閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい本表紙

第七章

本表紙 亀山早苗 著

リストラがきっかけで夫が豹変、家庭は荒れ、私は逃げて

 夫婦といえども元はといえば他人。問題がないときは、お互い穏やかな気持ちで生活していけるが、何か事が起こると、今までの関係の真価が問われてしまう。そこで壊れていく夫婦も少なくない。

 理想的に家族を得た

「夫といても孤独。かといって別れたら私の心は壊れてしまいそう‥‥」
 吉川希美さん(五十四歳)は、ため息をつきながら、そう話し始めた。どことなくやつれたように見えるのは、心身の疲労が蓄積されているからだろうか。

 希美さんが三歳年上の男性と結婚したのは三十歳のとき。彼女は西日本の小さな町に生まれ、高校卒業後は、大手メーカーの直営工場でまじめに働いていた。ひとり娘だったため、結婚せずに地元で両親とずっと暮らしてもいいとさえ思っていた。

そこへ東京本社からやってきたのが、のちに夫となる洋祐さんだった。

「三歳しか違わないのに、彼は大人でかっこよかった。片思いでいいから好きでいようと思っていたら、彼からデートに誘われて。ふたりきりで会っても素敵な人でした。決断力があって、かつ思いやりが深くて」

 初めての”大人の恋”。だが、彼はいつか東京に戻っていく人だ。自分は両親の元を離れてついていけないと思い込んでいた。だが、あるとき、母がぽつりと言ったという。「希美が幸せなら、私たちも幸せなんだよ」と。

結婚して二年後、本社に呼び戻された夫とともに東京へ。

「夫は仕事が忙しかったけれど、いつも穏やかで優しかった。私は夫が安心して仕事に打ち込めるよう、一生懸命尽くしたつもりです。唯一の問題は、なかなか子供ができなかったこと。

ようやく授かったのは、私が三十五歳の時でした。病院で妊娠を確認した日のことは忘れません。帰宅した夫を玄関で出迎えると、『うれしそうだな、何かあったの?』と聞かれた。『赤ちゃんが‥‥』と言いかけるなり、『できたのか!』と叫んで私をぎゅっと抱きしめて。

すぐ慌てて体を離して『赤ちゃんをつぶしちゃう』と真面目な顔で言うんです。それからは過保護だと思うくらい、体調を気遣ってくれて。世界でいちばん幸せだと思いました」

 多忙なのに、夫は家事も積極的に手伝ってくれた。「ふたりぶん食べなくちゃだめだよ」とたくさん食べさせられ、体重が増えすぎて医者に怒られたこともある。

 子供が生まれるとき、夫は仕事を調節して立ち会ってくれた。長男を抱き上げ、夫は大粒の涙をこぼす。それを見た希美さんはますます幸せを実感した。

 夫の仕事は多忙をきわめていく。それでも週末は、できるかぎり家族のために時間を割いてくれた。

「理想的な家族だと思っていました。何の不満もなく、私は夫と子供に感謝しながら、ふたりのためだけに生きていければそれでよかった。三十九歳のときには次男も生まれました。

この次男に少し知的障害があることが分かったのが三歳のとき。親としてはショックですよ。私がいけなかったのかと自分を責めました。

でも夫は、『誰が悪いわけでもない。オレの天使だよ。この子が自立できるまで頑張っていこう』と、改めて夫を尊敬しましたね。この人と結婚してよかったと心から思ったものでした」

 長男は次男の面倒を自然とよく見るようになった。次男が小学校の特別支援学級に入ると、長男は周りの上級生から弟を守るかのように、毎日、一緒に登校した。

「たまたま私が目撃したのですが、一度、次男が長男の友人にからかわれたことがあったんです。長男は顔を真っ赤にして、自分より体の大きい友人に立ち向かっていました。

心優しい子に育ってくれたうれしかった。次男に障害があるのは辛いことでしたけど、だからこそ、私たち家族はまとまることができたという気もします」

 セックスが抜け落ちた

 夏休みにはみんなであちこち旅行をした。次男のはじけるような笑顔が、家族を常に和ませていたという。

 そんな家族を襲ったのが、夫のリストラという大事件だった。一年半前のことだった。
「その少し前から、夫の態度がどことなくおかしかったんです。相変わらず激務だったので『大丈夫?』と気遣っていたのですが、夫は『忙しいけど、心配しなくていいよ』と言うだけでした。

