僕は、僕らのあずかり知らないところで、僕の運命が決定されてしまうことに絶望していた。圷家がバラバラになること、ヤコブと離れる事、その事実そのものよりも、その決定に僕が微塵も関われなかった事が悲しかった。

本表紙
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第二章 エジプト、カイロ、ザマレク

 8
 僕たちは、慌ただしくエジプトに引っ越しする準備を始めた。
 僕はいつまでたっても、ミイラに関する思いを捨て去る事は出来なかった。エジプトに到着した途端、ターバンを巻いた男たちが僕に襲い掛かり、生きたまま内臓を取り出される夢を、何度も見た。

 汗だくで飛び起きた僕に、両親は気付かなかった。無意識の領域ですら、僕には配慮があるのだ。大声で叫んだりもしなかったし、暴れる事もしなかった。けなげな息子に気づきもせず、健やかに寝息を立てている両親を、僕はわずかに憎んだ。

 姉は、僕が見る限り、エジプトに行くことに関して、特に反応を示していないようだった。だが、家にエジプトの本が増え始めた。

 姉はもちろん、学校生活を楽しんでいるようなタイプではなかった。「ご神木」と呼ばれ、変わり者扱いされ、友人がひとりもいないのでは、仕方ないことだった。僕にとっては有難い給食も、姉にとってはアンネ・フランクと自分を遠ざける悪しき習慣でしかなかったし、友人がいなかったのは、姉がそう望んだからだった。姉にとってクラスメイトは、つまらないことで騒ぎ立てる、子供っぽい悪魔だった。姉は日本を離れることに、何のためらいも見せなかった。

 一番ワクワクしているのは、どうやら母だった。母の場合は、姉のようにエジプトの文献を読んで渡航に備える、というような事はしなかった。ただとにかく、ワクワクしていた。「向こうではたくさんのパーティーがあるらしい」と、訊いてもいないのに僕たちに言い訳をして、綺麗なモスグリーンのドレスを買ったり、白地に金色の飾りがあしらわれたハイヒールを買ったりした。姉は当然、そんな母を蔑んだ。母の行動は、アンネ・フランク的境地とは、ほど遠いものだったからだ。

 父は6月に出発し、僕たちは8月に出発することになった。父が向こうで住居などの準備をして、僕たちを向かえる手はずだった。
 夏休みに入る前、担任から、僕がエジプトに引っ越すことが告げられた。
 クラスの皆は驚嘆した。
「エジプト? どこそれ?」
 僕と同じように「エジプトのみらい」を読んでいた何人かは、あのミイラの、と、声を潜めた。僕はなんとなく誇らしかった。ずっと不安だったことを差し置いて、僕は自分が勇気のある冒険家になったように思った。

 ホームルームが終わると、同級生たちは皆、僕の周りに集まってきた。僕は幼稚園と同じく、小学校のクラスでも人気があったが、持ち前の性格から、率先して皆の中心になろうとはしなかった、その気になれば、クラスの中で完全に自分の存在を消すことが出来たし、皆に存在を黙殺されたところで決して傷つかず、それどころか安心するようなところがあったが、「自ら目立とうとする」ことによって、いいことなど、ひとつも起こらなかった。それは僕が姉から学んだことだったし、これからもきっと変えることのない、主義みたいなものだった。

 だが、そのときばかりは、僕は自分がまさか中心になることを許した。クラスメイトが海を越えてミイラの国に行こうとしているのだ(そのとき僕は、エジプトがどれほどの海を越えて行く場所なのか、いまいち分かっていなかったが)、仕方がないだろう。僕は皆の矢継ぎ早の質問に、出来るだけ丁寧に答えてやり、「手紙書くわ」という言葉に、感謝を込めて頷いたりした。

 同じ日、姉はクラスの担任に、自分が転校すること、しかもエジプトに行くことを皆に告げることを禁じた。マイノリティであることに全力を注ぎ、そのことで注目されることを何よりも願っていたあの姉が、である。姉はおそらく、本当にクラスの皆を嫌っていたのだ。それとも、もしかしたら、「何も告げずエジプトに行ってしまったクラスメイト」として、皆の記憶に残る事を選んだのかも知れなかった。僕のお別れ会は盛大だったのに対して、姉は静かに、本当に静かに日本を離れた。

 引越しの準備をする段になって初めて、僕と母は姉の部屋を見ることになった。姉が毎日壁に、天井に何を描いていのか、とうとう知る事が出来たのだ。
 姉の部屋に足話踏み入れた途端、僕と母は絶句した。
 壁や天井の一面に、巻貝が描かれていた。

 すべての巻貝が同じ形、同じ大きさだった。くるりと巻かれた殻の先から、何故か尻尾が飛び出していた。まるで貝殻の中に、鼠が何かが潜んでいるように。それはとにかく不気味だった。

 姉は図書館へいっていて不在だった(おおかたエジプトのことでも調べていたのだろう)。母は、姉に無断で、その絵を消そうとした。洗剤とスポンジを持って壁に対峙する母は、戦う前の兵士みたいな顔をしていた(みたことがなかったが)、だが、巻貝は絵ではなかった。壁を削り取って描かれたものだった。母がどれほどスポンジを動かそうと、壁そのものを削り取らない限り、巻貝は消えないのだ。

 僕は、姉の執念に改めて感嘆した。あんなに細い体のどこに、こんな力が宿っていたのだろう。そして、姉はどうしてこんなにたくさんの尻尾つきの巻貝を描いたのだろうか。巻貝にはもちろん表情が無かったが、くるりと巻かれた尻尾が、何かを訴えてきた。その何かを受け取る感性は僕にはなかったが、とても不穏だということだけはひしひしと伝わって来た。

 母はしばらく、力任せスポンジを擦っていたが、巻貝が微動だにしないのを見て、ぺたりと尻をついた。そしそのまま、しばらく巻貝を眺めていた。僕はぼんやりと立ち尽くしていることが分かると、僕を手招きし、隣に座らせた。

 僕は、母が怒っているのだろうと思っていた。姉がなしたことに、猛烈に怒っているのだろう。だが母は、僕の肩を抱き、ぼんやりと壁を見つめていた。ちらりと見たこめかみも、ただ静かに、汗に濡れているだけだった。

 残された僕たちの家には、夏枝おばさんが時々泊まりに来てくれることなっていた。母はおばさんに電話して、姉の部屋の事は決して驚かないでほしいと言った。

 姉がどうして巻貝を絵に描いていたのかは、最後まで分からなかったし、姉も簡単に教えてくれる人間ではなかった。母がスポンジを使ったところだけ、壁が綺麗な白色になっていたので、消そうと努力したことは分かっただろう。だが姉は、そのことを怒りはしなかったし、母もそのことについて、それから何も言わなかった。

カイロに発つ8月16日は、真夏なのに、珍しくとても冷え込んだ朝だった。
 僕はグレーのパーカーを着て、久しぶりに靴下を穿いた。姉はオーバーサイズのトレーナー(父のだ。胸にHEART BREAKERと書いてある)を着て、ぶかぶかのジーンズにスリッポンという格好だった。見送りに、僕の同級生たちが来てくれたが、姉の同級生は、誰も来なかった。姉は迎えに来たタクシーに早々に乗り込み、真っ直ぐ前を見ていた。

 祖母と夏枝おばさんが来てくれたが、何故か好美おばさん一家は来なかった。正直、ほっとした。僕はまだ、義一と文也のあの事件から、立ち直れないでいたのだ。日本を離れる段になってまで、まなえと姉が喧嘩するのや、好美おばさんと母がギスギスするのを見るのも、嫌だった。

 タクシーが出発した途端、祖母の顔がぐにやりと曲がるのが見えた。でも、祖母は泣かなった。夏枝おばさんも、母もそうだった。今橋家の女は強いのだと、僕は思った。

 当時まだ、関西国際空港は出来ていなかった。
 僕たちは伊丹空港からカイロ国際空港へ向かうことになっていた。飛行機は14時間、途方もない距離だ。一日が24時間ということを学んでいなかった僕でさえ、その数字は脅威だった。それだけ離れた国なのだから、ミイラくらい作るだろうと、妙に納得したりもした。

 イランで生まれるという華々しい経歴を持つ僕たちだったが、実質、僕の記憶の中では、飛行機に乗るのは初めてだった。
 僕は柄にもなく興奮していた。すごく。
 飛行機にまつわる全てのこと、バスポートコントロールや荷物検査のベルトコンベアー、背中をぴっと伸ばして歩いて行くCAの列、とりわけ、ゲートの窓から見える大きな機体が、僕をこのうえなく高揚させた。わあ、わあ、僕は声を出さずにいられなかった。

 やっと元気になった僕を見て、母も嬉しそうだった。機嫌に乗じて、ボーイングの小さな模型まで買ってもらえたのだから、最高の旅立ちだった。
 姉は飛行機の中で、昔のような暴挙には出なかった。むすっとした顔で本を読み、珍しく母が持ってきたおにぎりをかじった。母の機嫌は概ね良好で、僕は興奮と緊張のためか、不覚にも機内で2回ゲロを吐いた。

 カイロ空港に到着したのは、夕方だった。
 それなのに、タラップを降りた途端、焼けつくような日差しが僕たちの皮膚を焦がした。夕方とは思えない、ほとんど殺意さえ覚える強さだった。母は急いで新しいスカーフを頭に巻きつけたが、姉は鬱陶しそうに目を細めるだけで、何もしなかった。

 飛行機の前に、大きなバスが停車していた。それに乗ってターミナルまで行くのだ。あんなに汚いバスを、生まれて初めて見た。窓ガラスは真っ黄色に曇っていて、外がぼんやりしか見えなかった。座席は窓際に一列しかなかったが、何かで決定的に汚れていて、誰も座らなかった。

 僕ら3人以外に、日本人はいなかった、母や姉や、特に僕は、皆からじろじろと見られた。女の人は皆スカーフを頭に巻き、目の周りが真っ黒で、お尻が驚くほど大きかった(それに比べると、母と姉はまるで小枝だった)。大抵の男の人は、ワイシャツとスラックス、革の靴を履いていたが、中に、くるぶしまであるワンピースのようなものを着ている人がいた。男がスカートを穿くなんて驚いたし、なのに黒猫のような真っ黒い髭をたっぷり生やしているので、そのギャップに眩暈(めまい)がした。

 僕が目眩に襲われる理由は、実はそれだけではなかった。バスに乗った瞬間から、臭いがすごかったのだ。酸っぱい、目に染みるような臭いだった。僕の鼻は崩壊寸前だった。だからバスがターミナルに着いたときは、心からほっとした。

 飛行機はあんなに上機嫌だった母が、空港では緊張しているのが分かった。列に並ばされ、長い時間待たされた後は、顔半分が髭のおじさんに、パスポートをチェックされた。母は、男の人に会うと、反射的に微笑むタイプだったが、今母は微笑みかけてきた男の人みたいに、そのおじさんは喜ばなかった。ほとんど喧嘩を売っているといってもいい顔で母と、姉、そして僕を睨んだ。そしてパスポートに乱暴に判子を押した後は、こちらに向かって、パスポートを放り投げた。
「なんやの、あれ」
 母は、自分がまさかそんな扱いを受けるなどと、思わなかったようだった。
 荷物を受け取る段になって、やっと僕の元気が戻って来た。ベルトコンベアに乗ってスーツケースが流れてくる様子を、初めて見たのだ。黒いゴムの、怪物のベロのようなものがカーテンの向こうから、様々な荷物が現れてくる様子は、見ていて全く飽きなかった。

 その頃には、また新しいにおい、豆をフライパンで炒ったような匂が漂っていた。時々鼻を突き刺す香水の匂いを振りまいたおばさんが通ったり、スパイスの強烈な匂いをさせたおじいさんが通ったりして、カイロ国際空港は、とにかく何らかの匂いに満ちていた。

「トイレに行きたい」
 姉が言った。
 家族でどこかへ出かけたとき、急に催したとしても、姉は誰にも告げず、ひとりでトイレを見つけ、さっさと済ませてきた。だが姉も、エジプトという未知の地の、何らかのにおいが充満する空港に怯んだのだろう。母の助けを借りなければいけない自分を、姉は恥じているようだった。

 母は僕の手を引いて、姉と共にトイレに向かった。正直言って、女子トイレに入るのは屈辱だった。でも母には、僕をひとりにする気はないようだったし、僕もひとりでいる勇気はなかった。

 トイレに入った途端、強烈なアンモニアの匂いがした。床に座り込んでいる太ったおばさんを見て、腰を抜かそうになった。おばさんが黒い装束を着て、タイルに陣取っている。僕らに気づくと、こちらに手を伸ばしてきた。何か言っている。
「なんて言ってるん?」
「さあ、多分お金をくれ、て言ってるんとゃろう?」
 母はおばさんを無視して、姉の背を押した。するとおばさんが怒鳴った。立ち上がって手をぐるぐる振り回しながら、僕たちの分からない言葉を叫んでいる。何がなんだか、全く理解できなかったが、ものすごく怒っていることだけは分かった。恐怖に駆られ、僕たちは固まってしまった。おばさんは、ぐるぐる回した手で腰をたたき、そのままその手をこちらに差し出した。ずっと、何かを叫んでいた。

 母はとうと、おばさんの剣幕に気圧(けお)されて、財布からお金を出した。父から貰っていたエジプトのお金だった、おばさんはそれを受け取ると、急に、本当に急に、静かになった。母に数束のトイレットペーパーを渡し、またぺたりと、床に腰を下ろしたのだ。そのギャップが、僕には恐ろしかった。
 母が姉を促した。
「ほら、貴子」
 あんなに不安げな姉は、見たことが無かった。姉は母の顔を見ながら、奥の個室を選んだ。母は僕の手を引き、手前の個室に入った。言っておくが、僕は4歳からトイレにひとりで入っている。母と一緒に個室に入るなんて、こんな緊急事態じゃないと自分に許すはずもなかった。
 母に促され、僕がしぶしぶ用を足そうとすると、
「いやー!」
 姉の声が聞こえた。
「貴子どないしたん? 大丈夫か?」
「うんこ落ちている、いやだ。何これ、いやー」
「貴子、こっち来なさい」
 僕が用を足し終わるのを待って、母は個室を出た。あんなに急いでおしっこをしたのは、生まれて初めてだった。
「貴子、ここでしなさい」
 信じられないことに、姉が涙ぐんでいるようだった。落ちているうんこを見たことが、よほどショックだったのだろう。気の毒である。それにしても、どうしてトイレにうんこが落ちているだ。

 姉と母が続けて用を足し、僕らはなんとかトイレを出た。出るとき、おばさんは僕らをじろじろ見ていたが、何も言わなかった。掃除をしようとする素振りも見せなかったし、お金ありがとう、みたいな顔もしなかった。

「なんなのあの人、トイレ掃除の人と違うわけ?
「ほんまやわ、うんこ落ちているトイレに、なんでお金払って入らなあかんの」
 母と姉は、珍しく、本当に珍しく、意見を交わしていた。とんでもないきっかけだったが、僕はそこに圷家女性陣の戦争終結への希望を見た。その勢いのまま、ふたりは協力してスーツケースを探し出し、コンベアから降ろした。
「せーの!」
 そう声を合わすふたりを見て、僕の希望は、ますます現実のもとなった。
 僕は嬉しかった。怖かったし、緊張していたが、嬉しかった。そして、姉には悪いが、うんこを見なくて良かったと、心から思った。


 空港には、父が迎えに来てくれている筈だった。
 遅い自動扉が開くと、そこにはたくさんの人がひしめき合っていた、皆、重なるように柵に並び、ある者は叫び、ある者は名前を書かれた紙を掲げ、出てくる人を擬視していた。
 僕たち3人は、例のごとく、特にじろじろ眺められた。何人にも、大きな声で何事か話しかけられたが、皆怒っているみたいに見えた。そして不思議なことに、女の人がひとりでいる姿を、まったく見なかった。

 母と姉は、今やしっかりと手をつないでいた。僕も恐怖の最中にあったが、正直、その光景に感動する余裕もあった、何せ、僕は男なのだ。何かあったらふたりを守らなければ、そう思っていた。噓じゃない。そのときの僕は、生まれてから一番、勇敢な気持ちになっていた。

「奈緒子!」
 たくさんの怒声に混じって、父の声が聞こえた。僕たち3人は、すがるように、声のするほうを見た。
 エジプト人の濃い顔、顔、顔に混じって、父の涼やかな顔があった。あのときほど、父をハンサムだと思った瞬間はなかった、父はエジプト人より頭ひとつ分大きかった。こざっぱりした水色のシャツを着ていて、まったくいかしていた。

 大きなスーツケースを引きずりながら、姉と母はほんとんど走り出していた。さっきまでの勇ましい気持ちを忘れて、僕も泣き出しそうになった。
 父は、これ以上笑えないと思えるような笑顔で、僕らを出迎えた。まず姉を、母を、そして最後に僕の肩を叩いた。抱きしめないのが、父らしかった。というより、日本人らしかった。周囲を見ると、エジプト人は様々な場所で抱き合い、キスをして、涙を流していた。その人たちに比べたら、圷家の邂逅(かいこう)はまことに地味だった。父は父なりに、僕たちは僕たちなりに、精一杯感激していたのだ。
「よう来た。よう来てくれた!」
 それは、普段から物静かな父が、決して出さない声だった。
「よう来た。よう来た」
 父は、そればかり繰り返した。
 父には運転手がいた。ネイビーブルーのベンツから、折り畳んだ体を伸ばすようにして出てきた男は、名をジョールと言った。2メートルはあったのではないか。父より背が高い人間を、僕は初めて見た。ジョールは僕を抱き上げ、姉にウィンクをした。母には礼儀正しく手を差し出し、握手をした。細いのに、お腹だけが出ていて、シャツのボタンがはちきれそうになっていた。
「トイレにうんこが落ちていたのよ!」
「トイレに座ってる人なんなん?  お金あげへんかったらめちゃめちゃ怒鳴られたんやけど!」
「そうなの、お金払っても、掃除しないわけ?」
「なんなんあの人」
車の中で、女性ふたりはやかましかった。助手席に乗った父は、ふたりにいろいろ説明をしていた。公共のトイレには大抵ああいうおばさんがいること、うんこが落ちていたのはトイレが流れなかったからか、洋式トイレに慣れていない年配の人がそうした可能性のあること、実際に流れないトイレが多いことなど。そのたび母と姉は声を上げて、不満を表明した。父は苦笑いしていた。父もきっと姉と母が意見を同じくしていることを、喜んでいたのだろう。

 僕は、窓の外を流れる景色に夢中になっていた。
 エジプトは砂漠じゃなかった。なんていうかすごく、街だった。
 たくさんの車がクラッションをこれでもかと鳴らし、僕らベンツをびゅんびゅん追い抜いていった。道路の向こうには、茶色くすすけた建物がひしめき合い。建物のベランダに洗濯物が大量に干してあった。空はオレンジと青が混じったような色で、丸い玉ねぎのような形のドームが、ぽつぽつと点在していた。
「歩、どうやカイロは?」
 父が僕を振り返った。僕は父のその言葉で初めて、ここがエジプトのカイロという街であめことを知った。
「全然砂漠やない」
 僕のひと言に、家族皆が笑った。離れていたのはたった2ヶ月だったが、ずっとバラバラで暮らしていた家族がやっと会えた、という連帯感が、車内に漂っていた。僕はやっぱり興奮していた。

 僕たちが住むのは、フラットと呼ばれる建物だった。日本でいうと、マンションのようなものだ。ジョールが車を止めたのは、アーチ型の柵がついたベランダがある、古びたフラットだった。姉は一目見て、まずベランダに歓声をあげた。それはまったく、姉好みのベランダだった。
「ここは裏口やねん」
 父がベンツから降りると、
「ミスタアクトゥ!」
 駐車場にたむろしていた男たちが、口々に声をかけてきた。父は皆に手を上げ、
「車を洗ったり、荷物を運んだりしてくれる人や」
 そう説明してくれた。
「なんて言うたん、あの人ら」
「みすたーあくつ。圷さん、こと。つがうまいこ言われんから、トゥになるみたいや」
 男たちは皆、父の事を尊敬しているようだった。父を取り囲んで、自分が荷物を持つ、と取り合っていた。それぞれ僕たちに挨拶をしてくれたが、皆、空港で見た男たちとは違って、優しそうなに笑っていた。ジョールはそのひとりと立ち話をしていて、時折大きな声で笑いながら、男と抱き合っていた。

 駐車場から右に曲がったところが、正面玄関だった。入り口には緑色のアーチがあり、薔薇が絡まっていた。中に入ると、緑が植えられた中庭を挟んで、僕らのフラットと同じ形のフラットが正面に建っていた。

 エントランスは、白い大理石のような階段だった。母はすっかり機嫌を直して、柱に触ったり、中庭を眺めたりしていた。ほとんど球体に見えるくらい太ったおじさんが、入り口横のベンチに座っていたが、ゆっくり立ち上がってこっちにやってきた。顔もまんまるで、ドラえもんみたいに見えた。
「このフラットのボアーブさんや。ボアーブというのは、管理人さんみたいなもんかな」
 父がそう説明した。おじさんは、頭にターバンのようなものを巻き、空港で見た長いワンピースを着ていた。ガラベーヤという服なのだと、父が教えてくれた。それはまさしく夢で見た凶暴な男の恰好だったが、おじさんは、どう考えたって、僕らに襲い掛かってミイラにするようなタイプには思えなかった。

「この人、ドラえもんみたいや」
 僕がそう言うと、皆笑った。その瞬間から、このおじいさんの名前はドラえもんに決まった。
 ドラえもんは、よろよろと歩きながら、僕らをエレベーターに連れて行った。ボタンを押すと、ふう、ふう、と荒い息をあげながら、僕らの方を振り返り、何か言った。
「なんて言ったん?」
 父に問うと、
「神のご加護がありますように」
 それは、僕が生まれて初めて聞いた言葉だった。意味はわからなかったが、きっと、今まで聞いた中で、一番綺麗な言葉だった。
「エジプト語では?」
「アッサラームアイレコム」
 その言葉も、僕が聞いた言葉の中で、やはり一番綺麗な言葉だった。アッサラームアイレコム。ドラえもんは、ニコニコしながら僕らを見ていた。
 エレベーターの扉は、自動的に開くものと思っていた。でも、ここのエレベーターは違った。装飾が施された鉄の扉を、手で開けて乗り込むのだ。しかも、すごく小さかった。僕ら4人が乗ると、それだけでぎゅうぎゅうになった。
 父がドラえもんに何か手渡すと、ドラえもんは、外から扉を締め、手を振った。
「何あげたん?」
「お金」
「え! エレベーター呼んだだけやん!」
「チップってこと?」
 母が問うと、父は返事に窮していた。
「うーん、チップとはまた違うんねん。バクシーシていうてな、こっちの人は、イスラム教っていう宗教なんけど、喜捨、分かるかな。喜んで捨てる、ていう気持ちがあるらしくって、ああやって何かしてもろうたら、バクシーシ、喜捨のお金を、あげんとあかんのやねん」
「僕らも?」
「歩らはええよ、大人だけ」
「なんや面倒くさそうやなぁ」
 父が3階を押すと、エレベーターはぎゅんおおん、と不吉な音を立てて動き出した。こんなに、と驚くほど、ゆっくりとした動きだった。
「このエレベーター大丈夫なの?」
「エレベーターはよう止まるから、貴子と歩は子供だけで乗らんほうがええな。3階やし、歩けるやろ?」
「うん」
 カイロに着いてからの姉は、信じられないほど素直だった。母が言う事に、笑いさえした。僕はこのままふたりが仲良くなってくれたらと願った。ここでなら、それは可能なような気がした。

 エレベーターが3階に到着すると、さっき駐車場にいた男の人がふたり、僕たちの荷物を持って待ってくれていた。階段で上がってきたのだ。父が彼らに金を渡すと、嬉しそうに笑って、階段を下りて行った。
「バクシーシ?」
「そうや」
「ありがとう、はエジプト語でなんて言うの?」
「シュクラン」
「シュクラン?」
「そう」
「綺麗な言葉」
「そうか? そんなん考えた事もなかったな、貴子は感性が豊かやな」
 それはおそらく、姉が一番いわれたい言葉だった。やはり父は、姉の心をすぐにつかんでしまうのだ。僕は、さきほど自分が「アッサラームアイレコム」を一番綺麗な言葉だと思ったことを、言わなかった。姉の為だった。
「あとな、エジプト語って言わんねん、アラビア語って言うねん」
「シュクラン!」
 まったく僕たちは、興奮していた。
 扉を開けて、真っ先に目に飛び込んできたのはシャンデリアだった。キャンドルを模したランプがたくさんついた、きらびやかなシャンデリアが、玄関ホールについていたのだ。そう、そこはホールとしか呼べない、素晴らしい広い空間だった。窓際には猫足の時計台があり、床には細かな装飾が施された、真っ赤な絨毯が敷いてあった。
 僕は歓声をあげた。母も叫んだ。
 砂漠どころじゃない、テントどころじゃない、僕の家は、とんでもない豪邸だった。
 玄関ホールの向こうには、つながった部屋が3つあった。
 右側の部屋には、広さに見合わない小さなテレビと、アップライトピアノがあった。姉はピアノを見て歓声をあげた。歓声をある姉なんて、久しぶりに見た。ピアノに駆け寄った姉を、母も「微笑ましい」といった感じで見ていた。

 その部屋は、ピアノの部屋と名付けられた。ピアノの部屋には、女の人の絵が飾れていて(のちにクリムトのレプリカだと分かった)、テレビの下にはたくさんのVHS、その隣の猫足の棚には、レコードがたくさんしまわれていた。

 ピアノの部屋の隣が、リビングだった。壁にLの字型にソファが並んでいるさまは、壮観だった。ソファは若草色、天井からつるされた重厚なカーテンは深い緑色で、金色の房飾りがしてあった。床には、カーテンよりも濃い緑に、様々な色の装飾が施された絨毯が敷かれ、シャンデリアからはキラキラ光るガラスの飾りが垂れていた。

 僕が今まで見たどの部屋よりも、その部屋は「金持ちの部屋」って感じだった。母は迷うことなく、L字型のソファの角の部分、つまり一番居心地がよさそうな場所に飛び込んだ。
「ふっかふか!」
 無邪気に叫ぶ母に、いつの間にか父がカメラを向けていた。母はカメラに気づくと、姿勢を正した。ソファから降ろした足を斜めにして、にっこりと微笑んだ。母は僕らを呼んだりしなかったし、写真に収まった後も、「次私が撮る」とは、決して言わなかった。ああ、圷家だ、そう思った。

