怖い夢を見た
みさきはうなされて、自分のその声に目が覚めた。額に手をやると、冷たい汗に前髪が濡れている。どんな夢だったのかは全く思い出せなかったが、怖い夢だった。
夫の大倉謙次は、ダブルベッドの片側で寝息をたてている。みさきはそっとベッドから降りると、寝室を出た。2LDKのマンションの短い廊下は、夜気が凍っている。十月の末だというのに、このところ異常な寒波がつづいていた。みさきは白い薄物のネグリジェ姿であったが、怖い夢に火照った体には、その寒さがここちよい。
洗面所の灯りをつけると、大きな鏡に顔が映った。汗で頬にも髪が貼りついている。まだ三十一歳だというのに艶のない肌であった。洗面台に両手をつき、みさきはその艶のない顔を自虐的な気持ちでじっと見据えた。どうして艶がないのか、みさきはよくわかっている。
謙次とはもう一年以上、セックスがなかった。
決して仲が悪くない。むしろ、仲のいい夫婦である。四歳になる一人娘の亜矢子を中心に、まさしく円満な家族であった。
謙次は、大手町に本社を置く東洋電機株式会社の広報課長である。東洋電機は、家電製品では世界トップシェアを誇っており、福祉厚生や社員サービスもいい。謙次が三十四歳の若さで川崎市にマンションを買えたのは、会社が低利子で購入資金を融資してくれたから他ならない。ただ、年収が税込みで七百五十万円というのは、ローンを抱えている身には苦しかった。
同期入社のトップを切って課長に昇進した謙次であったが、できうる限りの時間を作り、家族と過ごすようにしていた。亜矢子の幼稚園の運動会には、ビデオカメラを持って喜々として出かけるし、休日にはみさきを助手席に乗せて、高級マーケット「ドルフィン」につきあう。
普段、みさきは近くのスーパーで買い物を済ませるが、謙次は必ず「ドルフィン」へとハンドルを切る。そして、チコリやエンダイブやハーブ類などの高級野菜を手当たりしだいにカゴに入れる。時にはピンクや黄色が美しい食用の花まで勝手に買う。
「待ってよ。もったいないわよ」
みさきが言うたびに、謙次は笑う。
「俺が払うってば」
普段は手にしない野菜や花、外国のチーズなどいっぱいにしたカートを押している時、みさきは幸せだなァと思う。亜矢子を抱いた謙次が、寄り添うように歩いてくれるシーンは、女性誌のグラビアのようだろう。
確かに、謙次はスマートにみさきを喜ばせるのがうまかった。結婚記念日には、必ずトーキョウーホテルのフランス料理店「アンヴァリッド」で二人きりの食事をする。トーキョウーホテルは二人が結婚式を挙げたところであった。
一年目の記念日には、謙次は抱えきれないほどのバラを抱いて店に入ってきた。二年目には手ぶらで入ってきた。みさきが内心がっかりしていると、黒服のウェイターがカトレアの花束を運んできた。
「ご主人様がここに届けるよう花屋に指示されましたそうで、只今、届きました」
ウェイターの言葉に、謙次はそっぽを向いてタバコの煙を吐いていた。照れているのかポーズなのか、みさきはこんな謙次のやり方に出会うたびに、「この人が私の夫なのよ!」と、誰彼かまわず言いたくなる。
こんなふうによろこばせることがうまい一方で、みさきの質問は政治であれ、経済であれ、億劫(おっくう)がらずに答える。日常的な夫婦喧嘩や言い争いはあるが、みさきには百点満点以上の夫といえた。
ただひとつ、抱いてくれないということを除いては、である。
謙次とふんだんにセックスがあったころ、みさきは「直接の自分の顔」を見るのが何よりも好きだった。
抱かれた直後、今夜のようにベッドから降りて洗面所の灯りをつける。鏡には、今夜のように髪を汗で濡らした顔が映っている。
直後の顔は、誰しもひどく淫(みだ)らなものだ。ついさっきまで恥ずかしい姿態をとらされていたのがこの顔だと、鏡はさらし出す。日頃、他人の前で見せている自分とはまるで違う自分を、たった今までやっていたのよと、女は鏡の顔に確認する。
