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3「わせ」と「おくて」

本表紙

「わせ」と「おくて」

赤ん坊が生まれて、かわいい歯が生えてくるのは、何ヶ月ぐらいたってからでしょう。みんな、同じときに生えてくるものでしょうか。例えば長男も七ヶ月目に生えて、次男も同じ七ヶ月目に生えるのでしょうか。
これは決まっていません。その子どもその子どもによって、違っているはずです。
 ところが、歯の生える時期のことで競争するお母さんが時々いらっしゃいます。
 同じ頃生まれた赤ちゃんを持っているお母さん同士で、いろいろ話をしているとき、
「うちの子、歯が生えてきたのよ」
 と一人のお母さんのおっしゃることを聞いて、もう一人のお母さんが赤ちゃんの口の中に手を入れて、
「あら、うちのはまだ生えていないわ」
 と言って、心配したり、うちの子は劣っているかしらと思い込んでしまったりします。

 私の孫は七人いるのですが、その孫がぼつぼつはい出したとき、見ていますと、両手をそろえて、前後に動かしてはう子ども、右手は余り動かさずに左手だけを前後に動かしてはう子ども、前に行かず後ろにさがっていく子どもと、いろいろでした。
また、這(はう)い出す時期もまちまちでした。這う時期が短く、すぐ立った子もあれば、長い間はっていた子どももあります。
 その孫たちが今は大きく成長しましたが、同じように歩いています。

早く歯が生えて、早くはって、早く歩き出したから、うちの子はいいのだと思うのは、どうでしょうか。そんなことで子どもを比べて優劣を決めるのはおかしいと思います。

 幼い子どものときに、いいとか劣っているとか勝手に判断して、決めてしまうのはやめたいものです。他の子どもとくらべて、自分の子どもを育てることだけはやめてほしいと思います。

人間はひとりひとりがちがうもの

人間というものは、ひとりひとりちがっているものであるということは、あたりまえのことであり、大事なことだと思います

同じお母さんがお産みになった子どもでも長男と次男、長女と次女とでは違っているのです。
 よくお母さんの中で、
「同じ兄弟なのに、どうしてこんなにも違っているのか、不思議です」
 などと、おっしゃる方があります。

 このことについて考えてみますと、お母さんのお腹の中に入っている十か月の間でも、その状態が違っているはずです。
例えば、その間のお母さんの体の調子、健康の状態は全く同じではないと思います。
ずっと健康で、風邪ひとつひくこともなく過ごした十か月、よく風邪を引いたり、熱を出したりしたことのある十か月とでは、やはりお腹の中の子どもに何らかの影響があったと思います。

体だけでなく、十か月の間のお母さんの精神状態も同じではなかったはず。お父さんとの人間関係がうまくいっていたかとか、ちょっとつまずいて気分的にめり込んだとか、心配事があったとか、お姑さんとの間のこととか、いつも違っていたはずです。

 また、お母さんの年齢にもよるでしょう。お母さんが二十四、五歳のときにお腹にいた子どもと、二十八、九歳のとき、三十二、三歳のときにいた子供とでは、お母さんのものの考え方にも違いがありますから、それが赤ん坊に影響せずにはいないと思います。
 生まれて、お母さんに抱かれて育つ数年間の違いも、大きな影響があるでしょう。

 生まれてみたら、まわりには大人ばかりで、子どもは自分だけという長男や長女の場合と、生まれたとき、もう兄や姉がいる次男や次女の場合とでは、やはり違った育ち方になっていきます。

 人間はひとりひとり違っているということは、当然なことです。そして、ひとりひとり違っているからこそ、生まれてきた値打ちがあるのです。
みんな同じであれば、自分の値打ちがないわけです。

 こう考えますと、今、早いとか、遅いとかで、優劣をつけていますが、これはおかしいことです。
 みかんに例をとって考えますと、早く実ものを「わせみかん」といいますし、お正月前後に出てくるみかんは「しゅん」で、遅く出てくるのは「おくてみかん」です。

「わせ」「しゅん」「おくて」を比べて、どのみかんがいいとか、わるいとかは言えないはずです。わせは、わせ。おくてはおくてなのです。わせ、しゅん、おくてとそれぞれのよさをもっているのです。

