4、子どもの目
「テレビ寺子屋」の放送をご覧になった方から、いろんな手紙をいただきます。
「今日の話はいい話でしたね」
「私にも同じ経験があります」
「大いに共鳴しました」
というお便りもあれば、
「今日の話には、少し納得できません」
「間違っているところがありました」
と、苦情を言われる手紙もあります。どんなお便りでも、私にとっていい勉強になります。
佐賀市のHさんは、「寺子屋のうた」を書いてくださいました。
《 テレビ寺子屋っていいなあ
私をこんなに明るくしてくれる
勇気と希望を与えてくれる
いろんなことを学ばしてくれる
テレビ寺小屋ってすばらしいな
家族が話あえる
笑いがあえる
励ましあえる
おばあちゃんも おじいちゃんも
子どもたちも お父さんも
みんな
温かいぬくもりと
ふれあいを学べた
以下つづく省略
というところです。寺子屋の放送がみんなのものに広がっていくことが嬉しかったのです。
私は、先輩にも、友人にも、そして家の者にもよく言われるのです。
「あなたは少し喜怒哀楽の感情を出しすぎる」
と。若いときから、横で見ていると、楽しいことがあるとすごく喜び、少し具合のわるいことがあると、ひどく落ち込んで、その落差がひどいというのです。
昔から“喜怒哀楽をあまり出す人間はだめだ”と言われていますが、私はそうは思わないのです。嬉しいときは思いっきり喜び、悲しいときは心すむまで泣けばいいと思っています。“まるで子供だ”と言われますが、私は子どもと同じでいいと思っています。
一年生を担任しているときです。私が朝教室に入っていくと、子どもたちが、
「先生、きょうは機嫌がいいなあ」
と言うのです。
「ああ、いいよ。わかる?」
「うん、わかるよ」
「どこでわかる?」
「顔を見たら、わかるよ」
子どもたちも私の顔を見ているのです。そして、私の機嫌のよしあしを察するようです。
「ワァ、きょうはわるいわ」
「そんな顔いやや」
「先生、いつもの顔して」
と言います。その一言で、私は機嫌をなおします」
子どもはじっと見ているのです。
鞄でお母さんの機嫌がわかる
アキラくんが私の所へ来て、
「ぼくのないしょ話を聞いて」
と、言いました。
私の学級では「ないしょ話」を聞く時間というのが、毎日つくってあったのですが、昼休みのとき、私が藤棚の下のベンチにすわっているときに、アキラくんが来たのです。
「ああ、聞かせてもらうよ」
と、私が言いますと、アキラくんはさっそく話し出しました。
「お母ちゃんの機嫌のよいときと、わるいときを見分けるいい方法があるんだよ」
「そう。お母さんの顔でわかるんだね」
「ううん、ちがう。別の方法だよ」
「別の方法って…」
「うん、ぼくの鞄でわかるんだ」
「へえ、鞄でわかるの。どうして」
「あのね、ぼくが家に帰ったとき、ただいまと言って、鞄をポーンと放り出すんだ。そのときお母ちゃんが言う言葉でわかるんだ」
―へえ。どんなふうに」
「お母ちゃんが“だめじゃないの、勉強道具を投げたりして。なにしてんよ”と、きつい言葉で言うときは、機嫌がわるいんだよ」
「じゃ、機嫌のいいときは」
「お母ちゃんがちょっとやさしい声でね、“勉強する道具でしょう、大事にしないと、頭がわるくなるよ”と言ったら、機嫌がいいんだよ」
と話してくれました。
子どもって、よく見ているなと思いました。
ヒトミちゃんが書いた詩に、次のようなのがありました。「お母さんの足音」という題です。
《 私の母ちゃんは
いろんな足音をたてます
朝はトントントントン・・・
これは朝の仕事が忙しいとときです
ドドドドドド
これはきげんがわるいときです。
気をつけないといけません
ドンドンドンドンドン
これは私か弟が
おこられるときです
スー スー スー
上品な音です
お客さまがいらっしゃいました
トット トット トット
これはきげんがいいときです
一番きげんのいいときは スキップです
口笛吹けば 最高です》
愉快なお母さんです。お母さんは、その時その時で足音を変えてはいらっしゃらないと思うのです。でも、その時の気持ちで、足音が変わるんですね、それをちゃんと、子どもは耳で感じているのです。
恥ずかしい思い出
私に、はずかしい思い出があります。それは一年生を担任しているときでした。
子どもを帰らせたあと、私は研究会に急いで出張しなければなりませんでした。大急ぎで校門まで来たとき、教室に大事な書類を置き忘れたことを思い出しました。それで、私はあわてて教室に行きました。
その頃、学校の規則で、廊下や教室は上履きに履き替えているようになっていました。教室の前にある廊下の入り口に来たとき、上履きがありません。
職員室に置いてあるのです。靴を脱いであがろうと思ったのですが、掃除のあとで、廊下の所々が水で濡れていました。靴下であがると、ぬれて困るのです。はだしにもなれません。
ちょっとのことだし、靴のままでいいだろうと思って、そのまま廊下にあがりました。でも、どこかに良心があったのでしょう、かかとをあげて、そのまま廊下から教室に入って、書類を持って、教室を出たときです。
運動場にいたのでしょう、私の学級の男の子が三人ほど、通りかかりました。そして、私をみるなり、
「先生、靴をいたまま、教室に入った」
と大きな声で言うのです。私はおもわず、
「急用だから」
と言いました。すると、子どもたちが、
「急用って、なに」
と、たずねます。
「急ぐ用事だよ。急ぐ用事があったからね」
と、私はごまかして、廊下から運動場に出ると、そのまま校門の方へ走っていきました。
そのあくる日のことでした。
私が朝、教室に行きますと、数人の子どもたちが、靴をはいたまま、かかとをあげて、教室の中を歩いているのです。私が、
