一行作文
今日は長野県に行きました。
私は昔話や童話を勉強しているのですが、長野県には楽しい昔話の多い所です。
「ものぐさ太郎」や「龍の小太郎」、そして、「おばすて山」などは有名です。
それとともに、私の好きな小林一茶が生まれたところなのです。私はさっそく、一茶に関係ある所を訪ねました。終焉の地や「やせ蛙のお寺」などを。
“信濃では月と仏とおらがそば”
これは信濃を代表した一茶の句ですが、一茶の句と言えば、
“われて来て遊べや親のない雀”
“雀の子そこのけそこのけお馬が通る”
を思い出します。小さなもの、弱いものに対して、温かい心を通わせています。
私はその一茶の心にひかれます。一茶の句からは、しみじみとしたものが伝わってくるのです。
“草花をよけてすわるや勝ち相撲”
“寝返りをうつぞうこのきりぎりす”
すばらしいと思います。勝った人間におごらずに、すわるときに、下に小さな名もなき花が咲いているのを見て、よけて座るという心――今の人に欲しい心です。
子どもとともに作った短い作文を思い出しました。その話をしたいと思います。
なぜ作文がきらいになるのか
私は初めて学級を受け持つとき、子どもの考えを知るために、色んな事をたずねるのです。例えば――
「好きな勉強は何か?」
「きらいな教科は何か?」
「今、やってみたいことは?」
「先生に注文したいことは?」
などと、たずねてみます。そして、必ず、
「作文は好きですか、きらいですか」
と、たずねます。そうすると、まず十人のうち九人は「きらい」と答えます。
お母さんに
「今から、自分のことを、何でもいいから、書いてもらいます」
と、私が言いますと、お母さんきっと「いやだな」と思われるでしょう。
自分のことを、自分で書くのに、どうして、いやなのでしょう。
作文がきらいだという子どもに、
「どうしてきらいなのかな」
と、たずねてみました。
「ぼく、作文が下手なんだ」
と答える子どもがいます。
「作文が下手だ」というとき、上手下手の標準をどう決めたのでしょう。
これは学校で作文を書いたとき、いつも点をつけられるのです。“優”だとか“良”だとか、または三重丸、一重丸と優劣をつけられるのです。
私は、
「ぼく、作文。大きらいや」
と言う子どもがたくさんいると、ファイトが湧いてくるのです。その「きらいだ」と言った子ども好きになるようにして見せると、自分に言い聞かせて、いろいろな方法を取ってみるのです。
作文を一行で書かせるわけ
その一つに、「一行作文」を書かせてみせると言うのがあります。
「さ、これから作文を書いてもらうよ」
と言って、原稿用紙とハサミを持って、子どもの前に立ちました。子どもたちは、ハサミを持っている私を見て、不思議そうにしています。
原稿用紙は、縦に二十字、横に二十行書けるようになっています。
私は、ハサミで、一行づつ切り離していきました。そして、一行ずつを一人ずつ渡しました。子どもたちは、びっくりしたよう顔で、私を見ています。
「これ、何?」
「これに作文を書くの」
と、子どもたちがたずねます。
「今日の作文は、この原稿用紙からはみ出して書かないように」
と、私が言いますと、子どもたちは、
「えッ、二十字しか書けないよ」
と言います。
「そうだよ。二十字以内の作文を書くんだよ」
「へえ、そんなに短いのを書くの」
子どもたちは、今まで作文というと、もっと長く書きなさい、もっとくわしく書きなさいと言われてきているので、今日の作文は意外だったのでしょう。子どもたち同士でも、ガヤガヤ話し合っています。
「何を書くんですか」
と、ヒロシくんがたずねました。
「これから、街の中を散歩するんだよ。一時間ほど歩く。その間に自分が見たもので、おもしろいなとか、いいなとか、変わっているなと思ったことを、二十字以内で書けばいいんだ。出発ッ」
と、私は先頭に立って校門を出て行きました。子どもたちは、例の原稿用紙とエンピツを持って、ついて来ます。
それから、一時間ほど町の中を歩き回りました。そして、教室に帰って来て、一行作文を書かせました。
作文の時間になると、しばらくの間こうしたことをくりかえしたのです。
子どもたちも初めは戸惑っていましたが、だんだん一行作文に慣れてきて、興味を持ち始めました。自分で、家で一行作文を書いて持って来る子供も出て来てきました。
アヤメが咲いた。となりの犬が見に来た。
コウゾウくんの一行作文です。私は実にいいなあと思いました。「アヤメがきれいに咲きました」というのではなく、「となりの犬が見に来た」と言う言葉で、アヤメの美しさがよく表れているし、コウゾウくんはきっと隣の犬が好きなんだなと思ったのです。
おめでとうと言われた。くすぐったかった。
誕生日の日に、家族の人たちに「おめでとう」と言われた。そのときの漢字を書いたのがユキコちゃんです。「うれしい」と書かずに「くすぐったかった」と書いたところがいいなあと思いました。自分の体で感じたことを書いているので、生き生きしていますし、その嬉しさの大きいことも読んでいてわかるのです。