 人間も同じだと思います。人間にも、わせ、しゅん、おくてがあるのです。そして、それは優劣に関係がないのです。
 幼稚園の五歳児の部屋で、先生が、
「きょうは、箱を作ります。この画用紙で作るんですよ。この画用紙に絵をかいてあります。線の所をハサミで切ります。ここにのりを、貼ります。いいですね。はい、やってください」
 と、おっしゃいました。

 すると、だまったままコツコツ作っている子どももいます。
少し作っては、隣りの子どもの作っているのを見て、比べている子どもがいます。
「先生。これでいいの、ねえ」
 と、少し作っては、先生の所へ持ってきて、たずねて確かめる子供もいます。それも一回でなく、何回もたずねに行きます。

 自分で好きなようにして、切ってはいけないところを切ってしまって、箱にならない子どももいます。

 いろいろな子どもがいますが、これに優劣をつけない方がいいと思います。また早く作り上げる子供もいます。ゆっくりゆっくりやっている子どももいます。これも優劣は決められません。
 出来上がった箱を並べて、先生がいいとかダメとか判決を下すのも、止めてほしいと思うのです。
 幼児の場合は、出来上がりの上手下手が大事なのでなく、つくることそれ自体が大事なのです。自分の手で、物を作るという体験をさせることが大事なことであって、技術的なことばかり力を入れることは、子どもを間違った方向に進めてしまいます。

「ぼく、下手やから、もう作らない」
 という子どもにしたり、
「私、作るのは嫌い」
 という子どもにしてしまいます。
 上手下手よりも、物を作らない子どもにしてしまっては、子どもの将来伸びていくことが出来なくなってしまいます。
 わせ、しゅん、おくては決して優劣でないことを、もう一度しっかり考えてほしいと思います。

子どもの違いは環境の中でつくられる

先生が、子どもたちに、
「はい、ここに材料を置きます。取りに来てください」
 と、おっしゃいました。
 そのとき、いち早く飛び出して来て、サッと材料を持って帰っていく子どもがいます。
取りに出てきたのですが、たくさんの子どもが一度に出てきたので、後ろに下がっている子ども、反対に人をかき分けて取ろうとする子供、そうかと思うと、ゆっくりとかまえて、なかなか自分の席を立とうとしない子どもと、いろいろいます。

 お母さんが見ておられて、すばやく飛び出して、いち早く持って帰って来た子供のお母さんは何とも思われないでしょうが、ぐずぐずして自分の席から立たない子どものお母さんは「早く行きなさい」と、子どもに言ってしまいます。

「ここに色紙をたくさん置きます。この中で自分の好きな色の色紙を一枚持って行きなさい。アキちゃんから順番に来てください」
 と、先生がおっしゃいました。

 先生の机の上には、いろいろな色の色紙がたくさん置かれています。一人ずつ子どもが出て来て、その色紙を一枚持っています。見てみますと、その取り方にもいろんなタイプがあるのです。

 色紙を取りに行く前に「私は赤色」と決めてしまっていたのでしょう。サットと出て来て、ほかの色には目もくれずに、赤色を持って帰る子ども。

「サッちゃん、何色にしたの、桃色なの。じゃ、私も桃色にしようっと」と言って、仲よしの友だちと同じ色にする子供。
 あちこちの色紙を手にした後、先生に向かって、「先生は何色が好き」とたずね、先生が「あなたの好きな色にしなさい」と言われますと、「黄色と青色、どっちもいいな。どっちにしよう」と迷っている子ども。

 いろんな子どもがいますが、どの子が優れているとか、どの子が劣っているとかはないのです。人それぞれが違っているということがよく分かります。

 でも、お母さんにすると、はっきりしない子ども、愚図グスしている子どもには、イライラなさって、つい小言の一つも言いたくなってしまいます。ときには「ダメねえ」という言葉を出してしまわれます。これはやはり気を付けたいと思います。
 こうした子どもの違いは、生まれつきでなく、育っていく環境の中でつくられていくように、私は思うのです。

