あれは誰だったのだろう――
 そんな繰り言を呟けば、それは夢よりも曖昧だと笑われるだろう。実際に、夢かもしれない。いつもいつも狂おしいほどに、それが頭から離れなくて苦しいというほどではないのだけれど、ふっと気がつくと思い出している。そんな感じだ。

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本表紙

淫らな罰 岩井志麻子

1 奇妙な記憶

あれはどこだったのだろう。あれはいつだったのだろう。そして、あれは誰だったのだろう――
 そんな繰り言を呟けば、それは夢よりも曖昧だと笑われるだろう。実際に、夢かもしれない。いつもいつも狂おしいほどに、それが頭から離れなくて苦しいというほどではないのだけれど、ふっと気がつくと思い出している。そんな感じだ。

 そこには、とても小さな部屋だ。部屋というより、大きな寝床といった方がいいかもしれない。大人が二人寝転べば、いっぱいになってしまうだろう。太った人なら、たった一人でも満員だ。

 床は木で、上に安っぽい材質と模様のビニールシートが貼ってある。まるで安食堂のテーブルクロスだ。どこにも咲いていない、紅い花の模様。低い天井は白い漆喰で塗られてあり、ところどころ剝げている。その中央には、旧式の大きな扇風機。

 こんなに狭い部屋なのにあまり圧迫感閉塞感もないのは、四方の壁すべてがきっちりと天井までは無く、上の部分が空いているためだ。つまり壁というよりは、大きな衝立てが、囲いといったもののほうに近い。

 ともあれ記憶の中ではいつも、扇風機の羽根は暖慢に回っている。生暖かい空気を攪拌(かくはん)するためだけに。そうだ、空気そのものが甘い匂いを孕んでいた。腐りかけの果実、枯れかけの花、そんな匂い。

 入り口は、剥げかけた桃色の塗料が塗られた木のドアで、中央から折りたたんで引いて開ける形だ。あまり、というより、少なくとも東京では見た覚えのない仕組みのドア。桃色の塗料もまた、あるようでない微妙な色合い。

 この部屋はどうも中二階、もしくはロフトといった造りらしく、短い階段だが梯子(はしご)だかを昇った上にあるのだ。まるで人を入れる鳥籠――といういい方も変だが――のような部屋は、窓がないのに奇妙な光にあふれている。

 ちょっと背の高い人なら、立っただけで頭が天井につかえるだろう。ドアの左横の壁は特に上の部分が空いていて、隣の部屋が見える。部屋というより、廊下だ。廊下の向こうにはガラスのない窓があった。

 ガラスが壊れたり、取り外されたりしたのではない。最初からガラスははめ込められていない造りなのだ。つまり、この部屋は南国にあるらしい。わりあいに、治安のいい南国に。

 この夢とも記憶ともつかないものは、細部まで息苦しいほど描ける場面と、曖昧に霞む部分とがある。窓の向こうには、どこか虚しい青空が広がったようでもある。目に染みるほどの鮮やかな花々が、揺れていたようにも思える。

 ・・・・南国なのに異様に白い手が、窓枠にしっかりと鋭い爪を食い込ませていたような気もする。
 細部まで息苦しく描けるのは、ドアの向かい側の壁の方だ。簡素な木の机があり、やや古い型のパソコンが載っている。その向こうの壁には、カレンダーが吊り下げてあるのだが、モデルになっているのは私の国の女ではない。

 着ている衣装はどこのものだ。中華風でも韓国風でもあるが、微妙に違う。もっと南のアジアのようだ。きっと痩せた人にこそ似合う、その細く長いシルエットは。

 パソコンのマウスは雑誌の上に載っている。キーボードは、直に床の上だ。そこに仮名文字のキーはない。右となりの壁は、ピンナップで埋め尽くされている。当然のように、見知らぬ国のものだ。車、バイク、美人。この部屋に住む人は、どこの国の人かはわからないが、若い男とは知れた。

 左側の壁には、小さな戸棚がある。引き戸はわずかに開いていて、アルバムが見える。私はおそらく、そのアルバムを開いたことがある。写っている人々を知っている。よく知っているのではないが、これはあの人でこっちはあの人、と指さすことができるほどに。きっと、日本のどこにもない景色や建物や服装が一緒に写っているけれど。

 そうだ、記憶のかなめとなるべきは、この部屋の持ち主である若い男だ。
 胡坐をかいて座り、パソコンに向かっている背中は、艶やかな飴色とも蜜色とも讃えたい。天然のきれいな褐色の肌。裸なのは上半身だけだが。私は地味な色合いのズボンに隠された腰もお尻も足も、知っている。

 それだけではない。もっと隠された部分も知っている。それはやはり、どこもかしこも艶やかな飴色で蜜色なのだと。

 しかし気にかかるのは、彼の正面を向いた顔や正体ではない。どこの国かどこの部屋かでもない。・・・・パソコンの画面だ。

 そこには何が映し出されているのだろう。どこのサイトに繋がっているのだろう。何を書き込んでいるのだろう。見えない。彼が振り返る時、画面も見えるのではないか。
 ならば、見たくない。見えなくてもいいい――。

 パソコン、というよりインターネットには、少々嫌な思いをしている。どんな話題であれ、必ず罵倒や揚げ足取り、悪口で荒れるので有名な掲示板を持つサイトがある。
 私は半年ほど前、そこに「スカスカの子どもだまし小説で成りあがったドブス作家の月島美百合」というトピックスを作成された。

 書いている小説の話題などほとんどなく、延々と「あんなドブスがちゃらちゃらテレビに出やがって」「ブサイクなのにいい気になって雑誌で恋愛相談なんかして許せん」「物好きな編集者から体で仕事を取っている」といった、ありがちだけど悪意が滴るような罵倒を書き込まれているのだ。それは今でも続いている。

 私は月島美百合というペンネームで、デビューした小説家だ。まだ短大在学中に少女小説では有名な新人賞の優秀賞を取り、さらに幸運なことに受賞作がかなり売れた。それは二時間ドラマと漫画にもなり、どちらも好評だった。

 卒業後は就職せず、専業作家となった。親は多少心配したが、結局はまあ駄目なら結婚でもすればいいか、といった安易とも吞気ともつかない態度で応援してくれることになったし、一人暮らしを始めてからはそんなに干渉もせず見守ってくれていた。

 短大時代に付き合っていた彼とは、いわゆる生活のすれ違いで別れてしまい、今は特定の相手はいない。それほど寂しくはないし、早く次の彼氏が欲しいとも思っていない。独り身もなかなか気楽で楽しいな、と鼻歌すら歌っていた。

 つまり私は、そこそこ充実した日々を過ごしている。
 デビュー作が漫画化されたことから、私は女性誌で、恋愛相談といったものも受け持つようになっていた。それが意外な人気を呼んで、ついにはテレビにも出るようになった。

 私はすっかり、数え切れないほどいる恋愛の教祖様の一人、その末席に加えられるようになっていたのだった。あまり深く考えずに、ただ面白そうだから、何かネタも拾えそうだから、といった気持ちでテレビに雑誌にと露出するようになったのだ。

 私は小説家にしては、という但し書き付きだが、そこそこ美人とされる容姿をしているのだ。自惚れも勘違いも無く採点して、10点満点で6.5から7.5の間くらいか。この程度が、恋愛物を書く女はちょうどいいらしい。あまり美人だと同性の反感を買うし、小説はゴーストライターの代筆で、当人は売れないタレントだろうと思われる。

 そうしてしばらく経った頃、ファンが例のサイトの存在を教えてくれたのだ。最初に見た時はショックとか不快とかではなく、恐怖を覚えた。

 というのも、これを最初に作ったのが誰か、頻繁に私の悪口を書き込んでいるのが誰なのか、わかってしまったからだ。
 私だって、安価で安易な恋愛の教祖様の末席に加えられているだけの者ではない。小説家、なのだ。文体の特徴その他に気づくのは、多少敏感なつもりだ。

