聡明なあげまん女は簡単料理がうまい
時代をこえて存在する普遍あげまんのやわらかい女に続く条件の二番目は、「簡単な料理がうまい女」です。
相変わらずの料理グルメブームですが、以前とは、すこし位いかわっていることにお気づきでしょうか。フランス料理などの上級グルメからB級グルメへ、家庭料理も手の込んだ本格的なものから、手早くつくれる簡単料理へと人気の重心が移っているのです。
急の来客やホームパーティーでも、あまりおおげさな料理でなく、冷蔵庫の残り物やあり合わせの材料を活用して、さっと手軽につくれる簡単料理。それでいて気が利いて、味も悪くない。そんな方向へ主婦の関心は向かっています。
小林カツ代というやたらと元気なおばさん料理家の書いた即席料理のメニュー本がベストセラーになったり、同じく、ありあわせの材料を利用したリフォーム料理のすすめを説いている栗原はるみなどは、主婦からカリスマあつかいされているほどです。
この簡単料理のルーツは、亡くなった向田邦子のエッセイ「父の詫び状」に描かれた彼女の母親にあるというのが私の考えで、苦労して保険会社の支店長まで上りつめた父親が連れてくる客の多さにてんてこまいしながらも、母親は実に手早く、そつなく、客の味覚に十分耐えうる料理をつくってもてなす。
それを横で見て、あるいは手伝っていた邦子少女と妹は長じて、その母親の簡単料理を踏襲(とうしゅう)した小料理を東京の赤坂にオープンするに至るのです。
向田さんという人がまさにその典型でしたが、こうした簡単料理のうまい女性はまず例外なく、カンがよくて、気働きができ、聡明です。手順にしたがってゆっくりつくる本格料理なら習えばだれでもできますが、とっさのアドリブ料理はそうはいかない。
とりあえずアレをゆで、その間にコレを解凍しながらソレを炒め、ドレは味噌あえにして・・・・などと豊かなイマジネーション、とっさの判断力、あざやかな手さばきの持ち合わせがないとことには対応できるものではないからです。
こういう女性は味つけなんかも、いちいち軽量せず、適当な目分量で調味料をさっと加えて、疎漏(そろう)ない気ばたらきや心くばりもできる。ごちそうよりはふだんの食事、簡単料理のうまい女は、あげまんの不変の素質を十分に満たしているといえます。
男を立てる五つのあげまんポイント
顔をたてる、メンツが立たない・・・・この世を一人前に渡っていくために、男はさまざま立てなくてはいけないものを持っている。そのなかには女の助力を得ないと立てられないものが少なくありません。
それをよくわきまえて、とりああえず男を前面に押し立て、その沽券(こけん)を守ってやる。これができる女性の賢明(けんめい)さが男の才運をひときわ引き立てます。「立てる」には次のようないろいろなバリエーションがあります。
@煙や湯気を立てる
A横になっているものを起こす
B興奮させる、高ぶらせる
C支えてやる
D尊敬する
まず「煙や湯気を立てる」。これは男に湯気の立つような温かいものを用意してやることです。たとえば鍋料理や風呂。この二つがあれば男の心は無条件になごみ、顔は自然にほころぶものです。冬だったら、そこに熱燗(かん)でもあれば文句なし。
上司には怒鳴られ、部下からつきあげられ、満員電車では痴漢に間違えられて、ボロきれのようになって帰宅。 家でまっているのも気の利かない女房だが、ともかく忘れず風呂だけは沸いている・・・男はそれだけで、「いろいろあるけど、ま、いいか」と気を取り直すものなのです。
だから、私はまだ結婚しよとしない娘をつかまえては、なんでもいいから風呂だけはわかしておけ、湯船にたっぷり熱いお湯がたたえられているのを見ただけで、男の機嫌なんて直ってしまうものだからと、いまから亭主教育をほどこしているくらいです。
「横になっているものを起こす」。朝は亭主より早起きして、亭主を起こしてやることもその一つです。白河夜船で花提灯の女房を尻目に、亭主だけがモソモソと起き出す。
あるいは女房ばかりがふとんのなかからぬくぬくと、あなた時間よ。遅れてもいいのと指図する。どちらもいけません。寝ていて人を起こすなかれ。人を起こすなら、その前にまず自分が起きていること。これは夫婦間といえ、遵守すべきルールです。
また「興奮させる、高ぶらせる」ということもある。これはいうまでもないでしょう。女房の魅力と心がけで、夫はいつもバイアグラ不要という性的な意味合いもありますが、仕事に向かって男を奮い立たせる、という精神的発奮をうながす役目のことでもあります。
「支えてやる」。これはおもに金銭面のサポートです。ここぞというときにお金の工面をしてやる。男が勝負をかけるときの資金、その一部くらいは横からそっと差し出す。そうした山内一豊の妻ふうの心がけは、いまでも大切なあげまん条件といえます。夫を「尊敬する」のも同じ意味です。
