いまは亡き赤線地帯を、とくに新宿二丁目をわが家の庭のように歩き回っていたころのことである。私は二十六歳くいだった。二丁目は案外狭い範囲なのだが、中央にやや広い道があり、その左右にも娼家が軒を並べていた

 本表紙 吉行淳之介 編

男友だち 女友だち 楽しみと冒険 吉行淳之介

目次

私の女友だち 吉行淳之介

赤バラあなたのイノサン、あなたの悪魔――三島由紀夫様――森 茉莉


赤バラ美青年 金井美恵子
赤バラ交遊録・吉田茂 吉田健一
赤バラ不世出の人 阿川弘之

本表紙吉行淳之介 定本・酒場の雑談
赤バラ 赤い玉がポンと出る吉行淳之介酒場の雑談
赤バラ酒房「とと」回想・作家たちの酩酊夜話 新藤涼子

*収録作品の出典は、初収録単行本を限則としたが、場合により初出紙誌、定本等を記した。なお、各編のタイトルは、編集が新しくつけたものがある。編集部

男友だち 女友だち 楽しみと冒険 吉行淳之介

私の女友だち 吉行淳之介

 このアンソロジーには世間で考えている「友だち」という枠を逸脱したものもかなり混ざっている。オーソドックスな交友関係でも、いわゆる友情物語は入っていな。いまさら、そんなものはわれひととも読みたくないだろう、という判断である。

 ところで、この著書の企画者の一人である丸谷才一氏が「娼婦との交友」について書け、と私に言う。なにも娼婦が出てこなくていいようなものだし、そもそも娼婦との関係を「交友」と言うのだろうか。と書いて咄嗟に思い出したのは、永井荷風の「濹東綺譚」で、あれは確かに玉ノ井の私娼との情感にあふれる交友といってもよい。

しかし、あの作品を収録するのは、まず長さの点でムリである。それにしても、「濹東綺譚」は何度か読んで感心したものだが、ある老人はお雪という私娼と肉体関係があったのだったかな? たぶん無かったと記憶しているが、自信がない。

結局、娼婦の町では、通常社会の男女関係で大きな問題となる凸と凹の様相が、すっかり違ってくる。凹はその陥没部分で事務的・職業的に凸の突起部を受け入れるので、この町では凸と凹の結合問題が関係の大きな部分を占めはしない。

 その考えのもとに、私自身と娼婦たちとのことを考えてみると、その記憶は淡白な茶飲み友だち風で陰湿さがなく、さらには精神的でさえある。「交友」といっても言い過ぎではなく、またその関係を思い出してみると、かなり奇抜なものが多く、報告に価するように思えてきた。

 遠藤周作が世にひろめたところの、私が新宿花園街(現・ゴールデン街)で、娼婦に梯子(はしご)段から突き落とされて塩を撒(ま)かれたはなしがある。

 昭和三十一年ころか、遠藤と奥野建男と私と三人で、夜になったばかりの時刻、新宿界隈をぷらぷらしていた。たまたま、花園街の近くまで来たので、
「俺はこの町は鼠の抜け穴まで知っている」
 と自慢して、案内に立った。

 ある一軒の店先に、数日前にその部屋に上がった女が立っていたので、二人と別れてその女と店の中に入った。梯子段の上り切ったところが女の部屋である。

 その梯子段を突き落とされて、うしろから塩を投げつけられていると、目の前に遠藤と奥野が二人並んで立っていた。遠藤はあとでさかんに喜ぶのだが、そのとき奥野は啞然としていた。それも当然で、事態が呑み込めなかったわけである。じつは、そのときは、私自身成行きが理解できなかった。

 遠藤に解説したのは、およそ一年ほどあとのことである。その件の数日前に、その女の部屋に入ったとき、私は不如意(勃起不全)であった。「三十腰折れ」というが、その頃ときどきそんなことが起こっていた。遠藤たちと別れて、梯子段の真上の女の部屋に入ろうとしたとき、何気なく私は「今日もダメかもしれんな」と呟いた。そのとき、女の形相が変わって、「そんなら帰ってよ」と、私の胸を突いたのだ。

 その夜の口開け(初めて)の客が不如意であることは、大そう縁起が悪いことらしいのを知ったのが、一年後である。
 それにしても、なぜ店の前に、遠藤と奥野と二人並んで立っていたのか。店に入り、梯子段を突き落とされて塩を撒かれるまでの時間がひどく短かったせいだろう、と自分で納得していたが、そうではなかった。

「あの二階の窓からすぐに首を出して、手を振る、そこで待っていろ」
 と、私が言い、二人は並んで二階の窓を見上げていたのだそうだ。そのことは、最近遠藤から聞かされた。

 その女は、なかなかの美人で、鼻の脇に大きなホクロがあった。いままでも、その顔を眼に浮かべることができる。

 結局その女とは肉体関係ができなかったことになるが、繰り返せば、そんなことはどちらでもいいのである。娼婦の立場として心ならずも枕をはずして(オルガスムスになって)乱れた女もたくさんあるが、私の頭の中ではそういう性的なことも塩を撒かれたことも、同じ平面にありともに懐かしい思い出である。

 女性にモテた話というのは、それを話すこと自体愛嬌のないことだし、聞き手も迷惑といったものだが、娼婦にモテた話になると許されるところがある。それも、ここらあたりの事情が絡んでいると思えるが、塩を撒かれた「交友」だけではないので、威勢のよいものを紹介したい。

 アンソロジーとは、もともと既に発表した作品を精選して集めたものだから、その前書きにふさわしく、以下は自著『贋食物誌』のうちの一章である。

 いまは亡き赤線地帯を、とくに新宿二丁目をわが家の庭のように歩き回っていたころのことである。私は二十六歳くいだった。二丁目は案外狭い範囲なのだが、中央にやや広い道があり、その左右にも娼家が軒を並べていた。

 その道に人垣ができていて、その中から女の怒鳴り声が聞こえている。
 遠巻きにしている人の輪のあいだから、首を出してみると、黒いワンピースを着た若い女が片手にビール瓶を握って振り回しながら喚いている。その女の洋服が、やや光り気味の布地だったことまで覚えている。

