夏の避暑地で過ごす人が多い時期とは言え、野口富士男、青山光二、田辺茂一、といった十返さんの古い友人たちに加え、吉行淳之介、藤原審爾(しんじ)、巌谷大四、綱淵謙錠、色川武大、山本容郎、十返千鶴子未亡人、その他の作家や、十返さんゆかりのある出版社の人たちが集まって、にぎやかに故人を偲んだ一夜であった。

 本表紙吉行淳之介編

酒房「とと」回想・作家たちの酩酊夜話   新藤涼子

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閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合であったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい。
 セックスでの性交痛を画期的に和らげるには、膣奥に『ノーブルウッシング』を差し入れオリーブオイルを流し入れ「ときめき」を感じるセックスをすることで再び青春を取り戻せたような気分になれる。
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 夏の避暑地で過ごす人が多い時期とは言え、野口富士男、青山光二、田辺茂一、といった十返さんの古い友人たちに加え、吉行淳之介、藤原審爾(しんじ)、巌谷大四、綱淵謙錠、色川武大、山本容郎、十返千鶴子未亡人、その他の作家や、十返さんゆかりのある出版社の人たちが集まって、にぎやかに故人を偲んだ一夜であった。

 十返さんの十七回忌であれば、当然出席されたことと思われるのに、池島信平氏、梶山季之氏など、生き急ぎしてあの世に行ってしまわれたのは、淋しくもあり、残念なことである。
 田辺茂一氏の大きな笑い声や、吉行淳之介さんの、「チットモ、変わらないねえ」という、いたわりぶかい言葉を聞いていると、「酒房とと」を止めてから、こちらも十七回忌であることが、夢のようである。

「とと」が、会員制バー、という名目で店をはじめたのは、昭和三十三年四月、売春禁止法が施行された頃だった。青線「花園町」(現在のゴールデン街)をそばにひかえた区役所通りが、人通りも少なかった頃、その区役所の隣に、舞台衣装のデザインと縫製の店「レオ」を始めたのだが、夢にもバーを始めることになるとは思っていなかった。

 ところが、芝居をしていた頃の友人たちが集まってくる、家出人が転がり込んで来るといった具合で、縫い物の邪魔にならぬよう、家出人が自活出来るようにと、喫茶室を造ったのがはじまりである。

 新劇をやったり、詩を書いたりしては食べられない時代のことで、そんな目的を持ったが最後、親には反対されて家には居づらくなるし、自活するには、アルバイトでもしなければならないという破目におちいるのであった。コーヒーを作る人間にはこと欠かなかったが、新宿にはまだチンピラヤクザが横行していて、その店に入り込んでくる。おとなしくするから、いくらか出せ、ということらしいけれど、私はそれが悔しくて、「会員制」を名乗り、夜だけの店にしてしまった。

 宮仕えの経験のない私が経営者なのだから、当時は神武景気で、神様のように札びらを切っていた社用族という客を持たない悲しさが、逆に、ジャーナリストや小説家、詩人、画家、漫画家、ボクサー、野球選手、映画人、新劇人といった、自由職業人風の人たちが気軽に集まる雰囲気を作ることとなった。

 従業員といえば、ホステスというプロになるにはあまりにも気立てよい女の子ばかりで、昼間は近眼鏡をかけて寝転び、おせんべいを齧りながら小説ばかり読んでいるような女の子や、ベッサメ・ムーチョの歌ばかり唄っている女の子が「とと」の三階の屋根裏部屋に寝泊まりしていて、夜になると、もっさりと店で働いたりしていた。

 バーテンもご同様、伝票を整理するふりをしては、大学ノートに嘘日記をつけたり、落書きばかりしている妙な男だった。客が立て込んでくるとどきまぎして、顔に赤い斑点が出来るくせに、ひっそりとカウンターで飲む客とは、滑らかな落語もどき難解な冗談を言い合っていた。

 その男は小柄で風采もあがらず、おまけに小心なのですっかり安心していたら、私の妹とカケオチしてしまった。二人を捜し出すと、妹はどうしても別れないと言う。そこで「とと」以外にも「神田茶屋」という店を、神田に作る破目におちいった。その男が後の直木賞作家半村良になるとは、誰も思わずに、
「水割り、おかわり!」
 とか言っていたのである。見かけによらず半村良こと清野平太郎さんには江戸趣味があって、女房には古典的な柄の着物を着せ、部屋には華奢な造りの茶箪笥があった。そして自分は板前風の白い上っ張りに、サンダルといった格好で、築地に竹籠を下げて仕込みに出かけていた。

