元アイドル
落ち目になったら惨め。ピークを過ぎたらオーラが消える。栄光が過去のものになればその人もまた、過去の人になってしまう・・・・。
そんなの、わかっている。わかっていた。惨めになった頃、ピークを過ぎた時、栄光が過去のものになってしまった瞬間にではなく。もっと前。そう、落ち目でなく、ピークで、栄光のさなかにいた頃に――。
「といっても、たかが知れていますけれどね」
ひととおり自己紹介、というよりもはや自慢にも暴露にもならない過去の話を終えたかおりは、唇の両端をバランスよくあげて微笑んで見せた。昔覚えた、笑い方。久しぶりに見せた、微笑み方。
「いいわぁ、その笑顔。きっとお客様いっぱい来てくださるわ。さすが元人気歌手ねぇ」
大げさに頬に手を当てて感激の声をあげ、折れそうな体を曲げるようにして立ち上がるのは、これからは社長さんと呼ばなければならない石本真美子だ。
ぎりぎり、どうにかマンションに呼んでもいい五階建ての建物の五階、端っこの部屋。なのに日当たりが悪く、ずっとここにいればきっと、若くして明るく希望に満ちた人でも気が滅入ってくると思われる部屋。
かおりは老いてしまったというのは言い過ぎだが、無限の未来があるほど若くはない。明るくも希望に満ちてもいない。だから、この部屋はそう居心地の悪いものではなかった。
さらにこの部屋に相応しいのは、真美子だ。ここは真美子の住居というよりは城、つまり経営している会社、なのだから。もっと正直にいえば、風俗店なのだが。
「そんな。もう十五年も前ですよ。若い男からすれば、今は普通のオバサン」
「いいのいいの。若いお嬢さんを使っていた時は、引っ掛かって来る男も若くてねぇ。お金がないのよ。その点、あなたならお金の或る男を繋ぎ止められるでしょう」
一応は片付けてあるし装飾もしてあるのに、荒涼とした雰囲気の十二畳ばかりのフローリングの部屋。奥には六畳の畳の間がある。
そこは真美子の寝室であり、会長さんと呼ばれるはずの真美子に言わせれば、
「ヤクザではないけど、裏社会にも通じている。お客を集めて来るのは彼だから安心」という男とも寝ている部屋だという。かおりには、関係のない部屋と男だ。
「あともう一人来るわ。あなたくらい、きれいよ。そうして同じくらい、不幸」
いい終わらないうちに、ドアのチャイムが鳴った。本当に隙間から、不幸の匂いが忍び込んできたーー。
渡辺かおり。十五年前は、ちょっと有名だった。今は、ただの中年女でしかない。
もう少しよく言えば、三十五歳という実際の歳よりかなり若く見え、二十代いっても通用する容姿をしている。子供を産んでいないこともあり、体型は二十代前半の頃からほとんど変わっていない。好みはあるが、誰が見ても美人の部類なのも間違いない。
けれどかおりの絶頂期は、まだクラブではなくディスコと呼ばれていた所でスカウトされ、歌手としてデビューした頃だ。
もちろん基礎も何もできていなかったが、あの頃は日本中が浮かれていた。当時、短い間だったが確かに一世を風靡したといっていいバンドのヴォーカルだった男がいた。彼が作詞作曲した歌で、かおりはいきなりヒットチャートの中位に躍り出たのだ。
歌は下手で、ヒットしたのはその一曲たけだったが、人気バラエティー番組のレギュラー出演もしたし、CMにも出た。訳の分からない、毎日がお祭りの日々。
祭りが終わるとあっという間だった。愛人関係にもなったバンドのヴォーカルは、薬と傷害で捕まって表舞台から消えて行った。すでにその前から彼は、いっそ清々しいほどの速度で落ち目になっても行った。
かおりは彼と心中するほど愛してもいなかったが、彼に引きずられように消えざるを得なかった。かおりもまた、彼が捕まる前から同じように人気を失っていたのだ。
薬は中毒になるほどやっていなかったが、彼が捕まったことや二曲目のヒットがでないこと、いろいろなことで精神のバランスを崩してしまい、事務所も契約を解かれた。あの頃の記憶は、飛び飛びだ。
ちゃんとホステスや店員をして一人で暮らしたこともあるし、籍こそ入れてなかったが地味に主婦をしていた時期もある。店を任されてすぐ潰したことも、何人かの男に世話になり、何人もの男に食い物にされた。十年、その繰り返しだった。
