55
僕の髪は、抜け続けた。
額が後退するだけではなく、頭頂部も薄くなった。僕は鏡を見なくなった。
仕事は、微々たるものだった。それでも、取材に出向かないといけないものや、誰かに会わなければいけないものは避けた。そうしていると結局依頼はなくなり、僕はパソコンを開こうとも思わなくなった。
須玖と鴻上からは、連絡が来続けていた。どれも誘いのメールだったが、僕は忙しいふりをした。仕事がたくさん入って、バタバタしている、というようなメールを送ると、須玖は。会えないのは寂しいが、仕事が忙しいのは良かった、という返事をくれた。
僕はこのまま、二人の前から消えるつもりだった。ふたりの幸せそうな様子を見るのは辛かったし、それ以上に、大好きなふたりに嫉妬し、あまさえも傷つけようとしたおぞましい自分を目の当たりにするのが、怖かった。
だが、それでも僕は、スマートフォンを解約することまではしなかった。
僕はまだ何かにすがっていた。澄江から連絡がくることを、そして会いたくないのに、須玖と鴻上から連絡がくることを待っていた。スマートフォンだけが唯一、僕と世界を繋ぐ細い糸だった。
僕は父、そして矢田のおばちゃんがくれた金で生活していた。
絶対にそれには手をつけるまいと思っていた決意を数年前にあっさり破り、今ではそれだけが僕の唯一の糧だった。父もおばちゃんも、ちょっと驚くくらいの金額を入れてくれたから、僕はこのままあと数年は、何もしないで生きてゆけた。だが数年だった。
月日が経つのが怖かった。
こんな風にあっという間に数年が過ぎ、僕は金を使い果たすのだろう。それまでに仕事を見つけているとも思えなかった。僕は誰とも会いたくなかった。だからといって、誰にも会わずに仕事ができるような才能もなかった。僕は出来る限り節約し、日々減っていく残高に、いつも怯えていた。
時間は有り余るほどあった。僕は本を読んだ。テレビをつけて、誰かが明るく笑っているのを見るのが恐かったし、音楽を流して、ふとした音に喚起されて泣くのが怖かった。僕はとにかく無音の状態でいたかった。誰の声も入らない、僕の気配しかない空間を作る必要があった。
本は、能動的に取り組もうと思える唯一のものだった。
タイトルを見て苦しくなるものは、読むのを辞めた。特に、『ホテル・ニューハンプシャー』は、本棚の奥にしまった。見えないようにした。須玖のことを思い出すから、苦しくなるのだった。そう考えると、家の中にあるものすべて、読むのが怖くてなった。本棚は僕の歴史だった。過去に触れたくなかった。
僕は図書館に出かけた。
それからはほぼ一日、図書館で過ごすようになった。出かける目的が出来た事が嬉しかったし、図書館にいると、心が落ち着いた。たくさんの本はただそこに在るだけで、僕は何も脅さなかった。こんなに読んでいると、いつか読む本がなくなるのではないかと初め恐れたが、本はいくらでもあった。読んでも読んでも、まるで涸れない湖のように、本はあった。とても静かに。その確実さだけが、僕を安心させた。
来ている人も少なかったし、自習室にいる学生以外は、僕のように時間をもてあました人たちのように見えた。そしてそのことが、僕の心を安らかにしてくれた。そういう人たちは大抵静かにだった。そして、「お互いのことを放っておこう」という暗黙の了解があった。平日、ほとんど毎日いる人は限られていたので、数週間も経てば全ての人と顔見知りになっていたが、僕らは決して声をかけ合わなかった。小さく会釈をする事はあっても、お互いの事に関心を持つことは避けた。きっと、それぞれの事情があったのだ。
図書館にいる司書たちも、そのことをきちんと理解してくれていた。顔見知りになって挨拶をすることはあっても、それ以上突っ込んだ会話をしてこなかった。時々掃除のおばちゃんが「熱心ね!学生さん?」そう笑いかけてくれるだけで、僕は自分が許されたような気になった。僕はもちろん学生ではなかったが(学生に見えるなんて!)、熱心であることは正しかったので、「まあ」と笑顔を返した。
「立派よ!」
僕はそのやり取りだけで、そのおばちゃんのことを好きになりかけた。おばさんはみたところ60歳を越えていた。男子校に入ったとき、担任のブルー(ブルー! ああ、なんて懐かしい響きだ!)が、
「お前ら、気ぃつけろよ! 男子校にずっとおると、売店のおばちゃんまで可愛い思えてくるようになるねんぞ!」
そんな風に言って笑った事を、思い出した。
あのときは、何を馬鹿な、そう思っていたが、今ではその気持ちが分かった。あのときの僕には、恋の可能性は無限にあった。男子校とはいえ、わざわざ売店のおばちゃんにまでときめきの空白を明け渡す必要はなかった。でも現在の僕には、恋愛の可能性など、微塵もなかった。そもそも僕は、自分にはもう人と付き合う資格などないものと思っていた。その人を誰かと比べるだけで、けっして心から愛そうとしない僕に、誰かの人生に介入する権利はなかった。
おばちゃんは、僕のことを「勉強熱心な学生さん」と思ってくれた。そして、司書たちは、僕が静かに本を読んでいる限り、僕らを放っておいてくれた。それで十分だった。図書館での日々は、とても穏やかに過ぎて行った。
唯一困ったのは、泣き出しそうになったとき泣けないことだった。
僕はおそらく、よほど感じやすくなっていた。
ちょっとした言葉に驚くほど胸を打たれ、滂沱(ぼうだ)の涙を流すことがよくあった。僕はそうなると、俯きながらトイレへ駆け込み、個室で水を流しながら泣いた、そして落ち着いたら、冷水器で喉を潤し、また席に戻って続きを読んだ。
あまりに図書館に頼っていたので、図書館が休館する月曜が来るのが怖くなった。だから僕は、日曜日に大量に本を借り、月曜は公園に行って本を読んだ。家にずっといると、きっとこのまま出なくなるだろうと思った。もう十分危うかったが、社会的に廃人になるのが、僕はまだ怖かった。
図書館を出るとき、あ、寒くなったなと思ったのはつい最近の事だった。なのに、今ではダウンを着ないと寒くて仕方なかった。コンビニに行って初めて、クリスマスの飾り付けに気づいた。もう、年末なのだった。
2010年が、暮れようとしていた。
カレンダーを見なくなっていたが、街を歩いていると、否応なしに年末のきらめきに殴られた。明るい場所を避けて歩くと、僕のような人間が他にもいることに気づいた。でも僕らは決して目を合わせず、色々なものに背を向けて歩いていた。
昔は、そんな人たちの事など,気付きもしなかった。
年末が来ることを嫌がり、街の明るさを忌み、背中を丸めて歩かなければいけない人がいることを、知ろうともしなかった。
クリスマスや年末を特別なものだと思った事はなかった。いちいちそんなことではしゃぐことが、恥ずかしいと思っていたからだ。でも僕には、友達がいたし、恋人もいた。クリスマスに華やかなDJイベントがあった。コスプレした人たちを馬鹿にしながら、でも僕はみんなと笑ってビールを飲んでいた。カウントダウンイベントでDJをしたときは、知らない女に無理やりキスされた。
図書館から家までの間で、浮かれたカップルや若い男女を見ると、僕は無意識に彼らを憎んでいた。楽しそうに笑うその顔を殴りたいという衝動に、何度も駆られた。必死に衝動を抑え、俯き、時に目を瞑りながら、その人間の顔が須玖や鴻上になりませんように祈った。
ふたりは、クリスマスも年末年始も、合おうと誘ってくれていた。
『よかったら3人で過ごさへん? いうていつものファミレスやろけど』
『今橋さん、忙しいでしょうけど、年末くらい遊んでくださいよ!』
ふたりの優しさが苦しかったし、その気遣いに苛立った、クリスマスも年末も、付き合いたてのふたりで過ごしたいに決まっていた。ふたりは、僕に同情しているのだ。
僕は、年末年始は実家に帰るのだと噓をついた。帰る気などなかった。
少し前に届いた母からのメールには、
『年末年始は、なっちゃんと一緒に貴子の家に行きます』
そう書かれてあった。誘われても絶対に断ったが、僕にまったく相談もなく『行きます』と決めた母に、猛烈に腹が立った。
『なっちゃんは海外初めてやって! 私も、アメリカは初めて!』
母は確実に浮かれていた。
こんなに簡単に姉を許す母が情けなかったし、こんなに簡単に許される姉を、僕は絶対に許したくなかった。
パソコンには姉からのメールがきっと来ているだろうと思った。もしかしたらその中に、僕のことをサンフランシスコに誘うメールがあるかもしれなかった。だからこそ僕は、パソコンには決して触らなかった。
ある日図書館から帰宅すると、ポストに手紙が入っていた。姉からの手紙だった。
クリスマスのグリーティングカードか何かだったら、迷わず捨ててやろうと思った。だが、予想に反してそれは、とても素っ気ない、白い便箋だった。
『元気ですか?』
姉の字は、とても汚かった。
まるで、小学生の男の子が書いたような字だった。そう言えば僕は、姉の絵は何度も見たことがあったが、姉の字は見たことがなかった。姉は中学3年の途中から学校に行ってなかったし、文字に起こす前に、体の衝動に従うタイプの人間だったのだ。
『この前は少し言い過ぎました』
汚かったが、姉の字は何とも言えない強さがあった。汚いから、小学生みたいだから、プリミティブな魅力がある、というような簡単な事ではなかった。とても汚いこの字には、きっと一字一字時間をかけて書いたのだろうと思わせる真摯さがあった。はねや止は無茶苦茶でも、字そのものに心がこもっていた。
『姉だからといって、あなたの人生に介入する権利はこれっぽっちもなかった。本当にごめんなさい』
だから、姉の『ごめんなさい』は、思いがけず僕の胸を打った。力強い筆跡が、全身全霊で謝罪をしているように見えた。
僕はうろたえた。姉の言葉に、絶対に心を動かされたくなかった。姉をブラックボックスに入れておきたかった。僕はそこで、手紙を読むのを止めるべきだった。でも結局、読んでしまった。読むのを止める事は、出来なかった。
『あれはあなたへの愛から言ったことであることだけは分かって下さい。愛という言葉が苦しいなら、ただ『家族だから』というだけでもいい。あなたが私のことを避けている、嫌っていることは、分かっています。そしてそれが、私が原因であることも(少なくとも、あなたがそう思っていることも)、分かっています。
あなたにとって、私は、きっと忌むべき姉でした。
私は私で必死だったけど、あなたや家族のことを考えらないほどに必死であったのは、私の非です。私には、余白が一切なかった。それは分かってほしいのです。
そして今の私に余白が出来たから、その余白の部分であなたを愛しているとは、思わないでほしいのです。
おかしな言い方だけど、自分に余白がなかったのは、自分には余白なんてないと気づくことが出来なかったからなのです。私には余白などない。私は私全部で私なのです。
つまり私は、あなたのことを、私すべてで愛しているということ。
すべて、という言葉を使うと、あなたは怖がるかもしれません。かつてあなたが思っていたように、私のことを、頭のおかしい、迷惑な姉だと、ただそう思うだけかもしれません。すべて、という言葉が脅迫的であるのなら、やはり「私が」と言う以外にはありません。それとも「ただの私が」でしょうか。
とにかく歩、私はあなたのことを思っています。
2010年の最後に、ひとつおせっかいをさせてください。
あのとき、お母さんとお父さんに話を聞きなさい、と言ったわね。あのふたりがどうして別れたのか、あなたにはそれを聞く権利があると。私はあのとき、権利、という言い方をしたけれど、これは私のお願いです。あなたには、聞いてほしいの。
私がその話を聞いたのは、お父さんが出家する直前です。
私は。ずっと両親に、特にお母さんに腹を立てていたように思う。それはあなたも同じではないかしら。私たちの意思とは関係なしに、家族がバラバラに住まなければならなかったことへの怒り。
でも、お父さんから話を聞いてから、私はすべてを了解しました。彼らは彼らの人生を生きたのよ。歩。信じられないでしょうけど、私はそのときすでに、お母さんの事を許していました。お母さんに歩み寄ろうとしたけれど、お母さんは私を避けた。思えば私はずっと、お母さんに避けられていたように感じていました。
お母さんの避け方は、あなたとは違った。あなたは私のことを怖がっていたけれど(あなたは否定するでしょうね)。お母さんは、私に怒っていた。私がお母さんの人生に寄り添わないことに、怒っていた。そういう部分では、歩と同じね。自分の人生は、誰かの人生ではないの。そして誰かの人生も、自分の人生ではない。
私はずっとお母さんに愛されたかった。
でもそれは、他の子供のように、ではなかった。じゃあどういう風に愛されたいのか、自分でも分らなかった。私はずっともどかしかった。私は私が分らなかった。私のことを、まるのまま私だと受け入れることが出来なかった。だからお母さんも、そんな私の愛し方を分らなかったのよ。
歩、今お母さんは、私の家にいます。
夏枝おばさんと一緒だったけど(おばさんは、連日何らか出かけているわよ。あんなアクティブな人だったなんて!)、お母さんは自分の意思でこちらへ来てくれた。これを和解と言うつもりはない。私は只々嬉しいの。お母さんと一緒に過ごすことが出来て、嬉しい。
私とお母さんは、たくさん話をしました。昔のこと、私が小さかった頃の事を、そしてもっと昔のこと、お母さんがうんと若かった頃の事も。信じられないでしょう。私とお母さんが、夜を徹して、いつまでも話しているのよ。
そしてもうひとつ、私がもらった矢田のおばちゃんの「すくいぬし」、あの紙は、今はお母さんのものなの。夏枝おばさんも喜んでくれたし、私もそうよ。お母さんのものです。
おかしな話だと思うでしょう。
でもこの意味を、あなたもいずれ分かると思います。だから、お父さんに会いなさい。出来るだけ早く、お父さんは、きっと話してくれる。
あなたはこの手紙を嫌がるかもしれない、笑うかもしれないし、読まないかもしれない。私の考え方がおかしいと、やはり私を避けるかもしれない。なんだそれは、神様気取りかって、そう言って背中を向けるあなたが、目に浮かびます。
でも私は私を信じる、私が私でい続けたことを、信じているの。
だからもしそれが間違いだったとしても、もう私は壊れないわ。私は誰かに騙されていたわけでもない、誰かに任せていたわけでもない。私は私を信じるものを、誰にも決めさせはしないの。
私はあなたを愛している。
それは絶対に揺るがない。あなたを信じているからではない。あなたを愛している私自身を、信じているからよ。
最後に。
お父さんに話を聞いたとき、お父さんは、別の事も教えてくれました。
私の名前をつけたのは、お母さんだって。お父さんは、それ以外私に言わなかった。お母さんは、君を愛していたんだよ、とか、お母さんを許してあげて欲しいとか。そんなことは、何も言わなかった。私はそのときただ、お父さんとお母さんの別れの理由を聞いた、それだけだと思っていた。
でも、チベットで、私が「私」を捕まえたとき、私は自分の名前を思った。
貴子。
それはお母さんがつけてくれたの。お母さんは、初めから、私のことを愛していたのよ。貴子。私のことを、貴い子だと、そう思ったのだから。
そして歩、あなたの名前は、歩よ。
歩きなさい。
そこにとどまっていては駄目。あなたの家のことを言っているのではない。分かるでしょう。あなたは歩くの、ずっと歩いて来たのだし、これからも歩いてゆくのよ。
お父さんに会いなさい。話を聞きなさい。
そして、また歩きなさい。自分の信じるものを、見付けなさい。
歩、歩きなさい。
僕は読んだ手紙を、ゴミ箱に捨てた。
すぐに、それはあまりにも感傷的な行為だと思い直した。舌打ちをしながら手紙を拾い、でもどうして良いのか分からなかった。僕はほとんど泣き出しそうだったが、絶対に泣くまいと決意していた。全身全霊の力で、姉を憎もうと思った。でも胸に浮かぶのは、姉の無骨な、汚い、真っ直ぐな文字だけだった。
『歩、歩きなさい』
その言葉は、僕を恐ろしいほどにかき乱した。
56
冬の山は寒く、帽子をどれだけ深くかぶっても、剝き出しになった鼻や唇がピリピリと痛んだ。幸い雪は降っていなかったが、前日までに積もった雪が視界を真っ白に染め、無音の中、自分が雪を踏みしめる、キュキュ、という高い音が響いた。