 働き者で、やさしい夫だったと思うが、女をひっぱたく勇気に欠けていた。女房お姫様あつかいするのも考えものである。
「あんたも何か書きなさいよ」
 というにくまれ口をきいて、妹は家出したそうである。こんなことがありながらも店は繫盛した。しかし店主も従業員も、お客様に友情を感じてしまう、肩入れする、あまり金を使わせない。本当に頭が痛かった。


 「とと」が店開きして間もない頃、友人の詩人山口洋子が、吉行淳之介さんを店に連れて来た。「薔薇販売人」以来のファンであった私は、吉行さんを前にして、その時には何も喋られなかった記憶しかない。

 それから間もなく『週刊現代』の「すれすれ」の連載小説を手始めに、新聞や週刊誌の連載小説、エッセイ、文芸誌には勿論のこと、短編、長編と、大変なお忙しさの中に突入された。今思い出すだけでも「街の底で」「鳥獣虫魚」「闇のなかの祝祭」「砂の上の植物群」、はじめての時代小説「雨か日和か」と昭和三十八年までをとっても、限りないのだが、仕事の合間に、といっても、ほとんど毎晩のように店に来られるのだから、仕事の苦労で、吉行さんの頭の神経性のハゲが出来てしまった時も、店中の心配の種になったものだった。

今考えると、子どもを騙しとしか思えない電気アンマの元祖みたいな器具を、三千八百円も出させて買わせてしまった。
「この電気、ハゲに当てるときっといいと思うの」
 何時もうるんだような目をしたセイコちゃんが言うと、
「うん、それ買ってみよう」
 吉行さんは、その心にも軀にも贅肉を持たない。容貌もシャープであるが冷たくはない。店の女の子も、他人に知られたくない暗い部分の身の上話をしてしまう。一見、娘風の未婚の母親が、吉行さんには、その子どもを見せてしまったぐらいである。

十返さんは十九歳の時はすでに文壇にデビューしていて、吉行さんの父親、エイスケ氏にいちはやく認められたそうである。
「そやけど、わいがなろうたんは、飲む打つ買うの三つだったんや」
 とは口ぐせで、
「エイスケ氏はジュンちゃんどころではなかった。スゴ味のある美男子やった」
 と言うのだから、十返さんの文壇生活は長く、現場主義を標榜(ひょうぼう)されるのも、もっとも、と思えるほどの小説好きで、生き証人としての豊富な話題の持ち主だった。

 吉行さんにとっては何だか困った叔父さんのようでもあった十返さんは、「とと」のPTAのとーさん、文春の樫原雅春氏が、かーさん。「とーさん、かーさん、PTA」、ということになっていた。素人マダムの私の経営は、みるも危うかったのであろう。

 その十返さんの「弟子」と称する角川書店の編集者だった山本容郎さんが、今や文芸評論家として、文壇百話「こんだけの話」などの著書となったことを考えると、感慨無量である。その手法は、師匠ゆずりの軽妙なタッチで、現場に居合わせなければわからない秘話を語りつつ、その作家の小説の面白さを明かすのだが、この「弟子」自身も傑作な人物、しかもいたずら好きだった。

 ある夜のこと、もてるところを見せびらかしたい十返さんが、銀座のバーから、新宿の私の店に、ホステスになりたての女の子を連れて来たことがある。
 我が家に帰って来た気分の十返さんが、すっかり酔っぱらってしまうのを見定めて、山本容郎さんはその女の子と散歩に出かけしまった。

 もっとも、その女の子は創価学会の信者であって、川岸を変えて飲もうとしたものの、折伏されそうになり、あわてて逃げ帰って来たのであるが…‥。
「師」の方は、中学三年生の時すでに、女学生とカケオチしたり、二十一歳にして、紀伊国屋書店社長田辺茂一氏が大切にしていた女秘書と、いつの間にか仲好くなって子どもまで産ませたというのに。
 ともあれ、ゴシップ好きの十返さんは大喜びで、
「ヨーローは、しゃくふくされて困っとるんや」
 ということになり、それを吹聴しつつ「もう一杯、ウイスキーくれえ」と叫ばれるのだった。
 私が書き貯めていた詩を、一冊の本(昭和三十七年・薔薇歌)にして出版してくれたのは、この容郎さんだったが、十返さんは、
「お祝いの会をしようじゃないか、わいでよかったら司会もするでえ」
 と言い出されて、私の仲間の「氾」(堀川正美、江森国友、三木卓、山口洋子、小長谷清美たちが同人だった)が主催であったが、出版記念会の言いだしっぺ、その上、本当に司会まで引き受けてくださった。それこそ、破格の好意と言うべきである。時間が経つごとに身に沁みてくる。

