香山リカ 著
結婚できれば、それで「勝ち」?
負け犬はなぜ「負け」なのか
2003年から04年の春にかけて、女性たちの話題を独占した本と言えば、なんといっても酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』(講談社、2003)でしょう。
酒井さんは、「未婚、子ナシ、三十代以上の女性」のことを「負け犬」だと、この本の冒頭で明確に定義しています。
これは、「結婚しているか、していないかに関係なく、自分らしく生きることこそが大切!」 などと言われ続けてきた今の二十代から四十代の女性にとっては、金づちで頭を殴られたような大きなショックでした。
自ら“負け犬”の定義にズバリ当てはまることを認めている酒井さんは、もちろん「結婚しないのは敗北だ」と真面目に言いたのではありません。
彼女に言わせれば、家庭にとどまりつづけている専業主婦も、仕事という分野に「進出せずに&できずにいる」という点では、ある意味で不完全。
家庭を持てない独身女性も仕事を持っていない専業主婦もお互い不完全なら、ここは自分たちが潔(いさぎよ)く“負け”と名乗った方が、この先、話しやすい。それくらいの軽さで、とりあえずの勝敗が決められています。
しかし、独身女性たちが“負け犬”側、というルールで話を進めましょう、ということになったのは、なにも酒井さんがそうだったからという理由だけではなかったと思われます。
もし、著者が専業主婦で「これから先は、私たち主婦が“負け”と定義して」などと書いたとしたら、この本はこれほど話題にはならなかったでしょう。
結婚していないのは、いくらそれが本人の意志だったとしても、あるいはその女性にどれくらいの経済力があったしても、やはり、“負け”なのだ。そういった暗黙の了解が、21世紀になって世間や当の女性たちの中にしっかり残っていたのです。
それをここまではっきりと口にした酒井さんは、まさに
「王様はハダカだ!」と叫んだあの童話の子どものよう。
しかも、そう叫んだ子どもにも注意できません。
そういうわけでこの本は、女性の自立や自己実現をうたう女性学者からの批判などもスルスルとすり抜け、あっという間に世の中に広まっていったのです。
では、なぜ
「結婚しないこと」は“負け”だ、と誰もが思っているのか。本書の中で酒井さんは、それは社会的な刷り込みの結果としての強迫観念のせいだ、と説明します
。
「負け犬がなぜ、異性との出会いにこだわるのかと言ったら、私達は
「モテる人が偉い」という価値観の中で、生きてきたからです。
異性・同性に限らず、他人から好かれ
人気がある人が、価値のある人だった。(中略)
『恋愛できない人は人生の落伍者』という物心ついて以来の強迫観念が、負け犬をなおも縛っています」
努力しても決して手に入らない
では、その強迫観念の延長が「結婚できない人は落伍者(らくごしゃ)」ということになるのでしょうか。その要素があることは確かですが、私は「結婚」に関してはもう一つ別の価値観が加わると考えています。
なぜなら、「恋人はいるけど結婚はしない」という人も、それなりの“負け犬”感を味わっていると思うからです。
結婚に関して存在している特別な価値観、それは
「自分でつかんだ幸せより、他人から与えられる幸せのほうがより価値がある」ということです。
『負け犬の遠吠え』の中には“勝ち犬”と会っていると、ユニクロ製のシャツの胸元に大粒のダイヤが光っていることがある。「ああ、これはダンナのお母様が買ってってくれたやつよ・・・・」
という彼女の軽いもの言いを聞くと、酒井さんは、深く“負け犬”感を覚えると言います。それは、自分が持っているブランドものはせいぜい数年しか使えないものであるのに対し、その一粒百万はするようなダイヤは何十年も持つものだから、と酒井さんは分析しています。
しかし、たとえそのネックレスが五万円のセンスのよくないパールだったとしても、「ダンナのお母様」が買ってくれたと聞かされれば、独身女性はどこか“負け犬”感を覚えるのではないでしょうか。
知人の結婚披露宴で、新郎の兄がまだ若い妻を連れて各テーブルをあいさつ回りしている光景を見たことがありました。妻はとてもかわいい顔立ちなのですが、新郎の親族ということでお世辞にもステキとは言えない地味な着物に中年女性がするようなアップのヘアスタイルをしていました。