 ・・・・・・それは、同期デビューの晴海鷹夫に違いなかった。
 彼は、大賞受賞者だった。私は、優秀賞。いってみれば、私の方が格下だったのだ。大賞受賞作は読んだが、素直に感動し感心もした。
「晴海さんの方がやっぱりうまいし、面白いです」
 受賞式ではそう声をかけさせてもらった。晴海は嬉しそうに、けれども静かに、
「ありがとう、でも僕も、月島さんの作品の方がずっと売れそうな気がするよ」
 そう答えてくれたのだ。晴海ははっきりいって、外見には恵まれていなかった。正直にいって、初めてその姿を目の当たりにした時は、軽い失望を味わったのだ。

 背だけは高いが、締まり無く太っている。ロン毛といえば聞こえがいいが、伸びっ放しの髪はばさばさともつれて艶もなく、一応はお洒落のつもり、正装のつもりかもしれないが、何処かがずれて外れた感じの野暮ったい服装だった。

 何よりその顔だ。決して鋭い顔立ちではないのに、なんともいえない剣があった。特にどこがどうなのという顔つきではないのに、笑うと激しく唇が歪んで、目を合わせると目の下に嫌なシワが寄った。

 晴海鷹夫は、実はデビュー前からちょっとした有名人だった。アマチュア時代から同人雑誌の世界では知られており、商業雑誌の新人賞でも、いつも最終候補作として残されるほどだったのだ。時代がかったファンタジーと、異国を舞台にした官能小説を得意としていて、私も何冊か持っている。

 また、晴海鷹夫が少し異色だったのは、その経歴もある。高校生デビューも珍しくない少女小説の世界では、彼は最年長デビューだった。有名大学を中退した後は定職にも就かず、単純な肉体作業系のバイトを転々としていたという。

 どこでも揉め事を起こし、いられなくなるらしい。彼は同人雑誌の世界でも、ネットの世界でも、トラブルメーカーとして知られていた。少しでも悪口を言われたり書かれたりすると、即座に内容証明を送り付ける、訴訟を起こすと恫喝する、というのだ。商業雑誌でスカウトの話が出ても、まとまりかけると駄目になる、の繰り返しだったという。

 そうしてしばらく音沙汰がないと思われていたら、ペンネームを変えてデビューしていた、という訳だ。私は彼に会った時、前々から噂で知っていたというのは隠そうと思っていた。正直いって彼の容姿に軽く嫌悪感を抱いたし、深くかかわりたくない雰囲気もあったからだ。
 編集部には、彼の前歴や噂を知っている人もいたが、
「作品が良ければ、それでいい」
 という見解を示した。正しい態度だったと思う。作品は確かによくできていたからだ。しかし、ネットではいろいろと揶揄され!けなされた。どんな傑作でも悪口をいおうとすれば何でもいえるが、特に攻撃されたのは、
「古い。やっぱりオジサンが書いたものだ」
 だった。これまで時代がかったファンタジーや、外国を舞台にしたものばかりだったので、今どきの若いこの言葉遣いを知らなくても、何も問題はなかったのだけれど。
「ナシつける」だの「コナかけてきやがって」だの「タイマン張る」だの。ちょうど晴海の年頃である、三〇代後半の人が中学生だった頃の不良が使っていた言葉を、受賞作では多用していた。作品には、それも傷にはならない魅力があった。私は、そう信じる。

 ところが暫くすると、晴海はちょっとした騒ぎ、トラブルに見舞われた。些細なことも、重大なことともいえた。これも直接、彼の作品とは関係ない罵倒を受け中傷されたのだ。晴海ではなく他の人だったら苦笑して無視か、不快ではあっても軽くいなせただろう。

 だが、晴海にとっては大変な精神的外傷を負うものとなった。それは、直接ではないが私にも関係していた。私は全く関わっていないのに、晴海の怒りの矛先は私に向かった。いや、これは逆恨み、といってよかっただろう。

 そうして、あの私を中傷するだけの書き込みが始まったのだ。「いずれ月島とはナシつけるぜ」「あの女がコナかけてきやがったようなもんだ」「いつでもタイマン張れるんだぞ・オイ美百合、ここ見てんだろ」・・・と。けれど決して「あのこと」には触れない。

 信頼している担当の女性編集者には、こっそり相談した。「あのこと」は隠し通して、その掲示板の件だけを。彼女は、ひたすら無視するのが一番、と言ってくれた。
 奇妙な記憶とも夢ともつかないものが見え始めたのも、その頃からだ――。

2 失踪

 晴海鷹夫。彼とは出会う前から、その作品は別にして本人はあまり好きになれなかっただろうな。とは予感していた。
 有名大学を中退後、単純な肉体作業系のバイトを転々としていた、という経歴そのものは、別にどうこう言うものではない。何か夢を追うために、そんな生活を選択する人は珍しくない。それで成功する人もいる。

 だが彼の場合は、その経歴からくる妙な優越感と劣等感が綯(な)い交ぜになっていて、どこでも喧嘩をして居づらくなって辞めるというのだ。さらに、彼はちょっとした有名人だった同人雑誌の世界でも、ネットの世界でも、少しでも悪口を言われたり書かれたりすれば、即座に内容証明だの訴訟だのと脅すと恐れられていた。

 直接の友人知人ではないが、周りにも何人か彼の「被害者」がいた。要するに粘着気質で、悪い方向に気位が高いわけだ。
 だから、「あの彼」が大賞で私が優秀賞と知った時は、敬して遠ざけよう、と決めた。つまり距離を保ちながら、あくまでも同期の受賞者というだけの関わりを持とう、と。

「噂だけど、気に入った女にはストーカーチェックな行為をするらしいですよ。ちょい可愛いイラストレーターの女の子なんか、部屋に忍び込まれて家具やパソコンを叩き壊されたっていいますもん。それでノイローゼになった彼女に、執拗に『死ね死ね』って電話し続けたり、一晩中ドアを叩き続けたとか聞きましたよ」
「ええっ、よく訴えられないですね」
「関わりたくないでしょ、これ以上は」
 授賞式の前に教えてくれたのは、担当になった編集者、徳田絵里だった。
「それにね、いっちゃナンだけど、見た目もキモいんですよ」
 絵里はよく言えば開けっ広げで正直、悪く言えば軽率なところがあった。それでも歳も近くてきぱきしているし、表裏はない性格なので、彼女には最初から好感を持った。今では、プライベートでも食事に行ったりする仲だ。

 ともあれ、新人賞の受賞式とパーティーでは、晴海鷹夫もさすがに機嫌がよかった。やたら長くて自意識過剰な受賞挨拶には、性格の一端が垣間見えてうんざりさせられたが、
「月島美百合さんか。最近は作家も美人が増えたよなぁ」
 と、私に愛想がよかった。思えば私は一回りも年下、さらに私は優秀賞で彼は大賞、つまり格下という安心感もあったのだ。私もまた、年上であり格上でもある彼には、ひたすら低姿勢でいた。彼の容姿に嫌悪感を抱いたなどと、顔に出せるものではない。

 というより、そんな気持ちを抱く自分が嫌だった。自分で自分を優しい、などといいたくはない。本当に優しければ、容姿に嫌悪感など抱かないだろうから。
 私は、とりあえずみんなに、満遍無く可愛がられたかった。これは、今もだ。
 けれど、無遠慮にじろじろ、ではなく、盗み見るようにねっとり見つめられた時は、微(かす)かな嫌悪感が露になったかもしれない。もちろん、私は慌てて愛想笑いをして、
「私、前々から晴海さんのファンだったんですよ」
 思わず、そう答えていた。その時の彼は頬を軽く痙攣させた。具体的に目鼻のどこがどういうのではないのだが、爬虫類や両棲類といった生き物が混ざっていると感じさせる顔がそんな風に痙攣すると、とても怖かった。