直後の顔は本来、自分自身に恥ずかしくて正視できない類(たぐい)のものであろうが、みさきは大多数の女の快感を持って正視するものだと確信していた。好きな男の前ではいくらでも大胆になり、何でもいいなりになる自分を、鏡は映して出す。昼間とはまるで違う淫らな匂いを確認することは、セカンド・セックスとも言える火照(ほて)りを覚える。加えて、直後の顔は必ずしっとりと肌がうるおっている。それを確認するのも、みさきには嬉しいものだった。
怖い夢で濡れた前髪をかき上げながら、みさきは艶のない自分の顔を、改めて見た。
結婚して五年になるが、充たされたセックスは半年間にも満たない。
結婚後まもなくして亜矢子を妊(みごも)り、しばらたつと、謙次は、
「子供がつぶれそうで怖いよ」
と避け始めた。それでもセックスに近い行為は常にあり、みさきは愛されているという安らぎを感じていた。
しかし、亜矢子が生まれてからというものは、「近い行為」さえもなくなった。みさきは遠回しに、「もう大丈夫よ」と幾度もほのめかした。謙次は「致し方なく」という様子で、四カ月に一度くらい抱いた。
それが結婚三年目になると、半年に一度になった。
「致し方なく」という様子はさらにあからさまになり、時間は二十分もかけるかどうか。思いあまったみさきは、冗談めかして聞いたことがある。
「もう私には女を感じないの?」
「バカ言ってんじゃないよ」
言葉はそれっきりである。抱かない理由や、何か言い訳が続くのかと思ったが、何もなかった。
四年目には、一回だけになった。それも、妻の思いを哀れに感じ、ご奉仕という形のセックスであったと、みさきは思う。その夜は結婚記念日であった。この日だけは毎年、亜矢子をどちらかの実家に預けて。ホテルでディナーをとるのだが、みさきは自宅のリビングをムーディに飾り付けて、手料理で祝うことにした。いわば作戦であった。
テーブルを美しくセッティングし、ピンクのキャンドルを用意し、みさきは胸の谷間がはっきり見える黒いストリップドレスで装った。爪にはピンクパールのマニキュアをつけた。久々のマニキュアはみごとに家庭の匂いを消し、指はほっそり見せている。今夜こそは抱いて欲しかった。すでに十月なのに、一度も肌を合わせていない。
みさきは決してセックスそのものを欲していたのではない。愛されているという確証が欲しかった。
いくら話し相手になってくれようと、家庭サービスやプレゼントがあろうと、体に指一本触れられぬ日が続くと、愛されているとは思えなくなる。出産して変わった体が嫌われたのだろうか、他に愛人ができたのだろうか、妻なんて単なる家政婦兼ベビーシッターなのだろうかと、際限なく考え始める。
それでいながら、自分から誘うことはしたくなかった。自分からの誘いに応じてくれたのでは、愛されているという確証にはなりにくい。そうではなく、みさきに女を感じ、みさきに欲情して、謙次の方から手を出して欲しかった。結婚記念日の夜、スリップドレスのみさきに、謙次は明らかに困惑していた。それをみさきは「私の色気を再確認したんだわ」と受け取った。
みさきはリビングの灯りを消し、ピンクのキンドルに火をつけた。胸の谷間がより一層目立つようにと、上半身を必要以上にかがめて、炎を手で覆う。炎に浮かび上がるマニキュアの細い指が、豊かな胸と奇妙なアンバランスを見せている。
みさきは清純な印象を与える女であったが、胸の大きさは中学生の頃から、男生徒の口の端にのぼっていた。そんな噂が嫌いで、みさきはいつもワンサイズ大きな制服を着て、胸を目立たなくするのに懸命であった。
昔から決して利発とは言い難く、勉強もできる方でなかったが、ただ、そうじ当番は絶対にさぼらず、決められたことは正しく守るという生徒であった。日頃は地味で目立たないのに、胸の大きさが話題になると必ず最初に名前があがる。それがみさきにはたまらない。
