東京で起こることは全国で起こる結婚の条件 小倉千加子
少子化の国際比較
日本は世界一の晩婚国
(五十歳の未婚者を「生産未婚者」と命名しているのは、もちろん政府である。国は、五十歳を過ぎた者には恋愛に関して「もはや何も起こらない」と定義している。エロスの賞味期限を国は五十五歳と決めているのだ。
東京で起こっていること
二十代後半の未婚率は全国平均では五四%であると先ほども記したが、東京都ではこの数字は六十五%を記録し、三十代前半の未婚率も三八%(全国平均では二八%)まで上昇している。東京は「シングルの都」なのだ
結婚の早さは、所得の低さや教育歴の短さと相関している。女性の場合、実際に初婚年齢は、中卒・高卒・短大卒・大学卒の順で早くなる。一九九七年の「出生動向基本調査」によれば、中卒女性は二十三歳で結婚し、高卒者は二十五~二十六歳、大卒以上で二十七歳である。学歴資本を持たずに早くに社会に放り込まれる女性は、生活のために結婚していくのである。
「純愛」の消滅
一九四〇年体制と恋愛の統制
恋人の条件と結婚相手の条件
中流階級の娘の「お嬢さま化」
結婚相手の購入は、自分の市場価格で決まる。恋愛と違って、結婚は相手を探してするものである。恋愛が不意に陥るものなら、結婚は今や理性と打算で選ぶものである。
生存・依存・保存東京ラブストーリー
晩婚化と最終学歴
高卒者の結婚意識
短大卒の女性の結婚願望
四大卒「勝ち組」女性の結婚の条件
母と娘の間
娘に期待すること
結婚した女の三つの身分
既婚者女性の四つのコース
労働からの総撤退
結婚が女性を保障してくれる三大特典――保障された年収・達成義務からの解放・豊富な余暇時間――は、けっして手放さず、その上に立って、社会から認められ、仲間に羨ましがられる仕事に就きたい。子どもがいても、生活臭のない、社会と繋がった仕事をしていたい。生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように異議のある仕事を優雅にしていたい・・・・・。
今や単なる生活費稼ぎの労働は、男と親と老人だけがするものになりつつある。
勝ち組の主婦たち
他人を騙す程度では「女」にはなれない。はじめに自分を騙していなければ「女」にはなれない。自分は打算的な女ではない、打算的な女はほかにいる。そうマジで思っていなければ、専業主婦として成功することはできないのだ。私が、そのことを知ったのは、テレビドラマ「東京ラブストーリー」のおかげだ。
自分は関口さとみではない
女の子の二つのタイプ、
「VERY」な生き方
就職難と結婚難
ロマンティック・ラブの復活
ロマンティック・ラブの対極にあるのは、スタンダールの言う「情熱恋愛」(アムール・パッシオン)である。情熱恋愛は、強く振った瓶からサイダーがほとばしり出るように、人々を日常性から開放する。どんな時にも相手のことが頭から離れず、おかげで日々の義務を遂行することが困難になり、性的にも相手に熱中する。ロマンティック・ラブにおいても、「一目惚れ」というケースはままあるが、情熱恋愛は、性的・エロス的脅迫衝動と結びついており、ロマンティック・ラブはそこに一定の良識というか抑圧する意志を備えている。
ロマンティック・ラブは、男女相互に義務を課し、制度によって互いを永続的に縛り付けてくれる。一方で、女性は家庭において夫に隷属し、外部からの感情的交流から隔離されていく。許容されるのは、女性同士の友情だけで、それを「VERY」では「社交」と呼ぶ。
「VERY」から「STORY」へ
お見合いとロマンティック・ラブ
結婚というビジネス、林真理子、
結ばれるときには、生涯かけて相手を愛することを自らに誓う契約結婚であり、一時の衝動による結びつきではない。不貞、特に妻の不貞は、同格の両家の財産を脅かすので強く戒められ、そういう自戒は女性に内面化され、相手への貞節を自分が望んでいるのだという錯覚を作り出す。
それは理性的であるからして、なにがしか低体温であり、継続的であるからして、なんがしか不完全燃焼である。しかし、よく言えば、静謐(せいひつ)な夫婦愛となって、子どもたちには理想的な両親となる。
戦後すぐの恋愛結婚における恋愛は性的・エロス的衝動と結びつく、自分自身ではコントロールできない激しい感情、つまり「情熱恋愛」だったのだろうか。一九七〇年代まで、たとえ恋愛結婚でも、女性は結婚までは処女でなければならないという暗黙の規範があった
