亀山早苗 著
屈辱の浮気絶倫夫との二十七年、我慢の末に流す後悔の涙
「幸せになるために生きる」と人は言う。「幸せ」とは何なのだろう。自分が考える「本当の幸せ」は、本当に自分の価値観だけから成るものだろうか。
自分自身の考えだと思っていたことが、実は環境や教育によって植え付けられたものだと気づくことがある。私は恋愛、結婚、仕事など失敗し続け、価値観を覆されてきた。
もっと若い頃、柔軟に対応していれば、あの結婚は続いていのではないか、家族をもって幸せに暮らせたのではないか――。半世紀近く生きてきた今になって、過去の人生を振り返り、後悔ばかりしている。
身体に、心が裏切られる
他人から見たら、小泉里枝さん(五十二歳)のこれまでの人生は、おそらく幸せなものに映るだろう。東北のある地方都市に生まれ、高校を卒業して地元の信用金庫に就職した。二十五歳のとき、二歳年上の男性に見初められて結婚。
相手は地元で内装関係の会社を経営する裕福な家庭の長男だ。互いの親戚が知り合いだったため、見合いのような形で結婚が決まった。
里枝さんの両親も見合い結婚。彼女は、「女は経済的に安定した家に嫁いで家庭を築くのが、何より幸せ」と考える母親の意見をすんなり受け入れた。
「旦那さんとあちらのご両親には、絶対に逆らわずに尽くしなさい。それがあなたの幸せなのよ」
嫁ぐ日の夜、母に言われてその言葉を、里枝さんはしっかり胸に刻み込んだという。
舅姑と同居とはいえ、都会では考えられないような広い家に住み、男女二人の子どもにも恵まれた。その子どもたちも今は独立し、舅姑も自分の両親も、老いたとはいえ元気で暮らしている。
「傍(はた)から見たら、何の不自由もない幸せな人生でしょうね。でも、私は結婚してから気の休まると気がなかった。今もそうです。原因は夫の女性関係。ずっとずっと、耐えてきました。
『女は我慢するものだ』と両親にも姑にも言われてきた。だけど、その結果、何があるのでしょう。絶えて耐えて、このまま老いて死んでいく。それでいいのかと、最近思うようになっています」
小柄で細身、ショートボブのヘアはさらさらとしている。聞けば、美容院にもエステにも月に一、二回は通っているとか。時間的には経済的にも余裕がある証拠だ。
ただ、なぜかメイクをほとんどしていないため、明るい花柄のスカートが妙に浮いて、かえって顔が寂しそうに見える。会った瞬間から、里枝さんはアンバランスで危ういものを感じていた。
「結婚してすぐに妊娠。男の子が生まれたときの、舅姑や親戚の祝いようはすごかった。私としては男女どちらでもうれしかったから、違和感はありましたね。このあたりは、いまだに男尊女卑的な考え方が根強いんだなあと実感しました。
最初に浮気がわかったのは、長男が二歳になったころ。結婚して三年後です。自営業だから時間もお金も自由になる。前から、夕食後に飲みに出かけることは時々ありましたが、それが急に頻?になったんです。
ある晩、ついに帰ってこなかった。眠れずにいると、夜明けに夫がようやく戻ってきました。『どこに行っていたの』と聞くと、『飲み過ぎて飲み屋で寝ちゃって』って。だけど夫はまったく酔っていなかった。それどころか香水の匂いが漂ってきて‥‥」
里枝さんは起き上がって、その香りをなじった。「どこの女の所に泊まってきたのよ」と責める。しかし夫は背を向けたまま、無言を貫いた。
それからも、深夜の帰宅や外泊が週に一、二回の割合で続いた。帰ってくるたびに、同じ香水の匂いがすることもあったし、まったく別の「安っぽい化粧品の匂い」がすることもあった。
夫が浮気している事実、そして妻への気遣いのなさに里枝さんは傷ついていく。
そういう状態だと、夫婦間ではセックスの関係がなくなっていきがちだが、里枝さんの場合、夫はその後もたびたび求めてきた。
「夫に逆らってはいけないという母の言葉が、心から離れなかった。それに、浮気されるのは私が妻として至らないせいでもあると思っていました。だから、深夜に女の匂いをまとって帰ってくる夫に押し倒されたときだって、イヤだけれども受け入れてしまう。私も生身の女ですから、基本は拒否しているのに、身体が受け入れ態勢が整っていることも。
そういう自分を嫌悪しました。もちろん、まったく濡れていないときもあった。すると夫は、私のあそこに自分の唾液を塗りつけて挿入するんです。屈辱でした。少しでも感じると、自分の身体に心が裏切られたと思い、愕然としました。
しかも夫は『お前のは緩い』だの『女としてつまらない』などと言いたい放題。抱かれる度に心が傷つく。それなりに拒絶できない‥‥」
それは嫉妬だったのか、夫に捨てられたら行き場がないと恐れていたのか。里枝さんにそう尋ねると、彼女もしばらく黙り込んでから、ようやく口を開いた。
