテーブルに並べた。

 母は、明らかにウキウキしていた。
 有島と両想いになれたとき、怖いくらいの幸せを感じた瞬間は束の間で、僕はなんとなく憂鬱だったり、罪悪感に苛まれたり、羞恥心に襲われたりしていた。つまり、そんなに楽しくなかった。恋愛におぼつかない者がすることだから、仕方なかったかもしれない。でも、母を見ていると、「恋愛ってそんなに楽しいの」と、改めて驚かざるをえなかった。

 母は、1週間に一度、平日の夜に必ず出かけた。そのときは、この町で出来る最大のお洒落をしていた。また頭にスカーフを巻くようになったし、ときには爪を紫色に塗った。細いジーズを穿くと、母のスタイルがいいのが否応なしに思わされたし、中学生の息子を持っている母親がおよそ履くとは思えない高さのヒールの靴が。玄関に置かれていた。

 姉は不倫をしていると言った。
 僕の中の不倫というものは湿っぽく、後ろ暗いもののはずだった。なのに母からは、そのような雰囲気が微塵も感じられなかった。母は、それこそ有島や雑賀と同じようなはしゃぎようで、自分の恋心に向き合っていた。

 母が生き生きと楽しそうなのは良かった。今橋家には、未だ姉の宗教化という大きな問題が顕在していたが、母が最早その事すらものともせず笑っているのは、息子としても安心出来ることだったし、少なくとも悩まされたり泣かれたり機嫌が悪くなって当てられるよりは良かった。つまり勝手にやってくれという感じだった。

 ひとつだけ引っかかったのは、父の事だった。
 母は相変わらず父からの仕送りをもらっていたし、この家のローンだって知らぬ間に月々の支払いが続けられていた。父はおそらく母がウキウキと恋愛をしていることなど知らないだろう。自分が送った金で母が服を買い、めかしこんで男に会いに行っていると知ったら、父はどう思うのだろうか。

 僕は帰国後も、月に一度か二度は、父に会っていた。中学に入ってから急に忙しくなったので、その機会は減ったが、そういう時は父がサッカーの練習試合を見に来てくれたし、何故か母が居ない時を見計らったように電話が掛かってきた。

 電話の父は、乾いた声をしていたが、あの最悪の数ヶ月を思わせる陰鬱さからは、だいぶ逃れられているようだった。時々「お母さんは元気か」そう訊いてくることはあったが、それは便宜上そうしているだけで、例えば僕が「元気ないねん」とか「なんか最近おかしいねん」などと答えることを、明らかに想定していない訊き方だった。つまり「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」と同じように、「お母さん元気か」「元気やで」という、それはただの挨拶だったのだ。

 中学3年になって、僕も高校の進路を決めなくてはならなくなった。
 母は自分の恋愛にかまけていたし、まさか僕が姉のようなトリッキーな事をするとは考えていなかったのだろう。もちろん僕もそのつもりはなかったが、進路を決めなければいけないと伝えた時の母は、
「お父さんに訊いて」
そのひと言だった。
 金を出してくれるのは父だったし、間違いではなかった。だが、母の余りにも素っ気なさに腹が立った。もう少しで「男の事で夢中だから、息子の受験には興味ないのかよ」的なことを言う所だった。言っても良かった。でも、そう言った後の、母の傷ついた顔を見るのが嫌だったし、母が恋愛していることに嫉妬しているガキだと思われるのも嫌だった。

 僕は私立に行きたかった、私立の男子校だ。学力は中の上といった感じ、ここから電車を乗り継いで1時間ほどかかった。校風に惹かれたというわけでもなかったし、習いたい特殊科目があるわけでもなかった。

 溝口やオーツ、僕の仲の良い友人が行くと言っていたからだ。
 僕という人間なんて、そんなものだ。僕の中には、強い衝動というものがなかった。サッカーは好きだったし、練習だって熱心にしたが、そもそもは「男らしくならなければならない」という想いから始まったことだった。

 恋愛もそうだった。有島のことは好きだったが、成就した途端自分の生活が変わることを怖がり、あんなことになってしまった。有島との失敗を経て、僕はますます自分の意気地のなさを思い知らされた。
 そして、とても卑怯な心の持ち主であることも。
 有島に「サッカーをしなければいけない」と宣言して別れを告げた手前、僕はほかの女の子と付き合うつもりはなかった。それにせっかくまた、男同士で慰め合い、笑い合う時間を手に入れたのだ。この生活を、守るべきだった。

 でも正直、女の子にはどうしても目がいった。有島よりも可愛い子はいっぱいいたし、そんな女の子たちが、有島と僕が別れたと知った途端、俄然色めきたっているという噂を聞くようになった。

 どうやら僕は、もともと持っていた安定した株に加え、有島に人前で堂々と告白したことで、さらにその株をあげたらしい。一度そうなると、あとは簡単だった。小学校から知っている女の子たちは、そういえば男子が女子をからかっている中、今橋君だけはそんな事はしなかったと言いふらしてくれ、運動部の女子たちは、サッカーを熱心にしている姿が素敵と騒いでくれ、その他の女子たちは、変にはしゃがず、思慮深いところがあると広めてくれた。何より無粋な子は、
「あの顔が素敵!」
 そう、高らかに叫んでくれた。
 僕は正直、「有島にあんなことを言わなければ良かった」と思った。有島と付き合わず、もう少し待っていれば、僕は学年中の可愛い子を選び放題だったのではないか、そう想像して悔やんだ(どちらかというと嫌いだったはずの雑賀が別れたと聞いたときすら、「有島の事さえなければいけたんじゃないか」と思った)。

 僕はお門違いに、有島を憎むようになっていた。有島が、あっさりとほかの誰かと付き合ってくれればいいのに、そう思ったが、有島はいつまでも僕に拘っているようだった。

 有島は、休み時間になると僕のクラスに来て、わざとらしく八幡と話していた。時々声をあげて笑い、それに気を取られた僕がそちらをみると、じっと見つめ返して来た。僕は有島が怖かった。八幡のことをあんな風に言っていたのに、これ以上の親友はいない、というような素振りで接しているのだから。

 でもどうしても、すべての女の子に幻滅することは出来なかった。
僕は想像の中で様々な女の子を登場させ、自慰に耽った。それは、僕くらいの年齢の男になら必ずある事なのかもしれないが、僕はいつも自慰の後、自己嫌悪に陥った。自分のことを、ひとりの人間を愛することが出来ない異常性欲者なのではないかと思った。
でもそんなことはすぐに忘れ、校内で目が合った女の子とすれ違った途端騒いでいるのを聞き、有頂天になるのだった。

 だから、オーツや溝口が私立の男子校に行くと聞いた時、僕は迷わず「俺も」と言っていた。
 僕はつまり、女の子のいない世界にいきたかった。もちろん女嫌いになったわけではなく、それどころか手当たり次第に可愛い子と付き合いたかった。でも有島のときのように、一度誰かと付き合って別れた後、また違う子と付き合うのには、かなりの勇気を必要としたし、すぐに他の女の子付き合う事で、せっかくの人気が大暴落しかねなかった。

 男子校には、女の子がいない。
 付き合うとしても学外の子だろう。学外の子であったなら、どんなにたくさんの子と付き合おうが、よしんば二股をかけようが、女の子たちに切れる事はないだろうと思った。そして、学外で付き合うのである限り、男同士の大切な時間が失われることはないだろう。僕は男として、いつまでも男同士でふざけ合っていられるのだし、同時に女の子と蜜月を過ごすこともできるのだ。そのときの僕にとって、それ以上望む場所はなかった。

 本当に邪(よこしま)で己のない選択ではあったが、僕はとにかく、私立の男子校に行きたかった。
 僕が望んでいた私立の中では良心的だったが、それでも公立に比べて学費がかかった。父がそこそこの企業に勤めていて、しかも姉の学費がまるまる浮いたという状況にあっても、やはり父に負担をかけるのは忍びなかった。

 僕は久しぶりに、父に会うことになった。
 約束を取り付けた父は、電話で嬉しそうな声を出した。その声を聞いただけで、僕は自分が悪い事をしているような罪悪感に苛まれた。いったい母の神経はどうなっているのだろう。それとも、そんなことでは追いつかないくらい、父は悪い事をしのだろうか。もしそうなら、それはどんなのだろう。

 父がやったことを知るのはだいぶ後の事だった。
 それは、中学3年生の僕が理解できる事ではなかった。有島という初恋を終わらせてしまっただけの僕には到底理解できない感情が、父は図太くなかった。とにかく父と母の恋は、終わったのだ。

 久しぶりに会った父は、骨格そのものといった感じだった。父は長袖に長いズボンを穿き、つまり体を出していなかったが、裸になった父なら、おそらく、どの骨がどのような形になっているか分かっただろうが。肘や膝の間接部分が、胸と脚の中で一番太い場所になっているタイプだ。
 思わず絶句した僕だったが、父は思いのほか元気だった。というより、そこまで瘦せているのに、かえって瞳には光が宿り、肌もツヤツヤとしていた。つまり健やかだった。僕にはそれが不思議だった。家族を失い、自分が住むことのない家のローンを支払い、別れた妻の母に仕送りをしている男が、健康でいられるはずはなかった。

