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ノーと言われるくらいなら

本表紙 香山リカ 著

ピンクバラ誰かを好きになるとたいていの場合は、相手に対して「私のことも好きになって欲しい」と望むようになります。

「たいていの場合」と言ったのは、中には「秘するが花」などと自分の気持ちを絶対に相手に知られたくない、と思う人もいるからです。
 しかし、それはいろいろな事情でその恋愛が許されない場合や、極端にシャイで自分の気持ちを伝える自信がない場合などに限られているようです。

 今「自信がない場合には、相手の愛も望まない」と言いましたが、逆に考えればだれかを好きになって、「私も愛されたい」と思い、何らかの形で意思表示ができる人というのは、ある程度、自分に対して自信があるとも言えるのです。

「自信」といっても、いわゆる「自信満々」と言うときの「自信」とは少し違います。
「自信満々」の「自信」は、「ほかの誰にも負けない」と他人との比較の上に成り立つ相対的な「自信」だと思いますが、恋愛に必要なのは他人との比較は関係ない「自分を信じる気持ち」に近い「自信」です。
 もっと具体的に言えば、「私は人を好きになっていいんだ、私は好きな人に自分の気持ちを伝えていいんだ、私は愛されたいいんだ」と思うのに必要最低限な自己信頼感です。

 そんなの、誰にでもあるじゃないか、と思うかもしれませんが、そうではありません。
 たとえば、新興宗教信者で合同結婚式で結婚した両親を持つ大沼安正さんの自叙伝『「人を好きになってはいけない」といわれて』(講談社、2002)には、両親から「人を自由に好きになっちゃいけない」と言われ続けて成長した若者が他人だけでなく自分も信じることができずに苦しむ姿が、リアルに描かれています。

 著者は親元を離れて心の支えがほしい、と思ってすんなり異性を好きになることができず、自分で「同性愛者かも」「ロリコンじゃないか」と悩む日々が続きます。
 しかし、後書きによればついに「彼女」と呼べる人ができて、それからずいぶん精神的に安定した、ということです。

 おそらくこの著者の場合、「彼女ができたことから心が安定した」というのは実は逆で、親元を離れてアルバイトなどで自立し、次第に自分への信頼感が出来上がっていったからこそ、安心して人を好きになることができたのだと思います。
 だから、好きな人ができてその人にも自分を好きになってもらいたい、と思えた時点で、その人はある程度の自己信頼感は持っていると判断することができるわけです。

 ところがその自信や自己信頼感は、それだけではまだ揺るぎないものではありません。ではそれがいつ揺るぎないものになるかと言うと、それはもちろん、相手も自分のことを好きになる、つまり恋人同士になれた時です。

 好きになった人が自分の気持ちを受け止めてくれて、さらには「私もあなたが好きです」とこたえてくる。人が生きていて、これほど自分が認められたような気持ちになる瞬間は、ほかにはまずないでしょう。

 そういう意味で、自分の好意に対してそれを否定せずに一応は受け入れてもらえたテルちゃんやミカさんも、「私は彼を好きになって良かったんだ」とそこで自信を強めることができたはずです。

 しかし、問題はその先です。テルちゃんやミカさんの相手は、自分の気持ちを否定はしなかったけれど、「僕も好きだよ」と意思表示はしてくれなかった。
 男性の中には「好きだよ」「交際してください」とはっきり自分の気持ちを示さないまま、女性のリードで交際して結婚にまで至る人は少なくないようですが、先のふたりの女性はやはり男性からの意思表示を待っていました。

 そこには「自分の気持ちをきちんと伝えてほしい」と言う思いもあったでしょうけれど、それ以上に目につくのは、「もし“恋人になるつもりはない”という意思を表示されたらどうしょう」という不安です。

 ふたりとも「はっきりとノーの意思を表示されるぐらいなら、曖昧のままでいい」と思い、「私ってあなたのなに?」と聞くこともできないまま、次第に交際は“彼次第”になっていきました。
 そして男性のほうも、不安にかられながら待ち続けるテルちゃんやミカさんの気持ちを知ってか知らずか、自分の都合に合わせて適当に彼女たちを利用するだけのようなつきあいを続けていったのです。

ピンクバラなぜこの程度の男に?

