閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい

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第五章

本表紙 内館牧子著
 祥子の目を正面からうけて、みさきはさらに言った。
「大倉はわがままですので、ご迷惑をおかけしておりますでしょう」
 みさきを快感を貫いた。愛人であれ、恋人であれ、男の姓を呼び捨てにすることはできない。それができるのは妻だけである。たとえ祥子が「謙次」と呼ぼうと、「健チャン」と呼ぼうと、それはどんな女でも口にできない言葉なのだ。「大倉」という呼び方だけは、妻にしか世間が許さない。

「大倉さんの奥さまでしたか。失礼いたしました。武田でございます。初めまして」
 祥子は亜矢子の方を向き、小さく屈んで言った。
「こんにちは、クリスマスのお飾りを見に来てくれたの?」
「うん‥‥」
亜矢子は恥ずかしそうに頷いた。みさきはわざとたしなめた。
「亜矢子、お返事は『うん』じゃなくて、『はい』でしょ。パパにいつも言われてのは、だれだっけなァ」
 亜矢子は祥子に言い直した。
「はい」
 祥子は面白そうに笑った。そして、丸めて持っていた図面でビルを指した。
「亜矢子ちゃんねえ、今、あのてっぺんまで電気が点くからね、あと二時間くらいしないとダメなんだけど、ママとお茶でも飲んで待っていられるかな?」
「うん・・・あ・・・はい」

 祥子は声をあげて笑い、その時、首に巻いていたマフラーが外れた。ファスナーを止めていないジャンバーから、鮮やかな赤いセーターが大きくのぞいた。それは一目でカシミャとわかる素材で、きれいなボートネックのラインであった。みさきは祥子のネックラインから目をそらせなかった。

 真っ赤なセーターからのぞく首には、くっきりときれいに鎖骨が浮いていた。鎖骨が作るくぼみは水がためられそうに深い。「男は女の鎖骨に感じるものだ」という文章を、確かに雑誌で読んだことがあった。
 祥子は亜矢子の目線でしゃがんだまま何かを話していたが、みさきは鎖骨ばかり見ていた。
「じゃ、またね。亜矢子ちゃん」
 祥子は立ち上がると、マフラーを巻き直した。その時、香水がかすかに匂った。「ビザーンス」であった。
「これから多少の手直しをしまして、今夜からはもっときれいになりますので」
 祥子はみさきに笑顔を向けると、スタッフと一緒に駆け出して行った。また香水が匂った。

 みさきは突っ立ったまま、動けなかった。謙次はあの美しすぎる鎖骨に唇を這わせているのだろうか。あのくぼみからかすかに匂い立つ香水に、我を忘れるのだろうか。
「ママ、早くパパにお電話」

 亜矢子に促され、みさきは歩き出した。だが、どこをどう歩いているのかもわからなかった。色気のないカーキ色のジャンパーの下に、鮮やかな赤のカシミャを無造作に着る女は好きになれない。無造作というのが、そもそも計算だとみさきは思う。だが、計算であろうともそれに打ちのめされていた。カシミャのセーター一枚買うお金があれば、みさきは食卓に肉をのせ、亜矢子にゲームソフトを買い、謙次にネクタイを買うだろう。夫はそんな妻に感謝しながらも、そういう発想のない女に魅せられていくのだ。

「ママ、電話あるよ」
 亜矢子は駆け出して行き、電話ボックスの扉を開けた。
「亜矢子かける。カードちょうだい」
 せがむ亜矢子を、みさきは制した。
「会社に子どもが電話しちゃダメ。ママがするから待ってて」みさきは番号をおした。でたらめの番号であった。
「オキャクサマガ、オカケニナッタデンワバンゴウハ、ゲンザイツカワレテオリマセン。バンゴウヲ、オタシカメニナッテ‥‥」
 受話器の向こうで、機械的な声がした。みさきはかまわず言った。
「もうしわけございませんが、広報の大倉をお願い致します」
 亜矢子が背伸びして叫んだ。
「ママ、パパに言って。亜矢子、カレーとプリンアラモード」
 みさきは亜矢子にすまないと思いながらも、独り芝居をうち続けた。
「あ‥‥そうですか。わかりました。どうもお手数をおかけ致しました」
 電話を切ると、亜矢子に言い聞かせた。
「パパね、お仕事で出かけているんだって。それで遅くならないと会社に戻らないって」
 亜矢子は小さなため息をつき、うなずいた。聞き分けの良さが不憫であった。
「ママと二人でカレーを食べようね。プリンアラモードもね」