「肉をな、食べへんくなったんや」
 僕の視線に気づいたのだろうか。父は恥ずかしそうにそう言った。僕は、自分が父を不躾に見ていた事を恥じた。

 父はコーヒーを、僕はセブンアップを頼んだ。ウエイトレスが去ると、
「セブンアップか。歩、カイロでよく飲んでたよな、セブンアップ」
 父は嬉しそうだった。セブンアップは飲んでいたが、どちらかというと僕が良く飲んでいたのはペプシだ。父が知っているカイロでの僕は、きっといつもセブンアップを飲んでいたのだろう。

 僕はそのとき、思いがけず泣きそうになった。もちろん泣かなかった。ぐっと堪えたが、涙はすでに眼球を覆っていた。僕は父にバレないように俯いて、ズボンにゴミがついているフリをした。

 父からは、何もかも諦めた男の気配が漂っていた(「何もかも諦めた男」というものに、僕は会ったことがなかったが、初めて会う男が父だった)。
 僕の知っている父は、痩せていたが、いかにも男、といった感じだった。スポーツマンだったし、ハンサムだったし、時々冗談で言っていた「お父さんは昔モテたんやぞ」を、信じることが出来る人だった。

 だが、今目の前に座っている父からは、男が持つギラギラしたものが、微塵も感じられなかった。父には老人のような趣があった。母の様子を目の当たりにしている僕からすれば、だから父が恋愛していないこと、それも数年していないことは、簡単に分かった。今父は、そういうことから、一番遠いところにいるのだろう。

 僕は、段々父に同情し始めていた。
 僕と会えたことを嬉しそうにし、コーヒーをうまそうにすする父を見ていると、居たたまれなくなった。そのとき僕は、私立進学を諦めようと。ほとんど決意していた。これ以上父に負担を負わせるのは辛かったのだ。こんなに痩せ細った。50歳を迎えた男に、さらなる追い討ちをかけたくなかった。

 僕はセブンアップを一気に飲んだ。別のものを飲みたかったが、ウエトレスを呼び、替わりを頼んだ。父に媚びたのだ。
 案の定、父は嬉しそうな顔をした。そして、僕が何か言う前に、
「歩、行きたい学校決まったんやろ?」
 そう言った。え、と、声が出た。
「お母さんから聞いてるよ。がんばりや」
 僕は父の事をじっと見つめた。
「私立やで?」
「うん、それも聞いているよ」
「電話で?」
「そうや。電話で聞いたよ」
 父と母が電話でやり取りしていることに驚いた。母は、父など初めからこの世界に居なかった、とでもいうようにふるまっていたのだ。
「じゃあ」
「何?」
 じゃあ、母に恋人がいることは知っているのか、と訊こうとした。でももちろん、訊けなかった。だから僕は、こう言った。
「じゃあ、学校行かせてくれるん?」
 父は、思いがけない、というような顔をした。
「何言ってるん、当たり前やろ。歩の行きたいとこなんやから!」
 僕はそのとき、もちろんこれ以上ないほどの罪悪感を覚えていた。
 父に怒られたかった。
 誰のおかげで高校に行けるんだ、そんな風に「父親」っぽく怒ってほしかった。父が怒ってくれたら、それもなるべく理不尽なことで怒鳴ってくれたりなんかしたら、僕はどれほど楽だろうと思った。でももちろん、父はそんな事はしなかったし、実際僕も、息子として父を怒らせるようなことが出来なかった。
「学費の事なんて、絶対に心配すんなよ」
 父はそう言って笑った。
「高校は人生で3年間だけなんやから、思い切り楽しめ」

 僕はそのとき、両親が離婚したときに、母を選んでよかったと思った(僕には選ぶ権利などないと思っていのだが)。父はいい奴だった。ここまでいい奴だとは思わなかった。そんな父と暮らすのは、僕にはきっと耐えられなかった。

 母が嫌な奴だと言っているわけではない。でも母に対して、こんなにいたたまれない思いになる事はなかった。母は、母親という種類の中では、相当好き勝手にやっていた方だし、今の父のように、息子の為なら何でもする、というような気概を持っているようにも見えなかっかた。つまり、僕が母に対して感謝しなければならことは、大してなかったのだ。

 父といたら、僕は毎日父に感謝しなければならなっただろう。父親なのだから当たり前だろう、と思う事は、僕には出来なかった。僕はきっと、度々このようないたたまれなさを感じなければならなかっただろう。そしてそれに、きっと耐えられなかっただろう。
 父はゆっくり、コーヒーを飲んだ、カップを持つ指は細かったが、筋張っていて、とても男らしいかった。


 30
 サトラコヲモンサマは、みるみる巨大化していった。
 サトラコヲモンサマが実質何なのか分かってはいなかったし、大きくなっていたのは正確には矢田のおばちゃんの持ち家だったのだが、僕にとっては、紛れもなく「サトラコヲモンサマの巨大化」だった。

 ローラースケートパークを買い取ったおばちゃんが建てたサトラコヲモンサマ御殿は、以前に建てられたコンクリート打ち放しの建物に、同じような建物を継ぎ足して出来ていた。もしもおばちゃんに、宗教っぽい建物にしないでおこうという意図がったなら、その意図によってなお、宗教っぽさは増していた。

 そこには寺のような荘厳さと神聖さを徹底的に排除しているからこそ、余計そのふたつを感じさせる場所のように見えた。

 参拝者は、後を絶たなかった。新たに建てられた建物は、そういう参拝者たちの宿泊施設になり、遠方からもたくさんの人が来るようになった。まだインターネットが普及していない時代のことである。つまり人を介した噂が、それだけ遠くまで届いていたのだ。

 参拝に来た人たちは、見てすぐに分かった。この街で見かけない顔の中で思い詰めた表情をしている人がそうだったし、ことさら晴れやかな顔をしている人がそうだった。
 参拝者は、サトラコヲモンサマの建物を、ネドコといった。

 ネドコでは、さまざまな秩序が出来ていた。古株の先輩と、新参者の後輩が出来、先輩が後輩にこの施設でのルールを教えた。そしてそれを後輩がさらに新入りに教え、いつの間にか先輩は「階級の高い者」になった。力を持つようになったのだ。

 力を持つようになった者はそのままサイコザンと呼ばれ、その下にコザン、チュウケン、シンザンが続いた。シンザンがどれくらいでチュウケンになるのか曖昧だったが、チュウケンがコザンなることや、コザンがサイコザンになることは決してなかった。

 サイコザンは、サトラコヲモンサマの創成期を知っている人たちだった。つまり、僕達も顔見知りの人たちだった。矢田のおばちゃんを慕い、ほぼ毎日のようにおばちゃんの家を訪れていた人たちのうち何人かが、いつの間にかおばちゃんを飛び越えて、サトラコヲモンサマに祈るようになった。サトラコヲモンサマが誕生した、あの小さな部屋を知っているサイコザンは、30人ほどいた。彼らは、建物の中で皆から尊敬され、アドバイスを乞われた。

 サトラコヲモンサマの最大の特徴は、いわゆる教祖様がいないことだった。本来なら、矢田のおばちゃんがそうなるはずだったが、おばちゃんは自らを教祖だと絶対に言わなかったし、人にも言わせなかった。そもそもおばちゃんは、サトラコヲモンサマを、絶対に「サトラコヲモンサマ教」と言わせなかった。そして参拝者に、「信者」と名乗らせなかった。

 皆、それは神に近い人間特有の謙虚さと受け取った。神の大いなる力を知っているからこそ、矢田のおばちゃんは沈黙しているのだと。だが矢田のおばちゃんは、そのような噂にも、決して答えを出さなかった。

 サトラコヲモンサマのネドコが建ったことで、矢田マンションには再び平穏が訪れた。矢田のおばちゃんはネドコには行かなかったし、参拝者がマンションに行くことは、サイコサンの者たちが禁じた。矢田のおばちゃんはそれを望んだのか、もともと顔見知りだったサイコザンの面々がそう配慮したのかは定かではなかったか、とにかく矢田マンションに近づいてはならないということが、絶対の掟となった。そのため、チュウケンやシンザンの中には、矢田のおばちゃんを見たことがない人がたくさんいて、だからこそおばちゃんは、どんどん神格化されていった。

 そしてとうとう、矢田のおばちゃんが道を歩いていても、その姿を見てはならないという掟まで出来るようになった。おばちゃんは時折ぶらぶら近所を歩いていたし、駅前のスーパーで買い物もしいた。参拝者たちはおばちゃん見るとどうしようもなく感激してしまったが、姿を見る事を禁じられ、おばちゃんの姿そのものを忘れる努力をするようになった。いつしかそれは、ネドコ内での修行のようになった。おばちゃんの存在を忘れる事は、ほとんど悟りを開くことと同義だった。そもそもおばちゃんの姿を最初から知らないシンザンは、それだけで幸せだとされた。

