閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい

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第六章

本表紙 亀山早苗 著

六十九歳の母は今も女全開、娘の私は反発心から男を忌避し

 いくつになっても母親と娘のあいだには、さまざまな葛藤がある。反発しながらも母親と似たような人生を歩んでしまう人もいれば、正反対な生き方を貫く人もいる。

 女性は大人になる過程で、母親が自分を「娘」としてだけでなく、「女性としての後輩」と見ていることに気付く瞬間があるように思う。

だが娘の方は、母をいつまでも「母」としてしか見ようとしない。だから、”女としての”母を見たとき、自分の生き方に大きな影響が出てしまうのは、仕方のないことかもしれない。

 「仕事だけの人生」の理由

 友人で独身の渡辺優香さん(四十四歳)が体調を崩したのは、一年半ほど前のこと。生理周期が乱れ、めまいや頭痛がひどい。内科で検査をしても原因がわからず、産婦人科で初めて、女性ホルモンの量が激減していると知らされた。

「まだ本格的な更年期には少し早いけど、プレ更年期と言えるでしょうって言われた」

 彼女はそう告白して苦笑いする。この話をきっかけに、彼女の過去から現在までの恋愛経験を聞くこととなった。

「私、ここ十年以上、誰ともエッチしていない。その前だって二人とつきあっただけ。どちらも短い付き合いだったの」

 明るく男女問わず友達も多いように見えていただけに、私には意外だった。そういえばつきあいは長いが、男関係の話はあまりしたことがなかったっけと今になって気づく。

 大学を卒業して旅行会社に就職。ところが入社して数年後にバブルが崩壊、その後、リストラの波や給料減額など様々なことがあったが、彼女は必死に努力して乗り越えてきた。

「三十歳になったころから、チームのリーダー役を任され、どんどん仕事が面白くなっていったの。自分が企画したプランが通って、無事に旅行がすんでお客様に喜んでもらえる。そうなると、もっといい企画を考えようと頑張る。その繰り返しよ」

 ただ、三十五歳、四十歳と年齢を経るうちに、「このまま仕事だけの人生でいいのか」という思いが膨らんできていた。だからといつて、恋愛をゼロから始めて育(はぐく)んでいくという行動はとれない。誰かに恋心を抱くこともない。

「それは私が心のどこかで男性を信頼していないことと、母の生き方への反発があるせいよ」
 
 彼女は北関東のとある小さな町で生まれ育った。母親は今年で六十九歳になるという。父親は優しい人で、勝ち気な母親に何を言われてもニコニコしているような人だった。

「父は私が大学を卒業した年に急死。そのとき、いつも父をないがしろにしていたように見えた母が号泣したの。『夫婦には、私たち実の子供でも分からない絆があるんだね』って弟と話したっけ」

 以来、母親はひとりで暮らし。それを気遣って、優香さんは父の死後、前よりも頻?に実家へ帰るようにしていた。

「父が亡くなって一年も経たないころのこと。土曜日の夜、実家に戻ったら、真夜中に誰かが訪ねてきたのよ。母は玄関まで飛んで行った。話し声は聞こえるけど、何を言っているかはわからない。

相手は男性よ。結局、母は追い返したの。様子がおかしかったので、いろいろ聞きだしてみたら、『最近、つきあってる人なの』と。『お父さんの一周忌もすまないうちに、それじゃあんまりじゃないの』と諭すと、

しれっと『だって寂しいんだもの』と言う。当時、母は四十代後半。今になって思えば、ひとり寝が辛かったのかもしれない。だけど、そのときは母を軽蔑したわ」

 以来、優香さんは過去のことを検証していった。実は、母に関して子供の頃からいろいろわだかまっているものがあったのだという。

「父は運送会社に勤め長距離トラックを運転していた。数日、帰ってこないこともよくあったわ。私が小学校低学年のころのある日、家に帰ると珍しく鍵がかかっていたの。

当時、私が生まれ育った町では、どの家も鍵をかけるようなことはなかったから、私は訝(いぶか)しみながらも困り果てて。家の周りをぐるぐる回っていたら、居間の磨りガラス窓の奥で人が動いているのが分かった。

何だ、お母さん居るんじゃないかと思って窓を叩くと、母が窓を少しだけ開けて、けだるそうにしながら『しばらく遊んでおいで』と五十円くれた。今思えば、あのとき母の髪が乱れていたような気がする。男がいたんだと思う」

 そんなことはたびたびあった。父の帰ってこない夜、優香さんは母が押し殺したような悲鳴を上げているのをきいたこともある。

 同じ淫乱の血がと思うと

「そういえば‥‥」
 彼女は自分の過去を整理するかのように、次々に昔のことを語った。

「一度だけ、あの優しい父が母に手を挙げていたことがあったの。夜中に偶然、私が起きて居間に行ったら、父は母がにらみ合っている。そしていきなり父が『あんな男と‥‥』と言うなり、母の頬を殴ったのよ。私はびっくりして泣き出しちゃった。