一つ年上の女は今も昔も金メダル
「一つ年上の女房」――古くからいわれたことで、あげまん条件としてはすでに化石の部類と思われるかもしれません。しかし、これこそ古くて新しい不易の要素であり、平成のいまでも十分に通用する条件です。
テレビの女子アナウンサーと野球選手の結婚が続いていますが、年上女房のケースがほとんどです。スポーツ選手にとって試合は戦争にも匹敵し、心身ともに闘争感覚をヒートアップさせないといい結果は残せません。その反作用で、家庭ではなによりもやすらぎを優先したい。そこで落ち着きと穏やかさに富んだ年上女房がほしくなるということなのだと思います。
女のほうから見れば、年下の男はかわいくて母性本能を刺激される。口論しても、どこか余裕があるからかむきにならず、男のわがままを受け入れられる。結果、シリアスなけんかには至らないで終わってしまうといった利点があります。
だいたい精神年齢においては、女の方が男より大人ポイのがふつうです。ですから一つ年上の女房の場合は、女がより大人の立場となって、子供っぽい男とうまく調和する。男が年上だと精神年齢は対等になって、互いの子供っぽさが正面衝突する。そういう面もありそうです。
昔、金(きん)のわらじをはいてでも・・・と一つ年上女房が礼賛されたのは、夫婦が共稼ぎする場合が前提であったといわれます。女が家事に専念する場合は逆に、五歳年上の男がいいといわれました。
これは専業主婦の場合、夫がひとり稼いで妻子を「養う」ためには、男のほうが精神的にも肉体的にも成熟していたほうがうまくいく。それに対して自営業など共稼ぎするときは、当然、仕事面では男の負担が大きいから、肉体的に若い男のほうがいい。
そんな理由があったようです。
いまは女性の高学歴化や高収入も加わって、事態はそれほど単純でなくなっていますが、興味深いのは、それでも男女同年齢か、男が年上(一〜二歳)の夫婦の早期離婚がすごく多いのに比して、夫が年下の夫婦の離婚率は低いことです。
その理由として浮かび上がってくるのが複雑化した男のメンツで、つまり、同年齢かやや年下の女房をもらった亭主は、基本的には自分の方が優越的な立場を保ちたい。
少しでも女房にいばっていたのです。ところが女性が高学歴化した結果、ヘタをすると年下女房の知識教養のほうが亭主よりも上、収入も亭主より上回るというケースもでてきます。
こうなると男のコンプレックスは複雑にねじれ、トラブル発生時の事態のこじれもまして、一筋縄では解決しなくなってしまう。
それならばいっそ、年齢も学歴も女が上のほうがすっきりわかりやすくていいだろうし、学歴は男が上、年齢は女か上の通常の年上女房パターンなら、バランスがとれて対等感覚も生まれます。
というわけで、現代でも依然として、一つ年上、あるいはそれ以上の女房というのはあげまんの金メダルに属するのです。
さて、時代とともに変わるあげまんがいれば、変わらないあげまんもいる。本章ではそのことをおおまかに検証してきましたが、あげまんとは男にツキをもたらす女、したがって自分自身も「運のいい女」のことをさします。
その運のいい女(男)をどう見分け、どう自分の味方につけたらいいのか。次章では、その考察に筆をすすめることにしましょう。
女をあつかうことは自分の運をあつかうこと
どんな人生もいいこと半分、悪いこと半分からできあがつています。それと同じく、あげまんとは本来、素質半分、努力半分のもので、生まれつき男に運気をもたらす才能を備えている女性いる一方、それを後天的に獲得していく女性もいます。
女も努め、男も努める。女も変わり、男も変わっていく
つまり、あげまんは「である」のと同時に、「になる」ものでもあり、努力しだいで、さげまんからあげまんに変身することも可能です。そこに女はみずからをあげまんにすべく、男は女をあげまんに仕立て上げるべく、あるいはあげまんにふさわしい男になるべく、それぞれ互いに努める必要性があります。
片方だけの努力ではあげまん関係は結べない。女も努め、男も努める。女も変わり、男も変わっていく。その「二人主義」でいかないと、あげまん関係を築けないのです。
とはいえ、女のもつ「運」があげまん関係に影響を与えることも確かです。幸運の女神といわれるように、もともと運は女に宿るもの。女こそ運そのものといえます。
その運のいい女のあげまん度が、悪い女よりも高いことは間違いない。女が男の運気のもとなら、その女自身がもつ運気が男の盛衰を左右しないはずはないからです。