「何で知ってたの。同人の方? 何を読んだの」
 彼は詰問する口調でいった。それは、読まれたくないものがある、まさかそれを読んでないだろうか、といった響きを持っていたのだ。今なら、その理由がわかるが・・・・・。
「あの、えっと、平安時代を舞台にしたものばかりだったので、ファンタジーでした。ごめんなさい、タイトルがすぐに思い出せないです。でも、月の裏側から来たというお姫様が印象的でした」
「ああ、あれね。あのシリーズはよく売れたよ」

 目の前で立ちふさがるように来た彼は、私はほとんど後退りしていたはずだ。だがその答えに、彼は満足したようだった。

 二次会の後、彼にお茶でもと誘われたが、もちろん断った。当時付き合っていた彼と約束をしていたのだ。親に会うと、噓をついた。本当のことは言えない雰囲気があった。
「電話番号教えてくれないかな」
 けれど、これは断れなかった。私は携帯の番号を教えてしまったのだ。一年ほどして、突然、誘いの電話がかかってきた、断りにくいものだった。
「月島さん、以前『今宵は月の裏側で』が好きだったといってただろう。俺の本なのに手元になくてさ、探してたんだ、やっとシリーズ全部そろったからあげようとおもって。今日会おう」

食事をしたのと、軽くどこかで飲んだのは覚えている。そう、軽くだ。なのにその夜の記憶はぷっつりと、途絶えているのだ。

 実は、断片的には覚えている。ものすごく醜い怪物にのしかかれていた。それは歪んだ彼のイメージだ。今も時々、夢を見る。

 気が付けば、私の部屋のベッドに一人で寝ていた。化粧も落とさず、服もそのままで。私は大体があまり神経質ではないたちだが、妙なところは神経質で、どんなに酔っていても眠くてたまらなくても疲れ果てていても、化粧だけは落とさないと肌荒れがきになって寝られなくなる。寝ても必ず、途中で目を覚ます。

 それに、服。自分で着たか人に着せられたかは、わかるではないか。ちゃんと下着をつけていても、どこにも乱れはなくても、何かが違う、どこか変だというのは、感覚で分かる。ブラジャーの付け方、ストッキングやパンツの穿き方も、自分にしかできないものはある。違和感。そう、いたるところに違和感があった。残っていた。

 私は無かったことにしよう、と決めた。頭の回線を切って、何も彼のことは考えないようにした。一切、彼とは連絡を断った。本も捨てた。携帯も電話を変えた。引っ越しもした。その後も私の仕事は順調で、忙しさに彼のことも忘れがちになっていた。

 その頃からすでに彼は一切、表に出なくなった。そもそも、次の本が出ないのだ。これは、親しい編集者達から聞いた。やはり、と言うべきか。彼は担当と大喧嘩をしてしまったのだ。

 暫くすると、ネットに晴海鷹夫の容姿を揶揄する書き込みがなされた。
【晴海鷹夫。ブサイクなんで驚いた。対する優秀賞の女が美人なのにも驚いた。出版社も、大賞と優秀賞を逆にすりゃよかったのに。まあ女の方に力を入れて売るのが当然だ。晴海は消えたけど、今や月島ちゃんは売れっ子だ。美人は得。不細工は損】

 といった書き込みが、毎日のようになされていたのだ。晴海がいかに醜いか
私が可愛いかという内容だから、きっと書き込みをしていたのは大半が晴海を快く思わない男だろう。

 彼は、私が言いふらしていると信じたらしい。あんなに内容証明や訴訟を起こすのが好きな人が、沈黙を守った。代わりに、私を匿名で中傷し始めたという訳だ。
 しかし彼は迂闊でもある。ナルシストの彼は、自分のHPで何月何日に何を食べてどこに行ったかを克明に、どこまで真実かわからないが記しているのだが、それを見れば例のサイトへの書き込みが、改めて彼であることがわかるのだ。

 文体の特徴はもちろんだが、どこそこへ行ったの親戚の家で法事だったので不在の時は、例のサイトへの書き込みがなくなるのだ。それはもう、あからさまほどに。あまりに腹が立った時には、あんた晴海鷹夫だろう、と書き込んでやろうとも思ったが、
「おまえは月島美百合だろう」
 と返されそうだからやめた。とにかく関わりたくないのだから。

 簡単な打ち合わせの後、絵里と喫茶店でお茶を飲んでいる時に聞かされた話は、それはいくらなんでもひどいデマ、噂、作り話だというものだったが、かなりぞっとした。
「あの人、とんでもない噂があるんですよ。昔、外国で人を殺しているとかなんとか。さすがにネット上にも出回ってないけど、彼に近い所から出た噂です」
「それはちょっと酷いっていうか、晴海さん嫌いだけどそんな噂は可哀相」
「そう、あくまでも噂。これもアングラなところから出た噂だけど、その殺人を題材に書いた小説があるそうです。もちろん、同人雑誌の方ですよ」

 そうこうしているうちに、ついにネット上にその噂が出たのだ。昔、人を殺しているのではないか、外国で、と。これは絵里ではない担当編集者が教えてくれた。

 諸説あって、東南アジアだというのと、もっと近隣のアジアというもの、日本の外国人居住区だというものと。私は仕事をそっちのけで、その掲示板に見入り、絵里に電話した。
「絵里ちゃん、知ってる? 例の噂がついにネットに流れたよ」
「知ってます知ってます。私もっと詳しい話を知ってる人に昨日会って・・・・」
 彼が自分の殺人体験を書いた本がある、というのは一部では話題になったらしい。きっとある、と私は予感した。創作であるにしても、きっと気味の悪い本がある、と。

 そうして私はまた、頭を抱える。時折浮かぶ、奇妙な夢。記憶。とても小さな部屋。部屋というより、大きな寝床。安食堂のテーブルクロスみたいな床。白い漆喰の低い天井。旧式の大きな扇風機の羽根は、生温かい空気をかき混ぜている。空気そのものに甘い匂いがある。剥げかけた桃色の塗料が塗られた木のドア。短い階段だか梯子だかを昇った上にある、まるで人を入れる鳥籠。廊下の向こうにはカラスのない窓。

 この部屋は南国にある。南国なのに異様に白い手が、窓枠にしっかりと鋭い爪を食い込ませていた。
 簡素な木の机には、やや古い型のパソコン。仮名文字のキーはない。右となりの壁は、ピンナップで埋め尽くされていて、どこの国の人かはわからないが、若い男とは知れた。記憶となるべきは、この部屋の持ち主である若い男。

 パソコンに向かっている背中は、艶やかな飴色。蜜色。天然のきれいな褐色の肌。裸の上半身だけなのに、私は地味な色合いのズボンに隠された部分も知っている。それはやはり、どこもかしこも艶やかな飴色で蜜色。

 彼の向こうにある、パソコンの画面。何が映し出されているのか、どこのサイトに繋がっているのか。何を書き込んでいるのか。彼が振り返る時。画面も見えるのか。見たくない。見えなくてもいい。

「月島さん、月島さん」
 はっと我に返った私は、自分がスタジオにいるのを知る。それでもここは生放送ではなく、録画であることをどこかで意識はしていたのか。
「あ。あの、ちょっと次のコメントを熱心に考えすぎてたかな」
 ここは二つ持っているレギュラー番組のうち、楽な方だ。楽という表現は良くないが、スタジオも気心も知れていて緊張もせずに笑顔が作れる、という意味だ。いわゆる関東ローカルで、スタジオも狭く、テーブルにはプライベートでもわりと親しいアナウンサーの田上公雄と、子供みたいなアシスタントの小野京子がいるだけ。
「またまた、カレシのことでも考えてたんじゃないですかあ」
 京子に言われて、苦笑する。それでも赤いランプのついたカメラに営業用の笑顔だ。そういえば京子も、喋りも下手だし飛び抜けて美人でもないのに、ディレクターの誰かに気に入られて抜擢されたという噂がある。彼女は子供っぽい外見に似合わず、むしろそれを隠さず売り物にしているような強かさがあった。

