
香山リカ 著
恋は楽しいはずなのに
次の休暇のあいだ、むずかしい勉強をするのとめくるめくような恋愛をするのと、あなたはどちらを選びますか。
勉強と恋愛を比べることはできないかもしれませんが、こう聞かれたら多くの人が「むずかしい勉強をするよりは恋愛でときめいていたほうがいいかな」と答えるのではないでしょうか。
勉強や仕事は辛いけど、恋愛は楽しい。一般的にはこう思われています。
しかし、これまでも話してきたように今、恋愛がきっかけになって心の調子を崩す人が増えています。どれくらい増えているか、数字で示すことはできませんが、少なくとも減っていないのは、クリニックでの診療や雑誌の取材で日々、実感するところです。
しかも「恋愛の悩み」と言えば、かつては何と言っても失恋が一番だったと思うのですが、今は必ずしも失恋だけが悩みの原因ではありません。
恋愛できるかどうか不安、恋人はいるけど嫌われることを考えると不安、納得しているはずなのに不倫の関係で不安・・‥など、恋愛にまつわるさまざまな問題が不安を呼び、そこから仕事に行けない、友だちに会えない、など日常生活全般まで影響を及ぼすような事態に容易に発展してしまう。そんな印象を受けています。
人生で最も楽しいできごとであるはずの恋愛が、どうして人をこれほどまで苦しめたり、正常な心を失わせたりするのでしょうか。そもそも恋愛とは、人間の心にとって何なのでしょうか。精神医学は恋愛の恋愛にまつわる不安をどう説明しているのでしょうか。
実は、精神医学は恋愛の問題をこれまであまり具体的には扱ってきませんでした。世界中の精神科医が使用しているアメリカ精神科医学会の診断マニュアルを見ても、「恋愛」が関係した心の病気は扱われていません。
わずかに心理社会的ストレス因子によって起きる「適応障害」の項目に、「ストレス因子は、子どもの誕生、入学、結婚、病気など」と“結婚、離婚”の文字が書かれていますが、“恋愛や失恋”は含まれていません。
つまり、従来の精神医学では結婚に至らない恋愛の段階では、病気とまで判断されるような心のトラブルは起きないということになっているのです。
しかし、実際には結婚や離婚に関係したトラブルというのは「婚約者に離婚歴があった」「離婚にあたって慰謝料が低い」といった具体的なものが多いのに対し、恋愛がひきがねとなる心のトラブルは「なんとなく心配」とより漠然としている分、対処が難しいことも多いと言えます。
「適応障害」では、ストレス因子が取り除かれれば不安や抑うつも解消すると考えられていますが、「恋愛はしているけどとにかく不安で‥‥」といった状態では、どうやってそのストレス因子を取り除いて良いかもわからないのです。
このように、恋愛にまつわる心のトラブルは数も増えており、その対処法はむしろ結婚や離婚の際に起こる「適応障害」などより困難であるにもかかわらず、精神医学はこれまで恋愛の問題にあまり真剣に取り組んできませんでした。
同じ「人間の心」を扱っているものでも小説やポップスはその大半が恋愛をテーマにしてきたのに対し、心理学や精神科医はあまりに恋愛軽視主義だったと言わざるを得ません。
もちろん心理学的な知恵を使った恋愛指南本のようなものはたくさんあるのですが、系統立てて恋愛の心理や恋愛に基づく心のトラブルを説明した本がないのです。
正しい愛か、病んだ愛か
その中で出色なのが、1956年に出版された精神分析家エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店)です。
心の専門家が愛について真正面から論じたこの本は、出版されてから50年近く経った今でも「愛の教科書」として高い評価を受けています。とはいえ。ここでも恋愛は親子愛や人類愛と同列に、「愛の一部」として扱われているにすぎないのですが。
フロムは、心の専門家たちが恋愛問題を熱心に考えないのは、その頃、圧倒的な影響を誇(ほこ)っていた精神分析者フロイトの恋愛観が原因していると考えます。
よく知られているようにフロイトは、
愛は基本的に性的現象であり、
愛の究極の目標は性的満足だと考えました。
これが最も顕著(けんちょ)に現れているのが恋愛で、そのほかの兄弟愛や友愛なども基本的には性的本能に基づいており、それが抑圧されて変形したものにすぎない、と考えたのですから、フロイトの考え方は徹底しています。
フロムが引いているフロイトの言葉を、ここでも再び紹介しておきましょう。
「自分の経験から、性的な(性器的な)愛こそがもっとも強烈な満足感を与えてくれるものであることを知り、性的な愛こそがあらゆる幸福の原型だと確信した人は、その後も、性的関係の方向に幸福を求め、性器的な愛を自分の人生の中心に据えるようになる」(「文化への不満」『フロイト著作集3』人文書院より)
