経験豊富な女にあげまん素質あり
しっとり濡れるような緑の黒髪に、水気をふくんだ色白の肌。それはかっての日本女性の美の必衰条件でした。しかし、近ごろの若い男女は漆黒の密度の濃い髪を「重い」とか「うざったい」といって敬遠する傾向があります。
茶髪(ちゃばつ)や金髪に染めた若者が街を闊歩(かっぽ)しているのはそのせいで、好き嫌いは別にして、たしかに彼らの派手で明るい頭髪は、豊かな黒髪がかもし出す一種の重苦しさから解放されたような軽快な印象があります。
このように、私たちの美に対する感覚は、いまと昔ではずいぶん変わってきています。いい女や美人の条件もこれと同様で、今昔の落差はかなり大きいものでしょう。
【広告】 男と女というのは、実は結婚した時から飽きる方向にしか向かって行かない。いくら好きだからと言って、年中すき焼き食わされたら、誰だって飽きます。夫婦関係を永遠に繋ぎとめておくために、多種多様な戦術を利用する。そうした戦術の大きな基盤の一つとなるのは、配偶者がもともとどんな欲求を抱いていたかという点だろう。配偶者の欲求を満たす、そして例えば愛情とセックスによって繋ぎとめられるのが理想だが、大概の男女はオーガィズムの奥義をほとんど知っていないという実情がある。
オーガィズム定義サイトから知ることができる。
茶髪の若者に、小津安二郎監督の常連の女優だった全盛期の原節子の美貌(びぼう)を見せても、「なんか、だるくない?」などと例の語尾上げ口調で、まだるっこしく。
もたついた感想をもつでしょう。なぜならいまは同じ美人系でも、藤原紀香みたいな躍動系というかスピード感がないと、彼らの新しい美意識にぴったりフィットしないからです。
こうした時代や社会の変化に影響を受けるのは、あげまんの定義や条件も同じです。ライフスタイルや価値観の変化、男女関係のあり方の多様化にともなって、あげまん女性に求められる要素も、昔といまとではずいぶん異なってきています。
たとえば、昔のあげまん条件には「白」が要求されました。つまり、かつては家事に関する技術やたしなみは備えていても、世間知については白紙の状態で世間ずれしていない、社会性にはむしろ乏しい女性のほうが、家を守る良妻賢母のひな型として好まれました。その白はまた、汚れていない純粋さ、つまり処女性も意味していた。
しかし現在では、この「白」はすでに絶対の必要条件ではなくなっています。前著でも紹介しましたが、アメリカでは、初婚の離婚率よりも再婚の離婚率のほうがはるかに低いというデータがあります。
初婚の離婚率は48%、だいたい二人に一人がバッイチになる。ところが、再婚後の
離婚率は20%以下にとどまっています。
要するに2回目のほうがうまくいく。離婚経験者と結婚したほうが家庭運営に成功しやすいのです。いいかえれば、バッイチ女のほうにあげまん素質ありということです。
処女願望が家庭円満につながっていく可能性は、むしろゼロの時代
離婚経験とはつまり社会経験のことであり、男性経験のことでもあります。社会や男性についての経験や情報を豊富にもっている女性のほうが、それに関して白紙の女性よりもあげまん度が高い。ありとあらゆる情報が流通、蔓延(まんえん)している現在のような情報社会では、その傾向はさらに強まっています。
したがつて離婚に限らず、若いうち、独身のうちに広く社会を見て、いろいろな遊びも経験して、男とも適当に付き合った女。男はそういう女性を選んだほうがあげまんを獲得する可能性が高いといえます。
少なくとも遊び好きな女、男性経験の豊富な女、バッイチ女などをつかまえて、「キズもの難アリ」などと、そうでない女よりいたずらに低く見る旧来の女性観を、日本の男はさっさと捨て去るべきでしょう。
もし、今でそう思っているとしたら、あなたも古いタイプの男、いまの女性にはモテないどころかバカにされるでしょう。いまはもう男の処女願望が家庭円満につながっていく可能性は、むしろゼロの時代になっているからです。
地上にあるすべての色をまぜると黒になるといいますが、いまは未経験で、純粋性を意味する「事前の色」である白よりも、たくさんの経験を通過した「事後の色」である成熟した「黒」の女にあげまん素質がある、ともいえる時代なのです。
今様あげまんと普遍あげまんがいる
もっとも、「白」の女が好まれた時代にも、一方で芸者や遊女にあげまんが多いといわれ、実際、水商売出身の女性から多くのあげまんが輩出(はいしゅつ)されてもいましたから、時代や社会の変化によるあげまんの変還は思うほど大きなものではないのかもしれません。
