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子どもの質問に答える時の四原則
子どもの悩みがわからない大人
大人たちが戸惑っている一方で、子どもたちも体の成熟についての個人差にともなう悩み、たとえば発毛や月経、乳房やペニスの発育についての悩みを誰にも相談できずに、いろいろと苦しんでいます。
自分だってかつてはそれで悩んでいたのに、それを忘れてしまった大人たちは、子どものそうした悩みがわからずに、「あんたはいつまでもペチャパイね、○子ちゃんなんかあんなに大きいのにね」など、グサリと痛いところを突き刺すようなことをいいます。
三年生の終わりに初潮を迎えた子に、「あらいやだ、かわいそうに、こんなに早くなっちゃって」と言ってしまい、ただでさえ気にしているその子を、さらに追い込んでしまったお母さんもいます。
あるいは物わかりがよさそうに「あんたもう毛が生えてきた? 恥ずかしがらなくてもいいのよ。
あんたの年頃では生えているのがあたりまえで、生えてこなかったらかえって心配だからね」と話しかけたばかりに、少々発育の遅れていた息子に「ボクはまだ生えてこないから異常なのだ」と思い込ませてしまった例もあります。
このように、大人と子どもの間には相当なズレがありますから、お父さんやお母さんをはじめ大人の方たちに、もう少し勉強して頂く必要があると思います。
大人は性教育を受けなかったか
こういうと、大部分の大人は「私たちは性教育なんて受けてこなかったから、どうしたらよいかわからない」と言われます。
しかし、性教育は、きちんとした指導の形をとらなければ成り立たないというものではありません。
日常の生活の中で、性に関連して大人が見せる言動のすべてが、子どもに対する性教育になるものです。
子どもが「ボクはお母さんから生まれたのにどうしてお父さんに似ているの」と聞いたとき、よく分かるように教えてあげることは勿論性教育なのですが、「そんなことは大きくなれば分るよ」とつっぱねたり、「子供はそんなことを聞くんじゃないよ」と??りつけるものでも、「これは大人の前で言ったり、聞いたりしてはいけないことなのだ」と教えているわけですから、やはり性教育になるのです。
あるいは、テレビでキスシーンなどが出てきたときに、そばで子どもが見ているからといって困ったような顔をしたりすることも、よく教育は背中でするものだと言われるのはこういうことなのです。
同様に、これもよく聞くことですが、「うちでは性教育などは何もしていません」というのも有り得ない、と言うこともわかって頂けると思います。ただその性教育が、肯定的で子どもにとってプラスになるものか、あるいは否定的でマイナスになるものかの違いがあるだけです。
これについて、アメリカの性教育の指導者であるオレゴン州立大学名誉教授レスター・カーケンダール博士は、「好むと好まざるとに係わらず、人は性教育の実施者であることから逃れることはできないし、親は性教育を与えようか与えまいかという選択の権利を持ってはいない」と言っています。
どうせ逃れることが出来ないのなら、また、ごまかしたりはぐらかしたりといった拒否的な言動もマイナス効果の性教育になってしまうのですから、私たち大人は、親として教師として肯定的な性教育をしなければならないということになるでしょう。
性教育をするかしないかではなく、子どもたちをりっぱな人間に育て上げるために、どのような性教育をしたら良いのかを考えるべきだと思うのです。
性の芽生え
アメリカで長い間小学校の教員をし、性教育の実践家として有名なエドナ・レーマン女史は、その著書で次のように言っています。
「性教育は、生まれたばかりの赤ちゃんを、はじめて抱き上げた時に始まっています。
そっと抱きしめてくれる腕、そよ風のようなさしい愛撫、自分をほめてくれているらしい耳に心地よい話し声、そういうものの中で赤ちゃんの心のやすらぎは、いつしかはぐくまれていくのです。