駅からバスで来たのだったが、バス停から、もう30分ほど歩いている。図書館にいるときの30分は、あっという間に過ぎてしまうが、こうやってひとり、山道を歩く30分は、数時間にも、半日ほどにも思えた。
細いが、きちんと道はあった。雪かき、というほどではなかったが、人が通れるように踏み固められているので、この道で間違いないとは思うものの、一向に変わらない景色の中を歩いると、自分が目的もなく山中を彷徨(さまよ)う世捨人になったような気持ちになった。世界中に、見捨てられたような気がした。
建物が見えた時は、だからホッとした。思わず拳を握り締めた。手袋をしてくるのを忘れたから、握りしめた拳が、じぃんと痺れた。
寺と聞いていた。しかも、こんな山奥だったから、いかにも日本の古式ゆかしい山寺が厳かに建っているのだと思ったら、違った。建物は2階建て、横に長細いクリーム色の鉄骨構造で、一見すると学生寮とか社員寮のような、秩序のある佇まいをしていた。
読経の声も聞こえなかったし、人の気配もなかった。ここで合っているのか不安になったが、近づくと線香の香りがしたので、間違いないだろうと思った。入り口へ行くと、果たして僕が記憶していた、そして姉の手紙にも書かれていた寺の名前があった。
直接訪ねていこうかと思っていたが、結局臆して、僕は予め父に手紙を書いていた。余計なことは書かず、ただ、「会いに行きたい」とだけ。父からはすぐ、返事が届いた。
『いつでも大丈夫です』
出家、というシステムがどのようになっているか分からなかった。この建物を誰が管理し、金銭はどうなっているのか。出家したといっても、こうやって「下界」の人と簡単に会えるのか、それは家族だからなのか、ただの共同生活なのか、怪しい宗教ではないのか。父に訊きたいことは様々あった。でもそれは、父が出家することを告げたあのときに訊くべきだった。僕はあのとき、自分のショックにかまかけて、父の行く末を何も考えていなかった。
引き戸を開けると、建物は予想に反して、ひとつの大きな家だった。玄関は吹き抜けになっていて、広い三和土(たたき)には一足の下駄以外のものは見当たらなかった。一見して清潔な場所であるという事が分かった。建物全体に漂っているお香の香りも清々しかった。
引き戸の音で分かったのだろう。奥から人が歩いてくる音がした。背中がぴりぴりと痛むほど緊張した。いかめしい僧侶が出て来るような雰囲気はなかったが、それでもここは寺だ。しかも、こんな山奥の。僕は背筋を出来るだけ伸ばした。
現れたのは、背の低い、人の良さそうなおじさんだった。頭を丸めているが、袈裟のようなものではなく。草色のトレーナーの上下を着ていた。
「圷(あくつ)さんですか?」
圷、と呼ばれたのは久しぶりのことだった。僕は一気に時間が巻き込まれたような、奇妙な感覚になった。おじさんには、関西なまりがあった。
「はい。あの、すいません」
意味もなく謝った僕に、
「お父さん、楽しみに待ってらっしゃるよ!」
おじさんは、嬉しそうに笑った。まるで久しぶりに会った親戚のようだった。おじさんに連れられて2階に上がると(階段も、隅々まで拭き清められていた)、廊下の左右に部屋があった。きっとそこに皆が起居しているのだろうと思った。
おじさんが去り、教えられた部屋をノックすると、「はい」と、声が聞こえた。父の声だった。数年ぶりに聞く声なのに、先ほど「圷」と呼ばれただろうか。懐かしいというよりは、「久しぶりだな」というような、軽い感想しか持てなかった。
だが部屋に入り、父の姿を見ると、そうも言っていられなくなった。
そこには父が居た。
父の部屋だから、当たり前だ。それでもそこには、父がいた。
袈裟(そう、まさに僕が僧侶と思うあの恰好!)を着て立っている立派な僧侶は、間違いなく父だった。
父は数年前と、何ら変わっていなかった。68歳になっているはずだったが、皮膚はつるりとすべらかで、相変わらず究極まで痩せた体には、でも力がみなぎっているように思った。つまり父は、僕なんかより、うんと若々しかった。
「歩」
父は嬉しそうだった。僕の肩に手を置き、何度も揺らした。僕はそうされながら、カイロ空港のことを思い出していた。僕と母と姉がカイロに着いた84年の夏、とても嬉しそうに笑っていた。あの日の父を。
「元気か」
父に、僕の薄くなった頭を見られるのは恥ずかしかった。剃髪(ていはつ)していたが、父の頭皮には青々とした毛穴のあとがあった。つまり毛根が生きていた。それに、僕のように腹に肉がついていなかった。父の輪郭は、まったくすっきりしていた。それは僕に、姉の姿を思い起こさせた。
父の部屋は6畳の畳敷きだった。小さなキッチンもあった。布団をしまっていたし、小さな文机と冷蔵庫以外見当たらないので、部屋はだだっぴろく見えた。座る所に迷っていると、父は押入れを開き、座布団を出してくれた。ちらりと見た押入れの中も、布団とふたつの衣装ケース以外、見当たらなかった。
父はお茶を淹れてくれた。飲んだことのない味がした。柿の葉茶ということだった。
父と向かい合い、でも僕は無言だった。何を言っていいのか分からなかった。東京から電車を乗り継ぎ、こんな山奥まで来たというのに、実の父に人見知りしている自分が、この上なく情けなかった。
僕の代わりに、父はいろいろ訊いてくれた。でも、息せき切って、という感じではなかった。あくまで穏やかで、そして静かだった。
父は本当に僧侶になったのだ、そう思った。
僕は、ほとんど僧侶みたいな父にしか思い出せなかった。カイロでのある時期から、父は静かな森のような気配になって、それからずっと、ギラギラとした空気とき無縁だった。
だが今、こうやって座っている父を眼の前にすると、父が本物の僧侶になっていることが分かった。ただし、それは在家としての修行だった。この山に来て、様々な修行と試験を経てやっと、父は本物の僧侶になったのだ。
「この建物の中でお祈りしたりするん?」
僕はいまいち、僧侶のなんたるかを分かっていなかった。ここに来たとき、父は朝の読経を終えたところだと言ったが、その読経を僕は「お祈り」などと言った。でも父は、僕の言葉を訂正することなどありえなかった。あくまで優しく、僕に話した。2階は起居する場所で、本堂は1階にあるということ。本堂と言っても、歴史の深い、古式ゆかしいものではなく、簡単なものであるということ。
「さっきの人は?」
「ああ、宮崎さん。あの人は、お父さんや他のお坊さんの世話をしてくれる人や。まあ、寮長みたいなもんやな」
「お坊さんと違うん?」
「違うよ」
剃髪していたのに? そう思ったが、それ以上訊くのは止めた。何かひとつ訊き出すと、とめどなくなると思った。
「なんだ、出家しようと思ったん?」
僕はその一言で、全てが分かってもらえると思っていた。姉が言っていた「聞きなさい」の意味、母との別れの原因、そしてあるときからどうして、こんなにも静かな、森のような男になってしまったのかを。
でも父は、笑った。
「せやなぁ。理由はいろいろあるなぁ」
誤魔化しているわけではなさうだ。僕は柿の葉茶を飲み干し、おかわりを注いでくれている父を見た。
「お父さん、なんでお母さんと別れたん?」
顔を上げた父は、まったく動揺していなかった。目を伏せもしなかったし、僕から目を逸らしもしなかった。僕は怯まず、父の目を真っ直ぐ見つめ返した。
「お母さんの事があってから、お父さんはおかしくなった。おかしくなった、ていう言い方が間違っているんやったら謝る。でも、そうやろ。ある時期からお母さんと喧嘩が多くなって、そのときお父さんは言い返したりしていたのに、でも段々話さなくなって、それで‥‥」
僕は、必死に記憶の糸を手繰り寄せた。父の事を完全に森のようだと思ったのは、いつだったか。父が独りだけ一時帰国する前だったろうか、それも後だったか。
「歩はそのことを、お母さんには聞いてへんのか」
父の言葉は平坦で、だから僕は父が僕に質問しているのか、それとも独り言のように呟いたのか分からなかった。僕が黙っていると、父は、
「そうか」
そう言った。部屋の中は寒く、僕はダウンをまだ脱げないでいたが、父はまったく寒そうにはしていなかった。
静かに、父は話し始めた。決意した、という感じではなかった。それは、自分の息子に思い出を語る男そのものだった。後ろ暗いところはなかったし、僕の反応を気にするような様子も見せなかった。そして父は、記憶の糸を手繰り寄せる必要もなかったようだった。頭の中にはっきりとある言葉を、父はただ声を出した。
長い話になりそうだった。
「お父さんとお母さんが出会ったのは、カメラの会社やって言うたよな。お母さんは短大を卒業してから新入社員で入って来て、お父さんは会社に入って8年目やった。初めて会った時、お母さんはお父さんのことを背の高い人、て思ったらしい。お父さんはお母さんのことを、顔の小さ人やなぁと思った。ほんまに、それだけやった。
お母さんは事務をやっていたんやけど、当時は事務職はみんな女の人でな、そこに、お母さんが特別仲良くなった先輩がおった。お母さんは当時から結構気が強くてな、あんまり友達も出来ひんかったみたいやったんやけど、その先輩とはウマが合うらしいねん。
その人の事を。Kさんと、呼ぶことにする。
Kさんとお父さんは、当時恋人同士やった。
Kさんはお母さんのふたつ上だな、Kさんはお父さんと結婚を考えていたと思うし、お父さんもそうやった。お父さんはKさんのご両親に挨拶もしていたし、Kさんのこともお父さんの親に会わせとった。会社の人もお父さんたちのことを知っていて、つまりお父さんたちの結婚は決まってたようなもんやった。
お母さんと話すようになったのは、Kさんを通じてや。お母さんも、ふたりが結婚することを知っていたし、祝福しくれた。お父さんは、お母さんのことを、大切なKさんの、大切な後輩やと、そう思っていただけやった。
でも。
いつからなんやろう。そこははっきり覚えてへんねん。お父さんは、段々お母さんに惹かれていくようになった。お母さんは気が強かったけど、真っ直ぐで、相手が誰やろうと臆せへんかった。お母さんのことを悪く言う人は会社にはいたけど、でも、お母さんは魅力的やったし、Kさんもお母さんことが好きやった。
お母さんは、絶対に好きになったらあかんひとやった。
お父さんはKさんと結婚する。だから絶対にお母さんは見てはあかんかった。でも、Kさんはお母さんと仲良くて、だから、嫌でも目に入った。いつからかお父さんは、会社でも、Kさんやなくて、お母さんばかりを見るようになった。
そして多分お母さんも。
お父さんもお母さんも、あかんことは分かっていた。絶対にあかんことは。
でもお父さんとお母さんは、若かった。
Kさんに秘密で会うようになった。誘ったのはお父さんやったと思うし、結局思いを伝えたのもお父さんやった。お母さんは、めちゃめちゃ怒った。怒ったけど、でも、どうしていいのか分からへんみたいやった。お母さんもそのとき、自分の気持ちに噓はつかれへんと言った。だから怒った。お母さんは、お父さんだけじゃなく、自分にも怒ってたんや。お母さんは、真っ直ぐな人やろ? 仲のいいKさんに隠すのがしんどかったんやろ。若かった。お父さんも、お母さんも。
Kさんには、ふたりで伝えた。
それがKさんをどれほど傷つけることになるか、分かっているつもりやった。でも、全然分かっていなかった。婚約者と親友に、同時に、『それ』を告げられる。Kさんの気持ちを。
Kさんは黙ってた。何も言わんかった。黙って、テーブルを見てた。
Kさんが何か言うのを、お父さんは待つべきだった。なのに、罪悪感に堪えきれへんくなったんや。『本当に申し訳ない。何でもする』って、先に言うた。お父さんは婚約者やった人に、そんなこと言うたんや。Kさんはその時初めて、お父さんを見た。怒鳴られたり、殴られたりしたほうが楽やった。でもKさんは何もせんと、お父さんをじっと、みているだけやった。それから、お母さんは。
お母さんも、耐えきれへんかったんやと思う。先に言うた。
『大好きなあなたに、こんな酷い事をしたから、その代わり、私は絶対に幸せになる』歩には信じられへんことかも知れへんかもしれないけど、きっとそれが、お母さんがKさんに言える中で、いちばん誠意のある言葉やったんやと思う。お父さんが言うたことなんかより、ずっと。分かるか?
お父さんとお母さんは会社を辞めた。会社の人は驚いていたと思う。Kさんが皆になんて言ったか分からへん。ただ、お父さんはそのときも、Kさんのことを何も考えてへんかった。Kさんがひとり会社に残る気持ちが。それが、どんな思いをすることなのか。
お父さんとお母さんは、すぐに結婚した。ほとんど、逃げるみたいな感じやった。お父さんの両親は、それを許さんかった。ふたりともKさんのことが好きやったし、お母さんのことを、あまりよく思っていなかったんやな。お父さん側のおじいちゃんとおばちゃんに、あんまり会うてないやろ?
お父さんは結婚しても苦しかった。毎日Kさんの夢を見た。逃げたかった。Kさんの思いできへん場所に逃げたかった。それで、海外に行きたいと思った。会社を選んだのはそのためや。それも、石油の会社を選んだのは、日本からうんと遠くに行けると思ったから。
時代が良かった。すぐにそんな会社に入れた。海外勤務の希望を出して、『なんでもします』って言うた。日本を離れられるのなら、ほんまになんでもする気やった。でも、お父さんは英語が十分やなかったら、3年ほど待たされた。苦しかった。たぶん、イライラしとったと思う。Kさんの夢を、相変わらず見続けた。
その間に、貴子が生まれた。
嬉しかった、ものすごく嬉しかったけど、嬉しい分、今頃Kさんはどうしているんやろうと思った。胸がちぎれそうだった。お母さんは、貴子の面倒を見ながら、でもきっと、お父さんのその気持ちを分かっていたんやと思う。そして、貴子も、赤ん坊やったあの子も、お母さんが不安定なのを分かってたんと違うんやろうか。赤ん坊の頃は記憶はなくても、その時期の母子関係はすごく大事やって言うやろう。貴子が不安定やったんは、お母さんのせいやない。お父さんのせいや。
やっと海外勤務が決まったときは、だからものすごく嬉しかった。お母さんがイランって決めた、イランなんて、どんな国かまったく知らんかったけど、遠いのが良かった。
Kさんのことを忘れることはないやろうと思っていたけど、でも、実際イランに行ってみると、やることが多すぎて、忙殺されて、何もかも初めての経験で、お父さんは初めてKさんのことを忘れた。Kさんのことを忘れて、心から、自分の幸せに没頭することが出来た。お母さんも喜んでくれた。きっと、貴子も。
そんなときに歩、お前が生まれた。
お父さんは、ほんまに嬉しかった。歩、お前は、お父さんたちが一番、ほんまに一番幸せやったときに生まれたんや。
貴子もそうやったけど、歩という名前は、お母さんがつけた。生まれる前から、決めた。お母さんはきっと、前に進みたかったんやと思う。過去を振り返ってばっかりのお父さんに、前を向いて欲しかったんやと思う。そしてそれは、本当にそうなった。
歩、お父さんは、お前を見て、前に見て、前に進もうと思えた。
過去のことを忘れて、家族4人、前に進もうと思えた。歩。お前の名前の通り」
57
どうやら僕の家族は、僕の名前に並々ならぬ思入れがあるらしかった。どうしても、意味を加えたいようだった。僕は勝手に押し付けられた重圧に、押しつぶされそうだった。
どうして今更。そう思った。
僕の名前にそんな意味があるなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。目の前に続く、長く輝かしい未来あるうちに、どうして言ってくれなかったんだ。
でも。僕は同時に思っていた。
その機会があったとして、僕は尋ねただろうか。
自分の名前に、父と母の苦しい歴史が関わっていそうだと感じたなら、僕は耳を閉ざしたのではないだろうか。圷家の不穏に、いつも目を瞑り、耳を塞いでいた僕だ。僕はそれを訊いただろうか。そして訊いたとして、その名を、これほど重みをもって受け止めることは出来ただろうか。
「歩、歩きなさい」
「歩、お父さんは、お前を見て、前に進もうと思えた」
僕が自分の名の由来を聞くのは、今でなくてならなかったのではないか。
名前だけではない。すべては、為さなければならい時に、為されるのではないだろうか。
須玖に再会したのは、姉の帰還は、あのときでなければならなかったのではないか。そして僕が父に会うのは、今この時でしかなかったのでは、ないだろうか。
では、僕が歩くのは?
