色情的な女というのは、いまだに女の魅力という幻想を捨てかねるらしく、あるいは自ら女の魅力の幻想に過大な、夢疑うことなき自信を持っているらしく、たとえホモであろうとインポであろうと、スリルと服を脱いで、美しい(あるいは美しくない)裸身をさらせば、男であるからには猫みたいに鼻を鳴らしてすり寄ってくると信じていられるようだ

本表紙 吉行淳之介編

美青年 金井美恵子

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最近、冷静になって考えてみると、この世にはやっぱり美青年というのが存在することが、はっきりわかったのだ。いや、この言い方は不正確で、この世に美青年が存在するのは当然で、わたしの周囲にも、と言い直さなければなるまい。もちろん、ここに言う美青年の中にホモは入らないのであって、ホモの美青年なんて言うのは、いわば絵に描いたモチ、大方の女は、ホモ美青年にとって、豚と真珠という傲慢で居丈高な気持を抱かせるにとどまるだろう。

美しくてなくては、そして色情的な女というのは、いまだに女の魅力という幻想を捨てかねるらしく、あるいは自ら女の魅力の幻想に過大な、夢疑うことなき自信を持っているらしく、たとえホモであろうとインポであろうと、スリルと服を脱いで、美しい(あるいは美しくない)裸身をさらせば、男であるからには猫みたいに鼻を鳴らしてすり寄ってくると信じていられるようだけれど、バイセックスじゃないかぎり。

まず、ホモが女と寝ることはないだろう、ということは確実で、この〈絶対に他の女と寝ることはあり得ない〉という確信ほど、わたしを酔わせるものもないのである。他の女と絶対に寝ない、などという純潔な天使のような男なんてホモ以外に存在するはずがなく、さらにその純潔をいやさらに高めることは、その男はわたしとも絶対に寝ることがあり得ないのだ。

 わたしがホモの青年を好きなのは、以上のような理由で、これ程、古風な精神的恋愛感情と似て非なるもの、これ程、自尊心を傷つけられることなく、相手の美しさを賞賛できる関係なんてのは、めったに存在しないのだ。

わたしはホモの美青年と一緒にいてその美しさを、周囲の女や男に見せびらかしてやるのが好きだったし、彼が周囲の自分の趣味にかなった男に色目を使ったり。女たちが溜息まじりに彼を見つめたりするのを見ているのも好きだった。

自分の隣りに、どう間違っても情事関係になるはずのない美青年が座っていることの幸福! 女の身体の急所急所を触っていれば、やがて喘ぎ声で鼻を鳴らすと信じている馬鹿な男たちへの反逆!

 わたしは、もしかすると、世間並みに本当は美青年が好きなのかもしれないが、美青年と恋をしてつり合うだけの美しさを自分が持ち合わせていないという理由で、美青年というのが嫌いだ。恋は、美男美女のものでなければいけないのだから。その点、その美青年がホモであれば、どうしゃっちょこ立ちしても恋は生れる気遣いがないから。安心して美しい青年と一緒にいられるわけで、冷静に純潔に彼の美しさを賞賛することができる。

男の美しさ、なんていうものは、あらゆる意味で女の手の届かないところで、それ自体として輝いていればいいものなのだ。手の届くところにある男なんて、ろくなものじゃない。そして女は簡単に他愛なく何でも憧れるから、憧れが曇った眼でしか美青年を見つけ出しはしないわけである。女の言う美しい男なんて信用できない。

 ところが最近、わたしは他人に言われて気づいて、それでシゲシゲと眺めてみたら、これぞ、まがうことなく美青年だったという青年が、ボーイフレンドの中に二人もいたので、本当に驚いてしまった。どういう風に美しいかというと、彼等は、少女マンガに登場する典型的な、長髪、やさしい顔、長い脚、すらりとした身体、という、あまりにも典型的で気味悪いほどだ。

酒場に行けばたちまち女たちが他の客をほっぽり出して群れ集り、ひたと身体を押しつけて動こうともせず、美青年二人は悠然と水割りなど飲み、これ程まざまざと、モテるということがどういう事なのか見たのは初めて。

モテる男というのは、ジタバタ騒がず悠然としたものなのであった。考えてみれば、この二人とは、かれこれ、七年のつき合いなのだけれど、彼等が美青年で女にモテるという実感はまるでなかった。

 一人は、一晩中他人の悪口をいかに痛烈に適切に喋るかということに全知性と全教養を注いでもまだ知性と教養が脳みそにたっぷり残っていて、上田秋成の注釈を明け方まで淡々と喋るような青年で、本来、こういう青年に美しさなどというのはあまり必要ないはずなのだ。

 知性だの教養だのは、美しくない男の専有物のはずなのだから。
 もう一人の青年は、ありとあらゆる思想を頭に詰め込んで、本当に好きなものと言ったらLSDしかないという、良く言えば生まれつきのニヒリストで、はっきり言えば、生え抜きのフーテン、まあ、この場合は、美しくないニヒリストなんてのは、世にもみっともない存在だから許せるけど、それにしても、美青年ほどうんさん臭い存在が世の中にあるだろうか?