いや、というより、あげまんにも不易(ふえき)と流行があるということでしょう。相性に個人差があるように、あげまん条件にも時代変化による変還があるが、そのコアに不変の部分もある。正確には、昔と今であげまんの条件が違うのではなく、昔の条件で今も通用するものとそうでないものがある。変わった部分と変わらない部分がある。
あげまんにも今様と普遍、新タイプとレギュラータイプがあるということであり、その変遍は社会時代の変化とリンクしているということなのです。
亭主の後ろにいつも控えて、芯は強いがしとやかで、黙って男を立てる糟糠(そうこう)の妻がレギュラータイプのあげまんとすれば、バリバのキャリアウーマンで、自分の主張やスタイルをはっきりもっている女性などは、新タイプのあげまんに属するでしょう。
当然、あげまん女の範囲も昔と比べて広がっています。あとで述べるように、夫婦や恋人にかぎらず愛人や不倫相手にもあげまん、さげまんの分類があります。それが不倫相手であっても、彼女があなたに運をもたらす女であれば、それはあなたにとってのあげまんです。
愛人や浮気相手だから自分の運気に関係ないとは言えないのです。
だからといって、奥さんと別れて不倫相手と一緒になっても、彼女があげまんであり続けるかは保障のかぎりではありません。
結婚しない恋人や愛人のままだからこそ男の運気を肥やす女性がいる一方で、結婚して一緒に暮らすことで、はじめてあげまん素質を開花させるタイプの女性もいるからです。
また、結婚しても子供を産まないほうがあげまんになれるタイプもいれば、果ては、離婚することで男を運気に乗せる”別れあげまん”もいる。時代の変遍にともない、夫婦や恋人だけにとどまらず、あげまんの内容も多様化しているのです。
こういう女が男の才運を伸ばすという、あげまんの基本定義は前著でもさまざまな角度から検討しました。続編にあたる本書では、その実践応用編としてさらに筆を広げてみよと思います。
女側からも男を見る、いわば”あげちん(さげちん)”の鑑別法
すなわち男側の視点からだけでなく、女側からも男を見る、いわば”あげちん(さげちん)”の鑑別法など、できるだけ男女双方向の視線を取り入れながら、異性を通じた男と女の運のつかみ方や、男のウソの見分け方、あるいは女性が自分自身をあげまんに変える術や、男性があなたの女をあげまんに変身させるテクニックなどふくめ、桜井流のあげまん異性の鑑別・評価・養成法を開陳してみようと思います。
その入り口として、まずは、今のあげまんと昔のあげまん、今様あげまんと普遍あげまんの分類から考えてみましょう。
=オーガズムの定義収納=
新タイプのあげまん五カ条は何か
「お左代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な邸宅に居りたいともいわず、結構な調度を使いたいともいわず、旨いものを食べたがりも、面白いものをみたがりもしなかった」
森鴎外の名作「安井夫人」の一節ですが、かってのあげまん夫人の条件はだいたいこのあたりに土台がありました。献身、奉仕、忍耐、我慢・・・・そういうものがなかば体質化していることが古典的な日本女性の特徴であり、その妻の「抑制の美徳」を踏み台として、夫は出世を果たしていったのです。
家を守るのがうまい。男に気持ちよく仕事をさせる。夫の浮気を許さないまでもガマンする。そういう家庭内でのサクリファイス(犠牲)を辞さないのが、昔のあげまん女の必要条件であり、心意気でもあったわけです。
しかし時代は変わりました。いまは、こうした抑制型の要素はあげまん美徳としてむしろカウントされにくい状況にあります。たとえば、少子化で子供を育てる機会が少なくなることは、女性が家庭内に閉じこもって子育てをしたり、家を守り、存続させる才覚を必ずしも必要としなくなることを示しております。
ここから今様あげまんを示す一つのキーワードが浮かんできます。「社会性」です。昔とくらべ、社会と家(女)を隔てる壁がグンと低くなり、両者が交流する機会が増えるにつれて、あげまん条件も社会の実態やその変化を如実(にょじつ)に反映するようになり、家内抑制型から社会開放型へと変化しているのです。
では、このニュータイプの社会開放型あげまんはどんな特徴をもっているのか。