「考えるようなカレシはいません」
 その答えの後、休憩に行った。いったん控え室に戻った。ここは人数も少なく、誰もが知っている有名タレントは今いないので、私一人で使えるのだ。

 もう一つのキー局の方の番組は、何人もで使わされる。こっちでは月島美百合のコーナーまであるが、あっちでは大勢のコメンテーター、パネラーの一人でしかない。有名タレント、私よりずっと売れている作家も出ているので、画面にはそんなに映らない。

 携帯電話に、メールが届いています、の文字があった。開いてみると、絵里だ。
【まだ確認取れていないんですけど。晴海鷹夫が失踪した、なんて噂が流れています。確かに連絡は取れないみたい。死亡説まで飛び出しているんですが、いくらなんでもそりゃないでしょう。あ、HPの更新はされていないです。それから例の月島さん中傷の掲示板。あれも書き込みがされていません。少なくともパソコンの前にはいない、ってことですか】

 再び、あの幻が浮かんだ。幻の中の若い男が、一瞬だけ振り返った気がした。つまり私は戦慄した、寒気を覚えたのだ。
 これが恐怖だとは、認めたくなかった。認めれば、もっと怖いことを思い出す、もっと怖い何かを見てしまうと恐れたから――。

3 痺れる

 番組の収録をどうにか終えたのちは、いつものようにテレビ局の前にタクシーを呼んでもらった。チケットを貰って、一人で家に帰る。私、月島美百合は作家であり、タレントではない。マネージャーだの付き人だのはいないのだ。

 大勢で賑やかにやるのも、一対一でじっくりと話し合ったり何かに取り組んだりするのも、決して嫌いではないけれど。
 作家になっただけあって、私は一人になることが好きなのだ。私だけの部屋で好きな音楽でもかけて、気に入りのカップルで紅茶をいれて、パソコンに向かう。締め切りが今日なのに、なかなか納得できるものが書けない時などは辛かったりもするが、最も自分が自分らしくいられる時だなと、満ち足りている。

 けれど、今日だけは。・・・・・一人になるのが怖かった。
「あ、絵里さん? 月島です。・・・・・あの話、どうなったの」
 タクシーの中で、さっそく仲良しの担当編集者である徳田絵里に電話をかけた。
 晴海鷹夫はただでさえ気味の悪い、感じの悪い男なのに、失踪した噂がある、などという話で加われば、思い出したくもない悪夢に何かもっと黒いものが被さりそうだ。想像することすら嫌だが、たとえば私の住む部屋の前に現れるとか、テレビ局の前や出版社の前で待ち伏せをされるとか。

『酷いんですよぉ。軒並み、ツケを踏み倒してて、嘘みたいだけど、うちの社の部長の名刺を出してたり、勝手に連絡先にうちの編集長の名前を使ってたりして、だから、金払ってくれ、みたいな連絡がうちに来てるんです』

 タクシーの窓からは、見慣れた街並みが流れていく。今日だけは、ひどく淋しい見知らぬ街のようだ。五月。最も華やぐ季節だというのに。無彩色の、暗い景色に映った。
「あの、絵里さん。よかったらこれからうちに来られませんか。えっと、次の連載の打ち合わせもしたいし」

 携帯電話を持ち替えて、私は声を潜めた。別にタクシーの運転手さんに聞かれてどうこうという話ではないが、声は自然と低くなる。絵里は、屈託のない返事を寄越した。

『伺いたいんだけど。もう約束が入ってるんですよ~。明後日はどうですか。お昼、ご一緒しましょうよ。晴海鷹夫の気持ちの悪~い話も、その時にたっぷりと・・・・』
 私はほとんど絶望して、電話を切った。私は妙なところで引っ込み思案で、人見知りする。他にも親しい編集者や作家、テレビ局の人などいるが、片っ端から電話して「来て」とは言えないのだ。

 そうこうしているうちに、マンションの前に着いてしまった。私は自分を奮い立たせるように、運転手さんにとびきりの笑顔でチケットを渡して、軽やかな足取りでエントランスに入った。ここはそこそこ高級なので、もちろんオートロックだし、エレベーターの奥には管理人が常駐している部屋もある。

 もちろん、それで万全ということはない。鍵を開ける住人の誰かの後について、素知らぬ顔でよその人が入り込むのは可能なのだから。
「気にしすぎ、かな」
 独り言をいった。黄昏て来ているが、広々とした廊下には柔らかな照明が落ち、辺りは平穏に静まり返っている。当たり前だが、いつもと何も変わりない。

 そうだ。晴海鷹夫に失踪の噂がでたといって、いきなりうちに来たりするはずがない。あの時、彼に何をされたかどうかは、半々といったところだ。何事もなかったとは考え難いが、その後しつこくつきまとわれることもなかったのだから。

 私の部屋は一回の奥だ。女一人で一階は、侵入者が怖いかなとも心配したが、陽の射す小さな庭が付いているが気に入って決めた。疑っているというほどはないが、季節の花は咲かせていた。今は小さな黄色のバラが、棚に巻き付いて揺れている。

 そんな庭に面した窓を少し開けて風を入れながら、好きな映画のDVDを見よう、新連載の構想を練ろう、お風呂に入ってもいいな、土産に貰ったあの入浴剤を入れて、思い切ってこの前誘われたけど具体的な約束をしていないあの先輩作家に連絡してみようか、などと浮き立つことを一生懸命考えながら、玄関に向かったのに。
「どうして」
 立ちすくむ私は、うっすら笑いすら浮かべていた。あまりにも怖いものを目の当たりにした時は、悲鳴をあげたり逃げ出したりはできないものだと、今知った。身をもって知ったのだ。足はその場に、釘付けされたようだった。

「月島美百合ちゃん。ああ、本名は公表していないけど知っているよ。高橋裕子ちゃんね。ダサいとは思わないけど、ちょっと普通過ぎるなぁ。やっぱり君は、月島美百合の方があっているよな。ほんとうは、もっといい名前があるんだけど、それは今は呼ばない」
 玄関前に、晴海鷹夫が立っていたのだ。彼もまた、うっすらと笑いなど浮かべて――。

「美百合ちゃん」
 彼はごく平静な声で、そういって笑ったのを覚えている。その笑顔が、心底忘れたいと願ってなかなか叶えられなかったものだからだ。続いて物凄い力、凶悪な勢いというのではない、変な表現だがごく自然な動きで腕を伸ばしてきて、首を締めあげられた。

 晴海鷹夫は玄関先で、まるで肩でも気軽に叩くように、私を半ば失神させたのだ。首を絞められるというより、押されるような感覚だった。
 それから私は引きずられるのではなく、まるで彼に寄り添うような格好をさせられ、外に出た。彼が私のバックを楽しそうに、もう片方の手で振っていたのは不思議に覚えている。バックの薄い黄色に、庭のバラが重なる幻も見た。

 抱きよせられて歩きながら、ああやっぱりあの夜、私はこの男に何かされたのは間違いないな、と悲しいほど冷静に考えた。嫌な皮膚の感触、嫌な匂い、嫌な体温、そんなものがはっきりと蘇り。伝わってきたのだ。

 けれど、あまりにも強い恐怖は、体を痺れさせる。ひどく酔っぱらった時のように、自分の体も気持ちも下界も、どこか余所の世界のもののように現実感を失っていく。

 見覚えがあるようないような路地で、車に乗せられた。助手席に大事に、ではなく、荷物として後部座席に押し込められた。毛布か何かを被せられた後、体のどこかまた強い圧迫感を与えられた。痛みではない、息苦しさに喘ぐ。

