ずっと会いたかった。耳元で言うと、修人はやっと堰を切ったように私の首筋に顔をうずめた。修人に跨がり、彼の髪を撫でながら何度もキスをする。シャツの裾から手が入って、ブラジャーの上から熱を感じる。明日死ぬかもしれない世界に生きている事が、途端に堪えがたくなる。私は明日死ぬかもしれない。その事実が、胸がつぶれるほど辛かった

本表紙金原ひとみ著

Chi-zu 千鶴

店を出た途端にむっとするような湿気と熱気に包まれ、十分程度の道のりなのに随分と汗をかいた。フランスは良かった。湿気がなく、肌の乾燥には悩まされたけれど、虫も少ないし、夏も涼しくて過ごしやすかった。シンガポールに駐在が決まった時、シンガポールでは常に空調を回し続けなきゃ駄目だよ、すぐに湿気にやられて壁紙がかびだらけになっちゃうからね、と旦那の上司が話していて本当かなあと思っていたけれど、行ってみて驚いた。

本当にちょっと空調を回していないだけで布団やカーペットがじめっとしていくのだ。ゴキブリも寒い所には出ないというから、冷房除湿を常に点けっぱなしにしている。あの冷房除湿の効いた涼しい家に帰宅し、もう眠っているであろう誠二を思う。フランスから日本まで、飛行機で十二時間、時差はサマータイムで七時間、サマータイムが終わると八時間。シンガポールから日本までは飛行機で七時間。時差は一時間。飛行時間と時差が比例しないのは当然だけど、フランスに二年半暮らし、シンガポールに来た時、意外なほど日本との時差が少ない事に驚いた。

どちらもパスポートを持ち飛行機に乗らなければ帰れない場所ではあるけど、フランスからシンガポールに来た時、私はそこが沖縄であるかのような親近感を抱いた。時間軸と気候が近いというだけで、帰って来た、私はそう感じたのだ。アジアとヨーロッパの壁は、人種や文化よりも、気候と時間軸にあるのかもしれない。


 シャワー浴びたいなと思いながら、鍵をテーブルに置く。
「ビールあるかな?」
「あるんじゃない? ちょっと待って」
 冷蔵庫を開けてハイネケンを確認する。修人は窓から外を見下ろしている。ビールもワインもあるよという言葉に答えず。「久しぶりだな」と修人は呟いた。
「何が?」
「こんな高い所から地上を見下ろすの」
 そう言えばさっき、四十回建てタワーマンションの3LDKからぼろアパートの六畳一間に格下げになったと自虐的に話していた。
「修人くんは、これからどうやって生きて行くの?」
「とにかく仕事復帰に向けて気持ちと環境を整えて行く。それだけだよ。今はまだ、何も出来ないけどね」
「出来ない間、どっか長期旅行でも行ってみたら? 気分が晴れるかもよ」
「シンガポール行ったら案内してくれる?」
「旦那が仕事に行っている間ならね」

 彼はソファの背もたれに預けた頭をくるっと私に向け、千鶴ちゃんって僕のこと何だと思っているの?と聞いた。その仕草は、小学生くらいの子供がどうして新幹線は早く走れるの? と聞くような自然さを孕んでいたために、私は同じような自然さで答える事を強要さているような気がして一瞬戸惑う。

「何だろう。好きだよ」
「どういう感じで好きなの?」
 ビールを渡すと同時に、手を引かれるまま隣に腰掛けて、握られた左手に僅かに力を込めて、右手だけで修人の煙草を取り出して火をつける。
「帰国が決まってから、ずっと修人くんのこと考えていた」
「それって、結構好きじゃない?」
「そうかな」
「ちょっと考えてごらんよ。他の男の事をずっと考えるなんて、人妻としておかしくないか?」
 おかしいかもねと言って、彼の肩に頭を載せる。修人はビールをテーブルに置いて、私の肩に腕を回した。
「このままずっと東京にいれば?」
「妻子を東京から追い出したくせに」
「子供が居なきゃ東京から出ていけなんて口が裂けても言わなかったよ。僕はあんまり孤独に強いタイプじゃないんだ」
「誰に言わなかったけど、私はすごく悩んだの。夫とフランスに行くかどうか。夫と二人でフランスに行くのと、東京でも夫はいなくてもたくさんの友達や仕事仲間や家族の近くで暮らすのと、どっちにするべきかすごく考えた。日本にいれば、仕事だって続けられたわけだし」
「で、夫を選んだ」
「選んだんじゃないの。仕方がなかっただけ」
「来ないのなら離婚と言われたの? 千鶴ちゃんがそんな男と結婚するわけじゃないよね?」
 私はくすくす笑いながら彼に顔を寄せる。こうなるように仕向けてる所がありながら、少し体を引いて戸惑うような態度をとる修人に、急激に欲情する。修人は、どれだけ意識的にコントロールしてるのだろう。押されたと思って押し返したら途端に引くような彼の態度に、以前も私は軽く苛立ちながら欲情していた気がする。

 ずっと会いたかった。耳元で言うと、修人はやっと堰を切ったように私の首筋に顔をうずめた。修人に跨がり、彼の髪を撫でながら何度もキスをする。シャツの裾から手が入って、ブラジャーの上から熱を感じる。明日死ぬかもしれない世界に生きている事が、途端に堪えがたくなる。私は明日死ぬかもしれない。その事実が、胸がつぶれるほど辛かった。

 シンガポールの自宅近くのスターバックスでラテを飲んでいた時、少し離れたテーブル席に座っていた中国系の女の子二人の事がふっと頭に浮かんだ。二十代前半くらいだろうか。一人がパンケーキを一枚食べ終え、二枚目を食べるとき、チョコレートシロップとプラスチックのナイフを使ってパンケーキに絵を画き始めた。にっこりと笑った顔を描き終えると、二人はきゃっきゃっと楽しそうに携帯でパンケーキの写真を撮っていた。
 
 何でこんな時にあんな光景が頭に浮かぶのだろう。手を伸ばし、スボンの上から修人の性器に指を這わせる。ブラジャーが外されて修人の手が胸に触れる。大きな手が胸を覆い、細い指が乳首に触れる。固くなっていく性器を撫で上げ、ベルトを外してジッパーを下ろす。ボクサーパンツの上から手を入れると、手のひらが僅かに濡れた。シャツとブラジャーを取られると同時に私は抱き上げられ、ベッドに投げ出された。覆いかぶさって来た修人とキスをしながら彼のシャツのボタンを外していく。外しながら、そのボタンが一つ一つ僅かに違う形をしている事に気づいて目を凝らす。

「違うんだ、これ」
 ボタンを見ている私に気づいた修人が言った。
「元々だよね?」
「うん、元々、違う形」
 私は修人の持っているそういう物が好きだった。鞄のジッパーが左右で違ったり、何でもない鉛筆のお尻の部分がてんとう虫の模様になっていたり、修人と会ったのはこれでまだ五回目くらいだけれど、彼と会うたびそうして、彼の好むものが分かるような小さいディテールを発見してきた気がする。

「可愛いね」
 私は、何となく彼を褒めるのが嫌で、軽い嫌味を持った言い方でそう言うと、全てボタンを外しきったシャツの隙間から彼の胸に指を這わせる。嫌味に気づいたのか気づいていないのか、彼はシャツを脱ぐと私のパンツを剥ぎ取った。

