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第五章〈拒絶〉による傷と〈不正〉による傷を癒す

本表紙
リズ・ブルボー 著 浅岡夢二 訳

ピンクバラ第五章〈拒絶〉による傷と〈不正〉による傷を癒す

この章を読む前に、できれば前著『五つの傷』を読み返すことをお奨めします。特に、〈拒絶による傷〉と〈不正による傷〉に関する章を読んでみて下さい。そこには、数多くの
例が詳細に論じられています。

 本書においては、この二つの傷を、一緒に論じることにしました。というのも、それらの間に、つながりがあることが分かったからです。両者とも、同性の親あるいは同性の親の役割を果たす人物によって活性化されます。拒絶の傷が妊娠と同時に活性化されるのに対して、不正の傷は四歳以降に活性化されます。

 〈拒絶による傷〉に苦しむ子供は、誕生以来、自分のいる場所がない。自分は音を立ててはいけない、自分は消された存在だと感じています。何年かすると、自分がますます拒絶されていると感じるでしょう。というのも、家族のメンバーが、その子どものいることを忘れてしまうからです。そこで、この子は反抗を始めるわけですが、そうすると、今度は〈不正による傷〉が疼き出します。

 ある人たちは、一生のあいだ、〈拒絶による傷〉に苦しむでしょう。別の人の場合、〈不正による傷〉が大きな場所を占めるので、拒絶による傷の痛みを感じないこともあります。
〈拒絶による傷〉の影響が、態度においても、肉体的外見においても、優勢である人の場合、〈不正による傷〉の痛みはそれほど感じずにすむでしょう。とはいえ、二つの傷は、ともに、同一人物の中に存在しているのです。

 その人の体つきや振る舞いを見れば、人生のある時期において、どの傷が優勢になっているかが、ごく簡単にみてとれるでしょう。時が経つにつれて、優勢な傷が入れ替わることもあります。
 父親が妹ばかり可愛がっているので、自分は拒絶されたと感じている男の子がいるとしましょう。傷が活性化されると、この少年は何も言わなくなり、傷が痛んでいないふりをします。また、自分の部屋に閉じこもったり、読書に没頭したり、ビデオゲームに夢中になったりするでしょう。

 父親を怨んでいるのですが、父親の振る舞いにはちゃんとした理由があると考えています。つまり、父親が自分を認めてくれないのは、自分が悪いからだと見なすのです。父親の愛情が欲しくてたまらないので、父親に問題があるから自分を愛さないのだ、とはとても思えないのです。たとえ父親が厳しく、冷たく、自分に無関心で、時には暴力を振るうことがあったとしても、それは、愛に基づくものだと思い込んでいます。これが、〈現実否認〉と呼ばれる状態です。

 父親に散々殴られてきた男性たちから、次のように言われたことがあります。「父が私を殴るのには、ちゃんとした理由があるのです。私がある種の振る舞いをするのを父は望まないのですが、それでも私はそうしてしまうのです。ですから、父が私を殴るのは、私を愛しているからなのです。私に、まともな人間になってほしくて、私を殴るのです」

 この種の理由づけは、〈拒絶による傷〉を持つ人たちに典型的に見られるものです。もし、状況が、〈不正による傷〉を目覚めさせると、子どもは反抗し始めて、父親を不正だとして裁くようになるでしょう。

 男の子が、父親が好むのと正反対なことをして、横柄な態度で父親に反抗する場合(あるいは、女の子が母親に対してそうする場合)、それは、〈不正による傷〉が原因なのです。子どもが幼いときにも、それは発現しますし、思春期にも、さらに大人になってからも発現するでしょう。

 地上に生まれる前に、魂の人生計画にそって、どの傷が、いつ頃活性化されるかということが決められます。その経験を通して、その人は、少しずつ傷を癒し、魂を進化させて、自分を愛することを学ぶのです。

〈不正による傷〉が活性化されて、当人の振る舞いにそれがはっきり表れたとしても、だからといって、〈拒絶による傷〉がないとは言えません。

〈不正による傷〉があると、私たちは、
〈拒絶による傷〉を感じずにすませることができます。

実際、〈拒絶による傷〉は、常に〈不正による傷〉の陰に隠れて存在しているのです。拒絶されたと感じたことを否定するために、エゴがよく使う方法を、次にあげておきましょう。拒絶に苦しんでいる〈逃避する人〉は、とても巧みに現実を否定します。〈拒絶による傷〉が最も大きな痛みを与えるのです。