 外に出ると、遠くに東洋電機ビルが見えた。まだ日暮れには間があったが、空は早くも光が力を失っている。みさきは亜矢子の肩を抱くようにして、歩き始めた。
 どうしても謙次と食事をする気にはなれなかった。祥子の姿が拭っても拭っても蘇ってくる。新聞を見た時から、直感に似た思いで予測はしていたものの、祥子を目の当たりにした衝撃は大きかった。かすかに匂った香水も予測していたはずなのに、動揺は激しい。

 さかんに話しかけて来る亜矢子に生返事を返しながら、銀座へと向かい、歩き続けた。
「ママ、見て、可愛い」
 亜矢子がおもちゃ屋のショーウインドに張り付き、歓声をあげた。ウィンドいっぱいに森が作られ、電気仕掛けの動物たちが冬支度をしていた。木の実を集めるリスや、ケーキを焼くウサギなどが可愛らしく動き回っている。
「ホントね。みんなよく働くね」
 ふと見ると、ショーウインドの一角が鏡張りになっており、亜矢子と並んでいるみさきが写っていた。

 一昨年に買ったオーバーコートを着たみさきは、コートのボタンを外した。ワンピースの衿を下げてみる。鎖骨はふくよかな肉に埋もれ、形さえなかった。そればかりか、少し二重になりつつあるあごが、自分に向かって嘲笑した。
 銀座に灯りが点き始めた頃、みさきと亜矢子は四丁目のハンバーガーショップにいた。亜矢子がカレーよりもハンバーガーがいいと言い出したのだが、落ち着かない店であった。

 窓の外は、夕暮れた銀座はざわめきを増していく。クリスマスの中、若いOLたちが恋人と連れ立って歩き、出勤前のホステスが粋に着こなした和服で通っていく。
 亜矢子は小さな指でフライドポテトをつまみ、ひとつずつ口に入れている。みさきは惨めだった。クリスマス前にこんなきれいな夕刻、幼い娘と食べるハンバーガー。客の出入りが激しい、ファーストフード店。
「ママ、食べないの? お腹痛いの?」
 ずっと黙りこくっていると、亜矢子が心配して聞いた。

「大丈夫よ、痛くないわよ。ママ、お腹空いていないから、亜矢子にあげる」
 みさきは手つかずのハンバーガーとポテトが乗ったトレイを、亜矢子の方に押し出した。
「亜矢子ももういっぱい。パパに持って帰ろう」
 亜矢子はセーラームーンの柄のハンカチを広げ、ハンバーガーを包み始めた。
 空は刻一刻と暮れ、銀座は艶を増していく。さざめいて歩く人々は誰もが幸せそうに見える。
 亜矢子は小さなハンカチからこぼれたポテトをつまみ、おとなしく口に入れた。指についた塩まで丁寧になめた。元気のない母親を、わけがわからながら心配しているのはみさきにも感じ取れる。

 この子を不幸にしてはいけない。母親が沈んでいれば、それだけで幼い子供は心を痛める。もう祥子の事など無視し、何もなかったように振る舞うのが一番いいのだ。
 考えてみれば、すべてはセックスレスであることが原点なのだ。それがいつでもみさきの心を揺らし、その揺れが謙次に伝わり、夫婦関係がぎこちなくなっていた。

 亜矢子の指を拭いてやりながら、みさきは決めた。もう二度と、セックスレスを思い悩むまい。しょせん、セックスなどなくても生きていけるものなのだ。水や空気とは違う。その上、祥子が居ようとも、みさきを抱きたがらなくても、謙次に家庭を壊す気がないことはハッキリとわかる。もうそれで十分ではないか。一緒に暮らしている夫婦には、セックスレスというのも自然な愛の形なのだ。若い二人を結びつけるためには確かにセックスが必要であった。しかし、二人の関係を維持するにはなくてもすむものなのだ。だからこそ、多くの夫婦たちの生活の中から自然淘汰されていったのだろう。

「亜矢子、プリンをたくさん買って行って、おうちで食べようね。パパの分も買おうね」
 みさきが明るく言うと、亜矢子はやっと安堵したように笑顔を返してきた。
 その夜、謙次が帰宅したのは十一時を回っていた。みさきは化粧を落とさず、風呂にも入らずに待っていた。玄関に入るや、謙次はぶっきらぼうに言った。
「何だ、寝てりゃいいのに」
「クリスマス前で忙しいんでしょ、大変ね。今、お茶入れる。それとも少し飲む?」
「いいってば。あんまり気を遣わないでくれよ」
「そうじゃなくて…」
「風呂に入って寝る」
 謙次はリビングを出ていった。一人残されたみさきに、また祥子の鎖骨が浮かんだ。
 謙次はぬるめの湯に浸かりながら、やるせなかった。みさきに冷たくする気はないのだが、いちいちカンにさわる。遅い帰宅の理由も聞かず、先回りして優しく「忙しいでしょ、大変ね」にはビッとする。事実、謙次はこの日、ずっと横浜にいた。横浜で広報会議があり、その流れで中華街に繰り出したが、言う気にもなれなかった。
 風呂から上がると、謙次は真っ直ぐに寝室に入った。普段なら、リビングで冷たいビールを飲むのだが、みさきの猫なで声を聞きたくない。
 一時間もすると、風呂を終えたみさきが入ってきた。謙次は寝入っているふりをした。
 みさきはそんな謙次を黙って見ながら、このままでは二人の雰囲気が悪くなる一方だと思った。
「あなた、寝ちゃったの?」
 返事はない。みさきは勝手に話しかけた。
「今日ね、亜矢子とイルミネーションを見に行ったのよ」
 返事はなかった。
「武田さんと偶然に会ったわ。すてきな人ね」
 返事はなかった。
「あなた、ああいうタイプ、好きでしょ」
 優しく言ったつもりだが、言った途端に言わなければよかったと思った。謙次は寝息を立てているわけでもないのに、背中を向けたまま返事もしない。
 みさきは小さな焦りが少しずつ広がってくるのを感じていた。