そうして、輝かしい未来を夢見てではなく、これが最後、早すぎる老後といった気持ちで一緒になった男に、貯金を盗られただけではなく借金まで押し付けられ、さらに別の女と逃げられたのが、つい先月のことだ。
しばらくはろくに食べられず眠れず、常に夢の中にいるような状態で過ごしたが。やけくそでなくフッと気楽に、死んで見るのもいいかもね、といった気分で久しぶりに外にでたころで、痩せた体と顔を厚い衣装と化粧で覆う、初老の女に声をかけられたのだ。それが真美子だった。
「日曜日、面接にいらっしゃい。いきなり働かせはしないから。お話をするだけ。ま、合格はしているようなもんだけど。一応はね、形式というものも必要でしょう」
騙して逃げていった男達より、ずっと胡散臭そうな女だったが。かおりは、何か真美子と自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのだ。それは芳香ではなく、悪臭であったとしても・・・・。
「私はかおりさんみたいに、本物のアイドルじゃないけどぉ。いつもアイドルだったの。中学高校大学ずっと。いっぱいお勤めもしたけど、やっぱりどこでもアイドル」
部屋の真ん中に置かれているのは、一見すると本革張りの合成皮革のソファだ。この部屋は、そんな物に溢れていた。大理石のタイル張りの浴室であるとか、純金に見えるメッキの縁のついた鏡とか。向かいに座る真美子の指に光るのも、ダイヤそっくりの石、だ。
かおりの隣に腰を下ろしたのは斎藤早紀と名乗る、とにかく一方的に自分のことしか語らないし語れない、醜いという一歩手前まで肥った女だった。ぎりぎりでふくよか、にとどまっている。精神状態もまた、何かギリギリでとどまっていた。
「あっ、でも私、実はまだ処女なんですよぉ。アイドルだったから、特定の男の子と付き合えなかったの、あのっ、ほんとにエッチはしなくていいんですよねっ!?」
年は三十を越えたばかりくらいか。なるほど顔だけは、もう少し痩せれば可愛いだろう。しかし今現在の雰囲気は、「ちょっと危ないんじゃないのこのデブ」でしかない。こんな女と一緒にされているのかと考えれば、かおりも多少は不機嫌な表情になってしまう。
「いいのよ。うちは選ばれたお相手だけの高級な社交の会だもの」
ともあれ、真美子は確信して嘘をついている。それはかおりには、出会った時からわかっていたのだが。早紀は当然のようにわかっていない。真美子のような女には、嘘こそが真実になってしまっているところがあるのだとは。
早紀は、似ているようだが逆だ。自分では真実を語っているつもりだが、ことごとく実生活に持ち出すと嘘になってしまう。アイドルだった、というのは彼女には真実の世界では嘘になる、ということだ。
真美子のように嘘の世界を泳ぐ人間は、嘘をつく時は相手を騙そうとは思っていない。全身全霊で自分の嘘を信じているからだ。かおりは、どっぷりそちら側には浸かれなかった。だからそっち側の人間にはなれなかったが、理解はできるようになったのだ。
「若くて安い体だけが欲しい男は要らないの。あちらさんも、私達は要らないだろうけどね。なぜってうちは、最も大事なのは会話だからよ。魂の触れ合いね。だから私は、容姿はもちろんだけれど、面白い会話のできる女を探しているの。私の勘は間違いないわ。私くらいになると、会話しなくても面白そうな女は見抜ける」
要するにここは風俗店の事務所であり、金銭によって男を相手をするのだが、即物的に体を求める男ではなく、まずは会話をしたい、言葉で癒されたい楽しみたい、興味深い話を聞きたい、そんな男ではなく、まずは会話をしたい、言葉で癒されたい楽しみたい、興味深い話を聞きたい、そんな男を顧客とするのだという。所属する女はあと五人ほどいるが、すべて真美子がスカウトし、すべて売れっ子でいい指名客を持っているのだそうだ。
「もちろん、ベッドに行きたいと相手が望めば・・・・ね。まあ、あなた達も大人なんだから各自で交渉してちょうだい。とにかくお客様とデートをしたら、一回につき二万円はこっちに入れるの。後は全部、あなた達が取っていいわ。でも、商売だけじゃなくて恋愛もしているだっていう意識は棄てないでね」