 相手があって怒鳴っているわけではなく、一人で荒れ狂っていた、その凄まじい勢いに誰も寄り付かない。酔っているようにもみえた。

 そのうちビール瓶を裾から洋服の下に入れ、突き立ててみせて、またなにやら喚く。
 その女の様子を見ているうちに、根は人が良く、また私の取り扱える範囲のタイプにみえてきた。
人目に立つのが私は嫌いなタチだが、そのときはすこし酔っていて、
「ひとついいところをみせてやろう」
 とおもい、人垣から抜けて、その女に近づいた。暴れている女の肩をおさえてみると、
「なにさっ」
 と、睨みつれる。
 片手でじわりと女の腕を掴み、もう片方の手で肩を撫でながら、
「なにか気に入らないことがあって、暴れてるんだろう。もう、そのくらいでいいじゃないか、きみの部屋に行って一緒に寝ようよ」
 と言うと、すうっと女はおとなしくなってしまった。当時、私は貧乏出版社の編集者で、よれよれのレインコートを常用しており、上客とみえるわけがない。
「さ、行こう行こう」
 と促すと、女は私の腕に組んできて、そのままの格好で店に入った。斜め階段に上がってゆく梯子段がまるで舞台装置のように、見物人から見えるところにあった。その梯子段を腕を組んで上がってゆくと、どっと拍手がきた。

 これは、私は予想していなかった。
 遠巻きにしていた娼婦と客と半々ぐらいで、一斉に拍手してくれたわけである。私は、赤線のアラン・ドロンになったような気分であった。

 このエピソードを、長部日出雄が気に入ってくれて、高名な酒乱としての立場から、その女の心理分析をしている。その部分を、これまた引用してみる。

 吉行さんが、あれが自分の人生の花だった…‥と追想している逸話がある。(略)…‥まことに颯爽たるエピソードである。だが、これは女がすっとおとなしくなったから格好がいいので、逆に「なにをいいやがる、この野郎!」と頭にビール瓶を叩き付けられでもしていたら、こんなに格好の悪い話はない。

実際にその後、吉行さんは一緒に行った遠藤周作氏の目の前で、青線の女に二階の階段から蹴落とされ、頭から塩を撒かれるという苦難にも遭遇しているのである。

 そのビール瓶の女のときには、そうはならない、という自信があったのだろうが、この逸話にも、敢えて危険に近づこうとする吉行さんの傾向が読みとれるようにおもわれる。
 しかし、女はなぜそのとき、すっとおとなしくなったのだろうか。彼女の身になって考えてみよう。
(決して自慢するのではなく、深く恥じ入りながらいうのであるが)わたしには酒乱の気があるので、彼女の気持ちがいくらか判るような感じがするのだ。

 女はとにかく荒れ狂いたかった。世の中の殆どあらゆることに対して、反抗的な気分になっていた。彼女はあるいは誰かに止められるのを待っていたのかも知れない。が、そうしたとき、彼女の耳を通じて胸の底にまで達する声(言葉)の音域は、きわめて狭まれているのである。それ以外の音域の言葉は受け付けない。それどころか逆に反撥を感じさせる。

 吉行さんの挙措と言葉は、おそらく彼女の胸中の狭まれ屈折していた音階に符節を合わせて、複雑な釘のあいだの迷路に正確に通り抜けたパチンコの玉のように、すとん、と開いていたチューリップの中に飛び込んだのだろう。女はそのタマを飲み込んで、なにか腑に落ち、チンジャラジャラと憑き物が消えてしまったような気がしたのに違いない。

 また吉行さんのタマが、女の胸底から、たぶん子宮まで入ったのは、吉行さんの姿勢が娼婦の街の外側に対して背を向けているように見えたからではないだろうか。

 二階に上がってから、その女と寝たような記憶があるが朧(おぼ)げである。タマがチューリップに入って、チンジャラジャラなのだから、まことに淡白な付き合いである。

 じつは、私には三十年来の女友だちいる。その人とは娼婦と客との関係からはじまったが、もう二十五年ほどいわゆる男女関係はない。しかし、いかなる時代においても世間というものはそういう過去にうしろ指をさすのであるから、詳しく書くのは相手のために憚られる。鷹揚であっさりした友人関係とだけ、言っておこう。

或る文学青年像――芥川賞―― 佐藤春夫

「文学青年といふ奴はどうしてかうも不愉快な代物ばかり揃ってゐるのであらう。不勉強で、生意気で、人の気心を知らない。ひとりよがりな、人を人とも思わぬ、そのくせ自信のまるでない、要するに誠実も、智慧もない虚栄心の強い女のくさったみたいな‥‥」
 そのほかこの種の形容詞をまだまだ沢山盛り上げようとしてゐるところを、堀口大學がいつになく横合から口を出して、

「それでいヽのだよ。文学といふものは、一たいがさういふものなのさ。そのままでまだまって十年か二十年見てゐてやると、その不愉快千万な代物が、それぞれ相応に愉快な、見どころのある奴に変わってくるのだ。それが文学といふものの道だね。有難いことさ。たとへば我々にしたところが十年か十五年前に回顧して見ると、お互立派に不愉快な文学青年であったらしいからね」

 あとは笑った。それはもう十年位以前の事であったらう。折に触れてこんな会話を取り交わした記憶がある。何時、何人に関する出来事に就てであったやらはもう覚えない。ただ自分の記憶に存してゐるのは、あの風采も心持ち勧雅な友人が自分の不平を慰めようと自分のために言った「有難い文学の道」や「十年か十五年前にはお互立派に不愉快な文学青年であった」といふ自分の放言に反省を促さうとしたらしい一言とその会話の卓の間の丸テーブルの白い布の上に落ちてゐたまぶしい光線と、それから目を逸らして見上げた軒の新緑と、友の寛雅な一言のために自分の心も和いで、一緒に笑った事と。それ等のものの外はもう一切忘れた。その時の友の言葉を今も思ひ出さないではない。

 もう一つ記憶は多分更にもう一昔も遡って見なければなるまい。従って、僕自身が立派に不愉快な文学青年であった頃に或る時である。その恩義を少しも報ずる事のできなかった自分の師生田長江先生が、その友人の森田草平に向かって言ってゐるのであった。

「そんなことは君、知らぬ顔をしてうつちやらかして置くに限るね。相手を軽蔑して笑っておけば置けば過ぎてしまうのさ。少なくも君の不快を僕も分担してゐるし、ここにゐる佐藤君だって同じくさ。天下に二人の理解者があれば沢山だ。それ以上を求めるのは贅沢の沙汰だね」

