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第七章 結婚二十年目の真実

本表紙  快楽(けらく)工藤美代子著

思いつめて上京してきた遠縁の女性

 私は原稿を書くのが遅い。よく流行作家と呼ばれる人たちは、一日に三十枚とか四十枚を平気で書くらしい。

 しかし、私は一日に十枚を書くのがやっとだ。その上に主婦業もあるので、仕事に使える時間は限られている。毎日バタバタと仕事に追われているわりには、まことに生産性の低い生活をしている。それは自分の能力の欠如と思ってあきらめている。

 そんな私がいつものように、必死になってパソコンに向かっていたら、仕事場のチャイムが鳴った。先週の木曜日のことである。
 宅配便でも届いたかと思いながら、インターホンを取ると、「美代子お姉ちゃん、孝子です」という声がいきなり流れてきた。

「えっ? 孝子ちゃん? ちょっと待って」と答えて、私は慌てて玄関のドア―を開けた。
 たしかに目の前に、髪の毛をおかっぱ頭にした孝子ちゃんが立っている。

「ごめんなさい、いきなり訪ねてきて、でも電話しておばちゃんに聞いたら、お姉ちゃんはいつも忙しくて大変だっていうから、前もって電話したらあってもらえないだろうと思って」と孝子ちゃんが座るなり言い訳をする。

 おばちゃんとは、私の母の事である。孝子ちゃんは、私の母の遠縁にあたる。そして九州のある都市の出身で、今は結婚してそこに住んでいる。

 彼女は東京の大学に通っていた時期があって、そのとき私の家に出入りしていた。私も当時は実家にいたので、彼女との交流はあった。「お姉ちゃん」という呼び方は、その時代の名残りだ。

 若い頃の孝子ちゃんは、ややもさっさりした感じの素朴な娘だった。たしか私より十歳くらい年下だったはずだ。ということは、もう四十五歳になるわけだ。しかし、相変わらず以前と同じパーマっけのないおかっぱスタイルだ。顔もお化粧をしていないので、ちょっと見ると女学生のようだ。

「昔と全然変わっていないね」と私はいった。
「とんでもない、お姉ちゃんに会うのは二十年ぶりくらいなんですよ。ほら、あたしが新婚旅行で東京に来たとき、お姉ちゃんにドンで焼肉をご馳走になったでしょう」

「へえ、そうだっけ。そんなことがあったかしらねえ」
「あの時のカルビが美味しかったの、今でも覚えています。でも、あれから二十年もたって、あたしも年を取りました」

「なあにいっているのよ。まだまだこれからじゃない。女の盛りは四十代だって、この間も西木正明先生っていう有名な作家の方がおしゃっていたわよ」
「ほんとうですか?」

 真剣な表情で孝子ちゃんが、私の顔を覗き込む。あんまり真面目な声なので、私はちょっとたじろいだ。なぜかというと、孝子ちゃんの周囲にピーンと張り詰めたような空気が漲(みなぎ)っている。

だいたいよく考えてみれば、たいした用事でもないのに孝子ちゃんが、わざわざ九州から、私を訪ねて出てくるはずがないないだろう。何かトラブルを抱えているに違いない。

 しかし、私はちょうど締め切りの原稿があって、彼女と付き合えるのはせいぜい三十分が限度だ。それ以上の時間を取られるのはいささか辛い。なにしろ人一倍原稿を書くのに時間がかかるのだから。

「お姉ちゃん、ごめんなさい。忙しいのを承知の上です。でも、あたし、どうしてもお話したいことがあったんです」

 孝子ちゃんは私の心中を察していた。だから必死になって、身体を前に乗り出すようにして喋り始めた。

「実は、主人の事なんです。あたし、もうわからなくなって。いっそ離婚しようかなって考えているの。そうしたらお姉ちゃんの秘書にでも使ってもらえないかと思って」

「あなた、それは無理よ。私なんか売れない作家で、自分が食べるぶんだって稼げないくらいで夫に頼っているのよ。まして秘書なんて雇えるはずがないでしょ。それよりいったい何があったのよ?」

 私はあきらめて、彼女の話を聞くことにした。おそらく、聞いてあげなかったら、孝子ちゃんは帰らないだろう。仕事のしわ寄せが家事にくるのは目に見えていたが、いきなり飛び込んできた孝子ちゃんの気迫に、私は押されていた。

 夫の要求に目の前がまっ暗になって

「お姉ちゃん、この話は両親にもしたことがないんです。だって恥ずかしくて誰にもいえません。うちには子供もいません。できなかったんです。どうしてだと思いますか?」

「さあ、わからないけど、子供が欲しいのなら、ちゃんとお医者さんへ行って調べてもらう方がいいんじゃない?」
 もう遅すぎるかとも思ったが私はアドバイスした。

「違うんです。あたしは自分が子供のできない身体なんて思っていません。もう、今となっては駄目ですけど、ちゃんとできたはずです」

 一松人形なような顔が歪んだ。大粒の涙がポロリとこぼれる。若い頃から口下手な子だったので、自分の言いたいことを理路整然といえないのが、もどかしいようだ。

「ご主人とうまく行っていないのね?」と尋ねるとコクリと頷いた。
 それから、ポツリポツリと彼女が語ってくれた話はかなり凄絶な内容だった。

 孝子ちゃんの夫は彼女と同じ町の旧家の次男だった。実家は工場を経営していて、長男が社長をしている。孝子ちゃんの夫のその下で、専務という肩書を持っているが、小さな会社なので、それこそ運転手から庶務まで、何でもやらなければならない。

 ややこしいのは、孝子ちゃんの弟も従弟も、その会社に勤めているところだ。つまりは完全に同族会社なのである。

 それでも次男なので、両親と同居しなくてもいいし、何かと気楽だろうと思い、孝子ちゃんは初めのお見合いで、その人との結婚を決めてしまった。

 よく付き合う暇もなく、まして婚前交渉もないまま、見合いの半年後には式を挙げた。
「だから、あたし主人の事を、あんまりわかんなかったんです。優しそうに見えたし、父も乗り気だったもので、簡単に決めてしまったのが間違いの元でした」

