香山リカ 著
母親から送られる矛盾したメッセージ
そういった“深い話”に進む前に、もう少し別の“刷り込み”論をみてみましょう。社会学者の上野千鶴子さんは、『結婚帝国 女の岐(わか)れ道』(講談社、2004)の中でこう言います。
「つまりね、未婚者、それに非婚者とかシングルアゲインなど、結婚の外にいる女と既婚者との決定的な違いというのは、『少なくとも一人の男に選ばれた女』ということが既婚者の勲章としてあることです。(中略)仮に男がいても、シングル女や愛人にはそれができないわけですよ。
『男に選ばれたわたし』という
依存証明を確保したいというジェンダーの病の刷り込みがシングル女にもあって、
『どんな男からもわたしを選ばれていない』ということを肯定することができないのだと思います」
その背景には、職業人であるというだけでは女性は社会に参入できず、結婚というルートを通してのみはじめて社会に正式に参入できる、という社会制度の問題がある、と上野さんは言います。
しかし問題、その“刷り込み”を最初から何の疑問もなく受け入れて実行する人と、“刷り込み”を受けて育ちながらも自然にそちらを選択できない人もいる、ということです。
私はここにもう一つ、「親の欲望」という次元が関係しているのではないか、と思っています。
ここで言う「欲望」とは「期待」よりも見えずらく、親自身も自覚していないようなものを指します。
たとえば、口では「あなたの好きなようにしていいのよ」と言いながら、母親が「娘には、私が果たせなかった仕事で成功を実現してほしい」と言葉にはしないものの、ひそかに望んでいる場合があります。
とはいえ、母親はたいていの場合、結婚して出産した女性です。娘が「仕事って面白い。私は結婚しないで、思う存分、仕事をして生きていく」などと言い出すと、今度は自分の人生が否定されたような失望を味わうのです。
このあたりのプロセスは意識より下の部分で進むので、母親自身も娘に対して、「私の代わりに自立を実現して」「でも私の人生を否定するような生き方はしないで」と矛盾したメッセージを発していることには気づいていません。
その母親のもとで従順な娘は、「私は母親の欲望を両方とも実現しなくては」と無謀な試みを続ける。母親はそれとは知らずに、「自分で決めていいのよ。お母さんはあなたのすることは、何でも応援するわ」などと言う‥‥。
こういった構図に陥ってしまうと、娘は、「他力本願な幸福を自力で手に入れる」ことなどできなくなり、とはいえ、自力で手に入れた幸福で満足することができなくなるのではないでしょうか。
もちろん、娘を通して自分の無意識のひそむ矛盾した欲望を果たそうとするのは、母親だけではではありません。父親であったり、祖父母であったりする場合も考えられます。
これが息子となると、親が託する欲望は途端に単純なものになります。
「健康であればそれでいい」「とにかく仕事で一旗あげてほしい」「少しくらいやんちゃでも元気に生きてほしい」など。
今は子どもがひとりだとするならば、男子よりも女子を望む親が増えていると言われます。しかしその理由は、
「女の子なら将来、面倒を見てもらえる」「不況の中、男の子が生きていくのはたいへん」など、娘の方が“つぶしが利く”“世の中に合わせて変化できる”“多様な可能性がある”といった前提に基づいたものがほとんどです。
「男の子」というものに対して人々は未だにその存在そのものを丸ごと受け入れようとしており、それだけに社会が変化する中では男の子が柔軟にそれに合わせていくのはむずかしい、かわいそうという考えをしているのではないでしょうか。
女の子の場合は、柔軟性や可塑性(かそせい)は男の子に比べて高いのですが、逆に、そうやっていろいろな顔をみせてこそ、初めて娘としての価値があると考えられている、と言うこともできます。
娘たちもそれを知っているからこそ、身勝手なことは言わずに親の欲望を実現しょうとしたり、あるいは自力の幸福をあきらめて他力本願な幸福を求めたりするのではないでしょうか。
息子はそのままの存在で親や世の中に受け入れられるが、娘は「なにかなる」「なにかに変わる」ことを経てはじめて親や世の中に受け入れてもらえる。
これは決して、「息子は家を継げるから」「墓を見てもらえる」といった制度的な問題にとどまることではないと思います。
この息子と娘、つまり男性と女性に見られる“違い”が、いったいなにに根差しているのか、酒井さんや上野さんが言うように、それは社会の刷り込みの結果なのか。
それとも『女は男のどこを見ているか』(ちくま新書、2002)などのベストセラーで知られる動物行動学者の岩月健司さんなどが言うように「DNAの違い」といった先天的、生物学的な差異なのか。
