快楽(けらく)工藤美代子著
夫がセックスをしている間週刊誌を読んでいる妻
本来なら、それは楽しい会になるはずだった。女が三人集まって、結婚祝いの食事をする。その三人とは、私と智子さんと留美さんだ。私たちはある時期、同じマンションに住んでいた。まだ二十代の頃のことで、子供もいなかったから、ひどく暇だった。しょっちゅう三人でお茶を飲んでは、お喋りをしていた。
あれから三十年の歳月が流れ、三人の境遇も随分と変わった。私は離婚して、十三年前に今の夫と再婚した。留美さんは子供を二人も産み、その子供たちも結婚して、今はご主人と二人で気楽な年金生活をしている。
その日の主人公の智子さんは、十五年ほど前に、夫に愛人が入ることが発覚して離婚した。彼女には子供がいなかったが、愛人のところにはもう十歳になる男の子いると知って、愕然とした。しかし、いたってさっぱりした気性の智子さんは修羅場を演じることもなく、あっさり離婚届に判を押して夫に渡した。
そのときも、たしか三人で一緒に食事をして、「離婚祝」をした記憶がある。本当はちっともおめでたくなかったのだが、そんなことでもいって笑い飛ばさないと、なんだか智子さんが可哀そうで、格好がつかなかったのである。
私たちはとくに仲が良いというわけではないが、年に一度くらい会っては近況を報告し合う。いつも饒舌なのは智子さんだった。彼女は夫と別れた後、都内の小さなブティックを開いた。固定客もついて、この不況でも、なんとか一人で食べていくくらいは稼いでいた。客商売に向いているのだろうか、とにかく明るくて気分の良い人である。年齢は私より一歳下の五十四歳だ。
一方、留美さんは少し年上で、今年五十八歳になるはずだ。良妻賢母を絵に描たような穏やかで優しい奥さんといえる。ご主人との仲もいたって円満だし、年金生活のやりくりもの苦労はあるらしいが、まずは落ち着いた日々を送っている。
以前、留美さんが、びっくりするような話をしてくれたことがある。それは、私と電話で他愛のないお喋りをしていたときだった。
「ねえ、あなた、どうして智子さんが離婚したか解る?」と尋ねるのである。「うん、旦那に女に隠し子がいるからでしょ?」と私が答えると、「それはそうだけど、実はその前段階に問題があったと思うのね」彼女はいって深く息を吐いた。「前段階って?」と聞くと、「ここだけの話にしてよ」と念を押して、留美さんが智子さん聞いた話をしてくれた。
結婚して十年ほど経った頃から、智子さんは夫とのセックスにまったく興味がなくなってしまったのだそうだ。はっきりいえば「飽きた」ということだ。しかし、まだ四十代だった夫は妻とのセックスを求めた。そこで智子さんは妙案を思いついた。とにかく、夫にセックスはさせる。しかし、自分はその間、週刊誌を読んでいるのだ。
あんまり夫が長く往復運動を繰り返していると智さんは週刊誌を読み終わってしまう。そんなときは「ねえ、あなたまだ終わらないの?」と聞いたという。
「だからね、そりゃあ智子さんはお気の毒だと思うけど、やっぱりそんなことしていたら、ご主人だって女を作りたくなっちゃうんじゃない」と、常識人の留美さんの口調は批判的だった。
私はなんかおかしくなって、笑いがこみ上げてきた。
細面で美人の智子さんが、あくびを噛み殺しながら、夫とのセックスが早く終わってくれないかなあと持っている図は、想像するとユーモラスだ。こんなことを言ってはいけないが、セックスをしている男女というのは、いずれにしても、当人同士が一生懸命であればあるほど、それを見ていると、けっこうおかしいのではないだろうか。
でも、留美さんはいたって真面目人間なので、私は大笑いするわけにもいかず、「そうよねえ、やっぱり週刊誌ってのは、ちょっとまずかったかもね」と答えた。
テーブルの夫の手を叩いて撥ね除けて
すると留美さんが、もう一つ気になることがあったのよと喋り始めた。それはたまたま留美さんが智子さんの家を訪ねた時の事だった。夫婦はちょうど昼食をとっている最中だった。用事があって訪ねたのだが食事中にお邪魔をするは悪いと思い、帰ろうとすると、いいから上がってくれと勧められた。
断るのも妙なもので、そのまま、ダイニング・ルームで二人の食事が終わるのを待った。
見ることもなく、その食事風景を見ていると、智子さんの夫がサラダを取ろうと、手にしていたフォークをサラダ・ボウルに伸ばしかけた。そこにちょうど智子さんもサラダ・ボウルの向こう側に置いてある胡椒を取るために右手を出した、二人の手がぶつかりそうになったとき、智子さんが素早くバシッと夫の手を叩いて撥ね退けたのである。ほんとうに一瞬のことだった。
留美さんはあっけにとられた。普通、テーブルの上で夫の手がぶつかりそうになったら、妻は手を引っ込めるのではないか。ところが智子さんは、ただひたすら胡椒のことしか目にないようだった。
それに向かって突進しているときに、自分の邪魔をするものは、とにかく取り除くという感じだった。別に夫に対して悪意があるとは思えないが、いつもあの調子だとしたら、誰でも共同生活は譲歩を強いられる。
そんな日常の小さな積み重ねが、離婚に至ったのだと、留美さんはいうのである。
