煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。トップ画像

第二部 ゆとりをもって

本表紙

 1、“ゆとり”って何だろう

きょうも、新幹線に乗って、大阪から静岡までやってきました。
 その車中でも、日本人はどうしてこんなに急ぎたがるのか、不思議に思いました。
 新幹線に乗っていますと、ほんとに親切すぎるなと思うことがあります。
 浜松駅を出てしばらくすると、車掌さんが、
「次は静岡でございます。○時○○分に着きます。次は静岡でございます」

 と車内放送で教えて下さるのです。静岡駅が近づいてきますと、
「あと三分で、静岡でございます。東海道本線の上りは○時○○分で、○番線です。下りは‥‥」
 といたれりつくせりです。そしてしばらくすると、

「まもなく静岡でございます。お忘れ物のないよう、お降りの方はお支度してください。この列車は静岡駅でひかり通過待ちをいたしますので、四分停車をいたします。静岡でございます」
 と、ほんとうに親切です。

 今の車掌さんの言葉を聞いていますと、この列車は静岡駅で、四分停車するわけですから、降りる人は何もあわてることはないはずです。
それなのに、「あと三分」と聞いた途端に立ち上がって、荷物を持って出口に向かって歩いて行くのです。
そして、車内の通路にずらっと列をつくって並ぶのです。

 飛行機の場合も、スチュワーデスが、
「飛行機は止まりましたが、ドアが開くまで少々時間がかかりますので、お席の方でお支度ください」
 と言っているのに、もうドアの所へ立って行って並ぶのです。
 日本人はどうしてこんなに忙しいのでしょうか。

 上野駅などゆっくり歩いておられないぐらいです。小走りに人が歩いているので、それにつられて、別に急ぎもしないのに、小走りで歩いている自分が、ときに滑稽に思えるほどです。

 レストランに入って食事をするときも、なんとなく落ち着いておられないのです。早く食べて、早く出て行かないと、という気分になります。ほんとに、ゆとりがないというか、忙しいというか、落ち着きがありません。

 生活全般、社会全体が忙しく、落ち着きがないようです。その中で暮らしているのですから、個々の人間も忙しくなってしまいます。
 日本人に今必要なのは、ゆとりではないでしょうか。
 子どもを育てていく上でも、このゆとりが大切なときだと思います。

なぜ“早く、早く”と言うのでしょうか

子どもたち、次のような質問をしてみます。
「いつも、お母さんから色々な事を言われると思います。その中で、一番よく言われる言葉は、どんな言葉ですか」
「早くという言葉です」
 全部の子どもが答えました。朝から「早く起きなさい」「早く服を着なさい」「早く顔を洗いなさい」「早くご飯を食べなさい」「早く学校へ行きなさい」というように、早く、早くの連発です。

 「早くしなさい」
 「ぐずぐすしないで」
 これは、お母さんの口ぐせになっています。どうして、そんなに早くしないといけないのかと、疑問を感じます。
「早く、早く」は、お母さんだけでなく、子どもをとりまく、社会全般の問題でもあるようです。学校生活でも、先生もやはり子どもに早く、早くを連発しています。
「早く並びない」
「早く書きなさい」
「早く後片付けをしなさい」
「早く帰りなさ」
 などなど。
 ある子どもが私にくれた手紙です。この子どもは、のんびりしています。あわてることが殆んどありません。フワーッとした雰囲気を持っている子どもです。

《先生
 ぼくのお母さんは、朝でも、昼でも、夜でも、一日中「早くしい、早くしい」と言っています。だから、ぼくはとてもいそがしいのです。
 なんで、あんなに「早くしい」と言うのか、ぼくにはわかりません。
 先生、なんで早くしないといけないのですか。教えてください》
 
 この手紙をもらって、私は返事に困ったのです。彼の質問に対して、彼が満足できるような答えが書けないのです。

 この子どもの質問を、お母さんに出します。なんとお答えになりますか。
 おそらく、すぐに答えられないでしょう。でも、何となく早くしなさい、早くするのがよくて、愚図はいけないことになっています。

理解にも人それぞれのタイプがある

この事を考えてみますと、日本では学校でも、また家庭でも、枠を作って、その枠の中に子どもを入れようとています。
そして、子どもがその枠の中に、きちんと入っていると、先生も、お母さんも機嫌がいいのです。
そして、そういう子どもを「いい子」だと言うけです。ところが、子どもの中には、枠の中に入らない子どもや、枠からはみ出してしまう子どもいるのです。そういう子どももいるのです。そういう子どもに対して、先生やお母さんは、
「この子は、少しも言うことを聞かない」
「この子はだめだ」
「この子は悪い子」
 と、決めつけてしまうのです。

 今、私が話していて、たくさんのお母さんが聞いてくださっていますが、お母さんの中にも、話を聞くときのタイプが色々あるのです。大きく分けて、三つのタイプに分かれます。

 まず第一のタイプは、話を耳だけで聞いて理解できるタイプです。このタイプを聴覚型と名付けておきます。

 第二のタイプは、耳だけでなく、黒板に書かれたものを見ることによって、理解が一層深まるというタイプです。これを視覚型と名付けます。

 第三のタイプは、聞きながら、見ながら、自分でノートに書くタイプです。これを行動型と名付けます。
 大体、この三つのタイプに分かれます。

 私は第三の行動型に属します。ですから、すぐ書いてしまいます。それを見てよく人はが、
「そうして書いたものを帰ってからご覧になりますか」
 と、質問されます。私が、
「いいえ、殆んど見ませんね」
 と答えますと、
「後から見ないのに、どうして書くんですか、無駄じゃないですか」と、おっしゃるのです。この方は第三のタイプを御存知ないのです。
第三のタイプに属する人の多くは、後で見直したり、読んだりするために書いているのではありません。聞きながら、自分の手を動かすことによって理解が深まっていくタイプなのですから、書いていることが大事なことであり、必要なのです。
後のことは関係ないと言ってもいいくらいです。