父が母をぶったことがショックで‥‥。でもあのとき、確かに父は『あんな男と』と言った。きっと母の浮気がばれたのよ」

 泣き出した娘を見て、母は見方を得たように抱きしめた。父は娘に傷つけたことに気づき、優香さんに謝ったという。

「それでも夫婦の諍(いさか)いは、水面下で続いていたようね。私が中学生になると、母は軽自動車を買ってパートに出かけるように。やけに化粧が濃かったことがあって、

『化粧が派手すぎる』と弟に言われて、あわてて口紅を落とす母を見たこともあるわ。男に会ってきた帰りだったんじゃないかな」

 今さら、浮気を責めても仕方がない。それは優香さんにもわかっている。だが、父が亡くなってから、過去の母の行状を時々思い出しては許せない気持ちになると彼女は言った。

「記憶は自分に都合がいいように上書きされるものよ。あまり過去にとらわれない方がいいと思う」

 私がそう言うと、彼女は「解っているだけど」と暗い表情になる。
「しかもねえ、父の死後、母は私しか頼るところがないから、ときどき恋愛相談を持ち込むようなたったの。母も独身だから、恋愛は自由かもしれない。だけど、見境がないというか何というか…‥。

十年くらい前かなあ、一時期、三人も恋人がいたことがあるぐらいよ。『そのうち誰かに刺されても知らないわよ』と言うと、『どの人も好きなんだもの』と平然としている。

年上と年下だったわ、そのときは。それからも、常に誰かが付き合っている人がいたみたい。母が六十三歳のころは、三十代後半の男と付き合っていたこともある。二まわり以上、年下よ。信じられない、あんな母と付き合う男の気持ちもわからなくて‥‥」

 母親に財産があるわけではない。ただ、娘の優香さんから見ても、どこか男好きするタイプなのだという。社交的で明るくて場を盛り上げるのが大好きだから、どこへ行っても人気者になっているらしい。

「今だって赤やピンクの洋服を平気で着るし、またそれが似合ってしまう女なのよ。だけど淫乱。他人なら『おもしろいお母さんじゃない?』と許せるけど、私にあの母の血が流れていると思うと、ぞっとすることがある」

そういえば彼女は、以前一緒にお酒を飲んだ際、酔って同じような言葉を洩らしたことがある。

「だからあなたは恋愛しないの?」
 そう直截(せつ)に尋ねてみると、彼女はしばらく考えていたが、かすかに頷いた。
「私がこうなったのは母親のせい、とは言いたくない。けれど怖いのよ。誰かとつきあっても満たされず、次から次へと男を渡り歩くような女になりそうで。

それには母は結局、父を裏切り、他の男性たちとだって愛を貫けなかった。実のある恋をしたわけじゃない。恋愛したって何になるんだろうという気持ちもあるよ、正直」

 私には快感が必要だった

 今回の取材は、優香さんから「母が大変なことをしでかした」と聞いたことがきっかけだ。
「このところ、母は十歳年下の家庭持ちの男性と付き合っていたんだけど、つい一週間ほど前、奥さんが夜中に家に乗り込んできたんだって。ちょうどその彼が泊まっていたので、修羅場になってしまったの。

 母は殴られたから殴り返したと言っているけど、警察まで来て大騒ぎだったみたい。いつかはこうなると思ったから気を付けるように言っていたのに‥‥」

 その話を改めて聞いている最中、彼女に電話がかかってきた。大きな声が響く。優香さんが唇を動かし、「母よ」と私に告げた。近所の目がうるさくて、東京に出てきちゃったから泊めて、と娘に頼んでいる。
どうせなら会ってみたい、と彼女に私たちがあっている店に呼んだ。
 
 赤いニットのアンサンブルを着た母の政子さんは、確かに六十九歳には見えない。若くてかわいい女性だった。

「娘からよくあなたのことは聞いています」
「一度お会いしたかったんです」
「私もよ。今日は徹底的に飲んじゃうわ」

 そんなやり取りがあって、彼女は楽しそうに腰を落ち着ける。
「警察なんか呼ぶことはないと思わない? 男女のことだから」

 政子さかは、ビールを飲みながら、怒っているでもない、のんびりとして口調で言う。
「お母さんが不倫なんかするからでしょ」
 優香さんは手厳しい。

「でもねえ、人生って一回きりでしょ。私が亭主に死なれたのは、四十七歳のときよ。まだまだ女盛りだもの、残りの人生を女として生きて何がいけないのって思うの」
 おっしゃるとおりである。