そうかもしれないと私も思ったが、夫婦の間の事は、こればっかりは相性だ。パシッと手を払いのけられても、あまり気にしない男もいるだろう。それに智子さんは街でしょっちゅう映画会社のスカウトから声をかけられるほどの美人だ。そのくせ、ちっとも気取っていなくて、おどけた調子で話をする。彼女がいてくれると座が楽しくなるのは確かだ。だから、そんな智子さんの美点を愛してくれる男の人もきっといるのだろうと私は信じていた。
「再婚するかどうか迷っているの」
その智子さんが、再婚するというニュースを教えてくれたのも留美さんだった。留美さんは私より頻?に智子さんと連絡を取り合っているようだ。
「ビッグ・ニュースよ。智子さんが、今流行のセレブ婚をゲットしたの」と珍しく留美さんが興奮している。今年五十四歳の智子さんが、なんと十歳年下の男性にプロポーズされた。その人は医者で、離婚歴はあるものの、さる大病院のオーナーの御曹司なのだそうだ。相手はもう智子さんに夢中で、今年中にも結婚したいと騒いでいる。「これって快挙だと思わない?」と留美さんは、自分のことのように喜んでいる。
もちろん、私も嬉しかった。「お祝いしなきゃ、三人で前祝いといきましょう」と私も声を張り上げた。
したがって、先週の金曜日に日本橋の「チェレステ」に集合したときは、私も留美さんも興奮気味だった。
以前読んだ週刊誌の記事で、「二回転の女、三回転の女」という見出しの記事があった。何を指しているのかと思ったら、結婚についてだった。たしか大竹しのぶが二度目の離婚をした直後だった。でも彼女は人生を一回転で終わる女ではない、必ずもう一度でも二度でも回転させる。そういう女がこの世にはいるのだ、というのが記事の趣旨だった。
なるほど、留美さんのように一回転で人生が終わるケースも多いが、必ずしもそうとは限らない。私は、はるか昔、東京オリンピックのとき日本代表の女子バレーボール・チームが、回転レシーブというのをやってのけて、世間をあっというわせたシーンを思い出した。”東洋の魔女”たちがクルリと回転しながらボールをレシーブする。その姿が今回の智子さんの快挙に重なって見えた。
「とにかく乾杯しなきゃ」と留美さんが、白ワインのピノ・グリジオをオーダーした。私はお酒が飲めないが、二人は軽くボトルを一本空けてしまう酒豪だ。
「ねえねえ、どこでそんな年下の彼死を見つけたの?」と留美さんが羨ましそうに尋ねた。
「お医者さんだもの。病院に決まっているでしょ」と智子さんは上機嫌な声で答えた。たまたま風邪をこじらせた智子さんが、近所の病院に行った。そこで彼氏知り合ったのだという。もう初めから相手は彼女に一目惚れで、二度行ったときには食事に誘われた。
「でも、あたしだって、だてに歳は取っていないわよ。さりげなく、『先生お子さんは?』とか聞いたら、『あっ、僕は独り者なんです』って答えるじゃない。ふむふむと思ったわけ」
そこでデートは銀座の「ベージュ」で、フレンチを食べた。いい雰囲気で、お互いに過去をいろいろ話し合った。
「そうねえ、難点はやや背が低いことかなあ。一七〇センチくらいしかないの。でも顔はトム・クルーズに似ているから、まあハンサムなほうじゃない。二十八歳のとき結婚したんだけど、性格の不一致っていうやつで一年で別れて、それ以来、一人で気楽っておもっていたんだけど四十代半ばになって、なんか急に身を固めたくなったんですって。
あたしのことは最初は同じ歳くらいだと思っていたらしいわ。五十四歳ってわかって、ちょっとびっくりしたらしいけど、でも、全然気にしていないみたいね」
たしかに智子さんは若く見える。相変わらず美貌は衰えていない。これなら彼がゾッコンになるのも当然だ。
「それで結婚式はいつなの?」と私が尋ねると、「うん、お互い再婚だから派手な式はしなくてもいいと思っているの。でも実は婚約旅行は、もう済ませたのよ」と智子さんが答えた。
そのとき、智子さんの表情がふっと曇った。何かを考えるように、じっとワイングラスを見つめている。
「実はね、今日は二人に相談があったの。あたし、やっぱり再婚するべきかどうか、迷っているの」
「何を今さら迷うことがあるのよ。向こうは経済力もあってイケメンで、優しくて智子さんとどうしても一緒になりたいって言ってくれているんでしょ。迷うなんて、あなた贅沢ょ」と留美さんが、ちょっと非難がましい声を出した。
「あたしも先々のことを考えると、一人じゃ心細いし、去年母が死んで、兄弟もいないから、本当に天涯孤独なのね。だから、真剣に考えてはいるのよ。でも、一つだけ、どうしても引っかかることがあるの」
智子さんの声はいつもよりずっと低くなった。真面目な顔で、私と留美さんの意見を聞きたいという。
彼からの要求に思わず絶句してしまい
それは智子さんが彼とヨーロッパに旅行に行ったときに起こった。
パリに滞在し、ホテルはあのダイアナ妃の最期で有名になったリッツに泊まった。一泊十二万円もする部屋だった。
豪華な部屋にチェックインした夜、セックスを始めようとしたら、彼が耳元で囁いたのだという。
「智子、君は僕の妻になってくれるんだね。ずっと傍にいてくれるね」と念を押す。
なにか奇妙な感覚が智子さんを襲った。いわゆる予知能力といったものかも知れない。黙って俯(うつむ)いていると、