四十代の意味
恋愛結婚といっても、現在七十歳(一九三〇年)以上の女性の多くは「情熱恋愛」を経験して結婚したわけではないと思う。鹿鳴館で明治の日本人が西洋人の真似をして社交ダンスをしたように、「恋愛もどき」をして結婚し、近代家族を作ったに過ぎない。夫以外に男性を知らず、娘の婚前セックスに戦々恐々とした真面目で禁欲的な世代が、今の七十歳以上の大半である。
地方では、これが六十歳(一九四〇年)にまで下がっていると思う、彼女たちが男性に愛を感じる場合、母親としての息子への愛の転移以外にありえない。だから、ニッポンのお母さんたちは、「息子のように可愛い」と同時に「理想の息子のように真面目」な、氷川きよしが好きなのだ。
夫よりも息子の方が強い愛の対象となっていること自体、彼女たちが情熱恋愛をしたことがない証拠である。六十歳以上で、自分は確かに情熱恋愛を体験した人は、才能に恵まれた一部の特権階級である。自分の中の感情を恋愛と自己知覚するかどうかには大きな個人差がある。見合い相手に「好感」を持って結婚した人が、自分は「恋愛」したと思い込んでいることはよくあることだ。
五十代(一九四六年~)は、団塊の世代だ。この世代が広めたものはあまりにも多いが、ひと言で言うなら、彼らは近代的結婚とセクシャリティとを乖離させた最初の世代だということになるだろう。ある意味、もっとも情熱的な恋愛を実践した世代かもしれない。しかし、一九七〇年代は、先ほども述べたように、まだ強い結婚規範がのこっていた。
「STORY」世代
新しい働き方
十五年後の同窓会
「STORY」なお仕事感覚の読み取り方
秋保仁美さんの謎
結婚が、経済(カネ)と美(カオ)の交換であるなら、四十歳の夫婦のパワー・バランスは、ほとんど夫優位である。妻の資源の中で唯一増大するのは、夫に対するホスピタリティであろうか。料理の上手さ、インテリアの趣味の洗練といった「家にいる快適さ」を夫に保証する技術を妻は磨くことができる。いや、その努力を怠る妻は捨てられるのである。
結婚というビジネス
決して語られないもの
結婚がロマンティック・ラブの実銭であるなら、妻の側にもまた情熱恋愛への憧憬が内向している。家庭は壊したくないが、女として認められ、賞賛されたいという欲求は、誰でもある。
結婚は、配偶者以外の者との性関係を法律によって禁止する制度である。現在四十歳前後の「STORY」世代は、多くが短大を卒業して、今よりも遥かに就職が容易な時に就職し、十分な給料を貰い、何度も海外旅行をし、ブランド品を持ち、男を何人も取り替えて、シングル・ライフを謳歌してきた世代である。これが「VERY」世代になると、バブル絶頂期と重なっているので、さらに派手になる。
しかし、結婚という制度に入ると、夫以外の男性と恋愛することは許されない。「結婚しても、妻でもあり母であるだけではなく、いつまでも女でいたい」欲求が募る。現代の四十代は、まだまだ現役可能である。ここ数十年で、日本人女性の肉体的若さは飛躍的に高まった。
「STORY」の読者モデルになっている人を見ると、十分な若さと美貌とスタイルを備え、現役として通用する人がいくらかでもいることが分かる。恋愛のデッド・ラインは五十歳、いや六十歳でもいけることを十朱幸代が教えてくれる。どこまでいっても諦めさせてくれない時代の到来である。
女性の欲望を人一倍持っている林真理子が、五十歳の女性に若い恋人がいることを、本気でみっともないと思っているのか、あるいは我が身を顧みて客観的つまり悲観的になって言っているのか、それは分からない。しかし、四十代はじめの女性の美しさは、林真理子ですら認めざるを得ないのである。
だめんず・うぉ~か~「倉田真由美著」
くらたまを分析する
ちなみに、くらたまが離婚した元ダンナは、雑学に強くて、話題も豊富。会話の受け応えも、おっ、こいつはセンスがあるって思わず感心するような男であったという。この男と結婚する直前まで、くらたまは誰もが認めるいい男の銀行マンと付き合っていて、結婚まで考えていたが、ギャグ・センスの切れ味が抜群にいい元ダンナの話の面白さにあっけなく惹かれて、いい男を振ってまでこっちと結婚。ギャグのセンスなんて、生活には何の役にも立たないのに、まったく、お前は何を考えてんだ!!