「結婚しているときだって、いろいろ浮気をしてたでしょ?」
 娘の追及に、母の政子さんはにっこり笑うだけで答えない。

「あんたももっと人を好きになったほうがいいわよ。結婚しなくても子どもだけは産んでおけばってずっと言っていたのに。今からでも間に合うかもしれないわ」

 あげく、政子さんはそんな無責任なことまで言い始めた。優香さんが怒りを抑えているのがわかって、私はあわてて話題を変える。

「お母さんは、もう年だから自重しようとか、男性誘われても『年が不釣り合いだから』と気後れするようなことはないのですか?」

 ぶつしつけではあったけれど、彼女ならきっと答えてくれると思った。
「娘の前だから言いにくいけれど‥‥」

 優香さんが席をはずそうとしたので、私は目で彼女を制した。母を、一人の女して見るいい機会だと思ったからだ。

「男好きなんでしょうね、私。男の人と話して楽しくなると、夜も一緒に過ごしたくなっちゃう。亭主はけっこう淡泊な人だったの。優香の言うとおり、結婚しているときも、たまに浮気をしていたわ。

自分の中に魔物がいると怖くなったこともある。今でいうセックス依存症みたいなものじゃないかと‥‥。あ、私、パソコンもやりますからけっこう情報通なのよ」

 見た目だけでなく、心も若いのだ。
「人がどういうかわからないけど、私にはそういう快感が必要だった。なくて生きていけないと思ったの。亭主のことは大事にしたよ。だけど、それとこれとは別という気がしていた。

年齢とか気後れとか、あんまり考えたことがないですね。そういえば更年期も、私はいつの間にか乗り越えてしまったタイプだけど、そのころ付き合って人に『生理が来なかったら、私を女として見られない?』と聞いたんです。

その人、『絶対に妊娠しないというだけのことでしょ』って。あの人はいい男だったわ。そういう人がいたから、私はひとり暮らしでも寂しさを感じずにやってこられたんだと思う」

 制限時間があるなかで
 店を出ると、政子さんは「そこらへんのホテルに泊まるわ」と言って、ひらひら手を振りながら去っていった。優香さんは引き止めようとしない。

「勝手なことばかり言って」
 その声に振り向くと、優香さんが目に涙をためている。女としての母の声を聴いたことで彼女の中で何かが変わってしまったのだろうか。

 私は出すぎた真似をしてしまったのかもしれない。恋愛なんて、してもしなくてもいい。私自身はそう思っている。だが、してはいけないと思いながら恋に落ちる人を数多く見てきている身としては、

優香さんの頑な気持ちを、少しほぐしてみたかった。母を母としてではなく、ひとりの女として見たら、きっと人生観や男性観が柔軟になるはずだ。それが余計なお世話なのかもしれないが。

 あれから政子さんとは、ときどきメールをしあう仲となった。警察沙汰にまでなった男とは別れたようだが、「またいつ恋が降ってくるかわからないし」と相変わらず女全開、元気にパートの仕事をしながら生活を楽しんでいる様子が伝わってくる。

 そして娘の優香さん。こちらも相変わらず仕事に邁進する日々ではあるけれど、「四十五歳までには彼氏を作る」と宣言している。彼女の口からそんなことを聴いたのは初めてだ。

 人は誰もが死に向かって生きている。制限時間はわからないが、最後に誰もが死んでいく。人生なんて、ある意味では死ぬまでの時間つぶしともいえる。政子さんのあっけらかんとした口調を思い出しながら、「どう生きるのかが女として本当に幸せなのか」を、もう一度ゆっくり考えてみたい気持ちになった。

 恋か情か――、五十歳目前の私は今、元夫の愛人になりはて

 いくつになって「安定した生活」を送るのは難しいと、最近つくづく思う。六十五歳で離婚した女性、八十歳になってから家族から逃げ出さなければならなくなり、ひとり暮らしを始める女性‥‥。

このところ、そういった話を立て続けに聞き、「生々流転」という言葉を想った。
誰もが一人きりでは生きていけない。だが、人間をとりまく状況や関係性は刻々と変化してしまう。誰もがそれを頭ではわかっているのだが、この不安定な状況を受け入れるのは難しい。

 ふたりで生きよう

「私、元夫の愛人なんです」
 田代真澄さん(四十九歳)は、そう自嘲的に話し始めた。最初に彼女からメールをもらったのは半年ほど前。以後、メールでのやり取りを繰り返し、関西地方のある町へ赴いて、ようやく会うことができた。

 真澄さんは小柄で華奢(きゃしゃ)な女性だった。離婚後の四年間で、意図したわけではないのに十キロ?せたのだという。彼女の住むマンションに案内され、話を聞くことになった。

「同じ職場に勤めていた四歳年上の元夫とは、二十五歳のとき結婚しました。短大時代から付き合っている人が別にいたんですけど、その人が年上の女性に走ってふられてしまった。そのとき優しくしてくれたのが、元夫でした」

 元夫の昇平さんは元気のない真澄さんに声をかけて、休日にはテニスやスポーツ観戦へと誘い出してくれた。半年ほどたったころ、彼女も自分の心の中に昇平さんへの恋心が生まれていることに気付く。

「だから彼に『結婚を前提に付き合ってほしい』と言われたときは、すぐに承諾しました。私もすでに彼なしには生きていけないと思っていたので。そこから結婚まではスムーズに進んでいきました」