三流の私立女子短大に入った後も、卒業して会計事務所の事務員として就職してからも、みさきは男と長続きしなかった、体の関係を拒否し続けたことが、最大の理由である。
「もう少しつきあってからにして」
みさきが言うたびに、どの男たちも疎遠になっていく、中には、
「もう五回も会っているのに、そろそろやらせてくれたっていいじゃないか」
と言い捨てた男もいた。
みさきは垢抜(あかぬ)けないが、大きな目と受け口の愛らしい顔立ちであり、かつ、胸の大きさは一目でわかる。それだけに、男たちが体だけを目的にしているという被害意識が消えず、何とか満足のいくまで、精神的なつながりを持ちたいと渇望していた。
謙次と知りあったのは、二十四歳の時である。会計事務所の税理士のホームパーティで出会った。
その日、みさきは税理士夫人を助けて、裏方の台所役に徹していた。謙次は何度か氷や酒を取りに、台所に顔を出したが、みさきはこの時の謙次をほとんど覚えていない。
パーティから一週間後、謙次から突然、夕飯に誘われた。謙次は行きつけの和食屋で言った。
「よく働く人だと感心してね、これは慰労会をやってあげなくちゃって」
それがきっかけで付き合い始めるようになったが、今までの男たちと違い、謙次はみさきの体をなめ回すようなところがまったくなかった。六か月間というもの、キス以上には進まず、かえってみさきのほうが不安になっていた。
そして七カ月後、二十回以上のデートの末に、二人はベッドインした。みさきはヴァージンであった。
謙次はヴァージンであることと、愛らしく清純な顔立ちとはあまりにも違う淫らな体つきに夢中になった。一般的にノーマルと言われるセックスのすべてを、教えこんだ。みさきは何でもやり、すべてに応えた。結婚までの一年半というもの、謙次はみさきが商店街のオジサンと口を聞くことにまで嫉妬したものである。
それが今ではキスさえもしようとしない。みさきは言いようのない不安に悩むのは、当然といえた。
結婚式のキャンドルを前にして、謙次の目は困り果てたように宙を泳いでいる。みさきはこのまま、リビングに押し倒されるかもしれないと胸が高鳴った。ベッドよりもむしろ、その方がいい。フローリングの床に転がされ、新品のスリップドレスを引きちぎられても、かつてそうであったように体と体をぶつけるようなセックスがしたい。スリップドレスの下には、下着を一切つけていなかった。
目を宙に泳がせていた謙次は、予想した通りに、突然、椅子から立ち上がった。体を固くして待つみさきに、自分の胸の鼓動がハッキリと聞こえる。
謙次は立ち上がるや、テレビのリモコンを手にした。そして、スィッチを入れた。
「忘れてた」
スポーツニュースが、騒々しく室内に充満した。キャンドルライトのリビングは、一瞬にして青白いブラウン管の光に照らされ、中継アナウンサーの絶唱とアルプススタンドのどよめきが響き渡った。
謙次はどこかホッとしたようにワインの栓を抜き、
「さすがの俺の女房。すごい料理だな」
と軽口を叩いた。肉にかぶりつき、ワインを一気に干した。
「イヤッ、うまいッ・ホテル以上だよ」
新しい皿に手を付けるたびに、同じセリフをはしゃいだ調子で言う。みさきが何か言いかけると、話を野球に持っていく。
「優勝は絶望だか。この守りじゃな」
結局、謙次は一人でしゃべりつづけ、一人でワインを二本近くあけ、ベッドに倒れ込むと高いいびきをかき始めたのだった。
その夜、みさきは明け方まで眠れなかった。なぜここまで自分を避けるのか。みさきには理解できなかった。しかし、つい先頃謙次が持っていた男性週刊誌でも、「夫婦のセックスレス」が問題になっていた。みさきは、謙次がいない時に夢中で読んだのだが、原因や解決策には何ひとつ触れていなかった。
いくら考えても、謙次に愛人がいるとは思えなかった。セックスレスということを除けば、相変わらず謙次は最高の夫であり、父親であったのだ。
