私たちが人生で出会う運命的な人間、自分の人生に決定的な影響を与える赤い糸で結ばれた異性。そういう人はこの世にたった一人しかいないと思いがちですが、私の考えでは、最低でも五人います。 トップ画像赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

運命的な出会いは最低5人いる

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ピンクバラ運命的な出会いは最低5人いる

私たちが人生で出会う運命的な人間、自分の人生に決定的な影響を与える赤い糸で結ばれた異性。そういう人はこの世にたった一人しかいないと思いがちですが、私の考えでは、最低でも五人います。

一人目は自分を性的に大人にしてくれた相手。

つまり童貞や処女を与えた相手に、だれでもまず運命の結びつきを感じる。近ごろでは、中学生くらいでこの第一の運命の人に巡り合うことも珍しくないわけです。
 

二人目は精神的に自分を成熟させてくれる人

たとえば大学時代に、学問をふくめてさまざまなことを教え、導いてくれた恩師とか、OL時代にものの考え方を教えてくれた上司など、恋愛をふくめて巡りあった尊敬できる人間。

 三人目が結婚相手。

人生でももっとも長く自らの伴走者となる相手。
 浮気のような一時的な相手でなく、いまの伴侶と別れてでも生活をともにすることが真剣に検討の対象となる人です。
 もちろん実際に、この第四の運命の人といっしょになるため、現在の配偶者と離別する人もいます。
 

五人目は年を取って伴侶に死に別れたのちに

巡りあった、第二の人生を託したい、託してもいいと思える相手です。
 私の知人の男親の例ですが、八十五歳になるそのご老人は壮年のころに奥さんを病気で亡くしたのちも、独身で元気で暮らしてきた。ところがここへきて突然、精彩をなくし、食事にも手を付けず、体もみるみるやせてしまった。

 驚いた息子夫婦が問いただしてみると、ご老人には六十五歳になる恋愛相手がいて、彼女もまた最近になって他界してしまったというのです。

八十五にもなって、そんなことがあるんでしょうか・・・・

 と、知人はため息をついていましたが、恋愛感情に年齢は関係あません。「熟年性革命報告」(文芸新書)によると、老人ホームでは、九十歳を過ぎた男と七十歳後半の女がセックスして、杖なしで歩けるようになった、という実例があるくらいです。

 常識的には年をとってセックスへの執念が減じたぶん、愛情はプラトニックに純化すると考えるでしょうが、違います。セックスの愛情が深かったぶん喪失感もひとしおで、ご老人は生命にかかわるほど衰えてしまったわけです。

 聞いて、私はちょっと感動しました。ご老人にとっては、その二十歳年下の女性が歳晩年に巡りあった第五の運命の人だったのでしょう。彼にとって彼女は、最後のあげまん女性だったのです。

 このように、人生において運命の人は最低でも五人いる。いいかえると、人生の階段そのときどきであげまんの質は変化するものであり、その相手から受ける運気にも波があるということです。
 若いときのセックスや恋愛の相性、老後をともに生きる老いらくの相性・・・・それぞれ最適の相手は実は異なっているものなのです。

 したがって、結婚した相手が相性の悪いさげまん女性であったとしても、それ以後にも、人生の階段に見合う第四、第五の運命の人に出会う可能性がある。
 そして、その新しいあげまん相手から、強い上昇運を得るということも十分ありうるのです。

運は動かすことで生きてくる

女をあつかうことは運をあつかうことだと述べましたが、まさに、運はあつかうものであってじっとためておくものではありません。お金と同じく、運は動かして増やすもの、ストックよりもフローすることで育運、盛運が可能になるのです。

明治の文豪・幸田露伴が「殖運」の三原則ということをいっています。殖運は殖産や利殖と同様、運を増やすことですが、露伴はそのために、次の三点をすすめています。

@運を惜しんで使え
A運は周囲に分け与えよ
B運の種をまいておこう

つまり、運はていねいにあつかわなくては逃げていってしまう。また、到来物はみんなに分け与えることが福徳を増すように、運は周囲に分配することで増やすことができるというのです。

また、作家の林真理子は一年に一回、桃の季節になると実家のある山梨に、各社の担当編集者を招待します。花見は名目で遊びが目的でしょうが、これは殖運にかなっています。見方によっては若い編集者に運を植えることで大きく育てる。運の動かし方としてみごとで、編集者にとってのあげまんといえます。