 リビングの隣が、ダイニングだった。ダイニングには、8人がけの大きなテーブルがあった。当然のように猫足で、椅子の足なら猫なら、テーブルの足は虎の足、といった感じだった。壁際に大きなガラス張りの食器棚が置いてあって、中には僕たちだけでは使い切る事が出来ない数のグラスが収まっていた。食器棚の横にはベランダへ通じる扉があり、姉が見たアーチ型の大きなベランダがそれだった。

 ダイニングから廊下を挟んだところに、キッチンがあった。玄関ホール、ピアノの部屋、リビング、ダイニングが開放的に繋がっているのに対して、キッチンはそれだけで独立していた。足を踏み入れると、まず光が違った、他の部屋が、外からの光で燦燦と明るいのに対して、キッチンはどの部屋よりも薄暗かった。
「これ電気?」
 姉がスイッチを押すと、ジー、ジジ、という、虫の羽音のような音がした。蛍光灯の青白い光に照らされたキッチンは、他の部屋と同じように天井が高く、石のタイルが敷かれていた。

 入ってすぐに、正方形の小さなテーブルが置いてあった。廊下側の壁には大きな冷蔵庫、作業台と大きな棚が続き、突き当たりは壁一面の物入れになっていた。左側は大きなシンク、その横にコンロがあって、突き当りの物入れの横に、扉があった。
「あれどこに通じてんの?」
 母がこわごわ訊くと、父が「裏庭」と答えた。「裏庭」という響きのような素敵なものではないことは、すぐに分かった。
「都市ガスがないからなぁ、このボンベのガスを買わなあかんねん」
 父はそう言って、コンロの下の、爆発とかしそうなロケットみたいなものに触れた途端、父の手が埃だらけになって、母は顔をゆがめた。
「そのガスを、ガス売りの人がここから持って来たり、ゴミ屋がゴミを持っていったりするねん」
 埃がついたのも気にせず、父は扉の取っ手を回した。ギギイ、という音がして扉が開くと、裏庭のほうから、なんとも言えない湿ったにおいが漂ってきた。
「ここから人が来るの?」
 姉が驚くの無理はなかった。ちらりと覗いた扉の外には、信じられないほど錆びた螺旋階段がついていて、大人がふたり乗ったら壊れそうだった。螺旋階段の先には、水溜りでほとんど覆われているコンクリートの床があって、先ほどの湿った悪臭は、そこから漂ってきているのだった。

 料理好きの母は、キッチンの全容を知って、かなり落胆したようだった。僕も、確かにこのキッチンは、先ほどまでのきらびやかな世界と、あまりにもかけ離れているような気がした。母の気持ちを汲んだのか、父は申し訳なさそうに言った。
「来週からメイドさんが来てくれるからな、掃除はその人にして貰えばええよ」
「メイドって何?」
「そうか、歩はイランのことを覚えてへんもんな。メイドというのは、お手伝いさん」
「お手伝いさんがいるん?」
「はは、そない驚くか。せやで。イランのときもおったんやで。パツールって名前の。貴子は覚えているやろう?」
「当然」
姉は、僕の顔を見て、ちょっと得意そうだった。僕はそのときまだ、小さなころの僕がバッールにどれほど可愛がられたかを聞かせてもらっていなかった、僕はバッールを知っている姉が、羨ましかった。

「メイドさん、名前なんてんいうん?」
「ゼイナブっていうんやって」
「変な名前!」
「大丈夫なん? そのゼイナブって人信用できるん?」
 母の心配はもっともだった。だが、後に母のその心配は、まったく杞憂に終わることになった。ゼイナブは、素晴らしい人だった、メイドとしてだけではなく、人として。
 姉はすでにキッチンを出ていた。廊下はずっと奥まで延びていて、右側に2部屋、突き当りに扉があった。
「お父さん。あの扉も私たちの家?」
 姉がそう訊く気持ちが分かった、この家は、あまりにも広すぎるのだ。
「せやで。あそこはバスルーム」
 右側の手前の部屋は、12畳くらいあった、大きなドレッサーとクロゼット、そして真ん中に大きな大きなベッドがあった。
「ここはお父さんとお母さんの部屋」
 父母の部屋の隣は、6畳ほどの部屋だった。日本では普通サイズのその部屋が、ここではなんとも小さく見えた。部屋には小さなベッド(そのベッドも、本当は小さくなかったのだ)と、クローゼットが付いていた。
「ここは、メイドさんの部屋」
「え、さっきの人一緒に住むん? ゼイ、ぜい‥‥」
「ゼイナブか? ううん、ゼイナブは通いやけど、ここで休憩してもろたりするねん」
「へえ」
 バスルームを左に曲がると、また部屋がふたつあった。
「貴子と歩の部屋やで、どっちか好きなほう選び」
 その言葉に、僕は飛び上がりそうになった。
「私こっちがいい」
 姉は部屋をのぞく前に、もう自分の部屋を決めてしまった。僕には異論はなかった。僕にあてがわれたのは、手前のほうの部屋だった。
 僕の「初めての部屋」は、初めてにしては贅沢すぎる部屋だった。12畳はあっただろうか。父母の部屋のとは違って、シングルベットをふたつくっつけたものだった。右側には大きな鏡付きの白いドレッサーがあり、手前にまた鏡付きのやや小さなドレッサーがあった。左には、大統領執務室にありそうな、大きな机があって、それは「勉強机」ということだった。家具は全部白く、真ん中にも白くて丸いラグが敷かれていて、僕の部屋は全体的に女っぽかった。その代わり、姉の部屋は、すべての家具が茶色、重厚でどっしりしていて、恐らく前の住人は、僕たちと男女逆転で使っていたに違いなかった(男女逆転しているのは、僕らの方だったが)。

 僕は文句を言わなかった。幼稚園で同じクラスになった誰かみたいに、女っぽいことに不満を漏らしたり、ダダをこねるなんて、そんな子供じみた事はしなかった。何せ、自分の部屋なのだ、この僕の! 僕にとって、自分だけの部屋があるという事は、それはほとんど大人になったっていっていい出来事だった。

 しかも、僕の部屋にはベランダがついていた。それは姉の部屋から延び、角を曲がって、メイドの部屋、両親の部屋まで通じていた。こんなに広いベランダがある家は、もちろん初めてだった。

 姉と僕の部屋の向かいには、もうひとつバスルームがあった。僕らの家には、玄関の隣にひとつ、メイドの部屋の隣にひとつ、僕らの部屋の前にひとつ、計3つのトイレがあり、バスルームはふたつあるのだった。
 これを豪邸と言わずして、何を豪邸と言うのだ?
 僕は一夜にして、王様になった気分だった。

 到着した夜は、時差ポケのせいなのか、興奮のせいなのか、それとも(恐らくそれが原因だが)初めてひとりで眠ることが心細かったのか、全然眠れなかった。両親と10メートル以上離れて眠るのは、生まれて初めてのことだったのだ。

 ふたつくっついたベッドの手前に横になり(少しでも出口の近くにいたかった)、僕は何度も寝返りを打った。今更ながら、空港を出たときや、車を降りた瞬間の暑さを思い出した。あの暑さは、決して日本にはないものだった。でも今、この部屋の中は、タオルケットを肩までかけないと眠れないほど涼しいのだった。

 明日は金曜日だ。父が、ピラミッドに連れて行ってくれると言っていた。こっちは金曜日が休みらしい。夏休み明けに、僕と姉が通うことになる日本人学校も、金曜日が休みだそうだ。僕はそのことを、誰かに言いたかった。クラスメイトの顔がひとりひとり浮かんだが、どれもしっくりこなかった。夏枝おばさん、祖母、そして矢田のおばちゃんなど、関わった様々な大人の顔を思い出しているうち、僕はやっと眠りに落ちた。


 10
 朝は、奇妙な音で目が覚めた。
 誰かが歌っている、最初はそう思った。おじさんだ。声が反響していた。声は建物や木にぶつかり、歪(ゆが)みながら、それでもはっきりと僕の部屋を満たしていた。朝からこんなに大きな声で歌って、大丈夫なのかと心配になった。現に自分は、その音で起きてしまったのだから。

 起き上がると、朝一番から達成感があった。ひとりで眠れたことが、嬉しかった。
 家族は皆起きていた。おじさんの声が、ダイニングまで聞こえてきた。よく聞くと、歌う、というより、言葉を大量にどこかに流し込むような、苦しんでいるのを喜んでいるのか、分からない声だった。

「歩、おはよう」
 母は、もう綺麗に身支度を整えていた。スミレ色の麻のブラウスと、茶色のぴたりとしたタイトスカートを穿いていた。髪の毛をひとつに縛っているので、小さな顔が、余計小さく見える。父は、水色のチェックのシャツを着て、ジーンズを穿いていた。日本にいた時はそんな格好をしなかった。随分、若々しかった。

 姉はまだ、自分の高揚を許しているようだった。テーブルに座って、朝食を食べていたのだから。姉が朝食を食べる姿なんて、数年ぶりに見た。
「歩も紅茶飲む?」
「うん」
「ほな座り」
 いつもなら、先に顔を洗ってきなさい、とたしなめられるところだが、母は寛容になっているようだ。僕は寝癖をつけたまま、堂々と姉の隣に座った。
「お父さん、この音なに?」
「これか、アザーンや」
「アザーン?」
「そう、今からお祈りの時間やで、て、皆に伝えているねん」
「お祈りの時間?」
「イスラム教っていう宗教があって、その祈りの時間になると、モスク、空港からこっち来る時にみたやろう? 玉ねぎみたいなドームとか、塔とか。そっからアザーンを流すねん」

 僕の前に紅茶が置かれた。当然だが、初めて見るカップに入れられていた。緑に金色の飾りがついたカップとソーサーは、随分高級なものに見えたし、おそらく本当に高級なのだろう。母は紅茶の後、ゆで卵や焼いたパンを持ってきた。
「サラダは食べちゃダメなんだって」
 姉が僕に言った。
「なんで?」
「生野菜はあかんねん。生の果物も。あと、水道の水も飲んだらあかんぞ」
 姉の代わりに、父が答えた。
「なんで?」
「日本にはおらん菌おるねん。お腹こわすぞ」
「きん」
 よく分からなかったが、何故かミイラみたいなものだろうと思った。もしくは、ミイラを作る凶暴な人たちのような何かだろうと。
「お料理のときも?」
 母は。紺色の表紙のノートを開いて。メモを取ろうとしていた。
「料理の時にいちいちミネラルウォーター使うは勿体ないから、お湯を沸かして使ったらええんちゃうかな」
「めんどくさ」
 そう言う母は、でも笑顔だった。きっと家族全員が食卓についていることはが嬉しかったのだろう。今まで、家族の欠員が出る時は大抵姉が原因だったが、父だって忙しかった。こうやって家族4人、ゆっくり朝食を食べることなど、なかなか出来る事ではなかった。
 サラダなしの朝食を食べることなど、今さらながら、はっとすることがあった。
「僕らもイスラム教になるん?」
 父と母が、目を合わせた。笑いたいが、笑ってはいけない、というような表情していた。
「ううん。ならんでええよ」
「そもそも、あたしたちって何教徒なの?」
 姉は、この質問を今まで思いもつかなかったことを、驚いていた。アンネ・フランクを真似て、時折「かみさま」と声を出して祈っていたのだ。姉は、今更ながら、自分がどの「神さま」に祈っていたのか知らなかったことを、悔しがった。
「仏教徒や」
「ぶっきょうと」
 その言葉は、僕にも分かった。僕が入園した幼稚園は、仏教系の幼稚園だったので、朝とお昼には、「ほとけさま」にお祈りをしたし、園の歌にも、たくさんの「ほとけさま」が登場していたからだ。だが、その「ほとけさま」とやらの、何を信じ、何をすればいいのか、僕には分からなかった。ただざっくり、「人のためになることをしましょう」「命に感謝しましょう」などと言われるだけだった。

「正確に言うと、浄土真宗ってやつ」
「じょうどしんしゅう? それって仏教なの?」
「そう」
「どんな字書くの?」
 姉は、母の紺色のノートを借りて、父に字を書いてもらった。
「浄土真宗の私たちが、イスラム教徒の国にいてもいいの? 怒られない?」
「怒られへんよ。ただ、部外者はこっちの方やから、イスラム教の教えを優先せなあかんときはあるよ」
「例えば?」
「イスラム教徒は、豚肉を食べたらあかんねん。お父さんらは食べるけど、でも、例えばレストランに行って豚肉がないことを怒ったらあかんし、もちろん、イスラム教徒の人らに無理矢理食べさせたらあかん。あと、アルコール、お酒もな」

 姉は、母に借りたペンで、母のノートに熱心にメモを取っていた。結局、母のノートは、一言「野菜は火を通す」と書いただけで、姉の手に渡る事になった。
「仏教徒は? 禁じられている事はないの?」

 今思えば、これが、姉が宗教というものに初めて触れた瞬間だった。その後、姉の人生に長く居座ることになるそれは、姉が11歳だったこの日の朝に始まったのだ。
 姉の熱心さに比べて、僕はもう宗教の話には、興味を持てないでいた。母を見ると、母もそのようだった。僕の紅茶に砂糖を入れたり、その砂糖を入れたスプーンに映る自分の姿を、じっと見たりしていた。

 時差があったから、あまり食欲はなかった。でも母に悪いような気がして、パンをかじった。バンは、ぼそぼそしていた。あわてて紅茶を流し込むと、上顎の内側の皮が、ベロンとめくれた。僕は自分の舌で、めくれた粘膜を舐めた。
 そのとき、急に思った。
 僕はこれから、エジプトで暮らすんだ。
 それはおかしな感情だった。現に僕はもう、エジプトで暮らし始めていたのだから。うんこの落ちているトイレの危機を潜り抜け、父母から10メートル以上離れて眠り、アザーンの声で、目を覚ましたのだから。

 だが、そのとき、熱さでめくれた皮を舌で舐め。舌に残ったパンの味と紅茶の味を、じんわりと味わっているそのとき、急にこの国で暮らす、ということが、身に迫ってきた。
 毎日毎日、このぼそぼそとしたパンを食べ続けること。
 熱い紅茶で流し込むこと。
 時折口の中を火傷し、めくれた粘膜を舌で舐めること。
 7歳の僕にとって、暮らすとはそういうことだった。そこで初めて僕は、自分がとんでもない、大それた決定を下してしまったのだと思った。

 もちろん、エジプトで暮らすことを決定づけたのは、僕ではない。父だ。だがその時の僕は、粘膜を舐めながら、自分がなんて遠い場所に来てしまったことだろう、と、ほとんど絶望に近い興奮を覚えていた。僕には未来があった。それこそ、大人たちが思いもしないような未来があったが、思いがけない決定によって、その未来が様々に形を変えることを、自分の上顎の粘膜の味によって、思い知らされたのだった。

 僕はこれから、エジプトで暮らすんだ。
 休日なので、ジョールはいなかった。車は、父しか運転出来なかった。母は、助手席に乗り込むとき、
「右側に座るなんて、変な感じ!」
 そう言って笑った。僕と姉は後部座席に座ったのだったが、ネイビーブルーのベンツは、僕ら二人だけでは、充分すぎる広さだった。

「ほな行こうか」
 日本にいたとき(それはたった2日前のことだったが、僕にとってはすでに、はるか昔のことのように思えた)、父が車を出発する瞬間に発する言葉だった。父の言葉は、すべて日常のものだったが、それをこの場所で聞くことが奇妙だった。

 ちらりと姉を見ると、姉も僕を見ていた、そして、外国人のように肩をすくめた。姉はカイロに来て、姉的な精彩をまったく欠いていたが、僕にとっては、そういう姉の方が好きだった。うんと好きだった。部屋にこもり、大量の巻貝を彫っている姉より、こうやって僕の隣で、いたずらっ子みたいに肩をすくめる姉の方が。

 フラットを離れて走りだすと、昨日見たようなものより、どこかクリアな景色が車窓を流れた。なんていうか、ピントが合った、という感じだ。それは不思議な感覚だった。僕は2日目にしてすでに「ぼくんちの近所」として。この景色を眺めているのだから。

 白と黒が交互になった縁石、クリームイエローの立派な建物と、その前に立っている長い銃を持った警官。ベンツの屋根まで垂れて来る木には、真っ赤な花が房になって咲いていて、その木陰にある椅子に、髭だらけのおじさんがつまらなそうに座っていた。「ぼくんちの近所」は、すごく静かだった。

 少し走ると、大きな通りに出た。高架が通っていて、たくさんの車が、信じられないほど大きな音でクラッションを鳴らしながら走っていた。車の走行マナーの悪さは、空港から向かう道程で経験していたが、改めて自分の父が運転する車で走る道路は、あまりにも危険だった。僕も姉も面食らったし、母などは数回、大声をあげた。

 まず、車線がなかった。日本なら、2車線なら真ん中に1本、3車線なら2本、真っ直ぐな白い線が、または黄色い線が引かれている。車は、その線を越えないように、自分の車線を走るのだが、ここではそもそも車線がないので、どの車がどこを走るのかは、運転手任せなのだった。当然追い越しや合流もひどく、父は何度もブレーキを踏み、クラッションを鳴らし、その度に、後部座席の僕らも飛び上がった。

 そんな乱暴な道路を、おじさんやおばさん、僕たちみたいな子供までが横断していることに驚いた、信号はなかなか見当たらなかった。速度を落とさない車の合間を縫うように、皆器用に歩いていた。僕は、自分がいずれ、あんな風に車の間を歩けるようになるなんて、想像も出来なかった。


 11
 信号待ちで停まっているときだ。コンコン、と、窓を叩く音が聞こえた。道路の真ん中では、聞くはずもない音だった。見ると、男の子がこちらを覗き込んでいた。あまりに近い距離だったから、僕は驚いて身を引いた。

 男の子は、僕より恐らく小さかった。ほとんど色あせたピンク色のシャツは大き過ぎるのか、だらりと垂れていた。僕がそうしていたら絶対に母が怒るぐちゃぐちゃの、本当にぐちゃぐちゃの髪をして、前髪の間から、大きな瞳がじっとこちらを見ていた。

 僕がただ見つめ返していると、男の子は、先ほどより強めに窓を叩いた。手を差し出し、何か言っている。救いを求めて姉を見ると、姉も目を大きく開け、明らかにショックを受けているようだった。

「お父さん」
 思わず、そう言った。父はちらりとこちらを見ると、
「物乞いや」
 静かに言った。モノゴイ。初めて聞く言葉の意味を確かめる前に、その子がどういう状況なのか分かった。この子は、こうやって停車している車に近づき、お金をねだって暮らしているのだ。
「お父さん」
 もう一度言った。父は、バックミラー越しに僕らを見た。
「お金あげたらあかんぞ」
 思いがけない、父の冷たい物言いに、僕はショックを受けた。恐らく、姉も。僕らのショックに気づいたのだろうか、父は、少し大きな声で、ゆっくり話した。

「ええか。例えばあの子が、花とか、新聞紙を売っているんやったらええ。花代や新聞紙より、ちょっと多めに金をやったらええんや。でもあの子は働いてないやろ? ただ金をくれって言うだけの子に、金あげたらあかん」

 僕は、昨日エレベーターを呼んだだけで、父から金をもらっていたドラえもんを思い出していた。あれも、働いた対価だといえるのだろうか。そもそも、こんな小さな子供が、働いて金を得ることが出来るのだろうか。

 信号が青に変わった。車が動き出すと、子供は器用に道路から離れた。ぶかぶかのシャツに比べて、体に沿う小さなジャージを穿いた足は、裸足だった。
 僕と姉は、しばらく無言だった。これから僕たちは、ああいう子供たちに何度も会うだろうと、何故か直感で思った。

 実際、ピラミッドに着くまでに、そんな子供を5人は見た。ある子は何も持たずに手を出し、ある子は父の言った通り、しおれた白い花や新聞を売っていた。姉が懇願したので、父がひとりの女子から新聞を買った。女の子は嬉しそうに「シュクラン」と言い、後ろの車の方へ歩いて行った。通り過ぎるとき、僕と姉を珍しそうに見ていたが、僕と姉は、その子のことを直視することが出来なかった。

 新聞を広げると、皺(しわ)を懸命に伸ばした跡があった。印刷のだけではない嫌な匂いが、紙から漂ってきた。記事はすべてアラビア語で、何か書いてあるのか。まったく分からなかった。
「全然読めない」
「多分昨日とか一昨日とかの新聞やし、意味はないよ」
 僕はさきほどの女の子が、捨てられた新聞紙を拾い集めて、必死に皺を伸ばしているところを想像した。
 そういう事をしているのは、子供だけではなかった。停車するたび、どこかから人が現れて、新聞紙やティシュ、得体の知れない食べ物などを売ってきた。中には、車道の脇に座り込んで、ただ手を出しているだけのおばさんもいた。おばさんは、上から下まで真っ黒いカーテンのようなものを纏い、目だけを出していた。そんな事をしているのが恥ずかしいのだろうと思ったが、そうではなかった。ああいうおばさんは熱心なイスラム教徒なのだ。イスラム教では、女性がいたずらに肌を出してはいけない事になっているので、布をまとって顔を隠しているのだそうだ。頭に巻く布はヘジャブ、全身を覆う布はチャドルといった。

「どうして女の人は肌を出してはいけないの?」
「うーん」
 父は答えにくそうだった。そういうとき父は、大抵母の助けを借りてきたのだが、母もその理由を知らなかった。僕らは父が答えを教えてくれるまで、待たなければいけなかった。
「なんだって、なぁ」
 姉は、いつまでも待つ、というような顔をしていた。僕は、父の反応からして、もう諦めたほうがいいんじゃないかと思っていた。父は明らかに話したくなさそうだったし、もしかしたら父も、その理由を知らないのかもしれなかった。

 後年知った理由は、やはり性的な言葉だった。つまり、父が僕らに話しにくい類の話だった。イスラム教徒の女性は、婚姻するまで性交を禁じられている。つまり、処女で結婚しなければならない。その戒律は厳しく、自然独身女性は、男性を煽情するような格好を禁じられる。髪の毛を見せてはいけない。肌を見せてはいけない。

 結婚し、誰かの妻になった女性にもその抑制は及ぶ。女性はひとりの人間である前に、誰かの妻として過ごさなければならないのだ。夫以外に肌を見せるなんて、とんでもないことだった。
 このように厳しい戒律も、僕らがカイロにいた時代は、でもまだまだ、軽いほうだった。ヘジャブをしていてもカジュアルな服装の女の子はいたし、顔まで隠している人は、おばさん以外あまり見なかった。おかしいのが、肌を隠しているからいい、という理由で、全身を覆うぴたりとした服を着ている女性がいることだった。体のラインが強調され、余計にいやらしく見えるのだ。

 特にイスラム教圏では、ふくよかな女性が好まれる。日本でだったらほとんど太いのレベルに入る女性に人気が集まるのだが、そういう女性が肌に沿う服を着るのだから、なんていうか、身体の迫力がすさまじかった。

 細い体に似合う服を着た母は、だから人気がなかった。エジプシャンから言わせると、どうも子供のように見えるらしいのだ。母はたまに、現地の女性を真似て髪の毛をヘジャブで隠していたが、そうすると母は、現地の中学生のようにしか見えなかった。それでも母は、ファッションとしての格好を好み、ジーンズに白いシャツのようなシンプルな服に、赤や黄色の鮮やかな柄のヘジャブを巻いたりして、楽しんでいた。

 助手席の母は、髪の毛を縛り直していた。出かけに着替えたので、母はオーバーサイズの白いシャツに、白いクロップドパンツ、茶色い革のサンダルという格好だ。髪留めは日本で買った、キラキラ光る石が付いた派手なもので、母が顔を動かすたび、光が反射して僕らの顔を射た。

 姉と僕は、いつの間にか新聞紙を放り出していた。車窓が流れていく景色に、それぞれ集中していた。物乞いする人たち以外にも、僕らの目を奪うものは、いくらでもあったのだ。

 道路を歩いている山羊(やぎ)の大群、汚い荷車を引いたロバ、肉屋の軒先に吊り下げられた、恐らく牛の大きな肉の塊。姉は道路の真ん中で横たわって眠っている三本足の犬を見つけたし、僕はゴミ捨て場に捨てられている山羊の死骸を見つけた。
 どれもショックだった。だからこそもう、どれにショックを受けているのかが、分からなかった。僕と姉はただただ黙って、車窓を眺めていた。

 初めて見たピラミッドの感想はこうだ。
 でかい。
 それだけ。それ以外思い浮かばなかった。
 ピラミッドは、でかい。馬鹿みたいだが、本当にそうなのだから、仕方がない。その証拠に、
「大きい!」
 母も、それしか言わなかった。
 母は、大きなサングラスをかけ、駆け出すように車を降りた、姉もそうだった、姉は様々な疑問をとりあえず胸に収め、今はただ、この驚きに忠実でいようと決めたようだった。母の後について、駆け出した、後れを取ったのは僕だった。父は父で、笑いながら運転席でモタモタモしていた。

 走りだすと、砂に足を取られた。僕の紺色のスニーカーが、みるみる白くなった。時折ツウンと強烈な臭気がした。近くに大きな糞が落ちていた。それは僕らの周りをウロウロしているラクダか、馬のものだった。

 ピラミッドにも感動したが、僕は実は、こんな間近でラクダを見られることに感動していた。ラクダは、ジャングルジムくらいの大きさがあった。すだれみたいなまつ毛の下の目は、意外と優しそうだったが、くちゃくちゃと動かしている口元がすごくグロテスクだった。
「大きい!」

 母は、思ったことをそのまま言わないと気が済まない性質のようだった。何度も何度も「大きい」と叫び、すれ違うエジプシャンに「オオキー」と、真似されていた。

 父が僕たちに追いつくまでに、僕たちはすでに、たくさんのエジプシャンに声をかけられていた。お土産を見せる者、ラクダに乗らないかと誘う者。でも、すべてに対して決定的な「ノー」を突きつけたのは、母だった。母の態度はとにかく強固だった。それが頼もしかった。

 ピラミッドは、近づいて見ると、ほとんど壁だった。ひとつの石が、僕よりうんと大きかった。それが何万個も積み上がっている様(275万個らしい!)は、スケールが大きすぎて、笑い出したくなるほどだった。実際母は、間近にピラミッドを見て、大笑いしていた。
「何これ、大きい、大きいわー!」
馬鹿みたいだった。
 だが、そんな母を見て、父は嬉しそうだった。母の無邪気な反応は、おそらく父が望んでいたものだったのだろう。
「みんな、そこ並んで」
 父は、カメラを持って来ていた。母はすぐに髪に手をやり、シャツを整えた。そして僕と、驚くことに姉の手を取り、にっこりと笑った。もっと驚いたことは、姉も、母に手を繋がられたまま、笑ったことだった。姉は父のポロシャツを着て、下にはくるぶし丈のパジャマみたいなパンツを穿いていた(その日帰ったら、姉の足はそのラインでくっきり白と黒に分かれていた)。僕はとっさのことで、笑うことが出来なかった。