「わからないんです。ただ、子どもたちがいるから耐えなければ、と思っていた。夫を怒らせていいことはないですから」
舅姑への不満も積もって
里枝さんにとって、夫は初めての男性だ。セックスの絶頂感は「たぶん、未だに知らないと思う」と言う。それでも夫に求められないのは寂しい。
かといって、外で別の女性を抱いてきたその手で抱かれるのは、屈辱感をぬぐえない。経験不足と、夫への従順さから、里枝さんはすべてを自分の心にしまい込むしかなかった。
二十八歳のとき第二子を妊娠。長男のときより、つわりがひどかった。姑に「家事を手抜きするからつわりがひどくなる」と厭味を言われては、休んでいられない。広い家を隅々まで掃除し、会社の事務もこなし、三食の支度をする。
里枝さんは、かなりの負担だったが、誰にも愚痴ひとつ言わなかった。
「相談できる人も、愚痴をこぼせる人もいませんでした。実家の母に言ったってかえって??られるだけとわかっていましたし、私自身も『自分が我慢すればいい』と思い込んでいた。女は親と夫に尽くして生きていものだと、あの頃は本気で考えていたんです」
夫の浮気は続いていた。ひとりの相手と続いているのか、複数の女性がいるのかはよく分らなかったが、夫が寝言で女の名前を言うのを何度か聞いたことがあるという。
「マユミだったりアキコだったり。今思えば、おそらく。長く続く女もいれば、その場が限りの女も入るという状態だったんじゃないでしょうか。第二子は女の子だったんですが、出産したとき、夫は病院へすぐに来てくれませんでした。
どうやら女の家にいたらしい。夫が来たのは、子どもが産まれて丸二日経ってから。さすがに私も悲しかったですね」
長女の誕生に、舅姑が長男のときより喜んでくれないのも辛かった、夫への不信感、舅姑への不満が積もり積もって、退院したときは里枝さんの気持ちはすっかり荒(すさ)んでいた。産後の肥立ちがあまりよくなかった。
「なかなか床を上げない私に、姑が『怠けないで働きなさい』と言ったんです。それでカチンときて、とうとう『自分の息子が浮気三昧なのを知っていて、私にそうやってつらく当たるんですか』と言い返しました。
すると姑はへらへらと笑って、『夫に浮気をされるのは、あんたが女として、妻としてダメだからでしょ』って、姑は全て知っていたんですね、『よそに子どもを作ったりしないから安心しなさい』とも言われました。
何かおかしい、何かが違う。家庭ってこれでいいの? 私が信じてきた『女として、妻としての価値観』が、そのとき一気に崩れたような気がします」
その後、実母に夫の浮気を訴えたときも「男はそんなものよ。あなたが忍耐すればいいの」と言われてしまう。以後、里枝さんはひたすら耐えながら、子どもの成長だけを楽しみに生きてきた。
「おまえは干物みたいだな」
夫が家庭を全く顧みなかったというわけではない。近くの河原や野原で子どもたちと泥まみれになって遊んだり、遊園地に連れて行ったりはしてくれる。だがそういうとき、たいてい一緒に行くのが舅姑で、里枝さんは三回に二回は留守番をさせられていた。
「長男が中学生くらいのときだったかな、ふと『お母さん、いつか自由になった方がいいよ』と言ったことがあるんです。台所でひとり、泣いていました。
子どもたちにそんなことを言わせるなんて・・・・・。今は、子どもってちゃんと見ているんだなあと思いますが、当時は『私は母としても失格なんじゃないか』と自分を責めてばかりいましたね」
長男は東京の大学に行き、そのまま都内で就職した。父親の会社を継ぐ気はないようだ。里枝さんは、自分のようになって欲しくなかったから、周囲の反対を押し切って長女も東京の大学に行かせた。彼女は現在、大学院で学んでいる。
「東京に行った娘から、私はいろいろ学びました。男だから、女だからと言われることが、いかに人間の可能性を狭めるとか、自分の意見をしっかり持たないのは、自分の人生に対して無責任だとか。私が教えなければいけなかったことを、娘はこちらにいる時から自分で考えていたんですね。
そして東京に行って、人間関係や視野を広げながら”自分の人生”を模索し続けている。私はそんな娘を見て、自分の人生が間違っていたんじゃないかと思うようになっていったんです。
娘は数年前から、私にも東京に出て来いとしきりに言うんです。ただ、年老いた舅姑を放っておくわけにはいきません。私は会社の事務をやっていますから、その責任もありますし‥‥」
最近、里枝さんは中学、高校時代の友人たちと旧交を温めるようになった。なかでも親しかった友人に、あるとき、自分の結婚生活を告白したことがある。
「彼女に『よく我慢してきたわね。里枝って、がちがちの古い女ねえ』と言われた。自分もそう思います。『いっそ離婚しちゃえば? もうじゅうぶん、責任は果たしたでしょ』とも。