 二人とも全裸になり、彼の指と舌で散々弄られた性器から全てが離れふっと涼しい空気に触れた後、彼は右手を添えた性器を数回擦り付け、一気に挿入した。足をM字にして座ったまま突いてくる彼の乳首を左手で弄り右手でクリトリスを弄る。修人の顔が歪んで行く。吐く息が荒くなり、どんどん動きが速くなる。性器が濡れて何筋かお尻に伝わっていくのが分かった。動きを緩め、絶頂を遠ざけている修人を押し倒し、自分が上になるとゆっくり腰を振る。

クリトリスが修人の陰毛に擦れて、腰の動きを速めると私はすぐにイッた。痙攣する膣がそこを中心に全身に快感を伝え、修人の胸に手を当て上体を起こしたままその痺れを甘受する。私の膣の痙攣と、修人の胸から立ち上がるような鼓動がしばらく同じリズムを打つけれど、すぐにずれてばらばらになった。

痺れが残ったまま顔を寄せキスをする。触れ合った胸がじめっと汗を分け合う。キスをしたまま私は動き始め、また少しずつ動きを速めていく、ちょっと待ってと言う修人の言葉を無視して乳首に舌を這わせ、口に含んで歯を立てる。

「危ないから、上になっていい?」
 肘をついて起き上がろうとする修人をもう一度両手で押し倒し唇と唇で覆う。舌を入れたまま深くピストンをしていると、修人が私の肩を強く押さえた。唇と唇の隙間から修人の抗うような声が聞こえて、私は上体を起こすと動きを早めた。千鶴ちゃんと呼んで、修人はすぐに諦めたように大きなため息をついた。正確に大きくピストンする私を、最後の一度だけ修人が突き上げた。膣の中が震えた。下半身をずらして性器を抜くと、精液がつっと太ももを伝う。
私は修人の隣に寝転がり、目を閉じたまま二人の呼吸の音だけに耳を澄ませる。

「どうして」
「どうしてって」
「大丈夫なの? 今」
「わかんない」
「千鶴は結婚してんだよ? こんなの‥‥」
「そういうことは」
「…‥」
「ホテルに来る前に言うものじゃない?」
「避妊するセックスとしないセックスは別物だよ」
「外出しは避妊じゃない」
 どうしたの千鶴ちゃん、修人はまだ息をきらしたまま肘をついていて上体を少し持ち上げた。
「何が?」
「おかしくない?」
「おかしくない」
「僕は、そんないい加減な事をしたくて‥‥」
「人妻なら後腐れなくヤレると思ってた?」
「千鶴ちゃん」
「修人くんは、セックスはするけど責任の生じるセックスは嫌、そういうスタンス」
「ちょっと待って、千鶴ちゃん。どうしたの? 急な事でちょっと訳が分からないんだけど」
 ふっと笑って、修人の胸元に手を伸ばす。
「うそ。大丈夫だよ。もうちょっとで生理くるから、絶対に妊娠しない」
 困ったような顔をして、修人は私のおでこに手を滑らせて髪を撫でた。
「気持ちよくて抜けなかったの」

 言いながらまた修人の性器に手を伸ばした。まだ湿っていて、少し冷たかった。柔らかいそれがまた少しずつ熱を帯び始めると、修人は戸惑ったような表情をして、また私を欲情させる。
「僕は、千鶴ちゃんと付き合ってもいいんだ」
「何そんな言い方。付き合ってもいいって」
「いや、何か、変な言い方になっちゃったけど、僕はいつも、付き合いたいと思える人としかセックスしないって事だよ」

「それは前にした時もそうだったってこと?」
「そうだよ。千鶴ちゃんはもう婚約していたから、その気にないって分かったけど」
 私は口を噤み、性器から手を離して仰向けになった。間接照明の部屋はそれでも充分に明るく、不意に自分が裸でいる事に羞恥心を覚える。

「でも千鶴ちゃんと初めてした時、すごく嬉しかった」
「私も」
「でも何か、不思議な体験だった。千鶴ちゃんは婚約してて、もうすぐフランスに行くって決まった状態で初めてホテルに行って。僕はどこかで、千鶴ちゃんがやっぱりフランスに行かないって、結婚しないって、言わないかなって思ってた」
「本気で?」
「本気だよ。意外?」
「意外」
「ただセックスがしたくてセックスする男って、女が思ってるよりも少ないよ。さっき言っていたみたいな、人妻だと後腐れないとか、そういうのって女の人の思い込みだと思う。基本的に男は、セックスする女と後腐れたいと思っているのじゃないかな」
「でも修人くんは結婚するとか、フランス行くなとかわ言わなかった」
「千鶴ちゃんの邪魔にはなりたくない」
「修人くんは、呆れるほど受動的だね」
「そうだね。僕は千鶴ちゃんの望みのままに動いた」
「千鶴ちゃんが望まなければ来なかった」
「修人くんは、自分で人生を作り上げていこうとか、未来を決定していこうとか、思わないの?」
「異性関係に於いては、相手の気持ちを優先してきたよ。好きな子で、こっちに好意を持ってくれてる子にはきちんとアクションを起こしたけど、去っていく者は追わなかった。今の時代、追えばストーカー扱いされるし、自分にまったく興味のない女の子に言い寄ってもストーカー扱いされるしね」

 引く手あまただったんだろうと思いながら修人を見つめる。私はどこかで、修人とエリナを重ね合わせて見ている部分がある事に気づく。周囲の人に対して無頓着。自分が恵まれている事に無自覚。異性から言い寄られる事を当然と思っている。そういう女であるエリナに対しては怒りに近いものを感じるのに、そういう男である修人に対しては呆れるばかりなのが不思議だった。

そう自分も修人に言い寄る女の一人なのだから、当たり前なんだろうか。
「私の妹ね、ちょっと変わっているの」
「千鶴ちゃんよりも?」
「まあ、私は模範的なアラサーの一般女性だからね。見た目も、同じ両親から生まれたとは思えないような、両親とも私とも顔立ちが全然違って、母親が浮気したんじゃないかって、父親が疑ったくらい」
「本当に? 漫画みたいな話だな。お父さんの子だったんだよね?」
「多分ね。父親の二の腕と、妹の二の腕のぴったり同じ所に黒子があるの。それを見てお父さんも納得したみたい。でも何か、人種が違うみたいな違和感があるの。家族の中にいても、学校にいても、どこにいてもちょっと浮いてて。

例えば、在日歴の長い外国人って、日本語も喋れて、日本の習慣も知っているけど、やっぱりちょっとズレてる所あるじゃない? 文化が違うみたいな。そういう感じの違和感。でも本人はそのズレが分かってなくて、いつも素のままだから周りには好かれてたんだけど」

「日本社会ではのけ者にされそうだけどね。そういう子って」
「今思えばそうだね。でも、本当にいつも友達に囲まれてて、両親にも愛されてたの。中高で夜遊びが激しくなって、普通そういう感じになると反抗期っていか、親と対立するでしょ? でもエリナは違って、ママもパパも大好きだけどしたい事がたくさんあるの、って言うから、親も何かいつの間にか許しちゃってて」

「千鶴ちゃんの妹とは思えないな」
「でもそんなことをしたらあっという間に出来ちゃって結婚」
「十代で?」
「そう。高校卒業するしかないくらいかな。親は猛反対したんだけど、本人はあっけからんとして、中絶なんて絶対やだ何言ってんの? みたいな感じで。あっさり中退結婚出産。その結婚相手が結構なんていうか、怪しい感じの人で、随分年上だったし、経歴も謎で、皆心配していたけど」
「どういうこと? 怪しい年上の謎な人?」
「うーん。何ていうか、海外で日系企業のプロデューサーとかコンサルタントをしているらしくて、具体的にどんな事をしているのかさっぱり分からないんだけど、ずっとニューヨークで仕事をしてて、日本に一時帰国してる時に知り合ったみたいで、結婚後もアメリカメインで飛び回ってみたいなんだ。色々、その、大丈夫なの?」
「離婚の時にマンションももらったみたいだし、養育費もちゃんとくれてるみたい。元旦那と子供もちょくちょく会ってるって言っていたかな」

