香山リカ =著=
一日120通のメール
クリニックの診察室で、私と向き合いながらも携帯電話を握りしめている人が増えました。
そこまでなくても、診察中にバッグの中でメール着信音が鳴ったりすると、はっとなって顔色が変わり、「ちょっとすいません」と慌ててチェックする・・‥、そういう光景は日常茶飯事です。
もちろんメールより診察を優先しろ、と言いたいわけではありませんが、リモンコンで操作されているロボットのように携帯に振り回されなくとも、と思ってしまいます。
そういう人たちの殆(ほとん)どは、恋愛問題で悩んでいる女性です。
恋人からの電話やメールを待ち続く、「今か今か」と携帯の画面をチェックして、着信音が鳴ろうものなら期待と不安でほとんどがパニック状態になり、即こたえなければ、と思ってしまうのです。
「メールの返事が10分くらい遅れても、まったく問題ないじゃない」といった助言は、彼女たちには通用しません。
また、そういう女性に尋(たず)ねてみると、その恋人からのメールは一週間ぶりとか三日ぶりとかではなく「朝から三回目」だったりすることがほとんどです。
デザイン事務所でパソコンに向かってレイアウトの仕事をしている20代の女性は、こう話してくれました。
「私、ビョーキだっていうのはよくわかるんです。でも、電車の中からも駅から会社に向かう道からも、彼にメールを打たずにはいられないんです。
そして、五分以内にレスがないと、いま誰かに合っているんじゃないか、私の事を切ろうとしているんじゃないか、といてもたってもいられなくなって、どうしたの、なにかあったの、と異常なほど連続メールを打ってしまう」
一日、どれくらいのメールを彼に送るの、と質問すると私に、彼女はあっさりと答えました。
「そうですね、100通から120通くらい」
数分おきに送るメールへの返事を一日中、待ち焦がれながら、その合間に仕事をしたり友だちに会ったりして彼女は暮らしているのです。
彼女がクリニックに来た理由は、「気分が安定しなくて、突然、涙が出たり怒りがこみ上げたりする」というものでしたが、「メールより⇒仕事⇒メール⇒食事⇒メール・・‥」といった細切れな生活を続けていれば、それは気持ちも不安定になるだろう、と私も妙に納得したのです。
さらに問題は、彼女が「それほど彼を愛しているかといえば、そうでもない」と自覚していることでした。
恋愛初期の「私たちには運命の恋人。一時間だって離れていたくない!」といった時期はとっくに過ぎ、彼のだらしないところや仕仕事への意欲が乏しいところも気になっている、と彼女は言います。
「この人と結婚したいか、と言われれば、そうでもないんです。結婚しても苦労しそうなのは、目に見えているし」。
しかし、そうわかっていながらも、五分おきにメールをしては返事を待つ、という生活は変わらない。
それどころか、メールの頻度は日に日に増す一方だと言うのです。
「自分でもどうしてこんなことになっているのか、わからない。いったい彼が好きなのかどうかも、はっきりしない。でも、連絡がないのはとにかく不安なんです。
彼女はため息をつきながら、そう話して肩を落としました。もちろん、その手にはしっかりと携帯電話が握りしめていました。
それまでは「ふつうの女性」
便りがないのは、よい便り。
かつて日本にはこんな格言があったのですよ、と言っても、その彼女はもちろん、今の若い人たちはとても信じられないのではないでしょうか。この格言の意味はもちろん、「遠く離れて暮らす家族や友人から手紙などの連絡がないのは、向こうも元気で忙しくやっているという証拠と考えるべきだ」といったことです。
確かに人間は、自分が困っているときほど頻繁に家族などと連絡を取ろうとし、そうでないときは疎遠(そえん)になりがち。その性質をうまくとらえて、
「都会に行った子どもからの一向に便りが来ない」と心配する郷里の親たちを安心させるため作られたフレーズなのでしょう。
この「便りが来ないのは‥‥」の中に離れ離れの夫婦や恋人までが入っているかどうかは分かりませんが、いずれにしても、「連絡がない=むしろ安心すべき」という考え方がちょっと前の日本にあったと言われても、「そんなこと、ありえない!」と驚く人もいるのではないでしょうか。
そのくらい、今の若い人は親しい相手と蜜に連絡を取り合っています。そして中には、「愛情のバロメーターは、連絡の回数」と思い込んでいる人もいるのです。
ここ10年のあいだ、社会で一番進歩したものなにか。
それは間違いなく、コミュニケーションに関係したテクノロジーでしょう。留守電や家庭用ファツクス、子機つきの電話が普及し、ビジネスマンだけではなく学生たちもポケベルでいつも連絡を取り合うようになったところに登場したのが携帯電話。