でも、夫の給料日に銀行へお金をおろしに行ったら、振り込まれていなかった。
遅配になるほど業績が悪いのかしらと気になり、夫の携帯に電話したんですがつながらなくて。

その日遅く少し酔って帰ってきた夫は、私の顔を見るなり、『ごめん』とうつむきました。そして『実は一ヶ月前にリストラされた』とようやく白状したのです。『どうしても言えなかった』と。私は、まったく言葉を発することができませんでした」

 数年前から夫の会社は業績不振で、リストラが囁かれていた。早期退職者を募ったこともあるが、夫は会社と仕事を愛していたから当然のように残ったそうだ。ところが、さらに業績が悪化し、とうとう数十人のクビが切られたのだという。

「なぜうちの夫が‥‥と思いました。ただ、話を聞いたときはあまりのショックで私は自分が何を言ったのか、本当に覚えていません」

 そのときの希美さんは五十二歳、夫は五十五歳、長男が十七歳、次男は十三歳だった。一家の生活の心配もさることながら、夫がすぐに話してくれなかったという事実が、彼女を大きく打ちのめしたという。

「私は夫を心から尊敬していたし、好きだった。それなのに、夫はなぜ私にすぐに言ってくれずに、一ヶ月も会社に行くふりをしていたんだろう。私を信用していなかったのだろうか‥‥。

そんな思いにとらわれてしまいました。でもいちばんショックを受けているのは当の夫なのだから、きついことは言えない。心の中に芽生えた『私はこの人にとってどういう存在なの?』という疑問を、このときは呑み込むしかなかった」

 夫は仕事を探し始めたが、五十代半ばともなると、なかなか見つからない。今まで勤めいた会社では営業職だったから、特に資格も取得していなかった。

「毎日、夫は落ち込んで帰ってきました。『身も心も疲れているのだから、少し休んだら』と言っても、家にいると落ち着かないみたいで、ハローワークや知り合いの元をひたすら訪ねて歩いていたようです。

私はさっそく、早朝はビルの清掃、昼間は弁当屋さんで働き始めました。次男を放ってはおけないので、短時間の仕事を掛け持ちするしかなかったのです」

 五十歳の声を聞いても、夫婦はそれまで週に一回はセックスを楽しんできた。夫に抱かれると体の芯から幸せと安心を覚えたと彼女は言う。だが、リストラ以降、夫婦の間からセックスが抜け落ちた。

三ヶ月も経つと希美さんは、仕事の疲れも重なって頭痛とめまいに悩まされるようになる。気づいたら、生理も来ていない。だが、病院に行く余裕はなかった。なけなしの貯金も目に見えて減っていった。

「夫の様子を徐々に変わっていきました。ため息をつきながら毎日出かけていたのが、一日おきになり、二日おきになり‥‥。リストラから半年後には、何もせずに家でごろごろするようになっていました。

そうなると、朝からお酒を飲むようにもなる。このままではいけないと思って、『家にいるなら家事を手伝ってくれない?』と言ったら、いきなり殴られたんです。

『おまえはオレのことを馬鹿にしているんだろう』などと暴言も吐く。以前とは別人のようになってしまいました」

 リンストラには、その人の心を崩壊させる危険性がある。プライドを踏みにじられるからだ。とりわけ会社や仕事を愛してきた人ほど、心の傷は深くなりやすい。

 「女ってあさましい」

 ある日、夫は酔っぱらったあげく、「おまえはオレの味方をしてくれなかった」とつぶやいたという。

「夫が言うには、リストラされたと言った瞬間、『どうなるのよ、これから』と私が冷たい口調で責めたと。それがショックだったらしいのです。

だけど私は、自分が何を言ったか覚えていない。夫が話してくれなかったショックが大きくて。リストラという事態に直面して、その後、お互いに相手への不信感が募っていたのかもしれません」

 おそらく、それまでは次男の障害のこともあり、夫婦は気遣いながら暮らしてきたのだろう。だが、ひょっとしたら思いやりあうあまり、本音で話す機会が少なかったのかもしれない。

以前、夫が失業した夫婦を取材したことがあるが、夫のリストラは、それまでの夫婦のありようへの試金石ともなるとつくづく感じたものだ。そう話すと、希美さんはじっと聞き入ってくれた。