でも、やっぱり今さら新しい人生に踏み込むのは気後れするんです。とはいえ、この生活が死ぬまで続くかと思うと、それも耐えられない気がして・・・・」
五十三歳になる夫は、仕事も浮気も現役だという。もともとかなりの絶倫タイプのようだ。ここ半年ほどは二十代後半の水商売の女性に夢中で、ゴルフにも同伴しているという。
「さすがに周囲にも、夫の女好きはバレているみたい。夫にとって私は、家にある見慣れた家具なんです。会って当たり前という存在。それでも習慣なのか欲求が強すぎるのか、週に一回くらいは私を抱きます。
ただ、最近、更年期のせいか濡れないので性交痛が酷く、ほとんど感じなくなっている。
それでも夫が私としている間は、まだ捨てられないんじゃないかと、縋(すが)るような気持が残っていて‥‥。そんな私に夫は『お前はどこもかしこも干物みたいだな』と。若い女と比べているんでしょうね」
里枝さんは笑いながら言うので私は真意を測りかね、「そんなひどいこと言われて黙っているんですか」と思わず問い返してしまった。しまった、と思ったときは遅かった。
里枝さんの目に涙がたまっていく。長い年月、自分を押し殺すような生活を送り続け、それが間違っていたのかもしれないとようやく認めつつある彼女に、私は責めるようなことを言ってしまったのだ。やっと自身の幸福観を見つめ直せる状況になったばかりの彼女に。
もう遅い、何もかも
責めているわけではないと必死に言い訳をすると、里枝さんは「いいのよ」と言うように静かに首を振った。あなたは家庭を守り、子どもを育て、親の面倒をきちんと見ている。十分に人生を生ききっている。
それは再婚もできずに、結果、子供も産まず、親の面倒も見ない私などよりよほど上等な生き方だ――。そう、私は本心から思った。
「いいの、わかっているんです。子どもたちは確かに私の宝。だけど私の人生が、子どもたちを産んだだけで幸せだったとは言い切れない」
私は言葉を失う。彼女の人生の重みを考えたら、何も言えない。
「私は家庭に入ることだけが女の幸せだという価値観を母に植え付けられた。でも、母が悪いわけでもないと思うんですよ。自分にも仕事や恋愛をする可能性があると考えられなかったんです」
だからといって、彼女が悪いわけでもない。
「そうなんでしょうね。でももし、若い頃には『私はこれでいいの?』と疑問を持てていれば、人生は変わったかもとれない。皮肉なものですよね。年を取っていろいろなことが分かってきたときにはもう遅いの、何もかも」
消え入るような声だった。
人間、何かをするのに遅すぎることはないと誰もが言う。だがそれは現実的ではない言い方だ。私が今、急に子供を望んだとしても、授かる可能性は限りなく低い。産むためには「手段を選ばない」覚悟をするしかない。
そうまでして今さら望む必要があるのかどうか‥‥。人はそうやって、常にものごとを天秤(てんびん)にかけて選び取って生きていくしかないのだ。そして、人は、二度と若くなれない。
「もう遅いの、なにもかも」
低くゆっくりとした口調で発せられた里枝さんのその声が、私の頭のも中に今も残っている。
婚約を破棄して不倫愛十九年、恋の末路で抱いた一縷(る)の望み
人生において、人は何度か大きな岐路に立たされる。そのとき「Aの道が正しい」と思って進んでも、結果的に満足できなければ、Bの道を選択しなかったことを呪(のろ)うかもしれない。自分が決めることであり、そしてそれが分かっているはずなのに、
誰かのせいにしたくなることもあるだろう。私たち更年期世代は、既に選択の余地がなくなっているにもかかわらず、まだ「何か」を諦めきれないのだと思う。
「今の生活も真っ暗、先も真っ暗、ここ一年くらい、そんな気持ちで過ごしています」
伏し目がちに、そう話し始めたのは近藤雅子さん(四十七歳。ぱっちりした二重の目の下が薄く黒ずんでいる。このところ、クマが取れないと自分で言った。
「それが年を取ったということなんでしょう」
「安定した結婚」を捨てて
雅子さんは都内の大学を卒業し、金融関係の企業に入社。その後、総合職に転じ、女性としてはエリートコースを歩んでいた。学生時代から友人だった一歳年上の男性と婚約したのは、二十八歳のとき。仕事も結婚も子どもも、何一つ諦めずに頑張ろうと思っていた。
「そんなとき新しい上司が配属されてきて、こともあろうに私、その十五歳年上の上司と恋に落ちてしまったんです。仕事がスマートで、当時の私から見ると、婚約者よりずっと大人に見えた。
世間はバブル真っ盛り、仕事も忙しかったけど、みんなよく遊びましたよね。四十代前半の上司には、よくおいしいものをご馳走になったうえ、帰りはタクシーで送ってもらって。知識もお金も情報を持っている彼に口説かれて、私はイチコロでした」