って当時の自分を殴ってやりたいですよ。と、くらたまは語っている(この話は非常に重要だと思う。「生活」の対極に「ギャグ・センスの切れ」が来るとは)。
くらたまは『だめんず・うぉ~か~』(4号)の中で、女を四種類のタイプに分けている。「(男に)ぶん殴られるタイプ」「なかなか別れられないタイプ」「(男に)貢がされるタイプ」「男で失敗することはないタイプ」である。
で、くらたまは、男で失敗することはないタイプを、「週に一度主人の診療所にお手伝いに行くのが生活のアクセントになっています」と語る歯科医師夫人に対して「尊い労働も奥様にはスパイスっ」と「ぶほー」と鼻で笑い、「古代中国、秦の始皇帝くん、今、キミを身近に感じました」と書いている。男で失敗しない女とは、計算高い女であって、男に求めるものの順位で分かるとも書いている。その順位は、
1 経済力(医者とか弁護士とかいい会社のサラリーマンとか。金持っててもホストなんかは×)
2 やさしさ(好きな事をさせてくれて好きなように金を使わせてくれる)
3 安定性(いきなり農業をやりたいとか言い出さない。ベンチャーに転職も不可)
4 学歴(ケイオーなら内部進学バカでも可。むしろ金持ちっぽいのでそっちのがいい)
5 まじめさ(浮気をしない。家庭を壊さない)
となっており、「計算女にとって、SEX関係の要素って重要じゃないってこと」と総括し、「自然じゃないわよ」とツッコミを入れている。
自然――くらたまにとっての自然――と思われるものは、(SEXに限局された)エロティシズムで男に惹かれることなのである。くらたまの言葉でいえば、自然に女が惹かれる男の条件は、「セックスのテクが上手い」「持続力がある」「ち○こがでかい」というようなすこぶる即物的で露悪趣味なものになる。
しかし、性器の俗称を羞恥心なく語ることを、女性側からジェンダーを粉砕する戦略と考え、実験的にあらゆるセックスに挑戦することは、若い世代のフェミニストもやっている。くらたまは彼女たちとは違う。いや、違わなければならない。くらたまは、イデオロギーなしに、エロに惹かれる女を擁護したり応援したりする以前に、自分自身がそうならなければならない。しかし、くらたまはそれができない。そうなりきることができないのだ。
『たま先生に訊け!』という本で、くらたまは人生相談に答えるという仕事をしているが、元・女流王将林葉直子とくらたまが、同じ悩みに答える「対局てき相談」では、林葉直子の答の方が突き抜けていて、はるかに面白い。くらたまには、セックスに関する「常識的」な逡巡があり、このひとは「フツーの人」なのだと思わせる。学歴が邪魔しているのに、彼女はそれに気づかない。
息子を東大に入れたいと本気で思っているらしい。東大を出ても、一橋を出ても、いくら勉強ができても、そのことで人は自由にはなることはない。十八歳の時の頭の良さで一生は決まるのではない。三十歳の時に賢いかどうかがよほど大事なのだ。
シロガネーゼへの欲望
では『だめんず・うぉ~か~』でくらたまは何を主張しているかというと、こうなる。何をエロいと思うのかは、個人のフェチによって異なるので、他人からは趣味が悪いと思われようが、本人さえ良ければそれでよい。計算高い女が男を選ぶ基準が、すべて「結婚生活は見せてなんぼ」であることと、エロさん惹かれてだめんずに金をむしり取られる女は、決定的に違う。
「おしゃれなんて男に見せなきゃ何の意味もない」というくらたまの本心と「フリース・ジャージで通す」というもう半分の本心と交差し、くらたまは引き裂かれるのである。男とのエロスに生きたいという気持と、女同士にしかわからない任侠を行くという気概(それがメシの種となっている)がくらたまの中にはあり、この二つの絶対に相容れないまま、くらたまはどんどん引き裂かれていく。
腰掛け総合職
梅宮アンナという生き方
総合職女性の選択