このように運は生き物ですから、うまく動かしてやらないと腐ってしまう。運は「動詞」をともなうことではじめて、それを身につけ、また活かせるものなのです。文豪にならって、その運気を増す動詞をいくつか紹介しておきましょう。

●「運ぶ」

文字どおり運を運ぶもので、実際に自分の体を運ばないことには身につけられません。
以前、みごと早稲田大学に入学したのに、その後、騒ぎを恐れて登校しなかった広末涼子。彼女の人気が低迷モードに入ってしまたのは、直ちに、そこへ自分の体を運ばなかったために運気が逃げてしまったからです。

私はひそかに、彼女はさげまんではないかと予想していましたが、最近、彼女自身が「私”さげまん”かも」とラジオで発言したのを聞いて、妙にうなずいているところです。 

運ぶ、動く、歩くことを苦にしない男女には、幸運のほうから到来してくれるのです。

●「付く」

 運はつき、またすぐ離れるものです。つまり運というのはくっつきやすく、はがれやすい。イージー・カム、イージー・ゴーの性質をもっている。

簡単にやってきて、簡単に去っていくものだけに、ツイているときこそ大切にあつかわなくてはいけません。占いの本によると、最長一か月とか、今年のオレはツイてるぞなどと浮かれて、大盤振る舞いのドンチャン騒ぎなどしないことです。

●「巡る」

 運のいい悪いは交互に巡ってきます。また因果報酬といって、人に与えた幸運は巡り巡って、やがて自分に返ってくる。悪いことをすれば、のちにそれが悪運となってわが身に振りかかってくる。この交互性を知って、たとえば厄年のときにはもっぱら積極的な生き方をいましめることが、運を大切にあつかうことに通じていくのです。

●「宿る」

 正直の頭に神宿るといいますが、この神には幸運の女神もふくまれます。すなわち運は頭に宿るものなのです。したがってまず、頭髪がグヂャグヂャ、モヂャモヂャと乱れているような人には運がやってきません。

 また頭の中身が未整理状態のひとにも幸運は訪れない。頭の中は一つの部屋であり、その部屋の整理整頓ができていない人からは運気も去ってしまうのです。

●「変える」

 習慣を変えることで運も変えられるということです。夜型人間で朝が遅いのを、一時間早く起きるようにしたら、三文程度だが、たしかにツキが回ってきた、こういうことはよくあります。仕事の都合で出勤時間が三十分早くなったが、そのおかげで満員電車の中で一人の女性と知り合い、結局、その女性と結婚した。私の知人にそんな男がいます。
 私はコートのポケットに手を入れる悪い習慣を変えて三十年になりますが、この間、この目で階段から落ち、死んだり大ケガをした男を四人も見ています。もし私も習慣を変えていなければ、五人目の男になっていた可能性は相当高いのです。
 日々の暮らしのなかの、ややマンネリ化している決まりごとの一部だけでも変えてみる。すると、見違えるように風通しがよくなって、滞っていた運気が動きはじめるものです。

 さて、みずから運を育てるだけでなく、人からもたらされる関係運、とくに女性との相互運のよしあしが男にとって極めて重要なことは繰り返すまでありません。

 いや、そもそもあげまんの基本定義は男にツキをもたらす女というものでした。男の運は女にもっとも大きく左右されるものであり、女次第で倍増もすれば半減もする。

 恋人や妻など、かけがえのないパートナーとして男に運を授け、また奪う、その最大の存在が女であるのは間違いないとこです。
 それなら、どんな女が男にツキをもたらし、また奪うのか。男の運気の盛衰、増減を握るタイプの女をいくつか考えてみましょう。

一、時間を気にする女

 これは男からツキを奪うさげまんタイプに属します。たとえば、男がパチンコに熱中している横から、「ねえ、早くしてよ」と女がひと言口をはさむ、とたんに玉の出が悪くなって、回ってきた運が逃げていってしまう――よくあることです。

 たかがパチンコといわればそのとおりですが、何をするにしても、男には自分なりの時間配分というものがあります。
恋人のことを全く忘れて賭け事にのめり込んでいるわけではない。いまの運気がヤマ越えたら、食事に行こうかとちゃんと頭の隅ではスケジュールを立てている。そこに先回りして横やりを入れられると、そのたびに少しずつツキが漏れて行ってしまうのです。