 みんなに祝福されて結婚式を挙げた。誰よりも幸せな花嫁だと断言できた‥‥。
 真澄さんは四半世紀近く前を振り返って、穏やかな表情を浮かべる。

 彼女は金融関係の会社に勤めていたのだが、当時の不文律に従って退職。すぐに子供も生まれるだろうと専業主婦になる。夫とふたりきりの新婚生活が始まった。

「ところが、二年経っても三年経っても子どもができない。だんだん焦ってきのですが、夫は病院に行くのを反対しました。『子どもは授かりものだから』って。

でも、双方の両親は会うたびに『まだできないの?』と聞いてくる。三十歳を前にして、とろとろ夫に内緒で病院へ行きました。その結果、私は自然な妊娠はしにくい体だと分かったんです」

 ジョックは尋常ではなかったらしい。冷静に夫へ報告しようと思っていたのに、その日の晩、話しながら結局彼女は号泣したそうだ。

「夫は『世の中には知らなくてもいいことがある』と言いました。でも、私はやはり真実を知りたかった。夫が子供が好きなのはわかっていましたから‥‥。そして一週間後、覚悟を決めたのです。

『私と別れて、子供が産める人と結婚して』と泣きながら訴えました。すると夫も涙を浮かべながら、『オレは真澄が好きで結婚したんだ。今のままでいい。そんなことで劣等感を抱くな』と抱きしめてくれた。

その言葉に甘えていいのかどうか、それからも悩みましたけど、結局、私も夫のことが好きで離れることはできなかった」

 不妊治療を考えたこともあるが、もともと体が丈夫ではない彼女は、治療に耐える体力と気力があるかどうか不安だった。夫も反対している。養子を迎えようと提案したこともあるが、やはり夫は乗り気ではなかった。

「子供を持てないことをマイナスに考えるのではなく、ふたりきりで生きていことプラスに考えた方がいい。何かをいっしょにできることを探そうよ」

 夫はそう言ったという。どこまでも前向きで、どこまでも私を受け止めてくれる人なのだ――。そんな昇平さんに支えられて、彼女も子供を持たない人生という現実とだんだん向き合えるようになっていった。

 「産める女が好きなのよ」

「生きる気力を取り戻すには、さらに時間がかかりました。三十代半ばで、ようやく少し前向きに生活できるようになってきたので、パートで仕事を再開し、同時に病院でのボランティアも始めたんです。

『子供を持っていないというのは、未来の社会に貢献できる人間を送り出せないということだから、せめて私が社会に恩返ししたい』と考えるようになった。だから夫とふたりで海外の貧しい子供たちへの寄付も始めました。

同じころマンションを買い、犬も飼い‥‥。自治会にも積極的に参加しました。自分ができる、ありとあらゆることをした。それでも心はどこか満たされない。

夫が悲しむから鬱々とした顔は見せないようにしていたけれど、密かにカウンセリングを受けたりもしました」

 私も子供がいないから、「次世代を担う人間を世に送り出せなかった」という負い目が心のどこかで巣くっている。産めなかったのか産まなかったのか、私の場合は判然としないものの、自ら選んだ道だから仕方がない、と諦めつつあるのだけれど。

「子供さえいれば、すべて満足できたとも言えないでしょう?」
 自分で慰める意味でもそういってみた。

「それは解ってるんですけど、でも、今は後悔しています。夫がどんなに反対しても、やっぱり不妊治療に取り組むべきだった、と」

 穏やかな生活が続いていた、四十五歳のあの日までは、真澄さんはそう振り返る。

「私が四十五歳になったばかりのある日、夫が突然、土下座して言ったのです、『別れてほしい』と‥‥。夫はいつでも私に優しかった。自分が仕事で忙しいときだって、週末には私のために時間を作って、ドライブに行ったりテニスをしたりしてくれた。

セックスだってずっとありましたよ。だからいつから夫との間に溝ができていのか、私にはまったくわからなかった。とにかくびっくりするばかりでした」

 夫は涙ながらに、「よそに女ができた」と告白した。さらに、妻の顔色を伺いながら、「彼女に子供ができた」と続ける。

「後ろから頭をハンマーで殴られたようなショックというのは、ああいうことを言うんでしょうね。その瞬間、私は胃がきりきりと痛みだし、息ができなくなってしまったんです」

 気がつくと病院のベッドの上だった。急性胃痙攣を起こして倒れ、救急車に運ばれたのだ。夫は心配そうに付き添っていたという。

 すぐに退院できた。が、夫はそれ以来、その話をしようとしなかった。

「とはいえ、私だって聞かなかったふりはできない。数日後、覚悟を決めて夫と話すことにしました。相手の女性は夫より十歳下。当時、私は三十九歳です。本当かどうかはわからないけれど、夫によれば、付き合って半年たらず。

気を付けていたのに妊娠した。彼女に『最後のチャンスだから子供を産みたい』と言われた、だから父親として責任を取りたい、と。それを聞いて逆上し、『私に対する夫としての責任は取らなくてもいいの?』と思わず叫んでしまいました。