 その時の写真は、今でも残っている。笑顔の姉と母の隣で、僕は口をしっかり閉じ、胸を張っている。父は何とかピラミッドを背景に入れてくれようとしたのだが、残念ながら、印象として「ほぼ壁」である。近すぎたのだ。

 ピラミッドは、王の墓だという。クフ、カフラー、メンカウラーという三代の王様の墓で、中に入る事が出来る一番大きなピラミッドがクフだ。入り口は、正式なものではない。盗掘をしようとした墓泥棒が開けた穴が、たまたま正式に回廊に繋がったのだ。

 入り口まで上がるだけで汗が出た。何せ、僕より大きい石を昇っていかなければならいのだ。日本人に日本語を教わったのだろう、地上から、「ガンバッテー」という、エジプシャクの声が聞こえた。
 日差しが凄かった。まるですぐ背後に太陽があるような熱さだった。残念ながら、母は子供の日射病を気遣うタイプではなかった。僕と姉は、だらだらと汗を流しながら、水も飲まず、ピラミッドを登らなければならなかった。

 ピラミッドの中は。まるで作り物みたいだった。実際これはクフが作ったものだったが、洞窟が奥へと続く感じは、あまりに出来すぎていて、発泡スチロールで出来たハリボテ、といわれても納得するような佇まいだった。
 洞窟の部分が終わると、急な階段が始まっていた。階段といっても、板張りにストッパーの材木を貼り付けただけのものだ。しかも天井がとても低くて、僕以外の皆は屈(かが)んで登らないといけない。僕はもちろん、ワクワクしていた。僕にとって、これは完全に冒険だった。姉だって、きっとそうだ。真剣になった時にそうするように、口を真一文字に結び、怒っているのとは違う熱心さで、一歩一歩登っていった。

 天井が低い廊下をしばらく登ると、急に開けた場所に出た。天井は、先ほどの廊下など噓のように、一気に高くなった。開放感に、汗がすうっと引いた。
「大回廊や」
 父の声は反響し、母は何故か「はは!」と、声を出して笑った。
 登っている途中、上から降りてくる人に、何人もすれ違った。何人かはエジプシャンで、何人かは白人、そしてそれに混じって日本人もいた。
「疲れたね!」
「よいしょ」
 こんな場所で、日本語を聞いていることが奇妙だった。エジプト滞在はまだ、一日と数時間だったが、僕はもう、ほとんど日本を異国だと思っていた。今まさに家族と話しているこの言葉こそ、遠い国のもの、ここでは異質な言語なのだと思っていた。僕の環境適応能力は、かくも優れているのだ。

 石室に最初に着いたのは姉だった。姉は、ピラミッドの内部に入ってから、一言も発していなかった。そして石室でも、まったく言葉を失っていた。
 15畳くらいの部屋だ。大回廊と同じように、天井が高かった。奥に大きな石の棺が置いてあって、それだけだった。それだけの部屋だった。僕たちが部屋に着いたとき、姉はすでにその棺を覗き込んでいた。

「ここには王さんが入ってたん?」
 母は、クフの名前を覚える気はないようだった。
 棺はそっけなかった。縁が壊れた、ただの大きな石の塊り、といった感じだった。実際、母はすぐに飽きてしまったし、僕も正直、この部屋にはガッカリさせられた。これまでのドラマチックな道のりの先には、僕らの度肝を抜く、冒険中の冒険というような何かがあると思ったのだ(例えば、そう、ミイラだ!)。

 だが、姉だけは違った。姉は明らかに、何かに圧倒されていた。棺の中に、まるでまだミイラが眠っているかのように、じっと目を凝らしていた。ふう、ふう、と、とても深い呼吸をしていた。
「貴子?」
 父が声かけても、姉は振り返らなかった。
 その夜、姉は熱を出した。
 日射病に罹ったのだったが、熱の原因はきっと、それだけではなかった。巨大なピラミッド、長い長い歴史、ラクダの糞のにおいや殺人的な日差し、何より初めて触れた宗教の気配に、姉の体内の何らかが、強烈に反応したのだろう。

 僕はと言えば、すっかり疲れて眠っただけだった。カイロに来て2日目だったが、僕は激しい疲れの御蔭でちっとも恐れず、すぐひとりで眠ることが出来たのだった。


 12
 ゼイナブがやって来たのは、僕たちがカイロに着いて、1週間ほど経った朝だった。
 その1週間の間に、父は夏休みを取って僕たちをカイロのあちこちに連れて行ってくれた。ハンハリーリという市場、ワニのミイラがあるエジプト考古学博物館、大きな大きなモスクや、ピラミッドが見える豪華なホテル。

 驚くとはたくさんあったが、やはりピラミッドを見たのは、大きな出来事だった。生まれて初めて見た古代遺跡がピラミッド、だなんて、僕は相当幸運な人間だ。だが、だからこそその後、何を見てもそんなに驚くことが出来なかったという不幸にも見舞われた(石舞台古墳? ハッ! パルルテノ神殿? ハッ? という感じだ)。
 
 観光地だけではなく、父の近所のスーパーや公園、会員制のスポーツクラブなど、僕らの生活に大いに関わって来る場所にも連れて行ってくれた。
 僕は、3,4日もすれば、「カイロはこういう街なのだ」と思うようになっていた。肉屋の軒先に牛がそのまま吊り下げられているのも、すぐ違う男の人たちの強烈なにおいも、すぐに日常になった。

 姉も、あっという間にカイロに馴染んだ。4日目にひとりで出かけ、スーパーでお菓子や文房具を買って帰って来たし、信号のない道路を、器用に車を避けて通れるようにもなっていた。
 母が街に馴染むのは、僕ら子供たちより、うんと時間がかかった。母のほうが、より生活に密着しているから、仕方ないことなのかもしれなかった。母は八百屋や肉屋、道路やフラットの下で出会う様々な出来事に、ずっとビビッドに反応していた。

 例えばある日、母は鶏のから揚げ作ろうと思った。肉屋に鶏肉を買いに行ったのだったが、日本のスーパーのようには行かなかった。綺麗に処理され、ぶつ切りになった鶏肉が、清潔なパックの中に並んでいるなどということは、あり得なかった。なにせ、牛がそのまま吊り下げられているような場所なのだから。

 鶏は羽をむしられた状態で、乱暴に軒先に並べられていた。母はなるべく怯まず、つまり馬鹿にされないように、毅然とした態度で、鶏肉の頭を落としてくれ、と言った(もちろん身振りで)。店員はその通り、頭を落としてくれた。内心ほっとした母だったが、家に帰って袋を開けた瞬間、
「ギャーツ」
 大声で叫んで、床に崩れ落ちた。
 せっかく切り落としてくれた鶏の頭だったが、体と一緒に、袋に入れていたのだ。母は完全に戦意を喪失して、鶏を袋ごと冷蔵庫に突っ込んでしまった。鶏はその状態でしばらく冷蔵庫に入れられていた。どんな入れ方をしたのか、頭が完全に向いていたので、絵的にホラーだった。僕は怖いもの見たさで、たびたび冷蔵庫の扉をそっと開けた。そして白目を剥いて空を睨んでいる鶏を見て、いちいち恐れをなしていた。
 そんな母が街に馴染むようになったのは、ゼイナブのおかげだった。

 ゼイナブは、約束の日の朝7時きっかりに、僕らの家のベルを鳴らした。ルーズなことが多いエジプシャンの中で、それは珍しいことだった(ジョールは毎日、本当に毎日遅刻していた)。

 玄関を開けたのは、僕だった。バツールの記憶がない僕にとって。メイドが家に来るという出来事は、大変な事件だった。輝かしい人生の初めての一ページを、どうしても自分でめくりたかったのだ。
 扉の向こう、立っていたゼイナブは、見上げるほど大きな人だった。黒いチャドルをまとい、そこから顔だけ出していた。目はぎょろりと大きく、鼻も堂々としていた。鼻の横には太い皺が刻まれ、唇は頑丈に閉じられていた。

 一見して、怖い、そう思った。
 どんな人が来るのか、まったく予想していなかったが、漠然と優しい人なのだろうな、という思いもあった。だから僕はこの日の初対面にひるんだ。ちょっと、ショックですらあった。
 ゼイナブはぎょろりと僕を見下ろし、
「サバハルヘール」
 と言った、その挨拶はもう覚えていた。「おはよう」だ。だが僕は、返事をすることが出来なかった。圧倒されていたのだ。僕がもぞもぞしていると、いつの間にか両親と姉が、玄関に出迎えに来ていた。

 ゼイナブは、僕にしたのと変わらない素っ気ない「おはよう」を言い、じっと僕たち家族を見渡した。「雇われて来ました」というより、「雇われに来てやった」といった感じだった。
 父が家に招き入れると、ゼイナブはのそりと入って来た。やっぱり、随分大きな人だった。全身黒いので、ゼイナブが動くと、まるで鯨が海を移動しているように見えるのだ。
 姉も、ゼイナブとの初対面にひるんだようだった。ゼイナブは愛想笑いをしなかったし、パツールのように、姉や僕の頬をはさんで頬摺りしたりなんてしなかった。後から思うと、ゼイナブも緊張していたのだろう。

 リビングに入って来たゼイナブに、ソファに座るように勧めたのは母だった。ゼイナブは迷って、母の隣に座った。メイドが居間のソファに座ることは、滅多にないことだったが、ゼイナブはそれからも。ある理由によって、たびたびこのソファに座ることになった。
 母は真っ直ぐ、ゼイナブを見つめていた。
 母の顔を見て、僕は母が今、例の直感で、ゼイナブを好きになるかどうか決めているのだな、と思った。自分がジャッジされているわけではないのに、僕はひどく緊張していた。
「よろしくお願いします」
 母は、座ったまま深々と頭を下げた。面食らっているゼイナブが、真似て頭を下げると、母はにっこりと笑った。

 母は、実は玄関でゼイナブを見た時から、「いい人だ!」と思っていたらしかった。大きな体、鋭い眼光、それだけでゼイナブを怖いと思った僕は、まったくもって未熟だった。母の直感は、これ以上ないほど正しい結果をだしていたのだった。

 つまりゼイナブは、素晴らしい人だった。
 日本人に比べると、エジプシャンは老けて見えるので、僕はゼイナブのことをほとんどおばあちゃんだと思っていた。でも実際は、40代半ばくらいの女性だった。

 ゼイナブは早速チャドルを脱ぎ、くるぶしまで届くワンピース姿になって、家中を掃除し始めた、それは若々しく、力強い作業だった。ゼイナブは僕ら恐れた台所を隅々までピカピカにし、コンロを磨き上げ。ベッドの下の埃を取り除いた。そして数十メートルあるベランダの柵にこびりついた鳥の糞や蜘蛛の巣を、徹底的に排除した。

 ゼイナブの力強さに、僕たちは感嘆の声をあげた。慌てて出てきた大きな大きなゴキブリを手で叩き潰したとき、僕らの家の主導権は、完全にゼイナブに移行した。母も、素直に負けを認め、この家の管理はすべてゼイナブに任せるという態度を決めたのだった。そして母のその素直な態度を、ゼイナブは喜んだ。

 ゼイナブは、母に様々なことを教えた。
 カイロではよく砂糖や油が品切れになるが、2ブロック先にある売店でなら、大抵の場合揃っていること(売店の店主は日本人を特にひいきしてくれた)、ガスボンベの買い方(ガス売りが来たらベランダに出て「オンブーバー!」と叫ぶ)見知らぬ野菜の名前と調理法(エジプシャンは、料理に関しては大変保守的で、例えば茄子だったらこの料理、鶏だったらこの料理、という風に、すべて決まっていた)。

 ゼイナブが来てからというもの、母はみるみる輝きだした。母には、バツールとの尊い思い出があったし、そもそも、メイドが傍にいてくれるのが似合うタチの人なのだ。そして驚くべきことは、お互い言葉を、お互いが完全に理解しているように見えたことだった。
「ゼイナブ、これどないしたらええのん?」
 母が遠くで叫ぶと、ゼイナブは「アイワ」はい、と返事をして母の元へ飛んでゆき、懇切丁寧にやり方を教えていた。ゼイナブの口から飛び出すアラビア語は、僕らにとってまったく未知の言語のはずだったが、母は良きところで頷き、
「なるほどな!」
 そう納得しながら、急速にカイロの主婦らしくなってゆくのだった。
 初めは怯んでいた僕らも、徐々にゼイナブに慣れて行った。
 特に姉は、ゼイナブによく懐いた。ゼイナブが、イスラム教の祈禱の時間に、自分の部屋でお祈りをするのを見つけると、姉はその姿をいつまでも見ていた。いつしか姉が見ている事に気づいたゼイナブが、お祈りのやり方を教えると、姉はゼイナブよりも正確な時間に、熱心にお祈りをするようになった。

 姉にとって「神は祈る」という行為は、文字通り神秘的なことだった。小さな頃、夏枝おばさんに、毎日神社に連れて行ってもらったこと、そのときただ暴れまわっていただけだったことを棚上げて、姉は「お祈り」という行為にのめり込んでいった。

 ゼイナブは母、父、僕ら子供たちに対し、いつだって全力で向き合ってくれた。その全力さが、きっと母の言葉を理解する能力を得る助けになり、母は母で、素直な気持ちでゼイナブと向き合うことで、ゼイナブの言葉を理解するに至ったのだろう。

 僕はというと、ゼイナブに対しては、ことさら良い子であろうと努めた。ゼイナブだけではない。大人の女性に対し、僕は自動的に良い子としてふるまってしまう癖があった。姉の凶暴さをかいくぐって母の気を惹くためには、そうしなければならなかったし、祖母や夏枝おばさん、先生やスチュワーデスさん(失礼、CAさんだ)にいたるまで、大人の女性はそうやっていたら、僕を望むままに愛してくれたのだ。
 それに、僕は人を雇っているという状態がどうもむずがゆかった。おばあちゃんのように見えるゼイナブが、僕にとっては使用人だということが、大抵の場合僕を困惑させた。特にゼイナブがいい人だから、なおさらだった。

 父は、積極的にゼイナブと関わる事がなかった。だから、僕のように卑屈さを家族の前で露呈せずに済んだが、初めの頃はやはり、ジョールの扱いに困惑していた。だが、ジョールは、毎回遅刻してくるだけでなく、よくさぼったり、失敗をした。エジプシャンがこういう者だという事を、数か月の間に知ったとはいえ、父はジョールのさぼり癖には、さすがにキレていた。父が叱ると、ジョールはしばらくはしおらしくなるが、数分経つとラジオを大音量でかけ、歌を歌っているというありさまだった。

 父のような卑屈な人間にとって、ジョールはとても使いやすい人だっただろう。真面目で熱心なエブラヒムの前では、父はこれでもかと卑屈さを露(あらわ)にしていたようだが、ジョールはそんな風に繕っている暇がなかった。遅刻し、失敗し、それでも反省しないジョールを、何の気負いなく素直に叱ることが出来て、父は楽だったに違いない。

 エジプトには「IBM」という言葉があると言われている。
 Iは「インシャアッラー」、「神の思し召しのままに」という意味だ。例えばジョールが遅刻してきたとする。父がどうして遅刻するんだと怒ると、「インシャアッラー」、神がそう望んだのだ、と言う。
 Bは「ブクラ」、「明日」だ。ジョールに車を洗っておけと命令すると、「ブクラ」、明日やる、と言う。
 Mは「マレーン」「気にするな」だ。あの大人しい父を怒らせるという離れ業をやってのけた後に、ジョールが言うのは、「マレーン」ね「気にするな」である。父はしばらく怒っているが、ジョールが笑顔で自分の肩を叩いて。「マレーン」と言い続けるのを聞くうち、いっしか笑ってしまう。

 エジプシャンは、大体こんな風だった。だから、世界一ビジネスがしにくい民族だとも言われてる。父に限らず、日本企業のサラリーマンたちは、日本人的真面目さがまったく通用しないこの国で「インシャアッラー」「ブクラ」「マレーン」を言われ続ける。それが許せない人はだめだ、エジプトは彼にとって地獄だろう。だが父のように、エジプシャンの適当さ、憎めなさに、しまいに噴き出してしまうような人は。結果エジプシャンに思うのと同じように。エジプトという国を好きになる。

 エジプシャンは、とにかく人懐こい。初日に見たジョールと男たちの抱擁のような場面は、まったくの日常の光景だった。抱き合うどころか、男同士手をつないで歩いている人たちもたくさんいた。彼らはゲイではない。ただ仲がいいのだ。

 そんな彼らが、日本人なんかを見つけたら、大変なことになる。走って来て、知っている日本語を喚き散らすのだ。例えば僕が聞いたのはこんな言葉だ。
「カワイイネ」「モウカリマッカ」「アカシアサンマ」「アシタモキテネ」!
 こっちが無視していても、全くめげない。いつまでたってもついてくる。特に子供たちの人懐っこさと言ったら、生まれたての雛(ひな)か、というほどだった。

 エジプシャンは子供が大好きだ。他人の子だろうが、子供を見かけると頭を撫で、抱き上げ、お菓子をやる。子供たちはそれを知っているから、世界は自分たちのものだとでも言わんばかりに、我が物顔で街を徘徊している。彼らは、あらゆる場所で僕の母に甘え、僕の父の手を取り、そして僕ら姉弟と勝手に背比べをし、お菓子をねだった。

 エジプシャンのこのような人懐っこさは、寂しがりから端を発している。元々、家族をとても大切にする国民性なのだ。例えば、一人暮らしなどありえない。家族の誰かがたった一週間の旅行に行くというだけで、空港に家族で押し寄せ、泣きながら見送るような人たちなのだから。
 エジプシャンの寂しがりを証明する、ある象徴的な出来事がある。
 ある夜、僕らの家に電話がかかってきた。ゼイナブはもう帰っていたので、母が電話を取った。エジプシャンからだったが、どうやら間違い電話のようだった。拙いアラビア語で間違いだと告げると、男は電話を切った。だが翌日の晩、また同じ時間に電話がかかってきた。母がまた間違い電話だと告げると、今度は電話を切らなかった。知らない人でもいいから、話がしたいのだという。母は驚き呆れ、電話を切ったが、その翌日も、翌々日も、電話はかかってきたのだった。

 そのエジプシャンが特別おかしい奴だったというわけではない。その証拠に、そういう電話は、僕の友達の家にもよくかかってきていた。
 そして、大抵そういうことをする奴は、男だった。
 エジプシャンの女性も寂しがり屋だったが、男たちのように極端に人懐こくはなかった。というより、特に男性に対して警戒している人は多かった。女性があまり外に出てはいけないという考えから、そうなるのだろう。

 その代わり、女性同士はとても仲が良かった、おばさんたちは道路に椅子を出し、いつまででもお喋りに興じていたし、若い女の子たちは、男のように手をつなぎ、腕を組み、耳打ちをしあって、いつだってくすくす笑っているのだった。

 ゼイナブと母も、すごく仲良くなった。言葉が通じないことがかえって良い距離感になるのか、ゼイナブには本当によく懐いた。母は、毎朝きっちり7時に鳴るベルを、何より待ちわびるようになったのだ。


 13 
 僕と姉は、日本人学校に通うことになった。
 姉は5年生、僕は1年生の9月からの編入だ。
 日本人学校はその当時で、全校生徒が100人ほど、1年生から中学3年生まで9クラスあった、驚くことに、僕たちの他の転入生は4人もいた。そして、転出した生徒も3人いた。
 日本人学校に通う生徒は、僕らのように親の赴任でやって来た子ばかりだ。当然、親の赴任期間が終了すると帰国することになる。赴任が終了した家族の後には、また新しい家族がやってくる。その家族に子供がいたら、その子供がまた転入生としてやって来るのだ。
 だから、日本の学校とは比べものにならないくらい、生徒の出入りが激しかった。
 僕のクラスである小学1年生は、12人のクラスメイトがいた。日本人学校の中でも、多い方だったと思う。

 初日、自己紹介をした僕も、皆はやしたてた。僕には、はやしたてられる心当たりなんてなかった。姉の暴虐が初日で伝わっている筈もなかったし、僕の髪はきちんと梳かれ、青と緑のチェックのシャツだって、その下に穿いたベージュの短パンだって、とても綺麗だった(もちろんチャックが開いている事なんて、ある筈もなかった)。
 後に分かったことだが、どうやら皆が笑ったのは、僕の関西弁だった。
 カイロに来る日本企業は、ほとんどが本社を東京に構えている。僕の父親の会社の本社は大阪だったので、関西弁を使っている僕が珍しかったのだ。

 僕はすぐに、関西弁を東京に変える努力を始めた。どこにいたってマイノリティでありたい姉と違って、僕はどこまでも風景に馴染みたかった。目立たず、かといって忘れ去られることもなく、僕は絶妙な位置でクラスに存在していたかった。そしてそれは、いつだって成功していた。

 僕の関西弁は、皆を驚かせたが、僕も、新しい環境に驚かされた。
 ひとつは、学校がひとつの邸宅を改造したものだということだった。4階建ての1階、タイル貼りの薄暗い部屋を体育館兼音楽室とし、2階には職員室、校長室と僕たち1年生と2年生の教室、3,4階を残りの教室と図書館などにしていた。

 クラスメイトの皆が「さん」づけで呼び合うことにも驚いた。男子も女子も関係なく、苗字に「さん」をつけるのだ。当然僕は「圷さん」になる。その呼び方は、とてもくすぐったかった。自分が一気に大人になったような、それも高級で賢い大人になったような気がした。
 僕は楠木彩香(くすのきあやか)という女の子の隣になった。

 楠木さんのお父さんは、日本人学校の体育の先生だった。学校内に親子がいることにも驚いた。自分の父親が体育を教える所を想像してみたが、恥ずかしくて、僕にはとても耐えられそうになかった。

 楠木先生が体育を、他の教科はそれぞれの先生が教えてくれた。日本の学校では、クラスには担任の先生がひとりいた。その人が凡ての教科を教えていたから、このやり方も新鮮だった。
 もちろん、担任の先生もいた。浅田さん(驚くことに、この学校では先生もさんづけで呼ぶのだった!)という初老の男の人だった。浅田さんは音楽を担当していた。浅田さんにはだから、朝礼と終礼、音楽の時間に会った。

 浅田さんは、エジプシャンの女性と結婚していた。カイロに家を買って、ここに生涯住むつもりだと言っていた。他の先生と違って、だから浅田さんはずっと。この学校の先生であり続けるのだった。

 浅田さんの奥さんを、一度だけ見た事がある。浅田さんよりうんと若い、太った女の人だった。対照的に浅田さんはひょろりと細かった(僕の父ほどではなかったが)。でも、顔中に生やした髭が、辛うじて浅田さんをエジプトに住む男っぽく見せていた(髭を生やした担任教師も、僕にとって初めての経験だった)。

 関西弁を囃し立てられるという危機はあったが、それ以降とりたて大きな事件は起こらなかった。僕は日本でのように、恐る恐る、学校生活を楽しみ始めた。
 授業は、日本の教科書に沿って進められた。

 僕が日本で使っていた教科書とは違っていたが、内容はそんなに変わらなかった。でも、やはりカイロで日本の教科書を学ぶことには、ちょくちょく無理が生じていた。
 例えば社会の教科書には「パン工場見学に行こう!」というページがある。僕たちも、社会科見学と称してパン工場へ行った。

 教科書には、清潔なパンが、清潔な工場でいかに清潔に作られるかが、紹介されてあった。だが僕たちが向かったパン工場は、教科書とは全く違っていた。バスに揺られ、たどり着いた工場は、薄暗く、古びていた。中では、衛生的な帽子もかぶらず、マスクも手袋もしていないおじさんが、素手でペタペタとパンをこねていた。
「こんなところに、何しにきたんだ?」
 とでも言うような感じだった。
 でも、焼き上がったパンを千切って自分の口に放り込んでもらうなんてことは、日本のパン工場では経験出来なかっただろう。僕らの胃の中には、当然おじさんの手についた菌も入り込んだわけだが、でもそのおかげで、僕らの胃腸は丈夫になった。

 運動場がないので、体育の時間は、学校の前の道路に直接マットを敷いたり、跳び箱を置いたりして授業をした。道路をはさんで空き地があって、そこには近所から捨てられたゴミが大量に放置され、それを目当てにやってくるゴキブリや鼠の温床になっていた。夏になると、それを狙ってカエルまでやってくるので、僕らは「地獄」と呼んでいた。

 体育の授業をしていると、たまに山羊の大群がやってきた。そのときは、体育の道具をどけなければならなかった。山羊たちは、僕らが待っているから早く行かなきゃ、なんて頭がないから、空き地からはみ出した草を食(は)んだり、ゴミを漁ったり、随分のんびりしていた。山羊使いのおじさんも、別段焦った様子も見ないので、僕らはマットや跳び箱の周りに座って、10分も15分も体育を中断しなければならなかった。ようやく山羊が去ったら去ったで、お土産のようにぼろぼろと糞をまき散らしてゆくので、それを片付けている内に終了のチャイムが鳴るなんてことが、よくあった。

 そのような環境で、教科書に沿って授業を進めなければいけない先生方は大変だっただろう。でも、僕らの目にも、どこか楽しんでいるように映った。浅田さんなどは、エジプシャンの適当さに感化され、授業開始のチャイムが鳴っても教室に来なかったりしたし、授業を続けることが面倒になったら、最上階にある視聴室(という名の6畳くらいの部屋)へ行き、日本のアニメのビデオなんかを見たりした。

 とにかく、僕たちはとても自由な環境にあったのだ。
 その環境は、姉にもいい影響を及ぼした。
 初日、姉は母に散々諭されて。白いパリッとしたシャツと、紺色の膝丈のスカートを穿かされた。ボサボサにしていた髪は梳かされて、後ろで綺麗に纏められていた。剝き出しになった膝小僧や、ガリガリの首筋には「ご神木」感がまだまだ漂っていたが、遠目に見れば、姉はいいところのお嬢さん、といった風だった。

 姉は当然、自分の格好を恥じた、だが、転入初日、クラスメイトの男の子が、姉に、
「素敵な服だね」
 そう言ったのだった。
 姉にとって、そんな風にクラスメイトに褒められることは、いや、もしかしたら他人に褒められること自体、生まれて初めての経験だった。しかも「素敵な服だね」そんな洗練された言葉で。