私自身はずっとフリーランスで仕事をしてきたから、バブルの直接の恩恵にはあずかっていないのだが、確かにあの頃は世の中が浮かれまくっていた。レストランはどこも混雑、深夜でもタクシーがつかまらず、週末は朝まで遊びまくるのが当然という人たちも多かった。
「出会って三ヶ月後、上司と都心のお洒落なバーで飲んでいたら、『今日は帰したくない』と部屋のキーを握らせられたんです。その時点では婚約者と別れるつもりはなかったけど、上司に興味があったから部屋に行きました。
上司は時間をかけて私の全身を愛撫してくれて‥‥。婚約者とは感じたことのなかったような快感を覚えました。身体ががくがく勝手に震えて、何度も何度も苦しいほど感じて。
『これがセックスの快感というものなのか』と初めてわかったんです。もう離れられないと思いました。抱かれるたびもっと感じて、もっと好きになっていく。これが本当の恋なんだと信じたんです」
上司は、結婚しろともするなとも言わなかった。だが雅子さんは二十九歳のとき、婚約を破棄した。結婚してしまったら、もう上司とは会えない。自分にとって、最大で最高の恋を失うわけにはいかないではないか――。
「上司は奥さんと離婚するつもりなどないことは、初めからわかっていました。『オレより好きな人ができたら、いつでも結婚していいよ。だけどオレは一生、きみのことが好きだ』と彼はよく言っていた。
ずるいですよね、当時の私は、その彼のずるさに気付かなかった。というか、あまりにも好きすぎて、『安定した結婚より恋愛を取る』という決意をした自分に満足しきっていました」
今は結婚したくないと言うと婚約者は怒り、雅子さんを罵(ののし)った。彼の親に呼び出され、責め立てられた。それでも彼女は、上司の事を隠し通した。当時の彼女は「恋に生きる」情熱で煮えたぎっていたのだ。
「ある夕方、退社して歩いていると、婚約者の車がすっと近づいてきました。最後に話し合いたいと言われ、車に乗ると、そのまま高速道路を突っ走り、伊豆の山奥に連れていかれたんです。『この先は崖だ。一緒に死んでほしい』と言う彼の横顔は引きつっていました。
私は必死でサイドブレーキを引き、ドアを開けて転がり降りた。死にたくなかった。上司と会えなくなるから――。そのとき思ったのは、それだけでした」
彼は車をバックさせ、なんとそのまま来た道へと走り去っていきました。彼女は一人残され、テールランプを見送る。時間は深夜に近い、車が走り去った方向に歩くこと一時間、ようやく民家を発見。軒先で朝を待ち、助けてもらった。
激しい恋に生きた三十代
それで気が済んだのか、婚約者はそれっきりになった。
上司にことの顛末(てんまつ)を冗談交じりに話すと、「オレのせいで・・・」と絶句した。
「『あなたのせいじゃない、私がそうしたかっただけ』と私が上司を慰めました。上司は『なにがあって離さない』と言い、またそれでふたりは燃え上がって。私の両親は婚約者を気に入っていたから、実家に居づらくなり、私は家を出てアパートを借りることにしました」
上司が会社からの自宅に帰るときに立ち寄れるよう、ちょうど乗り換えに当たる駅の近くに部屋を借りた。週に数度は、雅子さんの部屋で愛を交わした。
「どんどん快感が深まっていくんです。いつまでも体の中に残るような深さ。幸せでした。もちろんいいことをしているとは思っていなかったけど、彼が好きでたまらなかった。
ただ、私は彼を部屋に泊めませんでした。それが私のせめてもの倫理観というか‥‥。
仕事もそれまで以上にがんばりました」
秘かに、だが熱くふたりの関係は続いていった。三年後、彼は関西方面にてんきんとなる。単身赴任だったから、彼女は週末を利用して、彼の元へとたびたび泊まりに行った。
「疑似夫婦みたいな生活が楽しかったですね。彼に『奥さん、来ないの?』と聞いたこともあったけど、ちょうどお子さんたちが大学受験やら高校受験やらで、奥さんは夫に目が届かなかったようです。
彼も月に一度くらいは自宅に帰っていたけど、『なんだか居場所がなくてさ』なんて言っていました」
そのまま三年が経過、彼女は会社の中でもだんだん責任のあるポジションを任されるようになっていく。彼女が三十五歳のとき、彼が東京に戻ってきた。ふたりの関係はますます燃え上がる。ところが‥‥。
「そのころ、私の同期の男性が、私たちの関係に気づいて会社に密告したんです。彼としては私を蹴落としたかったんでしょう。社内で恋愛沙汰は御法度だったので、
私たちはそれぞれ役員に呼ばれて詰問されました。彼も私もシラを切り通しましたが、結局、帰って来たばかりの彼は子会社に出向となってしまったんです」