「確かに私たち夫婦は、それまでケンカしたことがなかったのです。どこか遠慮があったのかもしれませんね。お互いに」

 夫の暴言、暴力に耐えて、希美さんは子供たちのためにも働き続ける。家では子供たちになるべく笑顔を向けていた。だがある日。清掃をしていたビルで倒れ、病院に運ばれてしまう。過労だった。入院を勧められるが聞き入れず自宅に戻る。自分が頑張らなくてはいけないという一心からだ。

「その翌々日くらいだったでしょうか。清掃していたビルで、いきなり『萩原さんだよね』と旧姓で呼ばれたんです。私が顔を上げると、『やっぱりそうだ。この前、倒れたのは萩原さんでしょ。もう大丈夫なの?』って。驚いたことに高校時代、ほんの少し付き合っていた人だった。

当時はキスしかしていませんでしたけど。そんな思い出が一気によみがえってきたものの、私は立ち話もそこそこに、逃げるように立ち去りました。清掃の仕事が恥ずかしい
わけじゃないけれど、やはり彼には見られたくなかった」

 ところが彼は、翌日、早朝から待っていて食事を誘ってくれた。そんな時間はないと断ったが、翌日も、その翌日も待っている。希美さんはとうとう折れた。時間をやりくりしてランチを共にするようになる。

「何度かランチをしているうちに、自分のことを少しずつ話すようになって…‥。夫の暴言や暴力のことは話せませんでしたけど、彼は親身になって聞いてくれました。ランチがディナーになり、お酒になり、そして再会して一ヶ月後にはホテルに行っていました。

恥ずかしい話ですけど、私、興奮と緊張はしているんだけど、あそこが乾ききっていた。なかなか濡れなくて焦りました。でも、彼は『大丈夫だよ』と。ゆっくりゆっくり舌で愛撫してくれて。ようやくひとつになれたとき、うれしかったのかほっとしたのか泣けてきてならなかった。彼は涙を唇でそうっと拭いてくれました」

 何度か会うちに、彼の顔を見るだけで濡れてきた。『女ってあさましい』と希美さんは感じたという。

「彼のことは好きだけど、現実から逃げたい気持ちも大きかった。家庭は荒れていき、私の心はますます家から逃げようとする。悪循環でした。昨年、高校を卒業した長男も同じ気持ちだったのでしょう。

バイトしながら暮らすと言って出て行ったきり。たまにメールが来る程度です。次男は施設に通って教育を受つつ、社会に出る準備を始めました。

この子だけは見放せない。けれど、ときには次男から解放されたいと願う自分がいることに気づき、情けなくて。その反動うからでしょうか、ますます彼に執着していきました」

 先がない恋とわかりつつ

 昨年末、ようやく夫の再就職先が決まった。正社員ではないのだが、夫にもようやく昔の明るさが戻ってきた。

「張り切って働いていますが、私の心はもう夫にはない。気持ちを切り替えようと頑張っても、夫を愛しいと思えなくて。夫はその後、何度かセックスを求めてきましたが、私は『疲れているの』と拒否しています。

自分でもぞっとするくらい冷たい言い方で‥‥。夫にとって私は何だったのか。その思いから抜けられない。夫は夫で、せっかく立ち直ったのに私が変わったと思っているでしょうね。

未だに私たちは本音でぶつけ合えていない。夫と一緒にいると部屋の空気が冷え冷えとしてくるようで、孤独感ばかりが募ってきます」

 だからといって、逃げ場となっている不倫相手には家庭があり、安定した仕事もある。彼が今の生活を捨てるはずはない。

「奥さんが病弱だといっていたから、私をセフレとしか思っていないのかもしれない。次男もいつかは自立できる可能性があります。私は結局、だれにも必要とされていないんです。それでも私は彼を求めずにはいられない。先がない関係と分かっているのに‥‥」

 希美さんの目が潤む。こらえていたが、ついに大粒の涙がポトリと落ちる。そのあとは、堰を切ったように涙があふれ続けた。

 事実上、家庭は崩壊している。夫とのあいだに心からほっとできる時間がもてないままだ。状況の変化には対処できる「夫婦力」を今から育むのは無理なのだろうか。

 どうしたらいいかと彼女は最後まで言わなかった。私も「こうするべきだ」という考えは浮かばない。つらいときは逃げてもいいと思ったが、軽々しく口に出すことはできないような気がしてならなかった。

 裏切りで染まった愛の彷徨三十年、私は何を手にできたか

「四十にして惑わず」と孔子は言った。だが私は、五十歳になってもまだ迷っている。友人知人たちも似たような状況だ。最後まで迷い続けるのが人生なのかもしれないと近頃は思うようになった。
 私たちは母親世代と違って諦めが悪い。常に何かに飢え、何かを求め続けていくしかない定めにあるのだろう。