「君にお願いがあるんだ」と相手が言葉を続けた。これからセックスをして、二人で上り詰めるとき、自分が射精する瞬間、「智子、いくよ」と合図するから、そのとき人差し指を自分のアナルに深く差し込んでほしいというのだ。
智子さんは絶句した。そんな要求をされたのは初めてだった。もちろん、それまでにも二人はセックスをしていた。ただ、不思議なことに、彼はけっして射精しなかった。最後まで到達しないのだ。それが変だなとは思ったが、智子さん自身は何度も絶頂を迎えて満足していたので、あまり気にしていなかった。
ところが、彼にそういわれて、ようやく腑におちた。彼はアナルに指を挿入してもらわないと射精できないらしい。
「それで、その晩は彼のいうとおりにしてあげたの。彼は射精して、すごく幸せだったと感激したけど、あたしは正直いって、全然いけなかったの。いけるわけないじゃない。ああ、あれしなきゃって、ずっと思って、頭に引っかかっているんですもの。ねえ、これってどう思う?」
そう問いかけられて、私も留美さんもじっと押し黙ってしまった。
もしも、自分が彼女の立場だったら、どうだろうか。駄目だろうと私は思う。私はいたって狭量な人間なので、相手の男がそういうような特殊な要求をしてきた場合、つい彼の過去に思いを馳せる。いったいどういう女がこういう習慣をつけたのだろうかと考える。
そしてそれを考えた途端に、ああ厭(いや)だと反射的に感じる。だってそうではないか、誰かが、彼にそういう癖をつけたに違いない。それを許容するのは絶対に無理だ。
最初に口を切ったのは留美さんだった。
「ねえ、それは我慢してあげたらどうなの? セックスなんて、どうせ、あと十年もすればしなくなるわよ。うちなんて、もう二十年もご無沙汰よ。だから、これからの老後のことを考えたら、目をつぶって彼の甘えを許してあげられない? このご縁を断るのはあまりにもったいないないわ」
「うん、でもこうも思ったの。実はあたしは彼を愛していないんじゃないかって。だって、本当に愛していたら彼の要求を受け入れられるはずでしょ。だから、傷が深くならないうちに別れた方がいいかなって。彼の過去を丸ごと引き受けて愛する能力があたしにはないみたい」
智子さんはそっとハンカチで目頭を拭いた。私は彼女に何ら適切なアドバイスができない自分がもどかしかった。やめろともいえないし、我慢しろともいえなかった。
その晩の食事会はいやに湿っぽい雰囲気で終わった。初めの勢の良さはすっかり影を潜めてしまつた。
更年期世代の女性たちが、人生を仕切り直すとき、相手の過去を背負わなければならない。その重さに耐えられるかどうかが、いちばん大きな課題かもしれない。とくにセックスは、お互いに何らかの経験を積み重ねている。それが見えないのなら許せるが、はっきり見えてしまうのは辛い。智子さんの辛さがわかるだけに、私は暗い気持ちを引き摺って帰った。
注文の多い女
セックスについての注文は相手に伝えたほうがいい
午後八時ごろ、自宅でぼんやりと近所で買ってきたハンバーガーを食べていた。
夫は会合があって帰りが遅くなるという。そんなとき、主婦というものは、自分のために料理を作ろうなどとは思わない。なるべく手抜きをしてすませたい。とにかく、なんでもいいからお腹に放り込めばすむのだ。
いや、世の中は私のように自堕落な主婦ばかりではないだろうが、少なくとも私は、夫の留守の日はなんともいい加減なジャンク・フードを口に入れて誤魔化している。
一人でもそもそとハンバーガーを齧(かじ)りながら、私はしきりについさっき恵美子さんと電話で交わした会話について考えていた。
「えーと、なんだったっけ、『注文の多い料理』っていう小説なかったっけ?」と恵美子さんが聞く。
「うーん、あったような気もするけど、それってたしか宮沢賢治じゃなかったかしら」
「そうそう、宮沢賢治だわ」
「それがどうしたの?」と私は尋ねた。
「いやさあ、うまくいえないんだけど、つまり女にもさ、注文の多い女っているじゃない?」
「へっ? 注文の多い女って、わがままってことなのよ」
「だからさ、あたしが意味しているのはセックスについてなのよ」
「ああ、セックスかあ、それだと話は限定されるわねえ。ちょっと待ってよ。セックスに関して、注文の多い女がいるかっていうこと?」
「うん、うん、だからさ、セックスするときに相手の男に対して出す注文の数が多い女っていると思わない?」
「まさか恵美子さん、あなた自分がそうだっていっているわけじゃないでしょ?」
私は思わず声が上ずってしまった。これはいくら親友同士の会話といっても、かなり込み入ったテーマだ。しかも一般論ならともかく、個人的なことと考えるとなると難しい。
「うん、それが解るくらいなら苦労はないわよ。なんかこう基準みたいなものがあってさ、こういう要求を出す女は、注文が多いというふうに決めてくれれば、分かりやすいわよねえ。でも、それがないから、自分が一体どのへんの位置するか分からないわけよ」
なるほど、恵美子さんの話の意図が少し私もつかめてきた。しかし、彼女に返事をする前に、私は自分の心の中で呟いていた。
「そもそも、セックスなんて注文を付けてやるものかな?」
これは今まで、誰に聞いたことがないから、よく解らなかったのだが、自分自身に限って言えば、セックスしているときに相手に注文を付けたことは一度もない。そういう私は異常なのだろうか?
