1 女王と二人の召使い
三人の友情は難しいというのは、結構いろんなところで聞くし、身に沁みた人も多くいるだろう。特に、女三人は――。
一が永遠に、三では割り切れないように。どんなに後の二人と平等に、同じくらいの思いを持って付き合おう、また、付き合っているつもりでいても、必ずや図式は二対Ⅰ、になってしまっている。
最初から固定された不動のものというより、時と場合によって変動する場合も多い。仲間割れとまでは行かなくても、三人の仲間のうちたまたま一人がその場にいなかったりすると、たちまち話題はその人になってしまうように。そして大抵が、
「あの人、本当にいい人よねえ」
「そういえば、こんな素敵なエピソードがあるわ」
とは、なりにくい。
「実はあの人、旦那とあんまりうまくいっていないなんだわ」
「それよか、この前のスーツ見たあ? 自分でデザインして作らせたとかいっているけど、雛飾りの緋毛氈(ひもうせん)みたいなチョー悪趣味な色」
といった、欠席裁判に近いものになりがちだ。さんざん噂された人が、次は噂する側に回る。した方は、次は自分がなんだかんだ言われるだろうな、とため息をつく。自他共に認める仲良し、ということになっていても。また、ここにいない一人を後の二人が決して嫌っているのではないにしても、
・・・となれば、島田佐和子と水木由紀子、そして伊藤かずみの三人は、ちょっと珍しい「仲良し」であるかもしれない。
なぜなら最初から佐和子に対する由紀子とかずみ、という図式ができあがったからだ。では佐和子は一番気弱で使い走り扱いで、由紀子とかずみが特別に固い絆で結ばれているのか、と言ったらそうではない。
三人の中では、佐和子が絶対の女王様であり、由紀子とかずみは二人とも佐和子の召使いなのだ。つまり、由紀子とかずみに横のつながりはない。佐和子→由紀子、佐和子→かずみ、といった縦の関係だけで、由紀子とかずみでなく、佐和子が望まない、いや、禁じているからだ。あからさまに命じたのではないが、由紀子とかずみも心得ていた――。
佐和子は本人が言うには、そこそこ裕福な自営業の家に生まれて成績もよかったが、高校生の頃に派手な恋愛沙汰というのか事件を起こして、やむなく中退したという。
「そこら一帯を仕切っている暴走族のアタマだった男と、駆け落ち同然で結婚してね。親にももちろん勘当されたよ。今はほら、仲直りして行き来してるけど。ともかくすげー波乱万丈の人生なんだわ、あたしってば。男と結局、血みどろで別れた後、いろんな男と付き合って、ていうか、あたし男が途切れたことないもん、ま、今の旦那は今までにない堅気だから、親も気に入って。あたしもここらで落ち着きたいと思ったわけ」
今、佐和子は、コーヒーショップの店内に轟くような大声を出していた。どっかりと壁を背にして座り、後の二人はテーブルを挟んで通路側に寄り添うように座り、もう聞き飽きた佐和子の武勇伝とも自慢話ともつかない話を聞かされている。
佐和子は態度も声も大きいが、顔も体も負けないくらい大きい。口の悪い誰かに、
「妖怪の砂かけ婆というか、鬼瓦みたい」
とひそひそ陰口を叩かれていたが、もちろん佐和子の耳に届いたら大変なことになる。だから由紀子もかずみも、決して佐和子に告げ口などできはしない。
「そういうアンタも、あたしをブスでデブだと思ってんじゃないのっ、えっ、どうなんだよっ。アンタも一緒になって、そういうふうに笑ってんじゃないのかよ!?」
と、髪の毛を掴んで引きずり回し・・・・は、さすがにやらないだろうが、やりかねない勢いと執念深さで怒るのだ。そう。佐和子は豪快、姉御肌を装っているが、実は人一倍、自分の悪口や噂に敏感で、いわば小心なのだ。
学歴こそ高校中退ではあるが、頭の回転もいいしその場を仕切るのもうまく、夫婦でやっているややボッタクリ気味の雑貨屋も、わりと繫盛させている。その点は評価されるだろう。また、的確に他人を観察して、本当に鋭く面白く分析めいたこともできる。
なのに、どうも自分自身は見えていないらしい。誰から見ても、佐和子はダイレクトにブスでデブなのだが、とうとう自分がどれだけモテたか、今も数え切れないほど言い寄ってくる男がいるとか、場所も相手もわきまえずに大声で自慢するのだ。
しかし。皮肉なことにその容姿が、かえって相手を黙らせる。まずまずの美人、並みの容姿、やや劣るくらい、の女ならそういう自慢しても、その場で周りがからかったり、本当にあなたがそんなにモテたのぉ? と突っ込める。
だが、佐和子の場合は誰もが「気の毒で」口を挟めなくなるのだ。口を挟んでしまった方が悪者になってしまう、というか。
いや、見てはいけないものを見てしまったような。大げさにいえば、それくらいの気分に陥られてしまう。ただ、ここにいる由紀子とかずみ以外は、陰で思いっきり、
「よっく言うよ、あんな容姿で。誰か何か言ってやれよ」
と、笑い合っているようだが。――とにかく、由紀子とかずみは何も言えない。ちなみに自慢の旦那も、すべてのものを佐和子に吸い取られてしまった後の抜け殻、といった感じの貧相な小男だ。もちろんこんなたとえも、拷問されたって喋れない。
佐和子が、さっきカレーライスの大盛りを一気食いしたばかりなのに、食後のコーヒーをと入った店でまたドーナツやサンドイッチを景気よく食いまくり、その食欲に圧倒されて由紀子とかずみはブラックコーヒーしか飲めない、というのはいつもの風景だった。
「すごいわぁ。佐和子さんてドラマチックな人生ね。私なんか、何処にも転がってる人だから、うらやましいわ」
サッと素早くお世辞を言えるほどではないが、こんな時にはかずみよりも由紀子の方が、反応がいい。揉み手をするほどのわざとらしい媚びようではないが、由紀子はわりと心にもないお上手は言えるのだ。
「なに言ってのぉ。あたしなか、平々凡々に生きていける女が羨ましいよ」
機嫌よく、佐和子は残りのドーナツを平らげた。本来なら由紀子は、佐和子にあまり好かれない、いや、はっきり敵視されるタイプの女だ。だが今はかずみより、由紀子の方がやや気に入られている。より従順で、誉めてくれるからだ。
容姿だけいえば、由紀子はこの辺りの地味な地方都市では、ちょっと人目を引くほどの美人だ。本人も、それは知っている。実際に由紀子は、短大生の頃はしょっちゅうファッション雑誌に読者モデルとして登場していたし、事務所に短期間だが所属して、エキストラに毛が生えた程度だがテレビに出たりもしていた。
今の夫と一緒になる前も、それこそ男は途切れなかった。結婚する直前まて、一緒に住んでいた男もいる。結婚後も、やや変質者めいた男からストーキングや、真面目に思いを寄せてくる男も後を絶たない。
今の夫は、この地方では有名な機械工具の販売会社の経営者の息子で、いずれ跡を継ぐようになっている。誰もが知っている大学を出ていて、誰でも認める美男だった。
けれど由紀子は決して、自分からモテた話もせず、自分を美人と自覚していることも、チラッとも出さないようにしている。ましてや夫の自慢など、どんなに酔っぱらっていてもできはしない。
それは、佐和子の前だけではない。特に佐和子には見せてはいけないが、他の女たちにも気取られないようにしていた。
黙っていても自分は目立つという自覚と警戒心が、由紀子をひどく内気で、しかも佐和子を心底から慕っているように思わせた。それは今のところ、幸いなこととなっている。由紀子は佐和子と違い、できるだけもう目立たず生きていきたいのだから。
「あの、それより佐和子さん。例のカラオケ会なんだけれど。あの店やっぱり人気で、なかなか土曜は予約できないみたいなんですね・・・」
ようやく佐和子がわずかに黙ってオレンジジュースを一息で半分ほど飲んだ後、気弱に口を挟んだのは、かずみだ。
聞こえよがしに、佐和子は舌打ちをする。気分よく絶好調で自慢話をしていたのに、水を差しやがって。しかも、予約できないだとぉ!? まったくかずみはいつでもドン臭い、愚図な、場の空気が読めない女なんだからっ。といった文句と腹立ちとかずみを見下す気持ちとが、すべてその舌打ち一つに込められていた。
佐和子はある意味、派手なブス、迫力あるデブといっていい目立つ存在なのに対して、かずみは地味な顔立ち、ダサいばかりの小太り体型、ひたすら地味な存在だ。
佐和子に比べれば、ほとんどの女は並、に分類されてしまうが、かずみは誰に比べてもきっぱりと並、だ。それ以上でも以下でもない。
割合いい女子大を出て教員をやれる資格を持ち、調理師免許も持っている。なのにまったくそれらを生かそうとせず、ちょっと気の利いた子なら高校生でも、いや小学生でもできるようなバイトばかりを転々とし、父親とあまり年の変わらない子持ちの男と結婚した。男が金持ちだとか、年を取っていても美男だの格好いいだのならまだわかるが、小さな会社に勤める、冴えないオツサンとしかいいようがない男だ。
そこらあたりは、佐和子は「気に入りは由紀子だけど、目をかけてやんなきゃなんないのはかずみだね」と周りに説明している。