 長江先生は金属的な声をあげて一笑した。自分も生意気に笑った。しかし草平は決して笑はなかった。さうして言った。
「それや、こんな事で目角を立ててぐづぐづいふのは野暮には違いないさ。相手はそれがつけ目なのだ。だから僕は笑ってはすませない。この野暮を敢えてしよう。こんな場合野暮をおそれて笑ってすますのはいい趣味かも知れないが、僕は嫌だ。野暮と言われるのをおそれてこれを黙ってゐるなどは僕には寧ろ不道徳な感じがするのだ」

「さうかい。天下にそんな事よりもつと関心事があつてもよささうに思ふのだが」
「さうだ、この事たるや、これをそのまま拡大すれば天下のあらゆる関心事とその軌を一つにするものだよ」

 草平先生はその事を拡大して天下のあらゆる関心事の法則に結びつけて論じた。肝腎のその事が何であつたのやらはもうとんと記憶を逸してゐる。多分自分には覚えて置く値打がなかったのでもあらう。たヾ道徳のためには敢て「野暮をおそれぬ草平」「笑わざる草平」だけが深く記憶に溜まつたものらしい。こんな記憶も今ふと甦つた。

 山岸外史がその従兄弟の寺内清と同道した。日曜日の夜更けで、自分は翌日学校の講義の準備のために近隣の畏友を訪うて詩経の六義に就て談論してゐるところへ、二人の客の訪問を伝へられたので帰宅して客に面会した。

 山岸に対しては先日太宰治の近況を千葉に行って視察することを依頼して置いた。太宰は夏のころは三日にあげず来てゐたし、来ない日は必ず何枚つづきかのはがきか、巻紙一枚を書きつぶした長文の手紙をよこしてゐたのが、その後ぷつり音信がなかった。いや二度ばかりはがきがあったが、そのはがきが何を意味してゐるやら自分には一向要領が得なかった。
そのはがきの文言が要領を得ない以上に、駿河台ではがきを入れるひまに一足自分の玄関の前に立たない太宰の心理の方がもつとわからなかった。はがきによると太宰は気まずく慚愧のために訪問出来ないといふ意味の文句があった

全くその文句に相当する事実があつたから自分は正直に文字どほりさう読んでゐた。しかし家内は太宰のこれ等の態度は芥川賞に関聯したものであらうといふ推惻を洩らしてゐた。さういへばこの間、日本橋の弟が来た時、太宰が自分で今度は芥川賞を貰ひますからと吹聴してゐたといふ噂を聞いて自分も妙に思った事はあった。

しかし、太宰が芥川賞に関して自分を何か不満に思つてゐるだらうなどといふ考へは自分には毛頭なかつたから、家内の推測をも女らしい馬鹿なものと取り合はなかつた。先方では不満があつて来ないものならともかくも、何か気まりを悪がつて来られないのなら不便なといふ気持ちもあつたし、太宰の挙動に不審なものあつたので、かたがた山岸を太宰のところへ使いにやつたのであつた。

太宰は最初山岸が自分のところへ連れて来たのだから。これは山岸にとつて不足のない役割のつもりである。自分の太宰に対する不審といふのは、太宰がまたパピナールを用ゐはじめてゐるのではないかといふ疑念であつた。その中毒症を、自分は医者になつてゐる弟と相談してこの春治療させたところであつたから、中毒症の再発を防止するのも我々の――兄弟と山岸も――義務と感じてゐた。

 山岸が千葉に太宰を訪問して来た報告は、山岸のいつもの明快な長広告にも似ず、不得要領に近いものであつた。ただパピナールをまたはじめてゐるらしいといふ事と、家人の言葉と太宰自身の言葉とは万事に非常な相違があつていつに似ぬ不誠実な太宰の態度が腹立しかつたといふだけが殆んど全部であった。

パピナール中毒を再発してゐるといふだけで大たいは判ったが、芥川賞に関する件はどちらからかも一向触れなかった。自分にももともと大して問題ではなかつから山岸が言いださなければ問ふまでもなかつたのである。

 しかし太宰の話が出ると寺内が太宰の新作で新潮に出た創生記といふ短篇の話をはじめた。それが月評家の間で話題になつてゐるといふので、彼は先ず中条百合子の意見といふものを紹介した。しかし寺内の話はまるで自分には通じなかった。

中条の意見とやらの、文壇にこんな封建的徒弟制度のやうなもののあることの不快や、こんな現象を呈するとすれば芥川賞は有害といふらしい意見や、酸鼻といふ文字が使われてゐると聞いても一たい何がどう酸鼻なのか一から十まで自分には話が通じなかつた。といふのは、話の眼目になる創生記とやらを自分は読んで居なかつたからである。

 自分には近頃めったに雑誌といふものを見ていない。雑誌よりももつと読むべきものが多いと感じてゐるからである。雑誌は所詮文学青年向きに造られてゐるものだから、自分の如く文学青年の圏外から追ひ出され、或は追ん出てゐる者にとって面白い読み物ではないのは寧ろ当然である。

従って自分はつれづれ草を伊勢物語を読み返し古今の序を吟味し、詩経の邦訳に手を焼いてゐる。尤(もっと)も現代に生きてゐる以上好むと好まぬとに拘わらず現代の雑誌を見る必要もあり、義務でもあるらしい。

自分が芥川賞の審査委員を受諾したのも、或る学校に出講するのも主な理由の一つはこれであった。現代の雑誌を読むために、現代の青年を知るために、週に幾時間か青年と接触したり、年に十二回位は、纏めて極て若い作家の作品を見るやうな機会を持つのは自分にとつても必要であり社会に対する義務でもあらうと感じられたからである。

自分はかういふ風にして自分の心裡の窓を少し隙(す)けて置いて空気の流通を謀つてゐる。さうしてこれ以上積極的に現代と接触する気はない。なるべくこれ位の程度にして置いて扉はしつかり閉めて置きたい。消極的だが身勝手がいいためである。かういふ利益と亡友に対する追慕の敬意がない位なら芥川賞の審査委員などもあまり自分の柄にはない。自分はその程度には分を心得てゐるつもりである。

 厳密に云ふと、芥川賞といふうやうな制度も自分にはあまり好もしいものではない。それでも、或る人が、ある時、
「芥川賞などは要するに菊池氏の広告手段だから‥‥」と言った時、自分は
「さうです。それはそれに違いないとしても、他を排してでも、自分の利を得ようとするのが今日一般の広告法であるとすれば、他にも幾分の利益を分かちながら自分で利益を占めるといふ大乗的な手段として悪くはありますまいから…‥」
 と答へた時は自分ながら立派に芥川賞の委員になってゐるのを自覚した。