自分の名のように、僕が歩くのはいつなどろうか?
「イランのこと、歩は覚えてへんやろうなぁ」
父は、イランの思い出を懐かしそうに語った。僕の知らない話がたくさんあった。バツールのこと、エブラヒムのこと、姉の幼稚園のこと。そして、圷家がいかに幸福であったか。遠い異国、革命への不穏な空気。それでも圷家は幸福だった。このうえなく。
「イランから帰国することになって、お母さんは不安やったみたいや。お父さんが、また元に戻るんやないかって。でも、お父さんはもう決意してた。前に進もう、歩もうって。お父さんは家族のために生きようと思った。
それに、あれから数年経って、Kさんもきっと、新たに誰かと幸せなっているやろうと思った。Kさんは綺麗なひとやったし、気立てが良くて、料理も身の回りのことも、すべてきちんと出来る人やった。きっと百倍素晴らしい人に出会って、幸せになっているやろうと思った。願った。
それから。カイロに行った。
カイロのことは覚えているやろう? お前は、カイロにいるときが一番やんちゃやったな。
お父さんもお母さんも、それぞれのことに忙しくて、お前らに構ってやる時間がなかった。でも、貴子も歩も、いつの間にかカイロに馴染んでた。お父さんたちより、うんと。お前らは、逞しかった。お父さんはお前らを見ていると、ほんまに頼もしかった」
嬉しそうに話す父を見ていると、僕は子供の頃に戻ったように嬉しかった。父を喜ばせることが出来て良かったと思った。
あのとき、僕は確かに逞しかった。冒険家だった。毎日毎日、新しいものに出会っていた。姉は初めて恋をし、恋に破れたが、その相手は親友になった(そしてその親友と、はるかサンフランシスコで再会したのだ)母は社交界でキラキラと輝いていた。そして父は、そんな家族を誇りに思いながら働いた。
そうだ、カイロでの生活は、圷家が、最も輝いていた時期だった。
そしてその時期が、終わることも僕は分かっていた。何故なら、僕はそれを経験したのだから。ある時期を境に、僕達家族は、急降下した。そしてその理由を、今から父が話そうとしているのだった。
「歩は、覚えてないかも知れへんけど、Kさんから手紙が来た。ある日、突然。
ほんまにびっくりした。お父さんは、住所なんて教えていなかったし、もちろん、カイロにいることすら、Kさんは知らんはずやった。
教えたのは、うちの母やった。Kさんから連絡があって、母親も驚いたみたいやけど、理由が理由だけに、教えたらしかった」
Kさんからの手紙。
僕の記憶に、それははっきりとあった。いや、今まで忘れていたが、今それは、僕の記憶の渦の中から、はっきりと浮かび上がって来た。
あの頃、家に来たエアメールの差出人を読み上げるのは、僕にとっての楽しみだった。夏枝おばさん、好美おばさん、僕の同級生や、父の知り合い。ローマ字が読めるのが嬉しかった。僕はその時間が大好きだった。父と母も、笑っていた。あるときはコーヒーを飲みながら。ある時はパンを齧りながら。そうだ、あれは、朝だった。
「Kさんは、お父さん宛に手紙を書いていた。お母さんは、それを読もうとしせんかったし、読もうとしたお父さんに、腹を立てた。せっかく家族が前を向いている時に、急に過去から手紙が来たみたいな気持ちやったんやろう。もしかしたら、Kさんがお母さんの幸せを潰そうとしていると、思ったかもしれへん。
でもKさんは、そんな事をするような人やなかった。お父さんは、Kさんに、よほど何かあったんやと思った。だから読んだんや、手紙を」
僕が差出人を読み上げた瞬間だった。
母の表情が変わり、そして、父が変わった。本当に、みるみる変化した。
それからだ。圷家を「不穏」が襲うようになったのは、全てがあの手紙から始まった。僕が読み上げたあの手紙から。
僕があれを読み上げなければ良かったのか?
父にそのまま渡していれば?
僕が「僕を見て!」と思ったことがいけなかったのか?
それはあまりにも酷というものだ。だって僕は、非力で小さい子供だったのだ。
僕は、悪くない。
僕は悪くなかった。
でも、そう思う自分が嫌だった。僕は何かことが起きると、いつも自分がそれにどれだけ関与しているか確認した。そして「僕は悪くない」と安心していた。僕が悪くない限り、自分はそれに関係ないと思った。つまり逃げた。
「Kさんは末期の癌やった」
耳を塞ぎたかった。でも、出来なかった。これは自分と関係ない話だ、そう思おとした。いつものように。でも、出来なかった。
「Kさんは、自分の死期を悟ってた。最後に会いたい、と書いていた。あんなことをしたお父さんに、会いたいって、書いてあったんや。
お父さんは悩んだ。物凄く悩んだ。お父さんは、家族が好きやった。お母さんが好きやった。
でもその時、お父さんは、過去に戻された。一気に、一瞬で。自分があんな風になるなんて、思いもよらんかった。お父さんはあの一瞬、未来を捨てた。お母さんは、それをなじった。それはそうや。お母さんはお父さんに、何度も何度も行くなと言った。行ったら許さへん、とも。
でもお父さんは、帰った、お父さんだけ、帰った。Kさんに会いに。
お父さんはそのとき、正直、お母さんとは駄目なるかもしれんと思ってた。でも、それでも、お父さんはKさんに、会いに行ったんや」
父の突然の一時帰国。僕はそれを覚えていた。
ソファで泣いていた母。そして母の背中を一緒に泣きながら撫でていたゼイナブの、その手に刻まれた皺まで、僕ははっきりと覚えていた。父がいない間に、暴動が起こった。外出禁止令が出て、母はうんと痩せた。それから母は、遅れて戻って来た父を、二度と見なかった。
「Kさんは、瘦せてた。これ以上は無理なくらいに。
お父さんは、泣くのを堪えるのに必死やった。泣き出しそうになるのを、必死で堪えた。それで、その代わりに、土下座した。病室で、床に頭をつけて、土下座した。
そしたらな、Kさんは、こう言うた。変わってない、て。あのともそうやった、て。あなた、あのときも、私が何か言う前に謝ったね、て。そうされたら、私は何も言われへんかった、て。
お父さんは、あの瞬間ら、ずっと逃げたんや、現実から目を逸らして、ずっと逃げてた」
父が圷家から去った時、僕は父の事を「逃げた」と思った。父にはどこかに、逃亡の気配が漂っていた。僕は父のことを、情けない男だと、ずるい男と思っていた。だが、僕には父にそんなこと言う資格はなかった。
「Kさんは、幸せになっていると思っていた。素晴らしい人と出会って。結婚して、もう子供も何人かおるやろうって。そしてきっと、お父さんとお母さんのことを忘れて、幸せに暮らしているやろうって。
でもそれは、お父さんがそう思うとしただけやった。そう思わんと、罪悪感でがんじがらめになるから。前に進まれへんから。お父さんは目を逸らしてただけやった。お父さんは、逃げてた。
Kさんは、ひとりやった。ずっとひとりやった。
あのことがあってから、ひとりで、たったひとりで、あの会社に行き続けた。みんながどんな風に思われたんか、どんな目で見られたか、想像もつかへん。
Kさんは、ひとりやった。貴子が生まれた時も、お父さんがイランにいるときも、歩が生まれたときも、そして、お父さんたちが幸せに笑っているときも、Kさんはひとりやった。
Kさんは、お父さんのことを恨んだ。と言うた。恨んでも恨んでも足りへんかった、て。でもKさんは、そう言いながら笑ってた。ちっとも恨んでいないみたいに見えた。こんな風になれるまで、とても、とても長い時間がかかったのよ、そう言ってた、その長い時間に何があったのか、教えてくれへんかったけど、Kさんがそのとき本当に穏やかなのは、噓をついていないことは、分かった。それだけは分かった。
Kさんは、最後に会えて良かったとも言うた、そう言うて、笑った。お母さんのことを気にしてた。あの子のことやから、私からの手紙に、怒ってたんと違うか、て。お父さんは、何も言われへんかった。Kさんは、ごめんね。と言った。最後にどうしても、あなたに会いたかったんやって、そう言った。どうか許してほしいって。
許すなんて、お父さんにはそんな権利はなかった。お父さんはただただ泣いた。それがKさんに会った最後や。
お父さんがカイロに戻ってから、それでKさんは1年ほど生きた。87年の冬に、Kさんは亡くなった」
父は、そこまで言うと、ふうっと、息を吐いた。僕は、呼吸を止めていた。どく、どく、と耳のうちで響く、血液の音を感じていた。
「そこからは、歩も覚えていると思う。お母さんがどうなったか、お父さんがどうなったか」
膝に置かれた父の指が、ぴくぴくもと震えていた。
「お父さんは、幸せにならんとこうと思った。お母さんが幸せになると誓ったように、お父さんは、幸せにならんとこうと誓った。そんなふたりが、うまくいくわけがなかった。
お父さんは、食べへんくなった。食べるものを極限まで減らして、それでもお腹が空くと恥ずかしかった。仕事はしたけど、高いスーツや靴や、綺麗な職場が恥ずかしかった、自分の体を苛めた。在家でいろんな修行をした。それでもお父さんは、幸せやった」
僕はそのとき、「私は幸せになるからね」と、僕に言った母を思い出していた。父と別れて、父の買ってくれた家に住んで、様々な恋人を作り、再婚した母のことを。
「お母さんが再婚したら、誰かと幸せになったら、お父さんは本格的に出家しようと思った。お母さんには、お父さんのお金をすべて渡すつもりやった。実際そうした。全てを捨てて、それでも、お父さんは幸せやった」
その逆に。僕は思った。
母は幸せではなかった、きっと。母はいつだって、何かに追い立てられていた。「幸せになる」という目的の引力に、振り回されていた。
「あるとき気づいたんや。お父さんは結局、お父さんのしたいことをしてるやって。
それが、『幸せにならないでおこう』と思うことで、それはお父さんが決めたことなんや。お父さんが、自分の心から思った事なんや。
世間一般の幸せを捨てることなんて、お父さんには辛いことでもなんでなかった。それはお父さんを、心安らかにしてくれた。
Kさんのことを、お父さんは不幸やと思っていた。それも、お父さんが不幸にしたんやって。
確かにKさんに、お父さんは酷いことをした。それは絶対に忘れてはあかんことやし、お父さんが一生背負っていかなあかんことや。
でも、お父さんがKさんの幸せを決める事は出来ひん。
Kさんには、Kさんの生き方があった。Kさんだけの生き方が」
窓の外から、カリ、カリ、という音が聞こえた。何の音か分からなかった。小さなその音は、何度か鳴り、やがてやんだ。
「毎日読経してる。Kさんのためだけやない。Kさんの為でもあるし、結局は自分の為や。お父さんは、日々穏やかになる。苦しさから解放されてる。それを恥ずかしいと思うことも、もうなくなった」
母は「幸せになろう」と決意した。そしてそれは、おそらく「父と」だった。なのに父は、そんな母から逃げたのだ。毎日言い争い、ふたりは疲れていた。きっと父は、母の為を思い、僕達のために思い、家を出たのだろう。金銭的援助を惜しまず、僕達の幸せを、特に母の幸せを望み、遠くへ離れる決意をしたのだろう。
だがそれが母の為だったとしても、母は父といたかったのだ。
母は、父と幸せになりたかったのだ。
こんな悲しいすれ違いはなかった。そして、こんなに悲しい皮肉はなかった。「絶対に幸せになる」と言った母は、ちっとも幸せじゃなかった。「幸せにならんとこうと」と思った父は、ずっと幸せだった。
姉が「すくいぬし」を母に渡したのは正解だった。母の「すくいぬし」はひとりだ。父だ。母はそれを認めることが出来なかった。「幸せになる」と言った自分が、父が去っただけで不幸せになることを、認めることが出来なかった。母は父以外の人を探し続けた。自分は絶対に「幸せになる」のだと、全力を尽くした。でも無理だった。
姉はきっと、母に、それを認めさせたのだ。
母にとっての「すくいぬし」は父であること。そして母は、これからきっと、父のことだけを想って生きて行く事だろうことを。
それを認めた母は、どれほど楽になっただろう。「すくいぬし」と書かれた紙は、どれだけ母の糧になっただろう。
矢田のおばちゃんは、時を経ても尚、様々な女性を救い続けるのだ。
『すくいぬし』
窓の外を見た。
雪の積もった木々の間から、曇った空が見えた。すべて灰色で、晴れる気配はなかったが、とても綺麗だった。
本堂を見て行くか、と言われて、僕は父についていった。
本堂は、確かにとても新しかった。
小さな仏像は金色で。ぴっかぴっかと不自然に光っていた。その前に置かれた木魚や様々なものも、その新しさゆえに胡散(うさん)臭く、まるで寺のセットを今作った、というような雰囲気だった。ただ強いお香の香りだけが、そこが本当の寺であることを感じさせてくれるものだった。
父は座り、手を合わせた。僕も、父の斜め後ろに座り、手を合わせた。誰に手を合わせているのか分からなかった。仏様、と言われてもぴんとこなかったし、じゃあ他の何かを思い浮かべようとしても、何も浮かばなかった。
僕は何もない所に、ただ手を合わせた。
顔をあげると、父が僕を見ていた。何も言わなかった。袈裟を着た父の姿は、本物の僧侶と思った時と、また違う風に見えた。父はどうしても、袈裟を着た父に見えた。
僕たちの父に見えた。
そしてそんな父は、母の「すくいぬし」なのだった。
58
年が明けても、僕はまだ歩き出せずにいた。
もはやその事に焦ることはなくなり、僕はただ粛々と日々を過ごした。僕が何かを待っているような気持ちだった。それが何なのかは分らなかったが、それさえあれば、動き出せる、僕はそう思っていた。楽観的であったのか、悲観的であったのは分からない。僕はおそらく、ただとても静かだった。
朝は7時に起き、質素な朝食を食べ、部屋の掃除をした。毎日掃除していると、綺麗なままだろうと思っていても、確実にどこか汚れていた。部屋の隅には綿埃がたまり、トイレの便器には染みがつき、風呂場には毛が溜まった。僕は静かに、自分が生きていることを思った。毎日、僕は何かしらのものを排出していた。
掃除が終わると、おにぎりやサンドイッチを作って、図書館へ向かった。
家では一切の情報を遮断して過ごしていた。テレビを点ける事はしなかったし、インターネットを開くこともしなかった。時折来る姉からのメールだけが僕に与えられる情報だった。
図書館に行くのに、僕は自転車を利用した。電車の吊り広告やふとしたときに見える誰かのスマートフォンの画面すら、僕は避けた。僕は自転車に乗り、家から真っ直ぐ図書館へ行くことだけを考えた。
図書館では、相変わらず小説を読んだ。物語の世界に没頭した。席に座り、本を開く僕はもう、別世界に行けるのだった。今自分がいる場所だけがすべてではないと思うことが、僕の何よりの慰めになった。
自分の作って来たお昼ご飯を休憩室で食べ、閉館まで本を読んで過ごした。自転車を漕いで家に戻る途中、スーパーでご飯と明日の朝食と昼食の材料、最低限のものを買って帰り、夜はまた、図書館で借りてきた本を読んだ。
これを禁欲的な生活、と言っていいのかは分からなかった。ただ、とてもシンプルだと思った。僕はとてもシンプルな生活サイクルの中にいた。質素な食事と自転車の移動だけで、僕の体は徐々に元の体型に戻り始めた。