 三
「とと」の開拓者といえば、吉行さんをはじめとして、遠藤周作、梶山季之、北杜夫、中村真一朗、源氏鶏太の諸氏たちであろう。

 梶山季之さんは最初、発刊したばかりの『週刊明星』の、フリー・ライターとして店に表れた。やがて、梶山部隊として、『週刊文春』でトップ屋として活動されるのだが、昭和三十一年に『週刊新潮』が発刊された後を受けて、三十三年頃から、あっという間に各出版社が週刊誌を出すようになったのである。

剣豪ブーム、推理小説ブーム、漫画ブーム、と出版社は花盛りという有様。そして週刊誌ブーム。各社の編集者は、一週間ごとの発刊という目のまわるような仕事の合い間に、目を充血させて、「とと」にたむろしていた。テレビ局もご同様、まずはスポーツ番組で、野球プロレス、ボクシングをみんなが知るようになった。

 第十五次『新思潮』のメンバーだった純文学志向の梶山さんが、トップ屋になって大活躍と思う間もなく結核で入院されて、その間に書かれた推理小説「黒の試走車」がベスト・セラーで、退院された時には、押しも押されもしない、流行作家になってしまわれ、テレビドラマも書かれたりした。義理堅い人情家だったので頼まれると断れない、ということもあったと思う。

 ある夜、蒼ざめて呟かれた。
「ペンが持てないよ。書痙になってしもうた」
 しかし、豪酒家でもあり、こまやかな神経を働かす人ながら豪放磊落、やはり長生きは出来ない方だったと、つくづく思う事である。
 この梶山さんと山口瞳は仲が好かった。或る夜、お気に入りの女性同伴の梶山さんと、山口さんがいっしょに店にやって来た。
 胸元にきっちり、菓子折り風の風呂敷包みかかえていた山口さんは、
「これ、カジさんが帰る時、忘れずに渡してください。女房から、カジさんの奥さんへと、頼まれたんです。必ず、家へ持って帰るようにと念を押してください」

 山口瞳氏は、義理堅いうえにも律義、頑固者なのである。私の家に麻雀をしに、十返、樫原氏たちと見えたことがあったが、最後まで慇懃、膝もくずされなかった。文春の樫原さんは昔、山口さんの家庭教師だったこともあって、その頃の山口家というのは大金持ちで、軽井沢の別荘の敷地には、滝も流れていたと言うのだが‥‥。

 山口さんの直木賞受賞のお祝いのパーティーには、ご家族の方々も出席されていたが、当時ではめずらしいことだった。あとて、
「わたしの家には芸人が多くて、会をやったりする時は、みんなで喜び合って出かけるので、そのつもりでした」
 と言われたが、私は、家族同伴だった山口氏には好感を持った。だからこそ、山口さんの小説が私には面白いのである。

 その山口さんと全く対照的な、田辺茂一氏とも、梶山さんは気が合うのだから愉快であった。
 山本容郎さんを、「とと」に連れて来たのは遠藤周作氏だったが、ご当人は間もなく結核になられて入院してしまわれた。

 遠藤さんの逸話は、吹き出さずにはいられない伝説的なものが多いが、ご自分の家の犬に「ネコ」という名前をつけたというのは、大笑いした。遠藤さんは或る女優さんの大ファンであった。その女優のことを世間では、愛称として、ネコちゃんと呼んでいた。そこで、犬にネコという名前をつけて、だれ憚ることなく、
「ネコ! ネコ!」
 と叫んでいた、というのである。

 北杜夫氏も結婚されてからの口ぐせが、
「女の子が生まれたら、可愛い顔した漫画の、ヒロインの名前をつけよう」
「いいこと考えた。子どもが生まれたら、サーカスに売って金持ちになろう」
 などと、それを酒の肴にしておられたが、お嬢さんが生まれてしまった時から、二度とそんなことを口走らなくなってしまった。のみか、家を新築されたら(それまで、お兄さんの家に同居)トイレの水を流すのも惜しくなった、とのことである。