 何にせよ創生記を見なければ二人の客とは話題のない状態であつたから家人に命じて雑誌を捜させた。今月の雑誌であつて見れば、まさか高閣に束ねても置くまい、くづ屋にも売り払ふまい。寝室、書斎、応接間、誰彼の部屋などのこらず捜させたが見当たらない。最後に誰やらが持つて行つた。

持って行ったのは某だとだんだん手元にもない事が判って来た。まだ十時半かそこいらだらうといふので女中を走らせて下の通まで新潮を一冊買はせにやる。自分で雑誌を買ふのは二十数年来ない現象であつた。

 客同士を勝手に喋らせて置いて自分は急いで雑誌を拾い読みした。別段何も目にとまるところもない。

 と見ていくうちに自分の名前の見厭きてゐる活字にぶつかつたから眼鏡を外したり、かけて見たり、注意して見る。年来の近視がこの頃遠視になりかかつてゐるので眼鏡が邪魔になる。出来るだけ読むことを節約してすませたい。

自分の旧作の校正など馬鹿馬鹿しいものを読むのはさながら生命を浪費してゐる感じを痛切に覚える。創世記はしかし、片仮名で字画がはつきりしてゐるから見やすかった。それが平仮名になり出してから必要なところになつたのは偶然ながら意地の悪いものである。

「君、これは困る。いけないね。かう身勝手な、出鱈目を書かれては。――まるで妄想を事実の如く報告する。この手法はいつでも困るのに。それがかう功利的に。利用されていゐては。筆者の常識よりは。良心の方を。先づ疑はなければならないね」

 自分は一句一句を、とぎれ、とぎれに言ひながら、次頁から半頁の半までつづく一節二三十行を読み了つてから
「不愉快だね。困った人物だね」

 初めは眼前に当の相手がゐるかのやうに言ってゐたが、終わりにはさすがに句調が直って、
「なるほどこれを事実として読んだなら中条百合子ならずも、こんな師弟制度を憤ろしく思ふし、こんな状態に甘んじて芥川賞を渇望してゐるのは酸鼻と思はれるね」
「さうですか」寺内は自分が𠮟られでもしたやうに長大息して閉口してゐる。

 自分は読み了つたあたりを山岸の方へ差し出すと、山岸は
「さう、さう、そこのところを太宰も先生に迷惑にあたるまいかと出して見せてゐましたよ」
「なんだ、自分でも気づいてやつてゐるのだね。――どの程度だかは知らないが。右といふ事実を左にしてしまつて迷惑になるまいかもないものさ。とぼけてゐるのかな」

「尤(もっと)も最後の方へ行って先生に対する態度は救つてありますね」とこれも寺内はまあ一とほり読んで見たらどうだと婉曲に言ってゐる。
「だが最後まで読んで見たって噓を書いたことの取消などはある筈もあるまい」

 自分は目の前の二人の云ひ分も鈍感な腹立しいものに覚えたがもう口に出して言ひたくなかつた。それに何分十分に通読したわけでもないから、何はともあれ熟読してからと言ふつもりになつた。

 山岸と寺内とは互に太宰の他の作品を論じ合ったり、創生記の評判を批評したりしてゐたが、自分が仲間に這入らないので、さすが二雄弁家も沈黙勝ちにいつもにくらべると早く引き上げて行った。彼等が退去したあとで、自分は寝室へ雑誌を持ち込んで貴重な視力を費やしながら創生記を仔細に吟味して見るだけの労を惜しまなかった。自分の不快をなるべくはこの作品そのものによつて減少されたいと思ったからである。

 仔細に吟味するまでもなくこの作品には中条百合子の述べるやうな(尤もこれも伝聞だけで直接は読まないが)酸鼻の感は絶無であった。何故かといふと中条百合子が重要視して事実と思って読んだらしいところはまるで作者の妄想にしか過ぎないからである。太宰の作品は創生記に限らず全部幻想的といふよりは幻想的に出来てゐる。みな一つの夢である。悪夢である。夢のなかに真実を還元して計算するには一定法則があるやうに太宰の作品を読むにも一定の用意が必要である。

書かれてゐることがすべて事実と見ることは夢の全部を事実と見ることは夢の全部を真実と思ひ込むやうな幼稚に愚劣な錯覚である。尤も太宰はこれを奇貨として妄想を事実と思ひ込んでゐるかも知れない。困った者だと自分がいふのは主としてこの事実を事実として知ってゐる自分は、事実が太宰の文章の上で(或は頭脳の中で)どれだけ歪曲されて妄想化されてゐるかを明細に知ってゐる。

しかし事実も全部知らない読者が、身辺雑記――事実そのままの小説(この拙作などがその最適例)が行はれてゐる今日、妄想小説をも錯覚によって事実小説と早合点することはありそうな事である。恐らく太宰はその逆効果を覘つてゐるものらしい。

このトリックはこの作で忌々しい程効果を挙げてゐる――いや読者が進んでこのわなに陥ちて行くやうに仕掛けられている。太宰が相手の心理を把握するに奇態な才能を抱いてゐる妖人物であることはこの一作で知れる。しかしその手腕を悪用してこの男は創作の自由といふ美しい仮面の下で世にも不徳な事共を恬然(てんぜん)と仕出かしてゐる。――自分の憤懣は偏にそれに懸かってゐる。

 創生記は作の倫理性を暫く無視するとすれば面白く出来てゐると言ってもよからう。この作がもしゴシップ的興味以外に純然たる感興的な作品として成功したものと噂さしてゐるなら自分はこれにも賛成していい。才能ある作者の才能を示した作に相違ない。自分の言いたいのはその才能と同時に作者が彼の不誠実な性情を二重三重にも複雑に表示してゐるのを最も酸鼻に堪へぬ思ひで見る者である。

――この作品はいかにも業(ごふ)の深い男に思はれるのである。自分は彼の芸術の業の深さを讃欺する者である。これはお嬢さん育ちで女学校の作文がそのまま名門の令嬢たる特権で世に迎へられるやうな幸福をさうして一度その事を反省すると自らの特権を自ら呪咀(のしょ)して左翼の論理に拝跪(はいき)する善良無比なお嬢さん気質では、せいぜいそのトリックに迷はされて酸鼻がる程度以上に真の酸鼻を味倒するに至らないものをさは無理ではないと思ふ。