 セックスレスになってからというもの、喧嘩すると仲直りがしにくくなっていた。セックスがあったころは、我慢できなった謙次が必ず手を伸ばしてきた。そして、翌朝にはいとも簡単に笑い合って、トーストを頬ばったものである。

 セックスレスになってからも、幾度も喧嘩はあったが、今回のように変に陰に籠ったものはなかった。必ず原因があり、それは亜矢子の躾(しつけ)のことであったり、お互いの口の利き方であったりした。その原因をとりのぞけば、すんなりと仲直りできていた。今回のようにギクシャクした雰囲気は初めてであり、みさきはどうしていいのかわからなかった。ただ一点、今、ここで謙次が手を伸ばしてくれば、すべてはうやむやのうちに解決してしまうのに、ということだけはわかっていた。

 みさきはゆっくりと鏡台の前に行くと、ネグリジェの前を開けた。やはり、鎖骨は全く見えない。みさきは目を反らした。そして、青い香水のびんを手に取った。二度と嗅ぎたくない匂いであったが、腋の下と胸の谷間に、ほんの一滴をつけた。ネグリジェの裾をたくし上げ、脚の奥に一滴こすりつけた。

 ベッドに入った瞬間、確かに謙次の背中が動いた。匂いに触発されているのだろう。それ以上を考える前に、みさきが背後から謙次を抱いた。祥子の匂いのする胸を、謙次の背に押しつけた。
 突然、謙次は上半身を起こし、みさきをはねのけた。
「何の真似だッ」
 思わぬことに言葉を失っているみさきを、謙次は睨みつけた。
「何だって香水をつけるッ。嫌味かッ」
 何か言いかけるみさきを目で制し、謙次は洋服ダンスからネクタイとスーツを引っ張り出した。
「待って。どこに行くのよッ」

 みさきの絶唱を無視し、謙次は荒々しく出ていった。
 時計は零時を過ぎたその頃、祥子は大手町のオフィスで、パリの出張報告書を書いていた。全員が帰ってしまったオフィスで一人で、ワープロを叩く。

 窓の外には企業のビルが林立しており、どこのビルからも灯りが見えている。日本経済をになう男たちは、不況の時代であってさえもやはり眠ってはいない。
 祥子はふと、初めて義彦と関係した夜のことを思い出した。義彦は言ったのだ。
「仕事でクタクタになると、たいていの男は女が欲しくなる。たぶん、女もそうだと思って」
 真夜中の、たった一人のオフィスでその言葉を思い出した時、自分は結婚にはふさわしくない女かもしれぬと思った。「妻の職務」というものはなにもやっていない。だからこそ、せめて償いでセックスだけは拒まないことにしている。

 しかし、誰もいないオフィスで働くことの方が、よほどの快感だ。子どもを作る気もないし、何よりも仕事がしたい。いい仕事のためならば、パリから帰国するや東洋電機のイルミネーションの手直しをし、会議や次のプロジェクトの打合せをこなし、深夜まで出張リポートを書くことに何の苦痛もない。体は疲れきっているが、芯には確かに恍惚感がある。
 その芯が、別の恍惚感をも欲していることに、祥子は気づいていた。だが、義彦とならばもうたくさんだ。祥子は苦笑し、ワープロのケースを閉じた。

 外に出ると、夜風は刺すようにとんがっていた。祥子は空車を捕まえようと、道の左側を見たが、深夜の大手前は静まり返っている。通りかかるタクシーは、銀座からの客を乗せているのか、ノンストップである。忘年会シーズンになった十二月の夜、ビジネス街を流しても割に合わないのだろう。空車はまったく来ない。