 孝子ちゃんがうなだれる。
「何が間違いだったの?」
 私は話の続きを促した。
「はい。三ヶ月くらいは、そのう、普通のアレだったんです」
「セックスね?」
「ええ。でも、それから、どうしてもアレをさせろっていって、きかないんです」
「アレって言われても分らないわよ。なんのこと?」
「つまり、前じゃなくてお尻の方でしたいって言うんです」

「ああ、そうか、アナルセックスっていう意味ね」

「はい」

 このアナルセックスに孝子ちゃんは抵抗があったという。汚いと思ったし、やってはいけないことだという意識があった。当然、夫の要求を拒んだ。すると夫は浣腸を用意して、これを使ってさせろと、彼女に迫った。

「もう目の前が真っ暗になりました。あたしは変態と結婚してしまったんだと思って、翌日、実家に帰っちゃったんです。でも健二さんかせ、あちらの両親と一緒にすぐに迎えに来て、とにかく世間体があるから帰って来てくれって、畳に頭をこすりつけて頼むんです。

そのとき、あたしが負けないで離婚すればよかったんですが、狭い町で、親戚もたくさんいて、弟のこともあったりするから、二度と変なことをしないって、約束してもらって、結局、健二さんのところに帰ったんです」

 いうまでもないが、健二さんというのが、彼女の夫である。
 さて、戻ってみたものの、孝子ちゃんの夫はどこかよそよそしい。もちろん、夜になっても彼女に指一本も触れようとしない。

 普通のセックスならしてもいいと思っていた孝子ちゃんは、考え込んでしまった、夫はアナルセックス以外は興味がないのだろうか。だとしたらほんとうに変態だ。

 しかし、それ以外には夫に取り立てて欠点はなかった。真面目でよく働くし、孝子ちゃんの家族や親せきにも親切にしてくれる。とくに同じ会社にいる孝子ちゃんの弟は健二さんを「兄さん」と呼んで、実の兄のように信頼していた。
 だから本当のことは誰にもいえずに二十年の月日が流れた。

「知ってしまったらもう駄目です」

 ところが、思いがけない事態が起きた。孝子ちゃんの家が古くなったので、新築することになったのである。もともと夫の実家の敷地内に建てた、小さな家だった。子供が出来たら建て増しする予定だったのだが、セックスレスなので、もちろん、子供はできなかった。幸い、長男のほうに三人男の子がいたので、孝子ちゃんは子供がいなくても、それほどのプレッシャーを感じないですんだ。セックスの問題さえ除けば、好きな園芸をしたり、すぐ近所の実家へ遊びに帰ったりと気楽な毎日だった。

 いよいよ、家の建て替えが決まり、荷造りが始まった。夫は自分専用の四畳半を書斎として使っていた。土曜日の夜などそこに一人で二、三時間くらい籠っていることがあるのだが、本を読んでいるのだろうと孝子ちゃんは気にしていなかった。

 その部屋の片づけだけは自分がするから、お前は部屋に入るなと言われていた。しかし引越しの日も近づいているのに、夫は忙しくてなかなか部屋の整理ができていない。そこで、孝子ちゃんが昼間、片付けのために夫の書斎に足を踏み入れた。

 ふと開けた箪笥の引き出しの中にぎっしりとビデオが詰まっている。手に取って見ると、なんとそれは男同士が絡むポルノだった。そんなものが数え切れないほどたくさん、引き出しの中にあった。

 ?然として孝子ちゃんは声も出なかった。次の土曜日、夫はそろそろ片付け始めるからといって、朝から自分の部屋へ行った。

 悪ことだとは思ったが、孝子ちゃんはそっと後ろから部屋の前に行き、襖を細く開けて、中を覗き込んだ。

 すると夫がテレビの前に座り込んで、あのポルノ・ビデオを音を消して見ている。そして手はせわしなく動かして、マスターベーションをしていた。そうか、そういうことだったのかと、孝子ちゃんは二十年来の謎が解けた思いだった。夫はもともと女には興味がなかったのだ。しかし、ある程度の年齢になったら結婚しないと社会的に問題があると思って、結婚しただけだったのだ。

「そうわかったとき、あたしの二十年を返してって叫びたくなりました。だってそうじゃありません?  生身の女であるあたしが傍にいながら見向きもしないで、あのポルノ映画の世界に浸っていたんでしょ。許せません。知らなければ、そのまま暮らしていたかもしれませんが、知ってしまったらもう駄目です」

 誰かとセックスすればふんぎりがつく

 孝子ちゃんは段々と感情が激してくるようだ。眼が強い光を帯びてきた。
「ああ」といって、いきなりテーブルに顔を伏せた、私はびっくりして、彼女の肩を揺すった。
「大丈夫?」
「ああ、すいません。この頃、身体が変なんです。あのことがあってから、生理がパタッと止まってしまって、目眩がしたり、急に暑くなって汗がばあーっと噴き出すんです。手なんかもうすごいです。汗で。あたし病気なんだと思います」

 孝子ちゃんは苦しそうに肩で息をしている。私はいつも携帯している精神安定剤のエリスパンを二錠、彼女に飲ませた。

「心配しなくても大丈夫よ。もちろん、お医者様に行って、見た貰った方がいいけど、孝子ちゃんの症状は多分、更年期に起きる自律神経失調症だと思うわ」

 彼女の背中をさすりながら、私は想像していた。まだ四十五歳の孝子ちゃんに更年期の症状が出るには早いのだが、夫の事があまりにショックで精神のバランスを崩してしまったのではないか。

 そういうときに女性は生理が止まったり、一気に更年期に突入するという話はよく聞く。三十分もすると、薬の効果があったのか、孝子ちゃんは落ち着きを取り戻した。

「じゃあ、孝子ちゃんは離婚するつもりで、家出をしてきたの?」
 私はちょっと心配になって聞いた。

「ううん、お姉ちゃん、いくらあたしが馬鹿でも、いきなり家出したら路頭に迷うことくらいわかっています。ただ、どうしてもお姉ちゃんに教えて欲しかったのです。相談に乗ってください。あたし誰かちゃんと男の人とセックスがしたいのです。