 僕は今太宰治を異常に憎悪してゐる。しかし同時に彼の無比な才能を讃歎(さんたん)してゐる。この矛盾が自分のこの作をする動機である。単なる憎悪だけであったら自分は笑って彼を唾棄したであらう。事は甚だ単純でよかったであらうに。


 以前にも中条百合子の如く彼のトリックに迷はされ、佐藤春夫の如く彼の業の深さに魅せられた一女性があつて彼と憤死を謀つたのであつた。その記録が(どこまで真実でどこまでが妄想であるか、或はその妄想のなかに何パーセントの真実や誠意があるかは改めて分析するとして)、

彼の代表作と自分の目をしてゐる道化の華である。自分が第一回芥川賞候補として推挙したのは実にこの作である。これによって自分と太宰との好もしからぬ因縁が結ばれた。恐らくは僕自身も亦、彼と相距る遠くない程業の深い人間で、阿修羅が阿修羅を知るが如くに彼を認めたのであつたかも知れない。

 ともあれ、太宰が創生記の序節で婦人雑誌の座談会記事のなかから発見して紹介してゐる潜水夫が海底に沈んでゐる女を発見する異様に幻想的なあの作全体を幻想化するだけの用意を示してゐる部分、(太宰に言わせたら既にあの部分で読者をすっかり幻想の世界に誘導している以上、後の芥川賞に関する部分の幻想なる事は断る必要もないと逃げるかも知れない。勝手にしろ)

あの海底の場面にしろ太宰がかつて蛤(はまぐり)にならんとする雀の如く海に入って、彼の情婦だけは海底に沈み、彼ひとりは荒磯に打ち上げられて発見されたといふ事実を知ってゐたならば、彼が潜水夫の所見に深く心を動かす所以も自然と了解されるであらう。かの潜水夫の所見は実に太宰の心理風景に外ならぬものである。かの潜水夫さへ或は太宰自身ではないかどうかを自分は知らない。

 太宰はその情婦のあとを追うて入水する代わりに、薬剤の慰安を求めて遂にその中毒症を生じたのではあるまいか。(これは僕自身の幻想で事実からは遠いかも知れない)一節の序を読むためにもこれだけの用意が必要である。彼の一作の正当な読み方のためにはあの作
以上な評釈書が必要なわけであらう。自分はそのうちのほんの自分の名前の出る前後のあたりを評釈するつもりである。

「道化の華」は自分の推挙にも拘はらず、当時の予選者たる滝井川端両氏から無視されてしまつた。理由なく無視されたのではない。両氏はその芸術信条に原づいて道化の華の如き頽廃(たいはい)的な幻想の仮面によらなければ伝えられないやうなひねくれた真実の取扱いよりももつと直接に素直な単純なものを好しとしたのであらう。

「道化の華」に比べたらまるで採るにも足らぬと思はれる小品を候補作品に選定した。これ等、事の経緯は別に第一回芥川賞銓衡記に詳しいから就いて見られるがよい。但、記事に或はないかと思はれるが、自分が力作を捨てて小品を採る事の不可を述べたのに対して滝井氏は川端氏とも協議したと説明し、従って川端氏も一応の説明があって、太宰治の才能のある作家であることは疑いはないが、生活が好くないのではないかといふ事を言ってゐた。

滝井氏の方は忘れたが川端氏の言の方は記事もあつて太宰は憤然として川端氏にテリヤを愛玩したり、おどり子をみてまはつたりしてゐるのがいい生活かといふ風な言い草を躍鬼になつて書いてゐたのを覚えているからこれ等双方の申分も文献はあらう。

自分の言ひたいところは唯第一回芥川賞で、太宰は候補に挙がったが石川氏の当選によつて太宰は遂に落選になった周知の事実である。人、衆人は知るまいが、太宰はなまなか候補になつて当選しなかったといふ事実も恰(あたか)も恥を与えられたかのやうに感じているらしいといふ奇妙な事実である。

我儘な人間にとつては事の如何に拘わらず思ひ通りにならなかったというほど心外なものはない。太宰は一度候補になったばかりにどうしても一度は賞を獲らなければならないと執着しはじめたものらしい。

芥川賞の当選せぬ候補になつた事は彼にとっては決して彼の名誉ではなく、重大な不名誉でもあつたと見える。彼が常人とものの受け取り方の違ふのはこんなところにもある。それは彼の並々ならぬ我儘とも虚栄心とも推測出来る。当選はせずとも候補になることによって直接或は間接に名誉と利益とを得てゐる筈だからそれでも幾分満足して置いていいといふのが常人の考え方であらうが、太宰はそんな余裕のある考え方は出来ないらしい。

候補になったのを人前へ恥をかかされるために引っ張り出されたやうに感じてゐるかも知れない。非常に贅沢な被害妄想である。余事はさておいて自分は今にしてその当時川端が太宰を評して才ありて徳なしといふ風に断じた眼識に服する事日一日と深くなることを告白して置かなければならない。

 自分は太宰といふ人物がどれほど主観的で我儘な性格かといふ一例を、伝聞のままではあるがここで紹介して置きたい。彼は、一旦投函してしまった書状のなかに、気に入らない文句のあったのを思い出したといふので、これを取り返すためにポストの前に立ちつして、集配人の来かかるのを待ち受けて論争の上にこれを奪い返してしまふといふのである。この光景を直接見てゐたといふ人が話したのを自分は又聞きしていかにも太宰らしいと思った。

俺の手紙に間違ひがない以上返して差し支あるまい。といきまく太宰はこれを自分の感情に忠実な一言半句をね疎にせぬ所以と信じて、それが集配人にとってどれほど迷惑であり公共の生活を妨害するものかなどは考へても見ないであらう。田舎では終始やつてゐた事だから、今ここで出来ないといふ理由はないと思ふのかも知れない。

彼の家は地方有数の富豪で有名な名門であるから村の郵便配達人などは家の下僕同様に心得てもゐたらうし、集配人も謹んで仰せに従ったかも知れない。そもそも富貴の家に生まるさへ人生の不幸であるのに、少年にして文名を謳はれるのは亦決して人生の幸福ではあるまい。尚いやが上にも彼に同情しなければならない条件には決して事欠かない

――かれはどういふわけか、生まれ落ちると実母は健在でありながら実母の手から全く放たれて祖母の手で教育され、そればかりか若年で父の頓死に遭ったといふ。皆彼の性情を歪曲し我儘を増長させるに好適な状態であつたらう。この坊つちゃんは高等学校へ入学すると早速左翼の思想に感染して、自家の小作人たちを自覚させる努力したものらしい。