だって、セックスとは男の人が主導権を持つ行為ではないだろうか。たとえば、日常の関係で、男が女のヒモであったとしても、ことセックスにいたったときは、やっぱりヒモだって男らしく振る舞って、せっせとリードするのではないか。
私の頭ではそう解釈しているのだが、実際はどうなのだろう。残念ながら私はあまりポルノ小説の類を読んだ経験がないので、その辺の知識が浅い。だからよく解らないのだが、恵美子さんの声はいたって真剣だ。そこで、私は彼女にいった。
「はっきり言って、どうでもいいじゃない。私はセックスって、まあ成り行きっていうか、流れみたいなものだから、男の人がやりたいようにやって、それが、自分と合わないようなら関係をやめるしかないと思うけど、だってあれって、やっぱり注文を付けるのはまずいでしょ」
これが私の本音だった。いったいどうやって相手に注文をつけろというのだ。せっかく相手が一生懸命に頑張っているときに。ああしろ、こうしろと言われたら、やる気をなくしてしまうのではないか、私が男だったら、きっとそうだろう。ここは任せてよと言いたくなるに違いない。
「でもね、それはもうあなたがもう結婚して、いわば安定した地位にいるからいえるセリフなのよ」と恵美子さんが反論してきた。
「これから、二人が新しい関係を作るときって、初めがかんじんじゃない? ちょっとした注文を出すことで、その後の関係がうまくいくんだったら、思い切って相手に伝えた方がいいと思わない?」
「考えても仕方ないので他の男と寝てみたのよ」
恵美子さんが大真面目な声で尋ねているのを聞きながら、私の思考はちょっと遠くへぶっ飛んでいた。
遠い昔、初めて男の人とセックスした時の場面を思い出していたのである。
まずはキスをするところから始めるが普通だろう。しかし、私が相手に「キスして」と注文したかといえば、答えは「ノー」だ。何も言わなかったが、気がついたらキスしていた。
さて、その日は、セックスをすることになるだろうという漠然とした予感はあった。ということは裸になるということだ。今考えると、おかしいが、この裸になるという行為は、けっこう途中にたくさんの難問があった。羞恥心もあったし、タイミングが良く解らないということもある。しかし、男の子に「洋服を脱がせて」という注文を出しただろうか? いや、それをした覚えはない。
なんだかごちゃごちゃと慌てているうちに自然にドレスが脱げていた。後から考えると、男の子も必死になって脱がせたんだろうけど、そこの部分の記憶はすぽんと消えている。
じゃあ、大人になってからのセックスはどうかというと、やっぱり洋服を脱がせてくれと男に要求したことは一度もない。だって、あんなもの子供じゃあるまいし、いい年した女なら、自分で脱ぐものだろう。
だが、もしかすと、私はひどく色気がないのかもしれない。女性の洋服を脱がせたいと思う男の人は、意外に多いかもしれない。だとすると男に注文を出すのも大人の女のテクニックの一つか。
「なんか、恵美子さんの言うことも分る気がする。ティーンエージャーの頃ならともかく、もう更年期世代になったら、きっぱり注文を出すのも手かもねえ。洋服を脱がせてくださいって、要求を出したって悪くはないかも」
「ああ、あなたってどうしてそう、発想が幼稚なのかしら。っていうか、全然、セックスの事わかっていないようね、洋服なんてどうだっていいの。問題はその中身なんだってば」
恵美子さんは悲しそうにため息をついた。私の貧しい発想力では、男に注文を出す場面はせいぜい洋服を脱がせろというくらいのところまでなのだが、どうやら恵美子さんのいっている意味はもう少し深遠いらしい。
「あたしね、いつまでも島田のことを考えていても仕方ないと思って、実は、他の男と寝てみたのよ」
「へっ? 他の男?」
私は仰天した。だって恵美子さんは、島田さんと別れたショックでご飯も喉を通らなかったはずだ。そういったのは、つい二、三ヶ月ほど前のことだ。どうやったらそんなに早く次の男を見つけられるのか、私なんぞ過去半年の間に口を聞いた新しい男といえば、宅配便を届けにきたお兄さんと、緊急入院した母の主治医の先生の二人くらいだ。
しかし、恵美子さんみたいにフェロモンがたっぷりの女性には、神様はちゃんと次なる男を送り込んでくださるらしい。
再会相手の手を握り返してホテルヘ
それは彼女がまだ高校生の頃に付き合っていた男性だそうだ。向こうはもう大学生だったが、カトリックの女子高に通っていた恵美子さんは、いたって厳しい躾をうけていので、もちろんキスさえもしなかった。私や彼女の十代の頃は、とにかくセックスは絶対にしてはいけないものだと思い込んでいた。結婚するまでは、処女でいなければいけないと大人もいっていたし、雑誌にも書いてあった。