 祥子は東京駅まで行くしかないと思い。人通りの絶えた道を歩き始めた。夜風はコートを通して突き刺さってくる。さすがに疲労のせいか、体は重く、ハイヒールの足が痛い。またも、ふと義彦のあの言葉が思い出された。

 その時、一台の乗用車が通り過ぎ、急停車した。
「祥子さん!」
 謙次であった。謙次は運転席から顔を出し、叫んだ。
「タクシー、来ませんよ、乗って」
 祥子は飛び込むように、謙次の車に乗った。
「無茶苦茶だなァ。こんな夜中に一人歩きして」
 車のヒーターが効いており、その暖かさが祥子の心と体をゆるめた。
「送りますよ。家、どちらですか」
「どうしたの? こんな時間に」
「女房と喧嘩して、家を飛び出したはいいんですが‥‥」
「会社しか行くところがなかった」

 謙次は笑って頷き、助手席のドアに手を伸ばし、ロックした。その時、祥子の香水が匂った。つい今しがた、みさきがまとった匂いであった。
 謙次はハンドルに手を置いたまま、フロントガラスを見ていた。ガラスの向こうの闇に、みさきの悲し気な顔が浮かんだ。振り払うようにして大きく深呼吸し、ギアに手をかけた時、祥子の視線を感じた。見ると「どうかした?」とでも言いたげな目があった。
 謙次はその目を外さず受けた。祥子もそらさなかった。謙次はギアに置いた手を祥子の肩に回し、ゆっくりと引き寄せた。近づいてくる唇を、祥子は間違いなく意志を持って受けていた。

 ホテルの一室で、二人は抱き合った。何らふくらみのない祥子の体は、みさきとは対極にあった。ただ、何人もの男と関係を持ってきたであろうと思わせる応え方を祥子はする。それはいたく謙次を刺激した。みさきに対してはヴァージンに感激し、一から教え込んだことを喜でいたのに、今は多くの男に触れられた体を喜んでいた。

 みさきとのセックスは、義務だと言い聞かせて何とか簡単に終わらせようとするのに、祥子に対しては何でもしたかった。祥子は何をされても過敏に反応した。
 祥子は謙次を受け入れながら、なに一つ演技しなかった。義彦に対する罪悪感と、欲求するままに不貞を働いている自己嫌悪が、ますます体を煽(あお)る。乾ききった砂漠が、いくらでも水を吸い込むようであった。
 二人は幾度も、同時に果てた。
 祥子は毛布を引き上げることもできず。うつ伏せになったまま動けなかった。もはや息をすることさえ疲れるほどの謙次ではあったが、祥子を仰向けにした。美しく浮き出た鎖骨に、もう一度、唇を這わせた。
 祥子は小さく声をあげて笑った。
「君は見た目とはまるで違う」
「それ、ほめ言葉?」
「当然。エッチじゃない女なんて、女の価値ないから。だけど、見るからにエッチな女ってのも、女の価値ないし」
「その最大のほめ言葉、そっくり男のあなたに贈るわ」
「ずっと女房とセックスレスだったから」
「‥‥・お会いしたわ、奥さん」
 そう言ってから、祥子は初めて気づいた。激しい時間の最中、謙次の妻を思い浮かべることもなければ、幼い娘と話したことさえ忘れていたことに。
「女房とやりたくなくてね。今日、君としたことを二カ月に一度でも女房とやれば、家庭円満なんだけど」
「あんなことは、日常を共にしている間柄ではできないわよ」
「君の所もそう?」

 祥子は曖昧に笑っただけで、答えなかった。
「君とだったら、いくらでも何でもやれる。愛していると思った」
 祥子も同じだった。余韻が冷めてくると、自分の犯した罪を感じていたが、激しい交歓の最中は、謙次を愛していると思った。何も考えられないほどの快楽の中で、その一点だけはっきり感じていた。

 それでいながら、義彦に対して優しい気持ちになっている。それは罪悪感や贖罪からくるものではなく、体が満たされたことからきていた。自分の渇きが満たされ、初めて他者をいつくしむ余裕が持てたと言ってもいい。
「私は単なる淫乱じゃないのかって、今、思っている」
「違う」
「そうかな…」
「そう」
「一夫一妻制って、無理があることかもしれないわね」
「・・・僕も、そう思う」
 枕もとの時計が三時を示している。今頃、みさきはどうしているだろうかと謙次は思った。帰ったら謝って、この土曜日には家族でどこかドライブしよう。
「ダンナが君とできないのはよくわかるよ。結婚なんて、『いつでもやれる女が出来ました』ってことを公表するようなもんだから。そんないつでもやれる女と、どこの男がやりたいものか」