否認は、エゴが、最も力を持っている時に使う手口です。
 第一章における二つの傷の説明によれば、〈逃避する人〉と〈頑固な人〉は、極端な完璧主義だったはずです。しかし、動機はそれぞれ違います。

 ごく幼い時から、〈逃避する人〉と〈頑固な人〉は、同性の親が要求する基準に達したときのみ、親から関心や誉め言葉をもらえたのです。ですから、この人たちは、自分に対する要求が非常に
高く、時には自分の限界を超えてしまうのです。というのも、自分はいつも〈不充分〉だと感じているからです。〈逃避する人〉は、愛されるためには、〈完璧である〉ことが必要だと感じているのです。

 いずれの場合も、彼らは批判されることを非常に恐れます。ただし、〈逃避する人〉が批判されたときの方が、批判による苦しみは深いでしょう。というのも、その批判は、彼の、〈存在の深み〉にまで達するからです。〈逃避する人〉は、自分がしたことに対する批判であるにもかかわらず、自分が「ダメな人間」だと断定されたと感じるのです。つまり、自分の〈存在〉が否定されたと感じるわけです。だからこそ、年を重ねるにつれて、〈逃避する人〉は、間違えることをますます恐れるようになるのでしょう。

 この部分を書いている今、私は、ETCで働いていた数多くの講師たちの事を思い浮かべています。〈拒絶による傷〉を持つっている講師たちは、〈不正による傷〉を持っている講師たちに比べて、はるかに多く苦しんでいました。自分たちの〈逃避する部分〉が非難されると、ものすごく傷つくのです。たとえば、セミナーの参加者の中に、精神療法家や医者といったプロがいると、自分に教える力が充分でないのではないかと感じて、ものすごく不安になるわけです。

 彼らは、また、参加者の批判や抵抗を受け入れることがうまくできませんでした。そんな場合の反応は、決まって、「私はだめな人間だ」「私は良い講師ではない」「私はたぶん解雇されるだろう」というものでした。その結果、自動的に、さらに多くの批判を引き寄せてしまうのでした。

 説明すべきことを忘れたり、多く説明しすぎ時間が足りなくなったりすると、次回にはもっとしっかりやろうと心に誓うのです。中には、参加者たちは何も気づいていないのに、彼らに対して言い訳をする講師たちもいました。その後で、講師たちの〈頑固な部分〉が、自分のしたことを手厳しく批判します。中には、リズに知られたら、きっと叱られるに違いない、とものすごく不安になった人もいました。(当人から聞いたのですが)

 また、この二つの傷を持つ人たちは、他者からの支援を容易に受け入れられないし、ましてや、それを依頼することなど到底できない、と言うことにも気づきました。〈頑固な人〉は、一般的に、二つの理由を持っているのです。

 一つ目の理由は、相手に借りを作るのを好まない、というものです。相手に、同じようなことをして借りを返すよりも、助けてもらわないで済ます方がいいと考えるのです。
 二つ目の理由は、ほかの人たちには充分に能力がないから、というものです。もういちど自分でやり直さなければいけなくなる、と考えるのです。

 〈逃避する人〉の反応は、相手に迷惑を掛けたくない、自分一人で充分にやれる、だから断ろう、というものです。支援を受け入れると、自分が無能な人間だということになってしまう、と考えるわけです。相手がどうしてもと言い張る場合には、やむを得ず受け入れることもありますが、それは、断り続ければ、受け入れる以上に相手に迷惑をかける、と考えての事なのです。

 〈逃避する人〉が心の奥で――ほとんどの場合、無意識にですが――考えているのは、次のようなことです。「おやおや、この人が私を支援しようとしているのは、私が無能で、一人ではやれないと思っているからなのだ」

 相手が、寛大な心で、喜びをもって支援を申し出てくれていることが、どうしても理解できないのです。〈逃避する人〉が相手の申し出を受け入れるとしたら、それは、また、〈不正による傷〉が優勢になっている場合であるかもしれません。そんな場合には、「支援してもらったことをしっかり覚えていて、必ず同じことをして返そう、そうすれば私は正当だ」、と考えます。

 結論を言うとすれば、〈拒絶による傷〉は、常に、〈在る〉ことの領域に存在しています。ある種の〈在り方〉をしていることによって、自分自身を裁くこと、あるいは誰かに裁かれることを恐れるのです。