 当人であるおばちゃんは、相変わらず圧倒的に矢田のおばちゃんのままだった。派手な、でも安っぽい服を着て、大抵部屋の中でダラダラしていた。野良猫が自由に出入りする部屋は、祭壇がなくなった分広くなったが、それでも狭く、みすぼらしかった。

 つまりおばちゃんは、悟に供えられた金品を、自分のために使うことはなかった。それらはすべて建設費に充てられ、宿泊施設に充てられ、金がなくて困っている人たちの援助に充てられた。他にもホームレスへの炊き出しや、古くなった街灯の修理、小学校への寄付など、サトラコヲモンサマを信じる皆の善行は僕らの街を潤し、だから区長も自治会長も、サトラコヲモンサマに口出し出来なかった。それどころか、逆に感謝するほどだった。そして、それらのことはすべてサイコザンやコザンが取り仕切っていたので、おばちゃんは実質、サトラコヲモンサマと全く関係ない人のようになった。

 驚くべきは、ネドコを訪れる参拝者たちの行儀の良さ、秩序の完璧さだった。矢田マンションは街中で知れ渡っているのだから、こっそり見に行く者がいても良さそうだったし、近所をぶらぶらしているおばちゃんを見つけ、走って行ってその足元にすがりつく人が居てもよさそうだった。

 だがサイコザン、そしてコザンが決めた秩序を、皆本当によく守った。サトラコヲモンサマは大きな建物だったし、常時たくさんの人が宿泊していたが、近隣の住民に迷惑がかかるような騒音や臭いなどは、一切なかった。そもそもサトラコヲモンサマには、説教する教祖がいないのだから、祈りを捧げる際の読経もなかった。

 参拝者たちは、ただ静かに祈った。正座をし、両手を交互に踏みしめる、あの奇妙な祈りである。それはフミと呼ばれた。おそらく「踏み」から来ているのだろう。フミこそが、サトラコヲモンサマを最も宗教っぽく見せる行為であったが、それらは閉め切った建物の中で行われているので、外からは分からなかった。建物はいつもしんと静かで、矢田のおばちゃんとは無関係に、ただそこに建っているのだった。

 かくしてサトラコヲモンサマは、完璧な教祖なき宗教団体になったのだ(宗教と言っていいのであれば)。

 母も祖母も、以前のように矢田のおばちゃんを訪ねるようになった。
 祭壇のないおばちゃんの家は、まるで世の中の何もかもと無縁であるかのようにひっそりとしていた。そしてまた、あの独特の居心地の良さを提供してくれるようになった。
 僕も、受験勉強の息抜きに、たまにおばちゃんの家に遊びに行った。日曜の昼間だろうが、平日の夜だろうが、おばちゃんの家の扉はいつでも鍵がかかっていなかった。入り口で声をかけると、
「歩君か、入り」
 中からそう声が聞こえた。
 おばちゃんは大抵膝の上に乗った猫を撫でていて、中でも黒と白の牛みたいな柄の猫と、茶虎柄の猫をよく見かけた。おばちゃんは、猫たちに名前を付けていなかった。どの猫も平等に可愛がり、決して1匹だけにエコひいきをしなかった。それはそのまま、おばちゃんの人間への態度にも表れていた。

 おばちゃんは、家を訪れる人すべてに平等に接した。古くからの友人であった祖母とは特別仲がいいはずだったが、祖母に接するときと僕と接するときで、大きな違いはなかった。おばちゃんのそんな気質は昔からだったが。年々強くなっているような気がした。
 そんなおばちゃんが、特別に接する人物がひとりだけいた。
 姉である。

 姉は今や、完全なサトラコヲモンサマ信奉者になっていた。毎日熱心にネドコに通い、夜になるとネドコの方向に向かってフミをした。最初のころはこっそり自室でやっていようだったが、段々と僕達家族の前でもやるようになった。サトラコヲモンサマを恥じることを、恥じたのだ。
 姉にとって、祈りは慣れ親しんだものだった。
 モスクからアザーンが聞こえて来ると、ゼイナブは掃除の手を止め。メッカの方向に向かって礼拝していたし、街を歩けばいたるところに、布を広げ、おでこを地面につけて祈る人々がいた。姉は、それを真似て祈っていた。時にはゼイナブにコーランを借りたりもしていたのだ。

 だがそれは、所詮真似事だった。姉はイスラム教の何たるかを知らなかったし、そもそも何かを信じて祈ったのではなく、祈る自分を愛するために祈っていたのだから。

 今、姉は、真剣に祈っているように見えた。こんなに熱心なのは、サトラコヲモンサマに何かを救ってもらったからなのだろうか。僕にはまったく分かっていなかったが、ただ、サトラコヲモンサマに祈るようになってから、姉は以前のように塞ぎ込んだり、母に憎しみの視線を向けることがなくなった。サトラコヲモンサマは、明らかに姉の何かを変えたのだ。

 サトラコヲモンサマの参拝者は、矢田のおばちゃんには会えないはずだった。何せ、その姿を忘れ去るようにすることが目的までなっているのだ。だが、姉だけは許された。おばちゃんは、昔から知っている筈のサイコザンの人たちに会う事はしなかったが、姉にだけは会い続けた。

 姉は今橋家の一員としておばちゃんの家に遊びに行った。おばちゃんはもちろん、姉にサトラコヲモンサマの話はしなかったし、姉もそこは配慮した。祭壇のなくなったおばちゃんの家で、姉は小さい頃のようにおばちゃんに甘え、時々一緒に銭湯へ行った(おばちゃんの家には、未だ風呂すらなかったのだ!)。姉はおそらく、おばあちゃんの背中の弁天様を、飽きずにうっとりと眺めていたに違いない。そんな時間を過ごした後、おばちゃんの家から戻ると、姉はサトラコヲモンサマを信じる者として祈り、ネドコへ向かったのだった。その切り替えを、姉は驚くほど見事にやってのけた。

 だから、ネドコの中の地位は、特別なものになった。
 矢田のおばちゃんに会うことのできない信奉者たちにとって、おばあちゃんに会う事が許されている姉は、教祖の預言者となる人だった。皆、姉の姿を見るたびに感嘆の声をあげ、姉よりうんと年上のコザンが姉に敬語を使ったりした。今やサトラコヲモンサマを信じる人間は数百人にも及んだが、姉はそのすべての視線を一身に集めるようになった。

 つまり姉は、見られるようになったのだ。
 僕は、姉の心の安定は、この見られるということによって得られたと思っている。姉が望んだ神のような扱いを、姉は手にしたのだ。姉は静かに歩いているだけで、小さな咳をするだけで、果ては静かに呼吸をしているだけで見られた。

 姉はだから、奇行によって注目を集める必要がなくなった。日本語と英語交じりのおかしな言葉を話さなくても良かったのだし、空地に何かをせっせと埋めなくても良かった。姉は、姉その人としていれば良かった。姉はおそらく牧田さんという理解者を得た時よりも、強い安定の中にいた。

 姉が少しずつ太るようになってきたのも、この頃からだ。まだまだハイティーンの女の子にはあるまじき細さではあったが、姉は祖母の料理を食べ、驚くことに、母の作った料理にも再び箸をつけるようになった。
 その変化を、母はもちろん喜んだ。
 姉が食卓に座り、母の料理を口に運んだときは、あの母が涙ぐんだほどだった。
 蟹のグラタンをちびりちびり口に入れる姉と、涙ぐみながらグレープフルーツとサーモンのマリネを食べている母を見ながら、僕はクレソンのピラフを食べていた。一見快方に向かっているこの家の空気を、でも僕はまだ信じていなかった。

 いつか姉が言った「バチが当たる」という言葉は、まだこの家のどこかに潜んでいるに違いなかった。いつまた芽吹き、そのトゲで母を傷つけようとする、そして母も、また姉を傷つけるようになるのだ。

 今橋家のふたりの女性のせいで、僕はずいぶんと懐疑的な人間になってしまった。
相変わらず可愛い女の子と誰彼構わず付き合いたくなる願望はあったが、つまり女性全般に絶望していたわけではなかったが、どこかで女性の事を心底信じきれない僕がいた。

 その上その頃は、初めての受験のプレッシャーと、秋に行われた引退試合の惨敗(5対0で負けた)を受けて、心がかなり擦り減っていた。そんな訳で僕は、今橋家に訪れた感動的な瞬間を、素直に歓迎することが出来なかった。それどころか、姉がまたいらぬことを始めてくれたと、僕はほとんど怒っていた。