思う存分も下に見て使い走りをさせられているかずみ。悔しいが美人で金持ちの奥さんなのは認める。でもそんな女を好き放題に呼び出したりできる自分を確かめたいから、由紀子も離さない。佐和子は携帯電話を取り出すとも一段階、声のトーンを上げた。
「ちょっとぉ、祐介―っ。聞いたあ!? 店、取れないんだってえ」
これはさすがに、由紀子とかすみも顔を見合わせてしまった。横のつながりはないはずの、召使い同士の二人であるはずなのに。この時ばかりは、
「ちょっと、今の聞いた?」
「聞いた聞いた。いくらなんでも、調子に乗り過ぎじゃないの」
と口には出さないものの、はっきりと目と目で語り合い頷きあってしまったのだ。幸い佐和子は電話に、いや、祐介こと玉木との会話に夢中になっていて、由紀子とかずみのそんな目配せにはまるで気付かなかったが。
こんな奇妙な関係は、周りには知られていない。そもそも三人が出会ったのは、子供を通わせている幼稚園でだ。そういうことに、なっている。そういうことに、してある。
「なんで三人が仲良しなのか、わからないわ。まるでタイプが違うのにね」
とはよく言われるが、これは佐和子には悪口として響いていないから、いい。
「先に子供達が、仲良くなったからよ」
それに、こう答えておけば済む。由紀子とかずみも、それ以上深く「どうして仲良しなの」と突っ込まれる煩わしさからは、逃れられたかった。
幼稚園で夏祭りをやることになり、実行委員として佐和子が名乗り上げ、そうなると自動的に絶対的に、由紀子とかずみもならざるを得なくなった。これについて佐和子は、
「仲良しグループがやって、しかもあたしの仕切りだったらバッチリ」
と喧伝しているが、実はこのようなイベントに張り切る玉木という男が目当てなのだった。彼は小さな会社の経営者だが、市議選に出馬したいという気持ちがあるらしく、こういった行事は見逃さず出て来るのだ。ちなみに妻は大人しい理知的な、やや近寄りがたい雰囲気の人で、まったく佐和子達とは交流はない。
玉木は決して嫌な男じゃないし、計算だけのハッタリ野郎でもないのだが、どうも情熱が空回りしている感じと、坊ちゃんぽい独善ぶりがやや鼻について、由紀子とかずみもそれほど好きではないのだが。佐和子は、気に入っていた。
「打ち合わせをカラオケボックスでやろう」
などと言い出して、さっそく彼の携帯番号など聞き出した。それで話をするようになると、いきなりの「祐介」呼ばわりだ。これには玉木も辟易してるだろう。
それでも。由紀子とかずみは、何も言えない。三人が知り会ったのは子供たちを通わせている幼稚園ではなく、拘置所であったというのも、絶対に――。
2 裏の顔
水木由紀子が、もう少し野心や計算といったものを持っていれば、かなり派手めな人生を送れるのではないか。
そんなふうに囁かれ出したのは、もう十年以上も前からだ。高校生になる頃、いや、由紀子は小学生の頃からすでに、完成された感のある大人びた美貌で知られていた。
だから、ちょっと街を歩けば水商売からモデルクラブまであらゆる勧誘の声をかけられ通しで、真っ直ぐに目的地まで行けたことがなかった。
しかし役所勤めの父親が、今時珍し位の厳格な性格で、固い頭で、声をかけられたと報告するだけで激怒し、お前が隙があるからだと説教されたほどだ。母はもう、ひたすらにそんな夫に従う妻というよりお殿様に仕える召使いだったか。
「お願いだから、お父さんの言う事を聞いて。ねっねっ、頼むからお父さんを怒らせないで。ねっねっ」
父のご機嫌をうかがうだけに必死で、ただ一人の子供である由紀子の話を聞こうとか、娘の気持ちをわかってやろうとか、まるでしてくれなかった。
だから、というのではないが。由紀子はあの頃むしろ、父よりも母が嫌いだった。あの媚びるような、それでいて押しつけがましい「ねっねっ」を聞くたびに、母ではなくこんな女の子供である自分が惨めったらしい。と暗澹たる気分に陥っていた。
父に対しては物心つく頃から、怖くはあるがどこか薄っすらと舐めていたというのか、甘くみていたというか、ともかく大人しくしてさえいれば単純にやり過ごせるどうでもいい人、と軽んじていたから、嫌いというほどの強い気持ちもなかった。
高校は女子校だったが、付き合ってほしいと寄ってくる他校の男の子、大学生は途切れることがなかった。由紀子は表向きはいい子を装うっていたから、どこか父母への仕返しにも似た気持ちで、こっそり彼らと付き合ったのだ。
売春と万引き、を始めたのもその頃だ。それは誰かに騙されたのでもなく、強要されたのでもかった。と、今も由紀子自身が思っている。
学校と家ではいい子の振りをしていたし、それは成功していたが、由紀子には夜遊びをする別の世界の仲間がいた。こっそり夜中に抜け出して街に出て、夜明けには素知らぬ顔で戻る。そして、ちゃんと朝になれば遅刻もせずに学校へ行く。厳格な家とはいっても由紀子は一人娘だったから、小学校の頃から個室を持っていたのだ。
よく親にも学校にも隠し通せたし、あんな体力があったなと今更ながらに感心するが、若かったし暗い情熱があったからだろう。
そんな遊び仲間に誘われて、見知らぬおじさんとホテルに行って小遣いを貰うようになったけれど、それは自棄になっていたからで、小遣いだのスリルだのが欲しかったからでもない。軽いドラッグなら試したが、中毒になるほどにはやらなかった。
万引きをしてたのも、何が何んでもその物が欲しかったからではなく、マニキュア一本なんて金を払うのもレジに並ぶのも面倒くさい、と感じたからに過ぎなかったように、見知らぬ男とホテルに行くのも、誘われたからついていく、貰えるんならお金をもらう、という軽すぎる気持ちだった。
高校生の頃は万引きも売春も、一度もばれなかった。仲間の中には捕まったり。ホテルで酷い目に遭ったり、覚醒剤や子供の遊びでは済まされない強盗まで手を染めて、少年院に送られたのもいたが、まったく由紀子は何事もなかったのだ。
彼氏といってもよかった賢二は、不良外国人と組んで高級自動車の窃盗やパスポートの偽造などに関わり、すでに成人していたから逮捕された後は実刑判決も受け、通っていた大学も退学処分となった。
もちろんその時は由紀子も泣いたし動揺もしたが、にかく自分には関係ない犯罪で捕まってくれて、自分には何の咎めもなく警察に連れていかれることもなく、親にも学校にもそんな男と付き合っていたのがばれなくて済んだ、安心する方が大きかった。
由紀子は醒めていたから、徹底的に落ちるところまでは行かなかったのではなく、行けなかったのだろう。
それでも由紀子は、高校を出て短大に入る頃にはいったん、そんな遊びは止めていた。更生したのではない。念願かなって親元を離れてひとり暮らしを始めてみれば、こそこそ夜遊びに行く必要がなくなったからだ。万引きも売春も、馬鹿馬鹿しいだけになっていた。
親にはこちらから何度も電話をかけ、約束通り頻繫に帰ったりもしていたから、疑われはしなかった。いい子の仮面は、誰よりも親に向けて被っていたし、賢二も出所した後は行方がわからなくなっていて、由紀子には何の連絡もない。
それに短大入学と同時に芸能プロにスカウトされ、事務所に入ったのだ。親には内緒だったし、仕事も読者モデルとしてファッション雑誌に出る程度のものだったが、野心も生まれてきていたし、計算もできるようになっていた。
以前は何が何でも女優になりたい、タレントになりたい、といった強い思いは無かったが、プロのカメラマンに撮ってもらったり、エキストラに近い扱いでもスタジオでカメラの前に立てば、終わった後も高揚感は続く。
高校生の頃はかなり危ない夜遊びをしていたのは、要するに自分は退屈していたからだ、とわかっていた。人気タレントになりさえすれば、毎日が面白くて楽しいだろう。
もともと、作り笑いや嘘泣きが上手かった。きっと自分は芸能人になれる。なら、悪い過去はこれ以上は作らない方がいい。もう、夜遊びはほどほどにする。適当に男と遊んでも、特定の彼氏は作らない。後々、スキャンダルになると困るから…‥。
――だが。女子大生に絶大な人気を誇るファッション雑誌で、いわゆるカリスマ読者、スーパー読者モデルとして知られるようになった卒業も近い二年制の頃から、顔立ちはいいのに険のある目つき、翳(かげ)りのある表情をしていたが、さらにそれが増していた。
「おまえ、活躍してるんじゃん。なら、少しは助けてくれるよな。仲間だったしさ」
モデル事務所というのは、売春斡旋の事務所だったのだ。賢二に命じられるままに、由紀子は雑誌の撮影で知り会った女の子や、さらにその友達といった女の子に声をかけて、賢二のところに連れて行った。
その頃にはもう、賢二は由紀子の部屋に転がり込んでいた。賢二は出来の悪いマンガ小説のように、陳腐な脅し方をしてきた。
「せっかく芸能活動もうまくいきかけてんのに、ここで昔の悪さをしてた時代のことがバレると困るよなあ。それに俺、実家も知っている大学を出てし。お前の行っている学校もな」