 謙次は勝手に、祥子夫婦もセックスレスだと決めつけている。もとより、祥子は義彦が十日に一度、必ず求めて来ることを言う気はなかった。妻としたがらないということが、夫のステイタスのように思えて、義彦の現実を言っては尊厳を傷つけるような気がした。
「また逢える?」
 謙次が聞いた。答えない祥子に謙次は付け加えた。
「寝るって事じゃなくて、食事をしたり話したり‥‥」
 祥子は笑った。
「食事や話だけならイヤだわ」
 謙次はもう一度、祥子を抱きしめた。

 以来。謙次と祥子は少なくとも週に一度は会うようになった。
 お互い決して暇ではなかったが、何としても会いたいと思えば、時間というものは作り出せる。懸命にやりくりして、時間をひねり出すことがときめく。
 逢うのはいつもホテルの一室である。ルームサービスの食事と酒で話すこともあれば、すぐにベッドに倒れ込むこともあった。

 謙次にとっては軽くない出費であったが、みさきには内緒の蓄えもあった。それに、二回に一回は必ず祥子がホテルを予約し、支払いをしていた。そして、遅くても十時半には必ず別々にホテルを出る、という暗黙の了解になっていた。

 祥子の罪悪感は強かったが、しかし、謙次とベッドで過ごす時間は、計り知れないほどの解放感があった。モラルだの愛情だの精神だの、そんなきれいごとをねじ伏せるほどの、体と自己の解放感だった。本当にいいセックスというものが、どれほど人間を楽にするかを祥子は思い知らされていた。いいセックスができるということは、謙次との間に愛情があるからであろうが、精神論が小さく思えるほど、体の快感は祥子を楽にしてくれる。
 今夜もホテルからの帰り道、タクシーの中で祥子は思い起こしていた。
 無理な姿勢をとらされ、その中でもう限界というところまで上り詰めた時、謙次は聞いたのだ。
「もう降参?」
 思えば、いつでも男に降参するまいと頑張ってきた祥子である。どんな状況にあっても男たちを向こうに回し、伍してきた。そこには「降参」という言葉も思いも、絶対になかった。たとえ敗れても、「敗者復活」を狙う意識しかなかった、義彦とのセックスは、安泰を維持するためのものであり、もとより降参はない。


 謙次に向かって、本心から「降参」と言った時、祥子は強い者にねじ伏せられる快感を覚えた。自分が女であることの嬉しさ羞恥心が、身を貫いた。それは紛れもなく、精神の解放であった。性愛というものが、決して精神愛の下に位するものではないということを、祥子はタクシーの振動の中で思っていた。

 謙次も夜道を歩きながら、祥子の「降参」という一言を思い出していた。
 あの時、謙次はハッキリとわかったのだ。結婚した男たちの多くが、どうして妻を抱きたがらないのかと言うことを。夫婦の関係にはいかがわしさがないから、いかがわしいことができない。
 セックスというものが愛の形であることに間違いはないが、行為そのものが尋常な姿形ではできない。妻以外の女に対しては、とこかに「犯す」といういかがわしさがある。それは征服欲を満たされる快感でもあった。祥子に「降参」と聞いたのは、まさにそこから出てきた思いであった。

 夜道を歩きながら、謙次はつぶやいた。
「カミさんを征服したらどうなるの」
 カミさんの待つ家が、遠くに温かな灯りをともしていた。
 みさきは時計を見上げ、そろそろ謙次が帰る頃と立ち上がった。
 台所に行き、ビーフシチューをあたためながら、このところめっきり優しくなった謙次に、釈然としない思いを抱いていた。妻として、常に夫の目を意識するように心掛けてきたことへの評価とは考えられなかった。

 祥子とますます上手くいっているから、としか思えない。謙次は優しいばかりか、今までにない気配りまでする。帰宅が十一時を過ぎる日には、必ず前もって言う。それに加えて、今夜のように駅から電話をかけてくる。
「今、駅だ。もう十分で着くからメシ頼むね。亜矢子は寝た?」
 これらはすべて、今迄の謙次には考えられなかったことであった。家庭的な夫であり、父親ではあったが、ウィークデーの帰宅時間はあてにならず、帰ってもお茶漬けさえ食べないことのほうが多かった。電話で必ず食事のことを言うのは、仕事をしているという強調ではあるまいか。おそらく、祥子との食事を悟られないように、夕飯を二度取るのだ。

 みさきは不信感が増すばかりである。香水をつけた夜に謙次は家を飛び出し、明け方近くに戻ってきた。みさきの顔を見るなり、
「ごめん」
 とぶっきらぼうに、片手を顔の前にあげた。みさきも思わず言った。
「私こそ、ごめんなさい」
 それですべてが終わっていた。翌朝は亜矢子を中心に、いつものように笑いながら朝食をとった。
 家を飛び出したことよりも、そこに至るまでのギクシャクした日々が、いつの間にか跡形もなく消えていたことに、みさきはこだわっていた。祥子との関係が上機嫌にしているとしか考えられない。

