誤解の多い性教育批判、性の不一致
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。
誤解の多い性教育批判
それは、伸びようとする性教育の足をひっぱる性教育批判が、一方で次第に高まる必要論に対抗するかのように増えていることです。そうした批判の多くは、性教育の実態を知らないための誤解に基づいているのです。
批判の一つに「性教育は性器のメカニズムだけを教える性器教育だ」というのがあります。学校では決して性器のメカニズムだけを教えているのではありません。もし、そのような教育があるとしたら、性教育のなに価しないものです。
「しかし、そうは言っても、性器のメカニズムを教えているではないか」と言われれば「その通りです」と答えます。
性教育は、性器のメカニズムや性についての科学的な知識だけを与えるものではありません。それを抜きにして成り立つものではありません。
性についてきちんと教えられ知識を持っている者は、自分の性行動を慎重にするもので、早くから性行動をする者はその殆どが性について無知であるか、歪んだ興味を持った若者たちなのです。
性はかくすべきものか?
性は本来恥じらいを伴うものだから公然と表に出すものではない、という批判もあります。そんなことをしたら社会の文明が衰えてしまう、と言う人もあります。
性を語ることと現場を見せることとは違いますし、また、性は恥ずべきものでも隠すもでもありません。それについての考え方も、世の中の移り変わりにつれて変化します。
「性はかくすべきものか?」と関連してくるものが「性は個別に学習すべきものだから学校で教育するのは反対である。性は家庭で教えるものだ」という意見です。
家庭で教育することには全く賛成です。是非そうあってほしいと思います。しかし、学校で教えてはいけないとか、教えるのには無理だという議論には賛成できません。
というのは、学校での集団教育には、家庭での個別指導にはない大きな利点があるからです。それは、集団の中で他の子どもの受け止め方などについても話し合い理解していくということで、これは学校でなければできないことです。
また現状では、全ての家庭で望ましい性の対話が行われるということは残念ながら期待できません。そこには無関心もありますし、古い考え方もあります。
こうしたいろいろな説の中で、最も多いのが性非行防止、性被害予防のためという、いわゆる防衛論的性教育で、マスコミの態度もおおむねこれです。
夏休みは、子どもたちの気持ちが開放的ななり、服装もかなり露出的になることなどから、いろいろな性的なアクシデントが起こりやすいので、その前に性教育をしておこうということになるのでしょう。
「ヒューマンセクシュアリティーの教育」
ヒューマンセクシュアリティーというのは「人間の身体の一部としての性器や性行動だけでなく、他人との人間的なつながりや愛情、友情、思いやり、包容力など人格と人格との触れ合いのすべてを含む幅の広い概念」といったらよいでしょう。
オーストラリアは、性教育を大学で積極的にヒューマンセクシュアリティーの教育を「個性の発達」の学習とか「人間関係の学習」と呼んでいます。
こうした海外諸国の性教育の内容は、人間の性についての科学的な知識を与えるとともに、それをもとにして人間関係をどのように充実、発展させ、自分の人生をどのように実り多いものにするかを考えさせるというものです。
一般的な考え方としてどうも性教育というと性即「性交」と考える人が多い現状では、あらぬ誤解を受けたり、また食わず嫌いで反対されることもよくあることです。
性教育とは、つまるところ子どもたちが性について抱くいろいろな興味や関心、さらには疑問に対し、「親対子ども」、「教師対児童生徒」つまり大人が自分の学習や人生経験、あるいは生き方といったものに裏打ちされた、性についての知識や考え方を誠実に話しかけていくことも望まれるでしょう。
フランスの女流作家で三人の子どもを育てたシモーヌ・ファビンは、「親からあまりにも安易な“ええいいわ”という言葉を、子どもは無関心のあらわれとして受け取る」と言い、また「あまりにも大きな自由を与えられると、自分は無視されているという意識が大きくしていくばかりだろう」と言っていますが、このように言っている子はたくさんいると思います。
現にある子が「言葉だけ信じているようで母親は逃げる、その寂しさを非行でまぎらす」と学内詩集でその気持ちを訴えます。
青少年を非行に走らせる原因の中で、親の放任と言うものが大きな部分を占めていることはいろいろな調査でも明らかですが、その中にはいま述べたような“信頼という名の放任”がかなり多く含まれているのではないでしょうか。