「そっか。円満離婚か」
「未だに離婚の原因が何だったのか分からないんだけどね。すぐに新しい彼氏作って同棲始めてたから、妹の浮気かなって思ったけど」
「で、今は放射能避難」
「私が思うに、被曝なんて有り得ない、みたいな感じでちゃっちゃっと逃げたんじゃないかな」
 軽く微笑んで、そうかなと修人は呟いた。
「千鶴ちゃんにはあんまりリアリティないかもしれないけど、あの時、東北関東に漂ってた空気は、ものすごく殺伐としたものだったよ。震災直後はずっとぐらぐら揺れていたし、東京でも買い占めがあったり、流通も滞って、広告業界も製紙工場が被害を受けて紙が無い何が無いって仕事のスケージュールもずれ込みまくったし、多分皆がすごく不安だった。

あんな東京を、僕は生まれて初めて見たよ。余震が続く中で原発が次々と爆発して、世界各国が自国民に向けて避難勧告を出したり渡航自粛を呼び掛けたりして、水道水からも食べ物からも放射性物質が検出されて、日本がこれからどうなるのか、誰にも分からなかった。多分妹さんも、気が気じゃなかったんじゃないかな。

子供がいる人は、僕もそうだったけど、かなり多くの人が避難を考えたと思うよ。まあ、パリス・ヒルトンだった爆発ぅ? って感じでチャーター機飛ばして逃げそうだけど、妹さんはもっと、必死だったんじゃないかな」

「あの子は、パリス・ヒルトンみたいなものよ。逃げられない人の気持ちとか、家を流された人の気持ちとかは考えない。自分の事しか頭にない」
「逃げられない人の気持ちを考える必要があるかな?」
「別に倫理的な話じゃなくて、何の被害も被っていない東京在住者が逃げる必要があったのかって、思わなくはないってこと」

「妻子を半強制移住させた僕に言うね。全ての人が自分に残された選択肢から道を選ぶしかないんだよ。あの人はこうしたこの人はこうしたって、他人のことを気にしてる人は、他人の悪口を言ったり足を引っ張るばっかりで、非生産的だよ」

「例えばね、小学校でラジオ体操をやりますっていう時、私は体操着を持って行くべきかどうか悩んで、体操が出来るような楽な私服を着て、体操着をランドセルに詰め込んで行くの。それで小学校に着いて、皆が体操着を持って来たらランドセルから出す。皆が持って来ていなかったら、ランドセルの中に隠しておく。何で体操着を持って来たの? って笑われたくないから。

でも妹はね、体操着は要らない、って言い張るの。持って行かないの最初から。皆が体操着を持って来てても、一人で私服でラジオ体操するの。何で持って来なかったの? って聞かれたら、このお洋服可愛いでしょ? って笑顔で答えるの。そうすると、皆は可愛いね、って褒めるの。そうやって、自分の思う通りに生きるてる妹が私は羨ましかった。人の事が目に入らなくて、自分の遣りたい事と遣りたくない事しか頭にない彼女が。例えば私にとって、皆が体操着を着ているのに、自分だけが忘れたという状況は地獄なの。とっても恥ずかしい事かの。

でも彼女にとってはそんな事どうでもいい事なの。人と違う事に何の躊躇もないの。多分、人の事が見えていないの。もしかしたら、それは彼女が生まれながらにして、家族の中にいても学校の中にいても浮いてしまう存在であったからこそ作られた精神なのかもしれないけど」

「分からないよ。彼女は、千鶴ちゃんや僕には耐えきれないほどの不安の中で、体操着は持って行かない、って宣言したのかもしれない」

 修人は笑って、家族では分からない所ってあるもんだよ。と続けた。確かに、私はエリナの事を直視した事がないような気がする。自分の生きたいように生きている子の事を考える余裕など、私にはなかった。十代の頃、思ったことがあった。もしエリナがいなければ、私がその座に座っていたのではないだろうかと。

あっけらかんと奔放に生き、周囲から与えられる恩恵を当然と思って受け入れ続けるあの幸福な女の子に。どこかで私は、自分がやたらと考える人間になったのには、エリナの存在が起因しているように感じてきた。笑顔担当のエリナ。思慮担当の私。というように、棲み分けをしてきたように思う。

私は、勉強を重ね、優秀な成績を取り、どこに出されても恥ずかしくない礼儀と知識、空気を読み、どこからも浮かず、人当たり良く振る舞える技術を身につけて、自分の決断に自信を持てない自分を克服してきた。経験を重ね、たくさんの思考を重ね、化粧やファッションにも惜しみなく努力を費やし、ようやく体操着持って行くかどうかの決断に自信を持つことが出来た。

エリナのように、生まれながらにしてあらゆるものから解放されている人間には想像もつかないであろう苦労をしてきた。エリナが妊娠した時、彼女がこれから笑顔だけを担当出来なくなるであろう事を予想し、ざまみろという気持ちと、あの完璧なキャラクターが壊れる事への悲しみを同時に感じた。

私は自分の妹を蔑む気持ちと、尊ぶ気持ちとを同時に抱えていて、それは神の存在を信じる気持ちと信じない気持ちとに体を引き裂かれるような思いをする人間のそれや、自分自身の中に超越的な力を認めたい気持ちとそれと相反する気持ちの間で引き裂かれる人間のそれと、ほぼ変わりないような苦悩だったのではないかと思う。

現実に、私と妹は仲が良かった。憎んだり、恨んだりした覚えはない。妹の存在が私の在り方や人生にさほど関わっているとは思わない。ただ、今敢えて修人に妹の話をすると、何故かその存在が唐突に大きくなっていくのを感じる。でもどこかで、私の話は捏造された話のように聞こえた。

出生や過去に過剰に意味づけした、古めかしい昼ドラのように感じられた。私が今の私である事に、妹の存在などは本当は一ミリも関わっていないような気もする。人は、ストーリーを作ってしまう生き物だ。そして、その思い込みを糧に、憎しみや、愛情までをもねつ造していく生き物だ。

 でも鮮明に覚えているのだ。母親が妹の手を引いて公園にお迎えに来た時、ピアノ教室にお迎えに来た時、皆がさっと自分から離れて妹を取り囲み、いい子ね千鶴ちゃん、私あんな妹が欲しかった、とほとんどの女の子たちが同じ感想を口にするのを聞きながら、激しい選民意識と胸に穴が空いたかのような虚しさが同居するあの何とも言えない感情を、私は生々しく覚えている。ただその羨望の眼差しは、年を経るにつれ同情へと変わっていき、私の選民意識もまた苛立ちへと変化した。

 冷蔵庫の中からワインを取り出して、二つのグラスに注ぐ。修人の煙草をもう一本だけと思いながら取り出して火をつける。つっと膣から垂れた精液が太ももを濡らした。シャワー浴びようかなと思いながら振り返ると、修人は目を閉じて、眠っているようだった。修人くん。声をかけても、布団にくるまった修人は目を開けない。ティシュで股を拭い。パンツを穿いてソファに腰掛ける。Wi-fiがあるのを思い出して、携帯を取り出す。シンガポールで契約した携帯のため、wi-fiのある場所でしか使えず。今朝送受信をしたきりになっていた。ホテルの回線に繋ぐと、メールやメッセージがどっと受信された。