 ビーフシチューを食べ終えた謙次は、ベッドに入ると話しかけてきた。
「クリスマスプレゼント、何がいい? 土曜日、三人で買いに行こうよ」
 この取ってつけたような会話は、ご機嫌取りではないか。笑みを含んだ謙次のまなざしに、みさきは猛然と腹が立ってきた。今日だって祥子と逢って来たに決まっている。その贖罪のために、こうやって懸命な笑顔でおいしいことを言うのだ。そう思った時、みさきは笑顔で答えていた。
「真っ赤なカシミアのセーター。武田さんが着ていたみたいなのがいい」
 謙次は表情を変えることなく、言った。
「彼女はたぶん外国で買ったんだろうなァ。でも似たのはきっとあるよ」
 そう言ってから、謙次は困ったように付け加えた。
「カシミア五十パーセントにシクレって‥‥せこい? 一〇〇パーセントは高いもんなァ。ま、いいか。おやすみ」
 そう言ってみさきの布団を軽く叩いた謙次の背中を、汗が走りそうだった。みさきは自分と祥子の事を気づいているのだろうか。しかし、まさか相手があの祥子とは思わないはずだ。祥子が結婚しているのは知っているし、同じ妻として一線を越えることはあり得ないと分かっているだろう。万が一、祥子がそんな女だと思っても、一介のサラリーマンを相手にする訳がないと思うのが普通だ。謙次はとりとめもなく考え続けた。

 隣りに横たわりながら、みさきは黙って自分の手を見ていた。「カシミアのセーターなんていらないから、あの女としてきたことを私にもしてよ!」と叫べたら、どんなにいいか。
 みさきは寝返りをうつふりをして、謙次の体に接触してみた。謙次はごく自然にみさきの顔を腋に抱え込み、そのまま眠りに落ちていった。

 これも今までにないことであった。必ず謙次も寝返りをうつふりをして、みさきの体から離れたものなのだ。
 謙次の腕の温かさを感じながら、みさきはある決心をかためた。
 祥子の夫が大田区の久が原で、ペットシクリニックを開業していることは、すでに調べがついていた。

 翌日、みさきは猫をバスケットに入れて、池上線久が原駅に降りた。猫は友達の奈美子から借りたものであった。
 亜矢子を幼稚園に送り出すや、まず北千束に住む奈美子の家に向かった。
「お願い、ミーコを貸して」
「何なのよ、突然」
「すぐに返す。だから貸して。ミーコが怖がるようなことはしないから」
 言いながら、涙声になっていた。高校時代からの親友の奈美子は、涙を見るとわけも聞かずにバスケットを出してきた。
 ミーコの入ったバスケットを大切に抱え、みさきは池上線に乗った。
久が原駅から三分ほど歩くと、「武田ペットクリニック」という看板が見えてきた。あたりは閑静なお屋敷街で、「田園調布の奥屋敷」と呼ばれるだけのことはある。
「武田ペットクリニック」の周辺も緑が深く、昨夜の安手に豪華な家などは一件もなかった。どこも「祖父の代から」というような、重厚で古い家ばかりである。祥子の住む家もそんな一軒であった。クリニックの部分は白くて可愛らしい造りにしてあったが、接続している住まいは、古い堂々たる鉄筋二階建てであった。

 家の周囲を回り、みさきは百坪以上の土地だと思った。定期的に庭師が入っているのか、庭木は美しく整えられている。もっと中まで見たかったが、これ以上のぞいては不審に思われる。みさきはクリニックのドアを開けた。
 ちょうど患者が途切れたところらしくて、十分ほど待つと、「谷口みどり」というみさきの偽名が呼ばれた。診察室のドアを開ける前に、みさきは大きく深呼吸した。

「どうしました?」
 にこやかに問う義彦は色が浅黒く、精悍な体つきをしていた。運動でもやっていたのか、厚みのある体に短く切り込んだ髪がよく似合っている。この男は妻の不貞を知っているのだろうか、私と同じ立場に苦しんでいるのだろうかと、みさきは義彦を見つめた。
「どうしました?」
 もう一度問われ、みさきはあわてて答えた。
「何か元気がないんです、食欲もなくて」
 義彦はカルテに書かれていたミーコの名前を見て。まるで子供に語り掛けるように言った。
「ミーコ、お前、イッチョ前に元気ないのか。何だ、男に振られてはちょっと時期が外れてるぞ。どうした?」
 義彦はミーコを膝にのせ、さりげなく触診した。
「いつから食べなくなりました?」
「あ・・・・一週間くらいでしょうか」
 義彦はミーコを床に降ろした。ミーコは物珍しいのか軽やかな足取りで、診察室の中を動き回った、それを見ている義彦を、みさきはじっと観察した。
 いかにも体育会系という風貌に清潔感があり、半袖の白衣から出ている腕は筋肉質である。適度に盛り上がった筋肉に青い血管が浮いており、「男の腕」という感じがした。みさきはそれを見ながら、謙次よりよほどセクシーだと思った。こんな精悍な男に抱きしめられるだけでも、結婚した甲斐があろうというものだ。
「何も心配いりませんよ。ホラ、よく食べていますよ」