賢二は、危ない筋からの借金も多く抱えていた。由紀子の実家からの仕送りも取り上げるだけでなく、モデルで得たお金もみな横取りされた。それだけでは足らず、由紀子自身も彼に命じられるままに売春をするようになっていた。・・・昔のように。
それでも由紀子は、助けを求められなかった。昔あんなに嫌いだった親には、ひたすらに心配をかけたくないという思いで打ち明けられなかった。いや、父は怖くて母は頼りない、という諦めの気持ちもあっただろう。
だから、高校生の女の子に売春をさせていたのが露見して賢二が捕まり、共犯者として由紀子も捕まった時は、もう自分の人生は終わりだと絶望的になったけれど、かすかな安堵感も得ていた、とりあえず、賢二からは逃げれる、と――。
その後警察署での取り調べや、裁判所、弁護士との接見などは、ほとんど覚えていない。親は全く面会にも来ず、弁護士を通じて、
「これ以降は親でも子でもない。勘当だ。一切かかわりを持たない」
そう告げられただけだった。むろん衝撃を受けたが、それで心が壊れるほどにはならなかった。もともと親からは、心が離れていたからだ。静かにすべてをやり過ごし、処分が決まるまで拘置所に送られることになった。
そこで出会った二人の女を、由紀子は忘れることができない。
入れられた雑居房には何人もの女がいたが、そして中には近寄るのも恐ろしい凶悪な面構えの女や、由紀子ですら負けたと呟きたくなる女優顔負けの美人や、どうしてこんな人がというほど上品で優しい女などもいたが、彼女達は部屋が別々になったり、刑が決まって出て行ったりしたら、ああ、そんな人もいたなぁというくらいに忘れていった。
二人の女は、少なくとも由紀子にとっては強い印象を残した。一人は、ひたすらに地味な女だ。怯えておどおどしているのではなく、いつもどこか鈍い感じで隅っこでじっとしている。話しかければ答えるが、自分から話しかけてくることはない。
そのかずみという女はブスではないが、とにかく特徴のない顔だった。こんなに似顔絵の描けない顔はないだろうというほどに。体も野暮ったい小太りで、てっきり三〇代後半か四〇代かと思っていたのに、三つ上だけと知って仰天した。
そんな目立たない容姿と性質なのに、罪状は人殺しなのだ。しかも、男を取り合ってだという。かずみが殺意を持って殺したのではなく、被害者の女が刃物で襲い掛かって来て揉み合いとなり、必死に抵抗しているうちに相手が誤って自らの首を刺してしまった、というものだ、とてもそんな派手なことをやらかすようには思えなかった。
「あんたが人殺しね―。正当防衛? そんなの関係ない。人殺しだからここにいるんだろう。しっかし、人は見かけによらないねぇ。万引きくらいかなと思っていたよ」
そんなかずみにずけずけと言い放ったのは、迫力ある大柄な肥満体と、まさに鬼瓦といっていい顔つきで、いきなり牢名主っぽいポジションを得てしまった佐和子だった。
見た瞬間から、人殺しとまでは行かなくても、強盗か暴力、傷害といった凶悪犯かなと思い込ませるような女だが、彼女の罪状は詐欺だった。
詐欺と聞いた時は、あれっ意外だな、と思った由紀子だったが、佐和子と接していくうちに、ああやっぱりねぇ、と思い知らせられた。
佐和子は天然の嘘つき、虚言癖のある女だったのだ。しかもすぐばれる嘘でなく、ちょっと聞いただけではまるで嘘とはわからない、実に巧妙な噓をつく。
もちろん拘置所の中で、詐欺を働いて金銭をだまし取るというのはできないが、それでも雑居房の中は、いっとき、佐和子のせいですごいことになった。
すべての女に、「みんながあんたの悪口を言っている」あんたの味方は私だけ」といいくるめ、すべての女を疑心暗鬼にさせて房内の雰囲気がひどく悪いものにした。そしてすべての女が、
「頼れるのは佐和子さんだけだわ」と思い込んだのだ。
由紀子はある期間は佐和子を姉のように、いや、変な新興宗教の教祖を慕うように慕い、これまであったこと、家庭のこと、賢一のこと、すべてを打ち明けてしまった。これは後から知ったのだが、かずみも同じだったらしい。
それで何が得になるのかいわれれば、佐和子自身もちゃんと答えられないだろう。操りたいのだ。とにかく、噓をつかずにはいられないらしいのだ。それで周りの人を敵対させて、操りたいのだ。そしてそれはある時期、成功する。
ところがみんなも、それほど愚かなわけではない。だんだん佐和子の嘘が綻(ほころ)びてきて、よくよく話し合ってみればあの人があの人を嫌っているというのは誤解で、誰かが誰かを陥れようと画策していたなどという事実もない、とわかってくる。
いくら巧妙でも、嘘は嘘。必ずいつかは嘘と知れるのだ。佐和子がついに、詐欺師で捕まってここに送り込まれたようだ。
「あの佐和子って、要注意だね。すっかり騙されてたよ」
「あたしも。あいつの嘘ってすごい。しかも、嘘のための嘘っていうのかな。目的があって嘘つくんじゃなくて、嘘つく自体が目的になってんだもん」
では、それで佐和子が全員に嫌われて仲間はずれにされ、口もきいてもらえなくなったか、というと、そうはならなかった。
なぜならみんな、佐和子を信頼していた時期に、あらゆる秘密を喋っていたからだった。
つまりみんな、弱みを握られていたのだ。だから、表面上は佐和子を信頼しているふりを続けなければならなかった。
ここを出さえすれば、あの佐和子とは別れられる。みんな、そう心に決めて。実際にみんな黙って、ここを出て行った。拘置所だけで済んだ女も、刑務所に送られた女も。
だが。由紀子とかずみは、そうはいかなかったのだ。二人とも刑務所にまでは行かずに済み、無事に人に出られるというのに。再び佐和子に捕まってしまうとは――。
3 他人の目に映る自分
それまで伊藤かずみは、他者からの評価だけをすべてとして生きてきた。
「お父様は有名な学者先生で、お母様のお料理教室も人気。お兄ちゃんも姉ちゃんも優秀だし。かずみちゃんもせっかく恵まれた環境にいるのだから、もっと頑張りなさい」
「お嬢様だもんねー、かずみちゃんて。あたし達とはちょっと違う」
「お前、俺の妹にしちゃあ見た目も頭もイマイチなんだから、卒業したらすぐにお見合いしてお嫁に行った方がいい。うん年上の金持ちにしとけよ」
「かずみは××女子大に行きなさい、そして教職を取る。実際に教師にならなくても、資格とはあるだけで有利だし、いざという時に役立つからね。栄養学も学びなさい。卒業したら、家でママ達の手伝いをすればいい。うちは仲のいい、理想的な家族なんだからね。無理に外に出て苦労する必要はない」
「あの子と付き合うのはやめなさい。まだ高校生なのに、男の人のことばかり考えているようなふしだらな子。ママは嫌いよ。かずみちゃんには相応しくないお友達だわ」
子供の頃は、大人に言われるがままに勉強をし、お稽古事に通い、帰宅時間も言いつけもきっちり守っていた。そうすれば「いい子いい子」と評価してもらえたのだ。
兄や姉に比べれば容姿も成績も見劣りはしたが、まずまずの点数は取れて身綺麗にもしていたから、仲良しはできなくても仲間はずれにされることもなかった。
「あまり目立たないけれど、素直で大人しい、いい子」
これが、その頃のかずみの評価のすべてだ、必死に頑張って得たものではなく、みんなの誤解によってなされたものではない。
だから当人は、そう評されるのが嬉しくも不満でもなかった。家族も含めて、自分以外の人を強く好きだ嫌いだと思ったこともなかった。とにかくかずみは、他人の目に映る自分というものしかなかったからだ。
高校生の頃まで、着るものも身の回りの物もすべて母親に選んでもらい、出かける時はいつも母と一緒だった。大学に入っても家と大学の往復だけで、バイトもサークル活動もしたことがなかった。勉強を見てもらうのは父親で、小遣いも父親にもらっていた。
通っていたのは、堅い家のお嬢様が多いことで知られた女子大だったから、あからさまにダサイの暗いのと虐められはしなかったし、半ば面白がって男の子を紹介してくれる子もいた。もちろん、素直に紹介された男とはデートをした。
ここでかずみは、初めて「評価に対する違和感」を覚えた。ひたすら大人しく素直にして言いつけを守って、いい子にしていたのに。男は、誰一人誉めてくれなかったのだ。
「うーん、せっかく紹介してもらったんだけど、その、いつもつまらなそうなんだよね。僕と居ても、全然乗ってこないし。悪いけど君と僕は合わないね」
「かずみさんは、自分というものがないのですか。こっちが不安になってきますよ」
「はっきりいって、あんたはつまんない。他人みんなに興味がないだろう・といってナルシストってのとも違うしなぁ。自分自身にすら、興味を持っていない感じ」
だが、それで妙な発奮をして派手に装い、積極的に男と付き合おうという行動にも出なかった。やはり、ひたすら家と大学を往復し、パパに勉強を見てもらい、ママと食事や買い物に出かける、と言う日々を続けていた。そんな毎日に、何の不満もなかった。