僕のあまりにも完璧な自分だけの世界にいた。情報を遮断し、静けさのただ中にあった。僕と物語以外の所で何かが起こっているなんて、想像すらしなくなっていた。
それを僕に教えてくれたのは、やはり姉だった。
スマートフォンに入ったメールに『エジプトのこと知っている?』と書いてあった。
スマートフォンに連絡が来るのは初めてだった。姉はいつも手紙か、パソコンにメールを寄越すだけだったからだ。姉はどこかで、簡単に意思を伝えることが出来る状況を、避けているようなところがあった。
無視することも出来たが、何だか胸騒ぎがした。僕は結局、数ヶ月ぶりにネットを開いた。
長らく放っておいたので、パソコンが起動するかどうかすら心配だった。でもそれは、何事もなかったように、なんなく元のままの姿を現した。遮断するのも簡単だが、繋がるのもまた、拍子抜けするほど簡単なのだった。
検索ボックスにエジプト、と入力すると、様々な情報が現れた。
「タハリール広場」「ムバラク政権」「デモ隊」「衝突」「死亡」。あまりに多い情報の中で分かったことは、どうやら、エジプトで何か物騒なことが起きているということだけだった。
1997年、僕が二十歳の時、エジプトのルクソールで、日本人を含む観光客が襲われ、死亡した事件があった。そのときも衝撃を受けたが、それだけだった。僕の覚えている、のどかで平和だったあの国でも、そういうことが起こるのだなぁ、と、そのときはそう思っただけだった。
自分が住んでいた場所で事件が起きる事など、いくらでもありえた。どんな平和な街にだって憎しみはあるし、誰かが誰かを殺すとき、重要なのは「場所」ではないのだ。
だが、この膨大な情報は、僕の胸を粟立たせた。
それが数ヶ月ぶりに接したニュースだったからもしれないし、それがエジプトだったらかもしれないし、それとも、やはり僕がただ感じやすくなっていただけなのかもしれなかった。
『ムバラク退陣』
2月11日、30年間エジプトを統治してきたムバラク政権が、市民のデモによって崩壊した。
人懐っこくて寂しがりやで、お調子者のエジプシャンたちが、それをやってのけたのだ。
物語の世界ではない。これが現実に起こっている事など理解するのに、少し時間がかかった。それはまさにここ以外のどこかで起こっており、そしてそのどこかに、かつて僕が住んだ場所なのだった。
エジプトが変わろうとしている。
そして僕は、その国のことを、何も知らなかった。人生のある一時期、もっとも輝かしかった、そして家族が崩壊を経験した、あの苦しかった一時期を過ごしたエジプトという国のことを、僕は何も知らなかった。
どうしてエジプトがエジプトであったのか。
どうしてムバラク政権が30年間もつづいたのか。そして今、どうしてそれが崩壊したのか。
僕はそれから、エジプトのことを調べ始めた。
初めはインターネットで、それから図書館で。エジプトはずっと吞気だったわけではなかった。平和だったわけではなかった。
古くはナポレオンの占領に対する抵抗が始まり、エジプトでは様々な叛乱(はんらん)が起こっていた。僕が経験した1986年の外出禁止令も、カイロ市内の中央警備隊による暴動だった。学校を休めることを喜んでいたあの頃には、そんなこと、知りもしなかったし、知ろうともしなかった。
そして絶えず存在していたイスラム急進派たちのことも。
1981年のサダト暗殺を最大の事件とし、それから彼らは要人の暗殺に手を染め、最終的に1997年、僕が「こんなことが起こるんだなぁ」と吞気に思った。あのルクソールでの観光客襲撃にまで至った。全ての出来事は無関係ではなかった。
イスラム急進派は、1979年のイラン革命に鼓舞されたといってもおかしくなかった。僕らがイランからの帰国を余儀なくされたあの革命が、エジプトにも波及していたのだ。
でも今回のこの革命は、軍部でも、イスラム急進派たちでもなく、民衆によってなされた。きっかけは、チュニジアで起こった革命だった。
2010年12月、中部の街スイディ・ブーズィードの路上で野菜を売っていた青年が焼身自殺した。青年の名は。ムハンド・アル=ブーアズィーズィーは路上販売で糊口(ここう)をしのいでいたが、ある日警官に路上販売を咎められ、商品や秤(はかり)を没収、賄賂を要求され、殴られた。彼は警察の横暴に抗議するため、自ら体に火を放ち、焼身自殺したのだった。それがきっかけでチュニジアで叛乱が起こり、23年間統治していたベン・アリー政権が倒れた。世界はそれを、ジャスミン革命と呼んだ。
その1ケ月ほど後、エジプト、アレクサンドリアで、青年が焼身自殺を図った。ブーアズィーズィーに影響されたのだろう。エジプトでの若者の失業率がひどいものがあった。僕等がいた時代でも、カイロ大学という優秀な大学を卒業した学生が、就職先に困ってスーパーのレジ係をしていたし、コネがなければどんなに賢くても、例えば公務員になるのに数年またなければならないような状況だった。
警察の横暴もあった。そしてその背景には、イスラム急進派との攻防があった。アメリカがイスラム急進派を抑え込むため「テロリストとの戦い」という大義名分の下。エジプト政府は警察の権力を拡大させたのだ。
様々なことが、様々につながっていた。僕はその繋がった糸を手繰るように、日々を過ごした。糸は際限なく存在していた。そしてその糸は、僕が触れられるところにあったのだ。
アレクサンドリアの青年は、命を落とすには至らなかった。だが、翌日には同じくアレクサンドリアで、そしてカイロでも、焼身自殺が試みられた。1人が死亡した。
その事件は瞬く間に広がった。そして1月25日、各地で大きなデモが起こった。彼らは「1月25日の青年たち」と呼ばれ、中心はSNSで繋がった若者たちだった。ごく普通の、というよりは、比較的裕福な若者たちだった。インターネットで広がったデモの呼びかけに、タハリール広場には1万人以上が集まった。
タハリール広場!
僕はその広場のことを、ありありと思い浮かべることが出来た。丸く植えられた芝生の硬さ、周囲に乱暴に走る車の音、広場に寄り添うように建てられた政府のビル。あの広場で、それは起こったのだ。
その場所で、死者も出た。
暴行も起こったし、略奪もあった。2月2日には、ピラミッド周辺でたむろしているラクダを引きが乱入し、ラクダの上からデモ隊をムチで攻撃した。それでも民衆は引き下がらなかった。行進し続けた。
そして9日後に、ムバラク政権が倒れた。
インターネットの画像には、タハリール広場を埋め尽くす群衆の写真がアップされていた。広場が見えないほどだった。皆アラビア語で書かれたプラカードを持ち、拳を突き上げていた。まるでタハリール広場に、大きな波が押し寄せたみたいだった。僕はその喧騒を、怒号を、勝利の叫び声を、まるで今聞いているみたいに聞くことが出来た。
パソコンで「エジプト」打つときは、いつもわずかながら手が震えた。それが恐怖から来るものなのか、興奮から来るものか分からなかった。
今思えば、僕はきっと、それが来る予感に震えていたのだ。
僕を動かすそれが、まさにやってくる瞬間、その気配に、僕は震えていたのだ。
2月半ばからのほぼ1ヶ月間を、僕はそうやって過ごした。図書館に行って小説を読むことも辞めなかった。僕は文字ばかりを追っていた。時々小説世界とエジプトで起こっていることが混じったが、それは別の世界の出来事なのだと、訂正してくれる人は誰もいなかった。僕は少しおかしかった。遠い地で起こっているドラマチックな出来事に、完全に心を奪われていた。
その頃には、エジプトでの革命や一連の出来事は「アラブの春」と呼ばれていた。
東京に春がやって来るのは、でも、まだ先だった。
3月に入っても空気は冷たく、夜は毛布と羽毛布団で眠っていた。雨が降るとさらに気温は下がって、僕はグズグスと体調を崩していた。微熱が続き、軽い咳も出たが、それでも図書館通いは辞めなかった。
3月11日に、それは起こった。ムバラク政権が倒れた。ちょうど1ケ月後だった。
僕はもちろん、図書館にいた。
ぐら、と揺れたとき、最近の体調の悪さから、眩暈がしたのかと思った。でも違った。机に積んだ数冊の本がガタガタと揺れ、地震だ。と思った頃には、立っていられないほど揺れていた。
棚という棚から本などが落ち、どこかで女の人が叫ぶ声が聞こえた。机の下に潜り込む人を見て、僕も動こうと思ったが、動けなかった。僕は机に摑かまり、中腰で呆然としていた。もう収まるだろう。もう、そう思っても、揺れは一向に収まらなかった。あまりにも長く続いた。
やがて、恐怖がやって来た。それに気付いた時には遅かった。僕はもう、恐怖にがんじがらめになっていた。死ぬかもしれない。死にたくない、そう思った。
あらゆる場所で人が叫んでいた。棚から落ちる本の音がした。「落ち着いてください」と叫ぶ司書たちの声がした。
僕は机にしがみついたまま、いつまでもじっとしていた。
目を瞑って、じっと恐怖に耐えていた。
59
初めは、臭いだった。
鼻に刺さって来る臭い。尖っいるのにいつまでも続く。刺激的な温い。あの臭い。僕はその臭いで、一気に過去に戻された。
初めて降りたタラップの軋(きし)み。
殴られるような日差し。
バスの中に漂っていた気配。
あのとき、僕の傍にいた、母と姉がいた。そして空港では、父が僕達を待っていた。僕はひとりじゃなかった。圷家の人生で最も輝かしく、最も苦しかった激動の時代に、僕は知らず、足を踏み出していたのだ。
今、僕はひとりだった。ひとりでタラップを降り、ひとりでバスに乗り、相変わらずひどく曇ったガラスから、カイロの空を見ていた。
震災から2ヶ月経った。
もう一度カイロに来ることなんて、思いもしなかった。僕はかつて、またカイロに来ると誓った。泣きじゃくるゼイナブに、そう誓ったはずだった。だが、幼かった僕でも、その誓いは、誓った途端に破られるのだろうと思っていた。僕は、そんな奴だった。
でも僕は今、カイロに居た。
カイロ空港に降り立った乗客は、思ったより多かった。革命が起こったり、政情が不安定な中、でもエジプトに用がある人間がこんなにたくさんいるなんて、正直驚いた。
ドバイ経由でやって来た乗客は、ほとんどがアラブ系だったが、中に、僕と同じようなアジア系もいた。耳を澄ますと、韓国語を話していた。皆、怖くないのだろうか。臆しているのを知られたくなかったが、僕ははっきりと怯えていた。
インターネットで見るニュースでは、物騒な事ばかり報道されていた。
警察が機能しなくなっている。レイプや略奪が横行している。若者が銃を持って市内をうろついている。それがどこまで本当か分からなかったが、真実を知ったとしても、僕はきっと来ただろう、そう思うことが、僕に自信を与えた。僕は驚くほど強い衝動に従って、ここまで来た。
空港内は、穏やかな雰囲気だった。
あんな大規模な革命が起こり、政府が転覆した国とは到底思えなかった。自分が何を想像していたのか分からなかったが、少なくともイミグレーションでおずおず「観光」だと答えた僕に、職員が「ウェルカム!」と答えるなんて、思ってもみなかった。
空港を出た途端、また臭った。
臭いは恐ろしかった。見るものよりも、聞くものよりも、僕を容赦なく過去へ連れ戻した。僕はこの臭いで、女子トイレに座っていた太ったおばさんを思い出し、しっかり繋がれた母と姉の手を思い出した。記憶はとめどなかった。あとからあとから溢れてきた。すっかり忘れていたと思っていたものが、僕の周辺で静かに暴れまわった。
タクシーの運転手が何人も声をかけて来た。僕は畳みかけて来るエジプシャンの顔、顔、顔、に圧倒されながら、なんとひとりを選び出した、車に乗った。
「トゥ ザマレク」
僕は今、自分が住んでいた場所へ、行こうとしていた。
自分がこんなことが出来るなんて、思いもしなかった。
海外へは、かつて何度も行った。雑誌の取材で、世界中のアーティストに会いに行った。拙かったが、日常会話くらいは英語でも話せたし、時間が空いたら、僕はひとりで街を歩いた。知らない街を歩くのは楽しかった。コーヒーを頼むだけで、全能感に溢れた。あのときの僕は、こんな未来が待っているなんて、何も知らなかった。
海外へ来て、これほど心細い思いをしたのは初めてだった。自分が住んでいた街なのに、僕は、小さな頃に戻ったように、必死に窓にしがみつき、度を失って緊張しているのだった。運転手は大音響のラジオに合わせて鼻歌を歌っていた。道は馬鹿みたいにスピードを出す車が列をなし、排気ガスと砂埃をまき散らしていた。
流れる景色に集中していると、「あの日」から遠く隔たったような気がした。あの日の出来事は噓だったと言われても、素直に信じられそうだった。
図書館から帰宅し、数ヶ月ぶりにつけたテレビで、僕は津波の映像を見た。
すぐにテレビを消し、トイレで吐いた、四角い小さな画面が、あんな獰猛になるなんて、思いもしなかった。僕はやってくる余震と脳裏に残った映像に怯えながら、ベッドの上でじっとしていた。静かになった部屋で、それでも何かせずにはいられなかった。
恐る恐る開いたインターネットには、膨大な数の情報が流されていた。日本列島の地図が現れ、沿岸が真っ赤になっていた。まるで、戦争が始まったみたいだった。
やがて、「建屋崩壊」のニュースが流れた。
それからは、ネットの中がパニックになった。姉と母からは何度も電話があり、特に姉からは、「大阪へ行きなさい」というメールが来続けた。僕は「大丈夫」だとも、「行く」とも言えなかった。僕は只々、みっともなくうろたえているだけだった。
須玖と鴻上からも、すぐに連絡が来た。僕は須玖の心がまた壊れるのではないかと心配した。だが須玖は、しっかりした声で僕と話した。
「大丈夫か?」
しばらくして、須玖と鴻上がトラックを借り、被災地まで持てるだけの物資を持って走ったことを知った。僕はそれでも、家でじっとしていた。ネットからは相変わらず膨大な情報が押し寄せ、僕はどれも信じることが出来ずにいた。
コンビニに行くと、カップラーメンやパンの類はなくなり、水も売り切れていた。姉は何度も「大阪へ行きなさい」と訴え続けた。それでも僕は動かなかった。
僕は一日中インターネットを見続けた。見知らぬ人の情報に、出来る限り目を通した。時々意味もなく嘔吐したが、頭のどこかは静かだ、僕は多分、やはりおかしくなっていたのだった。
あるとき、いつものようにネットにかじりつき、波のように押し寄せる膨大な情報を見ていた。
僕は静かに言葉の羅列を追った。もはや真実を求める気持ちもなかった。僕はただ、文字を追っていた。何を見ても心が波打たなかった。だがそんな中、ある言葉が、僕を捉えた。それは久しぶりに見た、震災にまつわること以外の情報だった。
『エジプト、コプト教徒の教会襲撃される』
心臓が、大きく音を立てた。
僕はそのとき、ヤコブの横顔を思い出した。
教会でひざまずき、静かに祈っていたヤコブの姿を。耳たぶに生えた金色の毛や、伏せた瞼に生えた力強いまつ毛や、生まれて初めて、自分以外の人間の為に祈ったのだ。誰か知らない神様に、ヤコブの幸せを祈ったのだった。
「どうか、どうか、ヤコブをお守りください」
僕はどうしてここにいるんだ。
情報という名の文字を受け取り続け。だがそれは、心には決して残らなかった。僕は阿保のように食べ物を欲する餓鬼みたいなものだった。そして僕は、ただ得るだけで、動くことをしなかった。
ヤコブ、僕はどうして、ここにいるんだ?
