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第六章

本表紙 内館牧子著
 義彦はみさきが指定した「クレヨン」という喫茶店に向かって、車を走らせていた。
「クレヨン」は久が原から四つ先の駅、「洗足池」にあった。
 当初はいたずら電話だと思い、切ろうとした時に電話の主が言った。
「私は先日、どこも悪くない猫を連れて行った谷口です。あれは偽名で、実は奥様のことでお話がございます、久が原では人目につきますので、洗足池の『クレヨン』にいらして下さいませんか」

 ハンドルを握りながら、義彦には何の話が始まるのか見当もつかなかった。ただ、電話の内容が引っかかり、とにかく会ってみようと思った。
「クレヨン」に着くと、窓辺の席に見覚えのある女がいた。確かに猫を連れてきた谷口であった。
「お待たせしました」

 義彦の声に、みさきは立ち上がって頭を下げた。
「大倉みさきと申します。お呼びたて致しまして」
 義彦は目のやり場に困った。みさきは大きく衿のあいた薄手のセーターを着ており、頭を下げると豊かな胸の谷間があらわになった。
「お話って何でしようか」
「手短に申し上げます。お宅の奥様と、うちの主人が不倫の関係にあります」
「は?」
「肉体関係にあります」
 言わずもがなこと言った後で、みさきは目を伏せた。顔色がひどく悪かった。義彦はこの話は本当かもしれないと思った。だが、あまりにも唐突すぎた。
「申し訳ありませんが、そういう話は信じられません。何か証拠でもありますか」
 みさきは力のない目で義彦を見て、小さく首を振った。
「証拠はありません。でも間違いありません」

 証拠がないなら、思い過ごしと考えていい。悪い話というものは、なぜか聞いた瞬間に信じてしまうものである。義彦は安堵してコーヒーを一口飲んだ。猫を連れてきた時は気付かなかったが、みさきの胸がやたらと目立つ。わざと衿のあいたセーターを着てきたとしか思えない。

「武田さん、私が仮病の猫を連れ行ったことが証拠になりませんか。寝取られた夫のあなたを見に行ったんです」
 義彦の目が鋭くなった。「寝取られた夫」という一言が突き刺さった。
「でも、あまりにいい人という気がして、あの時は言い出せませんでした。申し上げますが、奥様は少なくとも週に一度は、うちの夫と関係しています」
「信じられませんね、全然。そんな話でしたら、僕は忙しいのでこれで」
 立ち上がろうとする義彦に、みさきは早口で言った。
「奥様の香水は『ビザーンス』うちの夫は東洋電機の社員で、クリスマスイルミネーションを担当していました」
 義彦は浮かしかけた腰を落とした。「ビザーンス」は義彦が好きな香水で、最初のひとびんをプレゼントしたのも義彦であった。
 座り直した義彦に、みさきは今迄の事を全て話した。
「・・・・・お恥ずかしい話ですが、うちはセックスレスです。夫は私とは・・・・」
 みさきの声が途切れた。
「でも‥‥私にあの香水をつけさせると・・・・」
 義彦は黙った。みさきも黙った。やはり本当かもしれぬと思いながらも、義彦は言った。
「信じません。妻はそこまでバカではありません」
 みさきは目を開けた。
「でも、体はバカかもしれません。セックスレスに耐えられない女だと私は思いました」
 義彦は笑った。
「昼間から話すことではありませんが、そこまで妻をいうなら申し上げます。うちはふんだんに行為があります」
 みさきは信じられないというように、義彦を見た。義彦は妙な誇らしさを感じた。
「毎回、彼女を満足させています。他に愛人を作るわけがないと、僕はよくわかっています」
  みさきはかすかに頷き、頭を下げた。
「そうでしたか‥‥。勝手なことを申し上げて、すみませんでした」
 のろい動作でコートを引き寄せた。
「私はまだ疑っておりますが、ご主人がそこまでおっしゃるなら、思い違いかもしれません。申し訳ありませんでした」
 それからみさきは、澄んだ目を義彦に向けた。
「奥様みたいな幸せな人、羨ましいです」
 その目に曇りがなく、義彦はみさきが哀れになっていた。義彦とて祥子を疑い始めている。それは少しずつ大きくなっていたが、みさきを哀れっぽく思う気持ちの方が今は強かった。夫や恋人がいないならば、セックスレスは精神的にまだ健康的だ。だか、いるのに行為がないというのは辛い。
「でも武田さん、奥様が毎回満足しているなんて、ありえないと思います」
 みさきは伝票をつかみながら言った。
「え…どういう・・・・」
 伝票をさりげなく引き取って、義彦は目でその先を促した。
「ですから・・・・演技だと思います」
「何を言って。パカバカしい」
「いえ、ありうると思います。年に一回あるかなしの私でさえ、夫を喜ばせようと思って演技していますから‥‥」
 みさきは立ち上がり、深々と頭を下げた。胸の谷間が奥まであらわになった。
「一度も演技したことない女なんて、いないと思います」
 みさきは言い切ると、重い足取りで出ていった。