そうすれば踏ん切りがつくと思うんです。こままセックスもしないで生涯を終わるのは嫌です。もう健二さんとは離婚する覚悟はできています。でも、大変だと思います、両親、兄弟、親戚が猛反対するでしょう。それを撥ね除ける力があたしには必要なんです」

 いきなりそんなことをいわれても、私だって平凡な主婦なんだから、そう簡単に紹介できる男の人がいるわけではない。

「お姉ちゃん、わかっています。誰か探してくれっていうんじゃありません。東京では男の人と出会えるバーとかクラブがあるって週刊誌でよみました、お姉ちゃん、一緒に行ってください。一緒に男の人を見つけに行って欲しいんです」

「そうか、ハプニング・バーのことね」

 そういうバーが今流行なのは、私も編集者から聞いて知っていた。しかし、おかっぱ頭の孝子ちゃんを連れて、そこに乗り込むのは勇気はちょっとない。孝子ちゃんの境遇にはたしかに同情するし、その気持ちも同じ女として痛いほどわかる。

「わかった。ちょっと時間をちょうだい。私も調べておくから。とにかく一度九州に帰って、私が電話するまで、待っていて。きっと連絡するから」

 なんとか孝子ちゃんを説得して、しばらくの猶予をもらった。だがそれにしても、なんとも困った課題を引き受けてしまったと、我ながらほとほと困り果てている。

 不倫相手と別れて

 不倫相手の妻が自分の教室の生徒に

 恵美子さんに会いたいと思いながら、なかなか機会がつれず、二ヶ月が過ぎてしまった。しかし、電話では、彼女の身の上に起きたある激変について聞いていた。そして、なるべく早く、ちゃんと相談に乗らなければいけないと焦っていた。

 ようやく先週、溜まっていた仕事を片付けて、彼女と西麻布の「キャンティ」に呼び出すことができた。

「あなただから、出てきたのよ。あたし、もう何週間も誰も会っていないの。他人に会うのがすごく面倒なのよ」

 恵美子さんは、さも疲れた様子で、椅子に座った。いつも私は、店に入って左の席を取ってもらうことにしている。そこは、なんだか落ち着くのだ。とくに今夜のように込み入った話がある時にはぴったりの場所だった。

 たしかに恵美子さんは痩せた。もともと太っている人ではないが、頬がげっそりとこけてしまった。彼女は私より二歳年上なので、そろそろ五十七歳になるはずだ。以前は気付かなかった深い皺が一本、くっきりと額に刻まれている。

「自分でも驚いているのよね。若い頃って、たとえ失恋しても、まあ四、五日とか食欲がないくらいで、何とかなったものよ。でも、この歳になると駄目ね。あなた、身体ってすごく正直よ。

島田と別れた後、頭では理解して納得して別れたのに、身体がそれを受け付けないの。食欲はないし、動悸はするし、目眩はするし、絶不調よ」

 恵美子さんは元気なく、テーブルクロスの上に目を落とす。
 彼女が二十年も付き合っていた恋人の島田さんと別れたことは電話で聞いて知っていた。その理由についても話してもらった。

 それは、なんとも不運な偶然が続いた結果、起きた。
 恵美子さんは、ある大学で教師をしている、彼女の専門を書くわけにはいかないが、仮に日本文学であり、源氏物語の権威だとしておこう。彼女は頼まれて、大学だけでなくカルチャー・センターでも講義をもっている。そこに来る生徒は社会人がほとんどだ。

 今年の三月にも、新しい女性向けの源氏物語の講座が始まったのだが、その教室に、なんと恋人の島田さんの奥さんが生徒として現れたのである。

 これはまったく予想外の事態だった。たまたま、島田さんの奥さんは学生時代から源氏物語に興味があって、いつかきちんと勉強したいと思っていた。そこで、子供たちが独立して暇になったので、恵美子さんが教えているカルチャー・センターに申し込んだというわけだ。

 まず、慌てたのは島田さんだった。奥さんから報告を受けてびっくり仰天した。そのときは、もう授業料も払い込んだ後だったのだか、恵美子さんに尋ねた。「もしも、君がどうしても嫌なら、うちのやつに、何か理由をつけて止めさせるけど」

 それに対して恵美子さんは答えた。「私は教師です。生徒さんの個人的な事情で拒否するのはプロのすることではありません。もし奥様が受講していただけるなら喜んで教えます」

 この言葉は彼女の本音だった。べつに今更、彼の妻と顔を合わせるのを避ける必要はないと思った。それに、あくまでも教師と生徒の関係ならば、割り切って対処できるつもりだった。

 便利だというだけの理由で自分と付き合っているのでは

 実際に島田さんの奥さんと会ってみると、いかにも優しそうで、可愛らしい女性だった。恵美子さんは反感も抱かなかった。ところが、奥さんは自分の友人と二人でクラスに参加していた。その友人の女性が、ある日、授業が終わった後に、恵美子さんをお茶に誘った。先生と生徒といっても、年齢は同じ五十代なので、打ち解けるのも早かった。

 奥さんの友人は喫茶店で、コーヒーを飲みながら、いかにも島田夫妻が仲が良いかを恵美子さんに喋り始めたのである。土曜日は必ず二人でテニスに行くし、ゴールデンウィークも海外に出る。ほんとうに理想的なご夫婦だという。恵美子さんはさあーっと血の気が引いていくのが自分でわかった。

 致命的だったのは、「島田さんのご主人は、かならず仕事場からも毎日一回はお家にお電話なさるんですって。もう結婚して三十年たつっていうのに、新婚みたいでしょ」という一言だった。

 恵美子さんにも、かれは毎日必ず電話をくれた。交際を始めて二十年たつが、初めの頃と変わらぬ調子で、電話をかけてくる。それを奥さんにしもしていたのだと知って、恵美子さんはショックをうけた。