 姉のクラスメイトは4人いたが、皆、とても大人びていた。それは、日本人学校の特徴のひとつでもあった。もちろん、いつまでたっても子供っぽさが抜けない生徒もいたし、中学生なのに誰構わず甘えたがる生徒もいた。でも、印象として、皆が概ね大人だった。

 理由の一つに、僕たち子供と大人たちとの、距離の近さがあった。同級生のお父さんが教師でいるような場所だ、少ない人数を担当している教師と僕らの距離は、日本のそれらとは比べ物にならなかった。教師が自分のプライベートなことを話すのは普通だったし、そもそも教師たちは、自分たちの親と顔見知りだった。それも、「教師」と「生徒の親」という関係ではなく、「異国に住む日本人同士」という関係で。

 カイロには、日本人会というものがあった。大人たちは様々な行事で、たびたび顔を会わせていた。日本人会の会合に行かなかったとしても、そもそも日本人が住んでいるエリアは限られていたし、日本食の店も数件しかなかった。日本人に絶対に会わずに過ごす、または日本人の助を借りずに暮らすのは、ほとんど不可能なことだった。

 浅田さんや他の先生が、僕の家に飲みに来た事があった。自分の担任の先生が、自分の家で顔を真っ赤にして酔っ払っているのだ。僕たちは早々に、教師は「教師」という生き物なのではなく「教師になった人」なのだと知る事になった。だからなのか。先生たちは皆、僕たち生徒を大人扱いしてくれた。さんづけで呼ぶやり方がそうだし、授業の進め方や学校生活に関して、あらゆることを僕たちに相談してくれた。

 大人に真剣に相談されたら、子供は大抵嬉しい。そして信頼に応えようとして、必死で自分の頭で考え始める。だから日本人学校に1年もいれば、大抵の子供たちは、大人びてゆくのだった。

 姉の服を、全く大人のやり方で誉めてくれた男の子、牧田(まきた)さんは、だから特別な生徒ではなかった。姉のクラスメイトは、姉を「ご神木」などといってからかうことはなかったし、姉の少しおかしな標準語を揶揄(やゆ)することはなかった。

 姉は、自分があまりに速やかに受け入れられたことに、初めは戸惑っていたが、それをきちんと喜べるくらいには、大人になっていた。もちろん、相変わらず、マイノリティでいたい願望を持ち続けていた姉ではあったから、クラスメイトが皆標準語を話すことが分かると、自分は関西弁を話すようになっていた。
 時々廊下で見かけた姉が、
「知らんがな」
「そうなん?」
 そんな風に言っているのを見ると、虫唾(むしず)が走った。
 姉も、さすがに僕に見られるのは恥ずかしいのか、視線の端に僕の姿を捕らえと、口を噤んだ。だが、いつしかそれに馴れ、学校では関西弁、家では標準語という、およそあり得ないスタイルを手にした。

 そして、当然といえば当然の結果ではあったが、姉は牧田さんと恋をしたようだった。もちろん、姉は僕に直接そう言ったのではなかった。だが姉が、おかしな服を着る事を止めたのが、その証拠だった。姉は自分を認めてくれるひとりの男の子と出会ったことで、これまでのポリシーをあっさり捨ててしまったのだ。

 その変化を、母はもちろん喜んだ。
 姉が、どこで見つけてきたのか分からないボホロボロの作業着や、父のワイシャツをちぎったものではなく、母が選んだ服を着るようになったのだから。母は張り切った。頻繫に買い物に出かけ、真っ白な麻のブラウスや、赤いタフタのスカートなどを見つけてきた。

 変化があったとはいえ、姉と母の関係が劇的によくなる事はなかった。姉は相変わらず母には素っ気なかったと、夕食もぽつぽつとしか食べなかったが、姉は母の購入した服を着ているというだけで、それは大きな進歩だった。

 僕はその変化を、恐ろしく単純なものだと考えたが、あれだけ頑固な姉だ、やはりそれだけが理由ではなかったのかもしれない。姉はカイロ空港に着いた日、トイレで共に苦労した母を、ピラミッドに興奮して、思わず手を繋いで写真に写った母を、覚えていのだろう。

 姉は姉なりに、母に歩み寄り始めたのだ。
 ということで、カイロでの圷家の生活は、いくつかの驚きと共に、ほとんど健やかに、そして明るく流れて行った。

 そして数ヶ月も経てば、家族は皆エジプシャンのことを大好きになったし、時々日本食を恋しく思うことを別にすれば、カイロの生活を、心から楽しむようになった。


 14
 エジプトにも、冬がある。
 エジプトイコール砂漠の国、すなわち常夏の国だと思っていた母は。その事実に焦ったようだった。慌てて夏枝おばさんに手紙を書き、僕たちの冬服をひととおり送ってもらうことになった。
 日本の家は、夏枝おばさんが定期的に来て、窓を開けて空気を入れ替えたり、簡単な掃除をしたり、時には泊まって行ってくれたりしてくれているようだった。

 母の夏枝おばさんへの信頼は絶対的だった。
「家の事はなっちゃんに任せてとったら大丈夫」
 僕らも同意見だった。
 送られてきた段ボールを開くと、懐かしい香りがした。日本の家の匂いだ。正確には冬服と一緒に入れられていた防虫剤の匂いでもあったのだが、小さなころ、かくれんぼをしてよくタンスの中に隠れていた僕からすれば、それは懐かしい、幼少の頃の匂いだ。

 夏枝おばさんは、冬服と一緒に手紙を同封してくれていた。バタバタしていたからあんまり手紙を書く時間がなかったけれど、これからは頻繫に手紙を書くつもりでいることなどが、書かれてあった。

 僕は母の読む夏枝おばさんの字を見ながら、姉の部屋の巻貝はどうなっただろうかと、ぼんやりと思っていた。働き者の夏枝おばさんのことだ、壁を削り取ってでも綺麗にしていてくれるかもしれないし、もしかしたら姉のやったことを感心して、そのまま保存しておこうと決意したかもしれない。そしてそう思うと、それ以外ありえないような気がしてきた。ちょっとズレてはいたが、僕たちのやる事を、いつだって褒めてくれた夏枝おばさんが。姉が数年かけて築き上げた巻貝の王国(という呼び方は正しいのだろうか)を、素直に感心してくれているに違いなかった。

 母が手紙を読んでいる間、姉はソファに座って、頬杖をついていた。
 姉はいったい、このソファというやつを、とても気に入っていた。初日を別にして、朝食を食べなかったが、母が淹(い)れる紅茶だけは飲んだ。姉は朝、そのソファに腰掛け、まったく笑ってしまうくらい優雅に紅茶を飲むのだった。いつしかその席は、姉の席、という風になんとなく決まってしまった。

 姉は母の声を聞きながら、ソファを指で撫でたり、時々衝動に駆られて爪を立てたりしていた。おそらく、初めての恋に戸惑っていたのだろう。
  僕というと、女の子のことを、誰も好きになっていなかった。クラスメイトに女の子は7人いた。ただ、「みやかわ さき」のように、僕の心を決定的にとらえる子はいなかった。そのときは、まだ。

 その代わり、僕にとって非常に重要な出来事があった。学校で親友が出来たのだ。
 向井輝美(むかいてるみ)という。女じゃない、男だ。
 僕は「向井さん」に自己紹介されたとき、自分のことではないのに、どきりとした。どうか誰も笑いませんように。彼の名前をからかいませんように、そう祈った。
 男子なのに、テルミだなんて!

 でもその祈りは杞憂だった。第一に、学校に入ってから、僕がやって来るまでの半年の間に、彼はすでに女みたいな名前を散々からかわれていたのだったし、第二に、彼は2学期ともなると、もうからかったり笑ったり出来ないようなリーダーの風格を、身につけていたからだった。

 向井さんは、体が大きかったり、ハンサムだったわけではなかった。でも、小学1年生にあるまじき眼光の鋭さを持っていた。いわゆるワルっぽくでもあったが、それ以上に賢そうで、とにかく僕らが知らない何かを知っているような雰囲気があった。

 向井さんは、髪の毛をきのこみたいなおかっぱ頭にしていた、そして、驚くべきことに、洋服は明らかに女の子のものだった。例えばふわふわした白いブラウスや、裾にレースのついたカットソーなどだ。さすがにスカートを穿くことはしなかったが、ポケットについたアップリケは可愛いイチゴだったし、折り返した裾からはピンク色のギンガムチェックが覗いていた。

 そのような女の子的要素は、向井さんのお母さんの好みだった。とはいえ、よくある、女の子を望んでいた母親が、生まれてきた男の子に女の子の服を着せて満足している、というようなことではなかった。

 向井さんには、姉がふたりいた。姉のクラスにひとり、3年生のクラスにひとりだ。名をそれぞれ向井真珠、向井翡翠(ひすい)といった。つまり向井さんのお母さんは、すでに女の子ふたりを得ていた。向井さんに対して、女の子的であれと願うような道理は、なかったのだ。
 真珠、翡翠、輝美。
 三姉弟のお母さんは、子供たちにつけた名前のごとく、どうやらただキラキラしたものが好きなだけのようだった。姉ふたりは、少女漫画から抜け出してきたみたいなレースのワンピースを着ていたし、小学生なのに、綺麗な指輪をしていた。

 僕が一番驚いたのは、向井さんが母親のそんな趣味に対して、全く無抵抗だったことだった。向井さんは、前述したとおり、とんでもなく鋭い眼光を持っていたし、生徒の中で、最も男の子らしい男の子だった。かけっこも一番速かったし、クラスの中で誰よりも上手に「だりぃ」や「うるせー」に類する男言葉を操った。

 そんな向井さんであったなら、自分の名前やおかっぱの髪型、赤いリュックや時折着てくるピンク色のセーターなどは、唾棄(だき)すべきもののはずだったが、なぜか自分の容姿や母親の趣味に徹底して静観していた。

 時折。向井さんの少女趣味な洋服やお弁当のおかず(プチトマトと玉子で、お姫様がかたどってあったりする)をからかう生徒はいたが、向井さんに「それで?」と睨まれると、すぐに黙ってしまったし、たった一言で相手を黙らせることが出来る向井さんのことを、皆やはり「男らしい」と思ってしまうのだった。

 僕も、向井さんのことを相当男らしいと思っていた。でも、それは他の皆のように、向井さんがすごんだ時の見せる眼光や男性的態度に対しての賛辞ではなかった。母親に着せられた、いかにも女の子の洋服や、つやつやに梳かされたおかっぱ頭を、甘んじて受け入れる態度に対してだ。

 気に入らないことに関して駄々をこねる子供を、僕は散々見てきた。
 それらの行為を、僕はとことん恥ずかしいことだと思っていた。母は女の子服を着せるというような暴挙には出なかったが、服装や身の回りのことに関して、僕に決定権はないという現実は受け入れてきたし、駄々をこねたことなど、一度もなかった(つもりだ)。
 向井さんの見せる態度は、僕の思う受け入れの最たるものだった。洋服や髪型いかんで自分は揺るがないのだ、という自信も眩しかった。そのような自信こそ、最も男らしいものではないだろうか。

 話しかけて来たのは、向井さんからだった。自己紹介をした数日後に、スクールバスで隣の席に座ったし、体育の時、二人組で組んで体操をやるときには、僕の肩を叩いた。思えば向井さんも、僕が彼の名前にあからさまな好奇の目を向けなかったこと(心の中ではビビっていたのだが)、そしてどことなく彼のことを尊敬している気配に気づいていたのではないだろうか。

 僕たちは最初からウマがあった。基本受け身の僕だ。その場をしきりたがる彼にとっては最高のパートナーだったに違いないし、僕も、何でも率先して物事を決めてくれる彼といると気が楽だ。

 彼は、僕のフラットから大人の足で15分ほどかかるエリアに住んでいた。その距離を子供だけで歩くことは、僕にとっては恐怖だった。日本人の子供とみたら、誰彼構わずちょっかいをかけてくるエジプシャンがそこいら中にいたし、信号を守らない車がびゅんびゅん飛ばしている、7月26日通りという、大きな道路を渡らなければならないからだ。

 だが向井さんは、仲良くなって数週間後には、もう自分だけで我が家にやって来た。そして冬が来る頃には、僕も向井さんに連れられ、僕らが住んでいる地区の、ありとあらゆる場所で遊ぶようになっていた。

 僕らの住んでいるエリアは、ザマレク地区といった。ナイル河に浮かんでいる、ゲジラ島という島の中にある。元々、イギリスがエジプトを植民地化していたとき、イギリス人たちが住んでいたエリアだ。ヨーロッパ風の建物が並ぶ、カイロでも高級な住宅地だった。大使館や植物園があって、日本人だけではなく、イギリス人を始め、たくさんの外国人が住んでいた。

 だから、治安は良かったし、特別危険な事もないだろうと、母親たちは想っていた。向井さんの母ももちろん、僕の母も、僕たちが子供だけで街で遊ぶことを止めなかった。僕たちはだから、毎日自由に、街を徘徊していた。

 向井さんは、4歳からカイロに住んでいた。姉のように、現地のアメリカ資本の幼稚園に通い、それから日本人学校に入学したらしい。だから彼は英語を話すことが出来たし(姉は日本に帰国した途端、綺麗さっぱり忘れてしまったが)、ザマレク界隈(かいわい)にも詳しかった。

 ルーマニア大使館の兵隊さんが時々銃を触らせてくれることや、ブラジルストリートという道にあるフラットのボアーブの鼻がつぶれていること、火炎樹の葉っぱが乾燥して落ちた後、踏むととてつもなく気持ちがいい「パリッ」という音がすることなど、当時の僕にとってのザマレク地区のほぼすべてを、僕は向井さんのことはやはり尊敬していたが、同時に、あることに怯えてもいた。

 僕より先にカイロにいるということは、向井さんは、僕より先に日本に帰るのだ。
 僕が来た2学期にも、3人の生徒が帰って行った。僕たちがカイロにいるのは、大体4年ほどだと父に聞かされていたから、他の人もそうだと思っていた。実際は、2年足らず帰る生徒もいたし、8年も住んでいる生徒もいたのだが、当時の僕には、それぞれの状況を鑑みる智恵などなかった。

 とにかく向井さんが自分より前にカイロにいたということは、必ず、向井さんが自分をおいて日本に帰るということだ。僕はその事実がいやだった。自分が取り残される、ということが。
 向井さんのお父さんは、家族と離れてケニアに住んでいた。向井家は、カイロの前は、ナイジェリアに住んでいた。お父さんは、土木関係の企業に勤めていて、アフリカ諸国のインフラ整備を専門にしているらしかった。
 カイロに来るまで家族一緒に暮らしていたが、ケニアの治安が心配だということと、お母さんがカイロを、特にこのヨーロッパの雰囲気に溢れたザマレク地区を気に入り、お父さんが単身赴任することになったのだ。

 向井さんのお母さんは、姉ふたりや向井さんに、このような少女趣味な服を着せるようなタイプには見えなかった。つまり、普通のお母さんだった。向井さんと同じように、とても小柄な体型だったが、髪を短く切り、地味な色の服を着ていた。自分の容姿には関心ないようで、その関心を、ほとんどすべて、娘と息子に注ぎ込んでいた。向井さんのクローゼットには、数え切れないほどの女っぽい服がしまわれていたが、向井さんが「なんだよ」とか「うるせぇな」などと、男っぽく話すことや、ザマレク中を徘徊していることを、まったく止める気配はなかった。それどころか、
「男の子は、男の子らしくしなきゃね」
 などと言うのだから、僕はほとんどパニックになった。
 お母さんは、向井さんがエビアンをボトルから直接飲むことも許したし(うちでは絶対に許さなかった)、おやつのスナック菓子を限界まで口に詰め込んでいるのを見た時には、指を差して笑ったりしていた。そして向井さんが僕と出かける段になると、向井さんの髪を艶が出るまで梳かし、ピンクや淡い紫のジャンパーを着せるのだから、こんなおかしなことはなかった。

 おかしかった言えば、僕たちがどれほど乱暴な言葉を使おうと、唾を吐いて歩こうと、お互いを「向井さん」「圷さん」と呼ぶことは、決して変えなかった。
「馬鹿じゃねーの、圷さん」
「向井さんこそ馬鹿じゃん」
 そんな会話が、僕らの間ではまかり通っていたのだ。
 向井さんは、単身赴任中のお父さんには、4歳から3年間、二度ほどしか会っていないらしかった。一度はカイロで、そして一度はケニアだったそうだ。

「ケニアのサファリに行ったんだ。窓のないジープで走ったら、こーんなおっきいライオンがこーんな近くにいたんだぜ!」
 向井さんは話をするとき、いつも大きなジェスチャーを交えた。向井さんは小柄だったが、そのジェスチャーのせいで、彼の話は僕にとってはいつも、途轍(とてつ)もなく規模の大きな、素晴らしき冒険譚(たん)に聞こえた。

「ライオンが襲い掛かってきたからよう、俺目にキックしてやったんだ! ライオン、焦って逃げてったよ!」
 規模が大きすぎて、時折噓をついてしまうという失態は犯したが、それでも僕は、向井さんのことが好きだった。

 向井さんと僕がよく一緒に遊んだのが、ゲジラスポーツクラブという場所だった。
 スポーツクラブといっても、日本のそれを思い浮かべてもらっては困る。乗馬場、ゴルフ場、テニスコート、ふたつのプール、サッカー場、思い浮かべられる限り、ありとあらゆるスポーツが出来る、夢のようなクラブだった。ゴルフ場には鳩や猫の糞が散乱し、プールの水が濁ってはいたが、会員でないと入る事が出来ない、高級なクラブだったのだ。

 僕は会員証を作ってもらい、向井さんと、事あるごとにスポーツクラブに入り浸った。僕らが住んでいる島自体をゲジラというのだが、僕らはこのスポーツクラブをゲジラと呼んだ。面白い名前だったので、最初のほうなど、
「ゲジラ行こうぜ!」
 そう向井さんが言うだけで、ふたりで笑い転げた。
 ゲジラで僕らがやることと言ったら、夏はもっぱらプール(初めは結膜炎の洗礼を受けた)で、それ以外の季節は、オバケの樹と呼んでいた大きな木で木登りをするか、サッカー場の隣の原っぱで走り回るか、乗馬場を走る馬を見学するかだった。ゴルフ場には危ないから近づくなと親から言われていたが、こっそり入って、ロストボールを盗んだりもした。

 ふたりで遊ぶことが多かったが、クラスメイトを交えて遊ぶこともよくあった。男子は僕を含めて7人いた。すべて集まる事は滅多になかったが、ある日3人で遊んで、翌日ほかの3人と遊べば、もうそですべてだった。そういうときも、向井さんはリーダーシップを発揮し、僕らが今なんで遊ぶべきかを的確かつ迅速に決めてくれた。僕らは、いつも平和だった。

 例えば僕たちは、原っぱを飛び回る小さなバッタを掴まえ、羽をちぎって一箇所に集めた。一番うまく捕まえるのは、杉山さんという生徒だった。杉山さんは、むちむちと白い肌の、一見して太った女の子といった容姿をしていた。なのに動きがとも速く、時にかけっこで向井さんを負かしてしまう事もあった。

 盗んできたゴルフボールを使って、新しいゲームを考えたりもした。「だるまさんが転んだ」の変形版だ。鬼になった人間が、木に自分の顔をつけ、「ゴルフボールは固いです」と叫ぶ。その間に、他の数人が鬼に近づくが、鬼が振り返ると、動きを止めないといけなかった。鬼は持っていたゴルフボールを転がし、そのボールが誰かに当たったら、その子が鬼になるのだ。

 その遊びは段々過激になり、とうとうゴルフボールを力強く投げるまでなった。一度、クラスで一番背の高い青柳(あおやぎ)さんが投げたゴルフボールが、双子の能見(のうみ)兄弟の片割れ、茂(しげる)さんの顔を直撃し、流血沙汰になってからは、この遊びは厳重に禁止された(能見兄弟だけは、能見さんだはなく、茂さん、敦(あつし)さんと呼ばれた)。

 テニスコートでテニスに興じる白人を”からかおう”と言ったのは、森見里(もりみさと)さんだ。僕たちはテニスを応援するフリをしながら、彼らを日本語で散々ののしった。白人がこちらを振り返ると、笑顔で手を振り、その顔のまま「うんこ野郎!」「でぶ!」と叫ぶのだ。最も口汚いののしり言葉を考えたのは、やっぱり向井さんだった。「ちんぽ菌」である。僕らはその言葉の持つ馬鹿馬鹿しさと破壊力に、腰が砕けるまで笑った。敦さんなどは、笑い過ぎて、軽く小便まで漏らしてしまうほどだった。

 僕たちは、限りなく狭い世界に居た。それは狭い分、とても強固な繋がりだった。
 何より重要なことは、この少ない人数で数年を過ごすこと(日本のようにそもそもクラス分けがないのだから)、そしてその数年の終了が、確実にやって来ることだった。

 日本人学校全体の中でも、エジプトに永住するという子は見当たらなかった。僕たちはいずれ帰るのだ。卒業によってではなく、親の気まぐれな離婚によってではなく、別れは確実にやって来る。
 ここにいる皆は、いつか会えなくなる友達なのだ。
 幼かった僕らは、とこかでそれを分かっていた。だからこそ、その時間を大切にした。一瞬一瞬は、僕らの中でスパークし、それが二度と戻らないものであるからこそ、その輝きは強烈だった。


 15
 さきにエジプシャンのことを大好きになったと書いたが、一方で僕はこのような気持ちを抱えていた。どうしても困る事が、ひとつあったのだ。
 現地の子供たちとの接し方だ。

 日本人学校の周りには、よく子供たちがたむろしていた。近くにエジプシャンの小学校があったからだ。
 人懐こいエジプシャンの、それも子供たちだ。僕たちに興味がないわけがなかった。
 僕たちは、登下校にスクールバスを使っていた。朝、バスが学校に停車すると、男の子たちがバスの腹を叩いてきた。僕らは男の子たちが待ち構えるなか降車し、弾丸のように話しかけられたり、バスと同じように叩かれたりしながら、門をくぐらなければならなかった。僕らは、まるで芸能人みたいだった。帰りもそうだ。彼らは僕らの帰宅時間を知っていたので、わざわざ待ち伏せしていた。そして、バスに乗る僕らの言葉を大声で真似したり、腕を引っ張ったりした。

 彼らはただ、僕らをからかっているだけだった。だが、僕にとって、それは立派な恐怖体験だった。同じ年くらいの子供ならまだ良かったが、高学年の男の子となると、体も大きかったし、うっすら髭なんかも生えていたりするのだ。

 時々指を刺され、名指しで何かを笑われていて、その度僕は、体が縮むようなおもいがした。何を笑われているのか分からなかったが、皆の前でからかわれるのは屈辱だったし、どんな風な態度を取ればいいのかも、まったく分からなかった。

 僕のクラスメイトは、同じように窓を叩いて反撃していた。向井さんなどは、引っ張られた手を振り回し、口汚く罵ったりもした。僕らは彼らのことを「エジっ子」と呼んでいた。低学年のおよそ全員が、エジっ子に対して臨戦態勢だった。だが僕には、それが出来なかった。そんなことをしたら、かえって向こうの興奮を煽るだけだと思っていたし、実際そうだった。皆が反撃すればするほど、エジっ子たちは僕らをはやしたて、大声を出すのだ。

 大人びた高学年ともなると、さすがに僕の同級生のように幼い事はしなかった。だが、対応として、積極的な解決策はみつかっていないようだった。僕が観察している限り、何人かは、彼らに向かって中指を立てたり、日本語でからかい返していたが、大抵の生徒は、「とにかく無視をする」ということに決めていた。

 僕は何度も、大人たちが注意してくれればいいのに、そう思った。大人といっても、教師だけではなかった。バスのドライバーさんや添乗員さんと呼ばれるエジプシャンもいた。でも彼らは皆、子供たちの狼藉を取り立て叱らず、対応を僕ら子供たちに任せているようなところがあった。

 今思えば、大人たちも困っていたのではないだろうか。人懐こいエジプシャンのすることだ、しかも子供たちの関係に、大人が口を出すべきではないと、思っていたのではないか。もしかしたら、現地の子と触れ合う良い機会になるかもしれないし、それにとにかく、先生は現地の子供たちを叱ることが出来なかったのだ。現地の学校の先生との関係があったかもしれ知れないし、そもそもエジプトに住んでいる日本人として、なんらか思う所があったのかもしれない。教育者としての矜持(きょうじ)かもしれないし、個人としての思いもあったのだろう。

 でもとにかく、あからさまに現地の子供たちを叱ることが出来ない、ということに関して、皆の意見は一致しているようだった。エジっ子たちは、信じられないくらいの人懐っこさがあったが、この教育者にとっては、日本にいるとき以上の「よそさまの子」感もあったのだ。

 ドライバーや添乗員はエジプシャンだったから、学校の先生たちよりは、現地の子に接しやすいはずだった。現にドライバーは、エジっ子がバスの横腹を叩くと、窓を開けて怒鳴っていたし、添乗員も子供たちに何か話しかけられたら、少し荒っぽいアラビア語で答えていた。だが彼らも、結局は日本人学校に雇われている身だった。
何かややこしいことを起こすよりは、静観しておいたほうがいいと思っていたのだろう。当時日本人学校は、エジプシャンにとって好条件の職場だった。だから彼らは、取り立てて僕らの助けにはならなかった。日本人学校の教育方針と同じく、決定権は概ね、僕たちに委ねられていのだ。

 前述したように、同級生のほとんどが反撃に転じていたが、僕には出来なかった。生まれ落ちた瞬間から、身近にいた人間が常に臨戦態勢だったこと、同じ轍を踏むまいと、いつだって事を荒立てないように生きることが、僕の行動を完璧に制御していることは確かだったが、それ以上にエジっ子と接する事が、僕にはどうして難しかった。

 取り敢えず、高学年の態度と同じように、僕は無視を決め込んだ。言葉は分からないが、おそらく彼らは悪意のあるなしに関わらず、僕らをからかっている。真摯な質問や挨拶で無い限り、それは無視してもいいはずだ、許されるはずだ。僕が怖がったのは、もちろん自分が傷つくことだったが、それ以上に、彼らの気持ちを害することだった。

 それは、僕の優しさから来るものではなかった。どうしてか僕は、エジっ子を傷つけてはいけない、出来る事なら仲良くやれたらいいが、それが適わないなら、少なくとも狼藉を働いてはいけない、そう思っていたのだ。
 だが、エジっ子たちはまだ良かった。問題は、道にいる子供たちだった。
 つまり、学校に行けないような子供たちだ。