「愛は基本的に性的」と考えていたフロイトは、正常な愛とそうではない愛とを分けることもありません。というより愛は常に不合理だったり強迫的だったり、幼児期の愛の対象の転移だったり、と病的な側面を持っているとフロイトは考えたようです。そのため、恋愛がきっかけで心のトラブルを起こした人が目の前に現れると、フロイトは、その原因を今の恋愛の中にではなく、その人の幼児期の精神生活や無意識に潜む性的欲望の中に見つけようとしました。
「恋愛が原因で心が病的状態に? ああ、それが恋愛の本質というものだ」
しかし、フロイトは大切なものを見落としていた、とフロムは言います。
「基本的な真実は人間の生の全体性の中にあるということ、すなわち第一に、すべての人間が等しく置かれている状況の中にあり、第二に、特定の社会構造によって決定される生き方の中にあるということだ」
つまり、人間は社会の中で生活を営む生き物であるから
、単に個人の欲望にだけ焦点をあてても愛の問題はわからない、と言うのです。
そして、フロイトの「たがいの性的満足のための愛」も、その理論ができた当時の社会背景を考えると「現代西洋社会における崩壊した愛」の一つに過ぎない、とフロムは言います。
恋愛の問題を考えるためには、個人の問題と時代や社会の問題、両方を視野に入れる必要がある、だから その時代ごとに社会の問題を反映した「病んだ愛」があるはず、というフロムの説に反対する人は、あまりいないはずです。
では、『愛するということ』が世に出た1956年の時点で、フロムはどんな「病んだ愛」があると考えたのでしょうか。次に彼が定義している
「神経症的な愛」をいくつか、紹介しましょう。
「神経症的な愛」
○1 親への執着(しゅうちゃく)を相手に転移した愛
女性に「母親の無条件の愛」を求め、それが与えられないと憤慨(ふんがい)する男性。父親に執着するあまの、女性に対しては心は開くことができない男性。愛し合っていないがけんかもしない両親のもとで不安と緊張を抱えて育ち、それを解消してくる乱暴な男性を愛する女性など。
○2 偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)的な愛
しっかりした自意識を持っていない人が、自分にはない能力を愛する人の上に投影し、愛する人を偶像化する。その後で必ず失望がやってくる。
○3 偽(いつわ)りのセンチメンタルな愛
愛が現実の関係において経験されるのではなく、もっぱら空想のなかで経験される。現実の苦しさや孤独感をやわらげる麻薬のような働きをするが、生身の人間どうしでなると関係は冷え切ってしまう。
○4 投射の愛
「投射」と呼ばれる心のメカニズムを使い、自分自身の問題を避けるために、愛する人の欠点や弱点に関心を注ぐ。自分が支配者だったり優柔不断だったりしても、それを全部相手にかぶせて非難し、相手を矯正(きょうせい)しようとしたり罰しようとしたりする。
フロムはこういった愛を「神経症的な愛」と呼び、正しい愛と区別して考えます
この「神経症的な愛」の説明じたいは、どれもこれも納得がいくものなのですが。少し気になるのは、フロムが問題にしているは恋愛をしている当人の苦痛ではなくて、あくまでその愛が「正しいか、異常か」という点だということです。
たとえば「センチメンタルな愛」の項では、互いに愛情がない夫婦が同じ映画を観て涙を流して愛し合っている気になる、という事例をあげられていますが、現代を生きる私達から見ると「それのどこが問題なの?」と言いたくなるところです。
夫婦で一緒に映画を観ることじたい、それが愛かどうかは別にして仲の良い証拠ですし、ひとときスクリーンの上に自分たちを投影して大恋愛をした気になれるというのは、とても幸せなことであれ、「それは偽りの愛だ」と病気呼ばわりされなければならない理由は、何処にもないではありませんか。
これまで私たちが見てきたケースで問題としてきたのは、とにかく「本人が不安かどうか」の一点でした。
極端なことを言えば、前述のマンガ『自虐の詩』で幸枝さんがいくらひどい扱いを受けても、幸枝さんがイサオを愛していて満足しているならば、その愛が正常か異常かなどは余計なお世話です。
まして、テレビドラマ『冬のソナタ』みて登場人物にどっぷり感情移入して涙しているカップルに、「それは偽りの愛だよ」などと言う必要はまったくないはずです。
しかし、フロムがこの本を書いた時代、専門家たちは恋愛を
「正しいかどうか」の基準で論じてきたようです。その観点は、私たちとはずいぶん違うと言わざるを得ません。
つづく
愛とは成長すること?
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。