@夫を管理し過ぎない
A変化を恐れない
B性を重視しない
C夫婦は”ニ心一体”と考える
D文化程度がある程度高い
以上の五点といえます。順に説明しましょう。
@夫を管理し過ぎない
経済や雇用システムが安定していた時代なら、それにともなって個人の生活パターンも固定的に考え、たとえば夫の帰宅時間なども一定化させ、食事はいつ、風呂はいつと、そのリズムを家庭中心=妻中心に管理するほうが効率的でした。
しかし現在のような不安定な経済状況、リストラ社会においては、こうした固定的な管理法はあんまり効力をもちません。むしろ社会や労働形態が流動的になっているなら、生活パターンも変則化させて、そのつど夫の帰宅時間に合わせるような、一種ルーズな管理法のほうが夫の実力をより発揮させ、社会での競争力を引き出す可能性が高くなるのです。
わかりやすくいうと、
「今日は何時に帰るの?」
と温かい食事を出そうと気にして聞く妻より、
「食事する日だけカレンダーに印をつけておいて」
と一週間単位で、夫のスケジュールを優先させる妻のほうがあげまんだということです。
このように夫を家庭の型にはめるのでなく、社会の変化に合わせる管理法のほうが有効なのです。ネット型社会では時間が世界型になるので、とくに気をつけたいものです。
変化を恐れず、セックスを重視しない
社会開放型のあげまんは、物事に動じないさばけた女性であるのも特徴です。
A変化を恐れない
変則流動型社会においては、変化が常態となりますから、これをこわがったりする女性はあげまんが薄いといえます。むしろ変化をおもしろがるくらいでないと亭主の後押しはできなくなる。
たいていの女性は定住型で、固定した場所に、固定した家を持ちたがるのが普通です。でも、これからはマイホーム定住に固執(こしゅう)せず、夫の転勤や出向に合わせて自分もさっさと住まいを変えていくような、変化に順応(じゅんのう)し、それを楽しむような狩猟(しゅりょう)型の発想をしないといけません。
ダイエーから巨人に移籍した工藤投手、彼はダイエー時代、九州で家族とともにマンション暮らしをしていました。こういうとき定住型の女性は自宅を離れたがらず、夫は単身赴任してもらいたがるものです。しかし工藤夫人はそうはせず、数人の子供をつれて、夫の転勤につきそっていました。
ダイエーに骨をうずめるべく、九州に定住しょうと考えていた矢先のトレード劇だったようですが、工藤夫人は生活の変化移動を恐れない、むしろ積極的にそれを楽しもうとする、今様のあげまん女性の一人ではないかと私はひそかににらんでいます。
B性を重視しない
一つには、亭主の浮気をいちいちとがめだてするなということです。
男の性には二通りあります。
セックス思想とエッチ思想です。簡単に言うと、前者は精神的な愛情を込めた「重い」性であり、後者は単なる生理的な放出欲望とでもいうべき「軽い」性です。たとえばセックス思想は心を通わせた愛人との不倫関係が、エッチ思想は風俗嬢との一晩かぎりの浮気が相当するでしょう。
いずれも外で性行為をしたことには変わりはありませんが、前者はともかく、後者のエッチ型はたいてい心をともなったものではありませんから、いちい目くじらを立てず、大目に見てあげるおおらかさが新あげまんには必要といえます。
女性自身の性もまた、この二種に別れてきています。かつて女の性はセックス思想だけでしたが、最近では、エッチ型の性行為にもまったく抵抗のない若い女性が増えているのです。あるいは、一緒にいても性行為を行わない恋人同士というのもいます。
それもガマンしているのでなく、そもそも性を重視していない、関心が薄いという感じなのです。またクリントン米大統領の不倫裁判では、フェラチオは性行為ではないという判断がなされました。このように世界の性にまつわる常識はどんどん変化しています。
ですから、夫や恋人が、外で自分以外の女性と関係をもったことを、「許せない」と一律に重苦しく考えないで、性に二通りあることを認識して、エッチ型の浮気くらいは笑って許す。
さもなければ、自分もエッチ型浮気の一つもして、男に対抗するくらいの”軽み”が必要になってくるといえます。
すでに結婚しながら風俗で働く女性たちは、相当な数に達しています。これからますます増えるでしょうが、これを許し合えるような夫婦関係もこれからはありえるでしょう。
つづく
異床同夢型の夫婦スタイルを認める女