 わたしは、この二人が、なるほど世間の男や女が等しく認め、女たちのほとんどが憧れる美青年なのだと気づいた時から(そして二人ともホモではまったくないらしいのだが)、なんとなく、うとましい気がしたのである。知性と教養を持ったり、あるいはニヒリストだったりする美青年を、一番傷つける言葉をわたしの口から言うとすれば、それはこういうことだろう。

「あなたって、本当に見れば見るほど美青年ねえ!」
 こういう言葉で、なんて美青年が傷つくのだろうと思う人は、知的な美青年やニヒリストの美青年では決してない人で、本当の美青年というのは、きれいだと他人に言われることになれているし、男が他人から美しいと言われることの裏にひそむ、恐るべき悪意に対して敏感で、その敏感さのうんざりするほど卑しさが、わたしは男のもっとも男らしさだと思っているから、美しくない男の方が見ていて楽しい。

 男の、姑息でいやしいみっともない面を見た時ほど、わたしを有頂天にさせることはなくて、こういう事を言うと、人は逆説だと思うかもしれないけど、これは逆説などでは断じてない。

 男同士の純粋に遊びのグループめかした仲間内でさえ身分や地位で決められる歴然とした発言順が決まっているのは、男がいかに社会的存在であるかを示して、頼もしいかぎりだし、男に対しておべっかいを使う男、目下の者をアゴで使う男、自分を賞賛する者としか付き合わない男、本当の情事を告白する男、噓の情事を告白する男、

上役にされた屈辱的な仕打ちと同じ事を目下の者に向かってやってみる男、秘密めかして他人の情事を吹聴する男等々、男のいやらしさを上げればきりがないけど、一等のいやらしさと哀れっぽさは、男同士の付き合いが本当は利害関係や主人と使用人の関係である場合にさえ、お互いにすぐ友情という涙もろい人間主義を持ち出して粉飾するところにあるのだ。女は友情などという錯覚から無縁の存在なのだけれど。

 経済力や社会的地位やその他諸々の力関係にまつわるコンプレックス一切を払拭して、男同士の友情が存在すると思いたがる民主主義なひ弱い錯覚を全て虚しい廃墟に変えて紛微塵にしてしまう、意地悪な言葉を必ず吐いてしまうのが男の友情なのだけれど。

 そういう現場に居合わせた時の、わたしの有頂天は、表面には出さないけれど、錯覚を思い知らせてしまう力の優れた方の男の、言いようのない品の悪さに向けられる。品の悪い男というのは、自己放棄の強さで周囲に、身も蓋もなくあからさまな真実を見せつけてしまう男のことで、こういう男を見ると、品の悪さにぞっとするけれど、こういう男に限って、他の時には周囲に自分の駄目さをわざと見せつけて安心させておく用意周到さがあって。ある種の芸術家で功成り名遂げる男にこの型が多いのである。

 それに比べれば、美青年が見せてくれる真実は、なんと可愛い気のある真実だろう。それは、たとえば、「色男金と力はなかりけり」(わたしの知っている美青年の一人はお金を持っているし、一人はケンカが滅法強いけど)ということがあり、美しくないものが美しくないという、とっくに知っている事実にすぎない。

 だから、わたしは美青年を傷つけてやることでしかいい気持ちになれないわけで、ニヒリストの全女性の溜息をさそう美青年の方には一触れらたくない部分をひっかくような意地悪を言って泣かしてやるし、もう一人の方には、さも憫笑と見せかけた笑いを向けてやれば、感受性の強い青年というのは充分傷つくにきまっている。

彼等二人にたいして、わたしがいかなる意味でも憧れを持てず、またホモの美青年と結べる安らかな関係も持てないのは、彼等がわたしに対して礼儀正しく優しく振舞いするだろう。

 彼等がわたしを少しでも軽蔑し、わたしの自尊心を傷つけるような事を言い、意地悪な真似をしたら、わたしは決して彼等を許さないかわりに、心から彼等のことを美青年だと思って憧れるかもしれない。

手っ取り早く傷つけられ軽蔑される妙法は、色眼を使って無視されればいいわけだけれど、美青年の尊大さはどんな色眼をも無視する方向には働かないという妙な確信があって、反対に色眼を無視できるのは美しくないモテない男という確信があるから、男に色眼を使うのも大変なことなのだ。

 しかたがないから、あたりまえのつきあいを続け、周囲の女たちが、二人のことを美青年だと言いはやすのを聞いて、わたしが、本当にね、などと答えながらクスッと笑うと、美貌や綺麗な身体より、知性や教養や思想や、あるいは〈何ものでもないもの〉の方が立派だと信じている二人は、実に嬉しそうに含羞と共犯者の持つ親しみと、馬鹿にされた事に対する礼儀正しい抗議を浮かべて、わたしの顔をチラッとみるので、この二人と寝たがっている多勢の女たち全部が、みんなわたしより年下でとても可愛いらしいものに見えてくる。わたしは、美青年のボーイフレンドと寝たがっている(そして本当に寝た)女たちを見ているのが好きだ。

 この幸福は、彼等と寝たがっている多くの女たちに反して、彼等とわたしが絶対に寝ていないという確信に支えられた幸福であり、彼等とわたしの間にかりに幸福があるとすれば、絶対に寝ないという関係しかないだろう。

 そうするに。わたしは美青年コンプレックスで、美青年を見ていると、心底腹が立っていじけてしまう事なのだけれど。
 *かない・みえこ(昭和22年~)作家
 *「面白半分」昭和47年9月発表
 つづく 交遊録・吉田茂 吉田健一
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