テルちゃんやミカさんは、恋愛というまたとない自己確認の機会に、自分の選んだ相手に気持ちを伝え、それを全面的に認めてもらい、自己信頼感を強めたいと願っていました。
 もちろん、そこまで彼女たちが意識していたわけではないのですが、彼女たちの恋愛は“ただのヒマつぶし”や“ひと時の遊び”などではなくて、この恋を通して自分の中にも何か変化を起こしたい、と思ってのものだったことは間違いありません。

 ところがその予定は、半分だけ実現してなんだかおかしな形になった。ただ、自分の思いは相手から拒絶されているのか、それとも認められているのか、その判断がまだつかない。
 本来ならそこで、「このままじゃ私の自信は目減りする一方だから、やめておこうっと」と見切りをつけてもいいはずですが、心のどこかには「いや、相手も私を必要としてくれているのではないか。
 私がうまく振る舞えばいつかはふつうの恋人同士から結婚につながり、私は“これでよかった”と自信を強めることができるのではないか」という計算がある。

あるいはそれ以上に、「ここで彼に見切りをつけて離れてしまったら、私ってダメなやつ、と自己信頼感はがた減りになってしまうのだろう」という恐怖を感じている。

 だから、心の中では「利用されているだけかも」「恋人じゃないのかな」とうすうす気づいていても、自分から「いったいあなたはどういうつもりなのよ!?」とか「自分の都合ばかり押し付けてないで」とは言いだせないまま、ひたすら彼からの連絡を待ち、“彼次第”の生活を送ることになる。

 あるいは、この章のはじめで紹介したように、一応、恋人同士という関係ができてからも、少しでも彼からの連絡が途絶えると落ち着かなくなり、ひっきりなしに「なにしてる?」とメールを送ってしまう。

 イタリア人は「恋愛こそ人生最大の喜び」と考える、などと言われておりますが、待つだけ、追うだけのこんな恋愛には、喜びや楽しみの要素はほとんどなく、不安や焦りがあるだけです。

 そんな苦しみの中で、彼女たちが執着しようとしているもの、それは、彼本人ではなくて、「私は私を信じたい」という自己信頼感なのです。

「私の気持ちを彼が認めてくれた」「彼も私を求めてくれた」と思うことで、彼女たちは「私はこれでいいんだ」と自分が自分であることを確認し、安心しようとしているわけです。

 しかし、一度、それが手に入るともう今度は「なくしたらどうしょう」という新たな心配がうまれます。また、この自己信頼感にはどういうわけか“賞味期限”があり、そのつど新たなものと交換し、更新しなおさなければならないような気にもなります。
 今は携帯やネットといった便利な“更新ツール”があるために、その“賞味期限”もどんどん短くなっているのです。

 さらにテルちゃんやミカさんのように、自己信頼感がいったん得られそうだったのに結局、きちんとした形では手に入らないと、自信が一気に最低レベルまで落ち込み、それまで築き上げてきた人格まで自分で否定してしまうことにもなります。
 そして、「彼に振り向いてもらえない私なんて、意味がない」「彼に愛されてこその私なんだ」と思い込み、彼の気紛れに振り回される“彼次第”の生活になってしまうのです。

 何度も言うように、客観的には彼女たちの相手この人なら」とだれもが納得するような男性でな、むしろ「なぜこんな人に振り回されなければならないの?」と疑問を抱くような人が多いのですが、そういう“どこでもいそうな男性”であるからこそ、「こんな人にも愛されない私って‥‥」と落ち込みが激しくなり、何とかしようとよけいに執着してしまうのです。

 ミカさんはクリニックに来た患者さんではなく個人的な友だちだったので、私は厳しいことを言いました。
「あなたのような夢もやる気のある人が“彼次第”になって仕事もおろそかにするなんてもったいないよ。はっきり言って、あの程度の男性ならいくらでもいるじゃない」。

 私がそう言うまでもなく、賢い彼女はそれくらいのことは十分、自分でも分かっているのです。
「自分でも分かっている、こんなことをしてたら万が一、彼とうまくいく日が来たとしても、いつか後悔することになる、って。
 だけど、どうやって止めればいいのか分からない。

この地獄から脱出できる方法があるなら、教えて欲しい‥‥」。まだ、「そんなこと、言わないでよ! 彼みたいなステキな人はいないんだし、私は愛しているんだから!」と怒ってくれるほうがいいのに。と私も気持ちが滅入ってしまいました。
 つづく 執着しているのは「自分」