 この北さんは、『半世界』という同人雑誌の同人で、田畑麦彦、佐藤愛子、水上勉、河上宗薫氏たちとお仲間だった。
 川上宗薫氏は、芥川賞候補の常連で、何時も颯爽としておられた。身のこなしも軽快でダンスもお上手だった。最近の印象とは別人のおもむきがある。

 四
 水上勉氏が「とと」に通われるようになったのは「霧と影」出版される直前の頃だった。昭和二十三年に「フライパンの歌」を出版されてからも十一年ぶりの文壇へのカムバックである。社会派推理小説として、ベスト・セラーになり、翌年、直木賞候補作になってからは、これまた忙しくなられた。

 水上さんが貧しさの故に、九歳で京都の相国寺の徒弟に出されてからの苦労や遍歴のはなしは有名であるが、怨念に取り憑かれたように書き続けられるのだった。ご自分のことを、
「頭の鉢が大きゅうて、小男で‥‥」
 と言われたが、彫りの深い端正な顔だちである。「雁の寺」を書かれた頃は、あきらかに”鬼が宿った”としか言いようのない妖気にあふれ、目は落ち窪み、頬は削げた。
「業や‥‥」
 と言われたが、ウイスキーを飲みながら、ふっとにじむようにやさしい目をされることがあった。若狭のお母さんを思い出されるのである。山本容郎さんと私にこんな話をされたことがあった。
「北の国に生まれながら厚く着物を重ねることがなかったんだよ。ひび割れた手を人の前に出すのが恥ずかしゅうて、それでも春になると、目が痛いほどまわりが縁になってね。

 森のはずれに小川があって、そこでおえんさんは毎日、洗濯していたよ。ちょうど、学校から帰る頃の時間やから、小脇に、大きい丸や、小さい丸で採点してある石板を抱えて、一目散にそこまで走ったもんやった。

――こんなに一生懸命勉強したんだから、もう少し、丁寧に、丸をつけてくれるといいのにね――。
 おえんさんは、こないこと、言うてくれたんや。その頃、二十ぐらいやったおえんさんに、小さい赤丸や、大きい赤丸を見せとうなあ」

 額にかかる髪の毛をかき上げながらのお話を聞いていると、目の前の水上さんが、七、八歳の子供のように見えてくる。

 母恋いしと同じ気持ちであろう、おえんさんへの思慕であった。
 職業を転々として、文学から遠ざかっていた水上氏に、書くことを進めた菊村至氏と、出来上がった作品を「霧と影」を出版社に持ち込んだ川上宗薫氏が北原武夫氏をつれて、「とと」にやって来る‥‥。バーとは、そうした人脈が何本か流れ、そして交流する。

 余談ながら、一つの例として、「とと」に見えたことのある方の中から、単に文壇上の付き合い程度というのは除外しての、吉行人脈の関係のある人を取り上げて見ると、それだけでも大変な数になる。

 高見順、十返肇、柴田錬三郎、遠藤周作、安岡章太郎、阿川弘之、近藤啓太郎。村松剛、村上兵衛、島尾敏雄、村島健一、奥野建男、栗田勇、いいだ・もも、矢牧一宏、田辺茂一、水上勉、進藤純孝、小島功、加藤芳郎、岡部冬彦、富永一郎、風間完、永田力、五味康祐、田村康次郎、岡富久子、小林達夫、六浦光男、麻布中学校出身者まで入れると、山口瞳、北杜夫、といったところで、忘れっぽい私のことだから見落としているとおもうけれど、吉行さんが、二、三回連れて見えたっきりの方も、二人ぐらいあるとしても、こんな数になってしまうことだろう。

それに、この中には、編集者は含まれていないのだ。誰かが通いだすと、なんとなく集まってしまうということだろう。待ち合わせなくても、そこへ行けば、誰かに会えるということにあると思う。デラックスな雰囲気にして、美人ばかり店に揃えたとしても、それが成功するとは限らない。その店と、集まる客が持っている気質、みたいなものがどこかで一致する時に、溜り場となりうるような気がする。

 早い話が、家庭の幸、不幸、職場での幸、不幸も、その場に集まって生活する人間たちの気質が合うか、会わないかで、大きな分かれ目になるように思う。じっと我慢してまでバーなどというところに、遊びに来るバカはいないので、その店は気楽だよ。ということになれば、累は累を呼ぶ、ということであろう。