真美子はベッドにも当然行ってもらう。と言っている。さすがに会話だけで少なくとも四万円以上を払う男はなかなかいないだろう。もちろんかおりは、覚悟してきたが。
早紀はもう何も真美子の話など聞かず、髪をいじりながら枝毛を探している。徹底的に下界や他人には興味がなく、自分にしか関心が無いのだ。
いい大学を出ていながら子供のような態度と喋り方しかできず、勤めがどこもまったく続かなかったというのは、当然だ。しかし、こういう女を面白がる男も確かにいることを、真美子だけでなくかおりも知っていた。
「自己紹介はもういいわ。ここまではほぼ二人とも合格よ。やっぱり私の眼には狂いはなかったわね。じゃあ次は『一番怖かった話』をしてみて。お客さまはね、意外にそういう話が大好きなんだから。怖い話。はい、まずは早紀さんから」
真美子の、ダイヤではない「ダイヤの指輪」をはめた指が、まっすぐに早紀を指した。
【んーと、怖いっていうより、なんか悔しくもあるし、納得できない話でもあるの。私が大学生の頃。あ、私すごくいい大学に行ってて、そこでアイドルだったでしょ。だから嫉まれて、女の友達がいなかったの。あの頃はスリムで、今より美人だったし。
でも、やっとできた友達がいて。名前も顔も忘れたけど、頭も顔も私よりずっと下でしたよ。その子と、夏休みに海外旅行に行ったのね。東南アジアの国。で、私、今もの若いけどあの頃はもっと若かったし。私今もお金持ちのお嬢さんだけど、冒険がしたかったの。だから二人で、わりと安いホテルに泊まったの。同じ部屋に。
そしたらね。夜中に、男が忍び込んできたの、外から入って来た泥棒なのか、ホテルの従業員だったのか、今もって犯人の正体はわかないんですよね。
とにかく私も友達もぐっすり寝入ってたんですけど。誰か侵入してきた気配で起きちゃったの。そしたら・・・・そいつ、何も言わずにものすごい勢いでまず友達に飛び掛かっていった。なんか月が明るい晩で、電気を消していても部屋の中がぼんやり見えてたなぁ。
友達、悲鳴もあげられずに首絞められて失神―っ。私はその間、怖くて怖くてずうっと固まってた。逃げられないよぉ、あんな場面で。
そいつが次に、猿みたいに素早く私の前に来た時も、固まりっぱなし、首に手をかけられとこまでは覚えている。でも、男の顔や体や服装なんかはまるで思い出せない。思い出そうとしても、影法師なの・・・。
でね。朝になって目が覚めたら。友達は素っ裸にされてて、私はパジャマ代わりにトレーナーとジャージのズボンはいたまんま。何の乱れもなし。
その後、フロントに連絡したら警察も来る騒ぎになって。あんまりこれ思い出したくないけど、病院に連れていかれて調べられました。もちろん、産婦人科の方です――。
そしたらね。友達の方は、激しく・・・強姦ていうか暴行されていたの。友達も気絶しきってなくて、覚えてたから。ずっとブルブル怯えてた。
すぐに移った、別のもっと高級なホテルから一歩も出られなくなって、おかげで私は一人旅みたいになっちゃった。楽しかったからいいけどねっ。いっぱいお買い物のしたしぃ。
でも納得いかないのが。私は全く何もされなかったの、処女のまんま。
ねえ、どうしてなんでしょう。私の方がずっと美人でスタイルよくて、可愛かったのに。バッグに入れてたお金は、二人とも盗られたのですよ。用心して、パスポートや航空券やトラベラーズチェックなんかはフロントに預けて来たから、よかったけど。
その友達とは、帰国してからそれっきりになっちゃった。ま、忘れたいよね。普通、私といると思いだしちゃうんもん。あの子、今頃どうしてのかな。どうでもいいけど。
ああ、でもやっぱり変よっ変。ああいう貧乏な国の男は、私みたいなアイドルより、なんでもいいそこいらの女みたいなのがいいのかなぁ。
私ちょっと其処ら辺も確かめたいんです。どうして私、ずっとアイドルなのに男の人が来ないのかなっ。もちろん、暗闇で強姦されたいなんて望んでませんけどぉ――】
いるはずの人