 そうなのだ。姉がまた(悪い方の)有名人になったことで、僕にも少なからず被害が及ぶようになっていた。
 中学の同級生の母親の中にも、サトラコヲモンサマの信奉者はいた。みな大抵はチュウケンかシンザンだったので、僕の姉が神のような存在だと聞いていたのだと思う。サトラコヲモンサマなどいう怪しげなものに身内が関わっていることは大っぴらにしていなかったが、僕のところをこっそり訪ねて来て、
「今橋君のお姉ちゃんってどんな人?」
 そんな風に訊いてくる奴がいれば、そうだった。
 姉は中学から学校に行かず、高校に進学しなかったことは、いつのまにか広がっていた。そしてその過去が余計に、姉の神格化を後押ししていた。姉は中学時代のある瞬間に「神の声」を聞いたのだと誰かが言い、また別の誰かは「高潔な精神に日本の義務教育は耐えられなかったのだ」と言った。
 僕はもちろん、それらの噂を馬鹿にしていた。姉は、ただ苛められていただけだ。それも、姉の過剰な自己顕示欲、「私を見て!」願望によってそうなったのだ。
 何が神の声だ、何が高潔な精神だ。

 だがもちろん、そのことを誰かに言うことは出来なかったし、そもそもそういう連中を僕は無視した。とにかく姉の話題が出ることを徹底的に避けた。姉と僕は似ていなかったし(母と父が似ていないように)、こうなると圷ではなく今橋という比較的オーソドックスな名前は役に立った。僕は、今橋貴子とはまったく関係ない人間なのだという顔をして、粛々と日々を過ごした。心の中で、姉を思う存分憎しみながら、涼しい顔をして、学校に通い続けるのである。

 高校入試に合格する、という事実に対する単純な喜びもあったし、オーツや溝口とまた遊べることにワクワクしてもいたが、一番大きかったのは、通学の間だけでも、この街を離れられることだった。

 オーツと溝口のほかにも。同じ高校に行く奴は数人いた。だが、そいつらはサトラコヲモンサマと関わっていなかったし、オーツと溝口もそうだった。僕はやっと、誰も姉を知らない場所へ行けるのだった。

 発表の夜、僕の合格を、祖母の家で祝ってくれることになった。
 母、姉、祖母、夏枝おばさん、僕の5人で食卓を囲むのは、実に久しぶりのことだった。母か姉か僕か、いつだって誰かひとり、ないしふたりが欠けている状態で、だから祖母は皆が揃った事を喜んだ。もちろん、僕の合格も。

 よもやと思っていただろうが、祖母はどこかで、僕も姉のように進学を拒否するのではないかと考えていたようだった。僕にとって姉は同じ家族とは思えない異次元の人だったが、祖母にとって姉は僕も、同じ可愛い孫なのだ。
「歩、よう頑張った、えらい!」
 食卓には鍋の用意がされ、大きな蟹や海老が並び、牛肉の焼いたのや、イクラの醬油漬けまであった。それはもちろん父の財布から賄われたものだったが、その時ばかりは罪悪感を無視し、僕は喜んで食べた。

 僕の隣に座った夏枝おばさんは、何も飲んでいなかった。おばさんは食事中になぜか水分を取らない人なのだ。おばさんの隣には、姉が座っていた、姉は蟹の甲羅を指でなぞったり、海老のひげを掴んでぶら下げたりしていたが、油揚げやネギなどは、ちょこちょこ食べているようだった。僕は姉の方をなるべく見ないようにしていたが、狭いテーブルでは、どうしても目に入った。
「歩はよう勉強したからな」
 母が、僕が部屋にいる間、ずっと勉強していたと思っていたようだ。実際には、その時間のほとんど半分は様々な女の子を相手にした自慰だったのだが、まあ、僕が高校に合格したのだ。母がそう思うに任せた。
「受験勉強なんて、めっちゃ昔のことやから忘れたけど、大体寒い時期に試験があるのがぽいよな」
「ぽいって」
「いや、これが夏とかやとなんか気分出ぇへんやん。寒い中頑張って勉強して、桜咲く、ていうのがええのやん」

「でもアメリカは9月からなんやろ?」
 夏枝おばさんは物知りだった。たくさんの本を読んでいるのだ。食べたことも見た事もなくても、おばさんはパンプディングの美味しさを知っていたし、一生お目にかかることはなくても、プロムパーティーの華やかさを知っていた。
「そうなんや、9月が新学期なん?」
「そうやで」
「ほんなら、早生まれとかないんかな」
「うーん、あるんと違う? 年越しをはさむんやから」
 おばさんと母は、ふたりで話すといつもどこかで子供っぽくなった。特に母はすぐに口を尖らせて食って掛かったり、話をした後おばさんに笑いを強要したり、わがままな末っ子気質をむき出しにした。そういう時の母は、不思議と姉そっくりに見えた。顔の造形は違っても、表情や滲み出る気配が似ていて、やはり母と姉は親子なのだった。

 酒に弱い母は、しばらくすると見ていられないくらい酔っぱらい、こたつで
眠ってしまった。祖母はまだ飲むつもりのようだった。いつのまにか焼酎を持って来て、チビリチビリとやっている。僕と祖母が話している間、姉とおばさんが後片付けをしてくれた。台所から、流しの水の音と、姉とおばさんが何か話している声が聞こえた。こたつで眠っている母は、いぎたなくいびきをかいていて、投げ出した手にはまだ、箸を握ったままだった。

 僕は、父がいないこの空間の、あまりの完璧さを少し悲しく思った。なんと頭の中で、父がいるところを想像してみたが、無理だった。父は何処へ座らせてもすぐに透明になり、消えてしまうのだった。

 とうとう祖母も、こたつで眠ってしまった。時刻は夜の10時を過ぎていた。夏枝おばさんは笑いながら、母と祖母の剥き出しの肩に毛布をかけた。そして僕に、
「歩君、一緒にお礼に行かへん?」
 そう言った。
「お礼?」「そう。神社」
 おばさんはそう言うと、珍しく僕の答えを聞かずに、立ち上がった。台所にいた姉にも声をかけ、僕らは3人で神社に出かけることになった。

 外に出ると、信じられないくらい冷たい夜風が頬を撫でた。でも、こたつと鍋で火照っていたので、気持ちが良かった。痩せっぽっちの姉は、中国の子供みたいに厚着をしていた。脂肪がないので、ちょっとしたことでよく風邪を引くのだ。

 2月の道路には、誰も出ていなかった。
 僕らが勝手知ったる道を、無言で歩いた。小さい頃はとても遠くにあった神社は、おばさんの身長を越した今となっては、笑ってしまうほど小さな神社だから、参道も短かった。でも、夜の闇に包まれていると、異世界にどこまでも続いてゆく道のように思えた。つまり怖かった。

 高校生になるというのに、臆していると思われるのは嫌だった。おばさんは、いつも来なれているのか、何食わぬ顔で真っ直ぐ歩いていた。少し遅れて僕が、そして姉が従った。
 僕は正直、姉が一緒に来たことに驚いていた。
 サトラコヲモンサマ信奉者の姉にとって、神社は異教の場所なのではないか。そう思っていたのだ。だが姉は、昔そうしたようにおばさんに硬貨を貰い、賽銭箱に投げ入れると、きちんと手を合わせて祈り始めた。

 姉の祈りを見届けてから、おばさんは僕にも硬貨を渡し、驚いたことに自分は1000円紙幣を放り込んだ。
 おばさんの隣に立って目を瞑ると、風の音が大きくなった。ヒュウと、不吉な音を立てて、それは僕の背中を撫でていった。僕はそのときヤコブと祈ったあの教会での一瞬を思い出した。あんなに自然に、誰かを思った祈りが出来たのは、あのときだった。そう思った途端、あのとき僕が隣にヤコブがいたということを、奇跡のように思い出すことが出来た。

 目を伏せていたヤコブの長い睫毛(まつげ)や、イスラム教の子供たちを眺めていたヤコブの大きな目、教会の扉を撫でたヤコブの筋張った手の甲。

 そんな細部ばかりが次々と立ち現れ、そのホモセクシャル的な映像に、僕は尻込みした。ヤコブとのことは、紛れもなく輝かしい思い出のひとつなのに、そのことを思い出すのが、僕にはどうしても恥ずかしかった。

 僕は、成長していたのだ。
 結局僕は、神社の祠(ほこら)を見たまま突っ立っているという、間抜けな状況にあった。
 おばさんを見ると、おばさんは目を瞑り、掌を合わせて、ブツブツと何かつぶやいていた。言葉の合間に、「ありがとうございます」と聞こえた。僕はそのとき、おばさんはこの神社に毎日参っていたのだと気づいた。それは僕の合格のためでもあったのだろうし、それだけではなかったのだろう。とても自然に祈る人だった。
「ありがとうございます」
 僕らの背後で姉が砂利を蹴る音が聞こえた。