だから彼女もそのボーイフレンドとは、日曜日に一緒に映画を観に行くくらいで、婚前交渉などとんでもない雰囲気だった。
やがて、その大学生、仮にアキラ君としておこう、そのアキラ君が卒業してアメリカに留学してしまったため、二人の淡い関係は終わった。
ところが、アキラ君がなんと四十年ぶりに恵美子さんの実家を訪ねてきたのである。彼はある大会社の重役になっていて、年齢も六十歳を超えていた。しかし、太ってもいないし、白髪にもなっていない。本当に不思議なほど老けていなかった。相変わらず、昔流行ったアイビー・ルックが似合うような若々しさがある。
アキラ君はたまたま用事があって、恵美子さんの実家の近くを通りかかった。そうしたら昔と同じ場所に恵美子さんの家がそのまま建っていた。懐かしくなってついチャイムを鳴らしたら、恵美子さんのお母様が出て来て、アキラ君をよく覚えていた。そこから話が弾んで、恵美子さんにも連絡があったのだという。
「でもさあ、そのアキラ君って、また所帯持ちでしょ。あなたもう島田さんで、妻子ある男はこりごりだって言ってたんじゃない」と私はちょっと咎めるような声を出した。
「そりゃそうだけど、アキラの場合は島田とはケースが違うのよ。彼は妻とはうまくいっていないのよ。それを初めから隠さずにいうの。性格が合わないから、離婚できなくても別居だけでもしたいっていってるのよね」
「なんで、はなっから離婚できないと決めつけているわけ? 変じゃない?」
私はつい、恵美子さんが男に騙されているのではないかと心配になるのだ。これは私の悪い癖なのだが、妻子のある男と付き合っている人を見ると、なんだか、いいように利用されていると考えてしまう。男はいつも家庭という安全地帯にいて、ときどき冒険を楽しみたいときだけ、女の所に来る。それってフェアーじゃないよと言いたくなるのだ。
だが、恵美子さんはアキラ君を弁護する。彼の両親を妻が介護してくれたり、彼の勤める会社の創立者が妻の叔父だったりとか、まあいろいろとしがらみがあるので、一挙に離婚というわけにはいかないのだという。しかし、妻には、もう二十年以上、指一本触れていないとはっきり言ったそうだ。
島田さんとの関係で懲りていた恵美子さんは、妻と不仲だと言い切るアキラ君のことが気に入った。
「ねえ、僕たち、やり残している宿題があると思わない?」とアキラ君が迫ってきたのは、東京タワーが見えるレストランで食事をしているときだった。アキラ君の実家は新潟なので、彼は東京の大門に下宿していた。四十年前のその頃は、下宿窓から東京タワーが良く見えたという。
「あのとき、ボクはどうして恵美子さんを押し倒さなかったんだろう? 一度だけ君の部屋に上げてもらったことがあったんだよ。そのときはセックスのことしか頭になかったんだけど、良家のお嬢様にそんなことしちゃいけないって信じ込んでいたからなあ。今考えると嘘みたいに純情だったね」
といって、アキラ君は笑って、さりげなく恵美子さんの手を握った。
その手を強く握りしめたのは、もちろん、OKのサインだった。アキラ君はレストランの支払いを済ますと、タクシーつかまえて、運転手に、あるシティ・ホテルの名前を告げた。
もっと体重をかけて、といいたいのだけど
「私だってこの歳だし、もう今更、いろんな駆け引きする必要はないと思ったの、お互いに古い知り合いだから、なんていうか、こうなるのが当たり前っていうムードがその場を支配していたのよ」
恵美子さんの口調は、やや弁解めいていた。自分を軽い女だと私に思われたくないのだろう。それは私にも理解できた。
「若いころと違って、なかなか、これならいいだろうと思える男との出会いのチャンスなんてないんだから、アキラ君が合格なら、恵美子さんが一緒にホテルに行ったってかまわないじゃない」と私は答えてから、さらに尋ねた。
「それで、どうしたの?」
「うん、だから、あなたに相談してるんじゃない。正直いって、すごーく迷っているのよ。アキラとの関係をこれからも続けるべきか、それともやめるべきか」
「だって、男と女の関係なんて、いいか悪いかのどっちかじゃない。迷うってことは、良くなかったってことでしょ。つまり、セックスのみならず、他も含めて」
「それは違うの。セックス以外は、アキラはほとんど合格よ。ただ、問題はセックスなの。相当に注文をつけないと改善されないと思う。でも、さて、注文を付けるべきなのかどうかで、悩んでいるわけよ。たとえばね、重さが違うのよ。上になったときのアキラは、島田に比べてずっと軽いのよ。
島田は学生時代ラグビーをやっていたくらいだから、体重が八十五キロはあった。そしてあれをやっているときは、全身で重みをかけてきたのね。それがあたしは好きだったんだけど、アキラはふわっとして軽いのよ。もっとこっちに体重をかけてって、いいたんだけど、なんかそういうこと言うのも、ちょっと変じゃない」