 義彦はさめたコーヒーをすすった。「演技」という言葉が頭にこびりついている。女が演技するという話は、今までさんざん耳にしていた。が、義彦も友人たちも、じぶんの妻や恋人の話ではないと、頭から信じ込んでいるところがあった。一般論として話題になることはあったが、自分の女は本当に感じているのだと、どの男たちも疑いたがらない。義彦は次々に友人の顔を思い浮かべてみたが、誰しも「対岸の火事」という表情であったと思う。

 午後の診察をしながらも、義彦の頭からは「演技」という一言が消えなかった。仔犬に注射を打ちながら。祥子の狂態ばかりが浮かぶ。どう考えても、あれが演技とは思えなかった。あそこまでの演技ができるなら、大変な役者である。とても祥子にできるわけがない。それに、毎回のように演技しているならば、セックスは苦痛なはずである。ところが一度も拒まぬどころか、パリから帰国した夜は、我慢できないように、祥子の方から義彦の布団に入ってきた。そう思うと、義彦はどうしても演技とは考えられなかった。

 それでも、不快なわだかまりは消えない。不倫のことも非常に気になる。もしも、もしも祥子が演技していたならば、不倫はありうる。愛人とは本当の快楽に酔い、その罪ほろぼしのために夫を拒まないということは十分に考えられる。罪滅ぼしと、愛人の存在を悟られないためであれば、必死な演技がいくらでもできるかもしれない。義彦は手が汗ばんできた。

 その夜。義彦は待ちかねたように祥子の浴衣のひもを解いた。本当に演技かどうか、細大もらさず見てやろうと思っていた。
 いつもと何ら変わらない手順で進めると、ものの十分も経たないうちに、祥子は声を漏らし始めた。いつもよりかなり早かった。
 祥子は声を漏らしながら、明日の打ち合わせの事を考えていた。結城がわざわざ祥子を指名してくれたその仕事は、湘南海岸にできたカトリック教会ライトアップであった。教会は結城の設計で、天使が羽を広げたようなチャペルの姿が、すでに全国的に評判になっている。祥子は夜空から天使が舞い降りてくるようなラインディングを考えており、今夜は義彦を早く眠らせて資料を読みたかった。早いところケリをつけてしまいたくて、祥子は演技に熱をこめた。

 そんな祥子をつぶさに伺いながら、義彦はこれは絶対に演技ではないと思った。長い髪を汗でうなじに張り付かせ、苦い薬を飲んだような表情をしている祥子が、たまらなくいとおしくなった。義彦は昇天するまで愛してやろうと責め立てた。

 いつにも増して粘る義彦に、祥子は焦り始めていた、チラと枕もとの時計を見た。
 その一瞬を義彦は見逃さなかった。
 気づかぬ祥子はすぐに喘ぎ声をあげた。
 義彦は悪寒が走った。気持も体も瞬時にして冷めた。プッンとやめた。それさえ祥子は不審に思わず、うるんだ眼で満足そうに義彦を見つめ、ぐってりと動かなくなった。義彦は何も気づかなかったように、安らいで眠りに落ちるふりをした。