二人の認識が一致したのは、総合職に就いても、女は結婚相手に経済的に依存して、自分は「生活のためではなく、自己実現のための」仕事を目指す生き物だということであった。
「女は真面目に働きたいなんて思ってませんよ。しんどい仕事は男にさせて、自分は上澄みを吸って生きていこうとするんですよ。結婚と仕事と、要するにいいとこ取りですよ」と、彼女ははっきりとそう言い、私もその点に関しては全く同意見なのであった。
これは、女性がそういう生き物であるというより、人間というものがそういうものであり、人間の中の女という位置に置かれたら男と違って楽をできる方法が許されている以上、それを使わないはずがないという、諦観にも似た認識である。
女性だけではなく男性もまた、結婚によって経済的義務を相手が担ってくれたらと潜在的に考えている。日本の婚姻率が高いのは、相手に対するこういう「甘え」が二者関係の中でつねに許されてきたからであろう
娘の結婚は父親と国で決まる
高すぎる理想と長すぎる処女歴
父への憎悪
私の大学院時代のゼミの友人で、主婦を相手に長年カウンセリングをやってきた三沢直子氏(現・明治大学教授)は、現在四十代半ばの女性のクライアントが訴える多様な問題の背後に、父親に対する激しい憎悪があまりにも頻繁に見られることに気づいた。
そこで、父親の生年を調べてみたところ、昭和八年から十二年に集中していたという。これらの年に生まれた者は、学童疎開の経験者であり、疎開先で地元の子どもたちから虐めを受けた者が多く、さらに終戦が終わって帰ると、空襲で家屋が焼失し、家族も空襲で亡くなっていたり、父が戦病死していたりして、いわゆる戦災孤児となった者の多い年齢である。
戦災孤児として受けた差別、偏見や貧困によって作られた人格の歪みのせいで、「信じられるものは金と土地だけ」という価値観が人一倍強い。その父の娘が結婚して親になったとき、いかに自分が父から愛されていなかったか、父が親として夫としてどれほど酷薄であったかに気づいて、父への憎悪が顕在化し、父と対立することが実に多いと、三沢氏は言う。
もちろん昭和八年から十二年生まれで戦災孤児だった人だけが、トラウマを持つわけではないだろう。戦地に行き、餓死寸前までいって生還した人、傷痍軍人となった人、軍隊で殴られ続けた人、捕虜として長い抑留生活を送った人、内地に帰って空襲で家や家族を失ったことを知った人、戦後の猛烈インフレのために全財産が紙くずになった人、農地改革によって地主の地位から転落した人、そして戦後の混乱の中で他人を蹴落としてしか生きられなかった人たちを含めれば、明治生まれにも大正生まれにも昭和一桁生まれにも、戦争の深刻な被害者は夥しくいる。
恋愛とフェティッシユ
愛されたい欲望
人間には他人から純粋に愛されたいという欲望がある。金ではなく自己そのものを愛されたい。世界でたった一人自分だけを見ていてという欲望が、悲しいかな誰でも存在する
セックスの際に膚接感に、この欲望すなわち単にセックスの相手としてではなく自分を愛して、自分を守って、自分を大切にしてくれという欲求が、付着しないはずがない。
素直に考えれば恋愛の理想とは、「自分のフェチを満たしていて、なおかつ自分を愛してくれる相手と、相思相愛になる」ことである。つまりはその人から見て「美しい!」と思える(他人からは理解されなくてもいい。が、理解されるともっといい)パーツを持った相手と、まず出会わなければならない。
あの、知能テストを世界ではじめて考案した不遇の天才アルフレッド・ビネーは、知能テストについて研究する以外にも「フェティシズム」という論文を書いている。ビネーの不遇とは、彼がソルボンヌ大学の生理学的心理学研究室長としてフランス心理学の発達に最も貢献した人物にもかかわらず、生涯、大学で講義する機会を与えられなかったこととである。
