5、 詩から学ぶ子どもの心
ずいぶん前になりましたが、岩波書店から「写真文庫」というシリーズの本が出版されました。その中に『一年生』という本がありました。
その写真集は、長野県の一年生担任の先生が、教室の中にカメラを持ち込んで、一年間子どもの写真をお撮りになって、編集された本です。私はこの本を手にしたとき、子どもの顔のすばらしさに魅せられました。
私にとりましては、忘れられない本の一つです。
最近、斎藤真一さんというカメラマンの方が、九州の天草の一番端にある牛深の町の小学校の大之浦分校に行かれて、子どもたちの姿をお撮りになった本、
『海に向かってとんだよ』があかね書房から出版されました。
その本を読ませていただいたとき、岩波文庫『一年生』を見たときと同じような印象を受けました。子どもの顔がすばらしいのです。
この本には写真だけでなく、子どもさんが書かれた詩が掲載されているんです。その詩を読んで一層感動しました。
一年生の子どもの詩です。
《ゆうべ
かさをかぶって
べんじょのちりがみを
かいにいきました
かいちゅうでんとうを
つけていきました
あめにぬれるので
だっこしました》
雨が降る中を、チリ紙を買いに行って、だっこして帰って来るという気持ちが嬉しいですね。上手とか下手とかでなく、気持ちが伝わってくるのがすばらしいと思います。
《 きのう
ばあちゃんのかたをもみました
あしと せなか おしりに
のってあげました
ばあちゃんが
五十円くれました
わたしは アイスはかいません》
私は最後の一行を読んだとき、きっと平常から言われているんでしょう、あまり冷たいものを買ったらいかんよと、それをこの子どもが一生懸命守ろうとしている気持ちが出ていて、嬉しくなりました。
子どもの詩というものは、ほんとうにすばらしいと思うのです。きょうは子どもの詩を通して、考えてみたいと思います。
詩に綴られた母親の想い
お母さんの事を書いた詩です。
《 お母さんは
みほちゃんにおっぱいをやる
みほちゃんは目にしわをよせて
両手でおっぱいをしっかりにぎる
いただきますをするように
ごく ごくと すいついている
お母さんのおっぱいは
もう少しさがっている
わたし 清一 ひろみ しゅう二と
四人もつづけて飲んだんだからなあ
空っぽなんじゃないかなあ
それだったら みほちゃん
ごめんね》
今、乳を飲んでいるのは、五番目の子どもなんですね。もしも足らなかったら、私たちが飲んだからだと、母親と妹に対する心のあたたかさがにじみ出てします。
《「ただいま」
お母さんが仕事から帰ってきた
目がだらりんと下がり
顔が赤い
かみの毛はくしゃくしゃだ
お母さんはだまったまま
買ってきたおかずを運ぶ
一日中ミシンをふみつづけて
つかれているんだな
お母さんの後ろにまわって
かたをもむ
ねんどのかたまりみたいに
かたい
持ち上げるように
持ち上げるようにもんだ
お母さんの目が
ばっちりあいた》
働いているお母さんへのねぎらいのあたたかさ、お母さんの立場をからだを通して、わかっている子どもの心、しみじみとしたものを感じます。
《 お父さんは山口へ働きに行って、いない
「お母さん、父親さんかん日、どがんすいと」
と、心配そうにいう
「よかと、お母さんにまかせとけ」
と、わらっている
お母さんが教室にはいってきた
あっ、お父さんのぼうしをかぶっている
お父さんの茶色のジャンパーだ
首にはタオルをまいている
わたしの方を見てわらっている
「ようにあうよう、お母さん」
お父さんがいなくても
来てくれる
「やあ、祥代さんのお母さん、男のかっこうばして、きとらい」
みんながわらった
わたしはいっしょうけんめい
手をあげて発表した
あとで、ほかのお父さんたちにまじって
竹馬を作ってくれた
さすが、わたしたちのお母さん》
いいお母さんだと思いました。お父さんがいないので、どうしょうと言ったら、まかしときと言って、お父さんのジャンバーを着て、タオルを首にまいて、参観に行かれたのは、勇気もいりますが、ほんとうに子どものことを思っているあたたかい心が出ています。
いちばん最後に、「さすが、わたしのお母さん」と叫んだ子どもの嬉しさが見事にあらわれています。このようなお母さんが一人でもたくさん増えてきてくれたらなと思いました。
私はこの本を初めから終わりまで、ほのぼのとした気持ちで読みました。
とにかく子どもの詩はすばらしいものがあります。素直に、自分の心を書き綴っているだけに、読むものに強い感動を与えるのです。
子どもには詩の心があふれている
私の学級の子どもたちの書いた詩を通して、考えてみたいと思います。
六年生のリョウちゃんという子どもなのですが、目立たない子どもでしたが、「指紋」という詩を書いてから、自信を持ったのでしょう、勉強もぐんぐん伸びてきました。
今、あなたの手を見ながら、次の「指紋」という詩を読んでください。
《 ぼくは
手の指紋をじっと見ている
まるで等高線図だ
急な山あり 平らな山あり
あ、小山の山もある
親指の指紋は
平らな子山で
野原になっていて
木が二、三本はえている
緑の小人が遊んでいる
人差し指の指紋は
急な山で
道が横に曲がっている
中指は一番高い
いつでも 雪がつもっている
大きな、大きな山脈である
薬指は
だんだん畑になっている
いつも作物が
青々と実っている
小指は
土俵で 小人が相撲をとっている
小さな小さな道が 続いている
五つの山はいつも平和
平らな小山に大きな山脈
五本の指は そろっている
どの山も
きれいな花が咲いている
かわいい小人も住んでいる
夜露をたべて 住んでいる
