忘れるということはステキなことである。
苦労は、忘れてしまうと苦労でなくなる。
東へいっては、〈苦労は逃げえ〉といい、北へいってし、〈昔の恨みつらさは笑い話にしろ、受けるぞ〉という。色紙を出されると、
〈酔生夢死〉
だとか、
〈山川草木(さんせんそうもく) 悉有仏性(しつうぶっしょう)〉
だの、自分でもよくわからん文句を書き、依頼した側ももとよりわからず、べつに末代までの家宝にする気はないから、蔵(しま)っておきもせず、週末の大掃除にはゴミ袋に入れられてしまうのが、書き手も頼み手もべつに無残なこととも思わない。
オトナの夢の第一は「墓場に近き老いらくの、恋は恐るる何ものもなし」と歌った川田順の「老いらくの恋」(『恋の重荷』)で、これが理想であるが、まあ夢は夢である。
惚れる
「人は自分が愛した者のことは忘れても、自分を愛してくれた者のことは忘れない」
というのであった。小説の中ではこのほうが座りがよく雰囲気が出る。
女が男に惚れて片思いをするとする。恋は想像力の助けを借りて、相手の男をいやが上にも好ましく思わせてゆく。女はいよいよ思いつめる。
恋をうちあけようか、自分から口説くなんてはしたないと思われないかしら、しかし積極的に出なければとてもあの〈うすらバカ〉には(もちろんこの悪態には、せつない恋心が裏打ちされているのである。気付いてくれない朴念仁(ぼくねんじん)に、やるせない怨みの涙イッパイ、というところ)通じないだろうし、――と女はためいきをつく。
恋がかなって、いうことなしの人生至高至福の刻(とき)である。〈刻よ止まれ〉と思うのはこういう状況の折りの願いであろう。しかし人生にはそういう時間は長く続かぬことになっている。次第に齟齬(そご)をきたし、軋(きし)みはじめる。というもの、――女は注文の多い種族だからである。
自分と等質の愛や恋を男に要求する。
しかし男の在庫には、その種類の商品はない。〈男〉という商店には、その〈手〉の商品は扱っておらず、
〈これではあきまへんか。タイプは違(ちゃ)いますけど、性能は同じです〉
と別のものをすすめたりする。女は承知しない。求めるものを、そっくり要求通り提出すべき、と男を恫喝(どうかつ)する。そのくせに、だ。
男が自我を矯(た)めて、女に同調すると、女はまた、気に入らない。そこまで惚れてきた男を、こんどは見くびってしまう。
優しい男、自分の思い通りになる男が好きなくせに、そうなると見くびるとは、何と女とは〈あまのじゃく〉なものであろう。わざとのように逆らってばかりいるが、その実、女にしてみれば真剣なのである。
〈私、まちごうたこと、いうてますか〉という気だから男は助からない。女に尽くせば尽くすほど女は、男を与(くみ)しやすしと呑んでかかり、無理難題をいう。
やがて好むと好まざるによらず、別れの季節というものがめぐってくる。あらゆる恋は花を咲かせたら萎れるものだから。・・・・・
別れる予感が感じられたら、女はたいへんなテクニシャンになる。
ありったけの知恵を絞って男の愛を蘇らせ、男に、今までになく自分を愛おしい、と思わせようと努力する。
二人の愛をつなぎとめ、至高至福の刻(とき)よふたたび――と意図するためではない。
じつはそれは〈別れる〉ための工作であるのだ。――いや、女というものは奸譎(かんきつ)意味は「最高に美しい意味に於いて――」なものであるのだ。
男はうまうまとそれに乗せられ、以前より女を愛しているような錯覚を抱かされてしまう。そこで女は別れてゆく。こういうアフォリズムは如何でしょうか。
「女は愛されていると確信した時に別れられる種族である」
寝首
いい男とは、可愛げのある男である。なんでもかんでも融通して折れてしまうというのも魅力がない。男はそんなに円熟しなくてもよい。角熟(かくじゅく)でよい。男の沽券(こけん)というのがあるが、時々それを出して見せたらよい。失敗談や弱音を正直に吐くのも可愛げのうち。