さうして高等学校を出るか出ないに、何時どうしてどこでどんな相手を見つけて情死を試みたやら、自分はそれを彼の小説道化の華で見る以外知らないし太宰治伝を執筆してゐるのではない今日は省略する方があたりまへであらう。

 太宰が山岸に伴われて自分の所に初めて来たのは第一回の芥川賞の決定を見た後、しばらくしてからであつたらうと覚えてゐる。山岸が太宰の中毒症を心配してゐたし、井伏も太宰が自分の所へ来たと知ると先づ中毒症の話をして、パピナールをやめさせる方法を講じたいと言った。余計な世話のやうには思ったが井伏や山岸の本気な憂慮と太宰の才能を愛惜する心持とで自分は井伏や山岸の相談に乗った。

といふのは自分には幸せに医者になつてゐる弟がゐるからこれに相談さへすればわけのない事であつたからである。これ以上の面倒が伴ふものであつたから十中八九、自分はあの相談はあつさりと聞き流してしまつたらう。弟の話で彼を病院へ入院させた。

それが有料患者で医員の家族として入院したのだから科は異ふが、今まで二、三の人も入院して誰一人不満をいふ人もなかったのに、太宰は毎日不平不満満のはがきで、弟から聞くと太宰が不満な以上に病院では主治の医員から看護婦や炊事婦まで大ぶ手こずってゐるらしい有様を聞いて自分は別に頼まれもせぬ世話を焼いてつまらぬ事をしたと後悔したものである。

それでも我慢がならぬから今にも脱出するやうなはがきを二、三度もよこしたが最後までともかく病院にゐて中毒性は全治したらしかつた。

「ともかく」とか「らしい」とかとかくあいまいな言葉の多いのは、病院内での行動や、その間の小使銭の使い方などもあれこれ考へ合して見ると、病院から時折こつそり脱出してひとりで薬を注入してゐるのではないかと思はれる節が二、三あるからである。

尤もこれは今はもどちらでもいい。といふのはその後度々の警告と彼の誓句とにも不拘(かかはらず)、近ごろはまた始まってゐる事実が明らかになったからである。彼の特色のある文学もその不徳も或は皆中毒性の作用なのかも知れない。

さうならば一ばん簡単に解釈がつく。彼の芸術や行動の問題は別としてその経済状態は疑ふまでなく薬品の購入のため困難に陥るのである。

 季節相応の服装は全く別に調達してあてがはれる上に月々小百円の仕送りを受けて、夫婦きりで東京の近郊に二十五円に足らぬ家賃の家で生活してゐる彼が、酒色に溺れる様子もなく、時折は少額にしろ自分の不意の収入さへあるのに、いつも不自由を訴へて不義理に近い金を借りに歩ゐるのも、不可解な現象である。

彼が必要を訴える金額の単位が決まって二十円といふのも意味があるらしいのに、自分には一向にわからない。彼の私生活を報告するのが目的でないから、これも判らない事は判らないまま差し支えならう。ただここで注意して置きたいのは、既に家を成してゐる男一匹が、たとひ千金の子であらうとも家兄から、月々相応な金額を仕送りを受けてゐる以上、彼は、一族からそれだけの義務を負うてゐるといふ事である。

彼が一日も早く一人前の作家のやうな体面を持たなければならないと焦る理由はこの点が最も厄介だらうといふことは想像して同情するに余りあるものである。彼が一朝、せめて芥川賞でも獲ったならこの義務を果し得た事にはなるのであろ。

これもわかってゐる――女学校を出るとすぐさま知らぬまに、天才作家になつてゐるような奇蹟的に有難い身の上でない限りは。さうして創生記に若し酸鼻を感ずべきものがあるとすれば、恐らくこの太宰の家庭に負へる義務といふ一事であらろ。名門の名を鬼にでも喰われろ。

 この事は芥川賞の第二回の詮衡の時にも幾分その兆を現はして自分を悩ましてゐたが、第二回の受賞者無しですんだ時には、自分は救われたやうな気がした。しかし直ぐ第三回の時期になつて自分は全くやり切れなくなった。太宰からの日文夜文は或は数枚つづきのはがき或は巻紙一枚を書きつぶしたもの、しまひには手に取り上げて見るのも忌はしい気持ちがあった。一途といへば一途な、しかし自尊心も思慮もまるであつたものではない泣訴状が芥川賞を貰ってくれと自分を責め立てるのであつた。

橋の畔で乞食から袂を握られてもかう不快な思ひはしないであらうと思ふほど、不便やら、をかしいやら、腹立たしいやら彼の中毒症が自分の神経衰弱になつて伝染しさうな気がしたが、その文脈の辿々しさや、主観の氾濫、意識の混乱、矜持の懐失、は全く言語道断であつた。それ等の手紙はみな今現に自分の手箱にある。一々引例することも出来るが、読者の煩に堪へないであらうし、徒らに好奇心の満足のために提供するのも不本意であるから、今は示さない。

それでも、自分が決して表現を誇張してゐないといふ例証位はかう言ひ出す限り発表する義務がありさうに思ふ。手当たり次第に一通の手紙を拡げて見ると早速こんな文句が目につく――「第二回の芥川賞は私に下さいまするやう伏して懇願申し上げます‥‥御恩は忘却しませぬ…」これは第二回の時のものであつた。

もつと適切なのが第三回にあった筈だが、長いそれも決して愉快でない手紙をもう一度、いくつも読み返すのは閉口だから必要が生じるまでは文献の披瀝はやめて置かう。人間が人間から神に祈願するが如く懇願されるといふのは苦しい不快なものである。それいくら何と言われたって芥川賞は私の小使銭ではないのだから。

 創生記に馮(よ)ると私が太宰に芥川賞が欲しいかどうか問ふために、「ハナシアルスグコイ」と電報で彼を呼び出した事があるとやら、わざわざ呼び出さなければわからない程ぼんやり太宰が芥川賞を欲しがってゐたかどうか、太宰自身はもう忘れてしまってゐるらしい。

尤も「ハナシアルスグコイ」と電報で彼を呼びつけた事は確かにあつた。思ふにその電報を見た一瞬太宰は芥川賞がいよいよ貰へるのだなと心をときめかしたことから妄想は端を発してゐるのであらう。それにしても自分の呼び出しは全く別の話で、太宰自身もその時その件はすぐ思ひ当つたと見えて、
 ハイスグマイリマスシカツテハナラヌ
 と、彼の面目を躍如たらしめた返事をよこしてゐる。尤もこの電報は事件の関係者に渡したから今は手許にない。多分富沢有為男か東陽編輯(へんしゅう)室が今も持ってゐるであらう。何故それがそんなところに行ってゐるか今に明日になる。