隣に座っている、自称いつでもアイドル斎藤早紀が、社長さんこと石本真美子に促されて語った「怖い話」。それは、少なくとも本当に元・アイドルだった渡辺かおりにとっては、怖い話だった。というより、不愉快な話だ。
早紀が友達と出かけた外国。部屋に何もかが忍び込んできて、お金も盗っていった友達を強姦もした。自分は隣に寝ていたのお金だけ盗られて何もされなかった、と語った早紀は、彼女のその後について「どうでもいい」と言い放ち、「ああいう貧乏な国の男は、私みたいなアイドルより、そこいらの女がいいのかな」などと付け加えたのだ。
間違っても自分を優しいとは思わないかおりだが、こんな話をしたら嘘でも「あの子、早く忘れて立ち直ってほしい」などと締めくくるものではないか。そうすれば自分も、
「普通に欲望を感じさせる女と、大勢のアイドルって違うからね。そもそもアイドルっていうのも、すべての時代と国に通用するのはいないわ。それにそいつはあなたにも手をかけようとしたところ、誰かの気配を感じて逃げ出したのかもしれないし」
頷いて、こんなふうに答えてやるのに、そう、まるで自分にも言い聞かせるように。
だが、ついに不愉快さが顔に出てしまった。早紀が話し終わっても、面白かったとも怖かったとも何も言わず、横を向いてやったのだ。
それでも早紀は平然としていた。とにかく、他人に興味がないのだ。可愛い自分、可愛がられる自分にしか関心がない。撮っていいですかとも断らず、カメラ付き携帯電話を取り出し、自分の顔ばかり撮影している。
ところがかおり達の前に座る真美子は、実に嬉しそうに早紀に笑いかけた。
「怖かったわ。っていうか、早紀ちゃんお話が上手ね。きっといいお客様がつくわ」
「でしょう? 私、アナウンサーとか女優になろうかなぁって思った時期もあってぇ」
ここは、一風変わっているのかありふれているのか、まだよくわからない風俗店だ。真美子によれば、ベッドも込みだけれどとにかく会話、キャラクターに魅力のある女を採用したい、それに合わせてベッドよりもデートを望む男を呼びたい、という。
「顔をみただけで、いい話ができそうな女、『ある種の男』を引き寄せそうな女はわかるのよ。だから、あなたとあなたを呼び止めた」
そう言い切った真美子は、胡散臭いがそれこそ得体の知れない怖い魅力と説得力もあった。形式だけ面接にきたかおりはだんだんと、男に騙されて逃げられてどうにもならなくなってふらふらしていたところを拾われた、という事実を忘れ、十五年前にアイドル歌手としてスカウトされた時と同じ気分にならされてきたのだから。
早紀は少し違うだろう。徹底的に「私ってこんなに可愛い」という思いだけで占められた心を持つ、世界にはまるで他者の存在しなかったらしい彼女。肥っているがブスというほどでもないのに、三十を越えた今も処女だという。
そんな幼稚園の女の子程度の自意識だとしても、一応は三十も過ぎて世間を垣間見てきた。ようやく最近薄っすら、「もしかして私はアイドルじゃないのかも。男が来ないかも」
不安も掠(かす)め始めている。そこに真美子が現れ、誉めちぎってくれたという訳だ。
かおりには、なぜ早紀に男が寄ってこないかわかっている。もちろん真美子もわかっているだろうが、ここではむしろそれが武器になる、と考えている。
「あなたみたいなコを好きな男、結構いるのよ」
筋張ってはいるが、形のいい手足に指先。早紀とは逆に、もう少しふっくらすれば美人とまではいかなくてもそこそこの容姿になるはずだ。そんな真美子は、偽のダイヤが輝く手を真っ直ぐかおりに向けた。
「さあ、今度はかおりさん。あなたの番。といいたいところだけど。なんとなく私が怖い話をしたくなったわ。ちょっと聞いてみてくれるかしら」
ふっと、その偽のダイヤの輝きにおおりは目眩を覚えた。聞く前から、真美子の怖い話を知っているような気がしたのだ。
【こういっちゃ何だけど、私は有名なP大学を出ているの。小学校に入る前から、新聞を見て株式市場の話とかもできたもんだから、周りの大人は私を誉めるよりも怖がっていたわ。でも親はそんな高望みもしなかったから、中学までは公立に通ったのね。
高校は当然、学区で一番のところを薦められたわ。だけど。中学に入った頃、怖い男の子に出会ったのよ。彼には私、ものすごくつきまとわれた。