ところが、「○○家の嫁でございます。まだまだふつつかものですが、弟夫婦をよろしくご指導くださいませ」と笑顔で腰を折る彼女は、満面の笑みをたたえて自信たっぷりの表情。
私のテーブルにいた独身女性たちは、それぞれとてもおしゃれなドレスやアクセサリーを身につていのですが、「かなわない‥‥」という表情で黙ってコーヒーなどすすっていました。
自分の収入で買った高価なドレスより、義母から無理やり押し付けられた地味な和服や帯どめのほうが、”価値”度が高い。その披露宴会場には、明らかにそういう雰囲気が漂っていました。
さらに言えば、高価でセンスのいいドレスは自分のがむしゃらな努力で手に入れるものですが、野暮ったい宝石や和服、「まだまだふつつかものですが」といったセリフは、誰かから与えられなければ決して手に入らないもので、自分の努力ではどうやっても買えないものなのです。
あるいはそれらはセンスが悪いがゆえに、「あ、あれは義母からの押し付けだな」と周りからわかる。それが、「私は“勝ち”よ」という、もの言わぬ宣言になっているのです。
それでも元気あるときは“勝ち犬”が義母から与えられた洋服や宝石を身に着けているのを見て、「あんにダサい花柄スカーフをしなきゃならないなんて…・ぞっとする」と思うのですが、仕事や恋愛で行き詰ってくると、その七千円くらいの花柄スカーフが三万円のグッチのスカーフよりずっと価値のある物に見えてきます。
「グッチは自分で買えるけど、花柄スカーフはどうやっても自分では買えない」と思い、「本当に価値あるものはお金では買えないものだ」といった子どもの頃に聞いた“教訓”が唐突に蘇って来たりもするのです。「ギフト」ということばにはもともと「天から与えられた贈り物」という意味があった、という話を読んだこともありますが、義母からのセンスの悪い贈り物は、女性たちにとってまさにこの「ギフト」に見えるのです。
前章でお話しした、「知的会話はだれでもできるけど、洗濯物をたためるのは妻だけ」に身をよじった不倫の女性とも共通する感覚です。
義母だけではありません。もちろん夫も同じなのですが、夫の場合、その「ギフト」は「もの」ではなく「お金」である場合が多いようです。「お金」とは言っても、多額である必要はありません。私も含めて、長年、仕事を続けている女性たちで集まると、よくその話になります。
「今年はボーナスも少し上がる、って言われて、それはそれで嬉しいんだけど‥‥。自分で働いてその分、ボーナスが何万円か上がっても、今さらねぇ」
「その何万円分でも、私のためにだれか男の人が働いて稼いできてくれる、ということは絶対にないよねぇ」
つまり、何万か何十万かといった程度であれば、彼女たちは自分の力で年収をあげる方法も知っている。
しかし、だれかが自分のために働いてたとえ一万円でもお金を渡してくれる方法となると、まったくわからない。そして、「いったいどうやれば、だれかかが“
キミ一人くらい僕が食べさせてやるよ”などと言ってくれるものなのか」と考えているうちに、自分で稼ぐお金よりも、専業主婦が夫から渡されるお金のほうが、その額に関係なくずっと
尊(とうと)いものと思えてくるわけです。
よく考えれば、これはとても奇妙な価値観です。本当に尊いのは自分の力で手に入れたものであって、他人から与えられたものがそれよりも価値が高いはずがありません。
ましてそれが「義母からのセンスが悪い贈り物」であったり「夫からの十分とは言えない生活費」であったりするならば、自分の努力で収入を得て、好きなものを買ったり余裕のある生活をしたりするほうが、ずっと快適なはずです。それなのに、どうしても「幸福は他人から与えられてこそ」と思ってしまう。
これは、どうしてなのでしょう。酒井さんが言うように、やはり子供の頃からの“刷り込み”の結果なのでしょうか。「自分の幸せは自分で」といった教育がもっと徹底すれば、“負け犬”たちは義母や夫からのギフトに過剰な幻想を持たずにすむようになるのでしょうか。
つづく
恋人から与えられる究極のギフト
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