 私はほとんど自ら望んで意識を失った。車が走っている間に、あの夢を見た。
 小さな部屋。部屋というより、大きな寝床。安食堂のテーブルクロスみたいな床。白い漆喰の低い天井。旧式の大きな扇風機の羽根は、生温かい空気をかき混ぜている。空気そのものに甘い匂いがある。剥げかけた桃色の塗料が塗られた木のドア。短い階段だか梯子だかを昇った上にある、まるで人を入れる鳥籠。廊下の向こうにはカラスのない窓。白い手が、窓枠に爪を食い込ませている。

 木の机、仮名文字のキーはない。古いパソコン。右隣の壁のピンナップは、若い男の趣味だ。パソコンに向か、艶やかな飴色の肌。裸なのは上半身だけだが、私は全身くまなく知っている。決して日本の男ではない、蜜の色。
 彼はその背に隠された、パソコンの画面。どこにつながっているのか。彼は画面から顔を背けて、いつか私を見つめてくれるのか。

 窓の向こうは、どこか虚しい青空が広がっていたか。目に染みるほどの鮮やかな花々が揺れていた。それは黄色い小さなバラではなくて、もっと暑い国の花だろう――。
 ・・・・だから私は、自分が現実にその部屋にいるのを知った時、激しく動揺したり怯えたりはしなかった。
 怖い。それは確かだ。確かだけれど、奇妙な懐かしさを覚えていた。本当にあったんだなぁ、と。ただ、一つだけ違うことがあった。

 パソコンの前に座っているのは、きれいな飴色の肌をした異国の見知らぬ男ではなく、きちんと服を着ている晴海鷹夫だということだ。
 そして窓の向こうにもドアの外にも南国の景色はなく、素っ気ない日本のどこかの街並みが広がっているということ。
「あの、ちょっと、苦しい、んです・・・けど」
 床に転がされている私は、恐る恐るそう声をかけてみた。緑色をしたナイロンの大きな布で、首から下を覆われている。その布の中で、後ろに回された手足は縛られているらしい。というのも、痺れてしまってあまり感覚がないのだ。

 幻の中の男は振り返ってくれないのに、晴海鷹夫はあっさりと振り返ってくれた。私は急激に湧きあがってくる恐怖心を、必死に抑えている、いったん叫んだり暴れたりしては、おしまいだという気がしたのだ。

 自分を冷静沈着などと思ったことはないが、やはり自分が作家なんだなと変な自覚をさせられた。すべて客観的に見つめているのだ。おののく自分も、危険な目にさらされて自分も。そして、すぐそこにいる明らかに異常な男も、

「そりゃ可哀相だ。可愛いと評判の月島美百合ちゃん、美人で売れっ子の作家。大賞を取った方は醜くて嫌われていて敗残者なのにだよ!」

 こちらに向き直った彼は、むしろ楽しそうにいった。本当に醜い顔だ。いや、顔立ちそのものよりも、歪んだ捻じれた彼の内面が表れているからだ。私が言い返せないでいると、胡坐をかいたまま嬉しそうに体を揺らした。

「格落ちの優秀賞だったくせに、最初からこっちを見下すような目をしてたよなぁ。ちょっとばかり可愛い顔をしてるからって、すべてが思い通りになると勘違いしやがって」
 そんなことはありません、と必死に言い訳をするのは、かえってよくない気がした。もちろん、ああそうだよあんたはブサイクだよ、などと喚けば、縛られて転がされるどころでは済まないだろうから、ひたすら黙っているしかない。
「あいつとおんなじだよ、オマエ」
「あいつ?」
 なのに私は、思わずそこで口を挟んでしまったのだ。息苦しさに、体を捩りながら。彼の向こうのパソコンの画面が、真っ暗なのが見えた。電源は入っていないのに、私はそこに何者かの影が揺れるのを垣間見た。
「ああ、あいつだよ、あいつ」
 いきなり彼は立ち上がると、私を蹴った。肩のあたりを蹴られたのに、背中が軋むほど痛んだ。とうとう私は、叫び声を上げてしまった。それが悪かった。自分で自分の悲鳴に、脅かされてしまったのだ。

 立て続けに、私は叫んだ。胸が苦しいために、鈍い悲鳴というものにはならずに、呻き声に近いものになってしまったが、それでも彼を逆上させるには充分だった。
「おい、いいザマだよな、こそこそ俺のことを醜いのブサイクのと言い回ってよ。挙句におかしな噂までながしやがって」
「私じゃない、わたしじゃない」
 ほとんど死に物狂いに、もがいた。そうすると、麻痺していた部分にも痛みが蘇ってくる。暑い、苦しい、怖い。押さえていたものが、とめどなく吹き上がり、私を支配していく。殺されるかもしれない、と直感した。
 それは私だけの恐怖ではなかった。恐れ戦(おのの)きながらも、私は私でない誰かも晴海鷹夫によって、死の恐怖に晒されたのだという奇妙な実感を得たのだ。きっとこの部屋で、この場所で。
「ここじゃねぇよ」
 不意に、彼は静かな声を出した。まるで私の心を読んだかのような言葉に、違う戦慄が走る。彼はにじり寄って来ると、私の顔を覗き込んだ。思わず目をきつく瞑り、全身を縮こまらせた。痛いし、苦しい、怖い。そのどれが一番、私の動けなくさせているのか。新たに、暑い、というのも加わってきた。このナイロン製の布は何なのか。
「あいつが死んだのは、ここじゃない」
 彼の声は、不思議に静かに響いた。私は冷たい汗をかきながら、荒い息を吐く。
 混乱しながらも、一点だけは醒めてきた。彼を興奮させてはいけない。ここは遠い見知らぬ異国や、果てしない僻地でもないようなのだ。いろいろな雰囲気からして、私の家からそんなに遠くはない。恐らく、晴海鷹夫の部屋は。ならば都内だ。
「ここだけど、ここじゃない」
 きつく瞑った瞼の裏に、誰かの顔が浮かんできた。晴海鷹夫ではない。もっと若くて、そう、きれいな男の顔だ―――。

4 南国の男

私はそのまま、彼の足で仰向けにされた。晴海鷹夫は何のためらいも、いや、憎しみすらなく、荷
物のように私を蹴ったのだ。

 さっきまで瞼の裏に浮かんでいた綺麗な男の顔は、そこで消えた。代わりに視界いっぱいに広がるのは、醜いといいきってもいい晴海鷹夫の顔だ。

 背中に回されて縛られた手は、もう痛いという感覚もなくなりかけている。鈍い重さだけが、私を圧迫した。彼はしゃがみ込むと、私の首からすっぽり覆っている緑のナイロン製の布を、乱暴に開け始めた。痛みと怖さとはそのままでも、暑苦しさだけは消えた。南国の部屋を模してあるだけなのに、ここは本当に熱帯のような暑苦しい。

 もちろん彼は、あっさりと私を自由にしてくれなかった。後ろ手に縛っている紐は、決して解いてはくれないのだ。かれは無表情に私を蹴って、体の位置を変える。荷物のように転がされ、私はただ喘ぐ。叫び続けるのも結構な体力が消耗されるものだというのは、身をもって知った。

 体の下に広げられたナイロン製の緑の布は、どうやらハンモックというものらしい。手を縛っている紐は、吊り下げるためにその布に結び付けられてるものなのだった。あまり身近に、ハンモックといったものがないから、すぐにはわからなかったのだ。

 テレビや雑誌など見るそれは、だいたい網のようなものだった。これはあまり見かけないタイプだ。というより、初めてみたものだ。

「高橋裕子ちゃん、か」
 無表情なままなのに馴れ馴れしく、彼は私の本名を呼んだ。怒りや怖さより、気味悪さが先にくる響きがあった。私は開いた布の上で、それでも必死に身をよじった。腰の下の手が、また痛みをぶり返す。