 SNSのウォールで帰国を宣言したせいで、日本の友達や元同僚たちからのメールが大量に入っている。従姉妹や、ちょっと遠めの親戚まで、皆がお帰り~!! と歓迎の言葉を書き連ねている。既に決まっている予定もあり、馴染みの美容院やエステサロンの予約や、日本に居る間にしておきたい買い物がたくさんあって、二週間の一時帰国にほとんど余裕はなさそうだった。

友達らのメールに短い返信をどんどん送りながら、笑顔が凍り付いていくのが分かる。何か、私がずっと耐えてきたものの一つの要素だけでも、消えてなくなるような気がしていた。
でも私は、帰国三日目に修人と飲み、これからの予定をテトリスのように組み込みながら、きっと私は何も変わらず、私の抱えるものも何も変わらず、シンガポールに戻って行くのだろうと気づき始めていた。

シンガポールにはきっと五年から六年駐在して、その後帰国か、或いは別の国への駐在の辞令が出されるだろう。私は延々語学を勉強し、買い物や外食を楽しみ、たまに料理教室に行ったりお菓子を焼いたりして、優しい旦那と時々喧嘩をしたりしながらも仲良く暮して行く。

 頭に浮かぶ未来が、炙られるようにじわじわと黒く滲んでいく。私はローテーブルに置かれた修人の携帯に目を留めて手に取った。ロックはされておらず、人差し指を滑らせるとこっちが戸惑うほど簡単にデスクトップが表示され、そうか彼は今本当に一人で生きているのだと改めて思う。写真のアイコンに触れ、アルバムを開く。仕事のものと思しきデザインの画像が大半で、スクロールしていくとグラフや表の画像が目に入った。

拡大して見ると福島第一原発事故当時の渋谷区の放射能物質の暫定規制値と飛散量であったり、グレイとシーベルトとレントゲンの換算表であったり、日本の食品の放射能物質の暫定規制値と各国のものとを比べた表だったりして、放射能放射能言っていたけど、本当に気にしているんだなと実感して可笑しくなる。

また上の方にスクロールして、子供の写真を見つけた。ふわふわした髪の女の子が、にこにこ笑いかけている。数枚スライドすると、奥さんと子供のツーショットが目に入った。二人はとても幸せそうで、何の悩みもなさそうに見える。写真はいつも、人を何割増しかで幸福そうに見せる。

彼らは離婚したんだ。私は子供の顔をじっと見つめる。可愛い女の子だった。画面をタップして拡大する。ふんわりとした頬の感触すら蘇るほど、鮮明に子供の顔が映し出される。
「遥っていうんだ」
 いつの間にかベッドで半身を起こしていた修人を振り返ると、修人は驚きの表情を浮かべた。見られてしまった事に動揺しながら、私は涙を拭う。
「どうしたの」
 言いようのない衝動が、爆発したように心臓から全身へ駆け巡っていく。手先足先まで震えがきそうだった。
「千鶴ちゃん?」
 パンツ一枚の姿でベットから降りようとする修人に、来ないでと呟いた。両手で包むように持った修人の携帯の中から、修人の子供の目が覗く。私はまだ少しも、現実を受け入れられていないのだと気づいた。ここまで耐えて、まだ一歩も踏みだせていないのだと知ると、もう生きていくことなど不可能な気がした。

「二年くらい前に、美樹ちゃんから聞いたんだ。千鶴ちゃんが子供産んだって。又聞きだったし、千鶴ちゃんから何の連絡もなかったし、もしかして千鶴ちゃん、子供いるの?」

 子供がいたの。そう言うと、気持ちが落ち着いた。修人はベッドに座ったままわたしを見つめて、軽く口を開けたまま思案するような表情を浮かべた。
「…‥それって」
「違う。夫の子供」
「…‥どうして?」
「脳症」
「シンガポールに置いて来た骨壺を思う。ほんの小さな壺に納まった我が子を思う。今回の帰国に際してそろそろ納骨しないかと義母に言われたのを撥ね付け、まだ手元に置いておきますと言った。シンガポールに残された小さな骨を思うと、内蔵が締め付けられたように痛んだ。
「千鶴ちゃん」
「修人くん、世界が変わったと思ったって言ったよね? 震災で、世界が変わったと思ったって」
 黙ったままぼんやりと私を見つめる修人をじっと見つめ返す。手の中の携帯に映る女の子に呼ばれたような気がして画面を見下ろす。顔をくしゃくしゃにして笑っている女の子がじっとわたしを見つめていた。
「私も世界が変わったと思ったの」

 妊娠検査薬にうっすら反応したブルーのラインを見た瞬間、やってしまったと思った。ここまで私は、うまく、優秀に立ち回って来た。学校でいい成績をとり、生徒会長もやり、習い事のピアノとバレエもプロを目指すほどの才能はなかったにせよ、やっていましたと自信を持って言える程度には真面目に練習した。

反抗期もなければ悪い友達と遊ぶこともなく、何の障害もなく高校、大学に入学し、さしたる苦労もせずに一流ブランドの日本支社に採用され、広報に配属された。仕事とひとり暮らしを始めてからも、私は手堅い男と付き合い、誠二に辿り着いた。順調な交際を経て婚約をし、我ながら順風満帆で何の山も谷もない、平穏で平坦な、満点に近い人生を送ってきた。

なのに、結婚はできちゃった結婚かとため息が洩れた。婚約してから、彼の避妊がおざなりになっているのは感じていたけれど、毎回外に出してはいたのに。

 同時に、渡仏にまだ迷いがあった私を確実に連れて行くために、誠二が私に気づかれないように中に出していたのではないかという疑心まで抱いた。いつも優しく紳士的な彼が途端に邪悪なものに感じられて、私は慌てて妄想を打ち消した。

でもしばらく、私は妊娠の事実を誰にも打ち明けなかった。誰かに打ち明けたら、何かが終わってしまう気がした。それは独身である自分や、自由な自分、或いはまだ結婚しないという選択肢、日本に居続けるという選択肢を持っている自分、だったのかもしれない。

 その頃修人とはまだ数回しか会った事がなく、それでも私は自分が修人に惹かれているのに気づいていた。最初に飲んだ時、セッティングをした美樹が千鶴は今婚約してるんだよとあっけからんと発表した時、何で言うのかと強烈に苛立った。合コンではなかったけれど何となく居心地が悪く、さっさと帰ろうと思ってた私に、修人は気さくに話しかけてきた。

私たちはもしかしたら付き合う事になるかもしれない。一瞬そう思った。でも、二年の付き合いを経て婚約した誠二を捨て、婚約指輪を返して、今から別の男と付き合う事を、現実的には考えられなかった。私の未来は、周囲の人間や、自分自身、自分の過去、それぞれが無言の圧力をかけて仮押さえされたように、もう既に決まりつつある事を自分自身がよく分かっていた。

私は、婚約を破談にはしない。修人の事は好きになろうがなるまいが、誠二と結婚する。悲しいほど、私は自分の性質と自分の人生を冷静に受け入れていた。でも妊娠が発覚した時、頭に残ったのは修人の事だった。こまま結婚して、子供を産んで、海外生活を送りながら、夫婦助け合い仲睦まじく。自分を待ち受けている未来が耐えがたかった。嫌だ嫌だでどうにかなるものではない。私はよく分かっていた。

 検査薬、説明書、箱、袋、をまとめてゴミ箱に入れながら、私は手帳に書かれた修人や美樹たちの飲み会の日程を頭に浮かべた。今週予定に入っている飲み会を終えたら、きちんと病院で検査をして、誠二に妊娠の事を伝え、正式な結婚の日程や渡仏に関するあれこれを詰めていこうと思いながら、私は検査薬を見なかった事にした。