それでも彼との関係は途切れなかった。彼は子会社で、彼女は今までの部署で、それぞれ実績を上げ続けた。会う頻度が減っても、電話やメールで連絡を取り合ったし、「お互い誰よりも相手を理解しているという安心感があった」と言う。
「もちろん、会いたいときに会えないのは苦しかった。彼が『今は仕事のことしか考えられない』と言い出して、私が鬱々(うつうつ)とした時期もありました。
それでも関係が終わらなかったのは、ふたりが仕事でつながっていたことと、年齢は離れているけどいろいろな考え方が似ていたこと、そして濃厚なセックスがあったからだと思います」
三十代は、まさに彼と二人三脚で歩いていたような気がする、心も身体も満足感が強かった。そう言って雅子さんは微笑んだ。
恋の魔法から覚めてみると
状況が変わったのは、今から三年前、彼女が四十四歳になったときだ。既に父が亡くなり、ひとり暮らししていた雅子さんの母が倒れたのである。数ヶ月の入院を経て退院したものの、手足の麻痺が残り、ひとりでは暮らせない状態になっていた。
「七十歳を超えた母を放っておくわけにはいかない。私は実家に戻りました。介護保険を使ってヘルパーさんに来てもらっていますが、私自身も二十四時間フル稼働です。彼とは月に一回、会えるかどうか‥‥。彼は励ましてくれていましたが、私が疲れ切っていて、会えてもセックスができないことがあった」
自分でも介護と仕事の両立がうまくいかず、苛立っていた。彼との関係にも不安ばかりが募っていた。そんなところへ彼から放たれたひと言は、彼女の神経を逆なですることになった。
「彼は数年前から”雅子のために”とバイアグラを飲むようになったんです。私が疲れて、あまり感じないとき、『お前も年だな』と彼が冗談交じりだったと思うけど、ふっと吐き捨てるように呟いた。
私、その一言がすごくショックだったんです。十五歳も年上なんだから、自分だって身体がたるんでる。加齢臭だってひどい。それを棚に上げて、長年つきあってきた私を貶(おとし)めるような言葉を吐いた。自分でも驚くくらい、急速に彼への気持ちが萎えたんです」
雅子さんは一気に述べた。
「私はこの人のために尽くしてきた。アパートにいるころはいつも、私がお酒や料理を用意して彼を迎えたけど、彼は何一つ買ってきてくれたことがない。私の誕生日でさえ何度も忘れた。
それでも私はいいと思っていたんです。だけどもしかしたら、私は間違っていたのではないか・・・・・。
三十代という貴重な時期に結婚もせず、結局、子どもも産まず、女としての幸せを得られなかった。彼の愛情を信じていたのに、十六年経って、そういう言葉を投げつけられるなんて、あんまりだと思いました」
長年続いた、恋の魔法から醒(さ)めた女は、急に冷淡になるものだ。彼女は自分の心の中に、彼への恨みつらみが意外なほどのしこりとなって溜まっていることに気づかされた。
仕事上、鍛えられたのは確かだが、今の彼女のスキルから考えると、彼の仕事のやり方はけっして合理的ではない。それに彼は、いつも「理想の女」のイメージを押しつけてきた。女は髪が長い方がいい、女は常に男を受け入れるものだ、などど。
「自分でも何かおかしいと、心の底では感じ続けていたのかもしれない。彼は素の私をそのまま受け入れてくれているわけではない、と。それなのに『好き』という気持ちだけで突っ走ってきてしまったんです。
母の面倒を見ながら、会社と家の往復だけを繰り返す生活を送っていると、私の人生、何だったんだろうと思うようになって。彼とこうなっていなければ、誰かと結婚して、自分の家庭を持っていたはずなのに‥‥」
それ以降、彼に抱かれても、雅子さんはほとんど感じなくなった。それを彼も察してか、あまり連絡してこなくなっていく。
ひとりきりで老いる怖さ
もちろん、雅子さんはわかっている。彼の傍にずっといたのは自分で決めたこと。責任も自分にある。それでもあえて、別の道に思いを馳(は)せるのは、自分の人生に対する後悔の深さゆえだろう。
その気持ちは、私にもよくわかる。そう言ってみると、彼女は急に目を瞬(しばたた)かせた。浮かびかけた涙を払うように。
「母の介護をしていると、私が倒れても、誰もみてくれないんだと思うんです。確かに介護はイライラすることもある。けれど、もし母が逝ったら、私はひとりぼっち。彼は何があっても、妻や子供たちがいる。
幸い、奥さんには私のことはバレていないから、何事もなく暮らしていける。でも私は何も残らなかった。二十年近く付き合ってきたのに彼と私の間には何があったんだろう。
何かを築けたんだろうと虚しくてたまらないんです。実はこの半年、生理が来ていません。いよいよかと思いつつ、受け入れられない自分がいる。もう年をとりたくない。ひとりきりで老いていのが怖くてたまらないんです」
雅子さんは、振り絞るような声で言った。