彼はきれいな顔をしていたし、勉強もよくできた。あの年頃の男の子にしてはとっても紳士っていうのか、物腰も柔らかくて女の子にも人気があった。なのに彼は私を好きになって、ずっと私の傍にいるようになった。そう、公認カップルになっちゃったの。
でもね、本当はとっても怖い子だったの。それは、私にしかわからない怖さよ。私にしか、見せない怖さだったの。歩道橋から突き落とされそうになったり、どこかの倉庫に監禁されそうになったり、刃物を突き付けられたこもあったわ。
だけどね。誰も、信じてくれないの。あの彼がそんなことをするはずない、って。私が嘘つき、ってことにされたわ。
私、気が変にならない方がおかしい、って状態だった。とにかく彼は、他の子や先生や近所の大人に対しては、非の打ち所がない優等生のいい子だったんだから。
私だけ。私にだけ、怖い子になるの。
彼はお金持ちの子で、パパが幾つか不動産を持っていたわ。その中の一つに小ぢんまりしたマンションがあって、彼は最上階の角部屋を勉強部屋として使っていたの。・・・彼は私をいつもそこに連れ込んだわ。正確に言えば、呼び出した、ね。
彼が強引に、私の手を引っ張って行くことは無かったもの。ここら辺が、中学生離れした悪賢さよ。あくまでも、私の方から進んできた、という状況を作っていたんだもの。ええ、もちろん彼に脅されたから行ってたのよ。親もお前も殺す、というのを恐れてね。
だから私、進路を変更したの。そのままでは、彼と一緒の高校になってしまう。わたしや先生や親の期待を裏切って、ランクの落ちる女子校にしたわ。とにかく、彼が絶対に来れないようにね。ついでに、そんな家から遠くはなかったのに寮にも入ったわ。
高校に入ってから、やっと彼とは切れることができた、ほら、あの頃は携帯もパソコンもないもの。逃げ切れたのよ。念のために、中学時代からの他の友達とも縁を切ったわ。
社会人になった頃ね。彼のその後の噂を聞いたのは。彼は学区で一番の高校を出た後、順調にいい大学に入っていた。だけど、卒業してから入った会社で、初めて誰にでもわかる女関係の問題、を起こしたらしいわ。詳しくは知らないし、知りたくもないけど。
ともあれ、それが原因で退職してからは、転落の一途だったらしい。仕事も女も転々として、ついには刑務所に入れられるような真似までして、実家からは勘当されて。噂じゃ今も、風俗関係の仕事をして女のヒモになってるらしいわ。
私はもう、彼と会うことはないけど・怖いのは、彼は元から怖い人だったんじゃなくて、私に出会ってから怖い人になってしまったんじゃないか、と誰かにふと言われた時、ああそうかもしれないわ、と思った事ね――】
まるで台本があって、練習も含めて何百回も何千回もこの話をしているかのように、真美子は一気に語り終えた。それから、ちょっとお手洗いに、と立ち上がった。
「なんか、今の話。というより、その男の子って怖いね」
真美子がトイレに入ったところで、かおりは早紀に話しかけてみたくなった。真美子の話もまた、幽霊だの血まみれの死体だのは出てこないのに、怖いというより嫌な話だったからだ。ぼんやりとした、不吉な予感。薄っすらとした不安感に包まれたのだ。
ところが携帯の画像を確かめながら、早紀はこともなげに言ってのけたのだった。
「全部、作り話くさいよぉ。そんな男の子、実在しないんじゃないのかなっ」
・・・・かおりは思わず、立ち上がりかけていた。本当に、鳥肌が立っていた。
「やだっ、そっちの方が怖いじゃないのっ」
あるはずのものが、ない。ないはずのものが、ある。いたはずの人が、いない。いるはずのない人が、いる。・・・・どれに最も不安や恐怖を覚えるかは、ひとそれぞれだろうが。
そうこうしているうちに、ついでに洗面所で化粧直しもしていたらしい真美子が戻って来た。気取った動作で、携帯電話を握ったままソファにかけ直す。
今度は自分が怖い話をしなければならい番だ。かおりは急いで考えを巡らせる。かつて自分はヒット曲を作ってくれた男が、海岸でのっぺらぼうの子供に抱きつかれた話をしようか。それともぎりぎり芸能人だった頃、自分の裏ビデオが出回っていると聞かされ、知人に頼んで取り寄せてもらったら観たら間違いなく自分だったのに、肝心の相手の男にまるで見覚えがなかったことか。