政治力がなかったのである。悲境の人にふさわしく、家族を愛し娘たちに癒されながら多くの著書を残したが、五十四歳で脳溢血で逝った。
ビネーによれば、セックスは「フェティシズムの交響曲」である。女性の足とか、男の指とかにフェチのある人はいくらでもいるが、脚だけではなく指だけではなく顔も声もそして性格まで含め、「全体」がフェチにならなければセックスはできない、「部分」をフェチにしているのは、ただの「変態」である。したがってあらゆるフェティシズムという名の楽器が揃った交響曲こそ、完全で正常なセックスだというわけである(しかし「正常性交」を数ヶ月やっただけで、別れられて「家族」が成り立たない。妊娠し、子どもを責任を持って育ててくれなければ、国が滅ぶ)。
だから(ここから先は別にビネーは言ってはいないが)恋愛が終わっても、今度は愛という絆で家族はつながっているのだと錯覚させようとする。誰のために? 国の為に。こうして、「人格とセックスと結婚」は結合するというイデオロギーが発生した。
先ほどから述べているように、我々は自分が弱ったときにも貧乏になったときにも、変わらずに人に愛してほしい、感情の交流を確保したいという切実な欲求を持っている。多くの人は、恋(情熱恋愛)の刹那に、頭ではムリだと分かっていても、自分が一番好きだと言ってほしいと思う。
恋愛に「永遠」と「絶対」を夢見るのが、悲しいかな人間である。そういう人間の弱さが国家の目的と一致するからこそ、結婚制度はその威力を失わないのである。権力というのは、サンドイッチのパ ンのように、上と下にあるのである。
女性のフェチ・男性のフェチ女性のフェチ・男性のフェチ
女性には、それぞれ固有のフェチがある。
私の知り合いでは、三十代の女性がこう言っていた。
「頬杖をついた時に、肘の筋肉のラインが美しい男でないとイヤ」
その彼女が、四十歳目前で結婚した。相手の肘のラインで選んだかと尋ねたが、そのフェチは我慢したそうである。我慢したら結婚できたそうである。
「男の鎖骨フェチ」の女性もいて、鎖骨の上の窪みに石鹸が乗るくらいでないとカッコいいと思わないと言っていたのに、今付き合っているのは鎖骨がそこにあることが分からない程度の肉付きのタイプである。女性は、フェチを諦めるのではない、結婚相手にフェチを求めるのを諦めるのである。
女性は結婚してからも、自分のフェチを外に追求する。芸能人の追っかけをして、夫からは生活費以外なにも求めないし、愛しているという気持すら要らないと言った主婦がいた。メシとカネの交換のみという割り切った夫婦生活で、家庭にエロスはない。結婚相手とフェチの対象への愛は両立するのだ。
男性で妻からは気持ちも要らない、フェチは結婚の外で満たすというのは、なかなか難しいのではないかと思う。男性は芸能人の追っかけをするより愛人を作るという方にいくだろう。
男女の関係性の中では、男性が欲求を満たされる側で、女性がそれを満たす側という非対称性があって、女性はある年齢で、もう夫の欲求に応答するのはやーめた、という時期が来るのではないか。それが結婚生活に入ってから速いか遅いかの違いだけではないかという気がする。
「学者」対「作家」
さて、また話が難しくなるが(恐縮です・・・・)セックスの欲望と人格を切り離すことは、それ自体で反・制度的なものである。たとえば、男が相手の合意なく人格を無視してやると強姦となって犯罪者となり、男が相手の人格を尊重していても欲望しないとEDとラベリングされてバイアグラを処方される。すなわち法律と医学で対処されるが、女がこれをすると、強姦にはならないので法律で裁かれることがないかわり、「色き〇がい」とか、「壊れてる」とか言われて「非難」される。
法律を破ると国家が定めた「罰」がくだるが、公序良俗という名の規範(文章化されていない規則)を破ると「恥」を感じるように仕向けられる。人は、「罰」より「恥」の方が恐ろしいため、多くの人は「恥」を内面化して「非難」を避けるように生きている。人が最も恐れるもの、「非難」なのだ。