べつに、慰めてもらおうとか、立ち直るヒントを与えてほしい、という下心で吐くのではなく、飾り気もなくダダ漏りに、
〈いやァ、もうニッチもサッチもいかへん。モロ、グリコの看板〉〈可愛げ〉というのは、意地悪から遠い、という認識がある。〈男と意地悪は出合いもので、たいていの男はみんな意地悪だよ〉という悲観派の女もいるが、環境や立場上、そういうのもいるだろうけど、男がみんなそうとはいえない。
いい男とは、可愛げあってほどのいい男である。
ということだ。
家庭の運営
臭いものに蓋(ふた)。それは家庭の幸福。
家庭の幸福 太宰の「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」というアフォリズムは、太宰ふうの逆説的表現ではなく、真理だという発見をもたらしたこと。家庭の幸福、などというものは、その家庭では芳香だが、外へ洩れると悪臭になる。よって、
「臭いものに蓋。それは家庭の幸福」
という、私のアフォリズムは、そこからきている。
世の中が開明的になったのか、ススンダのか。あるいはどこか綻(ほころ)びかかっているのか。
人々は人生で、家庭以外の〈面白いこと〉の禁断の味を、知り過ぎてしまったのである。
幸福と面白いことは違う、ということを発見した、といってもいい。
要するに昔の素朴な家庭観は(いまもその幻想を抱いている人もいるが)いまや変貌(へんぼう)しかかっている。
男も女も面白いことがこの世にあることを知ったから、家庭経営はむつかしくなってしまった。
面白おかしい家庭、というのはあり得ない、平和と、面白おかしいことは、両立しないから。
面白いのは、人間関係だけではなく、趣味もはいる。その程度が社会的許容範囲であればよいが、バクチ、漁色、飲んだくれ、浪費、変態、ワルイことはたいてい、面白いだろう。それらは家庭の幸福や平和の対極にある。
しかし、〈面白疲れ〉したときに帰る家があればこそ、面白いことにうちこんでいられるのだ。
その帰る家が、いつまで、あるのか。
家庭の運営、というものは、だましだまし、保たせるものである。
なのである。不調になった体、車、諸機械、潤滑ならずる人間関係を、〈ああしィ、こうしィ〉、機嫌をとりとり、様子を見い見い、あっちにも立て、こっちを立て、あらゆる面から試み、思いつき、手をつくしてみる、綻(ほころ)びはつくろい、塗りの剝(は)げたところは塗料を吹き付け、壊れた部分は似たようなものを拾ってきて、あり合わせのチェーンでつなぎとめてそろりと動かす一メートル動けば、二メートル、という風に。それでも〈家庭〉という奴は気難しく、ふてぶてしい奴で、〈モノよりココロだあっ〉と叫ぶかもしれぬ。そういうときに、おお、そうかそうかと、これもあり合わせのココロでごまかしておけばよい。
大切なのは、とりあえず、到達地点まで保たせることである。〈家庭〉のご機嫌をとるのを、〈だましだまし〉という。〈だましだまし〉というのは詐欺や騙(かた)りではない。
〈希望〉の謂(い)いである。
しかし、人によっては、だましだまし保たせるにも飽いた、というときがあろう。そういうときはさっぱり撤回、解消して、また新しい家庭をつくればよい。しかし新旧を比較してみるに、〈家庭の運営〉たるや、やっぱり大なり小なり、〈だましだまし保たせる〉部分があるなあと、気付く・・・・のではあるまいか。
人生はだましだまし
上品・下品
いつまでも、美味が美味で通らない。女の方の人生的体調にもよるが、〈舌の味が変わる〉ということもある。
すると、今までオイシイと思っていた男が、そうでもないことに気付く。それどころか、美味だった点がおぞましくなってくる。女は思う。
〈あたしの舌、風邪気味で荒れてたんだわ〉
かくて、〈可愛い男〉とは切れやすいのである。
〈可愛い男〉というのは、甘え上手だったり、ベッドボーイっぽっかったり、ワガママだったり、(男のワガママが魅力、という女もいる)中には薄情だったりする。