四十代で再婚し、穏やかな生活を送っている女友達が言ったことがある。「女として見てほしいと焦らなくなった。一緒に年を取っていける人がいることで、年齢を重ねることも怖くなくなった」と。
私はそれを聞いて、心から羨ましいと思った。ともに生活するということは、ともに年をとっていけるということなのだ。
恋愛ではそうはいかない。互いに異性として見る目が厳しいから。若いときはそれでもいい、だが、人間、だんだん気弱になり、突っ張り続けていられなくなっていく。
私が独身で、似たような孤独感を持っていると知ったせいか、雅子さんは長年、心にためてきたものを吐き出すことができ、少しは楽になったようだった。
「彼とはその後、たまに会って食事をする程度です。あれだけ濃密な関係だったはずなのに、すうっと静かな情熱が消えた感じ。彼がどう思っているか分からないけれど、同じような感じではないでしょうか。
彼は定年後も仕事をしていますが、最近めっきり老けました。結局、私自身も、老けていく彼を受け入れられなかった。それが私の恋愛の末路ということですよ」
雅子さんは自嘲気味にそう言った。確かに、ともに老けるということは、ともに受け入れ合い、許し合っていくことかもしれない。だからといって、雅子さんの長年の恋愛が意味のなかったものだとは思わない。愛と情熱に満たされた時期は、互いを必要とし合っていたのだから。
「最近、気持ちが弱くなっているせいか、何もかも否定的に考えてしまうんです。でも、もし機会があったら、私は誰かと穏やかな生活を送ってみたい。人生が終わる前に、そんなひとときが持てたら幸せですよね」
私は深く頷いた。雅子さんのこの言葉は、今の私の、そしてこの年代の独身女性の多くが抱いている思いだと感じるから。
生活苦から身を墜とした二児の母、ふと甦る苦き過去
二十代のころ、私は前だけを見つめて走っていた。三十代になると、前と足元を見つめるようになった。そして四十代後半になった今、後ろばかり振り返っている自分に気づく。
前を見ても暗がりしか目に入ってこないから来し方が気になるのか、過去に後悔があるから引きずられるのか、定かではないのだが‥‥。
振り向いてもどうにもならない過去がある。そう分かっていながら後ろ向きの姿勢で生きるようになってしまうのが、長い年月に揉(も)まれてきた大人というものなのかもしれない。
「二万円でどう?」
「過去をどんな後悔しても懺悔(ざんげ)しても、私には明日が見えてこないのです」
そう寂しそうに話してくれたのは、塚原曉子さん(四十六歳)だ。三十九歳のき、十二年の結婚生活を解消した。夫が若い女性と恋に落ち、家を出て行ってしまったのだ。信じていたパートナーの裏切りに傷ついた彼女は、何も考えず離婚届に判を押してしまった。
「九歳と六歳の男の子がいました。養育費や慰謝料など、もっと考えればよかったんですが、夫の裏切りがショックで、とにかく別れたい一心で判を押してしまった。でま、それは間違いでした」
夫の会社の借り上げマンションに住んでいたため、離婚後はそには住めず、曉子さんは子どもたちを連れて家賃の安いアパート―引っ越した。生活費をやりくりして貯めた四百万円だけが頼りだった。
「それまで専業主婦でしたから、働きたいと思ってもすぐに仕事が見つからない。近所のスパーにパートで入ったのですが、半年たらずで体を壊してしまって・・・・・。
最後の手段として生活保護を申請しました。子どもたちも急にお父さんがいなくなったことから、精神的に不安定になった。あの頃は本当につらかったです。頑張りたくても体が思うようにならない。どうしたらいいか解らない日々でした」
これからは子どもたちの教育費もかかる。何とかしなければ――。そう焦るものの、夫に捨てられた事実が、ボディーブローのようにじわじわと曉子さんに効いてくる。
「身体を壊して家にいるようになると、つい、いろいろなことを考えてしまうんです。夫はどうして私を裏切ったのだろう、私は女としてそれほど魅力がなかったのか、という思いにとらわれてばかり。
その後、夫が浮気相手の女性と一緒になったと、風の噂で聞きました。相手は当時二十四歳。夫より十八歳、私より十六歳も若いんです。追い打ちをかけられたような気持ちになりました。ただの浮気ではなかった、本気だったんだと・・・。離婚はしたけど、いつか夫が戻ってくるかもしれないと、それまでは心のどこかで思っていたんです、私」
その望みが断たれた時、曉子さんはようやく立ち上がった。だが、その再出発の方向性がどこか歪んでいたようだ。
「ハローワークに通ったり、新聞の求人欄を見て毎日電話をかけまくりました。それでも仕事が見つからない。ある日、ハローワークからの帰りに繁華街をぼんやり歩いていたら、同世代のサラリーマンにナンパされたんですよ。男の人に声を掛けられるなんて、独身の時以来。