携帯でメールを送り合う機能をはじめて実用化したのはNTTドコモですが、そのiモード機能が生まれてまだ五年ほどしか経っていない、なんて信じられません。
二十四歳になる知人が言いっていました。「私が大学に入った頃はまだ携帯メールは無くて…・ポケベルでメッセージを送り合っていたいたんだっけ・・‥? ぜんぜん覚えていないんですよ。
今じゃメールがなければ友だちとも仕事先とも連絡ができない。お財布をなくしても生きていけるけど、携帯がなければ一日も生きていられない。
昔の私、メールなしでどうやって生活していたんだろう?」。“携帯以前”の生活について記憶喪失状態になっているのは、この人だけでないと思います。
ネットと携帯メールの爆発的な普及によって、私たちは何時もどこかで誰とでも、気軽に連絡を取り合えるようになりました。
90年代半ばに読んだメディア研究の論文には、こうあったのを覚えています。「これらコミュニケーション技術の普及により、人は誰かからの連絡を家のポストの前や電話の前で一日中、待つ、といったわずらわしさから解放され、場所や時間を気にする必要がないという自由を手に入れたのである」。
つまり、携帯やネットがあるからこそ、「必要であればいつでも連絡取り合えるさ」とますます「便りがないのは、良い便り」状態が加速するだろう。この論文は、そう言おうとしていたようです。
ところが、実際に起きたことはその逆だったのです。
コミュニケーション手段が増え、「いつでもどこでも連絡を取り合える」と思ったとき、人は開放感や自由を手に入れたのではなくて、「どうして連絡がないんだろう」「さっきメールしたのに返事がない」といった不安や心配をこれまで以上に感じるようになり、「いつも連絡を取り合いたい」というコミュニケーション中毒になってしまいました。
そして、やっていけない、とわかっていながら、一日に何百通も携帯メールを送ってしまう。仕事中も一分おきに携帯やパソコンのメールをチェックしてしまう、とほとんど強迫神経症(頭では不合理だと分かっていることでもやらずにはいられない、と言う神経症の一種)に近い状態に陥る人も現れ始めたのです。
強迫神経症の場合、やってしまう行動を頭につけて「確認強迫(戸締りなどを何度も確認する)」「手洗い強迫(汚れは取れたと分かっていても手洗いを続ける)」と呼ぶのですが、それに倣うことこの人たちは「メール強迫」となるでしょうか。
ただ、「メール強迫」には手洗いや戸締まり確認などほかの強迫症状と少し違う点があります。それは、相手があることです。そして不安や心配を感じる相手は、多くの場合、恋人や恋愛の対象です。
さらに特徴的なのは、この人たちは恋愛をする前は、必ずしも強迫神経症な性格――生まじめ、硬すぎる。過剰に几帳面(きちょうめん)、
完璧主義――ではないことです。
それなりに柔軟性や周囲への適応力もある“ふつうの女性”たちが、いざ恋愛して、携帯やネット相手の電話番号やメールアドレスを手に入れたとたん、一日中、彼からの連絡だけをひたすらに“待つ女”になってしまう。
待ち続ける時期を過ぎると、こちらから何回、何十回とメールをする“追う女”になってしまう。
仕事も趣味も手につかなくなる場合もあります。「私って、もっとさっぱりした人間だったはずなのに」と自分でもこの変化に驚きながらも、どうしても待ったり追ったりするのを止められない。
自分の行動の理由がわからないと、人間はますます不安になります。とくに、一日中、彼からの連絡を待つばかりで仕事に支障が出始めたりすると、真面目な人なら「これじゃいけない」と後ろめたさも感じるはずです。
そうなるといっそう、「いったいどうして私がこんなことに?」とこの変化の理由をさぐろう、という気持ちになります。
もちろん、いくら考えてもはっきりした理由はわかりませんが、多くの人は、とりあえずこういう答えを導き出して自分を納得させようとします。
「つまり、それほど私は彼を愛している、ということなんだ。彼は私にとって運命の相手だから、生活が彼中心になっても仕方ないんだ」
彼を強く愛しているからこそ、いつも連絡を取り合いたいと思い、たえずその動向が気になり、ほかのことが手につかなくなってしまう。
でも、これは自分にとって一生を賭けるべき運命の恋なのだから、今は仕事よりも何よりも彼のことを優先するのが、自分にとって正しい選択なのだ…。
しかし残念ながら、この“解答”は客観的には正しくないことが多いのです。
つづく
仕事も友だちもほっぽらかし