 それから二十分も経たないうちに、祥子がそろりとそろりと腕枕から抜けた。義彦は寝息をたてながら、全身の神経を祥子の動きに集中させた。祥子はそっと起き上がると、自分の布団に戻らず、ガウンを着た。そして、忍び足で寝室を出ていった。間もなく、隣りの書斎のドアが開く音がし、そして閉じられた。

 十分たっても二十分たっても祥子は戻って来なかった。義彦は足音をたてないようにスリッパを履かずに、廊下に出た。書斎のドアはピッタリしまっている。

 義彦は寝室に戻り、ベランダに出た。真夜中の空気は体が凍りつきそうでであったが、裸足で、音を立てずにベランダを歩いた。コンクリートの冷たさが体の芯を貫く。
 寝室の隣りの書斎はカーテンが閉まっているものの、真ん中がうまく重なっていなかった。義彦はそこから書斎を覗いた。

 祥子はトレーナー姿になり、夢中でパソコンを打ち込んでいる。その横顔は、つい先ほどまであられもない姿でベッドでのたうっていた女のものでなかった。コンクリートの冷たさと深夜の冷気も、義彦には感じられなくなっていた。
「ですか‥‥演技だと思います。・・・・・肉体関係にあります。・・・・寝取られた夫の貴方を見に行ったのです‥‥」
 みさきの言葉が蘇る。
 裸足で突っ立ちながら、自分は何ひとつ祥子を征服していなかったのだと思った。ベッドで殺してやったどころか、死んだふりをして下さったことはお笑いである。
 祥子の引き締まった横顔を見ながら、こいつはうるんだ目まで演技できるのだと思ったとき、義彦は殺意にも似た感情を持った。

 翌週からというもの、義彦は毎週飲み歩き、毎晩違う女を抱いた。安いバーのホステスもいれば、場末のスナックで、隣の止まり木に座ったOLもいた。
「オイ、やらせよ」
 いつもこの一言だけだった。筋肉質の体がわかるように、義彦はいつでも素肌にTシャツを着ていた。
「アンタなら、女はみんなやりたくなるよ。そそる体してるよ」
 こう言って、後は何も言わずに酒を飲む。女としては悪い気がしないらしく、十人のうち六人までが色をにじませる。それを察知するや、義彦は有無を言わさずタクシーに押し込み、ラブホテルにつけた。タクシーの中で女に金を渡し、下半身だけ裸にしたこともある。

 ホテルに着くや、いつでも有無を言わさずに襲いかかった。それは明らかに、単なる「犯し」の荒っぽさであったが、女の悦び、義彦はやりたいようにやった。
 女をめぐって客の男と喧嘩になったこともある。女と見れば抱き、男見れば殴り合い、危ういとなれば逃げるうちに、義彦は自分の中に野生動物の本能が目覚めてくるのを感じていた。それは非常にセクシーな気分にさせられることだった。

 そんな義彦の変化には何も気づかず、祥子は多忙を極めていた。教会の仕事がスタートしたばかりであり、帰宅は連日の深夜である。帰ると、義彦は眠っていることが多かった。時に義彦は帰ってこないこともあったが、友達と飲んでいるのだろうと、祥子はさほど気にもとめなかった。

 ただ、朝はどんなに眠くとも、義彦より早く起きて朝食を作った。トーストを頬ばりながらの会話に、義彦の荒れは見えなかった。少なくとも祥子は何ら気づかなかった。
 その忙しさの中でも、祥子は謙次と逢う時間をひねり出していた。謙次と逢ってセックスすることだけが自分を楽にしてくれると、今は明確にわかっている。

 教会の仕事は順調ではなかった。ライディングに微妙なグラデーションをつけて、天使の羽の動きを表現しようという祥子の案は、結城に一蹴された。
「シックだけどインパクトがないね。インパクトだけというのも下品だけどね」
 結城はそれっきり、何も言わなかった。その感想に添うものを考え直せというのは明らかであった。
 毎日、祥子は目の下にくまができるほど仕事をした。海外の資料を読み、湘南に足を運び、予算と照らし合わせながら案を練り続けた。しかし、どうしても納得いくものが出て来ない。結城に提示する日は来週の月曜日に迫っている。祥子の頭の中は予算と、志と、焦燥感で固く煮詰まっていた。