その衝動そのままに、僕は航空会社のページを開いた。エジプトへ行く直行便はなかったが、ドバイ経由で行ける便があった。決意もないままボタンを押し、僕はそれから、ザマレク地区に有るホテルを予約した。やってみると、あまりにも呆気なかった。
それからカイロに行くまでの数日、僕は一度も吐かなかった。
運転手に声をかけられて、我に返った。
おそらく日本人か、と訊かれているのだろう。適当に相槌を打つと、運転手は、大きな声で何事かまくし立てきた。音声だけを聞いていると、怒っているように聞こえるが、実はそうではないことは、曲がりなりにもエジプトに住んでいた者として、分かっていた。
運転手は僕の薄い反応など全くお構いなしに話し続け、高架下にある建物を指差した。建物は黒焦げで、周辺には装甲車のようなものが停車していた。革命当時に焼けたものだろう。ここにきてやっと、僕はエジプトで起こったことが本当だったのだと実感した。黙り込んで緊張している僕に何か言い、運転手はひとりで笑っていた。
タクシーがナイル河を渡る時、身体を貫くものがあった。僕は多分、泣きそうだった。ナイル河は、あの頃と何も変わっていなかった。大きくて、濁っていて、静かだった。タクシーは僕の感慨など知らず、わが懐かしきザマレクに入った。
ホテルは、平穏そのものだった。
タクシーで入るとき、軍部の人間だろうか、それとも警察だろうか、タクシーの周りを犬に一周させて臭いを嗅がせていた。そのほかには、特別なことは何もなかった。フロントの若いエジプシャンは、「ウェルカム」と綺麗な英語で僕を迎い入れてくれ、通された部屋からは、静かに流れるナイル河が見えた。
部屋にひとりになった途端、僕は動転した。ほっとしたのと、懐かしさに興奮しているのとで、どうしていいか分からなかった。結局ベッドでごろごろ転がった。歩くのは疲れていたし、眠るのにはひりひりしていた。いつの間にか眠っているようだったが、時計を見たら、それも数十分のことだった。
僕はキャップをかぶり、ホテルを出た。
このホテルには、何度も来たことがあった。母に連れられて来た美容室もあったし、暑い日にはプールに入った。時々家族で食事に来ることもあった。大きなシャンデリアや重厚な絨毯は、当時のままだった。大人になった自分がここを歩いていることが、信じられなかった。
僕は裏口を探した。迷ったが、絶対にいくつもりだった。
ホテルの従業員に館内の道を訊き、拙い英語でやり取りした。従業員は、表玄関を勧めたが、僕はどうしても裏口に行きたかった。結局、15分ほどうろうろした。ホテルはそんなに広くなかったが、僕の方向感覚が怪しかったのだ。
やっと辿り着いた裏口で、僕はヤコブを見た。
あの頃のように、バンは停まっていなかった。おじさんはシーツを運んでいなかったし、ヤコブはそれを手伝っていなかった。でもその場所は、間違いなくそこにあった。
僕は警備員にいぶかしげに見られるまで、そこに立ち続けた。太陽は真上から照りつけ、恐らく正午だった。時差ボケなのか、それとも他の何かが原因なのか、とにかく僕は、くらくらしていた。
街へ出ても、僕はずっとそんな風だった。
街は、ちっとも変わっていなかった。帰国してから、もう二十数年経つのに、僕は家までの道を、何となく思い出すことが出来た。ホテルでの彷徨が噓みたいに、僕はまっすぐ、家に向かって歩いた。
道に落ちていた葉っぱを踏むと、バリバリと乾いた音がした。小さな頃、僕はその音が好きだった。家の近くの大使館には、椅子に座った警備員が居て、僕はヤコブと一緒に彼の銃を見せてもらったことがあった。猫が道路に寝そべり、エジプシャンに愛されていることが分かっている傲慢さで、近づいても逃げなかった。縁石は崩れ、木々は垂れさがり、そこは紛れもなく、ザマレクだった。
僕の住んでいた街だった。
僕はずっとくらくらしていた、何か痺れたようになって、頭頂部のあたりから出た僕が、数十センチ上から僕を見下してた。
ザマレクの静けさは、とてもはっきりした輪郭をもって、そこにあった。
犬を連れた西洋人が歩いていて、フラットの前に座ったボアーブが、ゆっくりお茶を飲んでいた。ほんの数ヶ月前に革命が起こった国だとは、やはりどうしても思えなかった。
この数ヶ月の間に自分に起こったことから、そしてエジプトと日本に起こったことから、ザマレクはとてつもなく隔たれているように見えた。どんな出来事の陰にも日常があるのだと、いつかどこかで読んだ言葉を思い出した。ザマレクの日常は、まさに出来事に勝利していた。
家に近づいても、僕は正気になれなかった。くらくらしたままで、大使館の角を曲がった。
果たして、そこに家はあった。そのままそこにあった。
二十数年のブランクをものとせずに、僕はその家を。迷いなく「僕の家だ」と、思うことが出来た。緑色の鉄製アーチ。白い石に彩られたアプローチ。姉が歓喜した大きなベランダ。
大した勇気を必要とせず、僕はフラットに入った。フラットの下にはボアーブらしき男が座っていたが、ドラえもんではなかった。男は僕の姿を見ても、何も言わなかった。僕を住人だと思ったのかもしれなかった。
古いエレベーターも、石の階段も薄暗い室内灯も、何も変わっていなかった。ここまで変わっていないと、かえって感動出来なかった。僕は静かにエレベーターに乗り、古びたボタンを押して、3階まで辿り着いた。自分の手で扉を開けて、やはり暗がりに出た。
大きな扉、そして比して小さなドアベル。ここが、僕の家だった。
僕は玄関から室内へのアプローチを、ありありと思い出すことが出来た。玄関ホール、ピアノの部屋、リビング、食堂、暗い台所、長い廊下、両親の部屋、ゼイナブの部屋、使っていなかったバスルームに僕の部屋、そして姉の部屋。
室内の全てのディテールが、驚くほど鮮明に甦った。まるでまだここに住んでいるみたいに。スクールバスを降りて、僕の家にたった今帰って来たみたいに。
僕はひとりだった。思い出を語り合う人もいなく、だから僕はこみあげてくる思いを、どうすることも出来なかった。僕はずっとくらくらしていた。体が大きなことに、髪の毛が抜けていることに、大きな違和感があった。僕はそのとき子供だった。
人生で一番勇敢で、人生で一番怯えていて、人生で一番愛されていて、そして寂しかった子供だった。
僕は階段を降りた。この足で会いに行かなければいけなかった。
60
ヤコブに会う手段を、でも僕は、なにももってなかった。
フラットをでて初めて、自分があまりにも無計画だったことを気づいた。僕はヤコブの家に行くつもりだった。ヤコブがあの家に、家族7人が住むにはあまりにも狭い、あの地下の部屋にまだ住んでいる筈もなかった。
世界には、フェスブックやツイッターなど、伝達手段となるSNSがたくさんあった。懐かしい友人とコンタクトを取ることも出来るはずだし、今回のエジプト革命も、フェスブックが中心になって起こったものだった。
ではSNSでヤコブを捜すことをしたかと言えば、僕はきっとそうする気にはならなかった。
何かと繋がることが怖かった思いがけない人と出会ってしまうのが怖かった。僕はおそらくSNSの類を波のように押し寄せる情報と同等に捉えていた。知りたくないのに知ってしまうだろうし、解放されたいのに深み嵌るのだろう。そして僕はきっと、何を信じたいか分からないだろう。
ヤコブには、きっと会えない。今までそう思っていなかったが不思議だった。
突き動かされてここまで来たが、僕はまったく阿保だった。震災後の渡航は、僕を尋常ではない精神状態にしていた。
それでも僕は歩いた。ヤコブの家のことも、はっきり覚えていた。家が近づくたび、ヤコブは会えないだろうという絶望と、かつてヤコブに会いに行ったときの高揚がない交ぜになって、僕は泣き笑いのような表情になっていた。数センチ上に浮かんでいるもうひとりの僕は、時々僕からうんと離れて、相変わらずとても静かなザマレクの隅々まで浮遊しては、律儀に戻って来た。
ヤコブの家があったフラットは、全く新しくなっていた。
何も変わっていなかった。ザマレクの街で、そこだけ時間が進み、景色を歪ませていた。確かにここだったはずだ。僕は何度も何度も道を確かめた。大人の僕の足でも、ヤコブの家までの距離を、あの尊い時間を忘れるはずがなかった。
僕はそこではっきり、ヤコブへの道が途絶えたことを知った。
コプト教徒の教会が襲撃されたというニュースが、僕の背中を強く推したのは確かだったが、だが僕に何が出来たというのだろう? ヤコブを守る? 何から?
僕は自分の傲慢さに身震いがした。わざわざエジプトくんだりまで来て、勝手に感傷的になって、勝手に絶望している。僕は自分が、まるでかつての姉のようだと思った。自分の感情だけを尊び、それを阿保のように温めて、誰かに期待して裏切られ、勝手に傷ついた。かつての姉。
「自分だけが信じるものを見付けなさい」
それでも、姉の声は脳裏から消えなかった。
僕はもしかしたら、ヤコブに「それ」を見ているのかもしれなかった。
僕は寂しさや苦しさを、ヤコブの前では忘れることが出来た。通じるはずの言葉で話し、友情以上の強さで愛し合っていた僕らは、きっと奇跡の最中にあった。僕はその奇跡を、それだと思っているのではないだろうか。須玖と鴻上を信じ、勝手に裏切られ、かえって自分を忌むようになってしまったあのときと、僕は同じことをしようとしているのではないだろうか。
それでも僕は来てしまった。自分でも驚くほどの軽やかさで、ここに来てしまったのだ。
玄関に座っていたボアーブが、声をかけてきた。
建物の前で、あまりに長い時間立ち尽くしていることを、不審に思ったのだろ。洋装のエジプシャンに、でも僕は何を言っていいのか分からなかった。ただ、曖昧に笑った。ボアーブも、困ったような顔をして笑った。その顔は見覚えがあった。
あ、と思ったときには、僕は小さな頃の記憶を、完全に思い出していた。
彼は、ヤコブと一緒に住んでいたおじさんだった。ヤコブの家の中で、唯一細い体をしていた。年を取っていたが、間違いなくあのおじさんだった。
僕の表情に気づいたのか、おじさんは僕のことを探るように見た。アラビア語を話すことが出来なかった。かといって英語が通じるとは思えなかった。おじさんはあの日からずっと、この建物のボアーブを遣り続けていたのだ。建物が変わっても、なお。
「ヤコブ」
やっと、それだけ言った。
「ヤコブ?」
おじさんは、思いがけない事を言われた、という顔をした。なんなんだ、このアジア人は、どうして俺の甥っ子の名を知っているんだ、という風な。僕は怯まなかった。
「ヤコブ、ヤコブ」
そう言い続けた。自分の顔を指差し、握手するように両手を合わせ、なんとか自分がヤコブと友達だったことを伝えようとした。
おじさんは困った顔で僕を見ていたが、やがて思い出したらしかった。ぱあっと、顔が晴れた。それからは大変だった。アラビア語をまくしたて、僕の肩を叩き、頬にキスまでした。そういえば僕は、ヤコブの家族皆に愛情をもらっていたのだった。嬉しくて恥ずかしくて、僕はずっと笑っていた。
エジプシャンらしい愛情の儀式をひととおり終えると、おじさんは、携帯電話を取り出した。
「ヤコブ」
そう言って、電話をかけた。
ヤコブにかけているんだ!
僕の心臓は高鳴った。ヤコブに会えるかもしれない。現に今、おじさんはヤコブと話していた。おじさんは昂奮し、何度も頷いた。僕も昂奮して、じっとしていられなかった。
これこそ奇跡だ、そう思った。
ヤコブのおじさんが、二十数年もの間、同じ建物でボアーブをしていたことが奇跡だったし、僕の事を覚えていてくれたことが奇跡だった。大人が年を取るのとは比べものにならないほど、子供が大人なるという変化は大きい。僕の顔はくたびれ、キャップで隠していたが、頭髪は薄くなっていた。それでも僕に子供の頃の面影をみて、おじさんは僕を思い出してくれたのだ。
おじさんはひとしきり話すと、電話を切った。そして、僕に向かって3本の指を立てた。
「3?」
おじさんはそうだ、という風に頷き、僕の頭の向こうを指さした。それからまた3本の指、そして自分の足元を指さした。何度も同じジェスチャーをし、熱心にアラビア語で話した。
「明日、3時にここに来いってことですか?」
分かる筈もないと思いながら、僕は日本語でそう言った。おじさんは同じジェスチャーをすると、おじさんは手を叩いて頷いた。分かりました、分かりました、ほとんど叫びながら、僕は何度もおじさんと握手した。
おじさんは、僕の姿が見えなくなるまで、手を振っていた。
僕は、天にも昇る気持ちだった。僕の上で浮遊していた僕は、僕とひとつになり、今度は僕自身が浮遊した。
ヤコブに会える!