「うん、わからないわけでもないけど、新しい男を前の男と比べるのはどうかなあ。それをやっていたら、誰のことだって気に入らないわよ」
私は恵美子さんが、まだ島田さんに未練があるのだと思った。だとするとアキラ君では満足できないにちがいない。
「そこがさ、微妙に違うのよ。島田の思い出に引きずられている部分もあるけど、それだけじゃないの。これって、会って、ディテールを話さないとわからないから、来週時間を作ってよ」
ということで、私はあらためて恵美子さんに会って、アキラ君への注文について話を聞く羽目になった。
はたして恵美子さんは注文の多い女なのだろうか。そしてそうだったら、注文は出したほうがいいのだろうか。
更年期世代になってみると、若い頃には思いもよらなかった性の悩みが出てくるようだ。恵美子さんと話した内容については、次回に書きたいと思う。
セックスの重み
できるときに楽しんでおかなくちゃ
最近、私の身辺では、立て続けに悪いことが起こっている。
まず、母が腸閉塞になり救急車で病院に搬送されたら、即入院となった。検査の結果もS状結腸癌と判明、翌日には手術となった。その後、二週間ほど、母は生死の境をさ迷い、今も入院中だ。
徹夜で看病していた私は、自分も倒れてしまい、肺炎で入院した。ようやく退院したと思ったら、私と同じ年齢で、母が娘のように可愛がり、一緒に暮らして身辺の世話をしてもらっている女性が、築地のがんセンターに入院することになった。
なんとも深刻な事態だと気が滅入っていたところに、続いて、やはり母と同居していた重度の心身障害者である五十九歳の兄も、尿毒症のため救急車で病院へ搬送され、入院させられた。
結局、実家では全員が入院という異常事態となったのである。そのことを我が親友の恵美子さんに話すと、「あなた、それが更年期世代の証拠よ」という言葉が返ってきた。
つまり、四十代後半から五十代になると、ちょうど親の介護という問題がのしかかって来る。その上、同世代でも癌や心筋梗塞、脳溢血など、思いがけない病魔に襲われる人が増える。若い頃は想像もしなかったような環境の変化がじわじわと訪れるというわけだ。
「でもね、負けちゃ駄目よ。あたしの友人で両親の介護に疲れ果ててうつ病になった人がいるけど、そういう人って真面目過ぎるのよね」と恵美子さんはいう。介護なんて、あくまでも自分の体力が余ったらやるものだ、というくらいのつもりじゃないと、親より先に娘が潰されてしまうというのが、彼女の持論だ。
たしかに、私も肺炎で入院している間につくづく思った。母の命も大切だが、自分の生活も守らなければならない。これからり歳月を、ただ介護だけに費やするわけにはいかないだろう。
恵美子さんに、その思いを語ったら、彼女は大きく頷いた。「だからさ、やっぱりセックスだって、できるときにたのしんでおかなくっちゃ、いつどうなるかわからないじゃない」
その発想の飛躍が、いかにも恵美子さんらしくておかしかったが、よく考えると、まさにいつセックスどころではない日常に突入するか、まったく見当がつかないのが私達の更年期世代の現実だ。
あなたも髪の毛を振り乱して病院通いばかりしていないで、たまにはゆっくりと食事をもしましょうよといわれて、恵美子さんと表参道の新潟料理の店に行ったのは先週のことだった。
奥の座席を取ってもらって二人で向き合った途端に、恵美子さんがクスリと笑った。
「あなた、ブラジャーしていないでしょ?」
いきなり尋ねられ狼狽した。実は、母の介護に追われていたとき、あまりに疲れて心臓が苦しくなった。それで、胸のところだけ布地が二重に厚くなっていて、ブラジャーをしないですむTシャツを通販で買った。
これを着だしたら、ものすごく楽で、もうブラジャーを着けるのが億劫になってしまったのだ。さすが恵美子さん、鋭く見抜いたのである。
私が理由を説明すると、彼女は首を横に振った。
「それって、まずいわよ。いくら楽だからといって、もう垂れちゃっているおっぱいは、やっぱりブラジャーでちゃんと持ち上げておかないと、もろ、オバサンに見えるわよ」
実のところ、私はどうでもいいのだ。恵美子さんいっているのは、つまり男の視線ってことだろう。そんなもの知るかと居直っているのだが、恵美子さんには、私のだらしなさが信じられないらしい。
「自分が女だっていうことを忘れたら、あなた、おしまいよ」と意見された。
正直いって、私は自分が女であるかどうか、最近は疑問に感じている。他人の眼も、もはや私を女として見ていないような気がするのである。
「違うってば。それはあなたが自分で、女を止めちゃっているからよ。だから周囲もオバサンって見ているんじゃない。そんなの心がけが悪いのよ。ブラジャーくらい、ちゃんとワイヤーが入ったのをしていなかったら、体型は保たれないのよ。あたしなんて、二万円以下のブラジャーは絶対買わない。そういうところに投資を惜しんだら駄目よ」