あの頃のかずみは、深く自分について考えるなんて無駄でしかなかったのだ。他人が全て決めてくれるし、そちらの方が楽だったかだ。
自分はあまり、男には好かれない。それはそれで、仕方がない。だって、男が好いてくれないのだから。そう、受け止めただけだ。多少は、寂しかったけれど。
そんな日々の隙間に、あの男が現れたのだ――。
すでに親の言いつけ通り、教員免許も栄養士の資格も調理師免許も取って卒業し、母親の料理教室を手伝っていた頃だ。
在学中から親には気に入られていた、というより、付き合うなと言われていた同級生がいた。ちょっと美人で、演劇部にいて、普段から派手な化粧や言動で有名だった雅恵。卒業後も、割合に知られた劇団に入って、バイトをしながら演劇を続けていた。
かずみもキップを買わされて、観に行っていた。卒業もかずみに連絡してきたのは、かずみが大人しくキップを買うからだ。それ以外で連絡してくることは無かった。
母親同伴で観に行った舞台で、雅恵は上半身になる場面があり、それだけで母は「やっぱり、お付き合いは辞めておきなさい」と怒っていた。
しかし雅恵は、奔放そうにみえてやはり根はお嬢様、というか、それとも、かずみとは反対に「自分という物があり過ぎる」つまり自己主張や我儘が強すぎて、個性的な人が多い劇団の世界でも、男は辟易して逃げていたのか。
本人が、奔放ぶって下ネタや色っぽい話を吹聴するほどには、実際の男関係はなかったらしい。一人の男を好きになったら、よくいえば一途に、悪く言えばストーカーすれすれの行動に出ていたというのは、在学中から耳にしていた。
その雅恵がかずみに頼み込んできたのは、キップではなかった。日曜日、いきなり近所のコーヒーショップに呼び出されて行ってみたら、見知らぬ男と一緒に待っていたのだ。
「あたし今、レストランでバイトしてんだけど。あ、彼がオーナーの平川さんね。平川さん、困ってんの、料理人もウエイトレスも辞めちゃってさ。ま、ちょっとしたトラブルがあったんだけど。で。かずみって、調理師免許や栄養士の資格持ってたよね。手伝ってくれない? 次の料理人が来るまでいいから」
いきなり雅恵にまくしたてられて、かずみはすぐに返事ができなかった。それに平川という三十半ばの男もまた、芝居がかった調子でいきなりかずみの手を握ってきたのだ。
「聞いた通りだ。かずみさんて、すごくいいよ。今時の女の子にはない、気品みたいなものがある。それに、この清潔な手。素晴らしい味が生み出せる手だ」
二十三歳になっていたが、かずみはそれこそ、男とは手も握っていなかった。何人かと紹介で軽いデートはしたが、すべて門限までに必ず返してもらえるほどにしか付き合わず。二度目の誘いもなかったのだから。
「えっ、あの、そんな急にいわれましても・・・・」
手を握られたまま、かずみは心底から困惑して答えた。だが、手を握られているのは不快ではなかった・むしろ、くすぐったい嬉しさすらあった。
さほど美男ではないが、初対面から透けて見える強い自信が、彼を実際よりいい男に仕立てていた。背も低めの方だが、均整が取れているので事物よりすらりと見える。かなり派手な服装も似合っていたというより、強引に似合わせていた。
これから後を思えば、彼の人生も料理もそのままだった。強気と自信とハッタリと、大げさな演出と。はっきり嘘と責められないくらいの、小さな嘘の積み重ね。だが、確かにいつでも、平川の料理は美味いという人もおり、平川に惚れる女もいるのだ。
その直後、彼は強引に自宅までやってきて、かすみの親に会ったのだが。父も母もすっかり平川を立派な人柄であり、若き成功者であると信じた。バイトも、勉強になりそうだからいいじゃないかと、その場で許してくれたほどだ。
ともあれ平川は、かすみの手を握ったまま熱く語りかけてきた。
「君が優秀だっていうのは雅恵ちゃんにいろいろ聞いているよ。どうか助けると思ってお願いします。遅くなれば責任を持っておうちまでお送りします」
かすみは生まれて初めて、自らの意思でやったことがあった。はい手伝わせていただきます、と頷いたことではない。自分から、男の手を握り返したことだった――。
平川のレストランは、いわゆる洋食屋だった。フレンチもイタリアンもあり、コロッケやシチューといった家庭的なものも出す、平川は本格的な修業をしたのではなく、普通の会社に勤めながら、最初は趣味として調理師の免許を取っていたからだ。
それらの経歴は、ほとんど詐欺で持ち主から店舗を乗っ取ったこと、派手な生活のためいつも借金があること、落差のあり過ぎる態度や機嫌によって従業員に嫌われてすぐ辞められること、身近な女にすぐ手を付けてトラブルになること・・・・等々と一緒に、すべて巧みに隠され、脚色されていた。
有名学校でシェフの修業、才能を見込まれて店舗を譲られた、料理だけでなく生活全般に美意識が強いので金が必要、料理にはこだわりがあり過ぎて妥協ができず従業員と衝突する、とにかくいい男なので女性にもてる・・・・というふうに。
雅恵がただのバイトのウエイトレスではなく愛人であるというのだけは、そのまま周りの人に知らせていたし、知られていた。
平川は離婚歴が三度あり、結婚にはもう懲りて適当に遊びたいだけだった。雅恵という女はいい時はいいが、喧嘩すれば激し取っ組み合になってしまうほど気の強さと危なさを見せ付けていたから、本当は内緒にしてこっそり別れたがったという。
雅恵があからさまに態度や顔に表すし、言いふらしてもいたから、仕方なかったのだ。
もちろんかすみも、初日に二人の関係は雅恵の口からはっきり自慢として聞かされていたが、どうこういう気はなかった。かすかに胸は騒いだが、抑えられるほどのものだった。
雅恵もまた、「地味でダサい、女としては評価されないかずみ」だからこそ、安心して平川に紹介していたのだ。
平川に惹かれる気持ちは、かずみも自覚していた。たとえそれが嘘だったと後からわかっても、とにかく彼は初めて「かずみを女として評価してくれた男」だったのだ。平川も、かずみの気持ちは手に取るようにわかっていた。
平川は、いわば鈍くて面白味もないが純情で真面目なお嬢様、というものに好奇心と興味だけで近づき、ゲームとして口説いた。そうしてかずみの初めての男、になったのだ。
もちろんかずみは、親にも誰にも打ち明けなかった。ましてや雅恵になど言えるものではない。初めての恋、初めての恋人、初めての男。それでもかずみは淡々と、彼との関係を続けていった。決して、狂いはしなかった。
狂ったのは、すべてを知ってしまった雅恵の方だった――。
当たり前だが、拘置所は未決であるが罪を犯した者が行かされる場所だ。様々な犯罪があり、人がいる。しかしその女性用の雑居房では、「人殺し」はやはり一目置かれた。もちろん、いい意味ではなく。
「・・・よくもあたしの男を盗ったね、ドブスの癖に、って怒鳴られたのはよく覚えています。いつか舞台で見た、上半身裸になって狂乱する姿にそっくりでした。その人、演劇やってたんですよ。あっ、と思ったら包丁は首筋に突き刺さってた。私に向けたのに、その人は自分で自分を刺してしまったんです。私から刺したんじゃありません」
顔も体も態度も声も、すべてが大きく迫力のある佐和子は、最初から強引に近づいてきて、いろいろ根掘り葉掘り聞き出してきた。
口をつぐめなかったのは、佐和子がどこか平川に似ていたからだ。もちろん容姿がではなく、中身が、嫌な匂いでも、懐かしい匂いには違いない。佐和子は、かずみを何かで「評価してくれそう」だったのだ。強い、確かな評価を。
自分を刺してしまった罵倒しまま逝ってしまった雅恵や、僕は関係ないと逃げた平川、大学を辞めざるをえなかった父、料理教室を閉じた母、縁を切りたいと激怒している兄姉、「殺人者」と断罪した警察や弁護士や裁判所、拘置所の人々にはない、別の評価を。
「ま、あんた人殺しでも、いいところの子だろ。パパがたっぷり金払って、いい弁護士付けてくれるんだよね。だったら、執行猶予つくよ。出てきたら外で会おう、ねっ」
そんな佐和子とは別に、もう一人気になる女がいた、見惚れてしまうほどの美人で、由紀子という女だった。美人は自覚しているようだが、鼻にかけたりはしていない。佐和子を筆頭とする他の女たちにきらわれないよう、懸命に目立たないようにしていた。
彼女も、一見するとまったくタイプは違うのだが、どこか雅恵に似ていたのだ。計算もするし子狡いところもあるのだが、投げやりに自分や人生を放り出して強制終了させそうな、危うい魅力といってもいいものがあるところが。これも嫌な懐かしさだった。
「ここ出たら私は、とにかく平凡に生きたい。結婚して子供産んで、旦那と子供だけ尽くすの。タレント活動? あれっ、それ誰に聞いたの。そんなのに未練はないよ」
由紀子がモデルだったと、と教えてくれたのは佐和子だった。しかし由紀子は本心から、華やかな生活ではなく平凡な生活を望んでいるようだった。そして、拘置所を出た後しばらくは、望み通りになったらしい。子供を入れた幼稚園で、再び佐和子に会うまでは。