 僕たちと同じ年くらいの子もいれば、ヨチヨチ歩きの子もいたし、髭が生えた子もいた。皆、大きすぎる汚いサンダル、もしくは裸足で道を歩き、空き地に捨てられたごみを棒で漁ったり、どこで得たのか、エジプトのお菓子を取り合ったりしていた。そして僕たちが学校から出てくると、何かしら叫びながら、わらわらと集まってくるのだった。

 大人たちは、「彼ら」に対しては、さすがに声を荒げていた。「彼ら」は汚かったし、すごくにおったし、とても乱暴だった。
 同級生たちは「彼ら」がやってくると、「くさい!」と鼻をつまんだ。慌ててバスに乗り込んだり、学校に逃げ込んだりした。エジっ子たちとは比べ物にならない危機感があった。エジっ子たちすらも、「彼ら」恐れ、嫌悪していた。「彼ら」がやって来たときは、僕らとエジっ子の間で、なんとなく仲間のような、妙な連帯感が生まれさえした。

 僕は「彼ら」に対して、自分のスタンスをどうしても決め切れないでいた。エジっ子たちは無視すると決めたが、「彼ら」に大声で話しかけられると、どうしても無視しきれなかったし、無視出来たとしても、バスにのり込むときに、胸がキリキリと痛むのだ。その胸の痛みに耐えきれず、曖昧に笑ってしまうことが、僕にはよくあった。

 僕が笑うと、「彼ら」の何人かは笑い返してくれた。その笑顔を見ると、僕の胸は驚くほど晴れたが、それをきっかけに、「彼ら」が積極的に僕と関わろうとしてくると、僕は恐怖と、なんともいえない嫌な気持ちで体がすくんだ。そんな風になるのが分かっているのだから、わざわざ笑いかけたりしなければいいのに、それでも「彼ら」を見ると、僕はどうしても、笑ってしまうのだった。

 僕のその態度を、向井さんはめざとく見つけていた。
「圷さんどうして笑うんだ、あいつらは敵だぞ」
 でも僕は、もし「彼ら」が敵であっても、いや、敵であればあるだけ卑屈に笑いかけてしまうのだった。僕は何もされないうちから腹を出してしまう、弱虫の犬みたいなものだった。

 でも僕は、まだその時点では、そういう自分を愛していた。優しさからくるものではないとしても、エジプシャンの子たちと喧嘩するいわれはまったくなかったし、人に笑いかけることを悪だとする価値観はないはずだった。特に、「彼ら」のような子供たちには。

 だがある日、自分のこのやり方を、徹底的に恥じるきっかけになる出来事が起こった。
 僕は母と、買い物に出かけていた。
 7月26日通り沿いには、たくさんの店があった。母が初期の頃、頭付きの鶏を買ったのも、この通りだった。
 母が入った洋服屋は、奥に長いのに窓がなく、薄暗い店だった。商品も少なく、見る限り、スカートは同じデザインのものが何着も並べられ、商品棚はぽつぼつ穴が空いていたようだった。

 それでも母は、自分の気にいるものを探すのがうまかった。少ない商品の中から、茶色くて太い革のベルトを探し出した。店の袋には、古代エジプトの女王、ネフェルティティの顔が印刷されていた。

 店を出たときだった。僕たちの周りを、エジプシャンの子供たち数人が取り囲んだ。
 見る前から、臭いで分かった。「学校に行っていない子供たち」、つまり「彼ら」の臭いだった。僕は母の少し後ろにいた。母越しに見た子供たちは5人いて、どの子も僕より少し大きかった。皆、垢(あか)じみた大きすぎる服を着て、3人は裸足で、残りのふたりは大人用のサンダルを履いていた。

 気がついたら、卑屈に微笑んでいた。
 一瞬で恐怖に包まれた僕に、出来ることはそれしかなかったのだ。
「彼ら」が、僕に興味を持ってしまったこと、そして僕らに何らか接触しようとしていること、そして「彼ら」が、僕と圧倒的に違うこと、それが怖かった。
「汚い、あっち行き!」
 そのとき母の声がした。
「あっち行き!」
「彼ら」は、それでもめげなかった、母に笑顔を向け、僕の腕を取ろうとした。びくりと体を震わせた僕と違って、母はその腕を強く払った。
「触るな!」
 こんな好戦的な母を、僕は見たことが無かった。
 母の剣幕に気おされたのか「彼ら」は僕から離れた。
 僕の心臓は、どきどきと高鳴っていた。僕を襲った衝撃は、僕から全く去らなかった。
「彼ら」は、少し離れて、僕たちについて来ていた。母は僕の手を引っ張って、足早に歩いた。そして、「彼ら」が付いてくるのが分かると、振り返って、
「ついて来るな!」
 だめ押しで、そう叫んだ。
「彼ら」は、僕のように卑屈に、ニヤニヤと笑っていた。僕はその笑顔をみるのが嫌いだった。唾を吐きかけられたほうが、まだましだった。でもそんなことをしたら、母がどんなに怒るか、僕には想像も出来なかった。僕はちらちらと、「彼ら」を振り返った。
「彼ら」の中に、ひとりだけ笑っていない子供がいた。5人の中で、一番小さな男の子だった。
 僕はその子と目が合うと、咄嗟に笑ってしまった。
 母に手を引かれながら、必死で笑顔を作ったのだった。それは、僕なりの「ごめんなさい」なのかも知れなかったし、そうではないかもしれなかった。ただ分かっていたのは、僕の笑顔が、今まで作ったどの笑顔よりも、卑屈なものだということだった。

 その子は、僕に向かって唾を吐いた。
 白い泡が、べしゃっと、地面を汚した。
 ニヤニヤと笑っている男の子たちの中、その子だけが、怒りに燃えていた。
 僕はショックを受けた。数秒前は、「唾を吐きかけてくれた方がまし」、そう思っていたのに、実際そうされたときのショックは、計り知れなかった。地面に吐かれた白い唾は、僕を直接汚すよりも強く、僕を傷つけたのだ。

 母のやった事は間違っている。それは確かだ。
 だが僕だって、本当はそう思っていた。「汚い」と。「触るな」と。でも、僕は、「そんなこと、けっして思ってはいけない」と思っていた。誰に教わったわけでもないのに、僕はエジプシャンの子を、とりわけ学校に行くことが出来ない、物乞い同然の生活を送っている「彼ら」を、決して見下してはいけないと思っていた。

 あなたに対して悪意はない、あなたたちのことを見下してはいけない、そう言えない代わりに、僕は笑っていた、そして「彼ら」が、僕の笑顔に喜んで近づいてくると、恐怖で震えた。心の中で「こっちへ来るな」、そう叫んでいた。

 僕に唾を吐いたあの子は、僕の笑いの意味に、気づいたのだ。
 僕が結局、彼らを下に見ていた事に。
 扱いづらい、僕たちとはレベルの違う人間だと、認識していたことに。
 母のやり方は絶対に間違っていたが、間違っている分、真実だった。己を貶める行為をすることで、母は彼らと同じ地平線に立っていた。「そんなこと、してはいけないことだ」「人間として下劣だ」、そう糾弾されるやり方で、母は叫んだ。

 でも僕は、安全な場所で、誰にも石を投げられない場所で笑顔を作り、しかし圧倒的に彼らを見下していたのだ。母よりも、深いところで。

 僕は自分がしていたことが、恥ずかしくて仕方なかった。一度そう思うと、父のおかげで大きな家に住んでいる事、学校に通っていること、すべてのことを恥ずかしく思えて来た。
 僕と「彼ら」とに、どのような違いがあるのだろう。
 どのような違いが、この現実を生んでいるのだろう。
 カイロにいる間、母の無邪気さ、素直さは、ずっと変わる事はなかったが、僕が「彼ら」に対して思う。この後ろめたさ、羞恥心も、決して消える事はなかった。
 僕は毎日「彼ら」に会わない事を祈った。そしてその祈りは、絶対に叶えられなかった。
僕は毎日、誰かしらの「彼ら」に会い、そのたび卑屈に笑い続けていたのだった。


  16
 僕らはカイロにいた4年間で、たくさんの国に出かけた。特にヨーロッパは、地中海を挟んで馬鹿みたいに贅沢な話だ。その上、当時の僕にとっては、ヨーロッパ旅行はそれほどの楽しみではなかったのだから、まったく信じられない。

 仕方ないのだ。僕はまだ幼かった。パリで食べる高級な料理より、台所に保管してある日本のカップラーメンのほうが貴重なものだったし、ミラノで買い物をするよりは、日本に帰ってテレビを思い切り見たかった。

 何より、数々の遺跡を見て回っても。ピラミッド以上の衝撃が得られなかったのは、やはり不幸だったと言いたい。僕はピラミッド以上に大きな建造物も、ナイル河以上に大きな河も、見たことが無かった。

 それでも、家族で旅行をするのは楽しかった。旅行に行く前には、いつも家族会議が行われた。それは夜、両親のベッドの上だった。両親のベッドはキングサイズで、僕たち家族全員が寝そべっても、十分な広さがあった。

 父がパンフレッドを広げ、どこに行きたいか、何をしたいかなどを僕たちに訊く。姉は「協会」と答え、母は「買い物!」の一点張りだった。母は、我々圷家のなかで、ダントツの俗物だった。そしてだからこそ、誰よりも旅行を楽しめる人であった。

 僕には、行きたい場所はなかったし、何がしたいということもなかった。僕が唯一行きたかった場所は、それは日本だった。
 面白いアニメ、美味しいお菓子、中でも最も恋しかったのは、卵かけご飯だった。カイロでは、生の卵を食べる習慣がない。僕たちで出来るのはせいぜい半熟気味のスクランブルエッグをご飯に乗せ、醬油その醬油も、どれほど貴重だったことか! をかけて誤魔化す程度だ。それは当然ながら、卵かけご飯とは違った。全く違った。

 中には、卵かけご飯が食べたいあまり、日本に一時帰国した際、飛行機に乗る直前に生卵を購入し、機内に持ち込んで膝の上に大切に載せて来た人もいるくらいだ。卵かけご飯は、それほど貴重食べ物だったのだ。

 卵かけご飯に関して、忘れられない出来事がある。
 ある日、玉城真里菜(たましろまりな)という女の子が、僕を家に誘ってきた。
 体育が終わった後で、僕は学校の水道で手を洗っていた。どうしてひとりだったのかは、覚えていない。

 ふと影が出来たので後ろを振り向くと、玉城さんが立っていた。玉城さんは、背の高い女の子だった。色が白く、すうっと切れ目を入れたような目をしていた。髪が腰まであって、それを縛ったりしないので、実は僕たちの間では、玉城さんのことを「幽霊」と呼んでいた。
「圷さん、卵かけご飯好き?」
 玉城さんが急にそんなことを言った事に、僕は面食らった。「卵かけご飯、好き?」
 玉城さんは、すごく真剣な顔をしていた。まるでその答えを聞くのが使命であるとでもいった感じだった。
「うん」
 玉城さんの勢いに気押されて、僕はそう言った。すると玉城さんは、重大なことを打ち明けるような顔で、
「私の家に、食べられる生卵があるの」
 そう言った。
「お父さんの会社の人が持って来てくれたの。生だから食べられるのは明後日くらいまでよ」
 僕はそのとき、家に誘われているのだと気づいた。正直、玉城さんに興味はなかったが、卵かけご飯には、大いに興味があった。というより、めちゃくちゃ食べたかった。
「家に来ない?」
 というわけで僕は、玉城さんの話に乗ってしまった。
 玉城さんも、同じザマレク地区に住んでいた。
 扉を開けた玉城さんを見たとき、僕は、「しまった」、と思った、玉城さんは、普段学校では着らないような、薄い紫のドレスを着ていた。ピアノ発表会で着るような代物だ。

 玉城さんの後ろには、玉城さんのお母さんもいた。お母さんも、玉城さんと同じように長い髪をしていて、色が白かった、ふたりで並ぶと、幽霊の親子みたいだった。

 それからのことは、あまり記憶にない。玉城さんの、ものすごく少女趣味の部屋に通され、お母さんが次々に出してくれた紅茶やらケーキやらクッキーやらを、腹一杯食べたと思う。そうなのだ。卵かけご飯は、出なかった。
 玉城さんは、卵かけご飯で、僕を釣ったのだ!
 僕はほとんどなぐられたような気持ちで、玉城家を後にした。人に騙されるというのは、こんな気持ちなのかと、8歳の僕が学んだ瞬間だった。僕が玉城さんを恨んだ。
 卵かけご飯!

 強烈な憧れと共にあった卵かけご飯だが、思いの先にはやはり、日本への憧れがあった。日本人の中には、年に一度、ときには二度も一時帰国をして、日本のお菓子やら洋服やら、様々なものをごっそり調達して帰ってくる人がいた。彼らのくれるお土産を、僕は何よりも待ち望んだし、新商品のお菓子は、この世のものかと叫びたくなるほど美味しかった。

 圷家は、カイロ在住の日本人の中では、一時帰国の回数が極端に少ない家族だった。何せ4年いたカイロ生活で、僕と両親がたった一度、姉にいたっては、一度も帰国しなかったのだから。
 理由の一つは、母が、せっかくの長期休みを、よく知っている日本ではなく、見知らぬ土地へ行って過ごしたかったことだ。
「スイス!」
「スペイン!」
「イタリア!」
 母は、あらゆる国へ行き、あらゆる服を買い、あらゆる食べ物を食べたがった。まるで強欲な若いお嬢さんのようだった。
 日本での圷家は、母の豪遊を許せるような経済状況にはなかった。だが、海外赴任というものは、とにかくお金が貯まる。十分すぎる住宅手当と海外赴任手当が出るし、特にカイロのように物価が安い地域だと、給料はほとんど手つかずで残るようなものだった。

 父は母の奔放を許した。母は日本いる時以上に自分に磨きをかけ、精力的に町を歩き、気がつけば日本人社会で有名な人になっていた。

 僕が大人に会えば「あの圷さんの」と言われ、それは父の事ではなく、母なのだった。カイロ時代の母は、恐らく人生で一最も輝いていたと思う。そして皮肉にも、その時代が母にとって、最も辛い時代にもなるのだった。

 日本に一時帰国しないもうひとの理由が、姉が日本にちっとも帰りたがらなかったことだった。姉は、日本の話をすることさえ嫌がった。祖母からの手紙や夏枝おばさんの手紙には目を通すが、決してそのことに関して意見は言わなかった。

 姉がふたりを愛していることには、変わりはなかった。でも姉にとって日本は「ご神木」と呼ばれ。悪魔扱いされた苦しい思いでしかない場所なのだった。

 何より姉には、牧田さんがいた。姉の恋は悲しい結果を迎えることになるのだが、姉にとって牧田さんは、姉を初めて人間として認めてくれた人であり、カイロは、その牧田さんに出会ったロマンチックな土地なのだ。
 日本に帰ることが出来ないことを、一番悲しんでいたのは、僕だ。
 カイロ生活は楽しかった。楽しすぎると言っても良かった。でも、僕にとってやはり日本をれっきとした故郷だったし、楽しい思い出のある土地だった。

 日本に帰ることが出来ない代わり、僕の望郷の念を満たしてくれるのは、夏枝おばさんや祖母が送ってくれる荷物だった。特に夏枝おばさんは、母や父にというより、明らかに僕と姉に宛てた荷物を選んでくれていた。大量のお菓子、日本で流行っているアニメのビデオや、僕が愛読している漫画の最新刊、などだ。

 時々、気まぐれに好美おばさんからも荷物が届いた。好美おばさんの荷物は、夏枝おばさんはと対照的に、ほとんど母や父向けの荷物だった。母はいちいちお礼の手紙を書くようなタイプではなかったが、ハンハリーリやザマレク地区の店で買ったエジプトらしい珍しい民芸品や絨毯、大きな絵などを、気まぐれに送ったりしていた。
 ある日、好美おばさんから送られてきた荷物の中に、別包装の荷物が入っていた。電気屋さんの紙袋に入っていて、ガムテープで頑丈に止めてある。紙袋には好美おばさんの字で、「あゆむ君」と書いてあった。
「それ、義一君と文也君からだって」
 母の言葉に、心臓がぎくっと音を立てた。
 その包みは、頑丈にガムテープが貼られていた。まるで、絶対に割ってはいけない国宝級のお宝を包んでいるみたいな梱包だった。気配を察した僕は、その包みを持って、自分の部屋に行った。

 苦労して包みを開くと、そこには信じられないものが入っていた。
 それは、裸の男の人が表紙になっている雑誌だった。
 僕はもちろん、カイロに来る前、義一と文也が僕の家の和室で雑誌を開いていたあの瞬間を、思い出していた。あれは夢だったのかもしれないと思っていた。でも、夢ではなかった。義一と文也は、あの雑誌を、見ていたのだ。僕の家で。そしてその写真を、僕に見せたのだ。

 何のために?
 僕は静かに、パニックになっていた。
 これは明らかに、母や父の助けを必要とする出来事だった。でも事件の性質上、助けを求めてはいけないということも、はっきり分かっていた。

 表紙の男は、裸の尻をこちらに向け、物言いたげな顔でこちらを見ていた。なんてことだ。僕にとって生まれて初めてみたエロ本が、それだったなんて! 僕はトイレに駆け込んだ。そして盛大にゲロを吐いた。ゲロを吐くときも、トイレのコックをひねり、母に音が聞こえないように配慮する自分が、とても哀れだった。

 僕はその雑誌を、学校に持って行った。向井さんにそれを見せて、向井さんを驚かそうと思ったのだったし、何よりひとりでそれを抱えきることが出来なかったのだ。
 最初に表紙を見た向井さんの反応は僕の予想通りだった。
「‥‥つ!」
 向井さんは、完全に絶句していた。目を丸くしてた、こめかみに筋を立て、雑誌を持つ手は、かすかに震えていた。僕は嬉しくてたまらなかった。義一と文也も、僕の反応を見て、このような気持ちになったのかもしれないな。僕はふと、そう思った。
 僕らはその雑誌を、音楽教室の一番後ろ、鍵盤ハーモニカやタンバリンなどがしまってある棚の、段ボール箱の下に隠した。この段ボール箱に先生が触れるのを見たことがなかったし、よしんば雑誌が見つかったところで、僕らが告げ口しない限り、永遠にバレることはないだろうというのが、向井さんの言い分だった。

 だが、翌週の全校朝礼で、驚くべきことが起こった。
 校長先生が壇上に立ち、僕らにこう言い放ったのだ。
「音楽室で、学校に相応しくない雑誌が見つかりました」
 僕の体は、足元から冷えた。
「学校に、全く、相応しくない雑誌です」
 校長先生は、怒っているようだった。ものすごく怒っているようだった。校長先生は初老のおじさんで、細長かった。顔が淡いピンク色に染まっているので、フラミンゴみたいだなぁと、僕はいつも思っていた。
「どんな雑誌ですかぁ」
 5,6年生の列のあたりから、声があがった。
 声を発したのが誰かは分からなかった。でも僕は、そいつの勇気に驚嘆した。校長先生は、声のした方をみて、しばらく黙っていたが、やがて低い声を出した。
「ここで言うのも憚(はばか)られるような、ひどい雑誌です」
 皆、わずかにざわつき出した。校長先生は、今度は皆を見回した。
「触るのもおぞましい、低俗な雑誌です」
 もしかしたら先生は、答えを言いたいのではないだろうか。小出しにヒントを出すそのやり方を、僕は疑い始めていたのだったが、生徒の間では、すでにヒソヒソ話が回っていた。「エロ」という言葉が聞こえて来たとき、僕の膝は小さく震えた。
「私は、その雑誌を持ってきた生徒に言いたい」
 先生は、スウと、息を吸った。
「君は卑猥(ひわい)だとっ!」
 ヒソヒソ話が興じていた全校生徒が、水を打ったように静かになった。先生が何を言っているのか、僕は分からなかった。そもそも今の叫びが、雑誌を盛って来た人間に、つまり僕に向けられた言葉だと理解するのにも、数秒を要した。

 この事件の後、この言葉を、学校中のいたるところで耳にすることになった。
「キハミハヒワイダトッ!」
 その言葉には、まるで、時間を止める呪文みたいな威力があった。
 それから向井さんは、僕をみると目をふせるようになった。



 17
「キミハヒワイダトッ!」事件とときをほとんど同じくして、僕に新しい出会いがあった。
 僕はその日、母に頼まれて、近所のスーパーに卵を買いに行っていた。スーパーの名はサンシャインスーパー、僕らは略して「サンスーパー」
呼んでいた。小規模だったが、品揃えは良かった、日本食などは全く置いていなかったが、小さいながらもおもちゃのコーナーや文具のコーナーがあり、僕はその界隈をじっくり見て回るのが好きだった。

 僕が頼まれていたのは、12個いりの茶色い卵だった。目当てのケースに手を出したとき、同時に手を出した人物がいた。

 それがヤコブだった。
 これが成人した男女だったら、まさに運命的な出会いだ。ふたりはきっと顔を赤らめ、はにかみながら見つめ合っただろう。

 でも、ヤコブも男だった、僕は少年だったが、ヤコブは僕より年上に見えた。がっしりした体に、くたびれた白いシャツ、ネイビーのコットンのパンツを穿き、大人の男が履くような茶色いサンダルを履いていた。

 エジプシャンの子供が苦手であるということは、散々記述した。
 そのときも僕は、早速、卑屈に笑っていた。同時に手に取った卵を、譲るつもりだったのだ。
 通常のエジプシャンの子供だったら、絶対になにやら話しかけてくるか、体に触ってくるかしてくる。覚悟していたが、ヤコブは違った。卵のケースを取り、微笑みながら、僕に差し出したのだ。ふいをつかれた僕は、思わずケースを手に取ってしまった。ヤコブはにっと笑って、自分は違うケースを手にした。
 そのときのヤコブの笑顔を、僕は忘れられないでいる。
 口全体をにやりと広げる、子供の笑い方ではなかった。口角だけわずかに上げる、「微笑み」といっていい、大人の笑い方だった。それも、とても高貴な大人の。
 がっしりした体と対照的に、ヤコブの指はほっそりと細く、長かった。そして、小指の爪だけを伸ばしていた。それがまた、ヤコブを大人に見せていた。

 僕は、ヤコブに礼を言った。
「シュクラン」
ヤコブはもう一度僕を見て、
「アフワン」
どういたしまして、と言った。
僕ははにかんだ。嬉しくて、耳がカーッと、熱くなった。
エジプシャンの子供に対して、こんな気持ちになったのは、初めてのことだった。
ヤコブは僕に、卑屈な思いをさせなかった。ただ堂々と、そこにいた。くたびれた服を着ていたが、身のこなしの優雅さは、ハッとするほどだった。

 卵は颯爽(さっそう)とその場を離れたヤコブは牛乳も選んでいた。一本一本、賞味期限を確認している姿さえ、卑しさとは無縁だった。ヤコブは、それが必要だからそれを取るという行為の、完璧なシンプルさの中にいた。

 僕はしばらく、ヤコブに見とれていた、やがて我に返ったとき、ちくしょう、これじゃあまるで、オカマみたいだ、そう思った。そのとき、僕の脳裏によぎったのは当然、あの雑誌だった。同時に、向井さんの裏切りを思い出し、胸がチリチリと傷んだ。その傷が僕に、きっとあのような大胆な行動をさせた。

 店を出たヤコブの後を、僕はつけたのだ。
 ちょうどいいことに、ヤコブは僕の家のほうに歩いていた。これならつけいることにならない、僕は帰宅しているんだから。そんな風におかしな言い訳を心の中でしながら、僕はヤコブの15メートルほど後ろを歩いていた。

ヤコブは、右足を綺麗に上げて、かかとから地面に降りていた。そしてそのときは、もう左足を優雅に上げていた。つまり彼は、ただ歩いているだけだった。だが、その姿には、子供に似つかわしくない、なんともいえない威厳があった。

 サンスーパーを左に出て2ブロック歩き、右に曲がったところに僕のフラットがあった。なんと彼は、2ブロック目で右に曲がった。そして曲がるとき、ちらりと僕を見た。
 目が合った時、僕は笑うことが出来なかった。いつもなら、卑屈に笑うはずだった。咄嗟に歯を見せるはずだった。でも僕は、ヤコブが僕を見ている、ということは、完全に舞い上がっていた。
 ヤコブは、僕を見て笑った。まったく美しい笑顔だった。
 僕は再び、その笑顔に射抜かれてしまった。ヤコブと話したい、そう思った。エジプシャンの子供に対してそう思ったのは、もちろん初めてのことだった。
 あとで分かったことだが、ヤコブは、僕の家からもう数ブロック行った先に住んでいた。
 僕らは友達になった。
 話しかけてくれたのはヤコブだったが、そうさせてたのは僕だった。ヤコブの笑顔に対し、もじもじと恥ずかしがり、何か言いたげな顔していた。それはエジプシャンの女の子が僕らに見せる態度だった。そう、僕は全く、女の子みたいだった。

 僕らは卵と牛乳を持ったまま、僕の家の前で、数十分話し合った。
 僕はアラビア語を全く話せなかったし、ヤコブも日本語を全く理解していなかった。でも僕らは、お互いの母国語と体を遣ったジェスチャーを駆使し、お互いの名前、自分たちが同じ年なこと、僕は2年前からこの家に住んでいて、ヤコブは4年前から住んでいること、などを伝え合った。そしてまた明日の夕方、ここで会おうという約束まで、交わしたのだった。

 家に戻った僕は、有頂天だった。
 友達がこんなに簡単に出来ることに驚いたし、苦手としていたエジプシャンの子供と、素直に「友達になりたい」と思った自分が嬉しかった。たった数十分の出来事だったのに、ヤコブはもう僕の中で、絶対的に大きな存在になった。

 初恋が成就したような高揚の中で、僕は卵をゼイナブに届けようとした。
 ゼイナブは、台所のテーブルに座って、紅茶を飲んでいる筈だった。いつも一日の仕事が終わると、ゼイナブはこのテーブルで紅茶を飲み、エイシと呼ばれるエジプトのパンを食べていた。そこに紅茶を注いで飲むのだ。しかも、砂糖の量が尋常ではなかった。エジプシャンは、甘いものが好きだった。家の近くのケーキ屋で売っているドーナツなどは、日本では考えられない甘さだったが、でも、段々その味にも慣れてきて、日本のさっぱりしたドーナツを、僕らも物足りなく思うまでなっていた。

 僕はほとんどスキップせんばかりの勢いで、台所に向かった。中から、母の声がした。
 すぐに母が泣いているのが分かった。
 動けなかった。母が泣いているのを見た事など、一度もなかった。姉の暴虐の最中も、粛々とお洒落をし続けていたような母、父を言葉で言い負かし、エジプシャンの子供たちに、「あっちへ行け!」と叫ぶことが出来るあの母が、声を殺して泣いていた。