 喉から手が出る芥川賞を受け取るのに五六分、考へてから返事をする太宰かどうか。この男、他人に関してならどこまでも漫画風な取扱で片付けるが、事一度自分のことになると。すぐ大げさに「生命をかけての誠実」などと出る。最も下賤なたしなみだ。一度レンズを取替て「生命かけての誠実」の方で他人を見て、鳥羽僧正流に自分を擬視して見ることを勧告する。

尤もなかなかむつかしい修行ではある。せめては自己宣伝の「生命かけての誠実」の看板位はひつこめたらどんなものであらうか知ら。

 何にしろ太宰を呼びつけて、自分の力で左右すべき筈もない芥川賞を貰ってやらうかなどと匂はせたとかいふ太宰の妄想のなかの佐藤春夫のやうな人物は、たとひ妄想でも何でも僕と同じやうな名前だけに我慢のならない代物である。ボウのウヰリヤム・ウヰルスンまがひに一つこの同名の人物と決闘をしたいものである。

 尤も太宰に芥川賞などに執着することの愚を説いて第三回の受賞も期待するなと宣告した事実はある。彼の懇願を温和に拒断した心組であつた。これが彼にあんな妄想を抱かせるとしたら以後、あの男とは第三者を交へずには対話も出来ないと不安心である。

 第三回芥川賞の期がそろそろ近づいて日文夜文に悩まされるころ、太宰は手紙の外に三日にあけず自分の門を敲(たた)いた。自分が芥川賞を決定する力があるやうに思ふ彼の認識もをかしなものである。といふのはこの反対の実例が第一回にきっぱり事実上の結果になつて眼前に現はれてゐるのを彼は何人よりも明瞭に見た筈ではないか。

この認識も滑稽千万であるが、更に頻繫な手紙や訪問などの懇願が、自分を動かすのには有効だと考へる彼の神経もみかによらず稀代の鈍感なものである。それがたとひ自分の反感を誘ふかと言っても効果が挙がらうなどと考へるのは自分のひとなりを理解せぬこと夥しい。自分には自分の一族や知人を賞賛する時に赤面する人種である。こんな時代遅れな無用の長物を心裡(うち)に持った東洋人は自他ともに厄介である。

 訪ねて来た対談してゐると彼もさすがに手紙の文句のやうなさもしい様子を見せない。手紙より訪問の方がまだ始末がいいと思ってゐると。六月初旬の或一日、憤然として、自分のベランダの椅子に腰をおろした。

 風通しのいい芭蕉の葉に近い席に自分が彼を自分の向こに迎へようと用意してゐるのに、彼は何故かひとり遠く片隅の方へすくみ込んでしまつた。すねた様子である。自分が話しかけても答えようともしない。

 お茶を運んできた家内の目にも太宰の様子が奇異に見えたに相違ない。
「太宰さん、どうかなさいましたか。何だか少し元気がないやうぢやありませんか」
 彼女がさう言ひも終らぬうちに、太宰は言葉もなくさめざめと泣き始めて前のテーブルの上にうつ伏してしまった。家内は自分のせゐででもあつたかのやうに驚きうろたへながら、持ってきたお茶をそこに置くことさへ出来ないで、あつ気にとられて引返してしまった。何が何やら判らなかつたので困ったのであらう。

 尤も自分にはその意味が殆ど判ってゐた。といふのは、彼は自分の前の椅子を避けて片隅へ歩み去る前に懐中から一束の原稿を取出しながら
「原稿を突返されちやつた」
 と虚勢を張って呟いてゐたの聞いてゐたし、その前日も文藝春秋社へ先日送りつけて置いた原稿の採否の返事を聞きに行って要領を得た返事を聞けないで明日もう一日行って見ると自分の所へ立ち寄ってゐたので自分にはあら方の事情は判ってゐた。

彼はその原稿の束を握った片手の肘のなかへ顔をかくして、卓上に倚りかかつて暫く泣いてゐたが五分ばかり泣きやんだ。まだ扉のかげあたりにゐたらしい家内がお茶の道具を捧げたままでまごまごしてゐるのを自分は行ってお茶を受け取って来てやりながら
「文芸春秋で原稿を返されて来たといふのだ」
 と説明してお盆とお菓子とを持って、お茶の一つを太宰の卓の前に置いて、お菓子は自分の方へ持ってきてしまった。さうして幾分気色の直ったらしい彼に、
「そのお茶を持ってこつちの方に来たまへ」
 と呼びかけた。
 彼は懐へ原稿束をねぢ込み直しながら立って茶托のふちを持つと自分の方へ来て腰をおろした。
「原稿を返されたつて、作品が悪いといふのか」
「いや、悪いのでせうが悪いとも何とも言いません。きのふは少し陰惨過ぎたといひましたから別のものを書き直して来てもいいとは言つたのですが。そんな話をしてゐるうちに泣けて来てしまつて、向こうでも困ったのか、今日はもう記者は出て来ないで給仕に黙って持たせて受付から渡させて‥‥」

 まるで小学校の児童が仲間の喧嘩を父兄や教師に訴へるやうな口調であつた。をかしくはあつたが憎めない。自然こちらもなだめるやうな調子に出て、
「また泣かれたりなんかすると事面倒と見たのであらう。とにかく作品を見せたまえ。読んで見てやらう」

 無論原稿が読みたいわけではないが、こんな空気で面白い話が出来よう筈もないから、それより原稿を見る方がまだ気が楽である。見たうえで元気もつけてやりたかったし、出来栄えさへよければ紹介してもいい心当たりが思ひ浮かんでゐたからである。彼が懐中から取り出したのを受け取って長いのは読むにも片付けるにも持ち扱ひと思ひながら、
「何枚あるのだ」
「四十八枚!」
 相手は元気よくふだんの語調にかへつてゐた。「狂言の神」といふ題のこの原稿は、数年前情死を企てたその相手だけを死なせた男が、数年前の海岸へひとり来て、ふと死神に襲はれたやうな気持であと追心中を遂げようと、死処を求めて彷徨する間に平和な家庭を持ってゐる先輩を訪うて決心を鈍らせられたりするが、遂に林間に入って樹の枝にぶら下がるが枝が折れて地に堕ちて失神しただけで終わるといふ程の筋で言わば道化の華の続編とも見るべきものであるが、推賞するに足りる出来栄えを示し、その泣き笑ひに真剣なものが見られるに感心し、これならば雑誌東陽の編輯(へんしゅう)を司る富沢有為男に事情を述べて相談すればその価値をも認めるだろうし、長さも適当らしいと考えへた。