「おまえはいつも完璧」

 五十歳になったばかりの古川登美子さんは、ずっと我慢を重ねてきた人生から一歩踏み出した経験を持つ。だが、その後、別の苦悩が訪れた。

 確かに。私も深く頷く。どこで何があるかわからない。対処しようがないことが起こる。それが人生‥‥。

 登美子さんは高校時代の同級生と、二十歳のときに「できちゃった婚」をした。同じ年に長女を、二年後に長男を産んだ。

「夫は当時、大学に通っていましたが夜間部に転部。昼間は衣料関係の会社で働き始めました。『若い夫婦はだからダメなんだ』と言われないよう、ふたりで一生懸命がんばった。私も、子どもを保育園に預けてファミレスでパートを‥‥。子どもたちが小学校に上がってからは、何か手に職をつけなくてはとマッサージ師の専門学校にも通い始めました」

 彼女は「いい家庭」を作るために必死だった。なぜなら小学校の頃、両親の離婚を経験しているから。母のいない家庭は寂しかった。いつもひとりぽっちだった。

「両親そろった温かい家庭。笑いの絶えない家庭、それが私の夢だった。夫もそのことはわかってくれいました。経済的には大変だったけど、休みの日には家族みんなで公園や河原に行ってよく遊びましたね。いつも四人一緒。それが私にはいちばんの幸せだった」

 二十代は毎日が必死だった。三十歳になったとき、いくらか手のかからなくなった子供たちの寝顔を見ながら、彼女は夫に話しかけた。「よく頑張ってきたよね、私たち」と。その時の夫の反応が、どこかおかしかった。登美子さんは二十年前をそう振り返る。

「心ここにあらずという感じで、気になっていました。その二ヶ月後、夫が浮気をしていることが分かったのです」

 遅くなるときは朝必ずそう言って出かける夫が、無断で午前様に、仕事と言い訳を、彼女は信じなかったが、真実を知るのが怖くて尋ねることもできずにいた。しかし外泊までするようになると、さすがに黙っていられなくなった。

「いったい何をしているのと、気持ちを抑えながら静かに聞きました。すると夫は、『ごめん』と『ごめんじゃわからい』『好きな人ができた』というやりとりが、そのあとあったような気がします。私は余りのショックで、何を言ったのか覚えていませんが」

 夫は会社の同僚で八歳年上、当時三十八歳の離婚歴のある女性と一年前から関係を持っていた。
「このままでいいとは思っていない」
 夫はそう言って涙を流したという。

「だけどその涙は、後悔や私に対する謝罪の涙ではないと分かりました。夫はその人のこと、本気で好きだったんです。だから別れることを考えると泣けてくる。

私は夫と大恋愛のつもりで結婚したけれど、夫にとってはそうでなかったのかもしれない。そのことが骨身にしみてわかり、とてもつらかったですね。『私のどこがいけなかったの?』と夫に尋ねたこともあります。

夫は苦しそうに、『おまえはいつも完璧だったよ』って。妻として母として、そして女としても頑張ってきたけれど、その完璧さが逆に夫を追い詰めたということでしょうか」

 登美子さんは、夫に「彼女と別れて」と言いたかった。だが、喉(のど)元まで出てくるその言葉を、いつも口にできなかった。夫は家庭を壊そうとは思っていない。

子供たちは父親が大好きだ。そして何より、彼女自身が、夫を依然と同じように愛していた。

 しかも、夫は相手の女性を本気で恋している。その気持ちを考えると、自分に「別れろ」と言う権利はないように思えてきたのだという。

「苦しかったです、本当に。『寂しくてたまらない』と泣いて訴えたこともある。でも夫はそっと抱きしめてくれるだけで、セックスはしてくれない。

ふだんも私に冷たくするわけではありませんでした。夫自身も、にっちもさっちもいかなくて淡々と生活をするふりをするしかなかったのでしょうけど」

 頭痛やめまいが止まらない。食欲もわかない。登美子さんは体の不調を訴えながら、医者の助けを借りて、何とか日常生活を送っていくしかなかった。

 ひっそりとこじれていく

「二年ほどが経つうちに、そんな状態に耐えられなくなって。夫も相手の女性も憎い。でも夫のことは好き。いっそ私も浮気をしてやろう、夫をこれ以上に組まないためにはそれしかないと思い詰めた。