「月島美百合、の方があんたらしいよな」
 怒りに歪んでいた顔でもなく、不気味な無表情でもなくなった彼は、私はおそらく虚しい望みをかける。できるだけ、哀れっぽい声で。
「解いてください。あの、何か言いたいことがあるなら、聞きますから」
 やはり、だ。逃げませんから、と言いかけた時、今度は憎しみをもって蹴られた。
「あいつとおんなじだなぁ。顔が似ているだけじゃなくて、やる事為すこと、そっくりだ。お前に高橋裕子より月島美百合より、似合う名前があるよ」

 私はもう、何もしない、何も答えないことにした。晴海鷹夫は狂っているが、狂い切ってもいない。目の色で、わかる。

 もしかしたら彼は、心から狂いたいのではないか、そんな気もした。私がこんな状況におかれて、妙に平静な部分を残しているように。
「Da・・・・」
 不意に彼は私の顎を持ちあげて、呟くようにいった。それは確かに誰かの呼び名だけど、日本人ではない名前だった。
「最初はあいつの、嫁さんの方に惚れたんだよなぁ。あんまり深い意味もなくあの国に行ったんだけどさ」
 なんだろう、私は唐突に何かを思い出しかける。痛みの中から、さらなる痛みを探り当てるように。そんな私を見下ろしながら、彼は独り言のように続けた。
「東南アジアに中国系の血が混じると、どうしてあんな途方に暮れるほど可愛く綺麗になるんだろうなぁ」
 朦朧してきた意識の中で、私はその物語を知っている、
呟いていた。どこで、だろう。誰に、聞いたのだろう。何で、読んだのだろう。

 あれは確か、こんな話だった。物語を作るために作家の男が、東南アジアのある国に行く。そこで出逢った、可憐な娼婦。一夜をともにした後、すっかり女に惚れこんだ男は、一週間の滞在中に女を買い切ることにする。

 その一週間に交わされる濃密な時間は、男を半ば狂わせるに充分だった。女も男に気を許したのか、上客だと値踏みしたのか、それも南国特有の開けっぴろげな性質のためか。男を実家に連れていき、家族に紹介するのだ。

 水上に張り出した、ほとんど掘っ立て小屋いっていい家。そこに暮らす、貧しい国の中でもさらに貧しい家族。部屋の隅で寝たきりとなっている父親はすでに半ば死者で、老婆といってもいい萎びた母親と、小さな男の子と女の子がいた。

 その子供たちが女の子どもなのか、それとも上に四人もいるという姉の誰かの子なのかは、よくわからなかった。女は現地の言葉と、商売柄身につけたのだろう。ごく簡単な英語しかできなかったからだ。

 姉たちはそれぞれ別の街や国で、やはり体を売っているという。多分このような国では、孝行娘
呼ばれるはずだ。きっと、美人姉妹とも呼ばれているように。

 それから。その家には行かなかったが、女には夫と呼んでもいい男がいるこが明らかになる。それははっきりと、女の口から聞かされた。

 夫は麻薬中毒であり、以前は有名なホテルの警備員として働いていたが、今は何にもしていないと。うちの人はとっても綺麗な顔と体をしているのに。あれをもっと使えばいいのにとも、女は言った。心から、勿体なさそうに。
 もちろん愛してる、だけどそれだけだわ。女は愛している、という言葉と、チップ頂戴、を同じ口調で言う。

 男は、女の夫に会いたいと頼んだ。それは嫉妬、好奇心、怖いもの見たさ、えもいわれぬ淫靡(いんび)な興味と倒錯。いろいろな理由もあった。もしかしたら、小説に使えるかもしれないという計算もあった。男は、異国を舞台にした官能小説を得意していたのだ。

 女は、その国に特有のプラスチックの小さな椅子が並ぶ、野外のカフェに男を連れ出し、待たせた。やがて生温かい風の吹く川べりのカフェに現れた彼女の夫は、ちょっと驚くくらいの美青年だった。男はたちまち、目も心も奪われた。

 女の夫には、その綺麗な薄い褐色の肌に相応しい、黒い瞳と黒い翳(かげ)りがあった。
・・・・・この貧しい国では、貧しさは悪でしかない。金は善でしかない。倫理も恋も罪悪感も感傷も、すべては富める国の者の驕(おご)りだ。この国に、金で買えないものはなかった。

 だから、彼は頼んだ。女ではなく、夫を買いたい。幼く邪悪な、強かで美しい夫婦はあっさり
承諾した。

 女の夫は、以前にも白人や華僑のその趣味のある男たちに世話になったこともあり、男の経験も豊富だったのだ。作家である男の方には、乏しい女との体験しかなかった。彼の書く異国情緒に溢れた官能小説は、その妄想の激しさ故に人気があったのだ。

 だが男は、めくるめく予感に酔った。妄想以上のものを、この美しく酷薄そうな異国の彼は与えてくれる。
 結果は、やはり、だった。男は、溺れたのだ。女にでは無く、女の男の方に。滞在を何カ月か伸ばして、男は彼と暮らすための部屋まで借りた。狭く小さな、鳥籠のような部屋。それでも女の実家よりましだ。

 ねだられるままに、洋服や時計だけでなくパソコンまで買ってやった。彼も無邪気に自分の持ち物をその部屋に持ち込み、すっかりそこは二人の愛の巣となった。
 たまに女が窓から覗きに来たが、いつ来ても日本の男と自分の夫が裸で交わしていると、さすがの女も苦笑するしかなかった。
 安アパートの狭い部屋で朝もなく夜もなく、彼は気楽に楽しそうに、そして淫らに男に接してくれた。妻の方もあっけらかんと割り切って、次の客を捜しに店に出ていった。狂おしい常夏の日々は、永遠に続くかと思われたが・・・・。

「あ」
 私は、小さく叫ぶ。なぜこの物語を、こんなに知っているのか。というよりも、なぜその部屋をこれほど知っているのか。
 まさに、この部屋だ。たびたび、得体の知れない夢や幻として現れた、部屋。
 ではその夢の真ん中にいるのは、淫靡に美しいその南国の男だというのか。
「俺は心底、そいつに惚れてたんだよ。わざわざ、そっくりな部屋を作ってしまうほどになぁ。・・・・ここだよ、ここ」
 そこで晴海鷹夫は、ひどく疲れているように肩を落とした。私を置いて、這うようにまたパソコンの前にいくと、座り込んだ。

 ああ、やっぱり。私は狭い部屋の中を見回す。都内かどうかははっきりしないが、ともあれ日本のどこかに南国の思い出の部屋を、再現してあるのだ。偏執的に、愛情深く。
 いかに彼が、その南国美しい男に執着していたかがわかる。だが、ただ好きだったというだけで、肉欲に溺れたというだけで、ここまでするだろうか。

 私はどうしても、あのことを思い出さずにはいられない。思い出せば再びパニックに、恐怖に襲われてしまうはずの、あのことを。けれど。
「殺したよ。ああ、俺が殺した」
・・・・・あまりにもあっさりと、先に彼に言われてしまった。
 だから私は、かえって冷静になれた。もがきながら、体を横たえて彼の方に向く。この先が、まだ楽だった。
 彼は背を向けたまま、何も映っていないパソコンの画面をじっ見入っている。そこに、美しい異国の男の顔など映りはしないか。戦(おのの)きつつも、どこかでそれを期待している。晴海鷹夫は、声は正気を感じさせるのに、言っていることは狂気に満ちていた。

「だけどな。嫁の方が、助けてくれた。いや、可愛らしく脅してきたといったらいいのか。夫は麻薬がらみで、ヤクザに殺されたことにすると言ってくれたんだ。その代わり、ずっと援助してくれだとよ。あんなヤク中で働かない夫より、小金を持った日本人に頼る方がずっといいって。なんたって、一生分の弱みも握れたんだからなぁ」