先づこの事を述べて太宰を喜ばせから四十八枚のうち作者が苦にしてゐるやうな事を口では言ってゐるが実は案外得意だらうと思ふ書き出しはいいけれども最後の二枚は蛇足だから割愛した方が余情が多からうと意見を述べると太宰は無邪気に限りなく喜んで万事を自分に依頼して帰った。さうして富沢もこの作の価値を認め編輯同人も佳作を得たのを喜んでゐるが、但発行日の早い東陽は既に八月九月号の編輯の予定は決定してゐるから十月に喜んで採用するといふ話が出来、

これを作者に自分から知らせると、「‥‥待テバ海路ノ日和。千羽鶴。簑着タ亀‥‥」などの文句のあるはがきで喜んで来た。このはがきもあの作者を喜んでいる編輯同人に見せたいといふ富沢に渡してしまった。引用の文句は記憶に残ってゐるところである。洵(まこと)にお芽出度いなりゆきと喜んでゐると

 幾日も経たないうちに奇妙千万な出来事が発生したのである。ある朝内玄関を開けると太宰の名刺が硝子戸の間に挟まってゐてその名刺の記入したところでは太宰が狂言の神の原稿を取り返そう遅く訪問したが既に門が閉ざされた後でこれを驚かすのが不本意だったから引き返したといふ意味が読まれた。ところがその前夜といふのは、長つ尻のお客がゐて十一時半まで内玄関は明いてゐたし、応接室は煌々と燈されてゐた。

注意しすれば談笑の声も洩れさうなものであつた。太宰は多分表門の閉ざされてゐたのをいふのであらうが、狂言の神の取り返しといふ意味が飲み込めないと思つてゐるところへ、早朝に配達された郵便のなかに太宰の二枚つづきのはがきがあつて、それを見ると、新潮九月号とかの原稿が病気のために出来ないから狂言の神はその方に廻したい。十月号なら東陽へは新た別の作を物して寄せるといふ意味であつた。

身勝手な話とさすがに気がさすので、会って話すよりは都合がいいとわざと名刺を放り込んだだけで、相談ではなく報告だけをハガキでよこしたのかも知れない。それとも殆んど毎日のやうにして来てゐたのだから改めて今日か明日にでも自分で来て説明するつもりであらうかと考えて心待ちにしてゐたが、その日は来なかった。その翌日も来なかった。

ただ手紙が一通これは珍らしく芥川賞の事はあまりなくて、暑気当りらしい病気の苦痛の描写やら、そのために新潮のための新作のはかどらぬことやらが詳しかつた。
「狂言の神」の稿は結局どうしたのやらよく判らないで一週間ほど過ぎた。この間病気のためか執筆のためか太宰からは訪問も懇願通信もなかつた。

 富沢が別の用事で来た序に太宰の原稿の話が出て、聞けばちよつと直すところがあるといふので自分で来て持つて帰ったといふのであつた。

 自分は太宰の奴を怪しからぬと思つた。まるで病気で動けないやうな大げさな事を言ふかと思ふと自分でもうちやんと持って帰ってしまつてゐる。それも事情をはつきり言う事か直すところがあるなど益々よくない。

東陽は別に太宰の作を欲しいと言ってゐない。「狂言の神」が気に入ってゐるのであるからこの点も困る。よその雑誌で一旦突き返されて来た原稿をわけを知って買ふばかりか、気に入ってゐるといふのだから更にいけない。これは一応小言を言わなければ律気な富沢に対して済まぬ。

 翌朝自分は家内に命じて「太宰を電報で一度呼ばなければ」といふと家内は
「オイデマツと打ちますか」
「いや、そんな電報では何か面白い話でもあるかと思ってのこのこやつて来て小言ではいけないから、はじめからその覚悟をして来させたがよい。ハナシアルスグコイと打つのだ」

 自分が太宰を電報で呼びつけたのは右の如く決して封建的師弟関係のためではない。それどころか現代的商業道徳の発露である。商品紹介者の当然の手順を以て、原稿商人の取引上の違約不信を詰(なじ)つたまである。その序に自分が太宰を叱った事実もあるがこれとても一向封建的師弟関係のせゐではない。自分が新道徳の基礎にしたいと思ふ友情に従ったまでである。

彼を圧倒せず、自分を屈せず、人類共通の理性と徳性とを彼に要求したまでの事にしかすぎない。その他は皆太宰の妄想に非ずんば、読む者の錯覚である。

 創生記を一読して、自分はハナシアルスグコイを繰り返さうと思ったが、夜中であつたから、夜の明けるのを待った。夜が明ける頃になって、自分は思ひかえしてハガキにした。太宰と二人きりの対話は彼に妄想の材料を与える畏れがあると思ったから、山岸をオブザーバーとして相成可くは同道の上是非一度出頭せよ、来なければこないでこれきりの交際にしようといふ意味を籠めて多少の怒気が含まれてゐたらうと思ふ。太宰は直ぐ返事のハガキをよこした。文言は、
(われ等不変の敬愛、信ぜよ)
 先生。
 十月八日に山岸同道お伺い申し上げます。立派に申しひろき致します。疑雲一掃の堂々の確信ございます。不一。

 とある。僕は決して自分に対する太宰の不変の敬愛など要求してはゐない。太宰に軽蔑されたところが一向痛痒もない。ただ太宰に彼自身の智慧を覚醒させその徳性を発見することを要求したいだけである。十月八日に彼は訪問出来ぬ理由を説明したハガキを寄こし、つづいていろいろ面白い手紙をよこした。本当の話は実はこれからだがもう紙がない。

今度の時のにしまつて置かう。かういふ噓つぱちと「命がけの誠実」「不変の敬愛」などのしつくり組み合った手紙や直ぐ大恩人などと呼ばれる交際は小うるさくて好もしくないものだ。悪く相手になってゐると心中させられる畏(おそ)れがある。
 古人は思ひ当る事言って置いた。

 つづく あなたのイノサン、あなたの悪魔――三島由紀夫様――森 茉莉

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