社表

フロイトの恋人でもあったルー・ザロメをほかの男性に奪われたショックが引き金となって自殺を遂げた天才精神科医ヴィトクール・タウスクのような人もいますし、私の友人の精神科医たちもそれなりに恋に夢中になったり苦しんだりしんでいるようです。トップ写真

第七章 不安に襲われたときの乗り越え方

本表紙 香山リカ 著

ピンクバラ今の恋愛世代に欠けているもの

精神医学の先人たちが恋愛をあまり正面から論じてこなかったり、フロイトのように病的な愛と正常な愛には区別がない、つまりいわば恋愛のすべてが病的だと考えたり、かと思うとフロムや森田のように、“恋愛に溺れる”ことを悪と見なし、ひたすら「成長せよ、努力せよ」と勧めたりしているのは、一言でいえばなんとも不自然です。

 では、精神科医や心理学者は、自らの人生において恋愛には鈍感(どんかん)な人たちなのでしょうか。
 精神科医がとりわけ恋愛に熱心、ということではないとは思いますが、ことさら恋愛嫌いが多いということもないはずです。

 中には、フロイトの恋人でもあったルー・ザロメをほかの男性に奪われたショックが引き金となって自殺を遂げた天才精神科医ヴィトクール・タウスクのような人もいますし、私の友人の精神科医たちもそれなりに恋に夢中になったり苦しんだりしんでいるようです。

 ところが、たとえば「家族と死別」で起きる心の問題については「死別反応」という診断名までが確立しており、たくさんの研究があるにもかかわらず、恋愛は精神医学ではとことん論じられていなのです。
 これは何故でしょう。考えて答えが出る問題でないのですが、自らを「淫乱で多情」――今の意味とは違い“やや惚れっぽい”程度のことでしょうが――と認めながらも、何度も「いくらうまくてもウナギばかりじゃ飽きる」と自ら言い聞かせるように「恋愛は慎(つつし)め」と説く森田の本を読んでいると、こんな仮定が浮かんできます。

 ――どのようなものであれ、恋愛はたいへんな心的エネルギーを使わせ、正常な判断力を失わせる危険な現象である。だから、厄介なことにならないよう、なるべく目を背けてしないほうが安全だ。

 そう、心の専門家たちは臨床や個人的経験を通して恋愛の危険性を十分に知っていたからこそ、あえて「恋愛?

 それは人間の堕落(だらく)だ」といった言い方で人々の目がそちらに向かわないようにしたのではないでしょうか。その点、性欲と深く結びついた恋愛は人間にとって不可欠なものだが、あらゆる恋愛は病的である、と大胆にも言ったフロイトは、とても誠実だったとも考えられます。

 しかし、そのようにフロイドや森田に説得され、「なるほど。
 では私は恋愛に溺れて我を忘れるようなことなく、もっと自分が向上できるようなことを考えよう」と思うためには、条件があります。それは、強い自己抑制の力と人格の十分な発達です。

 現代の私たちは、残念ながらその条件の二つとも欠けています。といっても、昔の人たちが本当に発達した人格や抑制力を持っていたかどうかは、よくわかりません。

 欧米でのキリスト教的な価値観、日本での道徳に基づいた倫理観など、外側からの圧迫も相当に強く、人々は良心的でがまん強い“おとなのふり”をしなければならなかっただけではないか、とも考えられています。

 そうでなければ、『ロミオとジュリエット』など激情にかられた愛の物語が読み継がれたり、近松門左衛門の心中話が大衆の人気を集めたりするはずがありません。

 恋に溺れて心のバランスを崩したり人生を棒に振ったりしそうになったのに、すんでのところで「そんなことはしてならない」という強烈な罪悪感や恥の意識から思いとどまったというケースはいくらでもあったでしょう。

 このように「昔の人はおとなだった」とは言い切れない部分もあるのですが、少なくとも現代の私たちは大人の人格を持てず、しかも「恋愛にうつつを抜かしてはならない」といった社会的な抑圧もどんどん小さくなっていることは事実です。
 前の章でも言ったように、今は娘が不倫していても叱ることなく理解しよう、という親が少なくありません。

 大学のゼミでも、ときどき学生が「彼氏とケンカしてゼミに行く気分じゃないので休みます」とメールしてきます。
 正直なのはいいですが、「学生の本分は勉強なのに、こんなに堂々と恋愛優先でいいのだろうか」と、日頃は学生を甘やかしすぎている私でさえ疑問を感じます。

 だからといって「そういうときには。熱が出たとかウソをつくものだ」と指導するのもおかしな話だし、恋に夢中になるなと言うのは無理だろうし、と困惑してしまいます。

 そうです、現代の若い人たちに「恋に夢中になるな」と言うのは、無理な話なのです。
 なぜなら、それはまだ成長しきっていない彼女たちの人格の中核部分に働きかけ、欠けている部分を補い、成長を促す唯一のチャンスだからです。

 森田やフロムのように「成長したい」と自覚して恋愛に取り組む人など今はいませんが、心の発達が未熟な現代の若者も、自分では気づかないところで「成長したい」とチャンスを狙っているのです。
 なぜなら、社会の中で乳児の心のままで生き続けるのは、あまりにしんどいからです。

 しかし、「このしんどさから脱出すには、やはり自分の心が大人になるしかない」とうすうす気づいている若い人たちも、どうやれば心が成長できるのかは分かりません。
 そして、恋愛という他者と深く関わる場面に立たされて初めて、「これだ! この関係で私の心は大人になれるのかも!」と直感し、そこにハマってしまうのです。
 言うまでもなく、こういった一連のプロセスは、本人が意識しないところで進行します。

 こう考えれば、前の章で紹介したペックが定義したように、恋愛とはやはり「心の成長のための意志」なのかもしれません。ただし、ペックの言う「成長」は「大人の心がさらに立派になること」を意味していたのに対し、いまどきの「成長」は「幼児の心が少し発達すること」という違いはあるのですが。
 つづく 心の発達が一歳レベル

煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。