中傷、軽蔑、差別、迫害、孤立。非難はさまざまな形をとる。最終的にこれに対するには、自分が内面化している「恥」を捨てるしかないのだ。自分の中から「恥」を追い出して「恥知らず」になれば、頭を上げてちゃんと生きていける。私は、最近の女性作家たちの表現に見られる、性器の俗称の連発は、「フェティッシュの交響楽」から、楽器を一つ抜き取って単独演奏する欲求、つまり「全体」としてのセックスへ回帰したいという欲望の現われだと思う。
フェティッシュとは本来、物質であり、次第に身体のパーツに向けられるようになった。感受性(理性や意志でコントロールできない)の対象であり、頭が気づく前に身体が既に知っているものなのだ。女が男をフェチで選ぶのはセックスの全体性を崩壊させ、男を物質に還元することなのだ。
日本では、学者フェミニストは、セクシャリティをタブーにしてきた。なぜなら、大学という制度の中にいる以上、それを言う事とに自動抑止が働くからだ。フリーランスはその点自由だ。セックスの欲望に人格を、それも女だけが必ずセットにしなければいけないのはなぜか、という疑問に女性の作家たちは答えを出そうとしている。
岩井志麻子は、「人格とセックス」のセットから人格を捨て、中村うさぎは「人格とセックス」のセックスを捨てて。アラカルトで生きる生き方もあっていい。なぜ、他ならぬ彼女たちが、疑問に答えなければならなかった。それは、彼女たちが結婚も「人格とセックス」のセットだと思い込まされ、そこで壁にぶつかり、一回壊れたからだ。
今現在フツーを目指している女の子がいたとしても、やがて気がつく人は気がつくし、つかない人は永久につかない。それでいいと思う。学者フェミニストは、日本では自身が多く結婚しているし、たとえ結婚していなくても、大学と結婚している。ただセクシャリティを扱っているだけでラディカルな学者だと自称できる時代はもう終わった。
「うっかり・しっかり・ちゃっかり」の法則
女性の偏差値
学生の結婚の条件
拝啓、西村知美様
男性は、女性に男性と違う生き方を求めている。簡単に言えば、男は裸でもいい、ラクだから。でも女は衣装を身にまとって裸体を隠さなければならない。隠さなければ女は恥じらうような女でないと男は発情しないので「平気で裸になるなよ! 恥じらえよ! 」と男はキレそうになって女に言ったわけである。
汚いことは母がする
成功恐怖
女性がトップの位置に登りつめつつある、まさにそのときに心の中から響く声があります。「本当にいいの、そんな高い所に昇って。そこまで行ってしまったら、男の人はみんな私より下になってしまうのよ。そうしたら、誰も私と結婚なんかしてくれない。引き返すなら今よ。もう十分成功したじゃない。もっと大事なことがあるでしょう? そう、愛よ。結婚よ。暖かい家庭を築くチャンスを失ってしまうかもしれないのよ。降りるのよ。そこから降りなさい。早く!」
こういう、無意識の中から立ち昇ってくる感情を、心理学では「成功恐怖」と言います。マティナ・ホーナーという女性の学者が「発見」しました。こういう恐怖に駆られると、女性は成功を避けるように行動します。せっかく入社した一流企業で一人選ばれて昇進したりしたその時に辞表を出すとか、女優の場合も大ヒットした直後に不釣り合いな相手と結婚して銀幕を去ったりすることがしばしばあります。
「女性が成功したって、孤独で不幸な人生が待っているだけだ」「可哀想に、仕事に打ち込むしかないなんてモテない女なんだ」といった、男性たちのそういう女性に対する非難を当の女性が知るからこそ、その位置から去りたいと女性は思うのです。
「そんなこと思われても、現に自分は孤独ではない」というような立場のある人は何ともないのですが、そう思われる自体に恐怖を感じる女性はたくさんいるのです。