運というのは、文字どおり「運ばれる」性格をもっています。だから運のいい女は自然と周囲の男に運気のおすそわけもする。女からツキを分配されたのをきっかけに、男がみずからの運気を肥やしていく――運のいい女が男を富ませるのには、そんなメカニズムがはたらいているようです。
したがって男は女の、女は男の運気を見極めることの大切さがここにあります。運は天から付与されるもの、人知のとどかぬものと考える人は少なくありませんが、人の運気というものはあげまん素質と同様、後天的に獲得し、養成できるものです。
また運とは、人との関係や相性によって強くもなれば弱くもなる。それだけに異性の運気を見分けることは自分自身の開運にも通じ、運のいい女、つまり幸運の女神と付き合うことが大切になってきます。
そこで男と女の関係のなかで運をどう育て、引き寄せ、つかんでいくか――本章では、そのことについて考えてみようと思っています。
人の運、不運はナイフをあつかうのと似ています。柄を握るか、刃を握るかで、結果は正反対になる。ナイフを女といいかえても同じです。女の運をどう見分け、女をどうあつかうか。それはそのまま男の人生を左右します。
つまり、女(男)をあつかうことは、男(女)が自分の運をあつかうことでもあるのです。
小さい運のいい女は最高のあげまん
運とあげまんの関係でいえば、「小さな運のいい女」のあげまん度は最高上位にランクされるでしょう。
たとえば三億円の宝くじには当たらないが、年賀はがきの抽選なら四等、五等とよく当たる。そういうたぐいの運をもつ女です。亭主は仕事上、何百枚もの年賀状をもらうのに五等の切手シートすらろくに当たらない。
女房は数十枚にもかかわらず、運よく当たる。もしそんな夫婦がいたら、この亭主は絶対にこの女性と別れるべきでありません。
反対に、ちょっとしたツキに乏しい女。その女といっしょだと、なぜかタクシーが拾えない。二人で街角に立ったとたん、ぱったり車の流れが途絶えてしまう。たまにやってくる車はみんな満車・・・この手の女は早々にわかれたほうが賢明といえます。
小さな運の悪い女はつきあっていて大損はしないかもしれないが、男の運も小出しに削られてしまうからです。
男は大運、女は小運といって、小さな運のいい女は大きな運のいい女にまさるものです。同様に、小運の悪い女は大運の悪い女に劣る。
これはそのまま、あげまん、さげまんの区別にも通じます。つまりあげまんは小事にツイている女、さげまんは小事にツキのない女という一つの法則が成り立つのです。
本来、人間の運は小事でこそ測定できるもの。小運は積み重ねられるが、大運は使い果たされるものだからです。
このことは男女の性の快楽のありようとも対応しています。女の快楽が堆積型なのに対し、男のそれは爆発型。 すなわち、大運爆発型の男の運に小運堆積型の女の運がうまくかみ合ったとき、その男女の関係や相性は最高になる。
いいかえれば、小運のよしあしこそが女のあげまん度を測る絶好の材料となるのです。
もう一つ、運について知っておくべき原則があります。それは、人のもつ運気の量は一定しているということです。
人は一定量の運をもつて生まれ、最終的にはそれを使い果たして死ぬ。「一生に閊える運は決まっている」。亡くなった私の友人で、賭け麻雀の天才だった阿佐田哲也の口グセでしたが、たしかに人生の運の収支決算は誰もがゼロになるのです。
したがって、若いとき強運だった人の運の残量はそれほど多いものではないはずです。
年(ねん)でいえば、社会で働く四十年のうち四分の一、つまり十年間はだれでも日が当たっていいはずなのです。それが早く来るか、遅く来るかの違いだけなのです。
功なり名を挙げてから若い女に目移りして、貧乏時代を支えてくれた妻を捨てる――糟糠(そうこう)の妻はワリにあわないというのが”定説”ですが、そうとばかりもいえません。
後ろめたさもあって亭主がガッポリ慰謝料をはずめば、夫の世話から解放されて、あとはきままな一人暮らしが待っている。松方弘樹と別れた最初の女房やその後の仁科亜希子などは息子や娘も味方になってくれているので、かえってよかったのではないでしょうか。
そう考えれば、彼女たちは若年運は悪かったが、中年運はいいともいえます。このようにどんなにツイてないように見えても、その運のよしあしはいっときのもので、最後には必ず帳尻が合うようにできている。それが人間の運というものです。
したがつて、いま不運の最中にいる女が即さげまんともいえないし、人の運気はトータルで考えるべきです。小さい運が強い女のあげまん度が高いのも、それが小出しの利くぶん長く続き、運気を男に継続して分け与えるからです。
つづく
運命的な出会いは最低5人いる
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。