薄情な美青年、というのもまた、ことさらなる味わいがあるのかもしれない。要するにその味に目くらましをかけられているうちは、
老いという言葉と、字のイメージには、宿老とか、老熟、老練、というように尊敬的ひびきをもつものもあるが、しかしまあ、一般的概念では、老朽、老害、老獪(ろうかい)、老醜、老残、老耄(ろうもう)などと無残なイメージが多い。
老いぬれば転倒やすし。
男は犬に似てる。
場所ふさぎでカサ高いわりに、甘エタで、かまってやらないと淋しがってシャックリをする。
このシャックリは精神的なシャックリである。体調の違和感を訴えてみたり、これ見よがしに不興を見せびらかす。
〈男持ち〉の〈女仕事師〉は、仕事も心ゆくまでできない。ときどきかまってやらないと淋しがる、というのは、ここをいう。
ふたごころ
嘘というものはまあ、よっぽど致命的な、犯罪とよべるほどのものはおいて、たいてい少々しは普通に世に行われる。珠に商行為では自然の営為で、商売というもの、これなくして成立しない。男は嘘をつけない代り、黙っていられるという特徴がある。男は隠し事の大家だが、それは正直という特性と背馳(はいち)しない。
金銭トラブルなら手の打ちようもあろうが、愛や恋、情のからむ秘密は、解決しようのないことが多い。本来的に身分不相応の秘事である。
男は寡黙になってしまう。慎重に話題をえらぶ。妻を刺激しないことに全力を傾注し、秘密を守り通そうとする。そういうとき、妻は愛が冷めた、とか、心が冷えた、という男もあろうが、そこまでいかない、というのが大方の事情ではないだろうか。家庭は家庭として、もう一方は一方として。
「問い詰めて、とことん聞き出すのは妻。
見て見ぬふりをして、問いただしたく思うことが口まで出かけても、むりにのみこむのが恋人。
証拠をつきつけて、ぎゅうといわせるのが妻。
証拠を自分で握りつぶして、信じまいとするのが恋人」
ほんものの恋
好色な人は男も女も、人生、たのしそうに生きている。
〈われわれ熟年にとって、やっぱり究極の憧れは、好色や色ごと、というより、恋やなあ。一世一代のラストの恋をして、この世をおさらばしたい、せつない望みがあるなあ〉
血の冷え
一緒に笑うことが恋のはじまりなら、弁解(いいわけ)は、恋の終わりの暗示である。
いいわけは、隠し事を暗示する。尤(もっと)も恋にはある分量のかくしごとは必要である。それは恋を一層おいしくする香辛料のようなもの、相手を愛する気持ちエゴはないから。
しかしいったん利害の陰のさすエゴが生まれると、恋は腐臭をたてはじめる。
恋を美味しく味付けするはずの〈隠し事を〉は、ワルの匂いのする犯罪になってしまう。弁解は嘘のはじまり。嘘や弁解を見ぬいていながら、まだ〈恋〉がたゆとうている人は、気づかないふりをする。
そういう外的条件のおかげで別れたのではなくても、いつかは愛は褪(あ)せ、熱も冷め、絆はほどける。
そしてこの、恋の絆というヤツ、これが実にほどけやすいしろものであるのだ。
これをいつまでも強く結びつけておこうとすると、とてつもないエネルギーと情熱、それにさまざまのテクや智恵を必要とする。
ヒトと暮らす、
おっさんとおばはん、
捨てる
オトナ度
夫婦でいるかぎり、夫婦仲よく、幸福でありたいと思わぬ夫婦はないだろう。ケンカしようとて、夫と妻になったのではないから。
それでは、夫婦の幸福、というのはどういうものだろうか。
気ごころ
そやな
今までは夫婦という関係を、少し消極的・退嬰(たいえい)的。悲観的に見すぎた憾(うら)みがあるので、今回は、反対に、進取的・楽観的・建設的、かつ世の中に有用的に考えようと思う。
人間のプロ
別れ
〈女の器量は年齢(とし)にもよりますな。若い女は”気散(きさん)じ”です。あ、気散じ、っていうのは明るうてパッパとしてて、好奇心や関心がすぐホカにうつりやすいこと。いったんはキッキッと怒っても、別口あったらひょいとそっちへ関心が向いて、あとくされない”ほな”になります〉