 窓枠にかけた、白い手。今はもう、幻さえないけれど。私には、ああ、あれはその女の手だったのだとわかった。きっと彼女は、見ていたのだ。日本の男が、いや、晴海鷹夫が夫を殺すのを。窓の向こうから、見ていた・・・・。

「殺した理由か。ある時俺はびくびくしながら、お前は俺のことを好きか、と聞いてみたんだ。好きだ、とにっこり笑って答えてくれた。じゃあ、どこが好きか聞き返した、そうしたらあいつ、下手くそな英語で答えたよ。ちっとも悪びれもせずにな」

 このハンモックに寝ている時に、彼は殺されたのだ。唐突に、そんな気がした。多分これも、偽物だろうが。部屋と同じく、そっくりそのまま再現するために用意されたもの。
「アナタはちっともきれいじゃない、醜い。だけどお金持ちで親切。だから好きだ・・・・ってな。身もふたもないほど無邪気に、子供みたいな正直さで」

 プライドが高くて自惚れと自意識の過剰な彼にとって、それがどれほどの打撃になるものかは、よくわかった。ちっとも晴海鷹夫など好きではない、いや、嫌悪感しかないのに、かすかな同情の念すら抱いたほどに。

 容姿のことをネットで揶揄されて、あんなに私に怒りの矛先を向けたのも、それ故だろう。当たり前だが、それが彼のやったこと、今やっていることを許せるものではないが。
「綺麗な容姿をしているだけで、世の中も人も舐めまくりやがって、あいつ。そうだよ、お前とおんなじだ。舐めた態度で適当にいい目にあいやがって。それで人の容姿を嘲笑うような真似をしやがって」

 いま置かれている状況も忘れて、怒鳴りそうになった。私は作品が良かったから評価されたの、容姿や適当な態度じゃないわ。
 これもまた心を読まれたかのように、彼は激昂した。今度こそ強い憎しみを込めて、胸を蹴られた。屈辱に涙がこぼれた、そんなお嬢様という訳でもなく、ちやほやされっぱなしで来たのでもないが、少なくともさらわれて縛られて蹴られたという経験はない。

「いずれお前とはナシつけようと思っていたんだよ。お前がコナかけてきたようなもんだろ。タイマン張るか、コラッ。俺、マジだから」
 例の、精一杯いきがってもやっぱりオジサンだと揶揄された、脅し文句。自分で自分の言葉に昂った彼は、ものすごい勢いで私の首を掴んだ。

 殺される、私は両手で締めあげられながら、はっきりと知った。この恐怖と苦しみは、確かに誰かと共有するものだった。その、パソコンの画面に映っている綺麗な男と。

5 再現された悪夢

「売れてなくたって、素人に戻った馬鹿にされたって、俺はなぁ」
 電源を入れていないパソコンの画面に、綺麗な男の顔が映っている。すでにこの世にはいない顔だ。
もはや失われてしまった人だ。
「俺は小説家なんだよっ」
 わずかに私の首にかけた手を緩めて、晴海鷹夫は自分も首を絞められているかのような押し殺した声を出した。そんな彼の背後にあるパソコンを、私は見つめている。

 絶体絶命、という表現を使ってもいい状況なのに。死に物狂いで暴れるしかない場面なのに。私はどうしてこんな冷静に、すべてを俯瞰(ふかん)しているのか。もしかして自分はすでに死んでいるのではないか、という考えまでがちらりと頭をかすめた。

「凄い体験をしたら、形にして残したいしと思うんだよ。たとえそれが自分を追い詰める、追い込むことになってもな」私は、ごめんよ、こんな体験を書いて残したくはない、と叫べるものなら叫びたかった。彼はそこで突然に手を離して、私を突き飛ばすように立ち上がった。

 咳き込みながら、屈辱できなくただ苦しみの為に涙を流した。まだ助かった、はいえない。安心などできないパソコンの画面は再び、真っ暗に戻っていた。
「書いたよ。その体験を小説にな。さすがにヤバイから、ごく少数だけ印刷して、本当に熱烈な俺のファンだって奴にだけ売った。追跡調査できるよ。どこの誰がネットやなんかで、その本の噂を流したかはな」
「わ、私は読んでいないです」
 彼に命乞いするためではなく、自分の声がちゃんと出るかどうかを確かめたくて、言って見た。自分の声とは思えない、擦れた声だったが、とりあえず喉は潰れていないようだ。いざなれば悲鳴を上げて、助けを求められるくらいには。
「いいや、月島美百合センセイよ。あんた読んでいるよ。いや、読んで聞かせてやったよ。直に耳元でな」それは首を絞められたことより、痛くて重い衝撃をもたらした。やっぱり。やっぱり「あの夜」、私はこの男に何かされていたのだ。

「あんた、この部屋に来るのは二度目だよ。記憶のどこかに残っていなかったか? ここであいつみたいに泣いていたこととかさ」
 晴海鷹夫はまた私を蹴飛ばすと、後ろ手に縛っていた紐をあっさりと解き始めた。そのまま、自由にされたといっていい格好で転がされたのだ。こんな彼に慈悲改悛(かいしゅん)など期待できはしない。もっと酷いことをされるかもしれないのだ。

 体の下に敷かれていた緑色のハンモックを、彼は吊るし始めた。桃色の扉がついた柱の上と、パソコンを置いてある側に突き出した釘とに紐を結び付けて。
「あんたとやりながら、あいつのことを思い出していたよ。死んだ後のあいつとも、やったからな。意識ないあんたとやるのは、あいつを思い出して懐かしかった」

 耐え難い屈辱的なことを、許せないおぞましいことをいわれているはずだった。あの夜やっぱり私は強(したた)かに酔わされ、この男にここに連れ込まれ、嫌な事をされていたのだ。

「あいつは殺した。こいつでゆらゆら。うたた寝している時にな。いい気持ちで死んでいったはずだ。麻薬もやっていたしな。ああ、あんたにもちょっと嗅してやったけど、別にその後の体調は悪くないだろう。あの国、葉っぱ関係はいいもの揃ってるからな」

 燃えるような殺意ではなく、冷え切った絶望を抱かされる。
 そこで晴海鷹夫は、物凄い力と勢いで私を抱き上げた。そのまま、ハンモックに乗せたのだ。中空に自分があるという、不安定さ。ハンモックをゆらゆらとどこかのんびり揺れた。足の向こうにパソコンがある。真っ暗な画面がある。

「俺、あんたに一目惚れしたんだよ。だけどあんたは一目で俺に嫌悪感を抱いたよな。そういうの、どんなに隠してもわかるって」
 否定はできない。誤魔化す方が、彼をもっと怒らせるだろう。ハンモックは揺れ続ける。南洋の街の部屋を模した空間も、ゆらゆら儚く揺らぐ。
「殺してから、あいつに取り憑かれた。生かしてりゃ、すぐに俺なんか金出すだけのお人好しのバカだったって、忘れてくれたのに。殺したばっかりに恋われてさ。皮肉だな」

 身動きができなかった。手が足が頭が痺れているというのもあったが、窓枠にかかる白い手と、パソコンの画面に浮かぶ美しい死者の顔が、私を押さえつけているのだ。
「未だにあいつの、そうだ、あの国にある部屋には電話線が通じている。ちゃっかり、あいつの女房が棲みつきやがったからな。でも、あの女はパソコンなんて使えない。ろくに字も書けない。・・・・俺と交信してくれるのは、死んだあいつさ」

 晴海鷹夫は戸棚の前にしゃがんだ。戸を開けると、中から無造作に拳銃を取り出したのだ。それは玩具と思っていたが、禍々(まがまが)しく鈍い黒さが本物だと誇示していた。
「生きてりゃ、執念深いはずのこの俺も、いずれあんたより好きな女や執着する物事が現れて、遠ざかっていくんだろうよ。それ寂しいな。だから、・・・・死にたい」