恵美子さんはあくまでも、ポジティヴに更年期に立ち向かっているようだが。一方、こちらは、いささかエネルギーが欠如していて、どうもヨレヨレしている。
どうしてもひっかかる一点のこと
しかし、その晩のテーマは、彼女のセックス・ライフについてだった。これこそ、エネルギーの必要な話だが、まあ私は他人事なので、適当に相談に乗って、乏しい経験の中から、あれこれ答えればよいわけだ。
「この前、電話で話したアキラ君のことなんだけど、彼のほうは気に入ったみたいよ。すごく相性がいいって思い込んでいる節があるのね」
アキラ君とは、恵美子さんが高校生の頃に付き合っていて、最近、再び付き合い始めた恋人だ。六十一歳で、妻子持ち。経済的には安定していて、都内に住んでいる。車はセルシオとポルシェと二台持っている。ルックスも悪くない。
妻との間は不仲で別居を考えている。独身で五十七歳の恵美子さんにとっては、ほぼ理想的な男性といえるが、一点だけ、どうしてもひっかかるところがある。それは彼とのセックスだというのだ。
「男ってさ、変なことを言うみたいだけど、唾液が気にならない?」
彼女が聞く。
「唾液?」
私は絶句した。男というものと唾液との関係がどうもうまく結びつかない。
「あのさ、最初はまず、キスをするでしょ。そのときの男の唾液って、けっこう気になるのよね。煙草を吸っている男はニコチン臭いでしょ。あれは、あたしは絶対受け付けないの。それから、妙に生臭い男もいるのよね。食べ物の匂いが混ざったみたいなの。それもバツだわね、サラリとしているのが一番いいのよね」
「ふーん」と恵美子さんの言葉に相槌を打ちながら、私はそれまでもまだ、男の唾液なるものが具体的にどのようなものか、イメージが浮かばなかった。しかし、恵美子さんにとっては、かなり重要な問題らしい。
「島田の唾液は最高に良かったの。清潔な感じがして」という恵美子さんは目をつぶった。
やっぱり彼女は昔の恋人である島田さんを忘れられないのだと私は思った、そんな島田さんにまだ未練があるなら、アキラ君とうまくいくはずがない。
「でもねえ、アキラも健闘したのよ」
そういって恵美子さんは、彼とのセックスについて詳しく報告してくれた。
ホテルの部屋へ入ると、激しく抱きしめられた。これはまあ、想定内の行動だ。キスをしたとき、ちょっと魚の匂いがした。「減点1」と恵美子さんは心の中で呟いた。
恵美子さんのほうは、こういう場面があると予想して、ディナーが終わると化粧室で歯を磨いておいたのである。しかしアキラ君のほうは、そんな細かな芸当はしなかったようだ。恵美子さんは、いつもまったく口臭のなかった島田さんをちらりと思い出した。
本当に肌を寄せ合うだけの価値のある男なのか
さて、アキラ君は恵美子さんを抱きしめたまま、ベッドに運ぼうとした。ちょっと待ってよと彼女は思った。「あたしシャワーを浴びてきます」といって、彼の腕を逃れてバスルームへ行った。もしも。シャワーを浴びている間に、バスルームへ入って来られると困るので、しっかりと鍵をかけた。
その辺は、初めての男なので、相手がどう出るか分からないところもあった。ちょっと面倒くさいという思いが恵美子さんを脳裏をよぎった。まだ四十代までは、新しい男とセックスをするのは興味津々だったが、五十代ともなると、そこにあるためらいが生まれる。それは、「この男は、本当に肌を寄せ合うだけの価値のある男なのだろうか」という疑念でもあるそうだ。
若い頃は駄目だったら駄目で、まあいいやと簡単に忘れられる。しかし、「この歳になると、やっぱりセックスの重みが違うのよね」と恵美子さんはしみじみした声で出した。
私はふと自分より十歳くらい若い女友だちの事を思い出していた。彼女は、あるときシンガポールへ行って、現地の男性とセックスした。とくに深い理由もなく成り行き上、そうなってしまったが、このセックスが思いがけなく良かった。うまくいった。そのときに、「ほら、工藤さん、よく外国を旅行するときに、海外で使用可能な湯沸かし器とか持って行くじゃない。
それで、その湯沸かし器が、ちゃんと働いてお湯が沸くと、ああよかったって、安心するじゃない、あれと同じようなものよ。外国の男でも、言葉がろくに通じなくても、とりあえず重なり合って、目的を達成した。ああやれやれ、安心っていうくらいのものね」
そういって、その友人は胸を撫でおろす仕草をしてみせた。
そんなふうに気楽にセックスができるのは、四十代までかもしれない。恵美子さんは、もっとずっと真剣にアキラ君と向かい合っている。それは彼女の詳細な描写からも伝わってくる。
シャワーを浴びて、バスタオルを巻いたまま恵美子さんは、バスルームから出てきた。彼女はスタイルが良いので、体型には自信があった。