 そんな時は、謙次に抱かれる事ばかり考えていた。謙次はいつもジェットコースターで地の底まで急降下させ、一気に天空高く昇らせてくれる。その快感に何ら恥ずることなく叫び、謙次と一体になって揺れる。祥子は体中の細胞がすべて拡がり、大きく呼吸し始めるのを感じる。これは義彦とのセックスでは、絶対にもたらされないものであった。

 謙次との関係に「愛」があるのかと問われれば、祥子は義彦の方を愛していると答えるだろう。しかし、謙次によって始めて、セックスがこれほどまでに人間を解き放してくれるものだということを知らされていた。
「人って、時々は動物にならないと呼吸困難になるものなのね」
 事後、裸のまま抱き合って、祥子は謙次に言ったことがある。謙次は鎖骨に指を這わせながら答えた。
「そう思う。女房とは動物になれない、動物になれないセックスなら、しない方がいい。他としたい」

 祥子もそう思う。謙次と体を重ねる回数が増えるにつれ、義彦への罪悪感は薄れていった。管理され、息がつまる社会の中で人間らしく生きていくのに、いいセックスは最後の唯一の砦(とりで)だと思えた。それが夫婦間では成立しえないならば、他に求めることは神も責められまい。神が人間を動物として作った以上、動物に戻る場所を必要とすることは当然であると祥子は思った。
 
 ある夜、義彦はいつものように祥子を抱いた。祥子は謙次の体を思い、謙次を相手にした時の淫らな自分を思い、懸命に応えようとした。義彦を裏切っていることを少しでも消したかった。

 義彦はシーツをつかんでうねる祥子に、冷静な眼差しを注いでいた祥子の演技が真に迫れば迫るほど、義彦はそんな祥子を観察することに快感を覚えていた。心の中で、
「それも演技か。よくやってくれるじゃないの。面白いからもっとやれよ。もっと」と呟く。

 アダルトビデオで見た姿態をとらせる。灯りをつける。祥子はやめて欲しいと目で訴えたが、義彦は無視した。やがて祥子の表情は恍惚になっていく。もはや、義彦にはどこまでが演技なのかわからなかった。おそらく、すべてが演技なのだ。

 社会的には地位も信用もある祥子が、あられもない姿態をとらされ、必死に演技をしている姿に、義彦は震えてきた。冷たい目を祥子の裸身に注ぎ、義彦は心の中で吐き捨てた。
「この淫乱がッ。うまいじゃないか、大した演技だよ」
 ねじれた快感は、安酒場で拾った女を抱くことの何倍も強かった。

 一二月も二十日になると、街は慌ただしさを増してきていた。
 みさきの暮らしには何の変化もなかった。謙次は祥子と逢っているに違いないが、当初の頃のように極端に優しくなったり、ご機嫌を取ったりという事はない。ずっと以前と同じに「ドルフィン」につきあい、よき父、よき夫である。みさきに対する言葉や態度も、ごく普通で、平和なものであった。

 みさきはそれが怖くなっていた。祥子との関係がもはや揺るぎない安定したものになっていることの証拠のように思える。その後、義彦には何の連絡も取っていなかったが、彼からの電話一本ない。おそらく、祥子にうまく丸め込まれ、みさきだけが悪者になっているのだろう。みさきにしてみれば相当な強硬策に出たつもりであったが、義彦にとっては忘れてしまうレベルの事だったのだ。そう思うと、みさきは脱力感に襲われた。

 その日、亜矢子が幼稚園から泣いて帰って来た。友達のルミ子の家でやるクリスマス会に、
「亜矢子ちゃんに来ちゃダメ。ママがそう言っているから」
 と言われたという。すでに、ルミ子の手作りのたどたどしい招待状が届いており、亜矢子はずっと楽しみにしていた。みんなでプレゼントを交換するのだと張り切り、ビーズの首飾りの用意も出来ていた。謙次に手伝わせて、真剣な表情で包装していたのは昨夜の事である。