さて、この「成功恐怖」ですが、マティナ・ホーナーが、こういう発見をしたのは一九六八年のことです。「アンは、医学部の成績発表の掲示板をみて、自分の成績が一位だと知りました。さて、このときアンはどう思ったでしょう。それから、アンは将来どんな生活を送っていると思いますか」と、大学生に質問したところ、さきほど書いたような、特に男子学生の「孤独で不幸な人生」を意味するような具体的な反応文が見られたのです。
「狭くて寒いアパートで、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたアンが顕微鏡を覗いている。大学では仕事はパッとせず、恋人はもちろんいない」
しかし、現在この実験をしますと、日本の学生の反応は全く違います。「アンは、医学部在学中に年下の医学生と婚約し、卒業とともに結婚。二人は医者として仲良く働き、郊外に家を建て、子どもが二人と犬もいて、リッチで幸福な生活を送っています」女子学生も男子学生も多くがこういうふうに書くのです。
もし医学部で成績トップだと分かったときには、どういう気持ちかという質問には「すぐに親にメールし、家でお祝してもらう」「彼氏を携帯電話で呼び出し、一緒に喜ぶ」というのが圧倒的でした。
「成功恐怖」は、なくなったんでしょうか。同じ実験をすれば、今の日本では確かに「成功恐怖」は見られません。
しかし、私は去年、こういう知らせを受けました。私がかつて名付け親になった女の子が、東大と慶應を受験し、両方に合格しました。親と先生は東大に行けとすすめたのに、本人は入学手続きの前の晩まで泣いて抵抗、結局慶應を選んだと。
彼女にとって「東大」に入学することがすでに「成功」なのです。だから彼女は降りたのです。実際、東大に進学すると、女子学生は在学中に結婚相手を見つけなければなりません。社会に出ると、自分が東大卒だと聞いた途端、男の人はひくからです。医学部でも、女子学生は同じ理由で在学中に結婚相手を見つけようとします。
「東大」「医学部」「芸能界」、私はこの三つの世界が、一番女性の「成功恐怖」の表れる場所だと考えます。「当事者」でないと分からない恐怖というものがあるのです。
「成功」「名声」「富」は求めたいけれど、同時に「愛」「結婚」「子ども」も欲しい。あるいは「社会的自己実現」もしたけれど、「性的自己実現」も果たしたい。日本の女性は、両天秤をかけようとし、順番でいうと、「愛」「結婚」「子供」が「社会的自己実現」より先なのです。
女性が所有しても罪悪感を持たないですむどころか周囲に褒められ祝福される唯一のモノは「子ども」です。夫は、「子ども」と「子どもを育てる環境」を運んでくれるコウノトリです。「成功」するよりも「結婚」して引退し、子育てに専念したい。「成功」する才能のない者までがそう口にするのです。
子育てが一段落してはじめて自分育てに入るのです。しかし、結婚前に、「成功」出来なかった人が中年になって「成功」できましょうか。だから、子どもで「成功」しなければならないのです。「子ども」は母親の自己実現の代理戦争に遣われます(そうやって子どもは親の欲望の生贄にされます。子どもの「境界性人格障害」は激増しています)。結婚に注ぎ込まれたのは、「性的自己」ではなく、実は「社会的自己」なのです。
夢追う男
女の子に「夫に求める条件と恋人に求める条件」を聞くと、はっきり別々の条件を出すが、男性の場合はどうか、やはり一生モンであるからして、軽率な選択はできないと当然思うであろう。
犬に喩えると「恋人はチワワやヨークシャーテリアがいいかもしれないが、妻となると雑種がいい」と島田紳助が断言していた。吹雪の冬でもカンカン照りの夏でも雑種は外を走り回り、予防接種をしなくとも病気はしないからだそうである。
