大事な一言
私が教頭をしているときでした。休み時間になって、先生方が職員室に帰ってこられて、雑談をしておられたときでした。
「T先生、T先生」
と、T先生の学級の子どもが二、三人、大きな声で、先生を呼びながら入ってきました。
「どうした」
と、T先生がこえをかけられました。T先生のそばに来た子どもたちは、
「けんかです。けんかをしているんです。来てください」
と訴えます。
「けんか、‥‥誰がしてるんだ」
と、T先生が尋ねられますと、子どもたちが口々に、
「木下くんと新井くんです」
と言います。
それを聞いたT先生が、
「また木下か」
と言って、子どもたちと一緒に職員室を出て行かれました。
私は聞いていて、
(ははあ、木下くんが叱られているんだろうな)
と思いました。
というのは、子どもたちは、
「木下くんと新井くんです」
と言ったのです。どちらが悪いとも言っていなのです。ところが、先生は「また、木下か」と言われたのです。
これは先生が無意識におっしゃった言葉でしょう。それだけに、この一言には大きな問題があります。おそらく先生に「木下という子どもはいつも悪いことをする」という先入観があるのだと思うのです。
これは一つの例ですが、何気なしにおっしゃる一言、無意識に言う一言に、考えねばならない問題があります。また、そういう一言は言った人の本音なのです。心の中にもっている一言が出たのだと思います。
「誰もけが、しなかったね」
幼稚園の先生を採用するテストの中に、次のような問題がありました。
「あなたが幼稚園の先生になられました。そして、職員室で、次の保育の準備をしていました。隣の保育室でガチャーンと大きな音がしました。子どもの誰が泣いています。鳴き声が聞こえてきました。それを聞いていたあなたは、すぐ職員室を飛び出して、保育室に行ってみました。
すると、大きなガラスがわれて、床の上にガラスの破片が散らばっています。女の子が一人泣いています。そして、四、五人の子どもが、びっくりしたような顔で、黙って突っ立っていました。
それを見て、あなたはまず何と言いますか」
こういう問題です。
もしお母さん、あなたがこういうときには、何とおっしゃいま
すか。
幼稚園の先生の答えの中で、いいなと思ったのは、
「誰もけが、しなかったね」
というのでした。
まず子どものことを心配する気持ちが大切だと思います。
「誰が割ったの」
「ここで遊んではいけないと言ったでしょう」
などというのもありましたが、考え方に大きな違いがあります。
幼稚園の先生になられる方は、成績がよいとか、知識が豊富であるとか、技術が優れているとかいうことよりも、まず子どもに温かい思いを持っておられるかどうかが大切なのです。
お母さんの場合も、そうだと思います。子どもが台所で、コップを落としてわったとき、
「また、わったの、あなたはそそっかしいんだから」とか、
「お兄ちゃんがわったの。気を付けないとだめじゃないの」とか、
おっしゃる前に、
「けがはなかった? していないのね、よかった」
と、おっしゃるお母さんであってほしいと思います。
人間の一言は、大事です。
トモちゃんのお母さんの一言
私が一年生を受け持っているとき、トモちゃんという女の子がいました。あかるい子どもでした。トモちゃんのお母さんも、明るい人でした。幼児や一、二年生の子どもは、お母さんとよく似ている子どもが多いようです。
あるとき、子どもたちに工作をさせたのですが、むずかしいところもあったので、工作の時間だけでは完成させることはできませんでした。
明日、工作の時間をつくって、このつづきをやらせようと思って、子どもに伝えますと、子どもたちが、
「家に帰って、つづきをしてくる」
と言うのです。その工作の面白味を感じたのでしょう。でも、持ってかえってすると、親が手伝うのもあると思って、
「家に帰ってするのもいいけど、仕上げてこなくてもいいょ。明日工作の時間があるからね。自分でやれるところまでやって、後はそのまま、学校に持ってきなさい」
と言って、帰らせたのです。
そのあくる日、子どもたちが、持ってきた工作の作品を見ますと、まだ仕上がっていない子どもが学級の三分の一は完成した作品を持ってきました。
その作品を見たとき、私には親が手を加えているかどうかは、すぐにわかりました。私も教育のプロのはしくれですから、一年生の子どもが一人で作ったか、親が手を入れたかぐらいは見抜けます。
仕上げてある作品の殆どは、親の手がはいっていました。
そのとき、トモちゃんは、仕上げて持ってきていましたが、その作品を見たとき、(これは大人の手が入っていない)と思いました。ほかの子どもの作品のように、こぎれいにはできていません。でも、いろいろ苦労した跡は感じられました。
そこで、あとで、トモちゃんと話をしました。
「トモちゃん、この工作、トモちゃん一人で作ったね」
「うん、私が作ったの」
「お母さんは手伝わなかったの」
「うん。これ、私の宿題だもん」
「そう、一人で作ったんだね。トモちゃん、一生懸命に作ったんでしょう」
「うん」
「すぐに出来たの。いっぺんで」
「ううん、失敗したわ」
「一回失敗しただけ」
「ううん、何回もしたわ」
「じゃ、長い時間かかったでしょう」
「うん、学校から帰ってからずっと、晩ご飯を食べるまでと、晩ご飯を食べてからもずっとやったのよ」
「そう、何べんもやり直したの」
「うん、何べんもやり直したのよ」
「いやになった」
「いやになって、どうしたの」