 そしてその飲み会の日に、私は修人と寝た。自分から強く誘ったわけでもなく、修人が強く誘ったわけでもなく、ただお互いのしたいという気持ちが直結してそのままホテルに向かった。穏やかな川のように綺麗な流れで私たちはホテルに流れ着いて、何度かセックスをした。誠二と付き合い始めて以来他の人とセックスするは初めてで、もっと言えば付き合っている人がいる時に他の男とセックスしたのも初めてだった。

修人と寝ている間、私は幸福感に包まれていた。修人くんと私がどうにかなる未来はないのだろうか。先に眠ってしまった修人を見つめながら、私はその言葉を頭に反芻させた。でも修人が目覚めてにっこり笑い、抱きしめられた瞬間にその言葉は吹き飛び、私は誠二の妻になる未来を受け入れた。

「覚えているよ。二回した」
「二回だった?」
 笑いながら言うと、二回だよと修人は穏やかな表情で呟いた。
「さすがに三回したら嫌われるかなって思って、二回で止めたんだ」
「そんな事で嫌いにならないよ」
「夫が絶倫過ぎて辛いっていう人の話を聞いたことがあって」
「レスの夫婦が多いから、なかなか相談出来なそうだね」
 上半身裸のまま隣に座った修人に、さっき注いだワインを差し出す。この修人の体を、私はあれから何度思い出しただろう。彼の腕に触れると、緊張が解けていくのが分かった。
「フランスでの生活は、最初の半年くらいものすごく大変だったの」
「フランス語、難しいっていうもんな」
「本当に本当に、誰も知り合いがいなくて、英語も通じなくて、一からフランス語勉強して、何も話せないのにフランスで出産しなきゃいけなくて、つわりもひどかったし、お腹は重たいし、和食作るの大変だし、どこ行ってもステーキとかローストばっかだし」
「肉食なんだ」
「うん。固い赤身の肉ばっかり、とにかくね、旦那もまだフランス語があんまり話せなくて、検診も毎回病院常駐の通訳が付き添ってくれたんだけど、見ず知らずの通訳の人に主に下半身の恥ずかしい事を話さなきゃいけない事とか、旦那の駐在始まったばっかりでフランス語の勉強とか向こうでの仕事に馴染むために忙しくしていた事とか、色んなことが重なって、ホームシックもあって、夕飯の買い物にも行きたくなくて毎日部屋に閉じこもって泣いてるような時もあった」

「前の奥さんの妊娠生活見てたら分かるよ。慣れない土地で出産なんて、ほんとすごいと思うよ」
「新婚だったし、お義母さんも来てくれるっていうし、フランスで出産を決めたけど、安易だったって途中で後悔したよ。八か月くらいの時、旦那がEU内での出張が続いて、お腹が大きいのに一人でいる時間が長すぎて辛くて、もう日本に帰ろうって航空券取って荷造りまでしたの。でも危ないから飛行機に乗るのは絶対に駄目だって旦那が言い張って。泣く泣く諦めて」
「千鶴ちゃんも生身の人間なんだな」
「あんなに泣き続けた日々はなかったよ。妊娠のせいでホルモンが狂ってた所に、新しい環境にいって、言葉も通じずだったから、当然と言えば当然かもしれないけど。でもね、そうやって泣いている時、修人くんの事を考えてたの。修人くんとのセックスした時の記憶だけが、妊娠中私の支えになってたの。それは、夫に対する罪悪感があったから耐えられたって事じゃなくて、もっと何て言うか、人生の中で何か、強烈な感動を一度でも体験した人って、その時の記憶だけで生きていけるんじゃないかって気がするの。

例えばグランドキャニオンとか、マチュピチュとかに行ってものすごい景色を見たとか、そういう瞬間的な感動。そういう一瞬の記憶がその後の人生の糧になる事ってあると思うの。それで、私にとってそれは、修人くんとのセックスの記憶だった」

 修人は、何と言うべきか思案しているようだった。私は少し修人から離れ、僅かに触れていた腕を離した。
「フランスに行く前に修人くんとしてなかったら、私はきっとフランスでの妊娠生活に堪えられなかった。記憶に救われるって、不思議な体験だった」

「僕は日本で相変わらずの生活を送ってたから、あんまり千鶴ちゃんの事は思い出さなかったけど、どこかで、一つの神話みたいなものとして自分の中に保存してたと思う」
「私が渡仏して割と、すぐだったよね? 結婚したの」
「二〇〇九年の、春だっけ? フランス行ったの」
「そうだね。四月だった」
「じゃあ、その半年後くらいかな。千鶴ちゃんがフランスに行ってしばらくして知り合ったんだけど、最初から何もかもしっくりきてて、例えば取り合った頃お互いに誰か相手がいたりとか、仕事が忙しかったりとか、そういうタイミングの悪い時ってあるじゃない? 香奈とはそれが、びっくりするくらいぴったり合ったんだ。障害が何もなさ過ぎて、付き合い始めて二ヶ月くらいで結婚しようって話になって、あっという間に結婚」

「私とはタイミングが悪すぎたね」
「旦那さんとは、うまくやってたの?」
「うん。妊娠中はひどい精神状態だったけど、産後はすっかり元気になって、旦那とも仲良くやってた。フランス語もどんどん話せるようになって、育児が一段落したら語学学校行こうと思いながら、家庭教師と独学で基礎を詰め込んで」
「子供は、女の子?」
「男の子だった」
「その、脳症って、熱を出したりしてってこと?」
 修人の言葉は、優しいようにも残酷なようにも聞こえた。でも、そこには答えないという選択肢を選ばせない、強い意志があるように感じた。当然私は子供の死について語り慣れてはおらず、語ろうとすれば涙が出るし、取り乱す。竹箒でなぞられるように体中がざわついて、痛みと不快感がこみ上げてきた。

 十ヶ月からつたいす歩きをするようになった優斗は、一歳になる前に一人歩きを始めた、寝返りも、お座りも、はいはいも早かった優斗を見て、きっと運動神経のいい子になるねと私たちはよく話していた。サッカーやらせて、中学くらいになったら一緒にフットサルやりたいな、と誠二はよく話していた。誠二は、大学時代のサークルメンバーと未だにフットサルをやりに行くほど、サッカーとフットサルが好きだった。

フランスに暮らし始めてからはサッカー観戦に何度も連れ出された。女の子が欲しかった私は、次は絶対に女の子がいいと思いながら、柔らかい布製のサッカーボールや赤ちゃんサイズのユニホームをお土産に買って来る誠二を若干の羨みの籠った目で見つめていた。そんな羨みの視線も、すぐに微笑みに変わった。

優斗が生まれてからずっと、私たちの家は温かい空気に包まれていた。優斗の笑顔は私たちを幸せにした。あまり泣かず、穏やかな子供だったけれど、生まれつき体は弱く、生後三ヶ月から熱を出す事はしょっちゅうで、肌が弱くかぶれやただれに悩まされた。男の子には肌が弱い子はよく熱を出す子も多いから心配し過ぎないで。と医者には言われたけど、離乳食を始めてからは、ビオや玄米にこだわったり、甘くないお菓子なんかも手作りするようになった。砂糖や油を徹底的に排除し、アレルゲンになるものは使わず、危険な添加物や食材についての情報取集も怠らなかった。