由紀子と違ってかずみは、佐和子に再会してもそれほど絶望はしなかった――。
4 消したい過去
島田佐和子にとって、二度と会いたくない人々というのは、自分を詐欺師と訴えた奴らではなく、その後に関わった偉そうな警察や裁判所やうっとうしい拘置所の奴らでもない。自分をはっきり振った男達でもなければ、怖いと敬遠して逃げた女達でもない
むしろそいつらには、また会ってやってもいいくらいの気持ちでいる。
「ほんと、とんでもない悪女だったわ。すっかり騙されちゃって。ああ、怖い」
「あの強引な場の仕切り方、図々しさ。とことん強気な言動とか、変なふうにだけど人を丸め込む力とか。別の方向に使っていれば、成功できたかもしれないね」
「とにかく図太いよ。平然と開き直って憎まれ口叩いてさ。とにかく強烈な女だった」
「女としては見られないけど・・・・面白い女、豪快な人柄だとは認める」
彼らのいう、悪女、強引、図々しい、強気、強烈、それらは佐和子にとっては決して悪口ではない。ある時期からむしろ佐和子自身が必死に、悪女でありたい、強い人、怖い人と恐れられたいと願い、頑張ってきたからだ。
死んでも会いたくないのは、高校に入る前までの佐和子を知っている人々だ。
「小学校どころか幼稚園の頃から、いじめられっ子だったよ。太って暗かったから」
「とにかく、あの顔と体じゃん。中学生くらいの男の子って、ほんと残酷だからね―。虐めまくってた。男の子は佐和子の名前、誰も本名で呼ばなかった。ブタ、ブス、どっちか。陰気だったから、女の子にもかばってもらえなかったし」
「あそこ、お父さんがすごい怖かったよ。だから佐和子、怒られるっていうのを異常なほど恐れるようになったんだ。すぐばれるその場限りの言い訳や嘘も、ひたすら怒られるのが怖いから、なんだよ。とにかく、その場だけを切り抜けられたらいい、っていう」
「いじけてウジウジしてたからね。女子どもに、使い走りされていた」
例えば由紀子やかずみのように、強引で強気な佐和子しか知らない人は、驚くというより信じられないだろうが。高校にいるまでの佐和子は、暗いいじめられっ子だった。
佐和子が本当に消してしまいたいのは、昔を知る奴らではなく、昔の自分なのだ。
詐欺で訴えられた悪人の自分や、拘置所に入れられていたふてぶてしい自分よりも、おどおどしたいじめられっ子だった自分や、いじけて暗くて皆に馬鹿にされていた自分が憎い。本当に消してしまえるものなら、消してしまいたい。
――後々の佐和子が誰かの悪口を言うとき、口癖とまではいかないが、決め台詞として憎々しげに「田舎者」と罵るようになったのは、父を投影してのことだった。
本業はクリーニング店だったが、町内会の会長や地区の教育長もしていて、いっぱしの「偉い人」のつもりだった父、やることなすこと、いちいち俗悪で俗物だった。
店の従業員は佐和子の母親と兄だけなのに、絶対に店では「社長」と呼ばせた。町内会の人々や佐和子の担任の教師にまでだ。町内会の広報誌や学校の印刷物にも「協力・武田クリーニング店社長」というのを必ず記載させた。
豪快で男らしく、細かな事にはこだわらない人というのを演じていたが、その実ものすごく警戒心や劣等感が強く、すべての人を自分と比較して、細かなところまで勝ち負けを決めなければ気がすまなかった。出身校、生誕地、実家、勤め先、収入、趣味、ゴルフの腕前、愛人の有無、容貌、人望、酒量、持ち物、それはもう、ありとあらゆることに。
そうしてあくまでも父の価値観だが、勝ったと思えばとことん馬鹿にして威張るか、子分として手なずけようとする。負けたと思えば媚びへつらうか、徹底的に敵視する。
いわゆる、マッチポンプ体質でもあった。たとえばAさんにはBさんがあんたの悪口を言っていると告げ口し、BさんにはAさんがあんたの悪い噂を流していると耳打ちする。もちろんその悪口も噂も、父が作った嘘だ。それでもAさんとBさんの仲が悪くなると、ますます煽って焚き付けてから、おもむろに自分がいかにも善意の、そして顔役であるといった態度で登場して二人を諫めて仲直りさせる。だが、結局は後から真相をAさんもBさんも知る所とになり、父はとんでもない奴だ、と揃って恨まれることになる。
根が小心なので、悪事、犯罪といったものまではできないが、常にこういうつまらない小さなトラブルを抱えていて、終いには総スカンを食らってしまった。
本人は絶対に認めないが、後々の佐和子はそんな父そっくりになっていたのだ。
さらに認めたくないことだが、容姿もそっくりだ。佐和子が虐められた原因の一つは、父の存在もあった。
あの頃の佐和子は、虐めっ子よりも誰よりも父が嫌いだった。すぐ激昂して殴るうえに、いつまでもしつこく嫌味や文句を言い続ける。それでいて機嫌がいい時は舐め回すように可愛がる。虐めた子供の家に怒鳴り込み、担任を自宅に呼びつけたりもした。
母はそんな父を軽蔑しきって、ろくに口もきかず常に不機嫌だった。兄や佐和子に対してもだ。兄もよく似た顔で肥っていたが、あまり虐められなかったのは、容姿を逆手にとって三枚目役を積極的にやり、面白い奴との評価を得られたからだ。その分、家ではずっと不機嫌で佐和子を虐めていたが。
あの頃の母の生きがいは、遺産で金持ちになった幼馴染のお供で行く、ホストクラブだった。ケチだから金は使わないし指名ホストもいないのに、その店でNo3くらいのホストに町内会で行った温泉の饅頭にラブレターを忍ばせて渡し、店では笑いものとなり、幼馴染には私に恥をかかせたと怒られた。さらに彼女にそれを聞かされた父に殴られて、離婚するのしないのという騒ぎになったこともあった。
父も母も兄も同級生も先生も嫌い。この世のすべての人が嫌い。誰より、自分が嫌い。といってグレるほどの根性もなく、いろいろな不満はすべて食べ物で紛らわせ、ますます太っていった。しかし佐和子にはただ一つ、支えがあった。割合に勉強はできたのだ。
電車で二時間かかる町の名門女子校を目指したのは、新規巻き返しだの人生リセットだのを、積極的に夢見たのでも張り切ったのでもない。
あからさまにブスのデブと虐めて来る。残酷な男ども。あいつらの虐めから逃れたかったのと、名門の女子校というブランドが付けば、少しは救われると思ったのだ。
佐和子は必死に勉強し、試験に合格した。見栄っ張りで俗物の父も多いに喜んでくれ、付属の寮でなくちゃんとしたアパートを借りてくれた。
同級生となった女の子たちは、さすがに行儀がよく大人しく、ブスのデブのと虐めて来るようなのは一人もいなかった。それどころではない。
「佐和子さんて、すごくしっかりしていそう」
「そうよね。頼りになるお姉さんって感じ」
まったく佐和子の虐められっ子時代を知らない彼女達は、ただ見ただけでそう勘違いしてくれたのだ。知った子が一人もいないという安堵感と開放感もあり、佐和子は最初から思い切って面白い自己紹介をしたり、自分が太っているのを面白おかしく語って笑わせていた。いつのまにか、ちょっとした人気者になっていたのだ。
もしかしたら自分はここで生まれ代われるか、と大袈裟ではなく、雲の切れ間から一条の黄金の光が刺すのを感じた。元々、嫌いだった兄を観察して三枚目としておどける技は学んでいたし、憎いが父のハッタリや作り話で人の心をつかむ術も見ていたのだ。
一人暮らしになったのを幸いに、女性週刊誌や男性向けのエロ雑誌まで買い込んで知識を詰め込み、自分は中学の頃から遊んでいて男をすごく知っていて、という演出までした。お嬢さん達は、あっさりと信じて感嘆してくれた。
そうなると、だんだんと自分は本当に昔からの人気者で男にモテてて、強気で豪快な姉御肌のリーダー格だったと思えて来たのだ。
そんなころに知り会ったのが、同じアパートの下に住んでいた隆(たかし)だ。職も女も転々としていた、今も昔もきっぱりとロクデナシなのだが、見た目だけはまずまずだった。本人が思っているほど格好良くもないが、一見すると線の細い坊ちゃんタイプで、喋り方も優しいし自分のこともあまり話さない。つまり、父とは正反対だった。
後から思えば隆は、佐和子の制服から名門女子高生と知り、だったら実家も金持ちだろうと計算して近づいてきたのだ。
週刊誌やテレビで仕入た知識では、せいぜい箱入り娘の同級生くらいしか騙せない。初めての男となった隆にすっかり騙され、逆にのぼせて、互いの部屋に入り浸るようになった。隆は、それこそ世間知らずの高校生くらいにしか通用しないお粗末な手口だったが、
「・・・・そんな訳で、またちょっと金が要るだよ。パパに融通してもらえないかな」
佐和子にとっては巧みな手管で、金を引き出した。佐和子も必死に、なんとか親が納得してくれるよう、塾に行くだの課外授業の教材費がいるだのテニス部に入ったからラケット代や合宿費がいるだのと嘘をついては、金を貰った。
男と半同棲しているのが親にみつかり、今までの金の無心がすべてその男にそそのかされたものだと知られるまでに、そう時間はかからなかった。