 一方で、〈不正による傷〉は〈持つ〉領域、あるいは〈する〉領域に属属しています。他人よりも少なく持つ、あるいは多く持つことを恐れます。また、まずい行動をすること、あるいは、あまりにも素晴らしい行動をすることを恐れます。

 批判されること、欠点を指摘されることへの恐れは、どちらの傷にも共通します。傷の痛みを和らげるために、〈頑固な人〉は、公平かつ正当であろうとします。また、良い行動をして、人から受け入れられようとするのです。

正義としては神の正義のみが存在し、また、《原因と結果の法則》は

常に正しく適用される、ということが、どうしてもエゴには理解できないのです。

エゴは、神が定めた法則を理解できません。というのも、エゴには、精神の次元以上のことが理解できないからです。したがって、ブーメランの法則も理解できません。この、普遍的で、霊的な法則は、きわめて高度な知性に基づいており、絶対確実に作用します。私たちは、まいた種を必ず収穫するのです。それをいしきしていようが、しまいか、必ずそうなります。
 どの傷からも影響を受けないとき、あなたは、次のような自然な受け答えをするでしょう。「支援を申し出て下さってありがとうございます。喜んで、お受けいたします」もちろん、あなたは、相手に借りができたと感じません。

 申し出を断る場合には、そのことが、あなたのニーズに応えることになるのか、あるいは、恐れに基づくものであるのかを確認する必要があるでしょう。エゴは実に巧妙な手口を用いるので、あなたは常に注意を怠らず、エゴのやり方を意識しなければなりません。

 ある傷が活性化すると、人生の舵を取るのは、あなたではなくなります。感情的になるのは、あなたの〈小さな私〉であるエゴなのです。
 あなたが、自分や他者を責めるとき、あなたはもうセンターにはいません。その時、エゴがあなたを占領し、あなたの代わりに考え、行動するのです。あなたがセンターにいるとき、ハートにいるとき、あなたは静かな心で、自分が怒っていることを観察し、感じています。感情的になって相手や自分を責めることはありません。

魂の五つの傷があなたを苦しめるとき、あなたはハートの声に従えなくなります。
 自分のニーズを大切にできなくなるのです。

 エゴは、みずからが存在することを証明し、ほかの人たちにそれをアピールするためなら、いかなることでもするでしょう。〈拒絶による傷〉は、エゴにとって最悪の傷なのです。この傷があると、エゴは、自分には存在する権利がない、自分はどうしょうもない人間だと感じます。

エゴにとって最も重大な傷は、〈拒絶による傷〉なのです。この傷が活性化すると、必ずエゴが優勢になります。そして、そのあとで、ほかの傷が目覚め、この傷にさらに力を与えるのです。
〈拒絶による傷〉と共にほかの傷も活性化し、あなたが苦しめば苦しむほど、エゴは、自分がしっかりあなたを守らねば、と考えるのです。そこで、あなたにはそれほどの苦しみを乗り越える力はないと考えて、数々の防衛的な行動をとるのです。あなたを守ろうとして抵抗すればするほど、苦しみも増して大きくなる、ということがエゴには分かりません。

 こういうわけで、〈拒絶による傷〉は、ほかのすべての傷の基盤になっています。拒絶による苦しみは、あなたを、自分への憎しみ、同性の親への憎しみを駆り立てます。自分のモデルになってくれなかったことで、同性の親をひどく恨むけです。ここで、思い出していただきたいのは、誰かを憎むということは、それ以前に、その人をものすごく愛していた、ということです。

 憎しみを持っていると、私たちは重大な病気――つまり、死につながる病気――にかかりやすくなるでしょう。あるいは、大きなケガをするかもしれません。
 憎しみは、真実の愛を感じることができない、という無力感から生まれます。憎しみが強くなればなるほど、〈拒絶による傷〉によってもたらされる苦しみも大きくなるでしょう。このことについては、『ガン―希望の書』において、もっと詳しく論じています。
 つづく 食生活と体重に隠されたもの

エゴに支配された夫婦生活・性生活は倦怠感・性の不一致となる人が多い、新たな刺激・心地よさを付与し。避妊方法とし用いても優れた特許取得ソフトノーブルは夫婦生活での性の不一致を改善し、セックスレス及びセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。