みじめな結婚記念日の夜が更け、眠れぬまま夜明けを迎えたみさきは、タンスから薄物の白いネグリジェを出した。今夜こそはセックスがあるものと期待し、買っておいたものだった。十月の明けきらぬ暗さの中で裸になり。薄物に手を通した。指を触れぬ夫の隣に、これを着て横たわるのは悲しいことであったが、着なければもっと悲しい。平然と着ることで、なんとか自分を支えられそうな気がした。
薄物を着たみさきは暗がりの中で、ボーッと白く煙っているように見えた、その時、突然、謙次の手が背後から伸びた。
みさきは優しく薄物を剝がれ。組み敷かれた。これは夫の哀れみだということを、十分に承知していた。承知している以上、
「バカにしないでよッ」
と突っぱねられたらどんなにいいか。しかし、どうしてもそれはできなかった。哀れまれてほどこしを受けたようなセックスは、何一つよくはなかった。が、それでも肌を合わせていると、ないよりは安らぐ。
みさきとて、恋人時代のようなときめきを謙次に感じていない。それでも、裸で触れあうことは、「一人ぽっちじゃないんだわ」という安らぎがある。
あれから一年が経ち、五度目の結婚記念日が過ぎたこの一年間、まったく、一度たりともみさきに手で触れようとはしない。それを除けば、相変わらず夫婦仲は円満である。
もはや、みさきの方から演出したり、思わせぶりな駆け引きをすることは一切しなかった。昨年の結婚記念日のセックスが、やはりみさきを惨めにしてもいたし、プライドを傷つけていたのである。
あの晩と同じネグリジェを着ている自分の姿を、洗面所の鏡に見ながら、みさきは怖い夢を思い出せない。一年以上もキスさえないない夫婦に比べれば、どんな怖い夢も怖くはないのかもしれぬ。みさきは艶のない顔で鏡に向かって笑った。
みさきが寝室に戻ると、謙次にダブルベッドで、安らかな寝息をたてていた。室内を真っ暗にすると眠れないという謙次に従って、寝室は冬でもレースのカーテンを閉め切ってだけである。
レースを通して、街灯の水銀灯の光が入っている。それは月光と似た色で、謙次の顔を闇に浮かばせている。
その寝顔をぼんやりと見ているみさきは、静かに手を伸ばした。謙次の頬からあごをなぞる。伸びかかった髭が、みさきの指先を小さく刺激した。
みさきは隣に横たわると、自分のその指にさわった。謙次のあごと頬に触れたばかりの指は、一晩で伸びた髭の痛さを残している。
かつて、一時間以上もかけて愛しあい、疲れ果てて抱き合ったまま、シャワーも浴びずに眠ったことが幾度もある。それは浅い眠りで、事後の気だるさを楽しむようなまどろみであった。
おそらく、謙次の方も半覚醒なのだろう。みさきが寝返りを打つと、突然、背後から強く抱きしめてくる。半分目が覚め、半分眠った状態でも腕が反射的に自分の体に回されることが、みさきにはどれほど嬉しかったかわからない。
そんな時、必ず謙次の伸びかかった髭が、みさきのうなじに当たる。ベッドに入った時は伸びていなかったのに、愛し合い、まどろむうちに伸びている。それは、生ま身の男を感じさせるものだった。みさきは髭の痛さを味わいたくて、必ず首筋をねじって頬を当てた。
今、ベッドの中で、両の指をぼんやりと眺めながら、この指が髭に触れなくなってから一年以上がたつと、改めて思った。
室内に差し込んでくる水銀灯の光に、みさきは指をかざしてみた。髭の痛さを思い出したのか、指はいつもより優しく見えた。
洗面所からみさきが寝室に戻った時、謙次はドアの開く音で目をさましていた。白い薄物のネグリジェが、再び隣りに入って来るのを感じたが、謙次は気にもせず、すぐに目を閉じた。
ふと気づくと、みさきはベッドに体を起こしたまま、横になろうとしない。そればかりか、自分の顔に視線を感じる。謙次は寝入っているふりをして、ことさらに規則正しい寝息を立てた。目が覚めていることを悟られてはまずい。
その時だった。みさきの手が伸びて、指が謙次の頬からあごをなぞった。瞬間にして謙次はとり肌を立てた。寒気を覚えながら、そんな自分を嫌悪した。それでも勝手に肌が粟立ってくる。ひたすら、ひたすら寝息をたてることしか、謙次には手がない。