誰かに話を聞いてもらいたかったせいもあって、一緒にお茶を飲みました。彼はじっくり話を聞いてくれたうえで、『二万円でどう?』と提案してきたんです。何のことか最初はわかりませんでした。やがて彼と寝たらお金がもらえるんだと分かったとき、なぜか『それでもいいか』と思ってしまった。どうかしていたんです」
女という性を憎みながら
好きでもない男と寝て、その代償にお金を貰う。いけないことだと分かっていながら、彼女は彼についていった。
「夫とは一年半くらい関係がなかったし、離婚して一年経っていましたから、二年半ぶりのセックスでした。その男性はすごく優しくしてくれたので、私、かなり感じてしまったんです。知らない男に抱かれて快感を覚える自分がイヤだったけど、でも体は素直なんですよね」
知らない男とのセックスに没頭して、何もかも忘れたい。そんなふうに思っても不思議なことではない。ただ人肌が恋しいときだってあるだろう。
「確かに人肌には癒されました。子どもたちは抱きしめると嫌がるような年齢でしたし。誰かに抱きしめられたい、大丈夫だと言われたい。そんな気持ちがあったかもしれない」
手にした二万円を貯金した。二週間後、その時の男性の紹介で、別の男性と寝た。やはり二万円を得た。その後は、ズルズルその道にはまっていった。はまっていくしかなかったのかもしれない。
「いろんな人がいましたね。出会い系で知り合い、話をするだけでいいという人もいましたし、七十代の男性で、『アソコをずっとしゃぶっていてほしい』という人もいました。勃起しませんでしたけど、帰りに五万円もくれました。
誰も彼も寂しいんだなと思うと、私も生きていてもいいのかなという気持ちになったのを覚えています。もちろんやめたい思いはあったけど、人間、堕(お)ちてしまうと、その場所に慣れるものなんですよ」
危ない目にも遭ったことも、数知れずある
「帰りに急にすごまれて、お金が貰えなかったこともあります。待ち合わせてホテルに行き、密室に入った途端、包丁を突き付けられたことも。縛るのが趣味という人に縛られたまま犯されたり、いきなりアナルセックスをされたり。多くの人はノーマルでしたけど‥‥。
ただ、どんなひどいセックスでも、時と場合によっては感じてしまうこともあって、それがとにかく哀しかった。女という性を憎みましたね。三年も続けているうちに、身も心もぼろぼろになってしまいました」
昼間しか活動していなかったが、月に二十万円以上、ときには四十万円以上も稼ぐことさえあった。生活保護も辞退した。だが、しょせんあぶく銭。こんなお金で子どもたちの教育費を捻出しても、ろくなことにはならない――。曉子さんは、残っていた最後の理性でそう思い続けていた。
「上の子が中学校に入った年、とうとう性感染症をうつされました。痒(かゆ)いし膿(うみ)は出るしで、耐えられず病院に行って。『パートナーの方も一緒に治療した方がいいですよ』と女医さんに言われたとき、私、泣き出しちゃったんです。
その女医さん、とってもいい人で、ほかの患者さんがいなかったこともあって、ゆっくりと話を聞いてくれました。そのおかげで私、目が覚めたんです」
その女医さんの知り合いが食品関係の会社を経営しているから、雇ってもらえるかどうか聞いてみてくれると言う。人の優しさが身にしみ、まっとうに生きる決意を固めた。
「結局、その会社でお世話になることになりました。私の仕事は工場の管理補佐ですが、時間があるときは現場の仕事もします。お世話になった人を裏切りたくない、ここで頑張って働き続けよう決意したんです」
でも不思議ですね、と曉子さんは急にしみじみとした口調で続けた。
「私がそうやってまともに頑張りはじめたら、上の子の成績が急によくなった。下の子まで、洗濯物を取り込んだりご飯を炊いてくれたりするようになって、それまでどんな生活をしていたか、子どもたちは見せないようにしてきたけれど、私のどこか荒んだ気持ちは伝わっていたのかもしれませんね」
彼に体が反応しない
心機一転、勤め始めた会社で、曉子さんは三歳年下の雄一さんと出会う。彼は若くて両親が相次いで病気で亡くなり、介護と仕事で手いっぱいの生活を送り、独身のまま四十歳を超えていた。
「部署は違いますが、たまたま合同の飲み会があって、直後、彼と話すようになりました。そのときにはもう御両親を見送っていて、『この歳じゃ、もう誰とも結婚なんてしてくれないですよ』と冗談交じりに嘆いていました。でも、苦労してきた分、とっても優しくていい人なんです」
曉子さんは彼に惹かれた。彼の方も曉子さんが気になっていたようで、ある日、食事に誘われる。その日は子どもたちと夕飯をとる約束をしていたから、応じられなかった。しかし、雄一さんは懲りずにまた誘ってくれた。