 その上に、酒場は気分転換をさせる場所でもある。憂さ晴らしに出かけるところでもある。マダムもホステスも主役ではない。そんなことが分かって来たのは最近の事で、その頃は何も考えないでボンヤリしているだけだった。見るに見かねて、心配で店に通われた方も多かったのではないだろうか。


 福永武彦氏の、「ゴーギャンの世界」が毎日出版文化賞を受賞されたお祝いの夜、最後の文士を任じる高見順氏が、大声で怒りはじめられたことがあった。
「君たちはみんなが文学生活を楽しんでいるだけじゃないか。文学をしている者は誰もいないじゃないか。血を流して生きろ。泥まみれなることを恐れるな! 生活しろ!」

 中村真一朗、丸谷才一、結城昌治、その他大勢の作家や編集者たちが、にぎやかに談笑している最中だった。その言葉は今にして思うと。社会に向けられる、高見氏の苛立たしい気持ちだったのではないだろうか。

 昭和三十五年に新安保条約が強行採決されるや、全学連が国会構内に侵入して、女子学生の華美智子が死ぬという事件が起こったり、社会党委員長の浅沼氏が、右翼の少年に刺殺されたりと、騒がしい混乱が続いた。それなのに、テレビや雑誌、週刊誌などの繫栄で、文学者も、現実をどうやって生きるかという、自分自身への求道精神を失って、単なる商業主義にのっかるタレントになっているではないか‥‥。そんな気持ちではなかったかと考える。

 世の中は、あきらかに変わりつつあった。或る時、珍しく垢抜けたホステスが三人、連れ立って店にはいった。三人とも水商売の水をくぐった身のこなしがあって、いっとき店の中が華やいだものだった。

 女の人には目が高い北原武夫氏も、その中の一人に、絵を画く”材料費”というのを、絵を画いたことが無いその女性にねだられてプレゼントした。
 吉行さんは何も進呈しないのに、この三人組にもてていた。この三人の女性は、私の家にもよく遊びに来て、オイチカブやマージャンをやっては、私はカモられていた。一人はおめかけさん。一人はバーテンのカミさん。もう一人は、何々組の組長というような感じの男といっしょに住んでいた。

 男がいてお勤めに出ているのだから、当然、暇つぶしか、ゆっくりした身分で働いているのかと思ったらこんなことを言われてしまった。
「ととも好きだし、ママもお客もみんな好きなんだけど、ここに居たんでは出世が出来ないのよ。ママは人を騙すなと言うし…、止めたくないんだけど、お金が貯まらないから仕方がないのよ。悪く思わないでね」

 これでは思いとどまらせる手立てがない。
「ママもね、少しは考えたほうがいいと思うよ。慈善鍋じゃないんだからね、商売は‥‥。騙してもね、相手がよろこびゃ、それでいいんだよ」

 言いたくないけど、ママを見ていると、じれったくてと、こんなことを親身になって喋ったあげく店を止めてしまった。ちらほら、大学出のホステスや、モデルや映画女優になるよりもマシというホステスが、銀座あたりに出現するようになり出したころである。

 慈善鍋ではないけれども、確かに「出世払い」あつかいで、あまりお勘定の催促を受けなかった特別の人が何人か居て、その中のひとりが野坂昭如氏だった。まだ小説は書いておられなかったが、黒メガネをかけて、時には着物を着て来たりして、大変なおしゃれだった。

 或る時、野坂さんの古い友達がこんなはなしをした。
「野坂が憧れていた女性がいましてね。その女の住んでいるアパートの二階の部屋を、いつも野坂は下から仰ぎ見ているわけですよ。それでも声をひとつかけられなくてね。

 或る夜ですな。二階の部屋を見上げると、洗濯物が取り込まれないで、窓の外にヒラヒラしていた。そこで大決心をするんです。
 せめてあこがれのひとの身につける物を頂こうって‥‥。野坂が苦労して外からよじ登って、その洗濯物のひとつを手にした途端、ガラッと戸が開いて、ドロボー! って叫ばれちゃった。なんと、それは男! 