そして、『結局、男は子供を産める女が好きなのよ』と夫に殴りかかって。彼は「そうじゃないんだ」と私を抱きしめて泣くだけで‥‥」

 半年ほど修羅場を展開した末に、とうとう真澄さんは夫をつなぎとめることを諦めた。夫が常に自分の顔色を窺(うかが)っている姿に耐えられなくなったからだ。

「人間、生きていれば状況も変わるし気持ちも変わる。私が離婚しないと言っても、夫は彼女に会い続けるだろうし、子供とかかわり続けるでしょう。無理やり引き留めたところで、彼の心は私には戻ってこない。

そんな状況の中で生きていても、ふたりとも幸せじゃない。そういう結論に達したのです。『もういいわ。離婚しましょう』と行ったとき、夫は心からほっとしたような表情をみせました。

月々十二万円を生活費として渡し、マンションは私が住み続ける。これが夫の言いだした条件で、私はそれを受け入れました。ふたりで泣きながら離婚届を書いた覚えがあります」

 昇平さんはすぐに出て行った。相手の女性はずっと独身でいたため、貯金もかなりあるらしい。今後も仕事を続けるそうだ。親子三人、十分暮らしていけるだろう。真澄さんはそう予測し、自分は彼からの毎月の振り込みとパートのお金でひっそりと生きて行こうと決めた。

 不意に訪ねてきた元夫

 昇平さんが出て行って一ヶ月後、メールが届いた。子供が生まれたと知らせてきたのだ。写真が添付されていた。

「彼の能天気さに呆れました。結局、私の気持ちなんて、まったく考えていない。裏切られ、捨てられた私は鬱々しいた日々を送っていたのに。ただ、写真を見て吹っ切れたのも確かです。

生まれたばかりの赤ちゃんを憎いとはおもえなかったんですよ。そんな自分の気持ちにも驚きましたけれど」

 もう落ち込むのは辞めよう。そう思ったというのだから、真澄さんは強い。

 ボランティアとパートの仕事、そして子供たちの手が離れた友人たちとの再会とおしゃべり。ひとり暮らしも悪くない。そんなふうに思えるようになった時には、離婚して二年ほどが経っていた。

 ちょうどそのころ、元夫の母が急死したという知らせがあった。

「姑とは一緒に暮らしたことはなかったけど、温かい人だから好きでした。離婚したときは、心配して電話をくれた。それからもときどき連絡をとっていました。亡くなる一カ月前にはランチもともにして。八十歳でしたけど、とても明るく元気な人だった。だから亡くなったのはショックでしたね」

 通夜にも葬式にも出席した。元夫と再会する不安より、姑が亡くなった悲しみのほうがずっと大きかった。

「その席で、元夫の奥さんにも初めて会いました。元夫が紹介すると、彼女は、深々とお辞儀をしたのです。私を見つめる目に涙がたまっていた。『いいのよ、もう』と言うしかなかったですね。

ついでに少し子供とも遊ばせてもらいました。嬉しいような悲しいような、妙な切ない気持ちでしたが」

 葬儀が終わり、真澄さんは重い気持ちを抱えて家に戻った。
 その日の晩、元夫がふいに訪ねてきた。

「疲れた顔をしていました。家に上げると、彼はお母さんの思い出話をして泣くんです。今の奥さんは姑は、折り合いがよくなかったみたい。『おふくろにかわいそうなことをした』とグチる。

『でも、奥さん、いい人じゃない』と言うと、『外面はいいだけで、気持ちは冷たい』って。私にはそうは思えなかったけど。子供がまだ小さいから、どうしても夫には目が行きにくくなるのでしょう。

でも彼は前の結婚のとき、私とふたりきりでいつもべったり過ごしていたから、今は大事にされていないような気になっている。そんなことを話したり、彼を慰めたりしているうちに、妙なことになってしまって‥‥」

 妙なこと? 別れた夫と関係を持ってしまったのだろうか。そう思いつつ、次の言葉を待っていると、彼女は苦笑した。

「ご想像どおりです。元夫とリビングで抱き合ってしまった。いけないと思いつつ、私も久々ですから、信じられないくらい感じてしまって‥‥。

正直な話、結婚しているときより、ずっと激しい快感がありました。奥さんに拒否されるときが多いようなことを言っていましたね。それ以来、彼はときどき私を訪ねてくるようになったんです」

 この快感を失いたくない

 嫌いで別れたわけではない。昇平さんが真澄さんの得意料理に舌鼓を打つようになるまで、それほど時間はかからなかった。

「月に一度しか来ないこともあれば、三回も四回も来ることがあります。お互いに相手をどう思っているかなんかことは言葉にもしない。だけどわかるんです。抱き合っていると、私にはこの人しかないと思うし、彼も私に対しては特別な気持ちを持っているということが。

もちろん、私だって恋に浮かれる年齢じゃありません。まして相手が元夫ではね。本末転倒と言うかなんというか、ややこしいことになっているなあ、と。いつも会うのはこれを最後にしようと思っているのに、連絡が来ると、つい彼の好きな料理を作って待ってしまう。情けない女です」