僕は叫び出しそうだった。こんな奇跡はないと思った。革命後のエジプトで、自分のヒーローに再開する。こんなドラマティックな出来事の前では、自分の感情を抑えるのは難しかった。僕は浮かれて、ザマレクを歩き回った。
自分の家の周りを何度も歩き、サンスーパー内をうろうろし(僕がヤコブと初めて会った卵売り場で、僕は意味もなく卵買いそうになったほどだった!)、ブラジルストリートと呼ばれた通りを歩き、路地という路地に入った。すれ違うエジプシャンすべてに、朗らかに挨拶をしたいような気分だった。僕は今の時期を、この国の現在を忘れ、只々笑いながら、街を歩き回った。
どこへ行っても、革命の余波を感じることはなかった。タハリール広場に行ってみようかと思ったが、そう思った途端、急に疲れが押し寄せた。
軽食屋でコシャリを食べ、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、ベッドに横になると、そのまま泥のように眠ってしまった。
目が覚めると、祈りの時間を告げるアザーンの声が聞こえてきた。
美しい声だった。
これからザマレク中のムスリムが、祈りを捧げるのだろう。その静謐(せいひつ)な時間を、僕はホテルのベッドで思い浮かべた。
「彼ら」がコプト教徒の教会を襲ったことなんて、信じられなかった。3月上旬、カイロの南にある村でコプト教徒の教会が焼かれた。それがきっかけでカイロでも両派が衝突し、13人の死者を出したという。4月にはまた、南部の州で、コプト教徒の知事任命をよしとしないムスリムの群衆数千人が「コプト教徒はいない」と、叫んだそうだ。
かつてヤコブと歩いていて、ムスリムの少年たちに大声でからかわれたことがあった。あのとききっと、彼らはヤコブがコプト教徒であることを罵ったのだ。穏やかだったヤコブが、その瞬間だけは本気で怒った。
「大切なものを、馬鹿にされたんだ」
ベッドで寝転んだまま、僕は様々なことを思った。
アザーンはいつまでも続いた。泣いているような、誘うようなその声は、街に反響して、やはりとても綺麗だった。
パンとコーヒーの簡単な朝食を取って、ホテルを出た。
昨日行けなかったタハリール広場へ行こうと決めた。広場へ行くには、ナイル河に架かる橋を渡る必要があった。7月26日通りを真っ直ぐ進むと、そのまま橋になる。
かつてその橋を、僕とヤコブは手を繋いで渡った。ただ橋を渡るだけの行為だったが、まるで未知の世界へ足を踏み出すような高揚があった。下を覗くと、濁ったナイル河が見え、時々立ち上がる白い波頭が眩しかった。
橋を渡り切るまで、大人の足でも、結構な距離だった。子供だけでここを歩いたことを、誇りに思った。かつての僕は無敵だった。ふたりでいれば、何も怖いものはなかった。
橋を渡り切り。ナイル河岸を歩いた。
考古学博物館の近くを通る。ここは昔、遠足に来たことがあった。何人かの観光客が歩いていた。革命後、観光客は激減したと何かに書いてあったが、どこの世界にももの好きはいるのだ。震災後、東京の街でも、何人か観光客を見た。
そういう僕だって、人からどんな風に見られているか分かったものでもなかった。僕の目的が、懐かしい、大切な人と会うという事だということは、誰も知らないのだ。
博物館を過ぎ、左に曲がると、そこがタハリール広場だ。
曲がった途端、たくさんの人の姿が目に入った。
デモだ、咄嗟にそう思った。
僕の心臓はおおきく鳴った。今でも様々な場所でデモが繰り返されるというのは知っていた。知っているつもりだったのに、まるで平穏な街に気を抜かれ、ここまでのこのこと来てしまった。
引き返そうかと思ったが、とどまった。広場の周辺で歩いている人は買い物袋をぶら下げ、誰かとお喋りをし、全く日常という感じだった。表情を見ても、何か危機的なことが起こっている、といった印象は受けなかった。
僕は恐る恐る、広場に近づいた。どうなる物でもなかったが、一応、キャップは深くかぶりなおした。外国人が襲われたニュースは、まだ聞いていなかった。
広場に集まった人たちは、プラカードの代わりなのだろうか、アラビア語が書かれた段ボールを手に持っていた。だが、それを大きく掲げるでもなく、拡声器で叫ぶでもなく、ただ集まっていた。なんていうか、だらだらしていた。それぞれ誰かと話し、時に笑い、デモの緊迫感からは程遠かった。
僕を見つけた子供たちが走って来て「アリガトウ!」と叫んだ。日本語を知っているのか。ぎこちなく笑うと、「アリガトウ!」と、また叫びながら広場へ走っていった。僕は引き返し、ナイル河の河岸を歩いた。歩きながら、自然と笑みがこぼれた。
エジプトだなぁ。そう思った。
彼らはきっと、ただ集まりたいだけなんだ。エジプシャンは、寂しがり屋だった。間違い電話の振りをして、家に毎日電話を掛けて来た男のことを、空港で泣きながら息子の旅行の見送りに来ていた家族を、僕は覚えていた。
きっと急進的な人間もいるだろう。実際革命では、死者も出ている。だが、エジプシャンの基本的性格は変わらないのだ。人懐っこくて、寂しがり屋で、すぐに熱くなって、すぐに忘れる、愛すべきエジプシャンたち。
僕はナイル河を眺めた。エジプシャンの性格がああなのは、身近に世界一の河があるからなのだろうか。そんな風に思っていた。ナイル河はやはり静かで、濁っていた。
61
3時になる前に、例のフラットへ向かった。
ヤコブもエジプシャンだ。約束の時間より前に来るはずもなかったが、待ち切りなかった。
新しくなったフラットは、遠くからでも見ることが出来た。薄汚れた建物たちの中で、白く漆喰風の外観は、異常に目立った。
建物の下に、男が立っているのが見えた。
水色の半袖のシャツに、グレーのスラックスを穿いた。がっしりした体格の男だった。
心臓から何か飛び出した。そう思った。それはきっと温められた血液で、体中をぐるぐると回り、特に肩甲骨、そして頭のあたりで滞留した。興奮のあまり、唇が渇いて、げっぷが出た。
さっき飲んだミントティーの、ミントの香りがした。
あれはヤコブだ。
間違いない。ヤコブだ。
大人になっても分かった。僕は走り出したかった。でも、出来なかった。興奮を上回る恥ずかしさがあった。まるで初恋の人に会いに行くようだった。34歳、中年といっていい年齢だったが、僕は少女のように身をよじり、はにかんでいた。
ヤコブも待ちきれなくて、約束より早く来たのだ。来て、ここで待っていたのだ。
僕は訳もなく、何かを噛み砕きたくなった。とんでもなく硬いもの、岩石かなにをガリガリと噛み砕きたくなった。出来ない代わり、歯をカチカチと鳴らした。
あと1ブロック、というところまで近づいたとき、ヤコブは手を広げた。
「アユム!」
我慢出来ず、弾かれたように、僕は走った。
この上なく幸福な気持ちで、僕は愛する男の胸に飛び込んだ。ヤコブの胸は厚く、体からは、酸っぱいような、甘いような、懐かしい匂いがした。間違いなく、ヤコブだった。ヤコブは僕の体を、強く抱きしめた。僕の背骨が軋むほどだった。
「アユム!」
そして、音を立てて僕の頬にキスをした。何度も。
間近でみたヤコブは、頬に皺が入り、目尻も下がっていた。だが、幼い頃のヤコブの面影が、至る所にみられた。大きな鼻、長い睫毛、そして、このうえなく澄んだ瞳。
ヤコプは、エジプシャンの男によくあるように、髭を伸ばしていなかった。さっぱりした顔をして、髪の毛を短く切っていた。
「ヤコブ」
言いたい事が山ほど溢れたが、僕はそれしか言えなかった。僕たちは見つめ合った。おじさんが建物の下から、僕達を嬉しそうに見ていた。
ヤコブはおじさんと抱き合い、何か話してから、僕を誘った。初めはアラビア語で何か言っていたが、僕には理解できなかった。
ヤコブは、英語を話した。
「僕の家に行こう」
ちょっと驚くくらい、綺麗な英語だった。
僕は、軽い衝撃を受けた。だが、現に僕も、自分の言葉を伝えるのに、英語以外の手段を持っていなかった。
「ありがとう」
僕の英語は、恥ずかしくなるくらいたどたどしかった。
ヤコブは、建物の前に停めていた白いホンダに、僕を案内した。ヤコブは女性にするように、助手席の扉を開けてくれた。中からは、ジャスミンの匂いがした。車内はとても綺麗で、ヤコブの運転はエジプシャンとは思えないほど穏やかだった。
「久しぶりに会えて嬉しいよ」
英語でそう言って、ヤコブはウィンクした。
「あの家には住んでいないの?」
「住んでいないよ。おじさんは別のところに住んでる」
ヤコブは、僕が今朝と通った橋を渡った。
助手席で、僕は夢を見ているような気分だった。大人になったヤコブが運転する車に乗り、あの橋を渡っているのだ。これからふたりで、細い細い路地や大きなゴミ置き場に行くのではなかった。僕たちは野良犬をからかうのでも、ゴミを燃やすのではなく、ヤコブが住んでいる家に行こうとしているのだ。
ヤコブの家は、橋を渡って10分ほど行ったところにあった。
静かな住宅街だ。子供が道でボロ布を丸めたものを使ってサッカーをしていた。ヤコブが車を停めると、何人かが走って来て、嬉しそうにガラスを叩いた。
助手席から降りると、僕の周りに集まってくる。「エジっ子だ」咄嗟に思った。もう大人になった僕でも、彼らに卑屈に笑うことは、やめられなかった。
「日本人が珍しいのかな?」
ぼくが訊くと、ヤコブは、
「そんなことはないよ、人が好きなんだ。分かるだろ? エジプシャンなんだから」
僕が笑うと、子供達も笑った。子供たちの笑顔は、とても眩しかった。
「悪いけど、エレベーターがないんだ」
ヤコブについて、階段を上がった、踊り場の窓から、ひし形の光が差し込んでいた。各階にふたつずつドアがあった。それぞれ、ドアの前に玄関マットや自転車、鉢植えなどが置いてあった。一見して、生活をきちんと慈しんでいる人が住んでいるのだと分かった。
3階の踊り場から4階に上がるとき、右側のドアから、女の子が顔を覗かせた。ヤコブを見て、嬉しそうに笑った。
ヤコブは女の子を抱き上げ、キスの雨を降らせた。
「娘のタマルだ」
タマルはふっくらとして、可愛らしいピンク色のメガネをかけていた、7歳くらいだろうか、にっこりと笑う顔が、ヤコブにそっくりだった。
「初めまして」
タマルも、綺麗な英語を話した。ヤコブは、とても嬉しそうだった。
「僕が教えているんだ」
家に入ると、女の人が出てきた。息を吞むほど綺麗な人だった。長い髪を垂らし、体に沿う黒いワンピースを着ていた。
「妻のサラだ」
サラさんは、にっこり笑ってくれた。
「昨日連絡を受けて、ヤコブったらすごく興奮していたのよ」
サラさんも、綺麗な英語を話した。
「こちらへどうぞ」
リビングを案内されると、そこには懐かしい人たちがいた。
「アユム!」
ヤコブの両親だった。年を取っていたが、ふたりはとても元気だった。交互に僕を抱きしめ、頬にキスし、手を握り、お母さんは涙を流した。アユム、と僕に呼びかけ、アラビア語で何か言った。ヤコブが訳してくれた。
「地震は大丈夫だったの?」
その言葉を聞いて、胸が詰まった。僕は笑いながら、何度も頷くしかなかった。
僕は家族の大歓待を受けた。
サラさんが作った豪勢な料理を食べ、何度もお母さんにキスされ、脳みそが痺れるほど甘いいケーキを食べて、タマルの歌を聴いた。上にふたり息子がいるということだったが、今日はサッカーの練習で不在だった。
ヤコブはふたりの写真を見せてくれた。がっしりした体格の男の子は、もう立派な大人の男といっても良かった。僕はかつてのヤコブの姿を思った。卵を取り、微笑んだヤコブの姿を、僕の前を歩き、いつだって僕を守ってくれたヤコブ。
ヤコブは、観光会社に勤めていた。英語を話し、英語を独学で学び、今では支店の一つ任されていた。お父さん勤めていたクリーニング店を辞めた。妹ふたりはずいぶん前に結婚し、それぞれバーレンとアレクサンドリアで暮らしているそうだった。
ヤコブは、家族4人と両親を養っていた。
「すごいね」
ヤコブはと僕は同じ年のはずだった。エジプシャンは結婚も早いし、家族を大切にすることは知っていた。だが、自分の境遇とのあまりの違いに、僕は気後れしていた。
「あなたの話は、ヤコブから散々聞かされていたわよ」
サラさんは、僕のカップにお茶を注ぎながら、そう言った。
「小さい頃、親友の日本人がいたって」
ヤコブが僕のことを親友と思ってくれていたこしが嬉しかったし、大人になって、こんなに立派になったヤコブが、僕を忘れずにいてくれたことが嬉しかった。
僕は自分が、早々にヤコブを忘れていたことを、忘れたかった。ヤコブのことを、エジプトのことを忘れ、自分の人生に没頭し。そして今、自分の都合でエジプトを訪れ、こうやってヤコブの家族に歓待を受けている自分を、恥じたくなかった。今日はただ、この悦びの中だけにいたかった。
「僕にとっても、ヤコブはとても大切な人でした」
そう言った僕を、ヤコブは嬉しそうに見た。
お茶を飲み終わり、ヤコブは僕を散歩に誘った。家族の歓待は嬉しかったが、僕とヤコブとふたりきりになりたかった。
タマルが、僕らと一緒に行きたがった。だだをこね、とうとう泣き出したが、お母さんとサラが散々宥めた。別れ際、お母さんとお父さんが、僕に何か訊いた。
ヤコブは訳すのを少しためらっていたが、やがてこう言った。
「もう会えないのかって」
お母さんはまた涙ぐんでいた。まるで、僕が本当の息子で、これから長いお別れをするみたいだった。僕は、
「また会いに来ます」
そう言った。ゼイナブのときとは違った。あのとき、「また来る」と言った言葉を、僕は自分で信じられなかった。でも今僕は、心からそう思った。多少の痛みを伴ったが、でも僕はお母さんに約束した。絶対にもう一度来る、そう誓った。僕はもう、10歳の子供ではなかったのだ。
「絶対に会いに来ます」
お母さんは、ぼろぼろと涙を流した。僕の事を、何度も抱きしめた。
フラットを出ると、先ほどの子供たちはもういなかった。だが、通りのいろんな場所から、子供たちの声が聞こえた。
僕はそのときやっと、今日が金曜日、エジプトの休日だったことを思い出した。だからヤコブは家に居のだし、息子ふたりはサッカーに行ったのだ。日本にいたときから、曜日の感覚はとうになくなっていた。僕は、遠くに離れた日本のことを思った。今はきっと夜だろう。皆、眠っているのだろう。
少し日は陰り、涼しくなっていた。木の影で、おじさんふたり腰を掛けて、お茶を飲んでいた。ふたりはヤコブをみて、笑って手を挙げてた。
モスクから、アザーンの声が聞こえてきた。僕はヤコブを見た。
「革命の後はどう?」
「そうだな、観光客はすごく減ったよ」
ヤコブは困った、という風に眉を上げた。家族6人を養っているのは、辛い状況に違いなかった。それなのに、あんな豪勢な料理を作り、盛大にもてなしてくれるのだ。ヤコブは大人になっても、恰好いい奴だった。
ティクットイージー、ヤコブはそう言った。ヤコブの力に何もなれない僕は、ただ笑うしかなかった。
「アユムが来てくれて嬉しいよ」
ヤコブは、本当に、と言い添え、僕の事を見た。僕はヤコブに訊きたかった。コプト教徒、という単語が分からなかったから、
「教会は大丈夫?」
そういう言い方をした。ヤコブは僕を見て、少し歩みを遅めた。
「OK」
ヤコブはそう言った。だが、きっとその言葉がすべてを言い当てているわけではないだろう「OK」という。余りにも軽やかな言葉の中に、様々な感情を孕(はら)んでいるに違いなかった。