 ミーコは皿のキャッフードを、貧ように食べていた。しかし、しかし、みさきは自分の思いに沈み、義彦の声を聴いていなかった。
 祥子ももしかしたら、セックスレスなのかもしれない。それ以上に、夫婦仲そのものがまずいかも知れない。セックスレスだけが原因で不倫に走る妻は、やはり特殊である。まして、祥子ほどのりこうな女ならば、これ程の暮らしを危うくするようなバカなことには走らないはずだ。華々しい経歴と社会的ステイタスを持つ祥子は、この夫に物足りなさを感じているのではないか。夫はいかにもよさそうな人間に見える。女は「いい男」には飽きないが、「いい人間」には飽きるものだ。

「谷口さん、どうかしましたか?」
 肩を叩かれて、みさきは我に返った。義彦は豪快に笑った。
「何だか飼い主の方が元気ないなァ。僕が診察するわけにはいきませんけどね」
 義彦はミーコにみさきに渡すと、カルテにペンを走らせた。
「なんの心配もいりません。もし、何か変化があったら、またいらして下さい」
「あの、でも何かお薬は」
「いりません、いりません」
 義彦はミーコの小さな頭を指で小突くと、言った。

 久が原の緑濃い住宅地を駅に向かいながら、義彦は何も気づいていないとも思った。夫であり妻であれ、いつでも「いい人間」が騙される。「いい人間」は一生懸命に生きて、誰にも恥じることなく暮らしているのに、そういう正しい人間がとにかく痛い目にあう。

 みさきがぶちまけることを思いとどまったのは、あまりにも「いい人間」に見えた義彦に気圧(けお)されていたからに他ならない。みさき自身、何も知らなければよかったと思うことがある。たとえ、他の女に子供を産ませていたとて、何も知らなければ平和に呑気に暮らしていけるのだ。知らずにすむことは知らない方がいい、ということは確かにある。
 祥子に対しては激しい嫉妬と憎しみを抱いていたが、あの義彦を奈落の底に突き落とすことは後味が悪そうだった。

 土曜日の夜、祥子は自分から義彦の布団に入っていた。
 祥子は金曜日に謙次と逢っており、体も心も充足していた。満ち足りた思いが、義彦への思いやりになっていた。
 義彦の腕の中で、祥子は言った。
「何カ月に三回も四回も、愛し合わなくてもいいのよ。私はそんなことがなくても、愛されていることは十分に分かっているし」
「何で突然そんなこと」
「事務所の男の人たちがよく言ってるから。結婚して一年も経てば、セックスレスが普通だよって。義務でやっているだけだって」
 義彦は黙った。自分も半分は義務で、半分は征服欲であることを読まれた気がした。
「僕は祥子がいつもの祥子でなくなるのを見るのが好きなんだよな、きっと」
「恥ずかしいことを言わないで」
「だって、いつもスキのないスーツを着て、男と渡り合って、セックスなんか興味もありませんっていう女に見える」
「色気がないってことだ」
「それが裸にすれば、大変な好き者」
「嫌な言い方」
「どうして。今時、見るからに『やって』という女に色気なんて感じる男はいないよ。ガキはともかく」
 義彦は手慣れたように、祥子の浴衣を脱がせていった。パリにいた頃から、祥子の寝巻はいつも浴衣であった。
「祥子が僕の前でだけでああなると思うと、これは結構男として悪くない」
 祥子は、こんないい人間を裏切っているのだと思った。謙次の前では本当に我を忘れ、義彦の前では演技なのだという事を絶対に悟られてはならない。謙次とは比べものにならいほど義彦を愛し、いとおしく思っているのだから。
 その夜、祥子はいつにも増して演技をした。「これなら義彦は嬉しいだろう」「もっとした方がいいかしら」と。祥子は自問自答し、ふりを続けた。その最中に謙次を思い浮かべることはまったくなく、ただひたすら義彦に喜んで欲しいという、それだけであった。

 日曜日の午後、謙次は亜矢子を連れて実家に出かけていった。
「たまには一人でのんびりしろよ」
 謙次の言葉にみさきにとって、決して嬉しいものではなかった。ご機嫌をとられていると思うと、かえって惨めになってくる。謙次は土曜日にはいつものように「ドルフィン」につきあってくれ、今日も亜矢子を引き受けてくれた。祥子と知り合う前は、家庭サービスは週に一日だけだった。