 話を聞いているときに、三つのタイプによって、聞き方は違ってきます。その子どもの好きな、自分に合ったタイプで聞かせることが大事なのです。
 ところが、授業中には、
子どもがノートに書いていると、先生の中には、
「何をしている。書くのはやめて、しっかり聞きなさい。書く時間はあとで作るから、その時に黒板に書いたものを写しなさい」
 と、子どもを叱る方があります。
これが少しおかしいのです。後で書いても、その子どもの理解を助けることにはなりません。
それはただ先生の書かれたものを、ただ単に写しているだけなのです。
多分テストを受けるときに役立たせるために、写しているに違いないのです。

 先生が子どもを一つの型にはめ込んで、今はみんながこっちを向いて聞く、今から黒板に書いたものを写す、と決めて、その通りに子どもを一斉に動かしているのです。
そして、ノートを集めて、先生が検閲される。何を検閲なされるのでしょう。同じことを一斉に写させたのですから、違っているのは一つもないのです。

ですから、きれいに書けているとか、文字が上手とか下手とか、技術面の事だけで、良いとか悪いとか決められるのです。
考えると、一番大事なことが抜けています。それぞれのタイプの存在を知っていて、その子どもが最も理解しやすい方法で学ばせることが大切なのです。

 一つの枠を決めて、そういう枠の中に入らない子やはみ出す子は、いけないのではなく、自分というものをハッキリと持っている子どもで、人が勝手に作った枠に入ろうとしない子どもなのです。

 お母さんの場合を考えますと、お母さんが子どもを育てるときにも、一つの枠を考えておられて、子どもが三人いるとき、三人の子ども全部、お母さんの枠の中に入れようとなさるのです。

そして、三人とも枠に入っていると、「うちの子どもはいい子だ。私の教育はうまくいった」と思われるのです。
 ところが、子どもも一人一人違った個性を持って、自分で伸びていこうとする意志を持っていますから、なかなかお母さんの思うようにはならないのです。

一番上の子どもというのは、割合枠の中に入りやすいようです。まん中の子どもが一番枠に入りにくい傾向があります。
ですから、三人兄弟をもっておられるお母さんに聞くと、まん中の子どもが一番やりにくくて、困りますなどとおっしゃるのです。

春に咲く花と秋に咲く花

それから、日本の教育を考えますと、明治のはじめから採点主義でした。
子どもたちの何もかんも点数をつけて、いい点と悪い点とかで、子どもを比べて、そして競争させてきたのです。この競争主義が、「早い方がよくて、遅いのは悪い」という考え方を生んだのです。

 そして比較しながら子どもを見ますから、自然と隣の子どもの事が気になってきます。そして、
「隣のアキちゃんができるのに、あなたはどうしてできないの」
 と、隣の子どもに比べて、自分の子どもの優劣を決めたり、
「お兄ちゃんはしっかりしているのに、あなたはどうしたのよ」
 などと、兄弟姉妹の間でも競争させ、比べるのです。

 兄弟姉妹であっても、一人ずつが違っているのです。同じ親から生まれても、例えば、あなたが二十七歳のときに長男が生まれたとします。次の子どもは、あなたが三十一歳のときに生まれたとします。三十五歳のとき、三番目の子どもが生まれました。そうすると、子どもを育てる基になるあなたのものの考え方も、二十七歳、三十一歳、三十五歳で変わっているはずです。

変わった考え方のとき、その親に接するのですから、当然子どもは変わります。それを比べて、競争させるのはやはり間違った方向だと思うのです。
 あるお母さんが、
「うちの子どもは、どうしてあんなに愚図なんでしょう。愚図を治す方法ってないんでしょうか」
 と、質問されました。
 そこで、私が、
「じゃ、一度本人に、“お前は愚図で困らないか”と尋ねてごらんなったらいかかでしょう」
 と申しますと、お母さんは、
「訊ねたことがあるんです」
 と言われるので、
「本人、何と言いましたか」
 と尋ねますと、お母さんは笑いながら、
「別にって言って、平気なんです」
 と答えられました。

「つまり本人は困っていないのですね、それなら、愚図でもいいんじゃないですか。本人が愚図で困りだしたら、きっと治りますよ」と、私は言いますと、お母さんは黙ってしまわれましたが、どうやら充分に納得ではありませんでした。

 とにかく、“愚図”は劣っているだとか、いけないんだとかという考えはやめてほしいのです。
早いのと、愚図とは優劣ではなく種類なのです。どちらが良いとか、悪いとかと決められるものではないのです。

 早く、早くと要求ばかりしないで、もう少しゆとりをもって、子どもを見てやってほしいものです。
 青森県のTさんというお母さんの手紙の中に、次のようなことがありました。

《うちの子どもがとりわけ愚図なものですから、いつもガミガミし子どもを叱りつけていました。あるとき、「テレビ寺子屋」の話を聞きました。

“春先に綺麗に花を咲かせる花もあれば、秋になって大輪の花を咲かせる花もあるのです。
春咲く花がよくて、秋に咲く花はわるい花ではありません。それぞれ咲く時季があるのです。秋咲く花は、いらいらしないで、秋まで待っていたら、きっと咲くのです。
咲くのが遅い花を見て、「早く咲け、早く咲け」といって、引っ張ったりすると枯れてしまいます”
 心にゆとりをもって、子どもを見守っていくのが、ほんとうの親だと思うようになりました。》

 私もTさんと同じ心で、子どもたちの成長を見守っていきたいと思いました。
 つづく 2 肩の力を抜いて