「後日、子どもたちに夕食を作り置きして、隣の奥さんに頼んで、ようやく彼と二人きりの時間が取れました。一緒に食事をして、私、ますます彼のことが好きになったんです。彼も私の事が好きだと言ってくれました。
だけど私はバツイチで子どもがいる。つらかったけど、『あなたの時間を無駄にさせるわけにはいかない。あなたなら若い女性と一緒になって、これから自分の子供を持てる』と言うしかありませんでした」
三日後、彼からメールが来る。「僕はあなたが好きなんだ。ほかの人は考えられない。とにかくつきあってほしい」と書いてあった。
「嬉しかったです、本当に。その一週間後、土曜日の昼間、彼と初めてホテルに行きました。でも、それが私の地獄の始まりだったのです。彼に抱かれたとき、私、急に過去の自分の行動を思い出してしまって‥‥」
身を売っていた四年あまり。抜け出したくても、気力も取って代わる生活費もなかったあの時期に、彼女は急に引き戻された。
「私、あの時期のことについては、自分でも考えないようにしていたんです。だけど彼に抱かれたとき、自分がどんなに人に言えない人生を送ってきたかがはっきり見えてしまった。
体の感覚が情けなくて、こんな好きな人に抱かれているのに、好きでもなかった男にヤラれたときのほうが興奮していたことを思い出したりして、このままだと私、罪悪感で壊れてしまうと思いました」
結局、雄一さんとしたときは感じたのか、感じなかったのか。私はそのことばかり気になって、失礼ながら問いかけてみた。すると、彼女は急にうつむいてしまった。しばらくして顔を上げて小さい声でこう言った。
「濡れなかったんですよ。私。気持ちは感じているのに、体が反応しない。頭の中に突然、身を売っていた時代の男たちがたくさん登場してきて、それが気になって集中できない。彼には『あまり久しぶりだから、緊張しちゃって』と言い訳しました。彼はそれを信じたみたい。
彼と別れて家に帰る道すがら、涙が止まらなかった。あんなことをしていた私が、本当に誰かを好きになったり、誰かに愛されたりするはずがない、と思えてきたのです。普通に恋愛しようとするなんて、私が傲慢(ごうまん)だったんだ、と。心の中で消し去っていた過去が、すごい勢いで甦ってきて‥‥」
彼女の目がみるみる潤んでいく。
消せない過去の迷い道
それからも、彼は食事に誘ったり、自分が住んでいるマンションに招いてくれたりする。
「何度か関係を持っているうちに、私の体が慣れたのか、だんだん感じるようになってきた。そうなると、ますます彼への恋心は増していく。でも、同時に、罪悪感もどんどん増幅していきました」
彼を家に呼んだことも何度かある。十六歳と十三歳になった息子たちは、離婚後、初めて家に入ってきた大人の男性に、当初はひたすら警戒していた。だが、野球に詳しい雄一さんに、下の子がまず懐(なつ)いた。そして上の子も、最近は将来の相談などもしたらしい。
「上の子は『学校の先生に相談するより、ずっと現実的なことを教えてくれたよ』って。何をどう相談したのかよく解りませんが、上の子は理系志望で、ロボットを作るような仕事をしたいと言っていたから、大学の事を話したのかもしれませんね。
でも、そうやって子どもたちと彼との距離が近くなっていくと、私自身がどうしたらいいか、余計分からなくなってくるんです。
話さなくても、私だけは事実を知っている。過去は消せない・・・・・。彼を騙し続けるのは心苦しくて。だからといってあの事だけは話せない」
人には墓場まで持っていかなければならせない秘密を抱えることもあると私は思っている。それは、けっして誰にも言ってはいけない。騙すわけではなく、言う必要がないということなのだ。
そして、その苦しみを乗り越えて、幸せになろうとしてもいいと思う。過去に仕返しさせてはいけない。過去を抑えつけるだけの強さを持たなければ――。
うんうんと頷きながら聞いていた曉子さんが、また泣き出した。
「付き合い始めて一年以上経ちました。実は先日、彼にプポーズされたの。子どもたちのこともあるから、結婚して同居というのは先でもいいけど、自分の気持ちだけしっておいてほしいって。
そんなふうに言ってもらえるような女じゃないんです、私。いっそ全部打ち明けようと思ったけど、やっぱりその勇気はでなかった」
プポーズの返事はまだしていない。
打ち明けなくてもいい。過去を抹殺することはできないけど、自分の中で過去を乗り越える強さを持っているはず――。私は何度も何度も彼女に言った。言っているうちに気づいた。私自身も、過去ではなく、未来を見つめて生きたいのだと。
つづく
第三章
友だちの浮気を密告したセックスレス妻のほの暗い嫉妬心