 一人でリビングに座りながら、百回の家庭サービスより一回のセックスの方がいいと、みさきは思った。
 ずっと「りこうな女」を守り、知らぬ存ぜぬで通してきたが、果たしてこのやり方で謙次は戻って来るのだろうか。それよりも、謙次は亜矢子を実家にあずけて、祥子と逢う気なのではないのか。そう思うと居ても立ってもいられなくなってくる。

 苛立ちながら時間を過ごし、謙次が実家に着く頃を見計らい、電話を入れた。
「みさきです。いえ、亜矢子が風邪気味だったもんですから、大丈夫かと思いまして」
 謙次の母親はのどかに答えた。
「ピンピンしていますよ。これからおじいちゃんと三人でおやつなの」
「三人って‥‥主人は」
「高校時代の友達に会いに行くって。着くなり亜矢子を年寄りにおっつけて、出ていったわよ。しょうがないわねえ」

 電話を切るや、みさきは財布を握り、コートを着た。祥子の家に行こうと思った。行っどうするのかは考えていなかった。とにかくドアチャイムを鳴らすのだ。もしも、義彦しかいなければ、謙次と逢っているということだ。その時は何もかもぶちまけようと思った。祥子がいたらどうするかは考えもしなかった。祥子はいない。確信していた。

 久が原駅に着くと、みさきは走り出した。気がせく。祥子は絶対にいないだろう。日曜日の昼日中から謙次と抱き合っている姿を想像するだけで、体が火の玉になる。
 ドアチャイムを押した。返事はなかった。ペットクリニックの玄関に回り、チャイムを押した。返事はない。「本日休診」の札が風に揺れるばかりである。

 みさきは三十分ほど近くを歩き、時間をつぶした後で、再びチャイムを押した。誰も出て来ない。とにかく祥子はいないのだ。みさきは義彦が帰ってくるまで、駅前の喫茶店で時間を潰そうと歩き始めた。
 その時、背後で車が停まる音がした、振り返ると、BMWの運転席から義彦が、助手席から祥子が降りて来るのが見えた。みさきは反射的に電柱の陰に身をひそめた。

 義彦と祥子はペアのセーターを色違いで着て、車のトランクからゴルフバッグを二つ降ろしている。練習場からの帰りらしかった。義彦が何か言うと、祥子は大声を上げて笑った。なおも何か言うと義彦に、「もうやめてよ」とでもいうように、祥子は背中をぶった。カーポートに車を入れ終えた義彦と祥子は、それぞれのゴルフバッグをかついで、笑いながら玄関に消えた。

 みさきは駅まで歩きながら、自分が惨めでならなかった。謙次と祥子が逢っていなかったという事実は嬉しかったが、神様は何と不公平かと思った。

 同じ女に生まれながら、同じ三十代でありながら、祥子は社会的に認められる仕事をし、都内に土地付きの家を持ち、外車に乗って、夫婦で楽しむ。あのようすだと夫婦仲は円満そのものだ。あれほどいい夫がいながら、謙次にも女として扱われている。

 みさきはふと足元に目を落とした。合成皮の靴は安売りスーパーで、二千八百九十円の品物である。謙次の年収七百五十万円は、世間的には決して悪くなかったが、そこから税金を引かれ、マンションのローンを引かれると楽ではない。亜矢子が幼いとは、みさきがパートに出るわけにもいかない。当然のことながら、みさきは自分の周辺からまずきりつめる。それなのに、あらゆる物を手に入れている祥子に夫まで盗られ、無我夢中で久が原まで来ては電柱の陰に身をひそめる。惨めだった。何よりも夫は女としてみてくれない。機嫌を取り、優しくしてくれても、セックスはしようとしない。

 合成皮の妙な茶色の靴を見ながら、みさきは涙がこぼれてきた。自分は祥子と比べれば、確かに見劣りするかもしれぬ。しかし、それでも今迄、一生懸命に、真面目に生きてきた。体だって謙次以外の男に開いたことは一度たりともない。努力して、つましく、家計をやりくりし、謙次や亜矢子に恥をかかせないようにと、夢中で生きている女がどうして不幸になり、祥子のような女が幸せになるのか。

 電車に揺られているうちに、みじめさは祥子への怒りに変わっていった。義彦とじゃれあう一方で、平然と他人の夫に奪う女は許さないと思った。

 月曜日、昼休みに合わせてみさきは義彦に電話をかけた。
「重大な話がございます。一時間ほど会っていただけませんか」
 一息で言い、みさきは大きく息を吐いた。
つづく 第六章
 義彦はみさきが指定した「クレヨン」という喫茶店に向かって、車を走らせていた。
「クレヨン」は久が原から四つ先の駅、「洗足池」にあった。