 千鶴は完璧主義過ぎるんだよ、ちょっとは手抜いたっていいんだから、誠二はよくそう言っていた。毎日綺麗に掃除された部屋、残さず洗濯される衣類、拭い掃除から除菌までされたキッチン、毎食クロスからナプキンまできっちりセットされるテーブル、毎朝起床と共にリメイクされるベッド、確かに優斗が生まれてからの私は、それまでの私に輪をかけて完璧主義だった。でも何故そこまで完璧主義でいられたのかと言えば、単にそれが楽しかったからだった。

映画や雑誌の中で見るパリとは大違いな、大量の犬の糞やゴミが落ちている街並みにも、「分からないわを連呼するフランス人にも、連絡が滞るすべての機関にも、赤身ばかりで脂身のあるカルビとか霜降りとかいうものと無縁の肉生活にもうんざりしきだったけど、環境に適応してからはもう気にならなかった。様々な嫌な事があると同時に、楽しい事もたくさんあった。

花屋では綺麗な花が安く売っているし、どこのブーランジュリーで買ってもバケットが美味しいし、パティスリーやショコラティエでその日は晩のデザートを買いそろえるのが日課で、週に二回優斗を抱っこ紐に入れ、すぐ近くのマルシェに行って野菜から魚から肉まで、車輪のついた買い物かごで買い物をして、時々子連れで行ける料理教室やヨガに通ったりもした。

日本食よりもフランス特有の物を食べたいという誠二のために、フランスの家庭料理もかなり研究した。フランス語の上達と共に、同じアパートの住人やカフェのギャルソン、マルシェやスーパーの店員と世間話を出来るようになって、勉強にもどんどんやりがいを感じるようになっていった。ある日、半休をとった誠二と一緒にマルシェに行った時、立ち寄る全ての店で顔見知りの人と話し込む私に、誠二は驚いていた。

 家事に育児、勉強、私はどれも楽しくて仕方なかった。もちろん余裕はなかったけれど、家を完璧に保ち、優斗と楽しく遊び、優斗の昼寝の時間には優斗の手袋やマフラーを編んだりして、優斗が夜寝てしまったら夫と二人でバルコンに出てワインやビールを飲む。そういう充実した毎日に、私は満足していた。何の疑問も不安もなく、ただひたすら、幸せに生きていた。

 その日、私はキッチンで離乳食を作っていて、優斗はリビングの窓際で積み木を並べて遊んでいた。私は買ったばかりのエプロンをつけて時折カウンターから優斗を覗きつつ、鼻歌を歌っていたりしもしていたかもしれない。優斗が好きなトマトジュースに、玄米のリゾット。トマトの湯剥きが終わり、種を取り除いて刻んだ後、傷が増えてきたそろそろ新しいまな板を買おうかと思いながら、また優斗を覗き込んだ。暖かな日差しを浴び、優斗は積み木を積み上げていた。白を基調としたリビングを見渡し、ダニの原因になるかもと絨毯を取り払って良かったと思う。

前よりもずっとすっきりとして見える。カウンターからの見晴らしに満足して、そろそろ玄米が煮える頃かなとコンロに足を向けた時。がしゃんと積み木が崩れる音がして私は振り返った。次の瞬間、優斗の背中がぐらりと傾いた。優斗? と声を上げた瞬間、ごんと鈍い音を立てて優斗はフローリングの床に倒れ込んだ。

短い悲鳴を上げてベビーゲートを跨ぎ、リビングに出て優斗を見て、凍り付いた、全身をがたがたと震わせ、薄く開いた目から白眼しか覗いていなかった。名前を呼んで気道を確保しながら、救急車の番号を思い出そうとするのに思い出せない。携帯に入れていたはず。あと、救急車お願いしますのフランス語も散々繰り返し練習して頭に入れておいたはずなのに、頭が真っ白になっていた。

優斗、優斗、と呼ぶ自分の声が遠くから聞こえて、私は自分の体もまた震え始めているのに気づく。痙攣に驚く事はない、数分程度の痙攣だったら救急車を呼ぶ必要はない。熱性痙攣について調べた時に、確かそう書いてあったはずだ。でももう三分くらい経ったんじゃないだろうか。痙攣が止まらず、薄く開いた口から次から次へと泡が漏れ始めたのを見て、恐怖が頂点に達した。

 助けて、助けて、優斗を抱えてアパートから飛び出した私は外に出るや否や、フランス語で叫んでいた。立ち止まった老夫婦が泣いている私にどうしたのだと聞くけれど、私はフランス語で痙攣の説明が出来ず、息子が死んでしまう! と叫んだ。誰が呼んでくれたのかは分からなかったけれど、とにかく救急車はすぐ到着した。痙攣は治まらなかった。私の息子は、何十分も痙攣し続けていた。大丈夫なのか、大丈夫なのか? 私の問いかけに、救急隊員はとにかく落ち着いてと何度も言った。はと思いついて携帯で誠二に電話を掛けると、仕事中なのか留守電に切り替わった。

病院について看護婦に一連の流れを説明し、優斗が集中治療室に入ってしまうと、あとはひたすら、待つことしか出来なかった。昨日は全く熱は無かったはずだ。今朝はどうだったのだろう。今朝優斗に触れた時の感触が蘇らない事が不思議だった。毎日、毎回、優斗の体調変化がないか、私は無意識的に、注意深く観察していたはずだ。私が離乳食を作っていたあの時、優斗の体に一体何が起こっていたのだろう。小さな背中を私に向けて、積み木遊びをしている優斗の体の中に。

 ようやく誠二から電話がかかって来たのは、救急車に乗ってから一時間後だった。どうして電話に出ないのよ! 泣きながらいう私に誠二は面食らって、息が詰まって切れ切れに優斗が痙攣で倒れたと伝えるとすぐ行くと言って彼は電話を切った。ひどく安堵していた。誠二が来てくれる。それだけで、私は体から力が抜けて立っている事さえ出来なくなった。

 誠二が来てすぐに、私は少しずつもやもやと思い出されてきた状況を所々誠二に訳してもらって看護師に伝えた。突然座った状態からばたんと横に倒れ、リビングに出てみた時には痙攣を起こしていて、数分の内に泡を吹き始めた事。倒れた時、彼は積み木で遊んでいて、窓際にいた事、日差しに当たっていて、暑かったのかもしれない事。排便も排尿も問題なかった。ここ三週間は何の薬も飲ませていない。

ほとんど無言で頷きながらカルテに書き留めるだけの看護師に「いつになったら息子に会えるの? いつになったら医者と話せるの!」半ばヒステリックに言うと、治療がいつ終わるかは私たちには分かりませんと看護師は気の毒そうに答えた。

誠二に促されてベンチに腰掛け、ぼんやりと床を見つめながら、今話をしたフランス語の中で自分が動詞の活用を一つ、冠詞を二つ、形容詞の位置を一ヶ所間違えていた事に気が付いた。

 今優斗が最も辛い時に優斗に触れられない事に、私は酷いストレスを感じていた。あの子は私が産んだ子供なのに。少しずつ冷静さを取り戻していくと同時に、少しずつ思考があちこち飛んでいくのを感じていた。優斗が治療室から出てきたのは看護師に話してすぐで、痙攣は治まっていたものの意識は無く、ベッドに寝かされていて、あっという間に別の場所に連れていかれた。

医者と誠二が話しているのを聞きながら、頻繫に知らない単語が出てくる事に苛立った。誠二もさすがに医学用語はあまり理解出来ないらしく、通訳に電話してもいいかと聞くと、今は忙しいので後に話しますと言って彼は去って行った。

「取り敢えず、検査とは言ってたけど、どういう検査なのかが聞き取れなかった」
「通訳は?」
「こっちに来る途中に電話したんだけど、連絡がつかないんだよ。会社に電話して、代理の人を頼めないか聞いてみる。いっその事、エリックに来てもらってもいいかもしれない。とにかく電話するよ」
「CTとか、MRIとかっていうこと?」
「分からないよ」
「脳に問題が出るってこと? 後遺症が残るっていうこと?」
「分からないって!」