無茶苦茶に父に殴られ、実家に連れ戻された。だが演じているうちにすっかり強気の豪胆な姉さんになり切っていた佐和子は、隆を逆に焚き付けて駆け落ちをした。高校は当然、退学処分だ。しかしあの時の佐和子には、隆のほうが人生の一大事だった。
とりあえず都会に出たが、佐和子の年齢と容姿ではなかなか高給を得られる職場には入れない。もとより隆には、働いて頑張る気もない。
所持金すべて持って隆が消えてしまった日に、佐和子は泣き喚きも茫然自失もしなかった。奇妙な闘志が湧いてきて、その勢いで住み込み従業員を募集していた食堂に行き、すっかり巧みになった作り話で主人夫婦を同情させ、入り込んだのだ。
それからの佐和子は、悪い意味で水を得た魚となった。嘘とハッタリで人々を信用させては騙し、騙しては逃げ、逃げては次の獲物を捕まえて嘘とハッタリで信用させ・・・・という、悪いローテーションに生きる女となったのだ。
わずかか期間だったが会社を持って、いつでもどこでも「佐和子社長」と呼ばせた。そう、かつての父のように。父と違ったのは、焚き付けて煽って金を出させた人を本気に怒らせてしまい、詐欺罪として訴えられてしまったことだけだ――。
親や兄とはとうに音信不通になっていたし、佐和子にとって起訴や逮捕はむしろ、悪党としての箔が付いたくらいのものだった。
そうだ、私は強気の悪者。男も女も騙して手玉に取ってきた、ある意味では勝者。こんな拘置所くらい、すぐ出られる。出たらまた、いろんな奴らを操ってやる。今度は捕まるもんか。だって私は強いもの。いつでも真ん中にいる、主役だもの。
佐和子は、悪いことや詐欺をやりました、とは言える。言えないのは、私はいじめられっ子でした、暗いおどおどした子でした。という過去だ。
さすがに警察や裁判所では、嘘とハッタリは通用しなかったが、拘置所の中では女王になれた。少なくとも、佐和子本人はそう信じている。
すべての同房の女どもを手なずけて操ったつもりだが、中でも佐和子が目を付けたのは由紀子とかずみだった。
佐和子には「強気で豪快な姉御肌の女」の他に、「男が放っておかない危うい魅力ゆえに運命に翻弄される悪女っぽくも儚げな美人」、という理想の自己像があった。由紀子はまさにそれだった。
実際に男がらみで捕まっていて、人気モデルでもあったという由紀子は小憎らしもあるが、しおらしく慕ってくれるし、こんな美人を従えるのは快感でもある。
でも、かずみは。認めたくないが薄っすら、佐和子はわかっていた。かずみは地味な鈍い感じの冴えない女で、積極的な虐めは受けないまでも、いつも女どもに馬鹿にされて軽んじられてきたはずだ、つまり、昔の自分に似ている。
佐和子は詐欺で捕まってもなお、自分は成功者だと信じ込んでいた。「自分が成功していなかったら、きっとかずみになっている、かずみは逆に、失敗した私なんだ」、というふうに思いついたのだ。
これまた快感だった。かずみがそばにいれば常に勝者の喜びを噛みしめられ、敗者にならなくてよかった、とにんまり笑えるのだ。
まさに、ここらあたりの自分勝手な他者との比較は父譲りなのだが、その点はすっぽりと抜けているのが佐和子だ。
ともあれ、由紀子とかずみ。なんだかんだといっても、佐和子が二人に目を付けたのは、ここを出てから会った場合、最も金を引っ張れる匂いを嗅いだからだ。かずみはかなりいいところの子らしい。由紀子は、あの美貌だ。金の方に寄って来るに違いないと――。
6 乙女の部分
芸能事務所にも所属して、さあこれから華々しく売り出そうとしていた矢先に現れた、かつての悪かった過去を知る男。昔は恋愛関係にあった彼に脅迫され、女子高生に売春の斡旋をしたために、由紀子は捕まった。
拘置所を出ても、実家には戻れなかった。厳格な親には、とうに縁を切られていたからだ。
だから、モデル時代に知り合った工務店の社長を頼った。女好きでお調子者の面もあるが、面倒見もよく親身になってくれる社長の紹介で部屋も借りられ、彼の会社の事務員もさせてもらった。
そうして、やはり社長の紹介で知り合った人と交際を始め、それが今の夫となった。
素直に由紀子は、自分にはもったいない人だと感謝した。経歴も申し分なく、地元では優良とされる会社を経営している家の跡取りで、顔立ちも性格もいい。
夫は由紀子の過去をすべて承知の上で交際してくれ、求婚してくれたのだ。そんな彼と結婚することを伝えたら、ようやく親も許してくれ祝福してくれた。
ただ、さすがに夫の親には拘置所や過去の話はしていない。由紀子の親も、あちらのご両親には絶対喋るなと釘を刺して来た。夫も、
「我が家の秘密は、うちの親に由紀子の過去を話していないことだけだ。これは一生、黙っていた方がいい。騙すわけじゃない。黙っているだけだ」
そう言ってくれた。だから由紀子は、
「秘密はもう一つあるの」
とは言えなかった、夫を慕っている、世話になっている工務店の社長。由紀子は彼の会社で事務員をしていた頃に、愛人でもあったのだ。由紀子の部屋で、半同棲をしていた時期もあった。
もちろん社長も、今は素知らぬ顔をしてくれている。彼にも家庭があり、そちらも大事なのだ。
社長夫人も、かつてはかなり夫との仲を疑ったようだが、由紀子が結婚することになった時は、快く夫婦で仲人役を引き受けてくれた。
由紀子の娘の亜矢(あや)を、県内で一番といわれるP大学付属の幼稚園に入れるように勧めてくれたのも、自身もそこの出身である社長夫人だった。
由紀子は嫌な過去も、芸能人に憧れていた自分もすべて振り切るように亜矢の教育に熱を入れ、P大付属に合格させた。
華やかな芸能人にならなくてもバラ色の日々はやってくるのだと、しみじみと亜矢を抱きしめて、実感できた。
――その幼稚園にただ一人、由紀子の「もう一つある秘密」を知る女も、子供を入れていたと知るまでは。
自分はまったく自分というものを持っていなかった。それを、かずみは初めて分かったのはいつだったのか。
何不自由ないお嬢様として生まれ育ったことは、幼いころからすんなりとわかっていた。しかし親や先生の周りの大人にはいい子と誉められるのに、男というものがまるでいい女として誉めてくれないというのは、なかなかわからなかった。
自分に自分がなかった。それが分かったのは、生まれて初めて裸で男と抱き合った時ではなかったように思う。
では彼の恋人であり、女子大時代の同級生だった女に包丁を持ち出されて揉み合いとなり、勢いあまって逆に死なせてしまった時なのか。
・・・親にも兄姉にもひどく嘆かれたが、拘置所で不起訴処分になるように尽力してもらい、出たのちはひっそりと実家から離れた家を借りてもらって暮らした。
仕送りはしてもらえたから生活に困ることはなかったが、家にじっとしていても気が滅入るばかりだったので、近くの教会に奉仕活動に行くようになった。
牧師夫婦には、拘置所にいたことも入る原因となったことも話して、洗礼を受けた。もちろん、死なせてしまったかつての同級生に祈りを捧げたい気持ちもあったけれど。
廃品回収やバザー、ボランティアの介護や子供たちの世話や手伝い、そういった奉仕活動をすれば、様々な人に感謝してもらえる。そんな、素直な他者からの評価は嬉しいものだったのだ。ただ、優しい優しいと言ってもらえる。
そこで知り合ったのが、今の夫だ。
早くに妻を亡くして男手一つで子供を育て上げたという彼は、父とほぼ同い年であり、それこそ、これまでかずみを取り巻く世界ではまったく評価されない男だった。大学も出ておらず、勤め先は零細企業で、もちろん資産もなく、見た目も冴えない。
しかし彼は、かずみを求めてくれた。もちろん、過去も引き受けてくれると言ってくれた。
だが、かずみは薄っすらと、自分は「有名な学者と料理研究家を両親に持つ有名女子大卒の若い令嬢」という高嶺の花として求められているのではなく、「あまり男に縁のないぱっとしない容姿で、しかも人殺し」の、過去とはいえ人死なせている女だから、たやすくこんな冴えない子持ちオヤジでも手に入れられるだろう、と思われていると感じた。
だからこそ、かずみは受け入れた。自分は、そんな低い評価をされる方が楽だとわかったからだ。
それでも結婚して祐希(ゆうき)を産んでみれば、夫は孫のような息子を溺愛してくれた。前妻との間の子供はみな独立していたから、夫の方が息子の教育に必死になった。
「祐希は、俺じゃなくかずみに似ているから賢い。P大付属幼稚園に入れたい。もう、夢はこの息子だけだ。金なんか惜しくない。全部、こいつに費やしていい」
これは、夫からの思いもよらない嬉しい評価、だった。今までは誉められても、ぼんやりとしか嬉しさがなかったのだ。
かずみもまた息子に夢中になって。P大付属幼稚園に入れるよう情熱を傾けた。そして合格した時初めて、「私が、私を評価する」という気持ちになれたのだった。その幼稚園に、拘置所にいたことを知る女も子供を入れていた事すら、まあどうでもいいわ、済んだことだし、と思えるほどに。
もしかしたら自分は、大嫌いだった俗悪な父親をなぞっているかもしれない。・・・・佐和子はまだ、ここまで気づくには至っていない。