 野坂は転げ落ちる。捕まる。僕が引き取りに行ったんですが、そんなに苦労して、野坂が握りしめていたのは、男物のワイシャツということでね。
 野坂は女が男と住んでいたとは知らなかったですなあ。見かけによらぬ”純情なドジ”ですよ、こいつは‥‥」

 黒メガネの奥の気の弱そうな目を、シバシバと瞬かせて、野坂さんも苦笑いしている。店の女の子も私も、転げ廻るほど笑ってしまったが、「女は人類ではない」などとテレビ座談会で言ったり、プレイ・ボーイぶるのも、純情すぎての傷の深さかと、おかしかった。

 吉行さんにこの話をすると、吉行さんの顔に微妙な揺れるものがあった。吉行さんには、人の才能を引き出したり、見つけたりするにも天文があった、と私は思っているが、野坂さんも、その中の一人のようである。

 この野坂さんほど艶聞のない人も珍しかったが、或る日、喜色満面、桃色に上気した顔で一人の少女を連れて来た。なみいる人に、
「この人と、結婚します!」
 と、うわずって断言していたが、やがて、宝塚出身のその少女と、丸谷才一氏の媒酌により、ホテルオークラで挙式ということになった。

 今でこそ、新郎のお色直し、というのも見受けられるようになったが、この野坂さんが、そのはしりではないだろうか。新婦のお色直しと同時に、手をつないで紋付に着替え直して出て来て、アッ! と驚きの声をあげられた。

 さもありなん。私ごときが人の結婚式のために、というよりも、世の中のけがれを知らぬみたいな、初々しい少女に惹かれて、式にはあと三万円足りないという野坂さんに、融資したぐらいであったのだから――。後日、Rという私の頭文字を彫金したネックレスをお礼にと、頂いたのだが、こんなめんどうな事は、誰にも出来るというものではない。丁寧な人なのである。


 この野坂さんや戸川昌子さんがテレビや舞台で歌ったり小説を書いたりなさるのは、今では珍しいことではなくなったが、作家が、映画に主演したことが大話題になった頃のことである。太陽族の元祖・石原慎太郎氏の出演はあまり意外とは思わなかったが、三島由紀夫氏が「からっ風野郎」でスターになられたのには、ビックリしたものだった。その三島氏を奥野建男氏が店に連れてみえた時、
「あまり強そうではないなあ」
 と、思わず言ってしまったのである。
「決闘だ!」
 ボディビルで鍛えた体がご自慢の、小柄の三島さんは叫ばれた。決闘は水泳で行われることになって、その二日後、千駄谷の東京体育館の温水プールに行ったが、二時間ほども泳ぎまくった私が、勿論、カチであった。
 その日をきっかけに、時々お遊びの招きを受けるようになったのだが、熱中度の高かったのはツイストである。

 三島氏は大真面目で、身振りやら、足の動かし方を研究された。頭の中で理解してから体を動かそうとするので、音楽に乗って、リズミカルに踊るまでが大変だったが、ツイストに関しては先生であった私も、その真剣な態度に、何事にもあまり努力しない自分の駄目さ加減を思い知らされるのだった。

「君の店は文壇人が多いからキラいだよ」
 と、店にみえるのは敬遠されたが、どの作家よりも情熱をこめて文学のことを語られ、つまるところ、
「みんな噓つきで、本当のことは何一つ書いていない」
 激しく怒り出されることが多かった。その三島さんは、私の詩のようなものを書いていることを発見された時、
「僕にだまっていて、君は悪い奴だ」
 と、いたずらを見つけたと言わんばかりだったが、”詩人という存在は厄介だ”と言われたの知っていた私は、これでもうお会いすることはないだろうと、あらためてつたない詩集をお送りした。読んでくださるとは期待していなかっただけに、読後感が書かれてあり、ご自分の詩に対する考え方を述べられた丁寧なお手紙を頂いた時に、心を打たれた。

 三島氏は、お礼の手紙を出すこともためらわれ、今になっては、本当に失礼なことをしてしまったと思う。しかし、そのお手紙によって、私は詩の読み方を教わった。

 三島氏は後ろ姿の淋しい人であった。明朗闊達な笑い声と共に忘れられない方である。
 三島氏が割腹された日、私は、私自身が女であることをひたすら何者かに感謝した。
 三島氏が、四十五歳という男盛りの肉体に突き立てられた刃は「時代」に向けられていたとしても、結局は自分を、国を、世界を、捨てられたもののように私には思えた。

 女の私自意識は、自分が生まれ育った処を捨てる事からはじまり、自分を取り巻いている生家や肉親の骨組みの外に、自分の世界が創れるという錯覚でさまざまな行動を引き起こした。捨てる、ということに、三島氏のような壮大、壮絶な装置を必要とするほどの天文も能力も思想もなく、捨てるためにやった事というのは、せいぜい駆け落ち、離婚、バー経営、吐きだすようにして創られ、ついに自分だけを慰めてしまうような何冊かの詩集が手元に…という、生きることだけが可能性のすべてのような私なのである。