 しかも最近は、昇平さんの妻が夫の行動に不審を抱いているらしく、真澄さんの家にいるとき、彼の携帯電話がひっきりなしに鳴る。

「今は海外投資の仕事をしているようで、時間を問わず職場から電話がかかってくることもあるらしいのです。だから電源を切るわけにはいかない。

一度、本当に会社からの呼び出しだったこともありました。でも、ほとんどは奥さんからのメール。しかも『どこにいるの、早く帰ってきなさい』という命令口調。自業自得だわ。と思う反面、ちょっと元夫が可愛そうになったりもする」

 真澄さんは、元夫をまだ心から好きなんだ。だから情けないと思いつつも、突っぱねられない。いけないとわかっていながら、彼を待ってしまう。

「五十歳を目前にして、元夫の愛人になるとは思っていなかった。だけど彼に抱かれると、この快感を失いたくない、彼の時間を失いたくないと、激情にかられるんです。今の奥さんを傷つけたくはないのだけれど‥‥。もう自分がどうしたらいいのかわからなくて」

 真澄さんは両手で顔を覆った。世間の道理としてどうしたらいいのかはわかっているのに、体も心も理屈では割り切れない。恋なのか情なのか、二十年も生活を共にしたことへの執着なのか。本人にも分らないことなのだと思う。

「密かに続けていくしかないでしょ」
 私の悪魔のささやきを聞いて、真澄さんの表情は少しだけ晴れていった。

 十六歳年上に嫁ぎ四十代で開かれた性の扉は、三年で閉じた

 人生、最終的にはプラスマイナスゼロだと言う。禍福は糾(あざな)える縄の如(ごと)し。幸不幸は繰り返しやってくるのだ。そして人は誰もが死んでいく。最近の私は、そんなふうに妙に達観することもある。

 そんな折、友人の知り合いで夫に先立たれてほどない女性がいると紹介された。友人評では、「苦労ばかりしてきた人」だという。

 母とふたりで生きてきた

麻倉幸乃さん(五十五歳)は小柄で色白の女性だった。楚々(そそ)として落ち着いた印象があるものの、どこか寂びそうに見える。

「八ヶ月ほど前に主人を亡くしたばかりです。結婚生活は十年足らず。そのうち七年近くは介護の生活でした。主人と出会えたのがよかったのかどうか‥‥」

幸乃さんは、高校卒業後、家族のためにひたすら働いてきた。
「私が十二歳のとき父を亡くなりました。弟は八歳、妹は五歳、母は身を粉にして働き、私たちを育ててくれて。私は高校を出ると、昼間は会社に勤め、夜はスナックでアルバイト。

弟と妹の学費を稼ぐためです。自分は友達のおさがりの服を譲ってもらってでも、弟と妹には新品を買ってあげた。弟妹と母の喜ぶ顔を見るのが楽しみでした」

 弟は奨学金をもらいながら大学を卒業、妹も短大を卒業して、それぞれ就職。そして転勤や結婚を機に家を離れていった。

「母とふたりきりになったのは、私が三十代半ばのころでした。母は長年の苦労がたたって、すっかり体が弱って‥‥。それでもたまに温泉に行ったりしました。もっともっと親孝行したかった。けれど、数年後にはほとんど寝たきりに。それでもいいから母は生きていてほしかった。

仕事と介護の両立はつらかったけど、近所の人たちが協力してくれたので、何とかがんばって来られたんです」

 だが、幸乃さんが四三歳のとき、母は静かにこの世を去った。「ありがとう」という言葉だけを残して。

「私は完全に腑抜(ふぬ)けになりました。気がつけば弟も妹も家庭を持っていて、自分たちのことで精一杯。私はひとりぽっち。誰も私のことなんて気にしてくれない。

仕事は続けていましたが、母と住んでいた小さな借家にひとりきりでいるとたまらなく孤独感に襲われ、死んでしまいたいと思うこともありました」

 幸乃さんの恋愛経験はごく少ない。二十代半ばのころに半年ほど付き合った男性がいる。彼は、昼も夜も働く彼女を心配してくれたが、ともに家族を背負ってくれようとはしなかった。

今となってはそれも当然だろうと彼女は話す。三十代後半には、仕事で知り合った既婚男性と付き合ったこともある。だが、これもまた短期間で終わった。

「彼にとっては、男慣れしていない私が珍しかっただけでしょう。体だけの関係が数回あったあと、連絡が来なくなりました。私も追おうとは思わなかった。結局、男性を愛するとか関係を築くとかということが、私にはよくわからなかったんでしょうね」

 家族のために働き続け。女としての「大事な何か」をどこかに置き忘れてきたのかもしれない。彼女はそうつぶやいた。

「母の死後、私は体調がすぐれなくて、早すぎる更年期だったみたいです。生理も止まり、頭痛やめまいに悩まされて。会社にいるときは大丈夫なんですが、家に帰ってくると何もできずに横になってしまう。気力をなくしていたのだと思います」