 31
 4月、僕は高校生になった!
 入学式、体育館にずらりと並んだ同級生たちを見て、僕達は絶句した。
「男子校やから予想はしとったけどなぁ」
 僕が言うと、オーツは、
「女子って貴重な存在やったんやな」
 もう中学を懐かしむようなことを、言うのだった。
 残念ながらオーツとも溝口とも、クラスは別れた。僕は2組になり、もちろん教室には男しかいなかった。
 担任は青田といった。
 教室に入って来た青田は、髪の毛が濡れていた。たぶん汗なんかじゃなかった。なぜなら青田の髪はびちゃびちゃだったのだ。これが汗なら、青田は病気だ。青田は濡れた髪の毛を何度も掻き上げ、そのたびに水しぶきが飛んだ。おかげで一番前の席に座っていた生徒、のちに仲良くなった高岩、のブレザーには点々と水の跡が残った。

 青田はアツい奴だった。おそらくまだ20代だと思う。開口一番「よう!」と叫び、僕
「なんやなんや揃いも揃って緊張して! 笑え笑え!」
 そう言って口角を上げてみせた。
 青田の後ろ髪が長いのはおそらく彼がロック好きなこと(自己紹介でそう言った)に関係していて、ではなぜ毎朝髪の毛をびちゃびちゃに濡らしてくるのかは、3年間結局分からなかった。僕らは青田の事をブルーと呼んだ。その青っぽい呼び方、青田にぴったりだった。
「お前ら。気ぃつけろよ! 男子校にずっとおると、売店のおばちゃんまで可愛く思えてくるよになるねんぞ!」

 ブルーはそう言うと、自分で言った事がおかしくてたまらないという風に笑った。笑い方も、口を大きく開けて笑うのではなく、半分閉じて吹き出すように笑うので、高岩はブルーの唾も浴びることになった。

 ブルーはああ言ったが、売店のおばちゃんを好きになる奴なんていなかった。
 おばちゃんは、ほとんどおばちゃんと言っていい人だった。とても優しかったし、馬鹿みたいに大きな胸をしていたが、誰の恋愛対象にもならなかった。あるいは生徒の中には本気でおばちゃんを可愛いと思う奴がいたのだろうか。もしいたとしても、それは環境からくるものではなく、そいつの性癖に関わっているだろう。登下校の電車で会う女子高生たち、テレビの中で笑っているアイドル、僕らの恋愛対象はどこにだっていたし、簡単に会えないからこそ際限がなかった。

 校舎は大体汗臭い匂いがした。体育の後などは、それがいや増した。屁をこく奴がそこいら中にいたし、トイレの大の個室へ皆堂々と入った。
 僕はだんだん、この状況を楽しむようになってきた。女の子のいない寂しさよりも、開放感ほうが勝った。廊下ですれ違った後に「キャーッ」と騒がれることはなくなったが、その分恥ずかしいと思うことや他の生徒に気を使うこともなくなった。何より、有島の視線から逃れられたことは大きかった。僕はのびのびと歩き、ときどき皆と同じように屁をこき、体育の後、汗が引くまで制服のズボンを穿かず過ごした。

 勉強は急に難しくなった。特に数学が壊滅的に駄目だった。まず虚数が何のことなのか分からなかった。高岩と仲良くなったのは、高岩が数学の授業で、
「虚数って、人生に必要ですかね?」
 そう質問したことがきっかけだった。僕らは高岩の言葉に腹を抱えて笑った。あまりに面白かったので、僕は珍しく、高岩に自分から話しかけた。高岩はニキビだらけの顔をした男で、溝口に似た愛嬌があった。僕はやはり、クラスの人気者の友達という位置が好きなのだ。

 部活は迷ったが、やはり溝口と同じサッカー部に入った。
 府の大会では必ず上位に入る部で、練習も厳しく、上下関係も中学とは比べ物にならないくらいしっかりとしていた。放課後ではなくても、先輩が廊下を歩いているのを見つけると、先輩がみえなくなるまでつま先立ちだいなければならなかったし、学食で並んでいて先輩が来ると、順番を譲らなければいけなかった。先輩の気まぐれで、グランドを延々と走らされるのは中学と変わらなかったが、それに加えて気まぐれな腹筋や気まぐれなスクワットがあった。おかげで僕らの腹筋は割れ、ふくらはぎにはくっきりと筋が入った。

 練習は放課後だけでなく、早朝もあったし、ときには休日にまで及んだ。
 この生活に慣れるまで、1学期の全てを費やした。女の子と付き合いまくるどころか、女の子と知り合う時間すらなかった。だから僕らの妄想はどんどん膨らみ、僕はとうとう記憶の棚から中学校時代の可愛かった子をすべて引っ張り出して、自慰に及ぶようになった。

 溝口は、その面白さとコミカルな容貌で、部内ではやはり人気者になった。厳しい先輩も。溝口を見ると思わず笑ってしまうようだった。僕は溝口と一緒にいるので、だいぶ得をした。僕のサッカーの腕前も。ほかの生徒に比べると格段に落ちたが、左サイドバックの経験者が少なかったというこが功を奏して、なんとか部内での地位を獲得していた。

 僕らの学年の部員は、21人いた。溝口も面白かったが、僕が気になったのは須玖(すぐ)という生徒だった。須玖は溝口や他の部員のように騒がなかったし、かといって部室の隅ですねているようなタイプではなかった。つまり一番目立たない部員だったのだが、何故か僕の目を引く独特の雰囲気を持っていた。

 須玖はすごくサッカーがうまかった。中学でもミドルフィルダーを務めていたらしいが、脚が早く体力のある須玖は、練習でフォワードに着くことが多かった。普段はおとなしいのに、ピッチに出ると人が変わったようにアグレッシブになり、ボールを持つとちょっと乱暴なほど強いドリブルでゴールまで運んだ。先輩にも臆せずぶつかっていったし、ラフプレーもあったが、練習が終わって部室で着替えると、もの静かで、ちょっとはにかんでいたりして、先ほどまでのプレイが嘘みたいだった。

 皆は須玖の、二面性を面白がったし、そもそも須玖という珍しい名前に興味を持っていた。でも僕は、皆とは別の意味で須玖に惹かれた。
 須玖は彫が深く、眉毛と目がとても近かった。鼻筋がすっと通り、形のいい唇は、つやつやとピンク色をしていた。つまりすごく美少年だったのだが、誰も須玖の美少年ぶりに頓着しなかった。男だからではない。須玖は、なんていうか、顔が綺麗だとかなんだとか言われるような位置にはいなかったのだ。須玖は、とても静かな男だった。

 でも僕は、その静けさが気になった。須玖はサッカーが上手いし、背は低くてもハンサムだ。なのにまるでその場にいない者のように気配を消すことが良くあった。そしてそれは、須玖自身が意識してそうしているのだろうと思っていた。

 俺が俺が、と前に出たがる部員の中で、須玖のそのスタンスは特異だった。皆は大人しい奴には見向きもせず、つまり須玖の魅力に気付いていなかった。僕はずっと須玖を見ていた。思えばそれも姉のせいだろう。「私を見て!」と全身で叫び続ける人間と長年一緒に暮らしていると、実力を隠してひっそりと暮らしている誰かに惹かれるようになるのだ。

 正直、それは僕だと思っていた。僕は自分がハンサムなことも背が高いことも知っていたが、絶対にそれをひけらかさないようにしていた。だが時折襲ってくる「自分を見て!」願望には抗(あらが)えなかった。いいパスを出したら褒めてほしかったし、面白いことを思いついたら恐る恐る声に出した。何より僕は皆にいい奴と思われたかった。今橋と友達で良かったと思われたかった。それは女子に「今橋君って恰好いい」と言われるよりも、よほど大切なことだった。

 でも須玖は、僕など比べものにならい謙虚さを持っていた。綺麗な顔を隠すように前髪を伸ばし、背が低いのに猫背で歩いた。皆で騒いでいると微笑み、たまに意見を挟むが、それはきっとむっつり黙っていると、余計に目立つからだ。

 唯一ピッチに立ったときの須玖は鬼のようになったが、それは自分が目立ちたいからではなく、只々試合に勝ちたいという思いからそうしているのだと分かった。それが練習試合であっても。須玖は、すごく真面目な奴だった。

 須玖は僕の隣のクラスだった。それをいいことに、休み時間、僕はよく須玖のクラスを覗いた。須玖は大抵、部室のときと同じような態度だった。騒いでいる皆を眺め、たまに声を出して笑った。苛められないようにそうしているのではないだろかと、僕は思っていた。須玖は絶対に苛められるようなタイプではなかった。小さいし猫背だったが、なんとなく声をかけにくいような雰囲気があった。あるいはそれは、須玖を特別視している僕だけが感じている事だったのかもしれないが、でも須玖が誰かにからかわれたり小突かれたりしているところを見た事は一度もなかった。