ところが真美子は携帯電話を掲げて見せると、上機嫌でいった。
「お客さまよ。この方、二人の女の子とデートしたいらしいわ。早速だけど、早紀ちゃん行ってくれる? あと一人は、今自宅で待機してる子に行ってもらうわ。早紀ちゃんはきっと気に入られると思う。そう、さっきみたいな話をしていればいいの」
早紀もまた、上機嫌で立ち上がっていた。かおりの方は、少し傷ついた。なぜ自分ではなく早紀なのか。そう、まるで友達だけが強姦されて自分は放っておかれたという、早紀のように。自分も、暗闇で見知らぬ男に何かされたい訳ではないのに。
指定されたホテルに、早紀は行ってしまった後。かおりと二人きりになった真美子は、妙に無口になってしまった。沈黙ややや重いと感じたかおりは、
「あのぅ、私は『怖い話』というのをしなくていいんですか」
と訊ねてみた。向かい側に座ってコンパクトを開け、覗き込むようにつけ睫毛のずれを直していた真美子は、ちらりともかおりを見ずに答えた。
「かおりさんは、元・本物のアイドル・うちの別格、特別枠、スター候補だもの。試験はもういい。・・・だから、本気で危ない客はつけないわ。さっきみたいに、早紀ちゃんに行ってもらう。まぁ、ここにいれば嫌でも『怖い話』はいっぱい得られるし」
かおりは、今日はもういいわと真美子にいわれた。帰るのは、誰もいない部屋。輝かしい未来を夢見てではなく、これが最後といった気持ちで一緒になったのに、借金まで押し付けられ、別の女と逃げた男がいた部屋。
男が出て行ったままに散らかった部屋の隅に、疲れた体を横たえる。すぐ横にリモコンがあったから、テレビをつけた。見たくもない番組ばかり。自分がもう戻れない世界。そんなブラウン管の向こうの世界を眺めているうちに、かおりはいつしか眠っていた。
かおりを起こしてくれたのは、出て行った愛しく憎い男ではなく、真美子でもなかった。テレビでニュースを伝えるアナウンサーだ。
「殺害されたのは。○○市の斎藤早紀さんであることが、所持していた携帯電話等から判明しました。早紀さんは女性と男性三人で××ホテルに入ったのを目撃・・・・」
寝ころんだまま、かおりは固まった。画面にはその見知らぬホテルと、斎藤早紀(31)というテロップも出ている。間違いない、あの早紀だ。
「・・・・これ、思い通りになったってことなのかなぁ」
いろいろ考えると混乱し、パニックを起こしそうになる。だからかおりはわざと、ぼんやりとまだ寝ぼけているんだと自分に言い聞かせた。これは夢、夢のようなもの。
「もう一人は、何もされずに助かって逃げてるんだ。早紀ちゃん今度こそ、自分だけが選ばれたんだ。アイドルだから。私も、『どうでもいいけど』っていってあげるけどね」
つい、癖で傍らいるように男に話しかけてしまう。もう、いないのに。
「でも、あの子が社長さんの『中学時代の怖い男の子』を作り話じゃないか、実在しないんじゃないか、っていったのはどきっとしたなぁ」
「・・・いや。その社長さんの事務所の奥の寝室にいるんじゃないのか」
不意に、懐かしい男の声がした。かおりはぼんやりと、首を隣に向ける。ああ、そうだ。男は出て行ったんじゃない。出て行こうしたから殺してしまっんだっけ。そのまま、部屋に置いてたんだ。ああ、そろそろ臭くなってきた。愛しい男でも、やっぱり臭い。
かおりはのろのろと起きて、自首すべきか、黙っていてくれたらずっと働いてあげる言うべきか、何よりも早紀のことはどうなっているのか聞きたくて、真美子に電話した。
ところが真美子の電話は、ずっと繋がらない。しかし、その間にずっと音楽が流れていた。聞き覚えがあるメロディ。ああ、これは私の一つのヒット曲。それが途切れた時、男の声が出てきた。きっと、社長の中学時代の彼だ――。
この作品は、「女性自身」2003年6月10日号から同年12月23日号に連載されました。
岩井志麻子 光文社
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