授乳は、赤ちゃんにとって満足感に満ちた、とても楽しい経験になります。母親の胸に抱かれて乳房や哺乳瓶から、温かいごちそうをもらえるものですから。
お風呂が楽しいものだということも、赤ちゃんはだんだんわかってきます。顔や腕やおなかやおしりを、ていねいにきれいにしもらって、肌触りの良い、大きなタオルにそっと包まれ抱きしめられるのは、なんと素敵なことか。
赤ちゃんはおむつを替えてもらうと、とても気持ちがよいことに気がつきます。おしりをきれいにしてもらうとき、母親にやさしい声をかけてもらったり、撫でたりさすったりしてもらえるので、おむつ交換が楽しくなってくるのです。
でも汚れたおむつを替える人が、不愉快そうな声を出したり、いやな顔をしたりすると、赤ちゃんは何か悪いことが起こっていると思うようになってしまいます。
赤ちゃんは、だんだん大きくなっていくうちに、自分の世話をしてくれる両親がいること、どんなことをしてもらえるか、それに自分自身のことについても、色んなことが分かってきます。
生後六週間ではっきり目が見えるようになると、はじめて自分の手を発見し、しげしげ眺めます。そして自分の手が物をさわるのにとても便利なものだということに気がつきます。ベッドや毛布や自分の顔やつま先を手で触ってみます。
たまたまその手が性器に触れると気持ちがよいことを発見します。触れて良いもの、いけないもの、そんなことが赤ちゃんには分かるはずもありません。
性器にさわってみるのも自然のなりゆきです。だから見て見ぬふりをしてあげましょう。」
ところが、赤ちゃんがおむつを取り替えるときなどにおチンチンをいじったりするのを見てお母さんの中には、「だめよ、そんなとこさわっちゃ、バッチィバッチィですよ」とか「エッチね」などと言ったりするのをよく見かけます。
赤ちゃんといえども耳がありますから、いつもいつもこんなことを言われていると、やがてもの心がつく頃になると、おチンチンはバッチイところ、エッチなところというように大脳に刻み付けられてしまいます。
だから性教育は、生まれた時から始まるのですが、中でも性意識が芽生えくる幼児期から思春期、青年期に至る間の教育が重要です。この時期に子どもたちが抱く性的な疑問や興味、関心から行動までをおおらかに肯定的に受けとめた指導がなされるか、または拒否ないし抑圧がなされるかは、その後の人間形成に大きな影響を与えることはこれまで述べてきたことからもわかって頂けたことと思います。
いつ何を教えるかという時に、よく問題なるのは身体の成熟に合わせるか、子どもたちの興味や関心に合わせるかと言うことです。そして多くの場合、身体の成熟に合わせようとします。だから、未成熟な幼児から小学校低学年のうちはまだ早いということになり、第二次性徴の始まる高学年以降に実施しようということになります。
たしかに性器の発達や月経、射精といった身体の成長や変化に関するものは、体が成熟してこないとうまく理解できません。だからこうした問題は、当然身体の成熟に合わせて教えるべきです。
しかし、親子の関係や生殖の仕組みといった問題、たとえば「ボクどこから生まれたの」とか「お母さんから生まれたのにどうしてお父さんに似ているの」といった問題は身体的に未成熟な幼稚園や小学校低学年の子どもでも興味と関心を持っていますし、また話してやれば十分に理解できます。
十分理解できるというだけでなく、こうした問題は(とまどいしない年代)と言われるこの年代の方が、年齢の高い成熟期の子どもよりも素直に受け入れさえするのです。
これについて横浜国立大学の間宮武名誉教授は、「身体的に成熟した者は、この問題を“自分がこうするとこうなる”というように受けとめるが、とまどいしない幼児期では“両親がこうするとこうなる”というように親の問題として素直に受けとめる」と言っておられます。
だから、何をいつ教えるかについては、身体的な成熟期即応か興味関心即応かといった二者択一ではなく、問題によってこの両者を組み合わせていくべきだと考えています
。 つづく
子どもの質問に答える時の四原則