 そんなことがおぼろげながらわかったように思うのは最近の事で、三十歳になる前には、頭でっかちなだけで、何もわかってはいなかったと思う。


 源氏鶏太氏の口癖は、
「お店の経理はちゃんとしていますか。これは大切なことですよ」
 だったが、私が劇団東童にいた頃の先輩の恵子さんが、会計も、お店の中の事も、従業員の面倒も見て取り仕切ってくれていて、自分のお店でありながら、店の経営には全く無頓着だった。

集金も支払いも、一切、恵子さんにおまかせ、私がやった事といえば。ピアノに合わせて、ウクレレ、ポンゴ、ギター、カスタネット、ギロ、などを女の子と打ち鳴らし、暇な時には、皆で大喜びして、楽団ごっこをしたり、店が終わったら、マージャンをしようよ、と、そんなことばかり言っていたのである。

 甘えていた、としか言いようがないのだが、なり行きで「とと」以外に「神田茶屋」、「芝くぶ」「ぐらんでゆっく」と、四軒に増えていた店を整理して、やっと、「とと」だけを残すと、何もかも空しい気持ちに襲われた。遠くへ行って、ひとりっきりになって、じっくり自分のことを考えたい。恵子さんにその話をすると、反対していたのに、珍しく私の家にやってきて、「いいわ。どこか外国にでもいってらっしゃい。ほんとき、あたしもそんな気持ちになってたの。でもママがいない間は、あたしも頑張る」

 と言ってくれた。それにもかかわらず、外国への自由渡航のままならぬ時期で、いっこうにパスポートが貰えない。
 壇一雄は、どこからどこまでが「旅」なのか見当がつかない、というほどの、現実生活の脱走者である。そこで、たちまち脱走の道ずればかり、ある時は、草野心平、伊藤信𠮷たちと九州へ。ある夜思いつくと、松本孝夫夫妻たちその他十人ばかりもタクシーに分乗して、夜明けには茨城にいるという、大脱走の繰り返しが続いた。

 壇さんは、「風貴族」であった。その爽やかさは、傍にいる人すべての鬱屈を吹き払ってしまう。御食の大家であるから、どこの土地に行っても市場で材料を吟味しての、手料理がはじまる。
 ある夜、珍しく店に出ていると、奥多摩の河べりの貸し別荘から電話がかかってきた。
「福岡から、石田先生が出て来んさったら、ここへ来ちやらんね。月もヨカです。

中秋名月の夜だった。石田良明氏は、医者でありも詩も書いておられた。九州を旅行すれば必ずお世話になった。その上、S社の編集者が原稿を取りに来ているという。その年下の彼に、恵子さんはゾッコンだった。

 私は恵子さんが喜ぶことと思い、珍しく奥多摩の月見に誘った。長年付き合って来たのに、何時も留守番役の彼女とのはじめての遠出だった。ほとんど毎晩のように酔っぱらって十返さんを、自宅まで送り届ける役目だった恵子さんは、中古車を買った。その車に乗って、大はしゃぎで出かけて行った。

 多摩川の、崖の上の家では、みんな七輪を囲んで胡坐をかき、水炊き料理がはじまっていた。
 編集者のY君と、恵子さんは、
「ちょっと川原で月を見に‥‥」
 と、外に出て行った。

 十分も経たないうちに、きり立った崖の下から恵子さんの痛切な叫び声がし、最後の声が、水に飲まれたように聞こえなくなった。
「リョウちゃん! 助けエー・リョウチャン」
 私は、その時はっきり啓子さんが死んだ、と思った。店を手伝ってくれるようになってからは、折り目正しい彼女は、人前では私のことを、「ママ」と呼んでいたからだ。どんなに、普通通りに、名前を呼んで、とたのんでも、けじめが大切よ、と言って、私の言い分に取り合わなかったのだから。

 壇さんも石田さんも、別荘のご主人も、
「ケイちゃんが死んだ!」
と叫んだ私にびっくりして、樹が生い茂って月の光が届かない崖をめくらめっぽうに走り降りた。Y君が岸辺に茫然と立っていた。壇さんは真っ暗な川に飛び込んだ。捜査隊はすぐにきてくれて、一晩中、川を探したにもかかわらず、恵子さんの遺体は翌日の朝、十時過ぎまでみつからなかった。