 芝居じみた台詞回しと動作で、かれはその拳銃を右のこめかみに当てた。テレビや映画、雑誌以外で拳銃など見たこともなければ、目の前で頭に当てているといった場面も初めてだ。現実感の無さに、悲鳴をあげる口元のまま、私は固まってしまった――。

・・・・・私だって、小説家なのに。しかも、そこそこの売れっ子なのに。
「ぱあん、と音がした、頭が大きく揺れて、拳銃を握った手も大きく跳ねました。血がいっぱい、飛び散りました。仰け反って倒れた人は、しばらく痙攣してから動かなくなりました。どうやら私は暫く、気絶していたようです」
 こんな幼稚な描写しか、できなかった。ハンモックから転げ落ちた後、部屋の隅に置かれていた私のバッグの中から携帯電話を取り出して、110番したのだ。

 その後、病院に連れていかれ警察官が来て、実家の親にも会ったのだが、その際こんなふうに繰り返すしかできなかった。最も密接に付き合っている、担当編集者の徳田絵里にだけは、晴海鷹夫のどこまで本当か妄想かわからない話をした。

 付き添ってくれた絵里とともに、再び警察の事情聴衆を受けた際には、絵里が代わって詳しく色々な説明をしてくれた。無論、南洋の殺人の話もだが、亡霊が出てきて晴海を苦しめていた、いうのは「妄想」して付け足されただけだ。

―― 一通りのことが済んだ後は、もう疲れ果てていた。私が少々有名人だったこともあり、新聞にもワイドショーにも週刊誌にも取り上げられたのだ。もっとも、事件そのものも「人気女流作家を監禁してその目の前で拳銃自殺」いう、かなり衝撃的なものではあった。

 さらに、未だ捜査中だが外国で人を殺し、それを題材にした小説もあるらしいこと、被害者が彼の恋人であり、しかも同性であったこと。その恋人との部屋をそっくりそのまま、自宅に再現していたこと・・・・。スキャンダルどころか、猟奇の世界だ。

 警察だけでなく、週刊誌なども東南アジアの某国で捜査や調査を始めるらしいが、私はこれは曖昧なままになってしまうのではないかという気がした。

 晴海鷹夫に送金させられていたという、恋人の妻、その送り先の郵便局などを調べてみれば、簡単に身元は分かるし経緯も知れそうなものだが、妻とその一家は自分たちの罪をも暴かれるのは避けたいだろう。混沌とした闇の世界に、ひっそりと逃げ去るはずだ。

 私は、いっさいテレビを観ないことにした。レギュラーを持っている二つの番組があったが、全国ネットの方はあちらから「しばらく休憩してくれ」
いわれた。ローカルの方は、私から続投させてくれ頼んだ。こちらは気心が知れたスタッフや共演者ばかりで、むしろスタジオに行くことは気分転換になったからだ。

 無論、彼らは放送中も休憩中も打ち合わせ中も、いっさいあの件には触れない配慮をしてくれたし、子供っぽいと思っていたアシスタントの小野京子も、意外なほどきちんと気配りをしてくれたし、親しいアナウンサーの田上公雄も、静かに話を聞いてくれた。心が弱っているのもあったが、次第に田上に縋りたい想いが募っていった。

 親も友人も、労わってくれた。けれどこんなに落ち込んでいる時の相手には、あっけからんと陽気で、思ったことをすぐに口に出す担当編集者の徳田絵里が最高だった。
「ネットも今は絶対に見ない事ですよ。そりゃもう、怒涛の書き込みですから。あることないこと、もう飛び交いまくっていますから」
「見ない。見ないわ」
 せっかく風の気持ちいい季節なのに、リビングのサッシ戸を開け放つのは怖くて閉め切っているが、庭の小さなバラは可憐に揺れて震えていた。少し嫌な思い出とも重なるが、花には罪がない。

・・・・晴海鷹夫の死に様より、さらわれて監禁された記憶より、もっと封印したい悪夢があった。あの、南洋の小さな部屋だ。私が監禁されたのは、再現された偽物の方だ。酷い目にあわされたのは、都内にある晴海の部屋だった。

 けれど私の中では、実際に殺害のあった、そして不幸の愛欲が渦巻いていた南洋の部屋になってしまっている。私はあの部屋に行ったのは二度だ。二度目は確かに晴海の部屋の方だったが、一度目は本当の南洋の部屋だった。

 私はそう信じている。でなければ、説明できない記憶がある。パソコンの前の座っていた、綺麗な褐色の肌をした若い男の後ろ姿。あれは晴海鷹夫ではなかった。不実で美しくて悪い、そして愛らしかったであろう異国の男だった。

 幻でも亡霊でもない、私は殺された彼に会っているのだ。時も空間も何もかも超え、接している。私は、南洋の美少年と抱き合った晴海に無理やりされたというより、あの綺麗な彼と愛し合ったという方がいい。私は、彼の滑らかな肌を隅々まで知っている。

「私が月島美百合担当、しかも仲良しだっていうんで、あちこちから電話攻撃すごいですよぉ、取材も私宛にガンガンきます。でも安心してください。すべて断っていますから」
「ありがとう、絵里さんがいてくれて本当によかった。絵里さんにだけでも打ち明けたい話もあるの。私、前にも晴海に酷いことをされていて。でもそれは無かったことにする・・・・」

 週刊誌やテレビからは変わらずに、例の事件について聞かせてほしいという攻撃は続いていたけれど。警察からの事情聴取などはいったん終わった。小説もちゃんと書けるようになって、どうにか日常を取り戻しかけていたのに。

 書いている最中にどうしてもねっとで検索したいことが出てきて、久しぶりにパソコンをネットの方に繋げて見た。あれ以来、メールとワープロにしか使っていなかったのだ。
・・・・・よせば、よかった。人は不快なものを避けたい、嫌なものから逃げたい半面、逆に近づいてみたい気持ちを捨てられないのだ。決していい思いはできないとわかっているのに、あえてそれを体験してみたい矛盾する欲望があるのだ。

 晴海鷹夫が作成したはずの、私の悪口ばかりの掲示板。久しぶりに、そこを開いてしまった。削除されているかと思って。ところが、ちゃんと継続されていた。それどころか、私への誹謗中傷はますます激しくなっているではないか。

 彼は死んだ。なら、別人が書いているのか。私は多少なりとも有名人になったことで、見知らぬ人に悪口をいわれたり書かれたりはもちろん不愉快だが、仕方ない部分もあるかなと、半ばあきらめてもいた。

 だがそこに書かれていたのは、「見知らぬ人」からの悪口ではなかった。認めたくないが、明らかに私を実際に知っている人、私的な付き合いのある人だったのだ。
【月島の方は無理やりヤラれた、みたいに言っているけど。晴海と少なくとも一回はヤッてるみたいだな。確かだよ。そいで今は、ローカル局のアナにコナかけてる(晴海ふうダサダサ表現)みたいよ。懲りねー女だよな】
 これを喋ったのは、徳田絵里だけだ。まさか。まさか、と悪寒がした。ある意味、晴海鷹夫との一連のこと以上に吐き気がした。電源を切ると、すぐに絵里の携帯電話を鳴らした。真っ暗になったパソコンの画面を擬視しながら、出て来るのを待った。
『え―っ、あははっ、バレちゃいましたか。もう、だから見るなって言ったでしょお。ま、軽い遊びですよ遊び。編集の仕事も作家さんと同じくらいストレスたまるんですから。忘れちゃって下さい。ね、さくっと。それはさておき次の打ち合わせの日時は・・・・』

 とことん明るく屈託のない声が響いてくる携帯電を耳に当てたまま。私は呟く。
「人も自分も滅ぼすほどに、激しい愛憎を抱く人と。憎悪もない代わりに、愛も全くない人と。どっちが、より怖い人、もっと悪い人、なのかなぁ」
 画面が浮かぶ、綺麗な褐色の肌の若い男は、ただ少し微笑んだだけだった――。

つづく 日向の影

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