それとも“悪しき男性器中心主義者”と女性学者たちから非難されたフロイトが考えた、「男ではないもの」という女性の無意識の奥深くにある“欠如の感覚”がそれを呼ぶのか‥‥。
もちろん、答えはどれひとつに絞ることはできません。ただ、少なくとも今のところ男性と女性とで、とくに恋愛や結婚といった「男と女(そうでない組み合わせもあります)」が直接、向き合うような関係になると、ある決定的な差が現れることは確かなようです。
そして、その
“差”の程度には何段階かがあり、それが「最初から他力本願な幸せだけは手に入れられない女性」と、「自力での幸せは手に入れることができるが、他力本願な幸せだけは手に入れられない女性」とを作り、後者は前者に対して“負け犬”感を味わっている、というわけです。
「自分で決める」ことに価値がある
ところが、この話には続きがあります。そうやって他力本願の幸せを手に入れた女性たちが、それで完全に充足できるかというと、そうではないようです。先に紹介した『結婚帝国 女の岐(わか)れ道』の中で、上野さんと対談している臨床心理学の信田さよ子さんは、相談者の傾向を分析してこう言っています。
「三十代の既婚者の場合は、結婚したものの、『この結婚でいいんだろうか』『こんなひどい男でいいんだろうか』、つまり『別れようかどうしようか』という相談が多いのね」
私もクリニックで、夫や義母からの「ギフト」」が色あせてしまった既婚女性からの相談を、よく受けます。彼女たちは、「こんな生活を続けるくらいなら、多少、生活は苦しくなっても自分で働いてひとりで暮らしたほうが、よほど自由で楽しいと思う」と言います。
彼女たちにとって、いまや「ギフト」こそが自分を束縛し、可能性を奪う諸悪の根源に見えてきます。
とはいえ、長く職場を離れ、子育てに専念してきた女性たちは、「ギフト」以外の手段で幸せになる方法を知らないか、知っていてもどうやって実行していいかわからないか、です。
そうなると、待っているのは「同じ部屋で息をするのもイヤだけど、生きていくためには我慢して一緒に暮らさなければならない」というかなり苦しい状況です。
独身女性からは「夫が自分のために汗水たらして働いて、生活費を渡してくれる、なんてうらやましい」と金貨のように見えるお金も、いったん魔法が解けてしまった専業主婦にとっては、わずかな額で自分を縛りつける不当なものにしか見えない‥‥。
しかし、人間はいっぺんに二つの生活を同時に体験することはできませんから、いくら両方を見ている私のような者が「ギフト」に憧れて結婚しても、こういう状況になる人もいるんですよ」「お金が稼いで自由に生きている独身の三十代は羨ましい、と思うかもしれませんけど、彼女たちには「私はだれにも選ばれていない、無価値かも」という焦りがあるんですよ」と言っても、それぞれの人には簡単には信じてもらえません。
最近になって、
「他力本願の幸福としての結婚」では必ずしも幸せになれない、ということに気づいた人が、
「自立したパートナー同志としての結婚」や
「女性から男性への『ギフト』としての結婚」などを提案しています。
つまり、社会的にも経済的にも十分、自立した三十代、四十代どうしの結婚や、地位や経済力の勝った女性が超年下の男性とする結婚などです。
しかし、いずれも“究極の解答”とは言えず、それがうまくいくか破綻するかは、ケース・バイ・ケースとしか言いようがありません。
結局のところ、未だに最も一般的に結婚とは、角田さんの小説に出てくるような
「他力本願の幸福を自力で手に入れること」を信じて疑わない女性と、そういった展開に違和感を覚えながらも「自分はもう一つの世界の筋書きに従って生きるしかない」と受け入れる男性とのあいだで、それでも形式的には男性から女性への「ギフト」として与えられるという形で、執り行われるもののようです。
そこにはもちろん、恋愛の段階でも現われるさまざまな要素や心理も関係してきますが、やはり「恋愛」と「結婚」とのあいだには、はっきりとしたステップがあると思われます。
そのステップを上ったほうがいいのかどうかについて、世間や親は言葉以外の方法で、いろいろなメッセージを送ってきます。しかし、最終的には「自分で決めるしかない」のです。
ただ一つだけ、
「自力でつかんだ幸福」にも「ギフト」と同じだけ、いや、それ以上の価値はちゃんとある、ということは、ここでしっかり言っておきたいと思います。
つづく
恋人から与えられる究極のギフト
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。