 幼稚園の制服のまま、大粒の涙をこぼしている亜矢子にみさきは聞いた。
「亜矢子だけが来ちゃダメって言われたの? 他のお友達はみんな行くの?」
 亜矢子は泣きながら、うなずいた。
「亜矢子だけがタ゛メだって。ルミちゃんのママが言ったって」
 みさきは自分のせいだと思った。主催者のルミ子の母親が仕返しをしてきたのだと気づいた。
 ルミ子が遊びに来るたびに、勝手に冷蔵庫を開けてジュースを取り出す。そして夫婦のベッドルームが好きで、ダブルベッドでトランポリンにして遊ぶ。毎回、みさきはさり気なく注意をしていたが、ルミ子はどこ吹く風である。そのうちに、亜矢子も友達の家で勝手に冷蔵庫を開けたと知り、みさきは二人を並べて厳しく注意をした。

「よそのおうちに行ったら、冷蔵庫やお部屋を勝手に開けちゃいけないのよ。そういうのは、とってもお行儀の悪いことなの。亜矢子、わかったわね?」
 みさきはほとんど亜矢子に向けて言い、直接的にルミ子を叱ることのないよう、心を配ったつもりである。しかし、今日の報復を考えると。ルミ子から何をどう聞いたかは知らないが、母親が激しく気分を害したことは
間違いなかった。

 一二〇センチにも満たぬ身長の、幼い亜矢子が泣いているのを見て、みさきは大きな後悔に襲われた。父母会の女王然としているルミ子の母親が、このくらいの報復手段をとることは予測できたはずなのだ。
「亜矢子、泣かないの。パパとママとおじいちゃんおばあちゃんと、みんなでクリスマス会やろう、ねッ」
「イヤ。亜矢子、ルミちゃんたに行きたい。亜矢子だけダメって、どうして? 亜矢子、行きたい」

 泣きはらした目で必死に訴えてくる亜矢子が、みさきはどうする事も出来ずにいた。ただ、翌日、今年最後の父母会が開かれる。その時にルミ子の母親に詫び、何とか機嫌を直させようと思っていた。

 父母会は、翌日の午前中に開かれた。みさきは人数分のケーキを用意し、出席した。ところが、出席者八人の態度がよそよそしい。母親たちの誰一人としてみさきと目を合わせない。議事が進む中でで、みさきが発言してもまったく反応がない、すでにみさきは村八分にすることが、母親たちに通達されているのだろう。隣席の母親に、みさきはへつらうように話しかけた。
「ねえ、お宅のよっちゃん、一輪車うまいんですってね」
「さあ」
 その一言で返事はおしまいである。集会はルミ子の母親の仕切りで終了し、母親たちはみさきにも型通りに言った。
「よいお年を」
 そして、談笑しながら出ていった。机の上には八つのケーキが、どれも手つかずのまま残された。
 その夜、謙次は帰宅したのは一二時近かった。今年はもう逢えないからと、祥子と濃密な時間がいつもよりオーバーしたのだ。
 ドアを開けたみさきは目は赤くはれている。
「何かあったのか」
 謙次が言うと、みさきは顔をおおって泣き出した。ようすを聞いた謙次はわが身を恥じた。妻と幼い娘が、こうやって日常の小さなことに必死で立ち向かっている時、自分は恋人と非日常に酔っていたのだ。
 みさきは謙次の胸にすがることもせず、硬い食堂テーブルに伏して嗚咽した。
「ほっとけよ。冬休みが終われば、案外ケロッと仲直りしたりするもんだ。もしも、ずっといじめが続いたら、幼稚園をやめさせよう。な?」
 みさきは泣き顔をあげた。
「・・・・・そうね、やめさせる・・・・・」
 懸命に笑顔を作ると、台所に向かった。
「何か軽く、食べるでしょう?」
 謙次はネクタイを外しながら、そっと亜矢子の部屋を覗いた。去年の誕生日に謙次がプレゼントしたウサギの人形を抱き、眠っている。ふと見ると、タンスの上には小箱が置かれてあった。謙次と二人で包装した、クリスマス会のプレゼントであった。