 ある日覗いた教室で、須玖は本を読んでいた。
 自分の席に座り、文庫本を広げていたのだ。どきっとした。僕のクラスにも何人か本を読んでいるような奴はいたが、それは大抵文化部の連中か、そうでなくともパッしない奴だった。少なくとも運動部ら属している人間が休み時間に本を読むなど、考えられないことだった。でも、須玖は、それはそれは熱心に本を読んでいて、周りのことを全く気にしていなかった。じっと見ていると、いつしか須玖の読んでいる本が気になりだした。あんなに夢中になれるなんて、何かよほど面白いことがあるのだろうと、思ってしまった。

 だからある日の練習終わり、僕は須玖にこう声をかけるのだった。
「何読んでたん?」
 須玖は一瞬、何を言われているのか分からない、という顔をした。誤魔化すような人間ではないことは、数ヶ月須玖を見て来て分かっていた。
「ほら教室でお前、なんか本読んでるやろ?」
 須玖は、ああと、声を出し、笑った。あんまり嬉しそうに笑うので、僕も思わず笑ってしまった。

 サッカー部はいつも一緒に帰っていた。自転車で来ている奴らはそれぞれで帰り、ふたつある最寄り駅のうち、僕と同じ駅を使っているのは7人ほどだった。もちろん溝口もいて、僕らは溝口を中心に、いつも馬鹿な話をしながら、和気あいあいと帰っていた。

 須玖はいつも、皆の一番後ろを歩き、皆が言う言葉に頷いたり、ときどき声をあげて笑ったりしていたが、決して自分から何かを発信する事はなかった。無理している様子は全くなかったし、須玖はまったく空気のような奴だった。
「アメリカの、家族の話やねん」
 須玖が僕に教えてくれた本は『ホテル・ニューハンプシャー』だった。ジョン・ヴィングという作家名は、どこかで見たような気がした。でも、本など、夏休みの課題図書でしか読んだことのなかった僕にとって、須玖がアメリカの作家の、しかも下巻を読んでいることが驚異だった。しかも須玖はサッカー部なのだ! 
「家族って、アメリカの家族?」「そう」
「名前とか覚えられるん?」
「名前な、最初はあれ、これ誰やっけ、とかあるけど、入り込んだら全然覚えられるで」
 須玖が「入り込む」という言葉を使ったことに、僕はわずかに感銘を受けていた。自分の好きなものを恥じることなく、まっすぐな目でたたえることの出来る須玖は、とても恰好良かった。
「おもろいん?」
「うん、めちゃくちゃおもろいで。上巻持って来るわ」
 それから須玖は、僕の先生みたいになった。
 須玖は小説だけではなく、音楽や映画にも詳しかった。僕は須玖に勧められて初めて、名前だけ知っていた太宰治や坂口安吾を読み、名前も知らなかった外国の翻訳小説を読んだ。そして時を待たず須玖の家に遊びに行くようになり、ターンテーブルでレコードを回すことを知り、白黒の映画から映画館で上映されていない映画まで、様々なものを見ることになった。

 僕にとって、須玖は驚異だった。これだけの知識があるのに、それまでまったくひけらかさないことが、そしてこれだけの造詣がありながら尚、サッカーに思いっ切り取り組んでいる姿が。須玖の家は僕の家とき逆方向だったが、僕は部活終わりに須玖の家に行き、須玖の家で夜遅くまで過ごした。そして須玖も、やがて僕の家に遊びに来るようになった。正確には、祖母の家だ。

 須玖と一緒にいるときに感じる、なんとも言えない居心地の良さの原因を、僕はずっと考えていた。そしてある日気づいた。須玖は、夏枝おばさんに似ているのだ(もちろん姿形ではない)。

 おばさんの芸術を愛する様子、そしてそれを決してひけらかさず、ただ愛によってのみ突き動かされている様子が、とてもよく似ているのだった。
 須玖はおばさんと会うことを喜んだ。須玖にとっておばさんのレコード棚は宝の山だったし、本棚にはまだ見ぬ世界がたくさんあった。須玖は目を輝かせ、いつまでもおばさんの部屋から離れなかった。一冊の本を選ぶときの須玖は子供のようだったし、珍しいレコードを見つけたときの須玖は、神に出会えた信者のようだった。

 やがて須玖が祖母の家にいるほうが、僕が須玖の家に入る時間よりも長くなった。須玖は僕たちの年頃にありがちな照れもはにかみもなく、おばさんといつまでも話した。おばさんを、友人の伯母として扱うのではなく、ほとんど同志のように接した。それも僕が、須玖を尊敬する所以(ゆえん)だった。

 おばさんも、ここまで話が出来る人と会うのは初めてだったようだ。僕や姉には見せない熱心さで、須玖といつまでも話した。やがて須玖は僕の家に泊まってゆくようになり、なんとなく今橋家の新しい家族みたいな雰囲気になった。

 僕にとっても、それは嬉しかった。女だけの今橋家に、男の味方が出来たのだ。もちろん、それまでだって、友人を泊める事は出来た。僕の家は広かったし、母に恋人が出来てからは、母が家に居ない時間が多くなり、そうなると好き放題だった。

 でも、僕の家には姉がいた、
 姉を誰にも会わせたくなかった。親が離婚していることは平気だったし、母子家庭であることで恥じることは何もなかった。ただ、姉だけは嫌だった。正直僕にとっての姉は、今橋歩を形作るものたちの中で唯一の汚点だと思っていた。

 だが僕は、自分でも驚くほどすんなりと須玖を家に呼んだ。
 須玖なら、もし姉に会っても何も言わないだろうと思っていたし、実際そうだった。僕の家に泊まりに来るようになって二度目のとき、須玖は姉に会った。姉は全身真っ黒の服を着て、その頃には髪を腰のあたりまで伸ばしていた。痩せて白い顔をして、いかにも怪しい奴だった。でも須玖は、姉を見ると、
「初めまして。歩君の友達の、須玖と申します」
 そう、丁寧に挨拶をした。姉は驚いたのか、「ああ」と声を出し、すぐに部屋に引っ込んだ。そんな失礼なことをされても、須玖は普通だった。姉のことに得段触れもせず、僕の家の居間で、おばさんに借りたビデオ(たしか、ウディ・アレンの『インテリア』だったと思う)を見た。

 須玖にはふたりの姉さんと、神戸に住んでいるお兄さんがひとり、それに、おばさんがいた。父親方のおばさんということだったが、父親の気配はなかった。

 須玖が、あのような環境で、どうしてここまでいろんなことに造詣が深い人間になったのかは謎だった。おばさんは古びた米みたいだったし、ほとんどおばさんに見えるお母さんは、未だ恋愛を楽しんでいるうちの母とは比べ物にならなかった。ふたりの姉ちゃんは立派なヤンキーで、神戸に住んでいるお兄ちゃんは、板金工をしているという事だった。須玖の部屋には分不相応のターンテーブルも、ほとんど廃棄処分なみの安さで売っている物を、兄ちゃんが知り合いに頼んで修理してもらったそうだ。

「何に使うねん、これ?」
 そう言いながら。
 僕からすれば、文化的なものからは程遠い環境で、でも須玖はすくすくと育ち、僕の知っている中で誰よりも文化的な造詣が深い人間になったのだ。
「逃げ場みたいなもんやったんかも」
 あるとき、どうしてそんなに詳しくなったのか、と訊いた僕に、須玖は答えた。
「家の事は嫌いじゃなかったけど、父親が酒飲んだら荒れるタイプで。兄ちゃんとようぼこぼこ殴り合っていたし、姉ちゃんもすぐにグレて。
けっこう家の中が殺伐としとったんやけど、そんな中で本読んでたら、なんやろう、この世の中にこんな世界があるんか、て驚いて。家の中で本を開いてるだけやのに、一気に別の世界にいけるんやん」

 須玖はそう言いながら、手に持っていた文庫を、掌でぽんぽんと叩いた。チャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』だった。
「小説だけやない。音楽も、映画もそうやねん」
 須玖は、文庫本を愛(いと)おしそうに見ていた。
「今俺がいる世界以外にも、世界があるって思える」
 須玖のその言葉は、のちの僕に影響を与えた。とても大きな。
 でも、その時の僕は、須玖がなぜ自分の知識をひけらかさなかったのか、その理由を目の当たりにしただけだった。

 須玖にとって映画や音楽、小説は、知識ではなかった。それも、自分を飾るためのそれではなかった。須玖にとってそれらは、よりどころだった。もっともっと、切実なものだった。だから誰かにひけらかす必要はなかった。ただそれらと共にあるだけで、須玖は救われたのだ。

 だから須玖は、夏枝おばさんに、とてもよく似ていた。
 僕と須玖は、学校でも憚らず、本や映画の話をするようになった。
 いつの間にか須玖は、部活でもクラスでも人気者になっていた。僕があんまり須玖と熱心に話すので、皆が須玖に興味を持ち始めたのだ。皆僕と同じように、須玖の知識に驚嘆したし、それをひけらかさない姿勢に感動した。