 母の泣き声の合間に、布が擦れる音が聞こえた。ゼイナブが、母の背中を撫でいるのだろう。
 僕は玄関まで引き返した。そっと外に出て、大きな音を立てながら、扉を開けた。そして、大きな声で叫んだ。
「ただいまぁ!」
 しばらく待っていると、母が「おかえり」と言った。そしてゼイナブが姿を現し、拙い「オカエリナサイ」をいってくれた。僕はゼイナブに卵を渡し、何事もなかったかのような顔をして、自分の部屋に引っ込んだ。
 僕には、母の涙を直視する勇気が無かった。
 母が泣いたのは確かだったが、その姿を見る事で、それが現実のものになるのが怖かった。
 そして母も、僕に自分の涙を見られることをよしとしないだろうと、僕は思っていた。僕たちに決して弱いところを見せなかった母が、小さくなって泣いているところを、僕たちに見られいわけがない。それはそうであってほしいという、僕の願望でもあった。
 
だが、僕の願望に反し、母はそれから、僕の前で度々涙を流すことになる。
 圷家の不穏な時代が、幕を開けようとしていたのだ。

 始まりは、一通の手紙だった。
 圷憲太郎、つまり父に届いた手紙の差出人を見たところから、母の、そして圷家の「不穏」は始まっていた。僕は、その現場に遭遇していた。
 僕のフラットには、ポストがなかった。郵便物は、郵便屋さんがわざわざ家まで来て、ドアの下から滑り込ませるか、それが出来ないときはベルを鳴らした。ゼイナブが出勤してきたときに扉を開けるのが僕の役目だったように、手紙を受け取るのも僕の役目だった。

 受け取った手紙を読めるようになっていたし、差出人のアルファベッドを読み上げると、両親がいちいち感心してくれることが嬉しかったのだ。
 大抵はエアーメールで、日本から届いたものだった。「NATSUE IMABASHI」という14文字が、僕が一番読み上げたアルファベッドだ。
 両親には、友人が少なかった。だから、知らない人から手紙がくるとことは、ほとんどなかった。たまにあっても、ほとんどが父の会社の人だった。
 その日届いた手紙は、例に漏れずエアーメールだった。
 両親はテーブルで朝食を食べていて、姉はいつものソファに座って、優雅に紅茶を飲んでいた。
「手紙来たよ」
 それは、僕なりの「僕を見て!」だった。両親はもちろん、僕の望むように僕を見てくれた。
 裏返した手紙には、僕の知らぬ名前が書かれていた。学校の先生が書くような、綺麗な字だった。一見してすぐに、女の人の字だと分かった。
 僕が、アルファベッドを読み上げたとき、母は立ち上がった。ガチャン、と、食器が大きく音を立てるほど、乱暴な立ち方だった。姉が振り返った。僕も、読むのをやめた。

 母は、立ち上がったまま、どこへも行かなかった。左手でおでこを押さえ、じっとしていた。すぐに、ただならぬことが起こっていると思った。僕は先回りして謝りたいような気分だった。でも、声を出すことも出来なかった。結局、すがるように父を見た。
「貸しなさい」
 父は静かにもそう言った。救われるような気がした、僕は急いで父に手紙を差し出した。まるで、この手紙が爆発物であるかのように。そのとき、ぴくりとも動かなかった母が、急に僕の手から手紙を奪った。

「奈緒子」
 父の声は、低く、乾いていた。
「あんた宛やん」
 母は、手紙の表を見ていた。そこには、やっぱり綺麗な字で、「To KENTARO AKISU 」とも書かれてあった。
 母は父に手紙を投げつけ、そのままダイニングを出ていった。僕はその場に、馬鹿みたいに突っ立ったままだった。父が手紙を拾い、ポケットに入れた。そして僕に、
「歩、朝ご飯食べなさい」
 と言った。
 悪いのは僕じゃない、そう思った。
 でも、僕が読み上げたあの手紙のせいで、こんな不穏な雰囲気になっていることは、間違いなかった。僕は、いたたまれない気持ちで席に着き、もくもくと朝食を食べた。姉はしばらく、父のことを見ていたが、父がことの顛末を姉に説明する気はなさそうだった。姉もそのことを分かっていたのだろう。すぐにこちらに背を向け、姉だけの世界に没頭していった。父はインスタントコーヒーを流し込み、迎えに来たジョールと一緒に、何も言わずに出勤していった。

 父が扉を閉めた後、遅れてゼイナブが玄関に見送りに行った。何かを察したのか、すぐに母のいる寝室へ向かった。そして僕も、姉に連れられ「行ってきます」を言う事もなく、家を出たのだった。
 バス停に向かう途中、僕は姉に、
「なんかあったんかな」
 そう言った。姉は、中学1年生になっていた。背がまた伸び、ほとんど外国人みたいに高かった。相変わらず食が細かったのでガリガリに瘦せていて、それに加え、ちゃんと眠っていないのか、目の下は隈(くま)が出来ていた。
「さあ。どうせ子供が口突っ込むことじゃないとか言うんでしょ」
 姉は、どこか怒ったような口調で、そう言った。

 それ以降、僕は母を、なるべく見ないようにしていた。
 母がまた、乱暴に席を立つのが怖かったし、父に何かを投げつけるところを見るのが怖かった。僕は全力で、あの朝の事を忘れようとしていた。母は変わっていないと、思おうとした。
 そして実際母の、変わっていなところばかり見た。
 僕が帰宅すると、母は綺麗に着飾って僕を出迎えたし、カイロで出来た友人と長電話をしたり、ゼイナブに家事を任せて、プールに行ったりしていた。変わらない母を見ていると、僕の心は落ち着いていた。

 父は帰りが遅く、4人で夕飯の食卓を囲むことは稀だったが、朝食は一緒だった。母は、もう急に立ち上がったりしなかった。だが、父と目を合わせなかった。父と目を合わせない母ではなく、いつものように朝食を食べ、紅茶を飲む母だけを、僕は見た。

 母が台所で泣いている声を聞いたとき、僕が最初に思ったのは、だから、「見たくない」ということだった。
 母には、いつもの母であってほしかった。僕に、泣いているところなど、見せてほしくなかった。母が泣いていることを認めてしまうと、家族がすべて替わってしまうような気がした。僕は母に「僕がいる」ことを、気付かせようとした。

 僕がいるよ、僕の前では泣かないで、僕に「変わっていない」と思わせて。
 だが母は、憚らなくなった。
 以前の朗らかさは去り、時々黙り込んで、一点をみつめるようになった。僕が傍を通っても、その気配を消そうとはしなかったし、僕が明るく話しかけても、沈んだ気持ちを隠そうともしなかった。
 母は「不穏」だった。その「不穏」は台所を出て、廊下やダイニングにまで侵入していた。もう母を、変わっていないと思う事は出来なかった。
 母はとうとう、リビングで堂々と泣くようになった。リビングまで制覇したら、「不穏」は、もはや家中を満たしているようなものだった。
 僕が歩くと、どこかしら「不穏」の糸があった。毎日、それに躓(つまづ)いたような気分だった。

 その世界がどれほど楽しくても、帰ってきたら、家の中の「不穏」に、足をすくわれた。部屋にいても、ビデオを見ていても、家にいる限り、僕はいつも糸に絡め取られていた。そしてその糸と格闘していてる僕の耳にとびこんでくるのは、いつだって母の泣き声だった。

 ソファに座り、両手で顔を覆っている母の隣には、必ずゼイナブが座っていた。ゼイナブは、姉よりも頻繫にソファに座るようになった。大きくて分厚い掌(て)で母の背中を撫で、時には母と一緒に泣いていた。
「マダム、マダム」
 そう言いながら。
 母とゼイナブの年齢は母娘ほど違っていなかったし、母は日本人もそしてゼイナブはエジプト人だった。だが、時折ふたりは、親子のように見えた。
 僕には母を慰める気が無かった。そもそも理由も知らなかったし、訊く勇気もなかったから、慰めようがなかった。
 僕は出来る限り、母の涙に気づかないフリをした。
 以前より、明るく、活発な子供を演じた、家の中の「不穏」を振り払うように、圷家は問題がないと言い聞かせるようにも僕は家の中で徹底的にふざけ、学校であった出来事をことさら大げさに話して見せた。「不穏」から、全力で目を逸らし続けた。
 だがもちろん、「不穏」は僕を放っておいてくれなかった。


 18
 僕はヤコブに夢中になった。
 ヤコブは、本当に恰好良かった。
 向井さんが、ザマレク中の道を知っているとすれば、ヤコブはザマレク中の網の目を知っていた。ヤコブは僕を連れて、向井さんと通った道の先、こんなところに道が、と驚くような路地へ入り、思いがけない場所へ出た。それだけでなく、壁に落書きをする楽しさを、ゴミ置き場のゴミを燃やす楽しさを、そして店に入り、店の大人と、まったく対等に話す楽しさを教えてくれた。

 堂々と体躯(たいく)と、気品のある態度はヤコブを大人に見せている事は確かだったが、それ以上に、ヤコブには人を受け入れる度量のようなものがあった。同じ年なのに、ヤコブは僕を守ろうと決めているように見えたし、僕も完全にヤコブに頼っていた。

 いつしか僕も、ヤコブと同じような服を着たくて、父の着なくなったポロシャツをねだるようになった。母は、僕を姉のようになってしまったと言って嘆いたが、ブカブカとは大きなシャツは、当時の僕にとって最高に恰好いいものだった(父のサンダルを履くことは、さすがに許してもらえなかった)。

 僕とヤコブは時々、お互いの服を交換して着た。母に怒られるので、帰りには元に戻さなければならなかったが、ヤコブの服を着ている時、僕はヤコブの勇気や智恵を授けられるような気分になった。洋服には、ヤコブの体臭が染み付いていた。僕にとってそれは何より、安らぎを与えてくれるものだった。

 ときどき僕は、体を洗うのを躊躇した。裸になった僕の体には、ヤコブの匂いがまだ残っていた。それを取るのは嫌だったのだ。ヤコブの匂いを感じている限り、「不穏」は僕のそばまでやって来ない、そんな気がしていた。
 母に言われてしぶしぶ体を洗うと、だから僕は心細かった。清潔な体で入る清潔なベッドは気持ちよかったが、それだけだった。僕は枕に顔を埋めて、ヤコブと過ごした一日を思い出しながら眠りに就いた。そして眠った後は、ヤコブの夢を見た。

僕とヤコブの意思の疎通は、加速度的に増していった。

 数ヶ月もすれば、僕らはほとんど、ジェスチャーなしで話をすることが出来るようになっていった。それは本当に、不思議なことだった。僕は今でも、アラビア語を話すことは出来ない。当時の僕が話せていたとも思えない。でも僕は、確実にヤコブと会話し、ヤコブの冗談に笑い、ヤコブに質問して、確かに答えを得ていたのだ。

 ある日は、トランシーバーで遊んだりもした。トランシーバーといっても、プラスチックのおもちゃのトランシーバーだったが、何十メートル離れても、十分に話せる機能を持っていた。僕はそれを、お小遣いをはたいてサンスーパーで手に入れたのだった。

 僕らがそれぞれのトランシーバーを手にし、道路を挟んで街を歩いた。そして、様々なことを交信しながら街を探検した。「野良犬に注意」「花売りのおじさんが吐く唾に注意」「前方に山羊の糞」など。つまり僕らは、まったく言葉だけでコミュニケーションを取ることに成功していたのだ。
 僕らにはきっと、僕らしか分からない言葉があった。
 アラビア語でもない、日本語でもない、まして英語でもない、僕とヤコブにしか分からない言葉があったのだ。
 今でも覚えている、別れの言葉がある。
「サラバ」
 僕たちが別れるのは、いつも僕のフラットの前だった。僕たちは手を挙げて、「サラバ!」
と叫んだ。初めは、アラビア語の「さようなら」である「マッサラーマ」を使っていた。僕がふざけて「マッサラーバ!」と日本語の「サラバ」組み合わせたそれを、僕たちとも気に入っていたのだが、ヤコブは単純に「サラバ」を気に入った。

 僕がいくら「マッサラーバ」と言っても、ヤコブは頑なに「サラバ」と言い続けた。
 実際、ヤコブの「サラバ」は美しかった。
 まるで、「さようなら」という意味ではない言葉のように聞こえた。輝かしい可能性を孕(はら)んだ、キラキラした3文字に思えた。

 いつしか僕もヤコブを真似て、「サラバ」と言うようになった。そして僕らの「サラバ」は果たして、「さようなら」だけではなく、様々な意味を孕む言葉になった。「明日も会おう」「元気でな」「約束だぞ」「グッドラック」「ゴッドブレスュー」、そして「俺たちはひとつだ」。
「サラバ」は、僕たちを繋ぐ、魔術的な言葉だった。

 僕はいつしか、ヤコブがいない時でも、「サラバ」と言うようになった。ピンチのときや、何かいいことがあったとき、つまり思いついたときにはいつでもだ。その3文字を呟くと、僕はそばにヤコブがいてくれるのだと思えた。ヤコブの匂いを、ヤコブの気配を感じることが出来た。そしてそれは、僕を安らかにしてくれた。だから僕は家の中で「サラバ」を口にした。
「サラバ」は、僕だけの言葉だった。
 僕が急速にヤコブと関係を深めていくのに反して、向井さんとはどんどん疎遠になっていった。そしてそれは、僕らだけの言葉だった。
 僕が放課後のほとんどの毎日をヤコブと過ごしていたし、「キミコハヒワイダトッ!」事件の余波は、まだ僕たちの間に根強く残っていた。

 とはいえ、仲が悪いという訳ではなかった。クラスメイトとは、時々ゲジラで遊んだし、それぞれの家へ遊びに行ったりした。みんなの中にいると、僕と向井さんの気まずさは目立なかった。

 一度、皆と僕のフラットの中庭で遊んでいるとき、ヤコブが来た事があった。ヤコブとは、特別毎日約束をしていたわけではなかった。ヤコブが僕のフラットに来たとき、僕が外に出ていない事もあったし、僕が外に出ていても、ヤコブが来ない時もあった。

 僕らは連絡手段を持っていなかった。
 向井さんや同級生と遊ぶときは、それぞれの家の電話を使っていたが、ヤコブと僕には、その選択肢はなかった。そもそも僕は、母にヤコブと友達になったとは、言っていなかったのだ。
 ヤコブはとても大人びた子供だったし、頭が良く、とてもハンサムだったが、エジプシャンだった。それも恐らく、裕福な家の子ではなかった。
 ヤコブは大抵、初めて会った時に着ていた白いポロシャツか、茶色いシャツを着ていた。そしていつも、あのサンダルを履いていた。そんな大きすぎるサンダルで、僕より速く走ることが出来るヤコブを、僕は尊敬していたのだったが、そのサンダルは、大人にとっては汚い、ただのサンダルだったのだと思う。それはそのまま、ヤコブの家庭環境を示すものだった。

 ヤコブは「エジっ子」でも「彼ら」でもなかったが、それを説明するほどの智恵を僕は持っていなかった。
 僕と向井さんたちは中庭でサッカーをしていた。全力で駆け回り、ゴールを決めた後は、向井さんと抱き合って喜んだ。僕は、久しぶりに向井さんと屈託なく接することが出来たことを喜んでいた。

 ヤコブが顔をのぞかせたとき、僕はちょうど能見兄弟のディフェンスを交わしたところだった。ヤコブと目が合ったのは分かったが、どきりとしたその瞬間、すぐに目を逸らしてしまった。
 僕はそのまま、ゴールを決めた。皆に肩を叩かれ、称賛され、でも僕は喜ぶことが出来なかった。ヤコブを無視した事になったのではないかと、気が気ではなかった。耐えきれず門を振り返ると、ヤコブはもういなかった。

 僕は猛烈な自己嫌悪に襲われた。どうしてヤコブと目が合った時、目を逸らしたのか。屈託なく手を挙げ、挨拶出来なかったのか。咄嗟に判断をヤコブに委ねた自分が恥ずかしかったし、同時に、そっといなくなったヤコブに、猛烈に感謝していた。
 混迷した僕の気持ちは誰にも気づかれることなく、サッカーは続行された。僕はそれから、ゴールを一度も決めることが出来なかった。

 次の日は、僕はヤコブを門の前で待っていた。
 今までヤコブを待った時間の中で、一番苦しく、長い時間だった。
 ヤコブは来ないかもしれない、と思っていたし、それでも仕方ないと思った。願わくばヤコブが、あの時僕がヤコブに気づかなかっただけだと、そう思っていてほしかったが、あれだけしっかり目が合ったからには、それは通用しないだろう分かってもいた。

 だから遠くにヤコブの姿が見えた時は、僕は心の中、飛び上がらんばかりだった。ヤコブの名を呼びたかった、ありったけの感謝の言葉を口にしたかった。でも僕は、表面上は努めて冷静に、片手を上げて彼を出迎えた。何も変わっていないようにふるまいたかったのだ。
「アユム」
 ヤコブは、僕を抱きしめた。それはヤコブの、いつもの挨拶だった。ヤコブの体温とにおいを感じることが出来て、僕は嬉しかった。やはり叫びたかったが、ぐっと堪えた。

 ヤコブが言った。
 心臓が、どきりと音を立てた。ヤコブは僕から腕を離し、僕の顔を覗き込んだ。
 ヤコブの目は光を浴びても金色に光っていた。驚くほど長いまつ毛が、眼球に影を作って、美しい芸術作品のようだった。
「エジプシャンは毎日サッカーするけれど、日本人もそうだとは思わなかったよ」
 静かにそう言うヤコブは、でも、怒っていなかった。口角を上げ、この上ない優しい顔をしていた。
 僕はそのとき、猛烈に恥ずかしかった。そして、ヤコブへの愛情で胸が潰れそうになった。
 僕は、自分がどれほどヤコブを愛しているか、心から尊敬しているか、伝えたかった。その気持ちだけは噓じゃないと、分かってほしかった。

 僕たちは、「エジプシャン」と「日本人」だが、そしてその「ふたつ」の間には隔たりがあるかもしれないが、僕らに関してだけでは、それを越えた強い何かがあるのだと、言いたかった。だが言えなかった。少なくとも、それを言うのでは僕ではない、そう思った。
 溢れそうな感情を言葉にする代わりに、僕は手をヤコブの肩に載せた。僕は全ての思いを掌に委ねた。ヤコブに伝わりますようにと、願った。
 ヤコブは僕の手を握った。僕のより大きなその手は、やはり温かく、湿っていた。ヤコブは、こう言った。
「サラバ」
 その言葉だけで、僕は救われた。
 僕らは「サラバ」で繋がっている。僕らは間には、何の隔たりもない、僕らはひとつだ。そう、思う事が出来た。

 僕の方が、ヤコブが「ヤコブの世界の人」といるところに、出くわしたこともあった。
 僕はその日、母とゲジラの前に建っているホテルに向かっていた。金曜日、カイロの暦では休日だった。休日にはヤコブに会えないので、僕は憂鬱だった、そのうえ、大嫌いな美容室に連れて行かれるとあって、歩くたび憂鬱は増した。

 子供だった僕に、自分の髪型を決定する権利が無かった。ホテルの美容室には、当然のように母が付き添った。僕は母の言うとおりに髪を切られるのだ。

 美容室には、油絵のように化粧をしたおばちゃんや、気絶してしまうほど香水をふりかけた美容師たちがいた。僕はどちらも大嫌いだった。おばちゃんは僕を見つけるとカーラーを巻いた頭をものともせずに近寄って来ては、僕を強く抱きしめたし、美容師はというと、髪を切っている最中、ことあるごとに僕の頬や頭にキスをしてきた。僕はそのたび「子供じゃないんだ!」そう叫び出したくなった。男らしいヤコブと出会ってからは、特にその思いは強かった。

 ホテルには、3つの入り口があった。僕らの家からだと、ホテルの裏側にあたる入り口が一番近かった。このホテルには、僕も馴染みがあった。母の通っているプールや、父が通っているジムもこの中にあったし、日本人が多いザマレク地区の夏のお祭りや会合が、このホテルの中庭で行われていたからだ。

 裏口は、少し坂になっていた。僕は母のヒールを履いた足のふくらはぎの、ぎゅっと盛があった筋肉を見ながら、だらだら歩いていた。
「歩、はよう歩きなさい、焼けるやろ」
 母は珍しく、日傘を持っていなかった。汗をかくのが嫌らしく、早くホテルに入りたがっていた。
「ほら、はよ!」
 そのときも一台のバンが僕らを追い抜いて行った。
 エジプトではよくある、とても汚れたバンだった。元々白い車体が砂埃でミルクティーみたいな色になっている。
 舌打ちしながら避けると、助手席にヤコブが乗っているのを見えた。ドキッとした。バンは坂を上がりきり、従業員用の通用口の前で止まった。
 歩みを遅めた僕を、母は容赦なく急かした。
「いい加減にしなさいよ!」
 そのおかげで、僕らが入り口に着いたとき、ヤコブと、髭を生やしたおじさんが、バンの荷台を開けている所に出くわしてしまった。ふたりは、中からたくさんのシーツを取り出していた。僕は咄嗟に目を伏せた。でも、好奇心に抗(あらが)えず、やはり見てしまった。
 
 初めヤコブは、僕には気づかなかった。荷台に乗り込んでシーツをおじさんに渡すのが、ヤコブの役割らしかった。ヤコブの上半身ほどもあるシーツの塊を持ち上げ、おじさんが用意していた籠に入れてゆく。大きく腕を上げたヤコブの腋が、汗で染みになっていた。

 僕はヤコブの匂いを思い出していた。ヤコブの少し酸っぱい、ナッメのような匂いを。そしてほぼ瞬間的に、何故か泣き出しそうになった。
 おじさんは受け取ったシーツをいっぱいになると、それを通用口まで運んだ。
 その間、ヤコブはバンの中で待機していた、シャツの袖で額の汗を拭い、肩で息をしていた。そして何気なくバンの外に目をやり、そこで、僕と目が合った。

 先ほどから気づいていた僕と違って、ヤコブには覚悟が出来ていなかった。ヤコブは「あ」という顔をし、それからすぐに目を逸らした。僕がサッカーでやったときと違う、あからさまなやり方だった。いや、もしかしたら僕もあのときもヤコブくらい明らかなやり方で、目を逸らしていたのかもしれなかった。

 ヤコブはうつむいて、シーツを検分するフリをしていた。僕もすぐに目を逸らし、母のあとについてホテルに入った。そのときにはもう、今見たことは忘れようと決意していた。
「なに、あの人知ってるん?」
 母がそう言った。
 通用口に入ったおじさんは、なかなか出てこなかった。僕は今この瞬間、あの汚い、バンの中でシーツに囲まれているヤコブを思った。
「知らん」
 無関係であるふりをし続けることが、僕がヤコブとずっと友人でいられる条件だと、僕は勝手に思っていた。僕は妙な罪悪感と切なさ、そして不思議に甘美な思いに胸を粟立(あわだ)たせながら、歩いた。うだるような暑さの屋外と違って、ホテルはキンキンに冷えていた。

 翌日、僕はまた門で、ヤコブが来るのを待っていた。
 今度は僕がヤコブを許す番のはずだった。だが、どうしてもそう思えなかった。
 僕がヤコブを無視することはもちろん、ヤコブが僕を無視することに関してだって、非があるのは僕の方だと思っていた。いや、僕に側の方だと。そしてそんな考え方が、卑怯で下劣なものだと分かってもいた。つまり僕は、どうしていいのか分からなかった。

 ヤコブはいつも通り歩いてきた、笑って手を振り、僕の肩を抱いた。
「さらば」
 ヤコブは笑っていた。僕も、いつもと同じように振舞った。昨日のことに触れるべきではないと思っていたし、そうする以外僕には出来なかった。だが、ヤコブは、
「歩のお母さんは綺麗だな」
 そう言った。僕は声が出せなかった、
 ヤコブを見ると、ヤコブはにこにこ笑っていた。卑屈な笑いではなかったし、無理しているわけでもなさそうだった。

「でも、僕のお母さんも、すごく綺麗なんだ!」
 ヤコブは僕の手を引いて歩き出した。突然のことに戸惑った、ヤコブはどうやら、自分の母親に、僕を会わせようとしているようなのだ。

 ヤコブの家は、僕のフラットから3ブロックほど歩いたところにあった。ザマレク地区は高級住宅街だ。僕は正直、ヤコブがこんな場所に住めることに驚いたし、そうやって驚いた自分が嫌いだった。自分が自分側にいることが、苦しかった。

 恐ろしく古びたフラットが見えた。ヤコブの家族は、そのフラットの地下に住んでいた。ヤコブのおじさんがボアーブ(うちでいうドラえもんだ)をしているというフラットだった。ヤコブはその3部屋の家に、おじさん夫婦、お父さんとお母さん、ふたりの妹と一緒に住んでいた。

 地下だったから、家には窓がなかった。全体的に湿っていて、独特の匂いがいた。実際、床の隅には水溜りが出来ていた。そのそばで雑巾を持って笑っている人はヤコブのおばさんで、その年頃のエジプシャン女性にしては珍しく、ぴったりとしたジーンズを穿いていた。

 ヤコブのお母さんも、洋装だった。白いブラウスと茶色いフレアスカートを穿き、髪の毛は剝き出しでひとつに結んでいた。ヘジャブを被ったエジプト人女性に慣れていた僕には、それは新鮮に映った。

 急な訪問だったにもかかわらず、お母さんは僕の体を抱きしめ、大きな声で何か言った。僕にはヤコブ以外の言葉は分からなかった。妹ふたりは、そばで恥ずかしそうに笑っていた。
 お母さんもとても太っていた。美人かどうかなんて言えるような風貌ではなかった。ヤコブの妹ふたりもまるまると太り、僕はヤコブの体格の良さの理由が分かったような気がした。

 ヤコブは家族に囲まれて、嬉しそうだった。
 家族はヤコブを愛していた。それは僕にも分かった、そしてヤコブは、その家族を誇りにおもっていた。自分の母親を心から美人だと思っていたし、この場に居ないお父さんのことを、何度も何度も褒めた。

 ホテルで会ったとき、目を逸らしたのは、羞恥心からではなかったのだと、そのとき気づいた。ヤコブは僕と母に、ただ気を使っただけだったのだ。もしかしたら、ホテルの従業員に、ホテルの客は見てはいけないと、言われていたのかもしれなかった。僕は自分の卑しい思いに、また打ちのめされた。そして同時に、ヤコブをますます愛しているという実感を得た。自分の仕事を、地下の家を恥じないヤコブを、僕は眩しく思った。