革命当時、祈りの時間にひざまずいたイスラム教徒たちを警官隊から守るために、手を繋いで人の鎖を作ったコプト教徒たちがいた。「コプト教徒もムスリムも同じエジプト人だ」そう言っていたイスラム教徒もいた。でも一方で、再び宗教対立が起こると言っている人もあった。政権を握ろうとしているムルシが、ムスリム同胞団であるからだ。
長らく独裁体制を築いてきたムバラクにも、功績はいくつかあって、そのうちのひとつが、エジプトで長らく続いたイスラム教徒とコプト教徒の宗教対立を融和しようとしてきたことだった。ムバラク政権が倒れ、敬虔(けいけん)なイスラム教徒で構成される同胞団が政権を握ると、いきおいコプト教徒への迫害が起こるのではないかと、皆不安を抱えていた。そしてそのうちのひとつがきっと、僕が知ったコプト教会への襲撃事件だった。
「ヤコブ、エジプトに住んでいることをどう思う?」
ヤコブは、一瞬、何を言っているのか分らない、という顔をした。
「君はエジプトではマイノリティだろう?」
どう言っていいか分らなかったので、「君が信じているもの」と言い足した。ヤコブは口端をあげたが、笑っているというよりは、唇が動いた、という風に見えた。
「数は関係ない」
ヤコブはそう言って、前を向いた。ヤコブの歩みは力強かった。
「大切なのは、人が、ひとりひとり違うことを認めることだ」
ヤコブの英語は、端正だった。とても独学で学んだとは思えなかった。この語学力を得るために、ヤコブはどれほど努力したのだろうか。
「僕はコプト教徒だ。そして、僕の友人はイスラム教徒だ。信じるものは違うが、違うからこそ、協力しなければいけない。今のこの国の状況を知っているだろ? 僕たちは手を繋ぐべきなんだ」
ヤコブはそう言って、自分の両手で握手した。ヤコブの手の甲には、太い毛がびっしりと生えていた。僕はその手を見て、何故か悲しくなった。
「今のままでは、この国は誰がトップになっても同じだ。例えば僕が、アユムの帽子が欲しいと思う。取る。でも、使い方が分からない。皆そうなんだ。トップに立っても、どうしていいのか分からないんだ」
ヤコブの英語は、やはりとても美しくて、僕はそれが悲しかった。
「大切なのは、違う人間が、違うことを認めて、そして、繋がることだ。宗教なんて関係ないんだ」
とても正しい事を言うヤコブが、僕は悲しかった。
ヤコブと歩きながら、僕は次々と襲ってくる悲しみの発作に、耐えなければならなかった。あれだけ会いたかったヤコブに会うことが出来た。そして、かつてのようにこうして、共に歩くことが出来た。なのに僕はずっと悲しいのだった。
「ヤコブ」
ヤコブは、ん? という表情で、僕を見た。
「信じるって何?」
日本語でそう言った。ヤコブは、理解出来ない、という風に肩をあげた。
「信じるって何?」
ヤコブは、確かめるようにそう訊いた。
「そう。ヤコブにとって、信じるものは何?」
ヤコブは真面目な顔で俯きでも決して歩みを弛めなかった。ヤコブの返事を待つ僕は、ヤコブに必死でついていった。僕たちはほとんど同じだったが、ヤコブの影の方が、うんと大きく見えた。
「考えたこともなかったよ」
やがて口を開いたヤコブは、真っ直ぐ前を見ていた。
「信じることがどういうことかなんて、考えたこともなかった。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ」
僕とヤコブは、大きく隔てられている。
ヤコブも僕も、大人になった、ヤコブの手には太い毛が生えて、一方、僕の頭髪は抜けてしまった。ヤコブには養うべきたくさんの家族が居て、僕にはひとりも居なかった。ヤコブは綺麗な英語を話したが、僕たちはかつて、そんな言語なくても、ふたりだけで話が出来た。いつまでだって話が出来た。僕にはアラビア語は分らなかったし、ヤコブも日本語を理解できなかった。でも、僕達ふたりには、そんなに問題ではなかった。
僕たちは僕たちだけの言葉を持っていた。僕達だけの奇跡を。
だが、僕たちはいつしか、その奇跡を手放してしまった。
あれだけ繋がっていると感じていたのに、僕達は違うのだ。
僕達は、まったく違うのだ。
息をするのと同じように何かを信仰するとは、どういう気持ちだろう。信じるものを探そうとしている僕には、ヤコブの気持ちは、永遠に分からないだろう。
僕とヤコブの間には、ナイル河よりも深く、遠い隔たりがある。
そんなこと、分かり切っていたはずだった。
でも僕はそのとき、子供のように怯え、そのことを心細く思った。もしかしたら僕は、ヤコブとひとつになりたかったのかも知れなかった。ヤコブの強烈な信仰を、自分のものにしたいのかも知れなかった。
「アユム」
ヤコブが、前方を指した。
「ナイル河だよ」
62
いつの間にか、ナイル河の河岸まで歩いて来ていた。ナイル河は相変わらず、静かで、やはり濁っていた。
「広場の方に行くと、たぶんデモをやっていると思うから、こっちへ行こう」
そう言うと、ヤコブは歩き始めた。
「今朝、タハリール広場で人が集まっているのを見たよ」
「だろう? 金曜日と火曜日は、よくデモが起こるんだ」
「今はどんなことをやっているの?」
「色々だね。とにかく集まりたいんだよ。行けば誰かに会えるから。ピクニックみたいなもんさ」
ヤコブはそういって笑った。寂しがり屋のエジプシャンたちが、ただ集まりたくて集まっているのだと思った自分は、正しかったのだ。僕も笑ってしまった。
「気持ちいいね」
アザーンの声は、いつまでも続いた。泣いているような、誘っているような声は、僕が幼かった頃と、何も変わらなかった。ナイル河は金色に光り、ささやかな風が僕らの体を撫でていった。
ヤコブは、ぼくの傍を歩いていた。手をぶらぶらさせていたが、その手と僕の手が繋がれることはなかった。僕らは大人になった。
僕達は、英語で話しながら、河岸を歩き続けた。
あの頃から、ここまで来るのに、僕らは膨大な時間を費やしたのだと、ふいに思った。化け物みたいな時間の魂が、僕らを隔て、僕らから奇跡を奪ったのだと。
ヤコブは家族の話をし、僕は震災後の東京の話をした。
英語でなされるそれらの会話は、アザーンの声のように、発された瞬間から、空気に溶けていった。
「ここで座ろう」
ヤコブが言った。
対岸にはちょうど、僕が泊っているホテルが見え、ファルーカが揺れていた。洋服が汚れるのも構わず、僕達は、地面に直接、腰を降ろした。
しばらく、何も話さなかった。
アザーンの声はいつの間にかやみ、ナイル河の流れる、ちゃぶ、ちゃぶ、という音が、ただ響いた。誰も居なかった。とても静かだった。
「覚えているかもアユム?」
ヤコブはそう言った。ヤコブの視線は、河に注がれていた。
「君が日本に戻ると言った日、僕達はここで泣いただろう?」
僕も覚えていた。鮮明に覚えていた。
あのとき僕は、泣き叫ぶよりも強い力で、泣いた。僕たちの前には、僕たちにはどうすることも出来ない、僕たちには手に負えないものがあった。僕は絶対に日本に帰らなければならなかったのだし、ヤコブは絶対にエジプトに残らなければならなかった。僕達は、絶対に別れなければならなかった。
ヤコブの泣き声を、僕はつい昨日のように、思い出すことが出来た。
非力で、でも、何よりも強い力で結ばれていたあの頃の僕たちは、ここに座って泣いたのだ。そしてヤコブは、その場所を覚えていたのだ。
「あのとき」
ヤコブは、静かに話した。
「アユムが日本に帰ると知ったとき、本当に悲しかった。君は、僕の大切な友達だったから」
ヤコブの言葉は、英語は、僕に伝わってきた。それはきっと、とても正しいことだったのだろう。でもかつて、僕たちが話していたあの言葉はかなわなった、絶対にかなわなかった。
「エジプシャンの友達はたくさんいたけど、宗教の違いで、僕たちを隔てられていた。それに気づいたとき、僕は苦しかった。信じるものの違いで、僕達は隔たれている。それが悲しかった。そんなとき、アユムに会った。アユムとは、宗教も国籍も違った。でも僕たちは、とても親密だった。だろう?」
僕は頷いた。「親密、インティメイト」という固い言葉が限界だった。あのときの僕達は「親密」以上だった。でもそれを伝える術を、僕もヤコブも、持っていないのだった。
僕とヤコブは今、膨大な時間という化け物に、阻まれていた。
「アユムといると、幸せだった。とても」
河は、時々小さな渦を巻いた。魚がいるのだろう。白い波頭が立った。
「僕もだよ」
僕も、という以上の強い思いがあった。
ヤコブといると、僕は無敵だった。
あの当時、僕には抗(あらが)えない大きな波が来ていた。僕自身の願いは決して届かなかった。圷家は分解し、僕はそれをただ黙って見ているしかなかった。僕はあまりにも、ちっぽけだった。それでも、ヤコブといると、僕は誰よりも強い自分でいられた。僕はヤコブが、好きだった。
「僕もだよ。ヤコブ」
英語で言わなければいけない事が悲しかった。ミートゥー、そんな言葉で、僕の思いが、伝わる筈もなかった。
僕は時間という化け物を憎んだ。手放してしまつたあの言葉は、どこへ行ったのだろう。化け物は、僕達から、あまりにたくさんのものを奪った。
「僕もだよ」
涙が出ているのに気づいた。最初は左の目から、ついで、右の目から、涙がボロボロ溢れた。こんな風体で、泣いている自分が恥ずかしかった。
僕は禿げていた。僕は無職だった。僕は34歳だった。
僕は、ひとりだった。
信じるものを見つけられず、河を前に途方に暮れている34歳の僕は、きっと幼い頃の僕よりも、うんと非力だった。
僕が手放したものは、どこへ行ったのだろう。
輝かしい僕の年月は、どこへ行ったのだろう。
涙は止まらなかった。急に泣き出した僕に、ヤコブはきっと困っているだろう。申し訳なかったし、恥ずかしかったが、止められなかった。あのときふたりで泣いた河岸で、僕は今また、泣いていた、涙は後か後から出てきた。もはや何を思って泣いているのか分からないほど、僕は泣き暮れていた。肩が震え、嗚咽(おえつ)が漏れた。
ヤコブの手が、そっと肩に置かるのを感じた。ヤコブの手は大きく、生き物の体内のように温かかった。
ヤコブは黙っていた。僕はヤコブの顔を見る事が出来なかった。どうして泣いているのか説明したかった。ヤコブを困らせたくなかった。でも、僕にはどうすることも出来なかった。涙の訳を、僕は分かっていなかったし、それを伝える術も、僕は手放してしまったのだ。
「サラバ」
ヤコブが言った。
「サラバ」
最初は小さい声だった。はにかむような。手探りをするような声だった。
僕は、顔を上げた。ヤコブは、真っ直ぐ、僕を見ていた。驚いたことに、ヤコブも泣いていた。涙がヤコブの頬を伝い、涙がヤコブの頬を伝い、皺を撫でていた。
「サラバ」
ヤコブは、はにかむのを止めていた。今度は、はっきりした意思をもって、そう言った。ヤコブが伝える前に、その言葉はもう、僕に届いていた。
はっきりと、届いていた。
「サラバ」
そこには、僕たちのすべてがあった。僕が手放したもの、ヤコブが手放したもの、僕たちの思い、すべてが。
「サラバ」
僕も、そう言った。
涙は止まらなかったが、涙を超えた何かが、僕から溢れてきた。止まらなかった。
「サラバ」
そしてそれは、その一言ですべて、事足りた。
「サラバ」
僕は、それさえ言っておけば良かった。それさえ握りしめておけば、大丈夫なのだった。
ヤコブは、再び河を見た。僕も、河を見た。
僕達は覚えていた。
「それ」が現れたときのことを。白くて大きな化け物が、僕たちの前に姿を現したときの事を。
一番安心で、一番心細くて、一番悲しかったあのとき、倒れ込むように、「サラバ」に触れたあの瞬間「それ」は現れたのだ。僕らが奇跡のさなかにあった。その証が、世界一番大きな河から、現れたのだ。
僕達は、「それ」を待った。
僕達は34歳だった。一方は家族を養い、一方はひとり暮らし、一方は呼吸をするように神を信じ、一方は、何も手にしていなかった。僕たちの間には、大きな隔たりがあった。でも、今この瞬間、僕たちは同じ思いを持っていた。寸分たがわず、紛れもなくひとつになって「それ」を待っていた。
「サラバ!」
ナイル河は、静かに波打っていた。時々渦が起こったが、「それ」が現れる気配はなかった。ファルーカの影が伸び、ぎし、ぎし、と、木が軋む音が聞こえた。頭上を鳥が旋回し、高い声で鳴いた。
「それ」は、現れなかった。
ナイル河は静かに、静かに流れていた。
僕は、ヤコブを見た。ヤコブも、僕を見た。現れなかった化け物のことを思いながら、でも僕は、絶望していなかった。
「サラバ」
僕には、サラバがあった。
サラバがあった。ずっと、あった。
今、目の前でナイル河は静かに流れていた。ひと時も、そこに溜まってはいなかった。化け物は現れなかった。僕が水しぶきを上げ、大きくうねりながら、僕たちの前に姿を現すその軌跡を、はっきり見る事が出来た。
それは、やはり白かった。世界中の海を漂う矢田のおばちゃんの遺灰のように白く、決して摑めなかった。それは確実に、そこにあった。姉の作った巻貝が、母の作ったローストビーフが、父が手にした手紙が、須玖が愛したレコードが、夏枝おばさんが祈った神社が、「すくいぬし」と書かれた白い紙片が。
すべてのものを巻き込んで、化け物は漂い続けた。ずっと、動き続けた。決して、そこに留まっていなかった。
僕は、長い、長い時間を経てここに来た。
僕とヤコブを隔てた大きな、大きな時間の化け物は、でも僕たちを隔てるのではなかった。
その化け物がいたからこそ、僕とヤコブは繋がっていたのだ。
僕たちの背後にある大きな、大きな時間の化け物に、きっと背中を押されて、僕たちはここにいるのだ。河が流れるように、化け物が途絶えることがなかったら、僕はここにいるのだ。生きている、そして、生きているということは、即ち化け物を信じているということでは、ないだろうか。
僕は、生きている。
生きている事は、信じているということだ。
僕が生きることを、生き続けてゆくことを、僕が信じているということだ。
「サラバ」
名前を決めた。
たくさんの言葉を孕んだサラバ。たくさんの時間と、思いを孕んだ化け物は、サラバだ。
僕の神様は、サラバだ。
これ以上相応しい言葉が、あるだろうか。
僕は生きている。僕は信じている。
僕は神様に出会い、出会った瞬間、別れを告げることが出来るのだ。
「サラバ」
それはヤコブの声だっただろうか。それとも僕の声だっただろうか。
それは僕たちの、二度目の別れだった。
ヤコブはヤコブの信じる神に祈りに、教会に行くだろう。そして僕は、しばらくそこに留まる事になる筈だ。決して動きをやめることのないナイル河を、日が暮れるまで、見つめ続けるだろう。
僕はひとりだ。だが僕は、信じることが出来た。
僕たちは、また会うだろう。
また会う僕たちは、それぞれまた、大きな化け物を背負って、僕たちはまた、河の岸辺に、立つだろう。
そしてこう言うのだ。
「サラバ!」
僕たちは、「サラバ」と共に、生きてゆく。
63
小説を書きたい、と言うと、姉はうなずいた。
僕自身にとっても、とても急な思いだったのに、姉はまるで、前から僕がそう言うことを分かっていたみいだった。笑いもせず、からかいもせず、
「いいと思うわ」
そう言った。
僕はサンフランシスコ、姉の家にいた。夏だった。
姉の家は、郊外にあるアパートメントだった。アイザックとふたりだけで住んでいるのに、部屋は5つもあり、1階だったから、広い庭を使うことも出来た。姉はそこで、ヨガ教室を開いていた。
「お母さんとおばさんも、毎朝そこでヨガやってたのよ」
