新・あげまんの法則
しばらく前に『「あげまん」の法則』という一冊を出したところ、思いがけぬ反響を呼びました。大勢の読者から”自分流あげまん”の考え方をいただいたのです。
世の中にはこんなに多くの人が”あげまん”に興味をもつだけでなく、期待もしていたのかと、むしろ筆者のほうが驚いた、というのが正直な感想です。
また女性読者の多さも、うれしい驚きでした。
しかし、なかにはよほど女運に恵まれなかったのか「いまどき、あげまん女などいない」と、手厳しい論旨の手紙を寄せられる方もあり、賛否両論、侃々諤々(かんかんがくがく)というありさまでした。そこで再び「では新しいあげまんはどういうことなのか?」を考えてみたのが本書です。
というのも、男性諸氏のなかには、昔風の貞淑(ていしゅく)な妻を、あげまんと規定している方が少なくありません。夫に黙ってついてくる、それで文句はいわない――たしかに男には都合がいいでしょうが、あまりにも女性の考え方に遠すぎます。
新しいあげまん像には、もっと別なファクターが必要でしょう。もっともいまどきの男女は、顔と体で結びつく傾向が強くなったともいわれます。「男を満足させるには裸で目の前に立てばいい」というあっけらかんとした若い妻もいますし、男のほうも爪を長く伸ばしていようが、料理ができなからろうが「顔さえモデルなみであればいい」という女性観をもっているようです。
筆者も仕事場でコンビニ生活を続けることもありますが、夫婦仲良くここでチン食(レンジで温めれば即、食べられる)を買っていく風景に何度も出会っています。たしかにこれなら爪を何センチ伸ばしていても、結婚生活には支障はないかもしれません。とはいえ、こういう夫婦では料理は温められても、心まで温められるかどうか?
先日、ある高僧にお目にかかった折、観世音菩薩の話になり、”観音開き”にまで話題がとびました。この高僧は洒落な人で、女性の観音開きのときは、手を合わせて拝むくらいでないといけないと笑われましたが、”観音力”とは、そのように大切にしてくれる男に力一杯抱きつくから、あそこもよく締まるのだ、という新説まで披露してくれました。
そういえばかつて高橋鐵という性科学者は、若いころの私に「男と女の間柄は枕絵を見ればわかるものだ」と教えてくれたことがあります。遊びの女の顔はきれいなままだが、真剣に愛し合っているときの女の顔は、力をこめているので泣いているような苦しい顔になっている、と指摘したのです。
私は高僧の話と高橋鐵氏の話には、なにかしら共通点あるように思えるのと同時に、あげまんの神髄はこれではないかと考えるのです。あげまん男になるにも、あげまん女になるにも「力をこめること」が、どうも必要なようです。はたしてこの「新・あげまんの法則」によって、あげまん像が鮮明に解像できたか、読者諸賢の教えを再び乞う次第です
こんな男を容認する妻はあげまんか
類は友を呼ぶといいますが、私自身がその部類に片足をつっこんでいるせいか、私の友人知人には奇人変人が少なくありません。
なかにひとり、異性装いが趣味の中年男がいます。男性の異性装い――要するに女装趣味です。それも、女学生の恰好をするのがとくにお好みで、セーラー服などを身にまとっては嬉々(うれうれしい)としているようです。
近ごろでは同好の士が集まるクラブもあるようで、そこで身内同士で楽しんでいるぶんにはだれに迷惑をかけるわけでもないし、ストレス発散にもなってけっこうなことだと、私は苦笑まじりながら彼のことを好意的に見ていました。
ところがある日、その趣味が奥さんにバレてしまったのです。彼はそれ以外ではきわめてまっとうな男で、きちんと社会生活を営み、それなりの地位もあり、家庭生活も円満でした。それだけにおのれの”変態”ぶりが奥さんに露見したときの恥ずかしさは、ひとしおのものだとは容易に想像できます。
なによりも妻に対して申し訳が立たない、何十年も連れ添ってきて、頼りにもし、愛してもいたわが亭主に女装趣味があり、それを秘密にすることで二重に自分をあざむいていた。そう知ったときの妻のショックと嘆きと怒りは、いかばかりのものか。