 私はこの話を彼女から聞いたとき、心の中で呟いていた。
「いるのよねえ、そういう男って。つまりマメ男。奥さんともマメ、愛人ともマメ。そういうタイプっていちばん始末が悪い」
 しかし、もちろんそんなことは恵美子さんにはいえなかった。

 彼女は、あることに気づいたという。それは島田さんとの関係に対する認識だった。
 恵美子さんには相手の家庭など壊そうなどという気は毛頭なかった。初めから、所帯持ちだと知ったうえでの交際を始めた。だが、心のどこかでは、島田さんが、実は家庭においてあまり幸せでないのではないかと思っていた。

つまり、妻に満たされないものがあるからこそ、自分との関係をこれほど大切にしてくれているのだと、思い込んでいた。

 彼はマスコミ関係の仕事をしている。今、自分が関わっているプロジェクトについて、よく恵美子さんに話してくれていた。相談もする。恵美子さんは、理知的な人なので、彼女なりにしっかりした助言ができる。ただの愛人関係だけではなくて、彼の仕事の一端にも自分は役立っているという自負が恵美子さんにはあった。

知性も感性も同じレベルだから、たとえ歳を取って、老人になっても、二人はいい関係でいられるねと、いつも彼と話していた。

 しかし、もしも、島田さんが、自分の家庭に満足していて、妻をこよなく愛しているとしたら、自分の存在は一体何なのだろうと恵美子さん考えてしまった。

 今まで人生における最上のパートナーと思っていた人は、本当は、ただ便利だというだけの理由で自分と付き合っているのではないか。そうした疑心が彼女の胸に湧き起ったのである。

 といって、その気持ちをうまく相手に伝えられる自信がなかった。何も説明もしないで別れるのが一番だと彼女は結論をだして、一方的に別れの宣言をした。ともろが、その後に、ひどいうつ状態におちていって、自分を自分で持て余しているのが現状だった。

 妻ともセックスしていることが許せなかった

 私としては親友のそんな姿を、黙って見てはいられなかった。かといって、何か役に立てるとも思えなかったが、話をするだけでも恵美子さんの気持ちが軽くなるのではないかと思って、やや強引に食事に誘ったのだ。

 いつもなら大好きなキャンティのオードブルのワゴンが目の前に運ばれても、彼女は気のない視線を向けるだけだった。私が勝手に何種類かオーダーした。

「ねえ、恵美子さん、言いにくいんだけど、結局、あなたは彼の妻に嫉妬したってことじゃない?」
 私の質問に、彼女は素直にコクリと頷いた。

「そうなのよね。あたしにもプライドがあるから、彼には平気な振りをしていたけど、実はお正月とか、ゴールデンウィークとかって、すごく辛かったの。その間は会えないわけじゃない。いくら頭ではわかっていても、やっぱり空しかったわ。もちろん、対策は講じていたわよ。母や兄夫婦と旅行に行ったりして、なるべく一人にならないようにしていたわ。そんな状態ら、もう慣れちゃったと思っていたんだけどねえ」

 恵美子さんはため息をつく。彼女は一人でマンションに住んでいるのだが、すぐ近所に八十三歳のお母様とお兄さん夫婦の家がある。兄嫁との関係も良好で、姪や甥よくなついている。だから、恵美子さんは、その気になれば、いつでも実家を訪ねられるし、泊まったりもできる。老齢のお母さまを海外旅行にも連れ出している。

 しかし、島田さんは、国内はともかく海外に旅行したことはない。それはリスクが大き過ぎるからだろうと、彼女は諦めていた。

「不思議ね。気になりだすと、妙なことが気になるのよ。たとえば、島田はあたしとは海外に行かなかった。お誕生日やクリスマスにプレゼン交換もしなかった。あたしはしたかったんだけど、彼はまったく興味を示さなかったの。でも、よく考えるとそれってケチってことじゃない?」

 初めて恵美子さんが小さく笑った。彼女は経済的には自立している。島田さんと同じくらいの年収があるだろう。それでも何かプレゼントを買って欲しいと思うのは女心だ。しかし、島田さんにしてみれば、一方では家庭を維持しながら、定期的に恵美子さんと会って、食事をしてホテルに行く。その出費だけでも大変だということは想像できる。

「あたしね、島田にごちゃごちゃいって修羅場を演じて別れるのは嫌だったの。といって、今の生活から彼が完全に消えてしまうのも、ちょっと怖かったの。だって二十年という歳月はあるわけだから、彼は私の生活の一部になっていたでしょ。

だから、初めは、島田といい友人になれないかなっていう風に考えたのよ。あるじゃない、昔は男女の仲だったけど、年月に洗い流されて、今はすっきりといい友人になっている男と女って。そんな関係を夢見たの」

 なるほど、それは大人の女の考えかも知れないと私は思った。若い頃は、恋愛が終われば、男とはもう会わなくなった。きっぱりと縁を切る。そういうものだった。しかし、五十代ともなると、何も相手を全否定しなくてもいい気がしてくる。恋愛は終わっても、友情が続くのなら、それはそれで素敵な関係だ。

 ところが、島田さんは、恵美子さんの提案に猛烈に反発したのだという。
「いったい何が理由なのか言ってくれって、いうのね。だけど、こっちは、あなたが妻と仲が良いのが不満ですなんて言えないじゃない。第一、そんなことは言う方が理不尽よね。あたしだってわかっているわ。でも、島田が妻ともセックスしていることが許せなかったのよ」

 恵美子さんは、彼の妻を見たとき直感的にわかったのだという。この人は、まだ夫とセックスしていると。

「あたし、ほんとうに自分が馬鹿だと思ったわ。島田はあたしとだってあれだけ真面目にセックスをするんだもの、自分の奥さんとしないわけないわよね。でも、その一点だけはあたしはどうしても譲れなかったの。だけど露骨にそんなこといえないから、もう付き合いが長くなって、あたしとは友だちみたいな気持ちにしかなれなくなったって説明したの。彼は驚いたみたいで、僕はまだ恵美子と会うたびにドキドキするよって答えてくれたわ」