 誠二は顔を強ばらせたまま耳に携帯をあてて救急の入り口に向かって行った。救急のフロアなのに、周りの人は落ち着いている。私はどこかの異世界に入り込んでしまったように、ただ呆然と目の前を見つめる事しか出来なかった。不思議の国のアリス、突然その冒頭のシーンが頭に浮かんだ。アリス姉さんの読む本に退屈そうな顔をしているシーンだ。

子供の頃、私はあの絵本が好きだった。優斗がもう少し大きくなったら、読んであげよう。不意に、泣きすぎたせいか顔がめちゃくちゃになった自分が壁にはめ込められた鏡に映り、そのめちゃくちゃさに絶望する。このめちゃくちゃな顔を、もう元に戻せる気がしなかった。

「エリックがすぐに来てくれるって。通訳もとりあえず留守電に入れて置いたし、会社に連絡がつかないから他の通訳を派遣してくれるとも言っておいた」

 例えば、自分が長年住んできた家が全焼したり、大事に育て来た金魚が大量に泳ぐ池に間違ってペンキを一缶ぶちまけてしまったり、そういう時の気持ちに近いのかもしれない。私は、どうやってももう元には戻らないような酷い顔になってしまった自分の顔を見つめてそう思った。

 誠二の会社の同僚であるエリックが一番に到着して、看護師に交渉し始めた。担当医は治療に当たっているからちょっと待ってくれと言う看護師にエリックは、彼らは子供の病状も知らないんだ、何の検査をやっているのかだけでも調べてくれ! と怒鳴りつけた。日本人の妻を持つ彼は、優斗が生まれた時にも一番にお見舞いに来てくれた。図々しい所があって、苦手な人だと思っていたけど、何度か自宅での食事会に行き来する度、彼ら夫婦が優斗を歓迎し奪い合うようにして抱っこする様子を目の当たりにして、私は、彼らに対する警戒心を解いていた。

たっぷりした体で髪の薄いエリックは、一刻も早く説明を! と大声で看護師に捨て台詞を吐き受付のカウンターを手のひらで叩きつけると、私たちの所にやってきて大丈夫だと頷いた。医者が来る前に、エリックの奥さんの夏美さんが顔面蒼白でやってきた。僕だけで通訳するよりも彼女と一緒の方がいいからと言うエリックに、どうなっているの優斗くんはどこなのと夏美さんが詰め寄る。

さっき医者を呼んだからとたしなめるエリックを、私はぼんやりと見つめていた。二人に対して感謝の気持ちは激しくあるのに、どうしても頭が廻らずに目の前で起こっている事が手の触れられる現実に起こる事と思えなかった。

 エリックは、医師がやって来ると話を手帳に書き留めつつ、夏美さんにあれは何て言うんだこれは何て言うんだと聞きながら通訳をしてくれた。優斗は、ウイルス由来による急性脳症という可能性が濃厚で、運ばれた時には三十七度後半だった熱が今三十九度まで上がり、熱を下げるためにあらゆる薬を点滴しているが全く下がらない、痙攣は無害な熱性痙攣ではない、CTの結果脳に腫れが見られ、炎症を起こしている、エリックと夏美さんの言葉を聞きながら現実感がさらに薄れていくのが分かった。涙を堪えながら訳している夏美さんの顔を見つめ、私はまだ訳が分からず目を開いたまま閉じる事が出来ない。

「千鶴さん」
「夏美さんが言う前に分かっていた。医者の言葉はきちんと聞き取れた。
「二、三日が山だって」

 死の可能性について直接的に話していた医者の言葉を、柔らかく伝え直してくれた夏美さんに感謝しながらも、私はよりはっきりした言葉を必要としていた。
「私の息子は何パーセントの確率で死ぬんですか?」

 夏美さんと誠二が私を咎めるような目で見たけれど、エリックは私の言葉の足らなかったらしい部分を補足した。返事は私には聞き取れなかった。
「ソワッサントプールン」

 六十%。数字で聞いた途端に、私の中には力が漲った。フランスに来てからしばらくの間、私はあらゆることが分からない状態で生きてきた。それこそ、今自分が食べているものが何という食べ物なのか分からない状態で、私は生きて来た。現実に生きている気がしないほど、言葉がわからないというのは訳の分からない事だった。

でも今は息子は六十%の確率で死ぬという医者の口から出た言葉を聞き取った私は、ようやく今の自分の状態を現実として受け入れる事が出来た。私は、この言葉を聞き取るために、フランス語を勉強してきたのだろうとすら思った。私は医者の絶望的な一言に救われたのだ。

今朝までママママと私につきまとって、なかなかご飯を作らせてくれなかったあの子の脳は壊れ始め、生死を彷徨っている。もう全てを受け入れるしか道は無かった。医者に全てを一任する。彼の生命力を信じる。祈る。それしかなかった。六十%という言葉を聞いて動揺したのは誠二の方だった。私とバトンタッチしたようにかれはた唐突に呆然とし、彼の現実が霞んで行くのが手に取るように分かった。

 次の日の早朝五時五六分、私の息子は死んだ。救急車から降りて集中治療室に運ばれる優斗の手を握ったのが、生きている優斗に触れた最後の時だった。

 そんなに突然。修人は呟いて、また何か言葉を発しようとして、諦めたように口をつぐんだ。
「朝元気だった子が、夕方に倒れて、そのまま死んじゃう事が多いだって。それにしても、うちの子は全く予兆がなかったの。鼻水も出なければ、咳も出なかった。熱も、運ばれた時に七度後半あったと言ってたけど、朝にはきっと平熱か、あっても微熱程度だったと思う。私には、全く予想できなかった」

 予想出来なかった。予防できなかった。私精一杯育児をしていた、精一杯息子の健康に気を付けて生活していた。ああすればよかったと思う事は何一つなかった。でもその事実こそが、私に無力感を与えていた。何の落ち度も過失もなくても、我が子が一瞬で死ぬことがある。交通事故で子供を亡くしてしまった人や、誤った薬を選択して子供が死んでしまった人、そういう人は、自分の過ちや注意不足を呪い、罪を感じながら生きていくだろう。

でも私は何の落ち度もなかった。私は、完璧だった。息子か死んだその日にも、何一つ間違った事は無かった。私は完璧に生きてきた。誠実な男と結婚し、可愛い息子をもうけ、石橋をたたきながら幸せに生きてきた。だからこそ、息子を失った後私には、著しいコントロールの不能感があった。

「息子を抱えて外に飛び出して、助けて! って叫んでる時、修人くんの事を思い出したの。修人くんと寝た、あの夜の事を思い出したの。これはあの時の罰なんだって、そう思ったの。修人くんと寝たあの日、お腹の中にいた優斗は、あの時そういう運命を背負ったんだ、って」

 だから私は、自分の人生の中の数少ない間違いに、その理由を委託したのかもしれない。そんなはずがない。優斗は単に、身体的な問題で死んだ。どうやって防げなかった病気で死んだ。でも私はフランスに来てから修人くんとの思い出に頼って辛かった妊娠生活を乗り越えてきた事や、子供が生まれた後もたびたび修人と寝た時の思い出していた事を、思い出に依存していた自分を思い出し、どこかで息子の死とその自分を結び付けていた。