彼は罵声(ばせい)はもとより離婚を覚悟して、白州に引き出される気分で奥さんの前に力なくうなだれたといいます。ところがその奥さんは笑顔でつくって、明るい声でこういったそうです。
「私じゃダメなの」
「・・・・えっ?」
「私がそういう恰好をしてもダメなの? 私でよければ、いくらでもしてあげるけど」
このひとことで彼はずいぶん救われ、安堵(あんど)もしたといいます。責めるのではなく許されていると感じたからです。奥さんは夫の趣味を容認するばかりでなく、それに同調するような素振りさえ見せてくれた。
もちろん奥さんがセーラー服を着たところで、彼の趣味や欲求が満たされるわけでないし、本質的な解決にはなりません。奥さんも本気でセーラー服を着る気はないでしょう。でも、いわば夫婦間のシリアスな問題をユーモラスな応答のうちに溶かし、また夫の心理的負担を軽減しょうとした奥さんの気ばたらきと度量。それに彼は救われたわけです。
奥さんの内心は穏やかではなかったはずですが、それでも、夫のその性癖は趣味のうち、許容範囲内と割り切って彼を許したのだから立派です(不倫だったら許さなかったかもしれません)これも夫に対する愛情、それから信頼感がなくてはできないことです。
彼の女装趣味がその後どうなったのか、私は知りません。しかしこの夫婦は離婚もせず、いまも仲良く暮らしています。あるいは奥さんが夫の趣味を許しているのかもしれない。
男女が同意のもとで行うどのようなことでも、変態行為はありえないというのが私の持論です。だとすれば、彼はバレてよかったともいえましょう。
夫の後ろ暗い趣味をこころよく許し、それを認めて、やましさを解消してやる――彼自身もしみじみ口にしていたように、この奥さんはあげまん女性のひとりといえます。
「みんなにとってのあげまん」はあるのか」
あげまんとは、男女の関係から発する「相性」の問題である。私は前著でそう述べました。相性ですから、あげまんとは男が一方的に踏み台として利用できる都合のいい女をさすのではなく、男が潜在させている才運を、あくまで男女の関係性のなかで開花させてくれる女。
したがって女のほうもまた、男を成長させることによって自分も伸び、幸せになっていく。その相互補完的で、双方向的な関係のことを「あげまん」と称します。
相性とはまた非常に個人的なものです。したがって極論すれば、「私のあげまん」はいても、「みんなのあげまん」はいないともいえます。
自分にとって相性のいい女。ほかの男からさげまんと呼ばれようが、自分ひとりには運気をもたらし、人生を成功に導いてくれる女。たとえ、どんな悪女であっても、あなただけは不思議とツキをもたらしてくれる女。そういう女性がとびきり究極のあげまんともいえるのです。
しかし、そういってしまえば身も蓋(ふた)もなくなります。とはいえ万人に共通するあげまんの基準というものがあります。たとえば、こんな例があります。
容姿、性格、頭脳・・・・結婚相手としてはいずれも申し分ない、才色を兼備した女性としばらく交際したが、結局別れてしまった男がいます。理由を聞くと、彼は少しためらったあとで、こう答えました。
「声がイヤだったんです。彼女の甲高い声がどうしても好きになれなかった」
ふつう大人の男女が別れる理由としては、声が嫌いだとは、些細すぎることなので表向きにはしにくいものです。だから別れる際に彼は何か別の理由をでっちあげたようですが、しかし、いつ会っても甲高いキーキー声でしゃべられたのでは、たいていの男性は辟易(へきえき)させられるでしょう。
事実、声というのが、男と女の間では決定的な要因となりうることが往々にしてあるものです。
もちろん、そんなあげまん、さげまんの基準も、年齢や生活スタイル、時代や社会や環境の変化によって変わっていきます。それらをふまえたうえで、これがあげまんの基準になるのではないかという点を、前著よりより深く考察していきたいと思います。
その結果、自分にとっていい相性のあげまんをきちんと見極め、選択し、磨き上げることが男の運気、出世、幸福にとってすこぶる重要になってくるわけです。
つづく
経験豊富な女にあげまん素質あり
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。