「もう一生セックスできないのかなあ」

 そりゃあ島田さんにしてみれば唐突な別れ話だったろう。そのとき、彼は恵美子さんからもっと話を聞こうとせず、不快感を露わにした。簡単にいうと怒ってしまったのである。
「僕は嫌だよっていうの。別れて友人になるなんて、絶対に嫌だ。それならばもう関係を終わりにするしかないねって、最後は切り口上だったわ」

なんとも気まずい感じで、二人は別れたのだが、恵美子さんは、自宅に帰ってから、彼にメールを出した。「長い間、本当にありがとうございました。あなたから多くの事を学んだし、密度の濃い時間も頂きました。いつか気が向いたら友人としてお電話ください。お待ちしています」というのが、その内容だった。

「それで、どうした?」と私が聞くと、恵美子さんは静かに頭を横に振った。
「もう二ヶ月たつけど、電話は掛かってこないわ。電話が鳴るたびに、今でも彼かなって思うの。でも違うのね」

「そんなに未練があるなら、縒りを戻したらいいじゃない?」
「駄目よ。あの苦しい思いは二度としたくないわ。かれの奥さんの顔を思い出すと心臓がきゅーって苦しくなるのよ。島田とは、もう前のようにはセックスもできないと思うわ」

 どうにも出口のない迷路に入り込んだようなものだ。恵美子さんは、まだ島田さんを愛している。といって壊れた関係はもう修復できない。島田さんのいない生活を恵美子さんは受け入れられないでもがいている。

「あたしねえ、ふっと考えるのよ。島田との仲が終わって、もう一生、セックスはできないのかなあって。恥ずかしい話だけど、この頃セックスの夢ばかり見るのよ。相手は島田だったり、昔のボーイフレンドだったりするんだけど、あたし欲求不満なのかしら。この歳で、そんなことってあるかしらねえ。不思議よね」

 不思議でもなんでもない私は思った。セックスの欲求があるのは当たり前だ。とくに恵美子さんの場合は、彼の妻さえ目の前に出現しなかったら、非常にうまく行っていたのだ。セックスにもなんの問題もなかったのだから、それが急になくなったら、彼女が喪失感に苦しむのは当然だ。

「ねえ、恵美子さん、結婚しなさいよ。不倫はやっぱり不毛よ。負のエネルギーの放出よ。いい人を見つけて結婚することが一番の解決策じゃないかなあ」

 私はできるだけ元気な声でいった。どこかで気持ちを切り替えてないと、恵美子さんの神経が絶えられなくなるのが心配だった。

「そうか、結婚ねえ、とにかく、もう不倫はこりごりだからね」と、ようやく弱い微笑みを浮かべて、彼女はフォアグラをフォークで口に運んだ。

 絶対にいい男をみつけて紹介するからと約束して、その晩は彼女と別れた。
 先にタクシーに乗った恵美子さんを見送ってから、西麻布の交差点に立って、私は、はっとした。実は島田さんは全部わかっているのではないだろうか。その上で、友人としての関係を続けるのは、あまりにも恵美子さんに対して申し訳ないと思い。怒ったふりをした。それが彼にできる精一杯の男の誠意だったのかもしれない。深読みかもしれないが、そんな気がしたのだった。

 ハプニング・バー

 五十代とおぼしき女性が着物姿で来店する

「そうですねえ、五十代の女性も、けっこう来ていますよ」
 小沢さんが、明るい声でいう。彼は某大手新聞社の記者で、今三十九歳だ。
 たまたま彼が取材で、私の事務所に現れたのは、九州から親戚の孝子ちゃんが来て、私に誰か男を紹介してくれと頼んだ直後だった。

 孝子ちゃんについては、以前書いたので重複は避けたいが、簡単に記すと、地方都市に住む四十五歳の人妻で、つい最近、夫が同性愛者であることが発覚した。

 それで夫と別れて新しい人生をやり直したいのだが、ついては、思い切って他の男の人とセックスがしてみたい。そうすることでふんぎりをつけたいと考えている。

 東京で見知らぬ男女が出会ってセックスをするバーがあると聞いているから、そこに連れていってくれないかと、私は彼女から真剣に懇願されたのである。

 それが今流行のハプニング・バーを指すことは、容易に察しがついた。しかし、事務所と自宅と毎日往復するだけで、普通のバーにすらめったに足を運ぶ機会がない私には、そういう種類の場所に関する知識がない。どうしたものかと考えあぐねていたら、新聞社の社会部に籍を置く、小沢さんが私の事務所に来た。それで思い切ってハプニング・バーについて尋ねてみたのである。

「いやあ、実は僕もつい最近、行ってみたばかりなんですが、凄い所ですよ」と答えて、最初は笑っている。

「そういうところって、若い人が行くんでしょう?」と訊くと、先ほどの答えが返ってきたのだ。明らかに五十代とおぼしき女性が着物姿で来店したりするらしい。

「しかし、やっぱり特殊な雰囲気の場所ではありますねえ」と、小沢さんは、何かを思い出すような顔になった。

「つまり、ちょっと危険なところですか?」
 もしも、あまりに過激な場所だとしたら、とても孝子ちゃんを連れてはいけない。しかし、彼女の話は小沢さんにはしなかった。だから小沢さんは、なぜ私がハプニング・バーに興味を持つか分からなかっただろう。もしかして、私が行きたがっていると思ったかもしれない。それも困るのだが、この際、孝子ちゃんのためだから仕方ないと覚悟を決めて質問したのだ。

「ボーダーライン・ケースですね」という答えが返ってきた。それから小沢さんは深呼吸を一つして、説明を始めた。

 とにかく自由なので”風俗”とは違う
 私がものすごく真剣な顔をしているので、適当に受け流すわけにはいかないと悟ったようだ。きちんとこちらを向いて、私の眼を見て喋り始めた。