頬と顎をなぞると、やがてみさきは横になった。そして、長いこと、自分の指を水銀灯の光にかざしてみているようだった。みさきが何を思ってそうしているのか、謙次にはわからなかったが、とにかく寝たふりをし続けるんだと自分に言い聞かせた。やがてみさきは謙次に背を向けて、眠りに落ちていった。
それを確認した謙次の全身から力が脱けた。とにかく、ことなきを得たという安堵感で、笑みがこぼれそうだった。
もしも、目が覚めていることを知られたら、今夜という今夜はみさきに泣かれただろう。おそらく、みさきは何一つ言葉に出さずに、涙をこぼす、もはや一年以上、みさきの体に触れていないことを、謙次は決して忘れていなかった。むしろ、日に日に重くのしかかってきてるだけに、無言で涙を流されては、抱くしかない。しかし、どうしてもみさきを抱く気にはなれなかった。それは苦痛どころか、拷問に近い。
理由はよくわからなかった。むしろ、理由を考えないようにしていた。とにかく妻とはセックスはしたくない。これだけで十分な理由であろう。断固したくない。それ以上にどん理由がいるというのか。
みさきのことは愛していた。よそに愛人もいないし、妻や幼い幼い娘と過ごす時間は何ものにも代えがたい。これは紛れもなく本心であった。
三十四歳の謙次には、当然ながら健康的で性欲もある。それでもどうしても妻を抱く気にはならない。性欲はいくらでも処理する場所があるし、事実、大学時代の後輩と肉体関係を持っていた時期もあった。すでに別れているが、つきあっていた当時、彼女には欲情するのに、妻にはしない。今もって、妻を抱くくらいなら、一人で処理する方がずってましであった。
みさきが抱いて欲しがっていることは、もう四年以上も前からわかっていた。それは決してセックスの快感を欲しているばかりではないことも分かっていた。愛情を体で示して欲しいのだ。
しかし、それはいくら理解したところで、謙次はディープキスさえしたくない。妻に欲情しないのだからどうしようもない。
謙次が妻に対して見せる数々の思いやりは、抱かないことへの贖罪(しょくざい)であった。思いやりのすべてが、罪滅ぼしといってもよかった。
休日には謙次自らがハンドルを握り、「ドルフィン」に連れ出すのもそうである。高級な西洋野菜、食用の花、外国のチーズなどが日常の食卓に不必要なことは、謙次にもわかっていた。あらゆる商品の値段が、町のスーパーマーケットより一割から二割は高い「ドルフィン」に、わざわざ出かける必要は何もないのである。
しかし、不必要な物を買い、不必要な高級ムードに浸ることで、女の気持ちは豊かになることがある。まして、夫が金を払い、夫が守るように寄り添って店内を歩いてくれることは、若い妻にとってどれほど心が潤おうことか。それを謙次は察知していた。
結婚記念日に、ホテルのフランス料理店で食事をすることも、罪滅ぼしのひとであった。無駄な金と時間を使って、毎朝毎晩見ている顔とディナーなどしたい夫がどこにいるものかと、謙次は思う。できることなら、自分も御免こうむりたい。
まして、ディナーの席に、みさきは精一杯着飾ってくる。化粧もいつもより濃く、アクセサリーにも服にも、気合が入っているのが一目で見てとれる。それを見るたびに、謙次は心の中で「勘弁してくれよ」とつぶやく。つぶやく端から、「これが可愛いところなんだ」と思い直す。そして何よりも、抱かないことの罪滅ぼしなのだから、すべては我慢だと自分に言い聞かせている。
一年目は、大きなバラの花束を抱えてホテルに行ったが、二年目からはレストランに届けるようにと、花屋に指定した。妻に渡す花束を抱えて歩く図を思うと、妙に気持ちが萎えた。これが愛人に渡すもののなら、そんなことはあるまい。
当日、店に届いた花を、みさきは頬を赤らめて喜んだ。謙次を見る目が、「こんなことして驚かすんだから。大好き」と語っていて、謙次はそっぽを向いてタバコの煙を吐いたものである。