一方、子どもを自立させるためには、子どもへの信頼がなくてはなりません。そして信頼するということは、それに価する教育に裏づけられていなければなりまんが、その信頼できる教育の中に性教育も位置付けられるのです。
子どもたちの性的関心や疑問、あるいは行動について受け止め方に、大人と子供では大きなズレがあるということです。
・大人と子供のズレ
小学一年生の男の子が学校でスカートめくりをしました、と女の子の親から文句を言われたお母さんが、まるでわが子が痴漢になったかのように思い込んで相談に来られたことがあります。
しかし、低学年の子どものスカートめくりは、大人が駅の階段、エスカレーターなどでミニスカートを下からのぞくのとは全然ちがいます。スカートめくりは、もっぱら冬季に集中していました。
それは女の子が毛糸のパンツをはくようになり、その色がまた赤・黄色・緑・ピンクといったようにカラフルになるので、スカートめくりは「赤だ、ピンクだ」と言ってみたり、またそれを女女の子たちがキャー、キャーワーワーというのが面白くてやっていたのです。
そして、女の子のパンツが白一色になる夏には、ほとんど見られなくなったのです。だから、これを痴漢的だなどと大仰にとらえるのではなく、「どんなに自分にとって面白いか楽しいことであっても、それが他の人が嫌がることだったら絶対にしてはいけないのだ」ということを十分に指導すればよいのです。
お医者さんごっこにしても同様で、あまり目に角を立てなくとも、じきに通りすぎてしまうものですから、もしそんな遊びに気がついたら、性器の大切さと、汚い手やあぶないものでさわらないように話してやればよいことです。
このときは、前のスカートめくりと同じですが、まちがっても「エッチな遊びは止めなさい」などと言わないように注意してください。
大きくなった子がヌードのグラビアを集めていたとか、エロ雑誌を見ていたという相談もよくありますが、これも思春期の男の子なら当たり前のことです。心配する必要はありません。
「息子が女性用の下着をはいて鏡に映しているのを見て、眼の前がまっ暗になった」というや母さんもいましたが、「子どもさんはアッケラカンとしていたでしょう」ときくと「その通りです」という答えでした。
最近中学生の男の子を持つお母さん方の間には、こうした悩みがかなり多いようですが、さりとて進学問題などと違って、お母さん同士で気軽にお無し合うにはいささか抵抗がある話題です。そこで自分だけで悩む、ということになるでしょう。
ある有名な作家がエッセイの中で、「中学生の頃近所の中年の女性のズロースを失敬してきて、その中に包みこまれていた女性のからだの部分について想像逞しくした」と言うようなことを書いていましたが、同じようなことをする中学生もあります。
決してほめたり奨励したりすることではありませんし、とくに他人のものを失敬してきたのは盗みをしたことになるわけですから、その点を注意して止めさせるのは当然ですが、異常性欲だのときめつける必要はありません。
ナルシシズム(自己愛)から異性愛
前のケースは、ナルシシズム(自己愛)から異性愛へと進む過渡的な時期に現われる自己愛の変型といってもよいもので、きれいなかざりのついた女性用の下着を身に着け、その姿を映して喜んでいたのです。だから、お母さんに見つかってもあけからんとして、何をそんなにすごい剣幕で??られるのかわからないといった顔しているのです。
後のケースの場合は、この時期に強い、女性のヌードをみたいという欲望に加えて、異性接触欲といって、女性のからだにさわりたい、あるいは抱きしめたいという気持ちが強くなってきます。
しかし、そんなチャンスはおいそれと見つかるものではありません。そこで、その満たされない欲望を、女性の肌につけるブラジャーだの下着だのにさわることで代償しようとしているのです。
この二つのケースは、どちらもその多くは一過性で、成長とともに消えていくものですから“変態”とか、“いやらしい”といった叱り方をしないようにしてください。
子どもからの相談では「六年生の妹が風呂に入っている時、偶然ドアが少し開いていたので、ついそちらを見たところ父に見つけられ“この変態め”といって殴られた」という中学生からの例がありますが、ヌードのグラビア集めと同様、この年頃の男の子が女性の裸を見たいと思うのも、ごく当たり前のことです。
文豪森鴎外だって、その自伝的小説「キタセクスアリス」の中で、近所の女の子に尻まくりをさせて縁側から跳ばせ、自分は庭からその子の下腹部を見ていたことを書いているのです。
このように、思春期の一時期にたいていの子が通りすぎていく道程にしかすぎないものに、大人が戸惑い、びっくりしていることということが意外に多いものです。
つづく
子どもの悩みがわからない大人