「僕」と「ヤコブ」の間には、きっと、大きな溝がある。
 でも「 」に入らない丸腰の僕とヤコブの間には、僕らを遮るものなど、何もなかった。ヤコブは僕を愛してくれた。そして、僕のヤコブに対する愛は、きっとそれ以上だった。ヤコブを失うなんて、考えられなかった。僕はヤコブのためなら、何でもしたかった。ヤコブが笑ってくれるなら、どんな苦しい気持ちも引き受けたかった。

 家族に囲まれて笑っているヤコブを、僕はいつまでもみていた。
 僕はますますヤコブとふたりでいる時間を尊く思うようになり、その思いを隠さなかった。僕たちは、まるで許されない恋をしている恋人たちのように、蜜月を重ねていった。



 19
 僕とヤコブが蜜月を重ねて行くように、姉と牧田さんも、その頃には学校中の噂になるほど、仲の良いふたりになっていった。
 牧田さんは、僕らと同じバス停を使っていた。姉と牧田さんはバス停で会うと、当然のようにふたりで並び、バスに乗り込んだ後は、隣同士で座った。そしていつまでも、小声で話し続けていた。

 同じクラスで授業を受けているというのに、休み時間も、いつもふたりでいた。お互いがトイレに行くときは、トイレの前で待ち、帰りのスクールバスでも、隣りあって座った。バス停で降りた後は、ほとんど日が翳(かげ)ってくるまでふたりで話し込み、ときには家の電話を使っても話し続けた。あまりの濃厚さに、大人びた生徒たちでも、さすがにからかわずにおれなかった。

 姉は幸せだっただろう。だが僕にといって迷惑な話だった。廊下で誰かに会うと、
「あ、圷さんの弟だ」
 と笑われ、悪い時には、
「牧田さんの弟だ、お兄さん元気?」
 そうからかわれるのだ。
 自分の姉の恋を、こんなに狭い世界で目撃するのは苦痛だったし、時々牧田さんが僕を見つけ、家族のように親し気に笑いかけてくるのも、気持ちが悪かった。

 僕から見ても、牧田さんはいい男だった。すらっと背が高く、肌は滑らかで、いつもこざっぱりした服を着ていた。なんていうか「貴族」って感じだった。僕には、牧田さんが姉のような人間と一緒にいたがる理由が全く分からなかった。母の選ぶ綺麗な服を着ていても、姉はやはり「ご神木」といった感じだったし、姉のクラスにも、他のクラスにも、姉より可愛い女の子はたくさんいた。姉はどこにいても、正直「一番可愛くない部類」に属する女の子だった。そんな姉が、牧田さんと、雛鳥みたいにいつもくっついているのだ。

 僕は、恋愛の不思議を思わずにはいられなかった。
 牧田さんといるときの姉は、よく笑い、熱心に話し、家にいるときとは全然違った。
 姉も「圷家の「不穏」には、もちろん気づいていた。
 母はもはや、僕らの前では憚らず泣くようになった。母の隣にはいつもゼイナブがいて、母と一緒に涙したり、母の背中を撫でたりしていた。父が帰宅してからは、深夜まで言い争う声が聞こえた。ほとんど一方的に母が怒鳴るだけだったが、時折、あの大人しい父が声を荒げていた。そのたび、僕の心臓はキュウと縮みあがり、毎度毛布を頭まで被り直さなければならなかった。

 隣の部屋で、姉はどんな風に思っていたのだろうか。広い家だったが、両親の「不穏」は、一番奥にあった姉の部屋まで、きっ届いていたのに違いなかった。だが僕と姉が、「そのこと」について話し合うことはなかった。

 姉と話し合う事で「そのこと」が現実になるのが怖かった(それは紛れもない現実だったが)。こうやって知らないふりを続けていれば、いつしか「不穏」は圷家から去るだろう、僕はそう思っていた。
 だが「不穏」は、速度を増した。
 6月に入ると、父が突然も一時帰国すると言い出したのだ。
 カイロに来てから今まで、一度も帰国した事などなかったのに、今更そんなことを言い出したのは、最近の「不穏」が原因なのだと、すぐに分かった。母は、父の意見を聞いて、ほとんど半狂乱になって怒った。
「私は絶対に帰らない」
 ほとんど何かに誓うように、母は頑なだった。
「あんたも帰らせてへんから」
 父と母は、毎晩話し合いを続けていた。だが、結局話し合いは決裂したようだった。父は帰ることを止めようとしなかったし、母もそれを許そうとしなかった。

 今や圷家の嵐は姉でなく、母だった、母は、もくもくとご飯を食べいたかと思ったら、急に「ああ」と大きな声を出して立ち上がったり、3秒に一度大きな舌打ちをして、家の雰囲気をこれでもか、というほど悪くしていた。
 姉は、そんな母を静かに見守っていた。

 関係性は良好と言えなかったし、そもそも姉は圧倒的に父派だった。だが、姉と母の間で、ある共通認識が、いつの間にか出来ていたみたいだった。驚くことに姉は、今回のことで、母ではなく父に対して嫌悪を示しているようだった。父が帰宅しても、出迎えには行かず、朝食の席で一緒になっても、父を見なかった。それは姉の年齢によくある反抗期とは違った。姉は明らかに父を避けており、その原因は確実に両親の「不穏」にあった。

 だからといって姉は、母の味方をするような性格ではなかった。父の事を嫌悪するが、そのことで取り乱している母を、わずかに軽蔑しているようだった。母のやり方はまったくみっともなかったし、騒々しかった。静かにソファに座っているつもりでも、全身から「私はかわいそう」のオーラが出ていて、やかましかった。

 その姿は、母が姉の母であることをまったく証明するものだったが、小さい頃、どんなに暴れても訴えても、自分の思いを汲んでもらえなかった(と姉自身が思っている)経験を持つ姉は、母を完全に許そうと決めたわけではなさそうだった。

 僕はというと、ただただ困惑していた。
 僕は、父も母も好きだった。何より彼らの「不穏」の原因を知らないのでは、行動のしようがなかったし、ではその理由を聞く勇気あるかというと、やはりなかった。僕が選ぶのはいつだって中庸である事だった。そしてここでは、それは逃亡を意味した。

 母が泣いていると、僕はその姿が見えないところへ逃げた。父と母の言い争う声がすると毛布を頭まで被り「サラバ」を言い続けた。そして、家とは関係ない様々なことを頭の中で想像し、現実の声を追い出した。

 想像が毎晩続くと、いつしかそれは物語になった。僕は頭の中で竜に乗って宇宙を飛び、目の覚めるような綺麗な猫に傷をいやしてもらい、夜の終わりには、平和で美しい森で眠った。そしてその想像には、必ずヤコブが寄り添ってくれた。僕がピンチのとき、絶対に助けてくれるのはヤコブだったし、時折は勇気を出して、ピンチに陥ったヤコブを、僕も助ける事が出来るのだった。
「サラバ!」
 そして朝になると「なんてさわやかな朝なんだろう」というような顔して、腫れた目をした母に屈託なく挨拶し無言でコーヒーをすすっている父に今日の予定を話し、今では大抵無視を決め込む姉まで、昨日見た夢を話した。つまり僕は「圷家の明るく無邪気な末っ子」を演じ続けるまだ。

 宣言通り父が帰国すると、圷家はとても静かになった。
 元々、父はとても無口な男だった。母に暴言をぶつけられても、おおよそ受け身の態勢でそれをやり過ごし、時折声を荒げた後は、羞恥で耐えがたいといった感じで俯いて、それ以降じっとしていた。

 休日になると、朝早くからスポーツクラブに出かけ。もう充分引き締まって痩せている体を苛め、疲れ切って帰って来た。父はまるで、苦行に耐える僧侶のようだった。そしていつしか、家にいるときも、僧侶のように、全身から沼のような静けさを発するようになった。

 そんな父が数週間居なくなったところで、圷家は何も変わらないだろうと思っていた。

 でも、違った。父の存在は、とても大きかった。
 玄関に、バスルームに、リビングに残った父の残滓(ざんし)は、決して消える事はなかった。その残滓は、静けさを発した。それはほとんど実際の温度を低くしてしまうほどの静けさだった。父の不在は圷家を砂嵐のように覆い、かえって静かなその部屋では、母は泣かなくなった。ゼイナブと共にキビキビと家事をし、今までで最高に奇抜なお洒落をした。

 父が不在の間に、事件が起こった。
 カイロで暴動が起こったのだ。
 暴動の理由は僕には分からないが、あれよあれよという間に規模が大きくなり、制圧には軍が出動した。そしてとうとう、外出禁止令が布かれるようになった。当然学校は休みになり、僕らは一日家にいることを命じられた。

 母は、このうえなく不安そうだった。ゼイナブもジョールも、出勤することは出来なかったし、父はいなかった。母は、僕と姉を、ひとりで守らなければならなかった。

 幸い、終日の外出禁止令は数日で解け、一日数時間の禁止令になり、やがて夜間だけの外出禁止令になった。だが、エジプトで暮らしていて一番恐ろしかった時期に、父が家に居なかったことで、母は父への不信を決定的なものにした。父からは何度も電話があったが、その度母が、これ以上ない辛辣な言葉を浴びせていた。当然、僕たちは決して代わってくれなかった。

 一日の内、数時間だけ外出禁止令を解かれるときも、母は、僕たちの外出を許さなかった。僕はヤコブに会いたくてたまらなかった、家の中の空気は、決定的に悪くなっていた。姉は部屋でずっと牧田さんと電話していたし、母あらゆる場所で、ずっと泣いていた。僕は息が詰まりそうだった。せめて外の空気を吸いたくて、毎日ベランダに出た。

 ある日、何時ものようにベランダから外を見ていると人影が見えた。
 ヤコブだった。
 ヤコブは外出禁止令の合間を縫って、僕に会いに来てくれたのだ!
 僕はほとんど、ロミオに恋をしているジュリエットの気分だった。ヤコブは僕に手を振り、僕もヤコブに手を振り返した。それだけだった。でも、僕は毎日、ヤコブが来るのを待ち焦がれるようになった。ヤコブは、禁止令が解除される時間になると、いつも律儀に姿を現した。僕らはベランダ越しに見つめ合った。それは、言葉を交わし、抱き合う以上の濃密な時間だった。

 暴動は数週間で治まった。母はほっとしていたが、目の下に出来た黒い隈は、いつまでも取れなかった。

 ようやく再会した僕とヤコブは、ますますお互いへの愛情を高めていた。僕らは手に手を取り、ほとんど駆け落ちするような気持ちで、ゲジラ島から出るようになった。

 島を出るには、ナイル河を渡っている、車が行き交う大きな橋を歩かなければならない。
 僕達は男同士、しっかり手をつないだ。橋を渡り、ゲジラ島の対岸から自分たちの住んでいる島を眺めた。まるっきり都会のただ中で、僕たちの気分は完全にトム・ソーヤ―とハックルベリー、フィンだった。あるいは、それ以上だった。

 初めは橋を渡り切ったあたりで満足していた。だが、僕たちは段々大胆になっていた。河沿いを歩き、エジプト考古学博物館や、タハリール広場まで行くようになった。遠足でしか来た事のない場所に子供だけで来ているスリルは、言葉では言い表せなかった。

 道行く人は、必ず、エジプシャンの子供と東洋人の子供という、おかしな組み合わせを見た。中には色々と話しかけてくる大人や子供がいたが、それはヤコブがうまく話をつけてくれた。
 ヤコブは、僕に与えた印象を、エジプシャンに対しても与えられる人間だった。つまり、とても大人っぼく、高貴な人間という印象を。着ているものはいつも古びていたし、サンダルは相変わらず汚かったが、しゃんと背中を伸ばして歩く姿は凛々しかったし、笑う時に見せる真っ白な歯は、皆をたちまち魅了してしまうのだった。

 不思議なことに、僕はヤコブといると、「彼ら」に対する卑屈さを忘れることが出来た。心から、純粋に一緒にいたいと思えるエジプシャンの友達といることが、僕の罪悪感を和らげるのだったし、驚くことにヤコブ自身も、「彼ら」に対して、僕と同じような対応を見せていたからだった。

 ヤコブは、「彼ら」が来ると、困ったような顔で笑った。決して乱暴はしなかったし、怒鳴ったりもしなかった。「彼ら」は僕にしつこくつきまとったが、僕とヤコブが身を護るように、ふたりだけの世界に没頭し続けていると、やがて飽きてどこかへ行ってしまった。そんなとき、心からほっとしたような表情をするところも、僕とヤコブは似ていた。

 一度だけヤコブが「彼ら」に対して怒ったことがある。「彼ら」が、ヤコブのことを、何ごとか野次ったのだ。

 僕にはヤコブの言葉はわかったが、エジプシャンの言葉は相変わらず理解できなかった。でもそれはきっと、いつも僕たちに浴びせられる、他愛ない野次と同じだろうと思っていたし、普段のヤコブは、そのときヤコブは、そばにあった空き缶を拾い「彼ら」に投げつけたのだった。僕は心から驚いた。そんなヤコブを見たのは初めてだったのだ。「彼ら」は逃げたが、ヤコブは怒りが収まらなかったらしく、目に付いたものを次々と、もう逃げていった「彼ら」にぶつけていた。

 暫くして、我に返ったヤコブは、僕に詫びた。とても、恥ずかしそうだったが、同時に、まだ怒りが収まっていないようだった。
「大切なものを、馬鹿にされたんだ」
 ヤコブの声は低く、乾いていた。僕は静かに、ヤコブの肩を叩いた。
「サラバ」
 ヤコブは、僕を見た。その目が安堵で濡れていた。
 僕たちは、ほとんどその言葉にすがるようになっていた。
「サラバ」
 ヤコブは、肩に置いた僕の手を握った、そしてまた、あの高貴な笑顔に戻った。
「サラバ!」
 それは、ほとんど魔法の言葉だった。

 ヤコブには、あれから何度か家へ招待を受けていた。
 僕はお父さんにもおじさんにも、つまりヤコブのすべての家族に会っていた。(痩せていたのは、ヤコブのおじさんだけだった)、いつ行っても、家族は僕を歓迎してくれた。僕は湿った居間のソファに座り、皆からお茶を注いでもらったり、お菓子をもらったり、ときどきワケもなく抱きしめられたりした。

 ヤコブの家族は、最高に優しかった、僕は段々、ヤコブの家に本当の居心地の良さを感じ始めていた。家の中は、温かい何かに溢れていた。そしてそれは、当時の僕の家には、決してないものだった。

 家に招待を受けたのに、反対に僕がヤコブを招待することはなかった。
 僕は恥じていた。綺麗なシャンデリアを、磨かれたアップライトピアノを、なのにヤコブの家にある柔らかなものが欠如した空間を。あの「不穏」を。
 
 ヤコブは、僕が招待しないことを責めるようなことはしなかった。僕はそれに感謝し、ときどき意味もなく「サラバ!」と言うことがあった。ヤコブはその度、ちょっと驚いたような顔をして、でもすぐに言い返してくれた。
「サラバ!」
 僕はそれを聞くと、自分がとても明るく、健やかで、敵意のない世界にいると思えた。僕はひとりではなく、皆から愛された幸福な子供なのだと、思うことが出来た。
 サラバ。

 あのとき欠落していた僕の穴を埋めてくれたのは、ヤコブの「サラバ」だった。
 母も姉も、僕がまさかエジプシャンの子供の家に遊びに行き、ゲジラ島を出ているなんて思いもしなかっただろう。ふたりとも、僕に構っている暇はなかった。特に母は、いつだって深刻だった。思い悩み、時折声を上げて泣き、暫くすると、黙って中空を見ていた。

 家での僕は、ヘラヘラと笑い、無邪気さを装うって存在を消す、ただの子供でしかなかった。僕の心は、外にあった。僕は出来る限りの時間をヤコブと費やした。
 禁止されている生水を飲み、屋台で売っている得体の知れないお菓子を食べ、そしてヤコブの家で家族に愛された。

 時々、心から本気で、ヤコブの家の子供になりたいと思った。その思いが、母は裏切ることになると分かっていたが、そう思うことは、止められなかった。



 20
 父がカイロに戻ってくると、母と父との関係にも、変化が現れた。
 泣き叫び、朝まで話し合っていた時間はなくなった。その代わり、お互い、そこに居ないかのように振る舞うようになった。母は朝食を作ったし、父はその朝食を食べた。それは明白で大切な家族の繋がりのはずだったが、でも、ふたりは、ただ朝食を作り、ただ食べる人だった。そこで綺麗に、断絶していた。

 母が感情を発露しない分、ふたりがどうなっているのかは、ますます分からなくなった。父はどんどん痩せ、母はソファに座り続けた。相変わらず着飾って、ふたり揃ってパーティーに出かけるときもあった。だが、僕がホッとしているのは少しの間だけで、帰宅後は見知らぬ人といるようなふたりに戻った。

 僕は正直、以前の騒々しい「不穏」の時の方がましだと思った。
 騒々しい「不穏」のときは、毎度毛布を頭まで被らなければならなかったが、静かな不穏のときは、毛布をぐるぐる巻きにしなければならなかった。「不穏」は容赦なく寝室に侵入し、僕の耳や鼻や、自分で了解していない毛穴から、僕の体内に滲んできた。僕はより強い物語を、より明瞭な「サラバ」を必要とした。僕は眠っている間、自分の部屋に結界を張っているようなものだった。静かでたちの悪い「不穏」を寄せ付けないために、僕は夜だけ陰陽師になった。

 僕らが4年生になった夏、向井さんが帰国することになった。
 正確には、カイロを離れ、お父さんの新しい赴任先であるモロッコに行くことになったのだ。エジプトを心から愛していたお母さんだったが、モロッコのエキゾチックな街並みに惹かれたらしかった。

 向井さんは数日落ち込んでいた。それを告げられた僕たちクラスメイトも、落ち込んだ。避けがたいことであったが、僕たちにとって精神的支柱であった向井さんがいなくなることは、相当のダメージがあった。

 中でも最も落ち込むべきは、僕のはずだった。僕が向井さんのパートナーであることは、クラスの誰もが認める事だったし、僕らも皆の前ではそう振る舞っていた。でもその実、僕らは間には「キミワヒワイダトッ!」事件のわだかまりが、まだ尾をひきずっていた。あのときかに向井さんが僕を避けだしたのは明らかだった。そして、そのことが大いなるスプリングボードになって、僕はヤコブへ事実上の鞍替えを果たしたのだし、実際僕の頭の中は、ヤコブのことでいっぱいだった。

 向井さんが帰国すると日、でも僕は泣いた。
 僕だけではなかった。クラスメイトの皆、女子たちも泣いた。皆、自分たちに訪れた劇的な出来事に、がっちり心を捉えられていた。
 特に「卵かけご飯事件」の玉城さんの泣きっぷりは凄かった。空港の床に座り込み、両手で頬を覆って声を上げる様子は、大金で雇われた人のような迫力があった。

 玉城さんの周りには女子たちが輪を作っていた。玉城さんを慰めながら、共に泣いていた。
「向井さんの事、好きだったもんね、ねぇ」
 玉城さんにまったく興味がなかった僕でも、その言葉にはショックを受けた、女って。そう思った。
 のちに分かったことだが、玉城さんはおよそ考えられる、あらゆる男子生徒に好意を示していた。そのことが原因で、玉城さんを慰めるために優しい輪を作っていた女子たちに、軽くハブられることになった。
 女って!
 残念ながら、僕らは成長していたのだ。
 僕と向井さんは、お互い手紙を書こうと約束して別れた。しかしその約束も、反故(ほご)になった。
 原因は、牧田さんだった。
 姉は、相変わらず牧田さんとくっついていた。だが、今まで彼らの間に漂っていた「世界はふたりだけのもの」感は去り、代わって老齢の夫婦にあるような乾いた空気、不躾(ぶしつけ)な雰囲気が支配するようになっていた。
 特に変化したのは、牧田さんだった。
 元々、とてもノーブルでフェミニンな雰囲気があったが、それに拍車がかかった、というより、過剰になった。例えば姉と一緒にいるとき、牧田さんは良く笑ったが、笑う時に口に手を当て、体をくねらせるようになった。校内で僕に会った時にも、口角を上げて優雅に笑うのは変わらなかったが、僕に積極的に話しかけるようになった。こんな風に。

「歩君、元気なのぉ?」
 つまり、そういうことだった」
 牧田さんは、僕とヤコブのように精神的ホモセクシャルではなく、真正のホモセクシャルだったのだ。ただ、牧田さん自身、自分のセクシャリティをこれまでわかっていなかったようだ。姉といると、とても気が楽だった。セクシャリティの部分ではノーマルだったが、姉自身のアイデンティティが、マイノリティだったからだ。

 つまりふたりはマイノリティの塊同士で、共鳴し合ったのだ。
 なんとなくモゾモゾとした感情を抱えながら、牧田さんは日々を過ごした。姉といると心地よかったが、皆がからかうような感情を、姉に対して持つことは出来なかった。

 そしてある日、牧田さんは自分のセクシャリティを知る事になったのだ。
 あの雑誌で。
 驚くなかれ。僕と向井さんが音楽室に隠したあの雑誌を見て、牧田さんは自分のセクシャリティに目覚めたのである。
 図らずも僕は、間接的に、姉の恋を終わらせてしまったのだ!
 牧田さんがあの雑誌をどうして見つける事になったのかは、牧田さん自身が教えてくれた。
「あの雑誌、歩君が持って来たんでしょうぉ?」
 おそらく、僕のリビングだったと思う、姉がどうしてその場に居なかったのかは、覚えていない。台所にジュースを入れに入っていたのか、自分の部屋に何かを取りに行ったのか、とにかく僕と牧田さんは、ふたりきりだった。

 驚き、黙り込んだ僕に、牧田さんは優しかった。
「違う違う、責めててるんじゃないよ? あの雑誌、僕が読んだ後、きちんと隠さなかったから、先生にバレちゃったんだよね。それを謝りたくて」
 どうしてあの雑誌のことを知ったのか、とか、そういうことを訊いたのだと思う。でも僕は、それを聞くころにはもう、分かっていた。
「向井さんが、教えてくれたのー」
 僕は向井さんに、一度も手紙を書かなかった。僕と向井さんとの友情は終わったのだ。そしてそれと同時に、姉と牧田さんとの恋も終わりであった。

 向井さんのことをきっぱり忘れ、僕はますますヤコブに没頭した。ヤコブの家で家族のように過ごし、ヤコブと手をつないで街を闊歩(かっぽ)した。
 圷家の3人は、それぞれに暗い時期を過ごしていた。僧侶のような父と、その父を許さない母、初めての恋に破れた姉。僕は3人を、避けて過ごした。ヤコブと離れると、僕は「サラバ」の結界を張った。圷家の静けさに、絡め取られてしまわないように、自分の心を結界の奥深くに仕舞い込んだ。
 自分の部屋にいても、リビングに居ても、僕は耳と目と心を閉ざしているようなものだった。

 1987年は、概ねそんな風に過ぎようとしていた。
 僕の結界は、すっかり強固なものになっていた。物語を作るのはお手のものだったし、僕は母の泣き声を、物語のBGMにすることすら出来た。圷家の中で唯一健やかな人間、それが僕だった。
 だがそんな強固な僕の結界を、ある日母が破った。
 僕が夢を見ていた。冬だ。夢の中で僕は、相変わらず自身が作った物語の中にいた。様々な危機はあったが、僕の物語の中で、僕は必ずハッピーエンドの申し子だった。僕は安心して眠っていた。そろそろ、ヤコブが出てくる頃だったからだ。
 だが、体を強く揺さぶられ、僕の夢は途絶えた。ヤコブには会えなかった。現実に戻った僕の目の前に、母の顔があるだけだった。
「歩、日本に帰るよ!」
 母は泣いていた。暗がりの中、母の頬が涙で光っていた。
 母は僕を抱き起こし、驚くことに、ぎゅっと抱きしめた。母に抱きしめられたのなんて、数年ぶりの事だった。

 僕は気恥ずかしくさと、大きな困惑を感じていた。怖れていたことが決定的になった恐怖におびえながら、同時に、母に力一杯抱きしめてもらっていることの、肉体的な歓びに驚いてもいた。
 僕は母の胸の鼓動を聞いた。
 そのとき強烈に、「僕はお母さんの子供なんだ」そう思った。
 現実の世界では、様々に逃れられない事がある。これもそのひとつだった。僕はどうあがいても、抗っても、どうしようもなく、母の子供なのだ。

 帰ろうと言った母は、本気のようだった。
 僕の学校にかけあって僕に休みを取らせ、早々に荷造りを始めた。僕は戸惑った。それはそうだ。日本に帰る? しかも、見る限り、母は僕だけを連れて帰るつもりのようだった。
 姉に救いを求めると、姉は、僕の事を鼻で笑った。
「いいじゃない、あんたはいつだってあの人に選ばれてきたんだから」
 こんなときに拗ねるなよ、そう言いたかった。だが、僕が勇気を奮い起こしたときには、姉はもう、自分の部屋に引っ込んでしまっていた。

 実際の所、母は姉に帰ろうと言っていたのだ。でも、姉は断固として断った。ここ最近の両親の不仲に、家の中が乗っ取られていることに、姉もイライラしていたのだ。両親だからといって、同居している子供の気分を害する権利はないはずだというのが、姉の主張だった。

 かつてあれだけ圷家は「不穏」に巻き込んだ姉が言うのは、いささか説得力が欠ける。だが、ようは、いつだって大人の都合に振り回され、挙句選択権がない自分たち子供の境遇への、怒りの表明だったのだろう。
 大人の都合に振り回されることに関して言えば、一番の被害者は僕だ。
「僕、転校するん?」
 荷造りを終えた母に、僕はそう言った。ほとんど、泣きそうだった。
「また?」
 そう言った事が、僕なりの反抗表明だった。だってそうじゃないか。急にエジプトに住むと言われて、エジプトくんだりまで来た、そして、やっと慣れて来た頃に、また急に帰るなんて言われるのだ。

 ヤコブはどうなるんだ? 何より、僕の気持ちは?
 自分を徹底的に「被害者」と認識していた母だったが、僕の表情を見て初めて、わずかばかり残っていた母性を復活させたようだった。

 僕の手を取り、笑顔を作った、いかにも「慈愛に満ちた」笑顔、といった感じだった。
「違うよ、ちょっと帰るだけ」
 母はなんとか、僕を安心させたがっていた、僕はも一度見せられた「母の顔」に感化され、束の間子供に返った。
「ちょっと、てどれくらい?」
 僕としては、珍しくしっこい、反抗的といっていい態度だった」
「なあ、どれくらい?」
 でも、少し頭に乗り過ぎたようだ。
「ちょっと」
 母の顔言い方は優しかったが、それ以上の質問を許さない頑なさがあった。
 僕は口を噤んだ。そして得意技を繰り出した。
 僕の得意技は? そう、諦めることだ。