お母さんの手つめたい。しんどいのかな。
お母さんの手バサバサ。何でもできる手。
この二つの作文には、お母さんに対する気持ちがよく表れています。長い文章で、お母さんに感謝する言葉を並べ立ててあるよりも、この短い二十字の作文から、親と子の温かい生活の姿がよくわかるのです。
子どもたちに、
「作文は長い、短いで、良いとか、悪いとか決められないのだ。短くっていい、自分の目で見て、自分の言葉で、素直に書くことなんだ」
ということを知ってほしいと思うのです。
いくつか一行作文を紹介してみましよう。
お母ちゃん、むこう向いたままおこる
お母さんが何か用事をしながら、子どもの方を向かないで、むこうを向いたままおこっておられる姿が思い浮かんできます。
これなども、人に注意をしたり、言い聞かせたり、??ったりするときに、気を付けなければならないことです。叱るときには、必ず子どもの顔を見て話すことです。
弟が机の絵をかいた。目も鼻も口もある
幼い弟で、まだ幼稚園にも行っていないのです。机を描いて、それに目も、鼻も、口も描いてするというのです。いかにも幼い子どもの心が出ています。
おばあちゃんの口から昔話がこぼれてくる。
「こぼれてくる」という表現が何とも言いようのないほど、いい表現だと思うんです。おばあちゃんが孫にお話をしている。「昔なあ、この町の近くになあ…・」とポッンポッンと語りかけてくる。子どもがコクンコクンとうなずきながら聞いている。家族の温かさが伝わります。その様子が「こぼれてくる」という言葉で、よくあらわされています。
*
トンボがとんでる、セロハンのはねで、
雨がふる。きょうの雨はいい音をしてる。
カンナが背のびして咲いた、ぼくより高い。
停電になった。山の中みたい。
子供の目や子どもの耳は、すばらしいと思います。
*
手袋に穴が開いている。しもやけが赤い
手袋に穴が開いて、そこから、しもやけの赤いのが見えているのでしょう。それをじっと見ている子ども、手袋を買ってほしいという気持ちが出ているし、まだ辛抱できると思っているのかもしれません。
早く春が来たらいいのにという心が、この一行作文から伝わってきます。
自分の言葉で表現する
こうして、子どもたちに一行作文を書かせていますと、ときどき、
「もう少し長く書かせて」
と言ってくる子どもがいます。でも、私は、
「きょうも一行作文です」
と言って、しばらくの間は一行作文をつづけさせるのです。
トミオくん――この子どもはおもしろい子どもで、ひょんきんなところがあります。そのトミオくんが私の前に来て、土下座をして、
「先生僕の頼みを聞いて」
と言うのです。私が、
「そんなところに座らないで、さ、立って。トミオくんの頼みを聞くよ」
と言いますと、
「ほんと、ほんとに聞いてくれる?」
と、真剣な顔つきです。
(何の頼みだろう)と思いながら、トミオくんの顔を見ながら、
「聞くよ、頼みって、なんだい」
とたずねました。すると、トミオくんは、
「二行作文を書きたいんだ。ね、もう一行増やしてもいいでしょう」
と言うのです。一行ではどうしても入らない。もう一行書きたいことがあると言うのです。
「ああ、二行になってもいいよ」
と言いますと、トミオくんは飛び上がって喜ぶのです。こうして、二行書きたいという子どもが何人か出てきました。
一行作文を書いた後、みんなで読み合ったり、どれが好きかなどを発表しあったりするようになりました。これを続けていますと、
アヤメが咲いてる。きれいだな。
よりも、コウゾウくんの書いた、
アヤメが咲いた。となりの犬が見に来た。
の方が好きだという子どもが増えてきます。つまり「きれいだ」という言葉を使うよりも、もっとそれを別な言葉で、よりきれいに感じさせる方がいいんだと思うようになってきました。
「リンゴは赤い、
木の葉は緑、空は青い」などと決めつけてしまわないことなのです。自分の目でよくたしかめて、自分独特の言葉で表現することが大事だと思うんです。
人と同じでなく、人と違ったものの見方の出来る子どもを大事にしていきたいのです。
あるお母さんが子どもの作文のことについて、私の意見を求められたとき、私は次のようなことを書いて、そのお母さんに渡しました。
《子どもの書いた言葉を読んでいますと、つくづく考えさせられるのです。
子どもは自分の目、耳、心にふれた驚きと珍しさを、大胆にしかも素直に書いています。私はそれを崩さないで。また曲げてしまわないで、まっすぐに伸ばしていくように、そっと見守っていきたいと思っています。
大人の考え方。大人の力、大人のしきたり、そんなものはグチャグチャに丸めて、ごみ箱にでも捨ててしまおうと思っています。
短くなった鉛筆をなめながら、たどたどしく綴っている子どもたちを、私は見守って、思う存分書かしてやりたいと思います。》と。
私はこども作文は、点をつけるものではないと思うのです。
本人の言いたいことをそのまま私たちが聞くことです。作文を上手とか下手とかいうここだけで見ないようにしていきたいと思っています。
つづく
3、子どもは楽しい