 まず、初めは彼も怖かったそうだ。噂では聞いているが、いわゆるぼったくりのバーだったりしたら御免だ。そこで開店してすぐの午後に行った。お客は彼以外にいなかったので、店長と普通に世間話などして、その日は帰った。店長は寝不足気味の顔をした青年で、あまり水商売っぽい崩れた感じはしなかった。アルバイトとの青年もボート部所属だという筋肉の逞しいスポーツマン・タイプの学生だった。

 そこは赤坂にある会員制のハプニング・バーで、入会金に一万円、ドリンクに七千円という料金を取られる。けっこういい値段だと思ったら、高いのは、男性一人で行った場合で、女性はほとんど無料に近いそうだ。

 さて、それほど危ない場所とも思えなかったので、小沢さんは、一週間後に今度は同じ店の夜の部に繰り出した。これは午後八時からである。

 すでに三、四人の先客があった。全員男だ。座って飲み始めていると、店内の奥にあるシャワールームから男女の囁くような声が聞こえてきたそうだ。カウンター席の男性客はみんな耳を澄ませている。やがてシャワーから出てきたカップルは、男性の方が五十代の「ハゲチャビンに銀縁眼鏡のおやじ」であり、女性は三十代後半に見えた。長い髪を後ろに束ねている。彼女は店内の壁にかかっているコスチュームの中からチャイナドレスを選んで着ていた。

 おかしいのは男性客の姿で、人間ドックのときに着せられる、短いガウンのようなものを羽織っている。これはどうやらシャワーを浴びた客の男はみんな着せられるらしい。

 二人は薄暗い店の奥でコーナーに行く。そこにはカーテンで仕切られていた。中に入ったと思ったら、女性の喘ぎ声が漏れてきた。他の客がカーテンの隙間から覗き見をしている。小沢さんも誘われて覗き込んだら、先ほどの二人がソファーの上で、一糸纏わぬ格好で絡み合っていた。

「いやだ、小沢さん、それを覗いていたの?」私は思わず、大きな声で聞いてしまった。
「工藤さん、そんなことくらいで驚かないでくださいよ。続きがあるんですから」

 少しも慌てず、小沢さんが滑らかに話しだした。
「そのハゲチャビンがですね、自分がセックスが終わると、見ている僕らに向かっておいでおいでって手招きをするんですよ。で、隣にいたサラ―リマン風の男が急いでシャワーを浴びて、傍に行くと、ハイってハゲチャビンがコンドームを渡したんです。やりなさいってことでしょ。それで、実際、三人くらいが参加しましたかねえ。そうですよ、女性一人に男三人かな。

いや、僕はりませんでした。本当ですよ。だって人に見られているのって嫌じゃないですか。もっぱら見ていただけです。でも、あれって妙なものですけどね」

 ふーむ、と私は返答に詰まった。それはかなり異常な世界ではないか。
 小沢さんは、私が知る限り、きわめて常識的な紳士だ。いわゆる癒し系というのだろうか。穏やかで、優しい雰囲気の人である。夫にしたいタイプの男性ともいえる。その小沢さんの口から、まるで異次元の世界が語られている。

「僕は別にハプニング・バーを過剰に評価しているわけではありませんが、来ているのはごく普通のサラリーマンやOLとか主婦などですね。セックスしたくなかったらしなくてもいいんですよ。飲むだけで帰る方もいます。ただ、見られて喜びを感じる人は平気でやっていますね。

おかしいのは、終わった後です。何人もの男性とプレィをしたその女性が帰るときはごく地味なスーツで、そのへんにいるOLさんと変わらない姿になって、すっきりとした顔をして帰っていたんです。僕は商売柄、興味があったので、店長と少し話してみたんですけど、四十代や五十代の平凡な主婦らしき女性も出入りしているとのことです。とにかく自由なんです。

複数とするのが嫌なら断ればいいし。だから”風俗”とは違います。”風俗”は必ず商売の女性がいるわけですが、ハプニング・バーは女性客がまったくいない事だってあり得るし、いてもセックスをしないで飲むだけのケースもある。また、夫婦で来ているカップルもいるそうです。ただ、普通のバーと違うことは間違いないですけどね」

 こうした場所では、当然ながら病気がうつることを極度に警戒する。だから、セックスをする前は必ずシャワーを浴びるし、うがい薬やハンドソープも完備している。もちろん、コンドームは必需品だ。

 それにしても。更年期世代の女性たちがハプニング・バーに出入りしているという情報は、私にとってはショックだった。こんなことをいうと当たり前だと笑われるかもしれないが、女性はたとえ五十代になっても性欲があるという一つの証明ではないだろうか。

 年上の女性は甘えられるし、恥じらいが愛おしい

 小沢さんが、ハプニング・バーへ行ったのは、あくまでも好奇心からだったという。最近雑誌やネットに取り上げられているので、どんなところか自分の眼で見て確かめたかったのだそうだ。

昨年の三月には有名なAV男優がハプニング・バーで逮捕された。公然わいせつ罪だった。そう聞くと、やはり法的にはすれすれのところで営業している店も中にはあるのだろうと想像できる。

「ところでさ、小沢さんは、もし五十代の女性と、たとえばハプニング・バーで出会ったとした場合、その人をセックスの対象として見られると思う?」

 私は彼に少々意地悪な質問をぶつけてみた。これは個人的な印象だが、五十代のおばさんがハプニング・バーに現れて、ヌードになったとしても男性が困るだけではないかと思うからだ。

 ところが、小沢さんは顔色も変えずに平然と答えた。

「もちろん、大丈夫ですよ。僕は相手が六十歳くらいでも、ちゃんとできると思います。ただし、ハプニング・バーでは駄目でしょうね。そうではなく別の場所で出会うならいいですよ」

 決然たる口調だった。これは嘘ではないと思った。私は日本の男というのは、とかく若い女ばかり追いかけていて、熟女の女性を馬鹿にする傾向があると、いつも苦々しく感じていた。
 しかし、どうやらそんな男性ばかりではないらしい。

「工藤さんだから話しますけどね、僕三十五歳のときに十歳年上の女性と深い仲になったことがありました。彼女は大学生の娘がいるっていていましたよ。でも、すごくいいつき合いができました」
 