 またデート中に女がしきりに時計に目をやる。これほど男の焦りを誘い、腐らせるものはありません。もうアキたのか、オレといるのがそんなにイヤか、いいさ、さっさと帰っちまえ…・そして空気が漏れるように男の運も減退していってしまいます。

 時は金なり、運でもあります。その時間を男から横取りしたり、押し付けたりする女は、男を小出しに衰退に導く恐れがあります。

二、「明るい窓」から顔を出してくれる女

これは男の運をもたらすあげまんタイプです。明るい窓というのは心理学でいう「ジョハリの窓」の一つで、人間の心には、
@自分も知っている他人も知っている「明るい窓」、
A自分は知っているが他人は知らない「隠した窓」、
B自分は知らないが他人は知っている「盲目の窓」,
C自分も知らないし他人も知らない「暗い窓」の四つがあるという説です。

 このうち男に対する言動がいつも――相手もよく承知している――わかりやすく明朗な女性、明るい心の窓で男に接する女性は、男に運をたくわえるあげまん女といえます。

三、させそうでさせない女

むろん非あげまんタイプです。ことはセックスだけにかぎりません。気がありそうでなさそう、旅行の誘いを断りもしないがOKもしない、タクシーで遅らせるが部屋には入れない。
媚びと拒否、甘えとソロバンが入りまじるじらしの高等戦術といえますが、長くじらされ、金と時間を消費する間に運も生殺しになってしまいます。いつでも落ちそうなのに、いつまでも落ちない女とはピシャリと縁を切ったほうが賢明です。
 もっとも、「させそうでやっぱりさせる女」も避けるべきで、やたらと尻の軽い女では男の運もだらさなく崩れてしまいます。すぐさせる女、いつまでもさせない女、どちらもダメ。あくまで適当なタイミングで男を喜ばせてくれる女は頭のいい証拠。運も味方する利口な女性といえます。

「運がいい」と自分でいう女はほんとうに強運だ
 かけごと関係に強い女性や行動力のある女性も、男に盛運をもたらすタイプの女性です。

四、運がいいと口にする女

何かの拍子に、「私って運がいいんです。競馬の予想でも父にソンをさせたことがないんですよ」といったりする女性は買いです。才運の自己申告は当てにならないものが普通ですが、運がいいとみずから口にする人間には自然に運が訪れてくるものです。

 肯定的な言葉を実際に口にすることが明るい気を生み、そこに幸運の気が呼び寄せられてくる。そういう言霊(ことだま)の力もあるかもしれません。私はダメ人間だ、何をやってもツイていないと、始終口にしている人間の運気そのとおり低迷から抜け出せないのと同じで、運がいいと口に出す女の運はほんとうにいい(よくなる)ものなのです。

 松下幸之助さんは社員に、キミは運がエエほうか悪いほうかと聞いて、いいと答えた社員を重用したといいます。能力に運を加えたのが人の真の力量であること。また、その運の多くは積極的に公言することで呼び寄せられるものであること。そのことを経営の神様はよく知っていたのでしょう。

 その意味で、運がいいという言葉は、愛しているとか好きですといった言葉よりもはるかに力があり、信用できるものです。私って運が強い人なんですと自己申告する女性は、間違いなく男の運も強化するはずです。

五、直感的な遊びに強い女

ちょっとわかりにくい表現ですが、たとえばトランプで次のカードは赤札か黒札かといった遊びをしたとき、妙に的中率の高い女性です。べつに頭の中で統計や確率論を展開しているのではない、要はカンがいい女です。

 しかしカンと運はどこかで通じているところがある。カンというのは、私たちの感覚が運命にふれてショートしたときの洞察的ひらめきといえます。したがって、カンのいい女は運を呼び寄せる力をおのずと備えているものです。

 最初のほうであげまん度が最高と書いた「小さな運のいい女」というのも、この直感力の鋭い女と同類といえるでしょう。いずれも運気としてはかなり強いものをもっています。

六、環境や習慣を変えるのをいとわない女

釣りなんかでも、釣り場のポイントにこだわりすぎるとツキを逃がすといいます。なんでもそうですが、一か所に腰を落ち着かせるのは大事ですが、そこを見切るときの決断はもっと大事。まして習慣化して、生活のリズムの一部になっていることを変えるのは、そが些細(ささい)なことでもけっこうむずかしいものです。