妻が雑種犬であれば、どういうことが望めるのか。他にも考えてみよう。
いつも明るく機嫌がいい。常に自分を勘定に入れず、夫が病気になれば徹夜で看病し、一日に玄米とほんの少しの味噌と有機野菜を食べ、肉も服も欲しがりもせず、廊下の電気はマメに消し、他人の家庭に妬みもせず、夫の親を大事にし、朝は夫より先に起き、夜は夫よりあとに寝る、給料日には「ご苦労様」と頭を下げ、夫が帰ると「お風呂にする? それともお食事?」と尋ね、
晩酌は夫に勧められると一杯だけビールを飲んですぐに真っ赤になり、雨が降っても洗濯物が縮むからと乾燥機を買いたいとも言わず、食器洗い機など買うのは後ろめたいと言い、子どもを一人で育て上げ、特技はマッサージで、いつも知らぬ間に夫の財布に小遣いを補填してくれている。
こういう宮沢賢治と、さだまさしと高島礼子を足して三で割ったような妻を探しても、いるわけはない。だからせめて、男の給料がカットされても自分がパートで働くことを厭わず、夫を呪いもせず、夫を捨てず、自分たちより下を見ては自足を知り、つつましく一緒に暮らせる女なら見目うるわしいくもないと思っても、そんな女すら、現在五十歳より上ぐらいでないと存在しない。要するに、病めるときも貧しきときにも、あなたといれば幸せと言って、夫の自己愛を満足させてくれるような妻を探すのは、もう無理なのだ。
男子学生の結婚の条件
小倉千加子著者、一九五二年生まれ早稲田大学院文学研究科心理学専攻博士課程修了。大阪成蹊女子短大教授・聖心大学講師・・・。
結婚の才能 小倉千加子著
大学時代から付き合っている会社員のカップル。交際を始めて2年になるが、そのうち1年は学生としてあり余る時間と自由を満喫した。ところが就職して社会人となってからは、研修やら何やらで、とても忙しい日々。学生時代のように気ままなデートを楽しむ時間的余裕がなくなってしまった。
男性はいちいち相手の一言をプライドに結びつけ一喜一憂するというやっかいな生き物なのだが、そのため、男性に何かモノをたのむとき、女性はちょっとした注意が必要になってくる。
男はいつでもハッキリものを言うべきだと思っている。なんでもストレートに、“直球”で表現することを好む。何かを言いたいときには、自分の意思を明確な言葉で伝えることが大切であり、それこそ会話をすることの意味であり、ひいてはそうすることが相手のためになる、とまで思い込んでいるところがある。
「最近冷たくない?」などと否定的なセリフを言われたときには、言葉をストレートに解釈して相手があなたを非難・批判・攻撃しようとしていると思わないようにしたい。相手の女性は、“冷たいか/冷たくないか”という事実関係を問おうとしているのではないのだ。
念のために言っておくが、「歯を食いしばり、ひとり孤独になって我慢し、どんなことにも弱音を吐かずに生きる」、そんな男の強がりを全否定する気は毛頭ない。むしろ、一つの生き方としは素晴らしいものであるとすら思う。しかし、自分が無理な強がりをしていることに気づかず、結局それが原因となって仕事や人間関係がうまくいかなくなったり、病気になるまで自分を追いつめることは避けなくてはならないだろう。
男性は、女性と服を着たまま抱き合っているだけで勃起してしまう。女性には、それがどうしてなのかわからない。まだキスもしていない段階なのにうっかり勃起してしまったこと
無事に初体験を済ませた立派な大人に成長してからも、男性はセックスと、“有能感”を結びつけて考える。そしてそれは女性にとっては理解しにくい、男性特有の奇妙な行動となって表面化することが多い。
21歳・女性・未婚。某大学の経済学部に通いながら、大学院進学の資金を得るため、夜は歌舞伎町の風俗店でアルバイトをしている。小柄ながらグラマーなタイプで、彼女を指名して通ってくるお客も多い。カウンセラーになって、人の心を癒したいという。