気取ったフランス料理にナイフを入れながら、謙次はいつでも「早く帰りたい」と、そればかり思う。こんなところで着飾った妻と向かい合っていても、話は茶の間の何ひとつ変わらない。亜矢子が幼稚園で褒められたとか、父兄会の奥さんがこう言ったとか、町内会のお祭りでヤキソバの屋台係にさせられたとか、そんなことばかりである。それらに適当な生返事をしながら、そのうちに気づく。ディナーは抱かないことへの贖罪なのだ。
そうなると機嫌をとるように、謙次はあわてて自分から話題を探し、面白おかしく話し始める。みさきは嬉しそうに謙次を見つめ、濡れたような瞳を反らさなくなる。そのたびに謙次は「これ以上、濡れた目をされちゃ、あとがヤバイ」と思う。そして、再び謙次の方からヤキソバの話に戻すのが常であった。それでも、ワインの酔いも手伝い、みさきは囁くことがある。
「私たち、すてきな夫婦に見えるかしら。きっと見えるわよね」
謙次は見えても見えなくてもどちらでもいいが、機嫌を損ねたくないので笑って頷く。頷きながら、自分の母親のことを思う。
母親だって満足にセックスなどしていたわけない。しかし、父親は結婚記念日に外での食事をせず、花も贈っていなかった。謙次と兄の慎一を猫かわいがりした父親であったが、母親に特別な気を遣ったところは、まったく記憶にない。それでもごく平凡な、ごく円満な家庭であった。母親は内心の葛藤があったかもしれないが、子供に当たることも一切なかった。
謙次はそういう昔の女たちを思うと、レストランにいる自分が腹立たしくなる。妻を愛していることは十分に伝わっているはずであり、浮気相手とは格の違う想いを持っていることくらいわかるだろう。それなのに、何か月もセックスしていないということが、どうして自分が負い目になっているのか。
父親の時代には考えられない罪滅ぼしのサービスに努めながら、やはり抱かざるを得ないときもあった。
夫というものは「これ以上、セックスしないと女房は切れるな…‥」という勘が働くものである。謙次にもそれがわかる。
去年の結婚記念日の夜もそうであった。みさきの黒いスリップドレスを見た時、セックスを待っているのは一目瞭然であった。が、この時はまだ逃げ切れる自信があった。テレビのスポーツニュースをつけてムードをぶちこわし、ワインを煽って泥酔した。本当はそこまで酔ってはいなかったが、そう見せないと逃れられない。
うまくベッドに倒れ込み、安心して眠った明け方、喉が渇いて目が覚めた。すると、暗がりに白いものが見える。両の乳房をあらわにし、みそきが真新しい白いネグリジェに腕を通していた。
謙次は何も考えずに、むしろ考えないうちにみさきを押し倒した。裸の胸に刺激されたのではない。今夜こそと思って用意したネグリジェにそでを通す心が哀れだったからでもない。その時のみさきの目が怖かった。妙に静かなその目には、まったく光というものが感じられなかった。これ以上放っておくと、別居や離婚を言い出しかねないように思えた。
謙次は、家庭を壊す気はまったくない。ただ、妻とセックスをしたくないという、それだけなのである。
本来、愛情表現にはいろいろな形があり、言葉でも思いやりでもセックスでも、どれを選ぼうが勝手なはずだ。しかし、結婚したらそのすべてで表すことが、暗黙のうちに決められている。それはひどく理不尽なことのように謙次は思えた。「愛している」ということが伝われば、どのような形であれ責められることではあるまい。
結婚記念日の明け方、ほんの二十分もかけずにそそくさと抱いたというのに、翌日からみさきの機嫌は目に見えてよくなった。
そんな妻を見るたびに、謙次は何とかもう少しひんぱんに抱いてやらねばと思う。以前から、みさきがそろそろキレそうだと感じるたびに、朝食を取りながら決めた。
「今日こそやるぞ‥‥」