 何より須玖は、僕らみたいな運動部にも文化部のパッとしない連中にも、分け隔てなく接した。須玖はいつのまにか「仏の須玖」と言われるようになった。それに須玖は、とても面白かった。自分から積極的に何かを言うことはなかったが、誰かがふざけた後の須玖の一言は、ハッとするくらいセンスがあって、爆発的面白かった。もちろん、学年中の皆が、須玖を慕った。

 僕は正直、それに嫉妬していた。須玖の人気に嫉妬したのではない。須玖を見つけたのは俺なのに、という嫉妬だった。でももちろん、そんなことはおくびに出さなかった。何より須玖は、僕の家に気に入り、週の半分ほど泊まりに来てくれるのだ。僕は人気のある恋人を持った女のようなものだった。

 高校一年生の終わりまでを、だから僕は結局女の子と接しないまま過ごした。須玖に対してホモセクシャル的な気持ちになることはなかったが、それに似たような気持ちはあったのだと思う。僕は須玖を独り占めに出来る時間を、心から楽しんでいたのだ。


 32
 須玖との蜜月は、2年になったら僕たちが同じクラスになると、ますます濃厚なものになった。
 休み時間はもちろん、席替えで須玖の隣になった奴がいれば、そいつに掛け合って席を代わってもらい、授業中でも女子学生のように手紙を交換し合った。
 男子校そんなことをしていると、必ずたてられる噂があった。つまり、あいつらはホモだと、そういう類だ。でも、僕と須玖の間では、そんな心配はなかった。それはひとえに、須玖の人徳によるところが大きかった。須玖は僕ととことん仲が良かったが、他の生徒たちとも、分け隔てなく接した。僕はその頃には、須玖の愛情をすっかり信じることが出来ていたので、須玖が他の男子と仲良く話をしいても、余裕をもってその姿を見ていることが出来た。

 男子校でたてられる噂だが、中には真実もあった。つまり、真正のホモセクシャルが居たということだ。僕らの学年にも、知られている限り、確実にふたりはいた。
 吉行という生徒と、林という生徒だ。

 吉行も林も、ナヨナヨとしていて、とても分かりやすい生徒だった。僕はふたりのどちらとも同じクラスになったことはなかったが、入学してすぐふたりの噂は聞いていた。例えば吉行が、
「林はどないしんてん!?」
 そう野次る声がどこかから聞こえたし、林が体育をしていると、
「吉行がみているぞ!」
 そんな声が校舎に反響した。
 でも、実際、吉行と林は、なれとしても、恋の相談をしあう女の親友同士であって、ふたりが惹かれ合う事はなかったのだ。それどころか、僕の勘違いでなければ、お互いを避け合っているような気配があった。

 幼い男子校生たちには、そのことが分からなかった。一概にホモセクシャルだからと言うだけの理由で、すべてを一緒くたにしてはいけないことなのだとは、思いもよらなかったのだろう。
 吉行と林は、皆から浴びさせられる罵倒に、静かに耐えていた。野次に対する反論することはなかったし、自分たちの本当の姿を隠そうともしなかった。つまり、吉行と林は、同級生上級生に、果敢に告白をしていた。そのたび、その噂は校内中を駆け巡り、心無い罵声や、時には暴力となってふたりに返って来るのだった。

 僕はというと、ふたりに対しては、静観の姿勢を貫いていた。積極的に苛めることはなかったし、野次に参加することもなかったが、でもだからといって、ふたりを庇ったり助けたりする気もなかった。僕は正直、ふたりのことを気持ち悪いと思ってしまっていた。思いつく限りの可愛い子を総動員して自慰をしていた僕にとっては、その対象が男になるという心境は、まったく想像することが出来なかったのだ。

 姉の初恋の人、牧田さんと接するのとは、どだい訳が違った。あの頃の僕は、何より幼かったし、ホモセクシャルのなんたるかを、きちんと理解出来ていなかった(その頃の僕も、きちんと理解できていなかったのだ)。だが17歳になった僕にとって、ホモセクシャルたちは、僕に被害を及ぼす可能性のある人種だった(恥ずかしいことに、僕は被害と思っていたのだ?)。

 僕はふたりと違うクラスでいることにホッとしていたし、なるべくふたりの視界に入らないようだったし、図々しくも僕は自分のマスクの良さを自負していた。
 だが、彼らの被害を被ったのは、ほかならぬ須玖だった。
 林が須玖を好きだという噂が広まったとき、僕は絶望すると同時に、心のどこかで林のことを見直してもいた。

 僕にも須玖にも彼女はいなかったが、僕は、須玖を好きになる女の子は間違いなくいい子に違いないと決めていた。僕はモテたかったが、切実にモテたかったが、自分が女だったら、自分より須玖を好きになるだろうと思っていた。そんな須玖に、女として好意をもった林を、気持ち悪いと思いながらも、「よく分かってるな」という共感のような気持ちを持ってしまうのは、だから避けられないことだった。

 林は、毎日僕らのクラスにやって来て、須玖をみるようになった。クラスの皆が林をからかい、罵声を浴びせていたが、林はめげなかった。何より須玖が、林に対して普通に接するので、林は嬉々としてクラスに通い、須玖を見続けた。

 須玖の対応は驚異だった。林に好意を持たれ、果敢に話しかけれれば、僕などは間違いなく逃げただろうし、なんだったら、皆と同じように罵声を浴びせたかもしれない。この学校で林と噂になるなんて、死よりも辛いことだったからだ。

 でも須玖は、林の好意を知ってもなお、林に挨拶をし、林に話しかけられても、嫌な顔ひとつしなかった。それなのに、須玖がそういう人と噂されなかったのは、やはりひとえに、須玖の人格によるところが大きかった。
 須玖はね本当にいい奴だった。まさに、仏だった。
 ある日、僕の家に遊びに来ていた須玖に、林のことを訊いてみた。
「林がああやって毎日来るやん。須玖はどう思ってんの?」
「どうって?」
 須玖は、夏枝おばさんに借りた。メキシコ人写真家の写真集をパラパラ捲っていた。
「いや、だって、ほら、林、お前のことめっちゃ好きやん」
「うーん」
 須玖は、僕の部屋で寝転んでいたのだが、まるでそこに自分の部屋であるかのように寛ろいでいた。僕にはそれが嬉しかった。いつも。
「それは分かっているやろ?」
「うん、まあなぁ」
「気持ち悪ない?」
「気持ち悪くなんてないで」
 須玖はそう言って、写真集を閉じた。
「嘘やん」
「ほんまや。なんやったら、尊敬しているよ」
「まじで? なんで?」
「だって、自分のしたい事か思いに、嘘をつかずにおるのって、難しいやろ。特に、林のような人らは」
 須玖はいって、瞬きをした。須玖の瞬きはいつも、僕達よりわずかに遅く、それが見る者に、泰然とした印象を与えていた。僕は、瞬きをする須玖の目を見ながら、林のことを思っていた。
「あんなに皆にいろいろ言われたり、時々どつかれたりしてるやん。それでも、自分の意志を曲げへんのは、俺はほんまに凄いと思うんねん」

 僕はすでに、僕がまさに「凄い」と思っている須玖が「凄い」と言う林を、凄い奴なんだと、思いし始めていた。僕は単純なのだ。

「じゃあ、林に告白されたらどうするん?」
「断るよ」
「なんて言って?」
「僕は林のことは好きにならへん、て言う」
男は好きじゃない、とか、そんな趣味じゃない、などと言わない須玖は、やっぱりとてもいい奴だと思った。
「ちゃんと言うよ」
 須玖はそう言って、また、瞬きをした。僕は何故だか恥ずかしくなって、目を逸らした。
「歩、須玖君! ご飯出来たで!」
 階下から、母の呼ぶ声が聞こえた。ふたりで食卓に行き、一緒にご飯を食べた。須玖はまるで、僕の双子の兄弟みたいだった。

 その数日後、林はやっと須玖に告白した。須玖は、僕にいったようにきちんと断った。林は泣いたそうだけど、須玖のことをますます好きになったと言って、須玖を困らせた。

 僕と須玖の友情は、僕に彼女が出来ても変わらなかった。
 さらっと書いたが、そう、僕にも彼女が出来たのだ。僕らの高校の文化祭に来た、女子高の女の子だった。

 僕らのクラスは、文化祭で、クラブの真似事のようなものをした。須玖の発案だった。教室の机をすべて片付け、須玖が持ってきたターンテーブルを置き、窓ガラスは段ボールで覆って、昼間でも暗くなるようにした、そして、クラス費で買った小さなミラーボールを回すと、そこは立派なクラブになった。DJはもちろん僕と須玖、そして何人か「やりたい」と名乗りを挙げた男子生徒が、見よう見まねで僕等が持って来たレコードを回した。

 BPMを合わすのが難しくて、僕は律儀にフェードインフェードアウトを繰り返すだけだった。だが、須玖はまさにDJだった。ヒップホップやソウル、レゲエなど、須玖は黒い音楽を好んだ。
「なんか、全身で生きている! て叫んでるみたいやない?」
 そんな音楽を聴いたことがなかった生徒たちは、たちまち須玖のプレイにくぎ付けになった。僕のクラスに一大DJブームが巻き起こったのだ。