その光景を思い浮かべるのは難しかったが、青々とした芝生で裸足になるのは、確かに気持ち良かった。日射しは強かったが、カラリとした空気は朗らかで、一度そのまま眠り込んでしまった事があった。僕は真っ赤に焼けてしまった。姉は笑いながらアロエの軟膏を塗ってくれ、アイザックはレモンがたっぷり入ったジュースを作ってくれた。
小説を書きたい、と思ったのは、カイロから戻る飛行機の中だった。
正確に言うと、僕は「化け物を書きたい」と思った。
僕たちと共にある化け物。消えた。摑めないと思っても、つねにそこにある化け物。きっと忘れてしまったものばかりで、だから白いのだが、でも絶対にある、あの化け物を。
それを書くことで、少しでも留めておきたかった。
化け物のすべてを残すことは出来ないが、その輪郭くらいは、残すことは出来ないのだろうか。こうしている間にも、化け物はどんどん体積を増し、形を変えている筈だった。
そう考えると、居てもたってもいられなくなった。
化け物を残したい。
トランジットでドバイに着くころは、それを残す手段を、言葉以外で見付けられないでいた。僕たちが簡単に失ってしまう言葉は、でも、言葉として発した瞬間、何かに命を与える。発した刹那に消えるが、残るのだ。僕は僕の言葉を持っているうちに、書きたかった。一刻も早く書きたかった。
ドバイ空港でノートとペンを買い、思うことを書き殴った。ヤコブ、ナイル河、アザーン、ウズマキ、山寺、それはあまりにもとどめがなく、脈略がなかったが、間違いなく僕に関わったものたちだった。僕にとって、切実な軌跡だった。
でも、それ以上どうしていいか分らなかった。
これまで僕は、小説を読むばかりだった。たくさんの、本当にたくさんの小説を読んだが、それがどのように書かれていたのかを考えたことがなかった。
僕は帰国して早々に、また図書館に通った。
今まで僕は、図書館をある意味で逃避の場所、日常から目を逸らすための場所だと考えていた。意識的であれ、無意識であれ。でも僕は、はっきりした意思をもって図書館に行くようになった。逃げるのではなく、向かった。その間にも、化け物はきっと、どんどん増殖を続けた。僕は時々化け物への愛と焦燥で、おかしくなりそうだった。
それなのにパソコンを開いても、書き出すことが出来るのは、やはり、断片的な言葉だけだった。すくいぬし、クレヨン、ピラミッド、サッカー、猫たち。
僕はとうとう、家の中に在る本を読み返すようになった。
過去を振り返るのをあれだけ怖がり、避けてきた僕にとって、それは快挙といえた。だが、感慨に浸る間もなかった。ぼくはあまりにも自然に、本棚に対峙することが出来た。
はっきりと覚えているものもあれば、すっかり忘れてしまった本もあった。中には、ページの端を折ったり、赤線を引いたりしている本もあって、それを見つけるたび、化け物が、悦びに震えるような気がした。
かつて引いた線と、また違う場所に線を引きたくなったら、迷わずに引いた。かつて感じたこと、今感じることは違っても、それが同じ本のうちにある限り、僕らが繋がっていた。過去の僕と、今の僕は、はっきりと繋がっていた。
僕はとうとう、『ホテル・ニューハンプシャー』を読んだ。
手に取ったとき、少し胸が痛んだが、それだけだった。僕を小説世界に誘い、須玖という親友を与えてくれた小説を、僕はむさぼるように呼んだ。
読み始めると、僕はたちまち僕という輪郭を失い、ベリー家の家族に寄り添うことが出来た。共に笑い、共に怒り、共に涙を流し、ときに死に、そしてまた生き続けた。小説の素晴らしさは、ここにあった。何かにとらわれていた自身の輪郭を、一度徹底的に解体すること、ぶち壊すこと。僕はそのときただ読む人になり、僕は僕でなくなった。そして読み終える頃には、僕は僕を一から作った。僕が何を美しいと思い、何に涙を流し、何を忌み、何を尊いと思うのかを、いちから考え直すことが出来た。
『ホテル・ニューハンプシャー』にも、かつて僕が線を引いていた。それはきっと、高校生の頃の僕だった。
『「あたしは変人でもないし、奇人でもないわ、お互い同士では」とフラニーは言ったものだ。「雨と同じようにありふれているのよ」たしかに彼女の言うとおれだった。お互い同士では、パンの香りと同じように、ごく普通だし、素敵でもあった。僕たちは要するに家族だった』
僕はきっと、この文章に救われたのに違いなかった。いびつだった僕の家族が、何処にでもあるありふれたものなのだと、その一瞬、思うことが出来たのだった。
そして、今の僕が線を引いたのは、例えばこのような文章だった。
『そのようにぼくたちは夢を見続ける。このようにしてぼくたちは自分の生活を作り出して行く。あの世に逝った母親を聖者として甦らせ、父親をヒーローにし、そして誰かのお兄さんや姉さん――彼らもぼくたちのヒーローになる。ぼくたちは愛するものを考えて作り出して、また恐れるものも作り出す』
僕は作りたいのだった。物語を、化け物の長い物語を、作りたいのだった。
僕は数ヶ月ぶりに、須玖にメールをした。
『ホテル・ニューハンプシャー、久しぶりに読んだよ』
須玖からは、すぐに返信が来た。
『おお、懐かしいなぁ! どうやった?』
僕は感じたこと、受け取ったことを、思うまま書いた。言葉がどんどん溢れてきた。それは須玖への感謝だったし、物語への感謝だった。須玖は喜んでくれ、僕は須玖が喜んでくれたことを、喜んだ。
『あのとき、須玖にこの本を教えてもらって、ほんまに良かった』
少し照れ臭かったが、それは僕なりの「須玖に会えてよかった」だった。須玖の幸福を喜ぶことが出来なかったことへの、それは贖罪であるのかも知れなかった。須玖は、僕の意図を汲んでくれた。
『僕も、あのとき今橋に会えて良かったよ』
僕はその言葉を前に、しばらく泣いた。もう恥じなかった。僕は禿げていて、無職で、34歳でひとりだったが、そんな自分が泣くことを、僕は許した。
落ち着いてから、自分が須玖に送った文章を読み直した。びっしりと埋まった言葉は『ホテル・ニューハンプシャー』の感想でもあったが、須玖への感謝でもあった。自分が綴った言葉、言葉を見て、僕はやはりこう思った。
書きたい。
僕は自分の化け物を書きたかった。それはおそらく、自らの回想録になるだろうと思っていた。だが、それは日記であってはならなかった。誰かに読まれるものではならなかった。
ひとりよがりではだめだ。僕は自分の思い出を、出来るだけあまさず拾わなければならなかった。
ちょうどそのとき、ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』を読んだ。僕が線を引いたのは、ここだった。
『そう、そうなんだ! やっとわたしはわかった! 思い出した、望む者は同じところにとどまって、思い出がひとりでに自分のところまでやってくるのを待っていてはならないんだ! 思い出は広大な世界のなかに散らばっているので、それを見つけ、隠れ家の外に出してやるために、旅をしなければならないんだ!』
そして僕は、姉の元に向かったのだ。
姉に、僕達の思い出を教えてもらいたかったのだが、それ以上に、姉に会い、「小説を書くのだ」と、言いたかった。それは僕なりの、信じるものを見つけたという(正確には、信じるものをすでに見つけていた、ということだった)宣言だった。これからも生き続けるのだという、清潔な宣言なのだった。
それを聞くのは、姉でなければならなかった。
絶対に、姉でなければならなかった。
僕と姉は、一日中話した。深夜、話し込む僕たちを残して、アイザックがベッドへ行き、翌朝起きたら、僕たちが同じ場所でまだ話し込んでいた、というようなこともあった。僕たちは散歩し、お茶を飲み、時々ヨガをし(恥ずかしながら)、ソファで寛ぎながら、いつまでも話をした。
僕たちは、失われた時間を、つまり化け物を取り戻すように、尽きず話した、時々声を出して笑い、時々険悪になった。数十年ぶりに牧田さんに会い(牧田さんは、アフリカンアメリカンのウィリアムという男性と結婚していた。そして驚くべきことに、姉と牧田さんの再会もまた、SNSを介したものではなかった。彼らは偶然チャイナタウンで同じ店に入り、同じものを食べていたのだ!)、向井さんやカイロの話をした。
僕らの化け物は、そうしてどんどん成長していった。僕は化け物に寄り添い、安心して眠った。連綿と続いてきた僕の時間の頂点に、今の僕がいることを、心強く思った。僕は安心して抱かれているようなものだった。サンフランシスコだ、だから僕は、とてもよく眠った。
秋が来る頃、僕は姉の元を去った。
すっかり仲良くなったアイザックは、僕をずっと抱きしめてくれた。姉はそうしなかったが、その代わり、これ以上出来ないほど美しく立っていた。まるで地中奥深くから伸びた芯に貫かれているかのように、姉は真っ直ぐ、立っていた、姉は強い木のようだった。神様を孕んだ、美しい、木のようだった。
つまり、姉は「ご神木」だった。
世界で一番美しい、動ける「ご神木」だった。
サンフランシスコから帰国する空港で、須玖と鴻上から、メールが届いた。
『新しい命を授かりました』
僕はその時点で、もう泣いていた。
『子供の名前は、歩に決めています。きっと、男の子だと思います』
声を上げ泣く僕を、何人かのアメリカ人が気味悪がり、何人かのアメリカ人が慰めてくれた。僕は幸せだった。とても幸せだった。
帰国してから、僕は実家に行った。
次に会うべきは母だった。母はすっかり老け込み、かつての美貌を手放していたが、手放した分、大きなものを得ていた。
母は、穏やかな時間の中にあった。
きっと家のどこかに、「すくいぬし」と書かれた紙があった。見えなくても、その気配を、僕は感じた。それは僕すら穏やかにさせてくれる、とても強い気配だった。
母は、急に話をしたがる僕に驚いていたが、結局喜んで話してくれた。父のこと、イランのこと、カイロのこと。隣で聞いていた夏枝おばさんも、時々珍しく口を挟み、返事をする母の言葉に、声をあげて笑った。
僕が逆子だったことも、そのとき初めて知った。
「あんたはな、左足から出て来たんやで」
母はまるで、その瞬間を見ているようだった。
「それから、ゆっくり右足を出したんやで」
未知の国、イランで僕を産んだ母は、もう60歳を超していた。だが、父の事を話すときだけは、過去に戻った、黒目がちの瞳を、わずかに濡らして、ときに泣き、ときに怒り、そして結局うっとりしながら話す母は、ハッとするほど美しかった。
母もまた、化け物と共にあった。
化け物の体を食べ、咀嚼(そしゃく)し、唇から糸を紡いで、また化け物を編んでいた。編み続けていた。
父の所へ行ったのは、秋の終わりだった。
その頃にはもう、僕は書き始めていた。母の話を聞いたときに、最初の文章が決まったのだ。
『僕はこの世界に、左足から登場した』
それが書けると、あとはするすると言葉が出てきた。まるで僕の左足に、糸が結ばれているみたいだった。その糸を手繰り寄せ、僕は書いた。
父に「小説を書いている」と言うと、
「これから書くのではなく?」
そう言って、驚いた。僕が。もう書いている、おそらく、とても長い物語になる、と伝えたとき、父は何故か、嬉しそうに笑った。父はもう、70を目前に控えていた。
「生きている間に読めるかな?」
そう冗談めかして言った。僕は「読めるよ」と言った。
「約束する」
その約束を、僕は今、果たそうとしている。
僕は、37歳になった。
これを書き上げるのに、つまり3年かかったということだ。
書くのは、本当に難しかった。何度も「もうやめよう」と思った、知れなかった。3年の間に、矢田のおばちゃんから、そして父から貰った金は乏しくなり、僕は守衛のアルバイトを始めた。深夜、建物を巡回しながら、頭の中で物語を組み立て、翌朝になったらそれを言葉にした。
書いていると、時々自分が物語の「神」になってしまった事に気づいた。
家族から聞いた話は際限なくあったが、その中から何を選び、何を削り、何を創作するのかは、すべて僕に委ねられた。それだけではなかった。僕は物語を書くことをいいことに、実際には存在しなかった人物を創作し、実際に存在していた人物を黙殺し、ある人を悲しみの淵に追いやり、ある人に怒りを覚えさせ、ある人を殺し、ある人を生かした。
僕はこの物語において、まったくの神になってしまった。
僕はそれに怯え、それを恥じた。この物語を伝える者が創作者である僕しかいないことを心細く思った。何が正しいのか分からなくなった。
でも僕は書いた。書かずにおれなかった。
書きつづけてゆくうち、正しさなどどうでも良くなった。僕はこの物語において「神」だが、それを信じるかどうかは、読む人に委ねられているのだと思い至った。それが、僕を安らかにしてくれた。
だから、これを読んでいるあなたは、この物語の中で、あなたの信じるものをみつけてほしいと思っている。
ここに書かれている出来事のいくつは嘘だし、もしかしたらすべてが嘘かもしれない。登場する人物の幾人かは創作だし、すべての人が存在しないのかもしれない。僕には姉などいなくって、僕の両親は離婚しておらず、そもそも僕は、男でもないかもしれない。
あなたが信じるものを見つけてほしい。
そしてこの物語に、信じるものを見つけることが出来ないのであれば、この物語を読んでほしい。この世界には、数え切れないほどの物語が存在している。何を信じるかは、いつだって。あなたに委ねられているのだ。
恥ずかしいが、姉の言葉をここで引用したい。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」
僕は今、イランにいる。
たった今、メヘラバード空港に到着したところだ。
書き上がった原稿をプリントアウトして(大量だった!)、それを生まれた街で読みたいと思った。何度も訂正し、削り、つけ足し、迷い、僕の原稿は、つぎはぎだらけだ。でもそれが、僕なりの化け物なのだと思っている。タイトルはもう決めている。いや、きっと物語が生まれ始めた瞬間から、それはもう、決まっていたのだ。
サラバ!
これ以上、相応しいタイトルはないだろう?
テヘランは晴れだ。ガラベーヤを着た男性。ヘジャブを被った女性、大柄な白人女性、興奮して走り回っているアジア系の男の子、たくさんの人間が、僕の周りにいる。先ほどから、ニーナ・シモンの声が、僕の頭の中で響いている。
新しい世界が始まる
最高の気分よ
そういえば、須玖と鴻上の子供は、女の子だった。ふたりはめげず、歩(あゆみ)、という名前をつけた。歩は、もう二本足で立ち、そこら中を走り回っているそうだ。この旅行から戻ったら、真っ先に会いに行こうと思っている。
扉が開いた。僕は今、タラップを下りようとしている。太陽の光が、僕の首筋を撫でている。
「サラバ!」
生まれた場所に触れた途端、別れの気配がしている。でも僕は、決して絶望しない。僕は「それ」を、僕の「サラバ」を信じている。
僕は僕を、信じている。
「サラバ!」
僕は右足を踏み出す。
本作品は、小社刊行の小説「きらら」(2013年12月~2014年10月号)に掲載されたものを大幅に加筆改稿したものになります。
西加奈子 1977年5月、イラン・テヘラン市生まれ。大阪育ち。2004年に「あおい」でデビュー「通天閣」織田作之助賞受賞「ふくわらい」で河合隼雄物語賞受賞ほか著書多数。
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