 川下の浅瀬で発見されるとすぐに、十返さん、吉行さん、樫原さんが駆けつけて来てくれた。
 家中、ありったけのお金を、千鶴子夫人が渡してくれたと言って小銭までいっている包みを十返さんは持って来て、「香奠」と渡してくださった。

 夏、光る夏、涙交じりの汗にまみれたあの夏は、もう何処にもなかった。


 恵子さんの追悼会はあらためて、新宿のメイフラワーホテルで行われ、その司会は十返肇氏が、やってくださった。それから一年の後、ご本人の十返さんがガンで亡くなるなど、想像も出来なかった。小柄の白髪で、瘦せておられたが、四十九歳という若さである。

「十返さんは、勝栗を煮しめたように丈夫で、百ぐらいまで長生きするよ」

 吉行さんがこんなことを言われたが、私たちも本当にそう思っていた。恵子さんが居なくなってからは「もうそんなに飲んじゃ、ダメよ」と恵子さんのセリフをまねてして目白の家に送り帰そうとしても聞き訳がなくなり、一日に、ボトル一本、という酒量だったのである。長い文壇生活の間には、ご自分で、ウダツのあがらぬ時期、と言われていたこともあったらしいが、その頃は、評論もエッセイも小気味よく冴えわたり、仕事にも油が乗り切っているという感じだった。

その外に講演やら、テレビ出演などでお忙しかったにもかかわらず、マージャンがしたいのか、人と別れがたいのか、とにかくよく集まって徹夜をするのだった。会場は、藤原神審爾氏の時もあり私のアパートの部屋の時もあった。

 藤原さんは結核の成形手術の翌々日には、その入院費や生活費の為に、原稿を書かれたというように苦労されたわりには、育ちのよい坊ちゃん風大人(だいじん)のおもむきがあって、顔を合わさなくても、傍に居るだけでも安心、といった雰囲気があったから、とうとう私は、その斜め前のアパートに引っ越してしまったぐらいだった。

 メンバーは、十返、吉行、阿川、樫原、色川武大の諸氏が入れ替わったり、二卓囲む、というようなこともあったが、勝ちたい気持ちはみんな持っていても、わめきちらし、しゃべりちらし、たちまち、ワルガキみたいになるのが特徴だった。徹夜はいけません、といましめ合って集まる。ウイスキーを手放さないで牌をかき回している十返氏がまず叫び出す。

「もうこうなったら葬式出すまで帰さんぞう」
 だから、昭和三十八年の四月二十二日、口の中に腫瘍が出来て入院という日の朝まで、「入院を励ます会」と称して、私の家でマージャンをやっていたのである。十返さん最後のマージャンとは誰も思わず、手心を加えることも思いつかず、チートイツをされたりすると、
「へんなもんばかり食うから毒舌ガンになったんや。あっ、それでロン!」
「ああ、イタイなあ」
 十返さんが点棒を出し渋っていると、
「痛い年ではない! 早く出す!」
 とひったくって、故人はいいひとでした! などと叫んでいたのである。
 十返さんが築地の癌センターに移られてから、やっと、パスポートが手にはいった。自由渡航が出来ない頃だった。パリへ出発の日に、病院にお別れに行ったが、十返氏は手術の為に口がきけなくなり、あの懐かしいダミ声のお喋りはもう聞くことが出来ないのだった。それでもベッドに起き上がって、痛む頭をかかえて、「志」と封筒に書かれたお餞別に書かれたお餞別を頂いた、その後で、
「先輩より多くては失礼にあたる。千五百円ほどお釣りをください」
 という吉行さんからもお餞別をもらい、せめてもの悲しみの中の出発を和らげようとされたその優しさに、私は大声で泣いた。その日が、私の「とと」との別れの日であった。

 パリで十返氏の死去の知らせを受け取った私は、その日、北ホテルの運河まで車を走らせた。パリのはなやかさの裏側のようにさびれてきたあたり、夕闇に黒くうずくまったプラタナスの木立の下に河が流れていた。

――私は一体、どこへ行こうとしているのだろうか―、アイちゃん、キヌヨちゃん、幸ちゃん。お店に残して来たその他の女の人たち、ごめんね。
 この五年ほどの間、どんなにこの人たちが私の支えになったことか‥‥。
 私にはこの人たちのことも含めて考えなければならないことがいっぱい残されていた。
 (昭和五十五年一月)新藤涼子

 つづく 恋愛サーキュレーション図書室