ぼくは机の前で
じっと指紋を見ていた》
これは六年生の子どもですが、自分の指紋をみていて、これだけの事を想像していくのに、感心してしまいました。子どものからだの中にある詩の心のすばらしさに胸をうたれます。どの子供も、詩の心をもっているのです。
「うちの子どもには、こんな詩はかけない」
と、お母さんがあきらめたり、きめつけないことです。
おとなは人によく思われようとか、なんとか笑わせようとか、おもしろく書こうとなどと考えますが、子どもはそんな事は考えていません。
自分が目で見たもの、耳で聞いたもの、感じたもの、考えたことを、自分の言葉で綴るのです。それだけに、読む人に強い感銘を与えるのです。
手伝ってあげたくなるお母さん
《 うちのおかあさん
私はお母さんが大好きです
よく働くお母さんです
いつも家の中を動きまわっています
元気なお母さんです
でも少しのんきなところがあります
買い物に行って、よく忘れてきます
おかずをたいていて、三回に一回は
こげつかします
そのお母さんが、私に
「お前はボーッとしているなあ」
と言います
私は
お母さんを見ていると
手伝ってあげたくなります》
「手伝ってあげたくなるお母さん」と「手伝う子ども」、いいなと思います。
お母さんが少しのんきで、少しボーッとしたところがるというのは、いいことだと思っています。
少しボーッとしたところのあるお母さんとつきあっていると、子どもの心が安定するように思うのです。
私の事で、こんなこともありました。受け持っている学級の子どもの一人が私のそばに来て、じっと私の顔を見つめるのです。「ね、先生の顔に何かついているの」
と言いますと、
「ううん、なにもついていないよ」
と答えました。
「じゃ、なぜ先生の顔をそんなに見るの」
「あのね、先生‥‥なんの苦労もないの」
この言葉で、私は思わず笑いだしてしまいました。
「先生だって、苦労はあるよ」
と言いますと、
「そうかな」
と、不思議そうな顔をして、
「じゃ、悲しいことは」
「ふうん、じゃ、つらいことは?」
「つらいことだって、あるよ」
「じゃ、いやなことは?」
「いやなことだってあるよ」
「ふうん…ほんとかな」
「どうしてそんなことを聞くんだい」
「あのな、先生り顔を見てたら、苦労なんかない顔をしているもん」
と言うのには、恐れ入りました。でも、子どもにそう思われていることは、嬉しいことでした。
もともと私の顔がどことなく間が抜けているのが、子どもにそう思わせたのだと思いました。
お母さんもどこか抜けたようなところがあると、子どもは安心するのです。子ども心が安定すると思います。そして、楽しい雰囲気になれると思います。
お母さんのゆとりとユーモアが子どもを成長させる
《 うちのお母ちゃん
うちのお母ちゃん
いつも体重を気にしています
やせたい、やせたいと言っています
お風呂からあがると
すぐに体重計にのります
そして、体重計に向かって
「少しもへらんやないか」
と、おこります そして
体重計ヲムガチャガチャいわせます
あんなにしても
体重は減らんと思います
ときどき私に
「少し肉やろうか」
と言います
「いりません」
と、私が言うと、お母ちゃんは
「お前と私は親子やろ」
と言います》
楽しい親子ですね。家の中にユーモアがただよっていて、明るい家庭の様子が手に取るようにわかります。
《お母ちゃんは忙しい
お父ちゃんも 妹も、ぼくも
何かあったら すぐに
「お母ちゃん お母ちゃん」
というて
お母ちゃんを呼びます
だから、お母ちゃんは忙しい
お母ちゃんは
自分のことより
ぼくらの事ばっかりしている
お母ちゃんがいなくなったら
ぼくの家は どうなるだろう
それを思うと ぼくは
お母ちゃんを大事にしないと
いけないと思う
でも あの顔を見たら
さからいたくなる
ふしぎだな》
人間の本音が見事に書かれていると思います。子どもは、お母さんはよく働いて、ほんとうにえらいと思うし、お母さんが好きで、大事にしたいと心から思っているのです。
でも、お母さんの顔を見ていると、自分でもわからないうちに、逆らいたくなってくるのです。これが人間なのだと思います。お母さんにしても、自分の子どもですから、誰よりも好きで、いとおしいのです。
ところが、顔を見ていると、頭にくることがでてくるのではありませんか。
ですから、お母さんも、子どもがさからうとか、言うことを聞かないといって、いちいち本気になって、カッカッしているのは、あまりにもユーモアがないと思います。ゆとりがないと思います。
《テスト50点
算数のテスト50点
きょうおこられるなと思って
「テスト、かえしてもらった」
といったら、お母ちゃんが
「何点や。その顔はあまりいい点とちがうな」
といった
「何点と思う」
と、ぼくが言ったら
「100点とはちがうな、70点か」
と、お母ちゃんが笑いながらいう
「もうちょっと下や」
と、ぼくがいうと」
「まだ下なのか。じゃ、60点」
という
「もう少しや」
と、ぼくが言ったら
「まだ下の50点か」
と、お母ちゃんがいう
「あたり」
と、ぼくがいうたら
「半分か。ようやるなあ。あきれるわ」
と言って、お母ちゃんは笑っている
ぼく、おこられずにすんだ》
実に楽しい親子だなと思います。二人の対話を聞いていると、平常からの親と子のなごやかなつながりを感じます。
点数が少しぐらいだめであっても、このお母さんのようなゆとりをもって、子どもに接してほしいと思うのです。ユーモアがあって、楽しい人間関係の中でこそ、子どもはのびのびと成長していくことを私は信じています。
つづく
第二部 ゆとりをもって