 男子生徒の間でもそうなのだから、余所からやって来た女子生徒のはしゃぎぶりったらなかった。他のクラスの出し物に見向きもせず、女の子たちはこぞって僕らの教室にやって来た。もちろん高校側からお酒を出すことは出来なかったから、みんな出し物の屋台で買ったカルピスのファンタオレンジ割とか、アロエヨーグルトのソーダ割り、なんていうインチキカクテルを飲んでいた。

 女の子は初めは恥ずかしそうに、でもだんだん大胆に体を揺らすようになった。それを見た男子生徒たちは興奮して、自分もめちゃめちゃなダンスを踊った。まるでアルコールを摂取しているみたいに、みんなが音に酔っていた。体育館でやっていたバンドのメンバーが、あまりにも客が来ないことで怒ってわがクラスを訪ねてくるほど、僕らのクラブは大盛況だった。

 僕がフェードインフェードアウトの拙(つたな)いDJをしているとき、その女の子は、僕を見ていた。毛先を少しだけカールさせた大人っぽい子で、いかにも女子高生の生徒という感じだった。教室は薄暗かったが、時々回るミラーボールの明かりで見る顔は、目がくるりと大きく、たぶんすごく可愛かった。何より、クラスに来ていた男子生徒たちに次々声をかけられていのだから、間違いなかった。

 その女の子は、友達とふたりで来ていた。もうひとりの女の子は、ボブにした髪の毛を揺らして、随分とはしゃいでいた。その子も、たくさんの男に声をかけられていたから、やっぱり可愛かった。
 僕がDJを終えて、ブースから出ると、ボブヘアーの女の子に話しかけてきた。
「凄い楽しかった!」
 女の子に、こんな風に屈託なく話しかけられたのは、生まれて初めてのことだった。僕はうっかり、その子を好きになりそうになった。その子は明日香(あすか)といった。

 でも、僕がつき合いたかったのは、髪の長い女の子だった。裕子(ゆうこ)だ。のちに裕子から聞いたところによると、僕に話しかけたかったけど出来なかったので、明日香に頼んだということだった。
「あんとき歩くん、めっちゃ恰好よかったで」
 そう言って笑う裕子は、本当に可愛かった。

 たぶん裕子自身も、自分が可愛い事を、分かっていたのだと思う。僕に見せる表情には、計算ずくのにおいがあった。それに、そもそも僕に声をかけるのが怖いなんてタマじゃなかった。裕子は自分が「こう見てほしい」と思う自分を演出出来る女の子だった。

 でも僕は、もう、有島のときのように失敗するつもりはなかった。女の子なんて、みんな自分の容姿に関して何らかの自負があるのだし、いつだって可愛い自分を見て欲しいものなんだ。
 裕子は、可愛い。それだけでいいじゃないか。
 実際、溝口やオーツ、その他素直な男子生徒は、皆声をそろえて、裕子のことを「可愛い」と言った。
「あんな子と付き合えたら、最高やんけ!」
 その頃には、溝口もオーツにも彼女がいた。ふたりとも可愛らしい子だったが、裕子に比べてたら、確かに劣った。
「お前の彼女、なんかエロいとこあるしなぁ!」
 裕子は、高校2年生では持ちえない色気があった。
 制服をきちんと来ていたが、うっすら化粧をしているようだった。僕にとってはもはや、それくらいやってくれた方が気が楽だった。素肌ですよ、という顔をして色付きのリップを塗られるよりは、もう堂々と化粧して「綺麗に見せよう」と思ってくれる方が、よほど自然に見えた。裕子が僕を誘うような目をすると、鼻白む前に体が反応したし、僕の要求に、裕子はしごくあっさり応えてくれたのだ。

 というわけで僕は、高校2年生の冬に童貞を捨てた。
 場所は、裕子の家だった、裕子の家は母子家庭で、お母さんは日中働きに出ていた。バリバリのキャリアウーマンで、日曜日にもゴルフの接待に出かけるような人だった。裕子の家は、僕と裕子の天国だった。幸いにも裕子はひとりっ子で、僕は、すべてのことが僕らの、特に僕の性交の味方をしてくれているようだと思った。

 裕子と会えるのは、部活のない日曜日だけだった。その関係性も、僕を安らかにしてくれた。裕子は「もっと会いたい」と言ってくれたが、僕は自分の日常を守りたかった。裕子が同じ学校だと、周りの目が気になったり、いろいろとややこしいことになる。日曜日に会えるくらいの関係の方が、何かと都合がいいのだ。

 それに何より、僕は須玖との時間を大切にしたかった。
 裕子と付き合うようになっても、平日は僕と須玖の大切な時間だった。裕子を僕の家に呼ばなかったのも、母や姉の目が気になるだけでなく、僕の部屋を裕子との性交に使いたくないという思いからだった。僕の部屋は、僕と須玖が親交を深める、大切な、神聖な場所だったのだ。
 僕はもちろん、裕子のことを須玖がどう思うか気になった。
 僕と裕子と付き合うようになったことを須玖に告げたとき、須玖は、
「そうなんや! 良かったな!」
 そう、喜んでくれた。
「ほんまにそう思う?」
「何が?」
「ほんまに良かった、て」
「思うよ、なんで? 今橋は思ってないん?」
「いや、まあ、嬉しいけど。須玖はどう思う? あいつのこと」
「あいつって、裕子ちゃん?」
「そう」
「いや、俺よう知らんし、綺麗な人やなぁということしか」
「そうやんな」
「今橋、裕子ちゃんのこと、好きなんやろ?」
「え、なに言うてん」
「恥ずかしいんか? 好きやから、付き合うんやろ?」
「‥‥うん、まあ」
「ほんらええやん、お前がすきやったら、全然ええやん」
 須玖は、そういう奴だった。
 そういえば裕子が、須玖に明日香を紹介したいって言って来たことがあった。
「須玖君も恰好ええよね。明日香がすごく気に入っとってん」
 裕子とは違うタイプだが、明日香も可愛かった。はにかむように笑う裕子とは違い、明日香は大きな口を開けて笑う、とにかく明るい女の子といった感じだった。綺麗という形容が似合う裕子に比べ、明日香は正真正銘可愛いが似合うタイプだった。

 僕はその提案を、喜んで受け入れた。日曜日だとはいえ、須玖を放って裕子と遊んでいるのは(僕達だって、性交以外のことはしていたのだ)、心苦しかった。須玖と明日香が付き合えば、4人で遊ぶことが出来る。僕にとっても、それは素晴らしい考えに思えた。

 でも、それを須玖に告げると、須玖は僕が驚くほど渋ったのだった。
「なんか、嫌やなぁ」
 僕が裕子から貰った明日香の写真(とびっきり可愛いやつだ)を見せて、
「須玖のこと、恰好ええって言うてたで」
 そう言っても、
「それって、たぶん裕子ちゃんがお前と付き合ったから、影響されるんねんて」
 そう言って、信じようとしなかった。DJをやったときから、他校の女子高生からの須玖の人気はうなぎのぼりだった。それはそうだ。須玖は正攻法のDJを見事にやってのけ、未知の音楽を皆に届けてくれたのだ。皆は須玖のおかげでデ・ラソウルやジャネット・ジャクソンで踊ることを知り、アル・グリーンの甘い歌声で、生まれて初めて痺れるという体験を得た。そもそも須玖は、端正なマスクをしていたし、高校にはサッカー推薦で入って来た実力の持ち主なのだ。モテないわけがなかった。

 僕らの対外試合には、それからたくさんの女の子がやってくるようになった。僕らがプレイをすると、歓声があがり、とうとう須玖にはファンクラブまでつくようになった。
 須玖は、そのような状況に、只々はにかんでいたし、困っていた。溝口や部員が、
「須玖、お前すごいやんけ!」
「モテるなぁ!」
 そんな風にはやし立てられると、恥ずかしそうに下を向き、
「なんか勘違いされてるねん」
 そんな風に呟くのだった。
 須玖はだから、たくさんの女の子から告白攻めに遭っていた。須玖はどの子も、丁寧に断った。
 林にしたのと、同じやり方で。
 須玖を好きになる女の子の中で、明日香は抜きん出ているはずだった。何せ、須玖の友人である僕の彼女の友達なのだ。明日香普通に可愛かったし、裕子と違って、女の子の友達も多かった、可愛いていい子、そんな明日香は、当然ながら、様々な男子生徒に人気があった。
 でも、須玖は明日香のことを、
「めっちゃ可愛い子やけど、俺は好きとちがうんねん」

 そう言った。周囲に流されない須玖の精神力を、僕は改めて見直した。僕と須玖は、高校にいる間、結局一度も女の子を介することなく、健全な友情を続けていたのだった。
 そんな僕と須玖の友情が変わり始めたのは、翌年の冬のことだった。

(下巻につづく)