どこかではわかっている。わかっているけど、いまの佐和子は忙しいのだ。過去は切り捨てたというより、すべて放り捨てた。父親も、また。
極端に言えば佐和子は、詐欺を働いて捕まって拘置所に入れられていたことよりも、暗くていじけていて、面と向かってブスのデブのとからかわれていた子供時代を最も放り捨てたいのだ。
詐欺とインチキな新興宗教の教祖は、紙一重だ。佐和子は高校に入ってそれまでのいじめられっ子でまったくモテなかった自分を、なかったものとして葬った。そうして、自分で自分を神さまにして、自分で自分の信者になった。
そうすれば、自分以外の信者も獲得できたのだ。男も女も小金持ちも貧乏人も、彼らの特徴は、か弱き迷える子羊ということではない。過去の佐和子」を知らないということだ。
「私は子供の頃から、強気で豪快で明るくて、人気者でリーダー格だった。男も切らしたことがない。いつだって男がいて、どれもこれもチョチョイ
手玉に取っていた」
いっとき、インチキな新興宗教はものすごい勢いで信者を獲得して精力を拡げる。佐和子は男も手に入れ、あの俗悪な父親のように従業員はいなくても、いつでもどこでも自分を社長さんと呼ばせる生活もした。
勝手に信者が、主旨替えをしたのだ。信仰を裏切って、私を神様ではなく詐欺師として訴えたのだ。今も、佐和子はそう信じている。
だが、拘置所は佐和子にとって決して捨て去りたい過去ではない。もちろん、自慢げに言いふらすものでもないくらいはわかるが、
「自分はいじめられっ子の弱いショボい女だった。みんなに馬鹿にされていた弱者だった。全然モテなくていじけていた」
という方が受け入れられない。そんな神様、いらない。
拘置所の雑居房でも、女王然と振舞えた。ハッタリと脅しと、かつて自分も弱者だったが故に学んだ、相手の心の弱い部分のつかみ方のコツさえあれば、面白いように女どもは秘密を打ち明けてくれ、弱みをさらけ出してくれ、逆にこちらからは強みじゃないかと舌なめずりさせてくれるまでさらけ出してくれた。
目を付けたのは、良家の令嬢で冴えなくて人殺しのかずみと、やたら美人でそれでいていつもどこか投げやりな由紀子だ。
あの二人は、金になる。いいや。私の信者になる。
佐和子は、その二人の消息はちゃんとわかるようにあちこちに手配はしておいた。大金や命がけの信仰はしてくれなくても、時々小銭の献金をしてくれる奴らもまた、拘置所の中でしっかりと捕まえておいたのだ。
拘置所を出た後、こっちから惚れ込んだ妻子持ちの男を取り込み、すんでのところで再び拘置所に送られそうになったほどの嫌がらせや脅しで、妻子を追い出して男の後妻におさまってすぐ妊娠出産するのと。由紀子とかずみがちゃっかり過去を隠して結婚して子供を産んで、P大付属幼稚園を目指しているのと。
どれが先でどれが次で、などと、順番通りに絵解きできるものではない。はっきりしているのは、佐和子の持ち前の詐欺師と新興宗教の教祖と紙一重の力で、略奪した夫を、
「うちの真利子(まりこ)も、P大付属の幼稚園に入れる」
と説得することと、同じく略奪した雑貨店をもっと流行らせ儲けさせることだった。
夫もすっかりその気になり、雑貨店も売上は確実にあがった。入園前から幼稚園に出入りし、幼稚園に子供を入れてからは役員になって、母親仲間に強引に売りつけたりもしたのだ。
だから、由紀子とかずみとの再会は、満をもってして、といったものだった。少なくとも、佐和子にとっては。
しかし佐和子はまだ、しゃぶれるだけしゃぶってやろう、などとは考えていなかった。なぜなら、絶対に死んでも今の佐和子は認めないが、
「友達が欲しい。信者ではなく、仲良しが欲しい。佐和子ちゃんすごーい、佐和子ちゃん頼れる、佐和子ちゃん面白―い、と言ってくれる友達が。なぜって、私は昔々、いじめられっ子の仲間はずれだったから」――
抜け駆けなんかあるもんか。玉木さんと二人で会うことは、ちゃんとした理由があるのよ。だって私はリーダーだもの。幼稚園の夏まつりを仕切るんだもの。
佐和子はいつもの喫茶店に、同じ幼稚園に子供を通わせる玉木祐介を呼び出していた。由紀子やかずみがいる時は、カレーだのハンバーガーだのを食いまくるが、玉木がいる席ではコーヒーしか飲まない。いや、飲めない。
「佐和子さんて、ほんと女社長の風格があるよねぇ。任せて安心、て感じだな。うちの会社に欲しいくらいて。いや、後援会に入ってほしいくらい」
玉木は、夏祭りに全力を傾けたいのではない。近々出る、市議選を意識しているのだ。佐和子とはまた違った意味で、こういう幼稚園の役員だの町内会の仕切りだのをやりたがる。由紀子達はそんな玉木に、あまり乗り気でもない態度で、
「まあ、いい男じゃないですか」
などと明らかに佐和子を気遣って適当に褒めるが、佐和子にとって玉木は「王子様」なのだった。佐和子はひどく俗物なオヤジである反面、いじけた小心な夢見る乙女の部分も色濃く残している。もちろん、佐和子自身が認められないのはそっちの部分だ。
ところが玉木は、オヤジ心の方をくすぐるような誉め言葉ばかりくれる。それはなぜか。あくまでも子供達のための夏祭りの話し合いをしていくうちに、徐々に話はそっちのほうにシフトしていって、わからされた。
そうして佐和子は、ついに「玉木様のために由紀子とかずみから金を出させよう」と、コーヒーをお代わりするうちに決めていた。オヤジ心が、ではない。乙女心の方がだ。
6 友情
なんで仲良しなのかわからないと、他の幼稚園ママ仲間に不思議がられている、迫力あるブスデブで図々しく騒がしい仕切り屋の佐和子に、一見上品な美人だが妙に翳りのある由紀子に、見た目も性格もひたすら地味で何を考えているのかわからないかずみ。
拘置所の中にいた時から、佐和子は二人に目を付けていた。ここを出てから付き合ってもらおうじゃないかと。由紀子は美人だから金になる。かずみは金持ちの子だ。
拘置所を出た後、結婚してできた子供を、同じ地元の名門P大付属幼稚園に入れて再会できたのは、佐和子にとっては思った通りでもあり、予想外でもあり、偶然でもあり、必然でもあった。由紀子は玉の輿に乗るに違いなかったし、かずみは良家の子だ。実家の周辺に戻って子供ができたら、かなりの確率でP大付属に入れるのは予想できていた。
拘置所の中で手なずけて弱みを握った女は他にもいて、彼女らが由紀子達の詳細な消息を教えてくれていた。だから、もし偶然を装って幼稚園で再会できなくても、別の場所で強引に会う準備もしてあったのだ。自分のことは棚に上げて佐和子は、
「絶対に私には逆らえないよ。なんたって、あいつらの弱みを握っているんだ」
と、絶対の自信を持っている。あいつらは自分の弱みを握っている、とは考えない。
由紀子は、未成年に売春を斡旋していた。かずみは、過失とはいえ人を死なせていた。さらに由紀子は、拘置所を出た後に親代わりとして頼り、今の夫と結婚する時は仲人まで努めてもらった社長と愛人関係にあった。由紀子の夫は、何も知らず社長を慕っている。
かずみは、父親と母親が高名な学者と料理研究家だ。兄姉もかなり地位のある。家族にとっては愚かな娘、忌まわしい妹の存在は、隠したいものでしかなかった。かずみも家族には迷惑をかけたくないから、極力実家には近づかないようにしている。
確かにある意味、彼女らはそれぞれの罪状と拘置所にいた過去よりも、社長との関係や親兄姉の存在の方を、幼稚園では知られたくない秘密として隠していた。そう。佐和子が、詐欺で捕まって拘置所にいたことより、いじめられっ子だった過去を隠したいように――。
佐和子は弱みを握っている由紀子とかずみから、しゃぶれるだけしゃぶってやろう、搾り取れるだけ搾り取ってやろうとは、考えていなかった。
これまで、大金をよこせと脅したこともない。夫の雑貨店の経営が苦しくなった時に、「問屋に支払う分をカンパして」「ちょっとでいいから仕入れのぶんを貸して」と、何度か頼んだくらいだ。二人がそれぞれ夫に内緒で工面できる、ぎりぎりの金額をだ。
もちろん、最初から返す気は無く貰う気だったが、過去を知る脅迫者として大金をくれと脅しはしなかった。あくまでも友達を強調し、ちょっと「助けて」「貸して」だ。
それは、佐和子の良心があったからではない。欲をかき過ぎれば失敗する。金の卵を産む鶏は、一気に絞め殺してしまったら元も子もないからだ。
また、絶対に認めたくないが佐和子はいじめられっ子だった劣等感が根深い。自分を慕ってくれ頼ってくれて、いう事を聞いてくれる、「友達」も確保しておきたかった。三人の中で最も「友情」というものを信じ、必要としているのは、皮肉なことに佐和子なのだった。
由紀子とかずみも、まったく他の二人に「友情」を抱いていないことを思えば、ある意味では佐和子が最も純情だったのかもしれない。たとえ、「脅迫者」であっても――。
そんな、佐和子にとって、目下の王子様は幼稚園の役員仲間の玉木祐介だった。