「もうやめようと思ったの」
「でも、やめなかったんだね」
「うん」
「どうしてやめなかったの」
「私が『もうやめた』と言って、畳の上に寝っ転がっていたの、そしたら、お母ちゃんが来て、「今まで一人でよくやったのね、えらいなあ。
今やめてしまったら、惜しいな、もうちょっとやってごらんよ」と言ったの。それで、やめていたら、またお母さんが来て、「さっきよりよくなっているわね。少しずつ出来上がってきているじゃないの」と言ってくれたの。それで、またやったら、できたの」
と、トモちゃんが話してくれました。
トモちゃんの話を聞いていて、トモちゃんのお母さんの一言がすばらしいと思いました。お母さんの言葉で、トモちゃんはしんどい仕事を根気よくやりとげてしまったのです。
このようなとき、ともすると、
「また失敗したの。だめねえ、しっかりしなさいよ」
「気をつけてやらないから、できないのよ」
という言葉を、子どもに投げつけてしまいます。
こういう言葉を聞いた子どもは、きっとやる気をなくしてしまって、途中でやめてしまっていたと思います。
お母さんの一言が、子どもにやる気を持たせ、やろうとした仕事をやりとげて、その喜びを子どもに味わせたのです。
その上、子どもはきっと“失敗にくじけずにやれば、出来るのだ”という尊い教訓を胸の中に刻んだはずです。
たった一言が心まで変えてしまう
私はある人のすばらしい一言を聞いて、自分の生きる上に、一つの教訓として、大事にしている言葉があるのです。それはプロ野球の長嶋選手の言葉です。
長嶋選手が現役のとき、ある試合でホームランを打ちました。センターの後ろの観覧席に打ち込んだ大きなホームランです。長嶋選手が一塁、二塁。三塁をまわって、ホームベースを踏んで、両手を高々とあげて、一点を取ったのです。
その時、審判から「アウト」と言われたのです。そこで、巨人軍の方から、ホームランがなぜアウトなのだと抗議をしたのですが、長嶋選手が一塁を回るとき、一塁ベースを踏まなかったというのです。
そこで、「踏んだ」「踏まない」と抗議が続いて、おもめにもめたのです。でも、最後は審判の言った通り「アウト」になって、せっかくのホームランが幻になってしまったのです。
だが、長嶋選手はこのとき、何の抗議もしなかったのです。そして、騒ぎが収まったとき一言、
「次の打席で打てばいいんだ」
と言ったというのです。
つまり、すんでしまったことを、とやく言っても仕方がない。自分は踏んだつもりでも、審判が踏んでいないというのだから、これは審判に任せなければならない。
そんなことより、次の打席のときに、今の失敗を取り返すように打つことだというわけです。
失敗したあと、それを取り返えそうと、新たな気持ちをもって努力していくことが大切なことなのです。
それを教えて下さった長嶋選手の一言、――さすが名選手の一言だと思いました。
私はその一言をいつも頭の中に入れて、事に当たろうと思っているのです。
お母さんにお願いしたいのは、子どもに向かって、
「あなたは、だめねえ」
という一言は、絶対にお使いにならないようにしてほしい、ということです。この一言は、ほんとうに子どもをだめにしてしまうからです。
長嶋選手の一言のように、
「次、出来ればいいんです。もう一度やってごらんよ」
「惜しかったね、もうちょっとだったのにね。もういっぺんやってごらんよ」
と、一言声をかけてほしいのです。
子どもを育てていくときに大事なことは、教え込むのでなく、子どもを慰め、子どもを励ましていくことなのです。
子どもは慰められた、励まされることにやって、自分の力で伸びていくものです。
子どもを励ます一言を忘れないようにしてください。
一言の違いで、気持ちの持ち方まで変わるものだということを、最近旅をしていて、感じたことがあります。
それは、沖縄に行ったとき、沖縄の方に聞いたのですが、沖縄では、昔から「さよなら」という言葉は使わないということなのです。
それで、私が、
「じゃ、人と別れたりするとき、沖縄では何とおっしゃるのですか」
と聞いてみました。すると、その方は、
「沖縄では“またやァ”と言います」
と答えられました。
私はその話を聞いたとき「さよなら」と言うのと「またやァ」と言うのでは、言った方も言われた方も、気持ちの上で、大きな違いがあるなと思いました。
「またやァ」(またね)と言われたとき、すごく親密感があります。「また今度会いましょうね、それまでお元気でね」という温かいつながりを感じるのです。
言う方もきっとそういう温かい心から、「また会いましょう。お会いする時を待っていますよ」と言われるのでしょう。「またやァ」に比べると「さよなら」というのは、なんとなく縁が切れるような感じがするのです。
これこれっきりですよと言った感じを私はもつのです。
沖縄の方にこの話を聞いてからは、私は「さよなら」という言葉を使うのをやめました。そして、
「またねえ、お元気でね」
「またねえ、お会いする日を楽しみにしています」
という気持ちを込めて、
「またねえ」
と言うことにしています。
「またねえ」と言ったあと、私自身心の中にほのぼのとした温かさを感じるのです。
嬉しい言葉です。温かい人間関係を感じる言葉です。
私はふと思いました。二度と会いたくない相手には、
「さよなら」
を使うことにしょうかなとも…。
たった一言の違い――それは言葉だけでなく、心の持ち方まで変えてしまうのです。
だから大事にしたいと思います。
つづく
第三部 ゆかいな子どもたち