 小沢さんは、もちろん結婚している。妻は年下だ。だが、彼は年上の女性に対しても「そそられる」ことがけっこうあるという。
「その心理って何なの?」

 私は何となく友達口調で尋ねてしまった。実は私の友人でも、もう五十歳を過ぎていて三十代のボーイフレンドがいるとことを自慢する女性が何人かいる。私自身は、年下の男性には、いつも引け目を感じて駄目なのだ。自分の容姿に自信がないせいもあるのだが、年下と聞いただけで、もう自動的に恋愛の対象のリストから外してしまってきた。これは二十代の時からそうだった。

 だから、果敢に年下の男性とセックスができる女性が不思議で仕方ないのだが。それよりももっと不思議なのは、年上の女性でも大丈夫という男の人たちだ。

 小沢さんは、がっちりした体格で、いかにも健康的な優しい中年男性だから、いくらでも若いガールフレンドができそうだ。

「だってさあ小沢さん、本当のこといってさ、五十代の女性って、なんかこうオッパイだって垂れてくるし、お腹はぽっこり出てくるし、お尻は垂れている。そういうのって、あなた気にならないものなの?」

「いや、それがいいんですよ。年上の女性って、自分の身体を隠そうとするじゃないですか。見せたがらないでしょ。衰えていることを知っているんですから、それを一枚ずつ?がして視るのが快感なんです。年上の女性には安心して意地悪なことができます。

なんていうか、意地悪をしても許してくれるでしょ。僕は年下なんだから。その関係が心地よいといったらいいのかなあ。やっぱり甘えられるし、相手の恥じらいが愛おしく感じられるんです」

 どうも難しい話になってきた。私は年下の男の人との距離の取り方が下手なのかもしれない。相手を甘えさせてあげる技術というものもあるのだろうか。

「だって工藤さん、考えても見てください。たとえば女優の十朱幸代さんなんて、多分六十歳を過ぎていると思いますよ、でもいいじゃないですか。彼女なら、いつでもそうなりたいですね。だから年齢ではないですよ。逆に若い女の子とは、全然話が弾まないんですよ。つまんないですよ。反応が返ってこないでしょ。年上でも魅力的な女性はたくさんいます」

 なるほど、小沢さんのような男性がいるから、更年期世代の女性たちも、まだまだ輝いていられるわけだ。

「もしよかったら、今度、工藤さんをハプニング・バーに連れて行ってあげますよ。早い時間に行けば、怖いことはないですよ」

 小沢さんは親切に申し出てくれたが、小心者の私には、とてもそのような場所に乗り込む勇気はない。どうやら孝子ちゃんを連れて行けるところでもないみたいだ。

 そうだ、もしかして、小沢さんに孝子ちゃんの相手を頼んでみたらどうだろう。彼は優しいし、年上の女性が好きといっていたから、もしかして引き受けてくれるかもしれない。でも、その前に、まず、孝子ちゃんと連絡を取って見なきゃなあと、私は一人で頭の中で目まぐるしく考えていた。

 そんなことはちっとも知らない小沢さんは、「じゃあ、どうもお邪魔しました」といつものように爽やかな笑顔を浮かべて帰って行った。

「高校時代の先輩と結ばれちゃいました」

 私は抱えていた仕事が一段落したところで、九州の孝子ちゃんの携帯に電話を入れた。自宅に帰った彼女がその後どうしているか心配だったのである。もしも上京してくるならスケージュールも教えてほしかった。

「お姉ちゃん、この前は心配かけてごめんなさい。すぐにこちらから電話を掛け直します」といってそそくさと孝子ちゃんは電話を切ったと思ったら、十五分ほどしたところで、向こうから折り返し電話がかかってきた。

「連絡しないですみません。今、実家にいます。やっぱり離婚することが決まりました。なんとか向こうも承知してくれそうです。あの件もありますから、もし離婚してくれないのならあのことをみんなに話すって脅かしたんです」

 あの件とは、夫が同性愛者だということだろう。それにしても孝子ちゃんの声が明るい。

「ねえねえ、お姉ちゃん、あたしやりました。あれやったんです。高校時代の先輩で好きだった人がいて、その人に会ったら、彼もあたしのことずっと好きだったっていてくれて。だから結ばれちゃいました」

 なんとあっけらかんとした孝子ちゃんの口調だ。
「そう。じゃ、よかったわ。でもくれぐれも離婚が成立するまでは自重してよ」

 私は何度も念を押して、電話を切った。やれやれ、こっちはひどく心配して、ハプニング・バーのことまで調べてあげたというのに、孝子ちゃんのほうはケロリとしている。まあ幸せになってくれるのならいいけれど、心配して損をした。

 名も知らない小沢さんの顔が脳裏に浮かんで、なんだかおかしくなった。

 結婚相談所

 初めから、”保険”がかけられているようなもの

 この連載を始めてからである。よく結婚というものについて考える。
 あれは、私がまだカナダで暮らしていた頃だから二十年以上も昔のことだ。大学院で社会学を専攻していたカナダ人の友人、ジャニスにいわれたことがある。

「ミヨコ、日本にはお見合いという素晴らしい制度があるらしいけど、それってすごく羨ましいわ」
 彼女はどちらかというと、当時流行だったウーマンリブを地でいようなタイプだったので、その言葉は意外だった。

「どうして?」と尋ねると、面白い答えが返ってきた。
「だって、お見合いっていうのは、恋愛ではないでしょ。まず条件が先にきて、それをクリアーされてから、初めてお見合い相手に会うのだと聞いているわ。会ってみて、気に入ったらデートをする。つまり初めから、保険が掛けられているようなものじゃない? 