 亜矢子のつややかな額を撫でながら、この子と妻が大切だと思った。その愛おしさは愛人とは比較する気にもなれない。亜矢子が高校生にでもなったころ、きっと今回の仲間外れも笑いの話の種になる。
「あの時、亜矢子だけが仲間外れにされたね」

 亜矢子は覚えていないだろう。「昔の話はやめて」と照れるに違いない。今、ウサギを抱いている腕には、おしゃれなブレスレッドをしているのだろう。みさきは髪が白いものがあるかもしれない。家族が一緒に年齢をとっていく。それは安らぐことだと、謙次は亜矢子の額を撫でた。

 思えばいつでも、夫婦と子供は一緒に時を積んできた。それを「歴史」というならば、そうだ。毎日毎日のささやかな日常が、ピラミッド型に積まれていく。「死」をピラミッドの頂点としたら、そこに至るまでの雨風もすべて、堅牢なひとつの石として積み上げられていく。恋人の出現や病気や左遷や、それらさえも石材のひとつである。その時は揺れても、夫婦のピラミッドは結局は何もかも飲み込んでしまうのだ。

 亜矢子の頬に唇をおしつけて、謙次は部屋を出た。
 着替えてリビングに入ると、みさきが茶碗に飯をよそおうとしていた。その横顔を見たとき、ふと「こいつは何が楽しくて生きているんだろう」と思った。亜矢子の成長以外には何もあるまい。日々をとりたてて華やぐこともなく、祥子のように仕事と愛人をものにして、熱っぽく生きているわけでもない。日常の瑣末(さまつ)なことに心を痛め、泣き、夫の飯をよそい続ける毎日だ。

「みさき、お茶漬けはいらないよ」
 みさきはまた謙次の気分を害したのかと、目をあげた。
「二人で外に行って、何か食おう。亜矢子ならよく眠っているから大丈夫だ」
 ためらうみさきに車の助手席に押し込み、謙次はエンジンをかけた。
「亜矢子が起きると可哀想だから、すぐに戻ってね」
 そう言うみさきの目が和んでいる。
 車を多摩川方面に進め、途中で謙次はコンビニに入った。一緒に行こうとするみさきを押しとどめ、
「寒いから待ってて」
 と言い、駆け出して行った。すぐにホットチョコレートとフライドチキンの包みを抱いて戻り、再び発車させた。やがて車は多摩川の土手沿いを走り、停まった。二人はホットチョコレートを飲み、チキンを食べた。

 窓からは深夜の多摩川が見える。枯草と枯れ木の間から、向こう岸の灯りが瞬いている。その瞬きは、冷気に震えているように見えた。
「亜矢子のこと、みさきは何も悪くないから気にするな。あっちの母親が悪いんだ」
 謙次の言葉に、みさきはまた涙ぐんだ。
「でも、私の言い方も‥‥」
 途中で優しく遮り、謙次は言った。
「悪くないよ、みさきは全然」
 涙が止まらなくなり、ホットチョコレートが飲めなくなった。何があろうと、わけさえ聞かずに味方に付くというのが夫婦なのだ。みさきは夫がいる限り、どんなことでも耐えられそうな気がした。
「もう泣くなって。たいしたことじゃないよ」
 謙次の大きな手がみさきの顔を撫でた。
 二時をはるかに過ぎた頃、二人はベッドに入った。謙次はみさきを抱き寄せ、添い寝をするように守って眠った。

 夫が浮気することも、夫婦の人生におけるひとつの過程なのだろう。つらがっている妻を連れだし、深夜のドライブで慰める夫に、何の文句があるのというのか。守るように眠ってくれる夫は、ちょっと珍しいオモチャに手を出しただけなのだ。そう思いながら、みさきは平安な気持ちで眠りに落ちていった。
 その一方で、もしも今夜抱いてくれたなら、ドライブや優しい言葉よりもずっと慰めになるのに・・・とも思った。