 母の一周忌を終えたころ、会社の同僚が、趣味の書のサークルで飲み会があると誘ってくれた。男性会員が多いため、女友達を連れてきてほしいと頼まれたのだという。

「私は書なんてわからないし、知らない人ばかりのところに行くのも気後れする。そう言ってやわり断ろうとしたのですが、同僚は『あなたも少し気晴らしした方がいいわよ』と言ってくれ。その好意に甘えて参加してみることにしたんです」

 父のように甘えられる人

 その会で知り合ったのが、十六歳年上、当時六十歳間近だった敏夫さんだ。

「たまたま隣に座って、聞かれるままに自分のことを話していました。お酒の席だから暗くならないように注意しつつ。私の過去のあらましを聞いた彼は、『ずいぶんとがんばってきたんだね』と目を潤ませて言ってくれたんです。

その様子を見て私の方が感動してしまいました。こんな女に気持ちを寄せてくれる人がいるなんて、と。恋愛か情かどうかはわかりませんが、彼に対する警戒感が一気に解けたのは確かです」

 その後、敏夫さんから連絡が来たのをきっかけに、二人だけで会うことになった。彼は聞き上手で、幸乃さんの話を共感しながら聞いてくれた。自身は、小さいながらも会社を経営しており、数年前に妻に先立たれていた。

「私はまるで亡くなった父に甘えるように、彼に自分の全てをさらけ出しました。彼の前だと素直に泣いたり笑ったりできる。思えば父が亡くなってから、母を支えなくてはいけない、

弟妹に苦労させてはいけないと、感情をひたすら抑制する癖がついていたんです。だから彼の前で自分をむき出しにするのは、とても気持ちがよかった。自分がガチになっていたことに初めて気づきました」

 ふたりで会うようになって半年ほど経ったとき、彼女は敏夫さんの家に招かれた。年下の息子がいるが、ふたりともすでに結婚して家を離れていたので、敏夫さんはひとり暮らし。昼間は通いのお手伝いさんが家事をやってくれるのだという。

「仕事が終わってから、甘いものが好きな彼のために和菓子を買ってお邪魔しました。家についてしばらくは雑談をしていたのですが、ふっと話が途切れて‥‥。居間のソファに押し倒されました。『好きだよ』と一言囁かれたとたん、体から力が抜けました。

 彼はじっと私を抱きしめ、それからは本当にゆっくりゆっくり愛撫してくれて。六十歳とは思えないほど元気で、とても優しく激しいセックスでした」

 幸乃さんは頬を染めながらそう話す。行為が終わって余韻を楽しんでいると、幸乃のお腹がぐうっと鳴った。
 
「彼はゲラゲラ笑って、『飯を食いに行こう』と。その言い方がとも明るかった。この人だったら私を引っ張っていってくれそう、と思いました。そのまま近所にあるかの行きつけのお寿司屋さんに行き、そこでプロポーズ。私はもちろん即答でイエス。

彼はお店の人にまで『この人と結婚するつもりなんだ』と紹介してくれて。お店は常連さんを含めて大騒ぎ。みんなが祝福してくれました。

幸せってこういうことなのかと初めて実感したような気がします。弟や妹が結婚したときも、私は嬉しかったけれど、幸せっていう感じではなかったから‥‥」

 自分の身に突然、きらきらした幸せがふってきたように感じたと幸乃さんは言う。

 俊夫さいの息子たちは結婚に反対したようだが、彼は押し切ってくれた。四十四歳の花嫁と六十歳の新郎は、近くの神社でふたりきりの式を挙げ、新生活を始めた。

「仕事を辞めて専業主婦の生活を満喫していました。主人から『社員に紹介したい』と言われて会社に行ったことがあります。家の内装関係の会社で、社員は三十人ほど、長男が専務で、次男が常務だったかな。

社員の人たちは歓待してくれました。そして、主人がちょっと席を外した時に『僕たちはあなたを父の妻とは認めていないから』『財産狙いなんじゃないの?』と皮肉なことを露骨に言われたのです。

 私はびっくりして何も言い返せなかった。主人が心配するか告げ口などしませんでしたが」

 体の奥底の火種が

「息子たちは、それからもときどき嫌がらせの電話をかけてきたりした。だが、幸乃さんは夫には何も言わなかったし。俊夫さんは妻を大事にしてくれたと言う。

「歌舞伎やクラッシックのコンサートにも連れて行ってくれました。私は生活を楽しむということを知らなかったから、主人には感謝していたんです」

 夫婦は毎日、一緒にお風呂に入った。週に数回はそのままセックスになだれ込む。夫は妻の体を解きほぐすかのように丹念に愛した。彼女もだんだん快感を覚えるようになっていった。

「体が疲れているときは、バイブを使ってくれたこともあります。最初は抵抗があったけど、『オレの代わり』と笑う彼には逆らえなかった。主人のすることならなんでも受け入れるつもりでしたし、だんだんバイブでも感じるようになって。