 諦観に寄り添う事で、僕はこれまで生きて来られた。生き延びてこられた、といってもいいだろう。一方、母は「子供は、親の言うことに従うもの」という感覚を、全く疑う人ではなかった。僕たちはだから、相性のいいふたりだったのだ。
 僕は母の「ちょっと」を信じた。信じざるをえなかった。
 僕たちは静かに、カイロを発った。


 21
 飛行機の中で、母はこの期に及んで泣いていた。
 だが、日本が近づいてくると、嬉しさからか、段々明るい顔を見せるようになっていた。憂鬱だった僕でも、日本に久しぶりに帰ることが出来ると思うと、自然に高揚してきた。

 空港には夏枝おばさんが来てくれていた。僕らを見ると、細い腕をあげ、にこりと笑った。
「歩くん、えらい大きくなって!」
 夏枝おばさんは、褒め言葉でそういってくれたのだと思う。でも僕は、急に大きくなってしまった自分が恥ずかしかった。夏枝おばさんを裏切ったような気分だった。僕は夏枝おばさんの前で、ことさら昔と変わらない自分を演出することにした。子供ぶったり、つまらないことに歓声をあげたりして、夏枝おばさんを安心させようとしたのだ。

「大きなったなぁ」
 でも、夏枝おばさんは、タクシーの中で、そればかり繰り返していた。
 僕らは自宅に向かわず、そのまま祖母の家に向かった。
 祖母は家の前で、僕らが来るのを待っていていた。強く、泣いたことが無かった祖母が、タクシーから降りた僕の姿を見て涙ぐんだのには、僕も胸が詰まった。

 荷解きもそこそこに、母は祖母と台所のテーブルに座って、熱心に何やら話し始めた。
 僕はその話を聞かないようにした。このタイミング、そして熱心さであったなら、圷家の「不穏」に関することに違いなかったからだ。母国に戻っても、僕の逃げの姿勢は、一貫していた。

 僕は炬燵(こたつ)に入り、祖母が作ってくれた、懐かしくも茶色い料理をたらふく食べ。夢のように多い日本のチャンネルをさんざんザッピングし、信じられないほど美味しいお菓子を食べた。その瞬間に関しては、完全にカイロのことを忘れていた。
「炬燵最高」
 僕が言うと、夏枝おばさんは、
「良かった」
そう言って笑った。
 その日は、祖母の隣で眠った。夢を見た。どんなだったか忘れてしまったが、多分ヤコブが出てきた。

 翌朝目を覚ますと、隣に、もう祖母はいなかった。
 台所に行くと、テーブルで母と夏枝おばさんが話していた。母の顔はだいぶ晴れやかになっていった。僕は家族の強さを感じた。だがその家族のせいで、僕達はこのような状況に陥っているのだから、厄介だった。
「歩、矢田のおばちゃん覚えてる?」
 矢田のおばちゃん!
 声をあげそうになった。姉をあっという間に手なずけ、地域の王様のような存在だったおばちゃん。僕が矢田のおばちゃんを、忘れられるはずもなかった。背中の弁天様は、まだあるのだろうか? たくさんの猫たちや犬たちは、まだそこにいるのだろうか?
「矢田のおばちゃん? 覚えているよ! 歩も行くやろ?」
 僕と母は、確実に日本を楽しみ始めていた。
 矢田のおばちゃんの家に歩いて行く途中、母は様々な場所で歓声をあげた。主に「懐かしい」という歓声だったが、たまに変わったことに対して興奮しているときもあった。
 空は晴れ、澄んでいた。カイロの空に似ていたが、何かが違った。

「矢田のおばちゃんは、全然変わってへんよ」
 夏枝おばさんが言った。
 矢田マンションは、果たして変わらず、そこにあった。木造二階建て、古い外観。ただ、姉が様々なものを埋葬した空き地は、3階建てのマンションになっていた。
 矢田のおばちゃんは、僕を見て、大声を出した。
「いや! もう人間やん!」
 矢田のおばちゃんといるとき、僕はまだ人間ではなかったらしい。
「背もえらい高(たこ)なって!」
 圷家の遺伝子は、姉だけでなく。僕にも及んでいた。背がみるみる伸び、今では年上の生徒と同じくらいになっていた。ヤコブには、遠く及ばなかったが。
「入り、入り」
 おばちゃんの家は、懐かしい匂いがした。香ばしい、何かを煎ったような匂いだ。ここに昔、姉は入り浸っていた。僕は矢田のおばちゃんにおしめを替えてもらった。
 一本だけ脚が短くて、座るとガタガタする炬燵、小さなテレビの上に置かれた虎の置物と何かのトロフィー。敷地内にたくさんの猫がいること(残念ながら、野良犬の姿はみえなかった)や、おばちゃんが出してくれるおまんじゅうまで、昔と全く変わっていなかった。母は変わらない矢田のおばちゃんを笑い、おばちゃんは変わってしまった僕を笑った。

 たが、そんなおばちゃんの家で、変わったことがひとつあった。その変化は、ちょっと驚くべきものだった。
 奥の部屋の壁際に、大きな祭壇がしつらえてあったのだ。
 白木で三段の枠組みを組み、一番下の段には、お酒の一升瓶や果物などが置かれていた。二段目には升に入った米、封筒に入った何か、そして数珠と木で彫られた花の置物、最上段には、お札が置いてあり、お札にはこう書いてあった。
『サトラコヲモンサマ』
 僕らがおばあちゃんの家にいる間、女の人がやって来た。おばちゃんが部屋に入れると、僕らがいるのも気にせず、まっすぐに祭壇へ行った、そして、お祈りを始めたのだったが、それがまったく、妙なものだった。まず、両の掌を畳につく。そして目を瞑り、何事が唱えながら、掌を交互に持ち上げる。ちょうど、手を足踏みをしているような感じだ。見てはいけないとは分かっていても、女の人のおかしな動きが気になって、目が離せなかった。

 おばちゃんは、女の人の後ろで、じっと座っていた。
 母は、一連のことに面食らっていた。ただ、「何やってんの?」とぶしつけに訊くようなことはなかった。カイロの日本人会で、彼女なりの社交術を身につけていたのだ。母は夏枝おばさんに目で合図を送ったが、夏枝おばさんは慣れているのか、それとも危機の合図の意味を分かっていないのか、小さく頷いただけだった。

 女の人は、どうやらお祈りを終えると、バッグの中から封筒を出し、祭壇の二段目に置いた。その際、また深々と頭を下げ、矢田のおばちゃんにも頭を下げた。
「ほんまに、サトラコヲモンサマのおかげですわ」
 おばちゃんは、
「良かったやないの」
 うっとりするほどの威厳で答えた。
 女の人が帰っても、母たちは話さなかったし、夏枝おばさんにいたっては、無言の時間を苦痛に感じる人ではなかった。
 僕達は、なんとなく気詰まりな様子で家を後にすることになった。腰を上げて僕に、おばちゃんは、
「ほんま、ちゃんと人間になって!」
 もう一度そう言った。

「なんで教えてくれへんかったん!」
 帰り道、母は夏枝おばさんの肩を叩いた、姉妹だから出来る、親しみのこもった仕草だった。
「何を?」
「何をって、あんななんか、宗教みたいなんなってるなんて」
「宗教っていうか、まあ祭壇を作って、お祈りするだけやけどな」
「それが宗教やん! なんか変な名前つけたヤン? なんとかコウなんとかって」
 母は新しい知識を覚えるのが、苦手な人だった。
「サトラコヲモンサマね」
「それ!」
 声に出して言いたくなる言葉だ、そう思った。さとらこをもんさま。
「何なんそれ?」
「知らん、うちらも気づいたら出来ててん」
「祭壇が?」
「そう。まあ、前からおばちゃんのところには、困った人が来ていたからなぁ」
「それで宗教にしたわけ?」
「宗教やないと思うよ」
「だって祭壇作ってさあ、なんかお布施みたいなんももらったやんか」
「でも、あれはおばちゃんがくれって言うてるわけないからな」
「勝手に持ってくるってこと?」
「勝手にっていうか、お礼がしたくて持ってくるんやない?」
「おばちゃんに? なんかかんかさま?」
 さっきより酷かった。さとらこをもんさま、だ。
「うーん、一応サトラコヲモンサマに、やない? 結局おばちゃん宛にはなるけども」

 冬の陽射しは淡く、道の端で揺れている小さな雑草を柔らかにに照らしていた。カイロとは、光が違った。冬の光でも、カイロのそれは、すべてをつまびらかにするような朗らかさがあった。でも、日本の光は、影すら遠慮がちに地面に横たわり、つまり情緒があった。
 夏枝おばさんは、ふと僕を見た。
「寄ってく?」
 いつかの神社の前だった。小さな頃、おばさんにおぶわれて行った、あの神社だ。
「うん」
 神社は、記憶よりうんと小さかった。あれだけ怖ろしかった狛犬(こまいぬ)も、おどろおどろしく見えた境内も、拍子抜けするくらい普通に、そこにあった。僕はそのときやっと、夏枝おばさんよりやや高いが、僕のことを大きくなった、と散々に驚いたことを理解できた。

 あのときは、姉が一緒にいた。僕はうんと小さく、夏枝おばさんの腕にすっぽりと抱かれていた、狛犬を蹴ったり。むしり取った苔を賽銭箱に放り込んだり(どのような暴虐も夏枝おばさんは見逃していた!)、神をも恐れなかった姉は、父のTシャツをワンピースみたいに着ていた。つまり、やはりとても小さかった。

 おばさんはポケットからガマ口を出して、10円玉を僕と母渡してくれた。母はこういうとき、もちろん、自ら進んで金を出すタイプではなかった。
 3人同時に10円を投げ、つかのま手を合わせた。そのとき、僕は自分がこの神社でお祈りをするのを初めてのことだと気づいた。あのときは、幼すぎた、ここが祈る場所だということを、僕は知らなかったのだ。ただ僕は、夏枝おばさんが熱心に手を合わせているのを、眺めているだけだった。

 ふたりを真似て手を合わせたものの、僕は何を祈っていいのか、分からなかった。
『あの、まあ、よろしくお願いします』
 心の中でそれだけ言った。目を開けた。自分でも迫力がないなぁと思う祈りだった。
 祈りを終えて初めて、ああ、こういうとき我が家の「不穏」を直してください。とか、そういうことを頼むものだと気づいた。でも、目を開けると、母はすでに祠(ほこら)から離れ、退屈そうに玉砂利を蹴っていた。拍子抜けしてしまった。おそらく一番お祈りをしなければいけない立場にあるのは、母のはずなのに。

 母とは対照的に、夏枝おばさんは、熱心に、いつまでもお祈りしていた。僕はそのとき、小さかった頃の母と夏枝おばさんを、見たような気がした。

 日本にいる時間は、あっという間に過ぎていった。
 僕らは慌ただしく好美おばさんに会い(幸いなことに、義一と文也には会わなかった)、2泊ほど、母とふたりで懐かしい我が家に泊まって(姉の部屋の巻貝は、そのままにされていた。やはり夏枝おばさんだ!)、やっと時差ボケが直る頃には、もうカイロに戻らなければならなかった。
 何故日本に帰って来たのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 でも、日本を存分に楽しんでしまったからには、文句は言えなかった。僕は数キロ体重を増やし、カイロではおよそありえない最新のおもちゃや漫画を大量に買ってもらっていた。それに、飛行機に乗り込む母の顔から鑑みて、きっとこの帰国は、母にとって良い影響を及ぼしたのに違いなかった。それが僕にどのような人生をもたらすのかは分からなかったが、何が起ころうと、僕はお得意の諦観でもって、流れに任せようと思った。父とは違うが、あり方として似ていたかもしれない。父が苦行に耐えるそれなら、僕は、大いに流れに寄り添う僧侶のような心境だったのだ。

 今回の一時帰国で、もっとも興味深かったことは、カイロの空港に着いたときに「帰って来た」と思った事だった。

 酸っぱい体臭や叫び声、信じられないほど古びた床に汚いトイレ。初めて来たときすべてが恐ろしく、僕らを憂鬱にさせたそれらが、僕を安心させ。懐かしい気持ちにさせたのだから、「住む」という経験がもたらすものは、計り知れない。

 母も、有象無象をかき分け、タクシーの運転手を散々ねぎり、家までの道を指図出来るまでになっていた。僕達は完全にカイロに住む人だった。だがカイロは、僕たちの故郷ではなかった。
 僕達はいずれ、ここから去る人間なのだった。


 22
 家の静けさと同じように、僕らの未来も、静かに告げられた。
 僕達は、帰国することになった。そしてそれと同時に、両親も離婚することになった。1988年の春のことだった。

 それはあまりに自然な流れだった。母と父が一緒にいる意味は、僕にも正直分からなかったし、母はあの一時帰国以来、何かを決意しているように見えた。僕達は日本に一時帰国して、もう3ケ月後には、本格的に帰国することになったのだった。  

 帰国と同時に、住んでいた家を売り、代わりに祖母の家の近くに住むようになること、だから以前とは違う学校に通うことになるなどが、母の口から告げられた。
 母の口調は穏やかだったが断固としていて、やはり僕ら子供たちの非難を受け入れるような余地を見せなかった。私たちは離婚する。でも、私は悪くない。子供たちは、母親に、ついてゆくのが当然、そしてこれからは、あなたたちが私を支えなければならない。口に出して言わなかったが、母の目が、息継ぎが、びんと伸ばした背中が、そう言っていた。

 僕は母の言葉をぼんやり聞いていたが、姉は母が話している途中で立ち上がり、そのまま部屋に引っ込んでしまった。
 結局僕は、父から離婚に至った経緯を聞くことはなかった。それどころか、離婚することになったという報告すら受けなかった。父は今まで変わらず、ほとんど空気みたいな感じで家にいて、週末は朝から晩まで体を鍛えた。もはやアスリートみたいだった。

 僕は帰国することを、誰よりも先に、ヤコブに報告した。
 僕らはタハリール広場を歩いていた。大体いつも、この広場のあたりまで来てブラブラして、それからザマレク地区に戻るのが、なんとなくの僕らのコースになっていた。
 夕方だった。
 広場にはたくさんの車が溢れ返り、クラッションが鳴らされていた。ヤコブは器用に車を避け、時々僕の背中を押して、歩道側に誘ってくれた。そのたび僕は、ほとんど恋心に似た頼りがいを覚え、ヤコブの顔は眩しい思いで眺めた。

「日本に帰るんだ」
 僕がそう言うと、ヤコブは立ち止まった。
 僕とヤコブは、歩道の真ん中で、しばらく立ち尽くしていた。歩道の敷石は崩れ、雑草が生えていた。何処からか流れてきたのか、カイロの町特有のにおいが、僕らを包んだ。
 ヤコブは言葉を失っていたが、やがて口を開いた。
「神がそう望むなら」
 それは、僕が望んでいた言葉ではなかった。「なんでだよ」「いやだ」、子供の力でどうにかなるわけがなかったが、それでも僕はヤコブに、子供らしい駄々を期待していた。
 だが、ヤコブは静かだった。とても静かだった。
「神がそう望むなら」
 ヤコブは、歩こう、と言った。そして、僕の返事を待たず、歩き出した。情けないことに、僕は泣きたかった。ヤコブの代わりに「いやだ」と叫びたかった。だが、出来なかった。僕は陰鬱な顔で、ヤコブの後に従った。
 ヤコブは、僕を初めての場所に連れて行った。
 それは石造りの教会だった。僕たちがカイロでよく見る、イスラム教のモスクではなかった。丸い屋根の上に、少しいびつな十字架があり、集っている人たちは、誰もガラベーヤを着ていなかったし、ヘジャブも被っていなかった。

 僕はそのとき、初めてヤコブの宗教を知った。
「僕は、コプト教徒なんだ」
 協会はとても静かで、ロウソクの燃えるにおいがした。正面に女の人が笑っている絵が掛けられていた。
「マリア様だよ」
 ヤコブが、小さな声で説明してくれた。
 マリア様と聞いて、僕が連想出来るのは、キリスト教だけだった。僕はそのときまだ、ヤコブの言う「コプト教」とキリスト教を結び付けられないでいた。ヤコブという名前が、聖書から来ていることにも、気づいていなかった。

 なんたって、ヤコブはヤコブだったのだ。それ以外の。何者でもなかった。
 僕にとってヤコブは、唯一無二のヤコブだった。こうして僕の手を取り、
「アユム、祈ろう」
 静かにそう言うヤコブは、もう僕にとっては、なくてはならない人、ただそれだけのことだった。
「祈る?」
「そう」
「何を?」
「何だっていい。心に思いつく事を、なんでも」
 僕が畳み掛ける前に、ヤコブはもう、目を閉じていた。長いまつ毛がびっしりと瞼を覆い、何かを呟いている唇は、分厚くて、少しひび割れていた。ヤコブの耳は大きく、そこに生えそろっている毛は、金色に光っていた。その姿は、僕にそれ以上の追求を許さなかった。ヤコブが祈っている姿の完璧さに、僕は打ちのめされた。

 僕は、ヤコブの隣に膝をついた。
 ヤコブと同じように掌を組み、唇の下に持って行った。知らない神に、何を祈ればいいのか分からなかったので、目を瞑りっていようと思った。ただ目を瞑って、ヤコブの隣にいよう、と。でも、
『またヤコブと会えますように』
 不思議なことに、自然と言葉が浮かんできた。
 あの神社での僕とは、雲泥の差だった。僕は目を瞑りながら、ヤコブの気配を感じていた。ヤコブは。目を瞑っても、どうしようなくヤコブだった。僕を包み、僕を安心させ、僕が誰よりも勇敢な人間なのだと思わせてくれるヤコブの大きな力が、まるで僕の身体に直接入り込んでくるようだった。
 ヤコブ。
 僕は心の中で何度も、その名前を呼んだ。ヤコブは隣にいるのに、その気配を存分に感じているのに、僕はヤコブの体内にいるようだった。ヤコブ、ヤコブ、ヤコブ。
『それまでどうか、ヤコブをお守りください』
 僕はそのとき、生まれて初めて、自分以外の人のことで祈りをささげた。
『どうか、どうか、ヤコブをお守りください』
 どこのだれか知らない神様に、真剣に祈った。

 教会を出た僕らに、数人の子供たちが何かを叫んだ。舌を出したり、指を突き立てたりしていた。ヤコブは耐えていた。
『僕の神を否定しているんだ』
 ヤコブの言葉は分かるのに、子供たちの野次は、やはり、ちっとも分からなかった。
「こんなことは、よくあるんだよ」
 僕はそのとき、以前ヤコブが一度だけ、声を荒げたときのことを思い出した。
 あのときも子供たちは、ヤコブに対して、野次を飛ばしていた。それがコプト教にまつわる事だとは、そのときは思わなかった。
「ヤコブはコプト教徒だって彼らに分かるの?」

 子供たちは散々野次を飛ばしていたが、僕らが無視していると、やがて飽きたのか、めいめいで好きなことをし始めた。
「分かるんだよ。アユムには分からないかもしれないけど、イスラム教徒とコプト教徒の違いは、僕達にはすぐ分かるんだ」
 残念ながら、
僕には、ヤコブと彼らの違いは分からなかった。やはり、ヤコブは僕にとって、ヤコブ以外の何ものでもなかったからだ。ヤコブその人として、ただ存在していたからだ。
 僕達はいつのまにか、ナイル河沿いの歩道を歩いていた。

 ナイル河には、ファルーカと呼ばれる帆掛け舟や、豪華なクルーズ船が停泊していた。河岸にはファルーカ―の漕ぎ手のおじさんが座り、お茶を飲んだり水煙草を吸ったりしていた。夕方のナイル河は、どこよりも時間がゆっくり流れていた。

 僕たちは自然に手をつないでいた。繋いだヤコブの手はじんわりと湿って、温かかった。何度、この温かさに助けられたか知れなかった、ヤコブの体温は、僕の体内に入り込み、決して出てゆかなかった、僕はヤコブの種火を温め続け、その火に寄り添って眠ったのだ。何度も。

 西に傾いた太陽がナイル河を照らし、ナイル河はオレンジ色に輝いていた。
 モスクから、アザーンが聞こえてきた。夕方の礼拝を、知らせていた。アザーンは泣いているように聞こえた。特に今日の響きは、とても悲しげだった。
 ヤコブと僕は暫く何も言わず、河岸を歩いていた。

 河からは風が吹き、僕らは急に冷えて来た外気に、身を寄せ合った。白い鳥が頭上を旋回し、河に小さな影を落とした。ナイル河はゆらゆらと揺れ、赤黒く濁っていた。時々魚が跳ね、また深く潜っていった。
 ヤコブは、ある場所に立ち止まった。身振りで、座ろう、と言っている事が分かった。僕はもちろん、素直に腰を下ろした。
 静かだった。アザーンの声以外、何も聞こえなかった。神に祈ろう、と皆に誘う声だけが、ただ僕らを包んでいた。
 僕たちは恐らく、何かを言うべきだったのだと思う。僕が帰国することについて。離れ離れになることについて。でも、ふたりが別れるのだという事実以外、何も言っていいのか、分からなかった。

 僕は、僕らのあずかり知らないところで、僕の運命が決定されてしまうことに絶望していた。圷家がバラバラになること、ヤコブと離れる事、その事実そのものよりも、その決定に僕が微塵も関われなかった事が悲しかった。

 太陽はほとんど、ナイル河の向こうに沈みかけていた。ファルーカ―の漕ぎ手たちはいつの間にかどこかへ去り、クルーズ船に、煌びやかな灯りがついていた。

 僕はほんの少しだけ、家で食事を作っているであろう母を思い出した。でもそれも、すぐに消えた。僕はそのとき、この場所に永遠に留まっていたいと思っていた。このまま時間が止まればいい。ヤコブとこうやってふたり、じっとナイル河を見ていられたら。

 アザーンが止んだ。ナイルが流れるかすかな音が、代わって僕たちを包んだ。
 僕の体は、わずかに震えていた。
 見た事のある景色、過ごしたことのある時間だったが、そのときの僕は、まるで生まれて初めて世界をみた赤ん坊のような気持ちだった。

 ほとんど自分の身体ほどに大切な友人と、世界一大きな河の河べりに座り、沈みゆく太陽と、その光に染まる水面を見ている。ふたりは数週間後には別れる、それは永遠になるかもしれない。
 僕の心は、手に負えない感傷で、はち切れそうだった。「寂しい」、という言葉では収まらなかった。
 僕の気持ちはあらゆる感情の枠を超えて、どんどん拡散していた。物凄い勢いで。物凄い強さで。やがて僕は泣いた、自分自身の感情をどうしていいのか分からなかった。声を上げて泣きたかったが、それでは足りなかった、僕は泣き叫ぶよりも、もっと強い力で泣いていた。涙がぽろぽろと流れ、止まらなかった。顔を覆うことも苦しかったし、うずくまることも苦しかった。僕は腰かけたまま、ナイル河を見つめたまま、ただ泣いていた。自分の非力さに、世界の残酷さに、泣いた。

 ヤコブも泣いていた、ヤコブは僕とちがって、嗚咽(おえつ)していた。憚らず声を出し、顔を覆い、頭を掻きむしりって泣いていた。それはまったくエジプシャンのやり方そのものだったが、ヤコブのそれは、やはり、悲しくなるほどの高貴さがあった。
 先ほどまで、ずっと手を繋いでいたのに、僕達はそのとき、何もしなかった。肩を叩くことも、お互いを抱きしめることもしなかった。ただそれぞれの感情に向き合って泣いていた。そうしているだけで、僕達は完全にひとつだった。
「サラバ」
 ヤコブが呟いた。僕も呟いた。
「サラバ」
 声に出すと、言葉と一緒に涙と、涙より熱いものが溢れ、僕はほとんど呼吸困難だった。それでも言った。
「サラバ」
 僕らは言い続けた。
「サラバ」
 そのとき、河が、大きく波うち始めた。
 最初は小波のように、そしてどんどん大きく、やがて僕らの足元まで脅かすような高波になった。僕らは声を出さなかった。それどころか、腰も挙げなかった。ただ涙を流し、河面を見ていた。
 あのときの感情を思い出すのは、とても困難だ。
 あんな不思議な体験をしたことは、後にも先にもあのとき以外なかったし、その出来事をどのように考えればいいのかも、未だにきちんと説明がつかないでいる。

 僕らは分かっていた。
 その数秒後に起こった出来事に、僕らは本当に、本当に心から驚いたのだったが、僕らはそのとき分かっていたのだ。それが起こる事を。
「サラバ」
 僕らの前に、大きな白い生物が現れた。
 初め僕は、それを鯨だと思った。大きな白い鯨が、ナイル河に現れたのだと。そんなはずはなかった。
 白い生き物は、僕たちが目視できる限り、30メートルほどあった。僕らが見ているのは、背なのか腹なのか分からなかったが、それが水面に現れると、それだけで10メートルほどの高さになった。

 生物の皮膚は、ヌルヌルとしているように見えたし、とても固そうにも見えた。輪郭がぼやけていたが、それが水しぶきからそうなっているのか、生物そのもののせいなのかは分からなかった。
 僕とヤコブは、茫然と、その姿を見ていた。
 白い生き物は弧を描き、水面下に潜って行った。ゴォォォォォ、という地響きのような音が鳴り、ナイル河は、これまでにないほど大きく波打った。

 生物の顔は見なかった。だから、僕らが見た生物の姿が、生物の全てではなかった。長さ30メートル、高さ10メートル、だから生物の一部なのだ。生物はきっと、想像も出来ないほど大きなものだった。

 生物がすっかり河に潜ってしまうと、波打っていた水面は、徐々に元に戻った。僕とヤコブの足元は、水浸しなっていた、それどころか、僕達ははっきりナイル河の水をかぶっていた。髪が濡れ、顔が濡れ、だからどれが涙なのか河の水なのか、分からなかった。
 すっかり河面が静かになったとき、ヤコブがやっと、口を開いた。
「見たよな」
 僕は言った。
「見た」
 僕らはそれから、何も言わなかった。こんな出来事が起こったことに、もちろん驚いていたが、そう、やはり、分かっていた。僕らはそれが現れる事を、分かっていたのだ。

 僕らは静かだった。日が暮れるまで、じっとナイル河をみていた。河は、先ほどまでのことが噓のように、ただ静かに流れていた。
「サラバ」
 ヤコブが言った。
「サラバ」
 僕も言った。それが、ヤコブとの別れだった。
つづく  第三章 サトラコヲモンサマ誕生日