 翌日の夕方、謙次のオフィスに祥子から電話がかかってきた。珍しいことであった。電話では目立つので、必ずベッドの中で次の約束をするのが常であった。緊急の場合は予約してあるホテルのフロントに伝言することになっていた。

 電話の向こうで、祥子はおし殺した声で言った。
「今夜、逢いたい。三十分でいいから、お茶だけでもつきあって」
「何かあったの」
「あった」
「‥‥・夫にバレたとか」
「違う。お願い、逢いたいの。逢って」
 昨日逢ったばかりだというのに、懇願の口調で取りすがる祥子が気になり、謙次は退社後にホテルのティールームに走った。
 祥子は窓辺の席で待っていた。顔が妙に青白い。
「どうして」
 謙次の姿に、祥子は力なく笑った。いつもはくっきりと塗られている口紅がはげおち紅筆で描いた唇の輪郭だけが残っている。それは顔色の悪さとあいまって、妙になまめかしい。
「私、教会の仕事をおろされた」
 祥子はレモンジュースを飲み、酸っぱさにちょっと顔をしかめた。
「随分努力したんだけど、結城は満足しなかったの。今日の会議で降ろされた」
 いう言葉もなく、謙次はコーヒーにミルクを注いだ。いつもはブラックだが、何かの動きをしない事にはいたたまれなかった。
「少しいい気になっていたから、ちょうどいい薬なの」
 それから祥子は窓の外に目をやった。暮れた師走の街を、忘年会に向かうらしき一団がはしゃいで通り過ぎていく。
「忙しいのに来てくれてありがとう。話したらスッとしたわ」
 祥子は立ち上がり、笑った。顔色は悪いままだった。
「これからアーケードをのぞいて帰るわ。女は買い物をすると、大抵の事は吹っ飛ぶのよ」
 ロビーに出ると、祥子は地下アーケードに続くエスカレーターに乗った。見送る謙次に向かい、手を振った。

「ありがとう。また来年ね」
 祥子を乗せたエスカレーターは、地下へと降りていった。その時、突然、謙次はエスカレーターを駆け降りた。驚く祥子の腕をつかみ、引きずるようにして上へと駆け上がった。

 一時間後、二人は小さな和風のラブホテルの和室で抱き合っていた。荒々しい時間が過ぎた後で、二人は精も根も尽き果てたように無言であった。謙次の指だけが、祥子の鎖骨をなぞって動く。
「辛い時は、人の肌が一番いい」
 祥子がつぶやき、謙次を見た。そして、もっと深く謙次の胸に入った。
「さっきティールームで話しながら、ずっと抱いて欲しいと思っていた。でも、いざとなると口に出せないものね」
 祥子を胸に抱え込みながら、謙次はみさきの顔を思い浮かべていた。昨夜、ドライブよりも抱いてやる方がどれほど慰めになるか、謙次はよく解っていた。みさきがそうして欲しいと思っていることも予測がついていたし、出来ることならそうしてやりたかった。しかし、あの期に及んでもその気になれなかった。愛おしさは溢れるほどなのに、セックスする気にならなかった。

 それなのに祥子のことは抱いて慰めた。愛おしさも何も感じる間もないうちに、「抱いてやりたい」と思っていた。愛情で裏打ちされた言葉を百回重ねるよりも、一回の体が薬になることはあるのだ。泣きながらホットチョコレートを飲んでいたみさきを思い浮かべ、改めて可哀想なことをしたと思った。

「夫がいるのに、夫じゃダメなの。愛しているのに夫の体じゃ慰められない」
 祥子のつぶやきに、謙次は自分と同じだと思っていた。
義彦からみさきに電話が入ったのは、それから二日後の昼間であった。

つづく第七章
 義彦は白金グランドホテルのティールームを指定した。
「お話ししたいことがありますので、一二時にいらしていただけませんか」