次期の市議選に出たいがために、幼稚園の地域の役員をやりたがる男。はっきりと悪党ではないが、地方都市のプチ上流階級によくいる俗な坊ちゃんだ。
佐和子の友達ではなく召使いである由紀子とかずみは、滅多に二人で話をしたりはしないが、玉木については「薄っぺらな男」と意見は一致した。
「この世には自分の支持者しかいないと信じてる人種、佐和子さんの好みではあるよね」
そう由紀子が辛辣に言えば、かずみも遠慮がちだが同意した。
「佐和子さんて、口で言うほど男経験ないんじゃないのかな。旦那さんも外見は似たタイプでしょ。色白で銀縁眼鏡の細身の、あまり生々しく男や雄を感じさせない人」
「あー、なるほどね。かずみさん、なかなか鋭い。私も以前から、佐和子さんてあまり男経験ないと感じてた。そういう女が好きなタイプだよね、玉木さんとか旦那って」
思えばいつも行く喫茶店で佐和子がトイレに立った隙に、ちょっと二人が話した時間というのは、仲良しの「裏切り」の芽生えといってもよかったかもしれない・・・。
ともあれ佐和子はいじめられっ子、あくまでも幼稚園の夏祭りの話し合いをする名目で玉木と二人きりで会い、のぼせ上がってしまった。玉木も、「金をかけずに手作りの夏祭りを」という話を、「金のかかる選挙運動こそ当選への道」にすり替え、変なふうに佐和子をのぼせ上げさせた。
「佐和子さんのようなしっかり者が参謀になってくれれば、どんなに心強いだろう」
「任せてっ。私はこれまでもいろいろなブレーンをやってきて、どれも成功させてきたの」
かつて佐和子は、インチキな新興宗教の教祖のように迷える信者を集め、騙して小金を巻き上げていた。今は、結婚詐欺師のような玉木に言いくるめられ口説かれ、
「選挙資金、私も援助します。だって玉木さんは素晴らしい理念を持っておられるもの。私は同じ幼稚園に子供を通わせる親として、ううん、市民として玉木さんを応援したい。ああ。大丈夫、大丈夫。実家は金持ちなんですよ。それに旦那の店も実質、私のものだし」
例によって、お得意の下心を隠した綺麗ごと、事実の七割増しのホラと、事実とはかけ離れたハッタリを吹きまくり、胸を叩いて見せた。
もちろん佐和子は、由紀子とかずみから金を出させようと決めたのだ。
今度は、ちょっとだけ貸して、といった金額ではない。まとまった金を出させるつもりだった。友達だから助けて、ではない。バラされたくなかったら出せ、だ。
玉木はしかし、即座に佐和子を誘ったりというような、奥の手、最終兵器は使わなかった。それは最後までお預けにして焦らした方が、効く。玉木は候補者が支持者を引っ張るのではなく、ホストが上客を取り込むように佐和子をその気にさせてしまったのだ。
由紀子達がいる場では、見栄を張りたい気持ちと舞い上がりやすい性質とで、「祐介」と呼び捨てにしてしまう相手だが。やはり目の前にすると、玉木さん、としか呼べない。
いつか二人きりでも、祐介、と呼べる日が来る。きっとそれは私が尽力して当選できた暁にわよ。佐和子は脅迫者のくせに、乙女のように身をよじった。玉木は努めてにこやかに、しかし密かに唇を歪めてそんな佐和子を見下していた。
佐和子は、別々に由紀子とかずみを呼び出した。いつもの喫茶店だ。最初に、由紀子を呼んだ。由紀子の勘もいいし、何より夫は金持ちだ。
「これはもちろん私のためではなくて、もっと言えば玉木さんためでもないんだからね。幼稚園の子供達の未来のため、この街の市民のためなの」
こういう胡散(うさん)臭い芝居がかった台詞を臆面もなく言えるところに、詐欺師の片鱗が今も見え隠れする。だが、佐和子の提示した金額には、さすが由紀子も眉根を寄せた。
壁際のテーブルに向かい合って座っている由紀子は、すぐには返事もせずに目の前のコーヒーカップに目を落としていた。その表情に、佐和子もいささか動揺した。
「言いたくないけどさ。『社長さん』から、あんたの旦那に頼んでもらってもいいんだ」
すぐに、脅すきはなかったのに。ついつい、急いてしまった。
「それは、困るわ。・・・・・わかった。お金は、何とかする」
やがて由紀子は、ポツリと答えて冷めかけたコーヒーをゆっくり飲んだ。
モデル時代に取得した、完璧な笑顔は見せてくれず、奇妙なほど無表情な白い頬は少し気になったが、由紀子は伝票をつかんで「お先に。この後、亜矢を水泳教室に連れて行かなきゃならないから」と先に出て行った。
その後、すぐにかずみを呼び出した。鈍いいつも舌打ちしているかずみには、単刀直入に脅し文句を口にした。貸してくれないなら、あんたの親や兄貴の所へ行く、と。
「わかりました。でも、今日明日というのは無理なので、待ってもらえますよね」
かずみは、由紀子のように困るとは言わず、眉根も寄せなかった。ただ、同じように無表情に白い頬をして、店を出て行った。
「あ、もしもし、祐介ぇー? お金、ばっちりよ。用意できたっ」
由紀子もかずみもいなくなったのに、佐和子は嬉しさの余り携帯電話で玉木を呼び出した際、祐介、と叫んでいた。
これから二人で会わないか、
上ずった声で伝えたら、祐介こと玉木は愛想のいい口調ではあったが、やんわりと断ってきた。どうしてもでなきゃならない会合があると。
「二人で会うのはもうちょっと後に、ゆっくりとね。それより、夏祭りの話し合いだ。あれが先だよ。島田さんの仲良しでもある水木さんと伊東さんだっけ。あの二人も呼んで。ああ、ほら、例の人気のカラオケボックス。知人に頼んであそこの予約取るからさ」
断れた事など吹き飛ぶほど、佐和子は浮き浮きとしてきていた。人気の洒落たカラオケボックス。前々から玉木と行きたいと願っていた。そこで自分は、玉木の恋人として振る舞うのだ。由紀子やかずみは、さぞや羨まし気にみるだろう。
玉木には、由紀子とかずみから金を出させるのは内緒だ。あくまでも、金持ちの子でやり手の自分の金は、少し待ってやろう。玉木と二人きりで会える日まで。佐和子は好物のドーナツを貪りながら、にんまりしているのを止められないでいた。
まさか今、由紀子とかずみが別の店で待ち合わせているなど、夢にも思わなかった。
自分は主役で大物なのだからと、わざと遅れて入った。カラオケボックスのVIPルームには、すでに玉木も由紀子もかずみも来ていた。ドアのガラス越しに見える。
自分は幸せ者だと、ドアを開けながら佐和子は恍惚とした。夫と子供はもちろん大事だけど、こんな素敵な恋人ができた。そして、由紀子とかずみという分かちがたい縁で結ばれた友達もいる。さらにその友達は召使いとしてだけではなく、財布としても使えるのだ。
ドアを開けた瞬間、玉木の大きな笑い声が響いた。テーブルを挟んで坐る由紀子とかずみも、仰け反って笑っている。あら何よ、私を置いて先に盛り上がってるなんて。
「ちょっとちょっと、なんなのよ。どんな面白い話があるの」
佐和子は主役然として、玉木の恋人然して、隣に腰を下した。すぐに玉木は、選挙用ポスターにも使える笑顔で答えた。
「びっくりしたなぁ。島田さんて中学校まで、いじめられっ子だったんだって?」
一瞬、何を言われたかわからなくなって、佐和子は固まった。すかさず由紀子が続けた。
「あだ名がそのまま、ブタ、ブス。ひっどーい。あの頃の男子って本当に残酷よね」
かずみまでが、遠慮がちでありながらも笑いを隠さず言った。
「私達、佐和子さんは偉いって話していたの。そんな辛い過去を克服して、今はみんなを引っ張るリーダー格だもの。こんなの、私達だけが知っているのは惜しい。夏祭りの特別企画で、『私はいじめをこうして克服した』っていう講演をして欲しいとおもっています」
「なんで知っているの」
自分の声とは思えない、かすれた声が出た。体温が自覚するほど下がっていく。
「あら。私達は仲良しよ。佐和子さんが私達の昔を知りたがるように、私達も佐和子さんの昔を知りたくてね。意外なところに昔を知る人がいたの。ふふ、内緒よ、その人は」
由紀子は、完璧なモデルの笑顔で答えた。悪意は微塵も表さない。
やられた。隣の部屋から聞こえて来るエコーが、佐和子の頭の中でがんがんと鳴っていた。由紀子とかずみは示し合わせて、佐和子の昔を知る人を捜しあてたのだ。今はインターネットあり、わざわざ探偵など雇わなくても、かなり簡単に検索できる。
それに二人はあくまでも、「佐和子さんは辛い過去を克服して偉いわ」と誉め、決して脅すべき過去は持ち出してこない。脅迫にはならない。たとえ佐和子が脅迫と感じても。
「楽しい夏祭りができそうね。うちの侑希も、本当に楽しみにしてる」
まだこの部屋では、誰も歌っていない。だが、佐和子には祭りの音楽が聞こえていた。軽快で物悲しい旋律が。自分は、夏祭りにはでられない。そんな講演をする勇気はない。
「ねえ、三人で歌える曲ってあるかな。もちろん友情を歌った歌よ」
由紀子が嬉々としてマイクを突き出せば、玉木が張り切って本をめくり、そんな歌を探し始めた、佐和子はただ呆然としと、座り込んでいる。
やがて「友情」を称える歌のイントロが、軽やかに流れてきた。
つづく 隣の花は黒い