「その想いは、ずっとどこかで消えなかったの。私はどこかの、私はどこかで、息子が死んだのはあの時修人くんと寝たからだって、思って来た。それで、そう思う事で息子の死に耐えてきた」
「ごめん」
「違うの。私は、修人くんとのセックスの記憶に頼って辛かった妊娠生活を乗り越えて、更に息子の死までそれで乗り越えようとしてた。でも今日修人くんと寝て、それが多分出来ないんだって分かったの。だから、途端にシンガポールに帰るのが辛くなった。きっとフランスでの辛い生活だって、乗り越えたんじゃなくて、修人くんの事を思い出してたのは、ただの現実逃避だったんだと思う。

たまにいるの。駐妻で、海外生活に耐えられなくなって、ずーっとネットで日本のテレビとかドラマ見続けて、外に出られなくなっちゃう人。そういうのと同じような、ここに入っていれば安全、てっ思える砦だったんだと思う」

 光栄な事かな、と修人は呟いた。
「自分が、何でこんな訳の分からない感情や衝動に駆られるのか、理解できない事がたくさんあるの。息子が死んでから半年後に、日本で大きな地震があったみたいって友達から連絡もらった時、私は修人くんが死んでいてくれますようにって祈ってたの。家族の事とか、友達の事とかじゃなくて、修人くんが死んでいてくれますように、って真っ先に思ったの」

 修人は、悲しげもなく嬉しげでもなく、じっと、何の思考もなさそうな眼差しでわたしを見つめた。
「修人くんが震災で死んでいますように。どうしてか分からないけど、私は強烈に祈ったの。修人くんが死ねば、息子の死が全て収束するような気がしたのかもしれない。罰の始まりが消えれば、自分は立ち直れると思ったのかもしれない」

「さっき僕に中で出させたのは、僕の子供を妊娠すれば立ち直れると思ったから?」
 言葉に詰まり、私は黙り込んだ。そういう訳ではなかった。でも、そういう訳ではないという言葉で、そういう訳でもあるほんの僅かな部分を否定する事に、強い抵抗があった。

そういう訳でもないし、そういう訳でもないわけでもなかった。何と言ったら良いのか分からず、ワインを飲み干してもう一杯注ごうとする修人がボトルを持ってグラスに注いだ。

 「夫とは子作りをしていないの。子どもを亡くしてた人って、すぐに次を作ろうとする人も多いけど、もう作れないっていう人も結構いて、でも私は作れないでも、作りたくないでもなくて、子どもっていうものを考えると頭が真っ白になるような、そういう状態が続いてて、いつも考えるの。彼が中で出せば子供が出来るかも知れない、って。そうするともう、自分が何してるのか分からなくなる。だから、ゴムつけてって頼むの。自分が何をしているのか分からなくなっちゃうから」

「僕としている時は、大丈夫だった?」
「セックスしてるんだって思った」
「もし出来てたら僕と結婚しない?」
 それはどうかなと呟いて、グラスを持つ手を見つめる。私は一体、日本に何しに来たのだろう。グラスの中の揺れる紫色を見つめている内、あの優斗が倒れたフランスのアパートのキッチンに引き戻されて行くような感覚に陥る。

 修人が死ぬところを、何度も何度も想像した。瓦礫に押しつぶされる修人。津波に流される修人。火災に巻き込まれる修人。修人が死んでいますように。修人が死んでいますように。死んでいますように。揺れる母国を思い、男の死を祈った。あんなに真剣に祈ったのは、優斗が集中治療室に入っていた時だけだった。私の祈りは両方とも叶わなかった。

 憎しみでもなく、怒りでもない。ただひたすらに私が抱き続けたのは修人の死への強烈な希求で、そこには何の感情もなかった。私は、修人と寝てから数年の時を経て、修人の記憶をいいように作り替えてきたのかもしれない。海外生活の中で、私が頭の中で反芻させていた記憶の中にいた修人は、現実には存在しない。

それは、現実の修人とは全くの別物で、むしろ現実の修人とは全く何の関係もない、自分自身で作り上げた虚像でしかなかった。修人は、象徴でしかなかった。偶像崇拝のように、私は修人という殻の中に何かを依託し、そこに過剰な依存をしてきただけだ。修人は、私の都合の良い土偶だった。

「千鶴ちゃん、日本に帰っておいでよ」
「帰ってどうするの? 仕事に復帰できないし、何もする事ない」
「僕と不倫すればいい」
「修人くんっておかしいよ。妻子を避難させておいて私を呼び寄せる。不倫する女が嫌いなくせに不倫すればいいとか言う。そのうち好きじゃないけど愛しているとか、好きだけど愛していないとか言い出しそう」

「それは別に矛盾してない。好きじゃないけど愛しているも、好きだけど愛していないも一般的な事だよね」
「言うね」
 そりゃ、言うよ。修人は笑って、ベッドに寝転んだ。おいでよと言われて隣に横になる。
「僕は今無職で、毎月養育費を支払わなきゃいけなくて経済的にも全く余裕がない。元妻と娘とは離ればなれで、彼女もいない、あと数年仕事ができない状態が続けば借金とかするかもしれない。すべてを失ったと思ったんだ。ゼロどころかマイナスで、あとは病気になれば不幸要素コンプリートって感じだ。だから、今は何も怖くないんだ。千鶴ちゃんが望むなら千鶴ちゃんに殺されてもいいし、心中してもいい。逃避行をしてもいいし、不倫関係になるのもいい。でも千鶴ちゃんがこのままシンガポールに帰るのだけは、何か許せないんだ」

「それは私が、子供が死んだ話をしたから?」
「世界が変わったって、言ったよね」
 天井を見上げたまま言う修人の顔をみやる。
「新しい世界を生き始める時に、千鶴ちゃんに傍に居てもらいたいんだ」
 私は答えないまま天井を見つめ続け、しばらく目を閉じた。修人の熱が私を右側から温めていた。この、依拠するもののなくなった世界で、私は一体何を指針に生きていったらいいのだろう。例えば今の自分に見える未来を全て擲(なげう)って、考えたこともなった道を選ぶ、妹のように見知らぬ異国に行き、大学で勉強したり、何か資格を取って日本かどこかで就職したり、或いは修人くんの言うように心中や逃避行をしてみたり、離婚してまた新しい恋愛をしたり、キャバクラなんかで働いたり、出家をしてみたり。頭によぎる可能性の全てに全く心が動かない。

シンガポールに戻って普通の生活をしていくという未来にも、全く心が動かない。ただ一つ、シンガポールのあの空調の効いた涼しいマンションに残された優斗の遺骨だけが私の心に触れる。あの骨に向かって、私はシンガポールに帰るのかもしれない。今私を動かすのは、我が子の骨だけなのかと思うと、もう抗う気もしない。全ての欲望から解放された、いや、見放された私は、ほとほと自由だ。悲しいほど何者にも縛られない、縛り付けてもらえない。

 ベッドの軋む音に気づいて、寝返りを打つ。頭が痛く、喉が渇いていた。煙草に火をつける音がして、私は薄く目を開く。ソファに腰掛けた修人の姿が、明るみ始めた空から差し込む光で黒く浮き上がって見える。修人が手に持っているのが、修人のではなく私の携帯だと気づき、私は身が固くなるのを感じた。しばらくすると、修人が携帯をテーブルに置いた。彼の吐いた煙がぼやけて線を描き、あちこち飛散していく。修人のシルエットが怠そうに長い前髪を掻き上げる。

 私は目を閉じて、修人が黙ったままこの部屋から出て行くことを願った。或いは彼が立ち上がって、私の体に跨がり、彼の両手で私を絞め殺してくれることを。とにかく。この今を形作る何かの終焉を。
つづく eri エリナ

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