 そこをさほど抵抗なく切り替えられる。運が悪いときにあまりくよくよ落ち込まずに、部屋の模様替えに汗をかいたり、パッと引っ越しを断行してしまうような女。そういう女性は、つまりは柔軟思考と行動力の持ち主ですから、運を主体的に動かせるパワーを潜在させているのです。

 仕事の場でも、いい企画やアイデアが出ず、重く煮詰まった空気やとげとげしい雰囲気にみんなが支配されときに、
「ま、ここはとりあえず、出前でもとって点心タイムをはさみましょう」
 などと、タイミングよく”切り替え言葉”を発して、場の空気をサッと転換できる。こういう女は負(ふ)を正に変えられるという意味で、やはり吸運能力、あるいは男への配運能力の高い女性といえます。

人がイヤがることをやれるかどうか

 いっけん目立たないが、実は生活するのにとても重要な事柄にも運・不運は関係しています。最後の二つのタイプがそれです。

七、金銭感覚の鋭い女

これも男の盛運に導くタイプです。これは金運が強いというのとは少し異なっています。お金の多募にかかわらず、金銭に関するセンスがいい、お金のあつかい方が上手な女性のことです。

 これまではお金がなくても、亭主の稼ぎが悪くても、ともに貧乏に耐え、なんとかやりくりしてお金のないのをさほど苦にしない。そういう女性があげまんの条件でした。しかし、それはまた男のふところに依存することであり、女の金運は男しだい、金銭に関しては男と運命共同体であるほかなかった。また、いままでならそれでよかったのです。

 しかし、このリストラ時代はそういうぶら下がり型でなく、むしろ男のサイフを引き立てるような女性でないと、男に降運をもたらすことはできなくなってくる。

終身雇用も年功序列も、昇給も賞与も定職も年金も、生活資金のソースのあれこれが昔ほど当てにならない時代です。こういう時代には男の稼ぎに全面依存せず、いざというときには、自分の稼ぎで亭主を食わせるぐらいの才覚が女にも必要になってくるのです。

 この才覚とは、稼ぐ能力だけを意味していません。家計の収支やお金の流れをきちんと管理する能力。お金の貯め方ばかりでなく、使い方や使いどころもよく知っている。

そういうものをふくみます。お金がないならいでうまくやりくりし、あっても成金のようにヘンにのぼせあがらない。お金を冷静にあつかえる女性が男の金運も富ますのです。

八、人がイヤがることができる女

 人生のいいところどり、上澄みの目立つ部分だけを要領よくつまみ食いしていく人は、いっけん運がいいように見えます。しかしほんとうに人から認められ、運を呼ぶのは、目立たぬところや底辺の部分で人がイヤがること、避けておろそかにしがちなことをきちんとこなせる人間です。

 講談社をつくった野間清治の言葉に、「雨の日、風の日、訪問日和」というのがあります。編集者は人が外出をイヤがる天気の悪い日にこそ、作家を訪ねよ。そうすればライバルは少なく、作家も憎からず思って親しい口をきいてくれる。その結果、いい原稿も取れるという教えです。

 同様に、かって九州薩摩の島津家では「雨は吉兆なり」といい伝えていました。時雨(しぐれ)軍旗といって、その旗には雨の降る絵が描いてあった。つまり荒天こそ群を起こすにふさわしいと考え、そのとおりに雨の日、敵の厭戦(えんせん)気分をするどくつくことで島津家は連戦連勝を重ねたのです。

 社長が便所掃除をするような会社はつぶれるといった人がいます。組織内での役割が混乱しているからと言いたいとのでしょう。一理あります、小さい企業であるなら、いまだに便所掃除をいとわない社長がいる会社はもっと私は伸びると私は思います。 

湯飲み茶碗を洗うついでに流し台もきれいにできる女。必要とあらば便所のへりをブラシでなく、雑巾で拭くのもいとわない女。みんながイヤがることを率先してやれる女性の目立たぬ行為を、幸運の女神は決して見逃すことはありません。

 逆説的ないい方になりますが、運のよしあしなどを念頭におくことなく、目の前の地味な作業にも前向きな気持ちで汗を流せる女にこそ運は巡ってくのです。

だからトイレには鳥芻沙摩明王(うすさまみょうおう)という神様がいて、じっと不浄を払う人の働きをみています。
つづく 女のこんな言動で男の仕事運をダメにする