ふと見ると、アキラ君はホテルの浴衣に着替えて、ベッドに横になっていた。
「なんか、いかにもあれをするのを待っている感じで、ここでまた減点だったの」
まだセックスが始まる前に、もうアキラ君がどんどん減点されていくのが、私にはちょっとおかしかったが、恵美子さんはいたって真面目な顔で、話している。
いよい、セックスが始まった。彼は恵美子さんの乳房を優しくて揉んで、乳首を口に含んでだ。平凡といえば平凡といえる行為だが、何か変なことをされるよりはいい。恵美子さんは、相手のするがままに任せていた。
すると、今度は何かと思ったのかアキラ君は恵美子さんの首の周りを舐め始めた。耳も舐める。恵美子さんはくすぐったような奇妙な感じを覚えたが、不快感はなかった。
「それがね、唾液をいっぱいつけて、首の周りにキスするのよ。何故かなって思っている間にあたしの首を軽くアキラが絞め始めたの、その時生まれて初めての快感が身体を突き抜けたの、あたし別に自分がマゾだとは思っていないけれど、なんか頭がジーンとして、ふわっと痺れていくような感じなのよ」
「ふーん、でもそれってちょっと危なくない?」と私は尋ねた。とにかく小心者の私は、うっかりすれば事故を起こしそうなセックスは聞いているだけで恐ろしい気がする。
「大丈夫よ。アキラだって、社会的地位もあるし、そのへんはちゃんと心得ていてやっているのよ。失神するほど強く絞めたりはしないわ。ただ、どうも唾液をたっぷり塗ってつるつるさせてからやるのがコツみたいね」
相手を傷つける発言だけは控えるのがルールなのでは
なんだかマヨネーズのつくり方でも話しているような恵美子さんの口調だ。いずれにしろアキラ君はここで、減点二点をかなり回復した。そんなプレィをした後で、いよいよペニスの挿入となった。
「これが最高におっかしいのよね。アキラが、あたしのあそこに、またたっぷり唾液を塗りたくるわけ。それがどうしてだかわかる?」
そんなの聞かれたって、分かるわけがない。「その人の性癖でしょ」と答えるしかないので、そういうと恵美子さんが、「やっぱり、あなたは勘が悪いわ」とあきれ声を出す。
「あのね、あたしはホルモン補充療法をやっているから、膣が乾燥しないのよ。でも普通、あたしの歳だと潤わない人が多いじゃない。だからアキラはそれを心配して、唾液をびしょびしょにしたんだと思うのよ。ということはよ。つまりアキラは他にも更年期世代の女性とセックスをしていて、性交痛を訴えられた経験があるんじゃないかと思うのよね」
恵美子さんの、推理は当たっているかもしれないが、ここまで手の内を読まれたら、男の人も困るだろう。もっとも利口な彼女は相手には余計なことは、一切言わない。
「とにかくせっせと唾液を塗って、それから挿入したんだけど、問題が一つ発生したの、それはね、アキラのペニスが充分に硬くならないのよ。なんかこうふにゃっとしたまま、中に入ってきたの。アキラが焦っているのが、こっちにも感じられるわけ。かんがえてみれば、アキラだって六十歳を過ぎているんですもの。
勃起不全があっても当然よね。これはバイアグラとかにまだ、頼っていない証拠かもしれない。でもね、また、あなたに皮肉を言われそうだけど、島田はいつもかちかちに起っていたのよ。だから、アキラのは物足りなくて、またここで減点ね」
「でも、それじゃあアキラ君が可哀そうじゃない。やっぱり島田さんと比べたら。物足りないのは当り前よ。まだ、向こうだってあなたの好みを把握していなんだし、仕方ないじゃない」
私は一生懸命に健闘しているアキラ君がお気の毒になってきた。恵美子さんは、やっぱり注文が多すぎのではないか。それとも、男性の完全なる勃起は、セックスの絶対条件なのだろうか。
私は残念ながら勃起不全の男に遭遇したことがないので、何とも言えないが、熟年の性ならば、ある程度は許容範囲なのではなかろうか。そうした弱点も含めての付き合いになのが自然だともいえる。
「それでも、アキラは頑張って、五分くらい往復運動していたら、なんとか硬くなったんだけど、ちょっと物足りなさはのこったわね。だから、あたしが悩んでいるのは、アキラにそんなに唾液をつけなくてもいいとか、充分に硬くなってから入れたらとか、注文を付けてもいいものかどうかなのよね。相手のプライドもあるでしょうし、といって、この先、また彼とセックスをするかどうか、これから決めるのが、けっこう難しいのよ」
恵美子さんの悩みは、まさに更年期世代でなければ、分からないものだ。もちろん、私が有益なアドバイスをできるわけがない。ただ、これは年齢に関係なく言えることだが、相手を傷つける発言は、やはり控えるのがセックスにおけるルールではないだろうか。それだけは注意したらどうかと、私は恵美子さんにいったのだった。
つづく 第九章
心療内科とのつき合い方