がオフィスの窓を開けて夕焼けを染まる頃になると、気が重くなってくる。妻を抱くぞと心に決めた日は必ずそうであった。何とか家に帰らずにすむ方法はないものか、とまで考え始める。これもいつものことであった。
夕焼けが染まるオフィス街を眺めながら、謙次はつぶやいた。
「‥‥何だってこう、やりたくねンだろうなァ…‥」
理由を考えないようにしているとはいえ、謙次には思い当たる節がないわけでもなかった。
みさきが自分の「分身」になったせいかもしれぬと、思うことがある。
一つ屋根の下で共に暮らすといことは、何もかもあからさまにすることである。みさきが使った直後の便座に、すぐに謙次が座ることもある。体の関係のある男女を、「何もかもわかりあった」と言うが、日常的な猥雑(わいざつ)なことがらは、恋人関係の間はなにひとつわかっていないと言ってもいい。
結婚して、日常があからさまになることは、お互いへのいとおしさを増すものだと謙次は思う。事実、結婚してからの方がずっと、みさきにいとおしさを抱いている。しかし、それは謙次が自分自身のことを愛する思いに感じることがあった。みさきという妻は、すでに自分の「分身」ともいえる存在であり、それを「深い愛」というなら、そのとおりである。
ただ、みさきが「分身」となってからは、みさきの体を開いたり、反応を見せられたりすることが、謙次には妙に恥ずかしかった。その恥ずかしさが高じて、妻とセックスすることが苦痛なのかもしれぬ。そう思う端から、「言い訳かもしれないけどな…」とも思う。
結局は、謙次にとっても明確な理由はわからなかった。
ぼんやりオフィス街の夕焼けを見ていると、残業用のチャイムが鳴った。帰るしかない。
「イヤなことは速く済ませるのがいいんだ。一発ヤルぞ! ヤルぞ!」
謙次は机の上を片付けながら、小さく声を出してつぶやいた。これもいつものことだった。こうして自分に言い聞かせ、自分を励まさないと、仕事もないのに残業しかねない。
「イヤなことははやくすませるに限るって」
また呟いた時、部長の益田が慌ててたふうに駆け寄って来た。
「大倉君、すまんが、今から僕と鶴見工場までつきあってくれないか。ちょっとトラブルがあってね、広報が行かなきゃらちがあかないんだ」
救われたと思った、今から鶴見工場まで行き、トラブルを処理をすれば、帰宅は間違いなく深夜になる。
その後も、「今日こそ!」「明日こそ!」と誓いながら、一日延ばしにして無為に時をかせいでいた。
数日後の日曜日、タバコを買って戻ると、マンションの廊下にまで亜矢子の鳴き声が響いていた。何事かと玄関に飛び込むと、みさきが叫んでいる。
「どうして亜矢子はわからないのッ!」
そう言いながら、みさきまで泣いている。このヒステリー状態は、もう時をかせいでいる場合ではない。
ヒステリーとは、ギリシャ語で「子宮」を意味する「ヒステラ」からきているということを、謙次は唐突に思い出していた。
そしてその夜、みさきを抱いた。
抱きながら、「抱いているのはみさきではない。みさきではない」と呪文のように、心でくり返した。それでも、妻であることは忘れられるものではない。次には懸命に、アダルトビデオのわいせつなシーンを思い浮かべた。
翌朝、みさきの態度は明らかに変わっていた。目が優しく、声も弾んでいる。
謙次は、「ああ、これであと半年は抱かなくてすむ・・・・」と思い、自分も声が弾んできた。その朝、スキップするように駅へ向かったものだった。
洗面所から戻ったみさきは、ダブルベッドの片隅で幾度も寝返りを打った。寝つかれないのかも知れぬ。
毎晩、ひとつのベッドに体を横たえながら、何の接触もないというのは、みさきにとっては拷問であろう。
謙次はダブルベッドを入れたことを、つくづく後悔していた。みさきの体に触れたくない日が来ようとは、恋人時代には考えもしないことであった。
気がつくと、窓を叩く雨の音がかすかに聞こえていた。
つづく
第二章
気がつくと、窓を叩く雨の音が大きくなっている。