でも私が感じてくると、結局、彼も元気になって最後はひとつになれる。彼に抱かれたまま眠るのが好きでした」

 しかしそんな楽しい生活は長続きしなかった。結婚四年目に夫が脳梗塞で倒れたのだ。命は助かったものの。右半身に麻痺が残る。幸乃さんは彼に何とか立ち直ってほしくて、リハビリにも積極的に付き合った。

「でも彼にしてみたら、もうつらいリハビリなどしたくなかったのでしょうね。もっと頑張ってくれれば自力で歩けるようになったはずなのに、結局、車イスの生活になってしまった。

私は一生懸命、介護に尽くしました、車イスは私が押すからと、コンサートにも誘ったりもした。けれど、彼は出かけたくないと。人が変わったように無表情になり。生きる気力をなくしたように見えました」

 会社の実権は長男が握るようになった。息子たちは暗に、「父親が病気になったのは、再婚した妻のせいだ」という噂を社内外に流していた。それは幸乃さんの耳にも入ってきたが、反論するつもりはなかった。

 夫は噂を知っているのかしらないのか、かばってもくれない。息子たちは頻?に家に来ては、父親とひそひそと話をして帰る。

「ちゃんと籍が入っているけれど、しょせん、私はよそ者なんだなあと思いましたね。主人が病気になってからは、私にとってあの家はけっして居心地のいい場所ではなくなってしまった。だけど私には帰る場所もない。母と暮らした借家を処分して夫の家に入ったから‥‥」

 病に倒れからの敏夫さんは、当然かもしれないが性欲もなくした。一緒に暮らしてきた年月のあいだに、妻の体は柔らかくほぐされて、感覚が発達してしまったのに、それを思いやると気持ちもわかなかったようだ。

「夜中にときどき、バイブを持ち出して自分を慰めました。主人のことは心配だったけど、体の奥底に火種がくすぶって眠れないことがあって。あるとき夫に見られてしまったんです。

夜中にトイレに行きたくなった彼は、私がいないので杖にすがって何とか行こうとしたらしい。そして居間でバイブを使って悶えている私を見てしまった。

よく回らない口で『おまえという女は‥‥』と絶句していました。私もハッとしました。何をやっているんだと私は、と自分を責めましたが、見られた事実は覆しようもなかった」

 それ以来、夫の態度はどこかぎこちなくなったと幸乃さんは言う。彼女の思い過ごしかもしれないし、夫の心に微妙な影を落としたのかもしれない。彼女自身は、それまでにも増して夫の世話に明け暮れるようになったが、夫はお礼の言葉をほとんど言わなくなってしまう。

 「本気で愛された」実感

そして敏夫さんは、再び脳梗塞を起こして、七十歳の誕生日を待たずに還らぬ人となった。最後まで、幸乃さんは自分が後悔しないようにきちんと世話をし続けた。

「ところが、お葬式が終わるとすぐに、息子ふたりに話があると言われました。そして、『オヤジはあんたに騙されたと言っていた』『財産は一銭も渡さない』と矢継ぎ早に責め立てられた。

『四十九日が終わったらすぐに出て行ってほしい』と冷たい宣告まで受けたのです。しかも、結婚後に買ったものはいっさい持ち出してはいけないと言う。

私は前にも勤めていた会社に借金があったので、退職金から差し引いてもらっていました。だから手元に百万円くらいしかなかった。主人は『年齢からいって、オレが先に死ぬだろう。生命保険はおまえが受取人だから』と言ってくれていました。

だけど、それもいつの間にか息子名義になっていました。おそらく息子たちが、亡くなる前に主人をそそのかして名義変更したのでしょう」

 法的に争う道はあった。だが結局、幸乃さんは相続放棄の書類に署名し、四十九日がすむと同時に家を出た。最後に長男が投げるように五十万円を、幸乃さんは突っ返したという。

「それだけが私のプライドでした。なけなしの百万円で古いアパートを借り、今はコンビニでパートをしています。せめて夫の遺骨を少しだけ分けてほしいと言ったけれど、それも拒否されました。

やっと主人の写真を数葉、持ち出したので、食事のたびに写真の前でご飯を供えているんです。私が今でも気になっているのはただひとつ、主人は私を愛していたのだろうか言うことだけ、信じたいんです。私の人生で誰かに愛された時期があるということを」

 幸乃さんの瞳(ひとみ)が潤む。私には証明しようがない。彼女自身が、「本気で愛された」実感を信じるしかないのだ。そこから揺らいだら、彼女には孤独感しか残らないのだから。

せめて夫が病気になる前の愛し愛された数年間を力に、頑張ってほしいとか言えなかった。別れ際、「これからだって、出会いはいつどこであるかわかりませんよ」と言った私に、彼女は寂びそうな微笑みをまたそっと返してきた。
つづく 第七章
 リストラがきっかけで夫が豹変、家庭は荒れ、私は逃げて