“愚図”を例にとって考えてみましょう。
 愚図の子どもに、
「あなたは愚図で困らないの?」
 と、たずねてみてください。
「ぼく、愚図で困るんだ」
 と答えるでしょうか。恐らくそう言わないで、きっと、
「別に」
 と答えると思います。
 愚図は、本人は少しも困っていないのです。もしも本人が困っているなら、きっと愚図は自分で直していると思います。本人が困っていないから、いくら人に言われても治らないのではないでしょうか。

 愚図も生まれつきでなく、環境によるところが大きいと思います。例えば――ひとりっ子とか、一番初めの子どもは、愚図とはいかずとも、兄弟の中では、のんびりしたところがあります。
 子どもが一人のときは、家の中で、何をするにも、あわてる必要はありません。おやつをこしらえたとします。
「おやつが出来たから、食べなさいょ」
 と、お母さんが子どもに声をかけます。そのとき、子どもが、
「はあい」
 と返事をして、すぐにおやつの所に走ってきたときと、五、六分たって来たときと、おやつは変化しているでしょうか。
何分経って来ても、おやつは一緒です。何の変化も起きてはいません。
つまの、この子どもはあわてる必要はありません。当然ゆったりとしてきます。

 ところが、私の子どもの頃のように、きょうだいが六人も七人もあるときは、どうでしょう。母親が、
「おやつを置いておくね」
 と言ったとき、もしも五番目の子どもだけが少し遅れて来たとします。
そのときはどうでしょう。もうおやつはなくなっているでしょう。
「お母さん、ぼくのおやつがない」
と、母親に訴えます。そのとき、母親が、
「そうか、そうか、おまえの分がなくなっているのか、じゃ、あげよう」
 と言って、おやつを出してくれましたか。とんでもない。出してくれません。
「お前だけ、愚図グスしているからや」
 と、反対に怒鳴りつけられます。

 こうなると、あくる日からは、愚図グスしておられません。当然すばしこくなります。

型にはめこまない子育てを

この例の如く、子どもに数、そして何番目に生まれてきたかによって、人間はすばしこくなったり、のんびり屋になったりします。
 ひとりっ子などは家の中で、ひとりで、のんびりと生活できますが、きょうだいがあると、きょうだい同士で、いろいろな問題がおこります。いざこざもおこります。
それを自分たちの力で解決していく経験をします。先輩と後輩のつながりも、毎日の生活の中で経験していきます。
 当然ちがった人間になります。

 このように、人間は環境の中で、ひとりひとり違ったように育っていきます。そこでその違っているところを大事見守って、伸ばしていくことを考えたいのです。

 ところが、ここで困ったことには、そのひとりひとりが違った人間を、一つの同じ型の中にはめ込んでいく教育がいいように考えられていることです。
 幼稚園や小学校でも、ともすると、型にはまった人間をいいと評価しているところがあります。

「こんな絵を描くのがいいのだ」
 と、先生が指導して、その先生が示した型の中にはまった絵を描くと、ほめられる。そうでないと、
「あのこの絵はだめ」
 と言われ、子どもは「ぼくは、下手だ、絵はだめだ」という劣等感をもたされてしまっていきます。

 絵だけではありません。すべてのことに、型にはまらない子どもは、認められなくなっていきます。
 考えてみますと、先生の型にはまらない子どもは、自分なりの、独自なものを持っている子どもなのです。

「兄は、よく言うことを聞くんですけど、弟の方は、何かというと、逆らうのですよ。いつでも、私の言うことに、いちいち逆らうのです」
 と、おっしゃるお母様がいらっしゃいますが「子どもが逆らう」といえば悪いことのように受け取られますが、逆らっているのではなく、自分の考えを言っているのです。
自分なりの考えを持っている子どもなのです。はじめ誰でも、自分の考えをもっているのですが、それを言えなくしてしまっているのです。黙って聞いていて、言われた通りにしているがいいのだと教え込まれてしまって、いつの間にか、型にはめ込まれてしまっているのです。

 自分の考えを持って、それを話すことのできる子供に育てたいものです。頭から抑え込まないで、親や先生がその子どもの話を聞いてあげられるゆとりをもってほしいのです。

 型にはめるのではなく、本人の持っているものを大事にしていく教育を目指したいと思います。
 つづく 4 正面を向いて