当時鍼灸師でマッサージ師として働いていたので、飲み会の後、先輩を誘ってホテルに行ったんです。でも‥‥」

 キスをしても何も感じなかった。すると、相手の男性は登美子さんをじっと抱きしめて、「無理をしなくていい」と言ったそうだ。

「私が少し前から元気がないことに気づいてくれたようです。結局、何もせず話を聞いてもらっただけ。情けない、私は浮気もできないんだとますます落ち込みました」

 子供たちも中学生になり、日常生活は忙しさ増していく。長女が部活動で挫折しかかったり、長男が学校へ行きたくないと言い出したり、その都度、夫と話し合わなくてはいけない。

夫は、子供たちのためならいつでも時間を割いてくれる、登美子さん夫婦の三十代前半は、子供たちとの葛藤と戦いの日々だった。

 ふと気づくと、いつの間にか夫はまっすぐに帰ってくるようになっていた。

「結局、五年くらいで完全に終息したようです。いつかはわらないけど、子供たちに振り回されているうちに、夫の恋も終わっていた。私の三十六歳の誕生日に、夫がダイヤの指輪をくれたんです。

そういえば私たちも結婚指輪も買ってなかった。『へそくりはたいちゃったよ』と夫が笑いながら指輪をはめてくれたとき『ああ、この人は私の元に帰ってきたんだ』と。嬉しくて泣けました。

その晩、六年ぶりくらいに夫に抱かれたんですが、私、全然感じなくて‥‥。まったく濡れなかったので、夫も焦って、最後は無理やりねじ込んできた。それがまた何とも言えずかなしくてたまりませんでした」

 気持ちは夫から離れていなかったはずなのに、体が言うことをきかない。ときとして、体は心より正直な反応を示すことがあるのだ。

「夫は最後までいかず、『ごめん』と背を向けました。私は焦燥感にかられて、必死に夫のあそこをむしゃぶりついた。だけど夫は『もういいよ』って。せっかく夫が戻ってきたのに、このままだとまた失ってしまう――。私は一晩中、泣いていました。でも、泣き声は聞こえていたはずなのに、夫はこちらを向くことはなかった」

 そこから、夫婦の関係は静かにこじれて行った。こじれていくことがわからないくらい、ひっそりと‥‥。

 気持ちを伝えたくて、登美子さん夫に手紙を書いたこともある。自分が今までどんなに寂しかったか、そしてどんなに夫を愛しているか。だが、夫は妻と正面から向き合おうとはしなかった。

たまたま夫の会社が他社との合併した時期だということもあり、彼女も夫に時間を割いてほしいと無理強いはできなかったようだ。

「その後、長女は大学に入学。私が四十歳のとき、息子が専門学校に進み、これで荷が下りたような気がしました。これから本気で夫婦のことを考えなければと思っていた矢先、今度は私が恋に落ちてしまったんです。ありえないことが起こったという感じでした」

 人知れず逢瀬を重ねて

 マッサージ師として働いていた彼女は、時間的に少し余裕ができてきたこともあり、仕事関係の勉強会に積極的に参加するようになった。そこで知り合った、二歳年下の光博さんが相手だ。彼も既婚者である。

「最初に話したのは、偶然となり座ったから。でも勉強会に出席したとしても、また会ったんです。それで親近感を覚えて。ある会のあと、

みんなで居酒屋に行き、初めてゆっくり話しました。そのときは同業の友達という感覚でしかなかった。いつから恋愛感情を抱いたか、自分でもよくわからないのです」

 気づいたら好きになっていた。好きになったことを意識したちょうどそのとき、彼から食事に誘われた。

「ある日、『この前、話に出たマッサージ関係の本を持ってきているので、いつでも貸します。ついでに食事でもしませんか』というメールが来ました。断る理由はなかった。

ついでに、という言葉で、彼は別に私のことなどなんとも思っていない、だから気軽に会おうと決めたんです」

 それは違うと思った。彼も彼女の子を意識していたのだ。だからこそ、わざと軽い言葉を使った。彼自身が抱えた恋愛感情の後ろめたさに対する言い訳のために、

そして登美子さんに軽い気持ちが来てもらうために――。私がそう言うと、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。