「どうして靴をはいたまま、教室に入っているんだ」
と、叱るような調子で言いました。
すると、子どもたちが、
「急用、急用」
と言うのです。
私は驚きました。私の真似をしているのです。私はすぐに、
「先生がわるかった」
と、子どもたちに、あやまったのです。
お母さんにも、これによく似たことがありませんか。子どもに痛いところをつかれたとき、ごまかすことがあるでしょう。でも、ごまかしてはいけないのです。素直にあやまることです。
あやまるということは、なかなかむずかしいのですが、ごまかしては、きっと後がよくないのです。
子どもに言い訳をしない
ある日曜日のことです。
お父さんとお母さんと三人の子どもの。昼食のあとの出来事です。昼食がすんだあと、お父さんは縁側で新聞を読んでいます。一番上の高校生の子どもは自分の部屋へ、中学生と小学生六年生の子どもは庭に出て遊んでいました。お母さんは台所で、食事の後始末をしていました。
そのとき、台所でガチャーンと物の割れる音がしました。あッ、われたなと思って間もなく、三人の子どもが台所に集まってきました。
お母さんの足元に大皿が真っ二つにわれてころがっていました。これは見ただけで大皿、そして割った人はお母さんということはわかっています。それなのに、三人の子どもたちは、
「誰がわったんや、ねえ、ねえ」
と、うるさくお母さんに声をかけるのです。
するとお母さんは、
「三人ともやかましいわね、あっちに行っていなさい」
と言います。
でも、子どもたちは行きません。相変わらず、
「どうしたんや。一番上等のお皿とちがうの」
と、やかましく言います。
きょうは自分たちが失敗したのではありません。いつもなら、「あっちへ行け」と言われたら、サッサと行きますが、きょうは自分たちの方がお母さんの立場より優位に立っていますから、動かないのです。
子どもたちがどんなにやかましく言っても、お母さんはだまっています。
なんとも返事をしません。
しばらくして、われてころがっている大皿を拾い上げました。
そうして、まだ大皿に愛着があったのでしょう。割れた所を両方からくっつけるようにしました。それを見ていて、一番上の子どもが、
「あ、それは無理や、くっつかないよ」
と言いました。
するとお母さんは、
「わかっています」
と、大きな声で言い返しました。それを聞いた途端に、まん中の子どもが、
「わかっているんやったら、せん方がええよ」
と言います。
お母さんはだまってしまいました。
それから、しばらくたってから、お母さんが子どもたちに、
「お皿一つぐらいで、いつまでやかましく言っているの。このお皿はね、もう古いお皿で、ひびも入っていたし、そんなに大事なものと違うの」
と、言い訳をしました。子どもたちは顔を見合わせました。
これで、この騒ぎはすんで、子どもたちはそれぞれ居た場所にもどっ行きました。ですから、お母さんにすれば、これでもう済んだと思っていらっしゃるでしょうが、実は済んでいないのです。
三人の子どもたちが戻るときに言った言葉を、お母さんは聞いておられないのです。
まず、高校生が言いました。
「あの皿、誰がわったんや。自分が割ったのになぁ。何でぼく等が文句を言われなあかんのや、こんなアホなことって‥‥」
と、不満そうに言うのです。すると中学生の子どもが、
「そうや、そうや、お母ちゃんって自分勝手や。あれ、もし僕が割っていたら、今ごろどうなっていたと思う?」
と言いました。すると、小学生の子どもが、
「やっぱり大人は徳やなあ」
と、ポツンと言いました。
お母さんにすれば、目先のごちゃごちゃした事件が済んで、やれやれと思っておられるでしょうが、子供の目はごまかせませんし、子どもの心に残った不満は消すことができません。
次にもしも子どもが失敗したとします。そのとき、お母ちゃんは必ず。
「あなたがいけなかったんでしょう。あやまりなさい」
と、叱りつけられるでしょう。でも、子どもは謝らないかもしれません。心の中で、
「前の皿を割ったときはどうだった。お母ちゃんは謝らなかったじゃないか」
と、考えているかもしれないのです。
お皿を割ったとき、なんにも言わないのに、子どもたちが集まってきました。これは、“失敗したときに、お母ちゃんはどういう態度をとるのかしら”
と、思って、それを見に来たんでしょう。ですから、子どもたちに教えるのには、最もいいチャンスなのです。
「いつもあなたたちが失敗したとき、母ちゃん叱っていたのに、きょうは母ちゃんがぼんやりして割ってしまった。みんなびっくりさせて悪かったわね、ごめんね」
と言って、頭をさげてごらんなさい。きっと子どもたちはそれで、もうなんにも言わないでしょう。
ひょっとすると、一番憎たらしい年齢の中学生の子どもが、
「お母ちゃん、これからもあるこっちゃ、気を付けや」
と言うかもしれません。それを聞いたとき、腹を立てずに、
「そうやなあ、お母さんも若くないんやから、気をつけなあかんなあ」と、笑いながら答えればいいのです。
それで、子どもたちは納得するのです。そして、心の中で、失敗したときは、今のお母さんのように、素直に謝れるのがいいんだということを学ぶのです。
子どもは自分の目、耳、からだ全体で、お父さんやお母さんの態度や行動を学んでいっているのです。ですから、ごまかすのが一番よくないと思います。
私も年齢を取ったせいですか、この頃は割に素直に謝ることが出来るようになりました。お互いこういう気持ちをもってつき合っていく方が、心がなごみますし、生活が楽しくなっていくようです。
つづく
5、 詩から学ぶ子どもの心