「恋するのは二十年ぶりだもの。何もわからなかったんですよね」
 食事をともにし、ふたりとも時間を忘れた。三時間があっという間に経っていたという。
「外へ出ても、お互いに帰ろうとは言わない。帰らなくちゃいけないのに離れられない。彼も同じ気持ちだったのでしょう。『あとすこしだけ時間をくれませんか』って。私だって、何が起こるくらいは予想はつく。

黙ってタクシーに乗りました。そしてラブホテルへ。感じるかどうか心配だったけど、実際には信じられないくらいの快感があって‥‥。我を失うってこういうことかと初めて知った。

彼は二度もして、『生まれて初めて二度も続けてした。あなたの気持ちと体がたまらなく好きだから』なんて歯の浮くようなことを言ってくれました。あの日のことは忘れられない」

 ここから秘密の関係は始まった。月に一度か、うまくいけば二度、ふたりは密かに会ってたくさん言葉を交わし、体を重ねた。

「この人なら私の全てを預けてもいい。そんな気持ちでした。出会ったのは運命だ、いつか一緒になろう、行けるところまで二人で行こう。いつもそう話していたんです」

 彼女が四十一歳のとき始まった恋は、人知れず続いた。ところが今から一年前、八年間の関係が一方的に断たれてしまう。

「突然の別れ話でした。何の説明もなく、しかもメールで。『もう会えない』って、それだけですよ。今まで重ねてきた関係はいったい何だったの、と私は半狂乱になった。いくらメールや電話をしても反応なし。

身悶えするような一ヶ月を過ごしたあげく、それでも我慢できなくて、彼の職場に乗り込みました。けれど居留守を使われ、あげく同僚たちに体をつかまれて追い出された。

屈辱でした。そのあと、とうとう私。彼の家に行ってしまったのです。奥さんに会って『私、八年間、あなたのご主人と付き合っていました。体も心も最高に相性がいいって言ってくれるんです』と騒いで‥‥。

でも彼より年上の奥さんは落ち着き払って『それで? 私に何の御用?』と。カッとなって下駄箱の上にあった花瓶を奥さんに投げつけて逃げました。敗北感で胸が張り裂けそうに‥‥」
 登美子さんの目に少しだけ虚(うつ)ろになる。

 それでも生きている

 この八年の間に、長女は就職してひとり暮らしを始めた。長男も手に職をつけて、家を離れていった。ここ数年は夫とふたり暮らし。夫との関係は相変わらずだが、特にケンカをすることもなかった。彼女の気持ちが夫より光博さんに集中していたせいもある。

 光博さんの家に乗り込んだ後、登美子さんは空虚さに耐えられず、仕事を休んでは泣いてばかりいた。数日後、夫は帰ってくるなり、怒鳴りつけてきた。「おまえは何をやっているんだ」と。

どうやって調べたのか、光博さんの妻から登美子さんの夫の会社に連絡が入ったのだという。花瓶が顔に当たってケガをした。訴える。そういきまくっているらしい。

「訴えるなら訴えればいい。そんな気持ちでした。なぜ彼に会えないのか、なぜ彼はきちんと説明してくれないのか。その程度の関係だったのか。そればかりが頭の中でぐるぐるしていて‥‥。

死んでしまいたかった。夫は私がおかしくなっていると分かったんでしょうね。知り合いが経営する病院に入院させてくれました。もし入院していなかったら、私は今、ここにいないと思います」

 彼女は三ヶ月ほど、郊外の病院で心身ともにゆっくり休むことができた。そのあいだに、光博さんの妻と示談が成立したそうである。

「退院してから七ヶ月経ちます。夫は何も言わないけれど、わたしを許してはいないでしょうね。長女は『お母さん、まだ若いんだから好きなように生きればいいわよ』とさばけたことを言ってくれますが、本心はわかりません。

私の中ではまだ何も解決していない。夫と結婚したときの私はどこに行ってしまったのか。この三十年は何だったのか。光博さんとの八年は何だったのか。何も答えが出てこないまま‥‥」

 こんな話でごめんなさい、と彼女は頭を下げた。もう恋などするはずはないと思っていた彼女が恋に落ちる。今思えば、自分が自分に裏切られたような気持だったのだろう。彼は運命の人だったはずなのに。夫を裏切り、彼の裏切り。誰を恨むことさえできない結末。

 それでもあなたは生きている。それはひょっとしたら、この先、まだやるべきことがあるからかもしれない。私は、そんな抹香臭いセリフを言ってみた。彼女はかすかに頷いてくれた。
つづく 第八章
 一年に及ぶ離婚闘争劇、屈辱にまみれた私は決断できなくて