 たとえば北米の場合は、パーティーなんかで男の人に出会ったとしても、その人のバックグランドがよくわからないケースがほとんどよ。すごく好感を持っていても、実はとんでもない人だっていう話はたくさんあるわ。私の友達が最近離婚したんだけど、彼女の旦那は一見優しそうに見えて、実は賭け事にのめり込んでいたの。すごい借金があったんですって。それを知らないで彼女は結婚しちゃった。それで慌てて逃げ出したの。そういうのって悲惨でしょ。

 その点、日本のお見合いはすべての調査がなされているんだから安心だわ。結婚って人間にとっては、大きな決断ですもの。あらかじめ保険が掛けられているシステムは非常に賢いと思う」

 あんまり褒められるので、私もちょこっとこそばゆい気もした。実は、私自身は一度もお見合いというものを経験したことがない。若い頃に一度くらいはしておけばよかったかと残念に思うのだが、チャンスがなかった。

 最近になって更年期世代の女性たちに取材を重ねているうちに、気づいたことがある。それは、お見合いというのも、人生の後半の生き方を決める選択肢の一つとして、悪くはないかという考えである。

 たとえば、私の親友の恵美子さんは不倫をしていた恋人と別れて、喪失感に苦しんでいる。だからといって、すぐに新しいパートナーをみつけるのは至難の業だ。若い頃のように簡単には恋愛に飛び込めない。

 そんな彼女にぴったりの独身男性を、もし私が知っていたら、ぜひ紹介してあげたい。男性だって、妻と死別したり、離婚したりして人生の伴走者を探している人はきっといるはずだ。

 しかし、私の交際範囲などはたかが知れている。うまい具合にフリーでいる熟年の男性を見つけられる自信は正直いってない。そんな時に思いついたのが、日本にある結婚相談所の存在だ。

 私は新聞の広告などよく見る、中高年のための結婚相談所である茜会に取材を申し込んでみた。とくに、恵美子さんのお相手を探すという意味ではなくて、日本における更年期世代の女性たちのお見合い結婚の実態を知りたかったからだ。幸い広報部の方が快諾して下さって、新宿にある茜会の本部を訪ねた。

 その人と腕を組めるかかが重要な決め手
 応対してくださったのは、カウンセラーの西村美恵子さんという女性だった。私と同年輩の五十代半ばくらいではなかとお見受けした。

 テキパキとした口調ながら温かみもあって、安心して相談ができると感じた。
「そうですね、うちに登録されている方は若い方だと三十代から、上は八十五歳の方もいらっしゃいます」

 西村さんが、この仕事を始めて七、八年たつが、以前に比べて高齢者の加入が増えている。そうした人たちが「皆さんお若くなっていますよ」という。

 たしかに高齢社会なり人間の寿命も延びている。人生わずか五十年といわれた時代には、更年期世代を迎えたら、女性は死んでしまったわけだ。ところが今では更年期以降、三十年も生きながられる。だから生活や性のパートナーを求めても不思議ではない。

 西村さんの話によると、どうやら六十歳というのが、一種のターニングポイントであるらしい。私もそうだが、現在、いわゆる団塊の世代がそろそろ六十代を迎えつつある。それに付随してさまざまな問題が起きている。

 まず、もはや子供が親の老後をみる時代は終わった。親は自分でどういう晩年を迎えるかを考えなければならない。そのときに、夫の定年を機として離婚を決意する妻が増えてきている。つまり女性たちは老後のために耐え忍ぶのをやめたのである。

 といって、まったく一人で生きていくことは不安だ。そういう人たちがもう一度結婚したいと、相談所を訪ねる。
「女性の方が前向きですね。たとえばご主人が亡くなったとします。もちろん悲しいですよ。でも、まあ仕方ないと思って、すべていい思い出だったと、心の中で決着をつけます。
だからここの相談所にみえるとき、亡くなったご主人の写真を持ってくる人は一人もいらっしゃいません。

 ところが、男性の場合はけっこう亡くなった奥様の写真を持て来るんです。男性の方が後ろ向きのというか過去に生きているんですね、一例としては、うちでお見合いのパーティーを開催するときでも、女性は積極的に申し込みをなさいます。それなのに男性は、いきたいけどどうしようかなって迷う方が多いんですよ」

 たしかに私も最近、五十代の知人でご主人を亡くされた女性と話をしたとき、意外に彼女があっけからんとしているのに、びっくりした覚えがある。とても仲の良いご夫婦だったので、さぞや落ち込んでおられると思ったのだが、死んでしまったものは仕方がないから、それからは自分の好きなように生きるわと、彼女ははっきりとした口調でいった。

 同じ頃、六十代で奥様をやはり亡くされた男性がいた。一ヶ月後に電話したら、いきなり電話口でその人が号泣する。「うちのが死んじゃって、私はどうしたらいいかわからないんですよ」と絞り出すような声でおっしゃった。私は慰める言葉に詰まってしまった。そのときにつくづくと、女性は強いと思い、男とはか弱いものだと感じた。

 さて、中年男の再婚であってもセックスが重大な要素であることは、若い人と同じだ。中には、「茶飲み友達でいい」という人もいるが、ほとんどは、肉体的な問題も念頭に置いている。

 ここで西村さんは、うまい表現をした。
「結局、ご結婚するわけですからね、その方と腕を組めるかどうかが大切なんです」
 なるほど、自然にすんなり腕を組めなかったら、共同生活は始められない。
 これは私の同世代の友人から聞いた話だが、彼女は四十代のとき離婚している。それを決心したのは、ある朝、ご主人の歯ブラシを見た時だった。「汚い」と思ってぞっとしたそうだ。生理的にご主人を受け付けなくなっていたのだ。だから離婚したのだと聞いたときは、ああ歯ブラシ一本が離婚の理由になるのかと感心したものだ。
 
 腕を組めるかどうかも結局のところ同じ理論だろう。

 男性は「若くてきれいな人」、女性は「安定した経済状態」

 それでは茜会には入会する更年期世代の女性は、どんな理由で結婚を望んで入のだろう。大きく分けると二種類の女性がいる。

 まず、精神的にも肉体的にも、もう一度輝きたいと願うケースがある。肉体的な安定は多くの場合心の安定につながる。結婚生活を始めた結果、更年期障害がなくなった人もいる。

「それから、これは女性とは限りませんが、男女間について不完全燃焼だった人もおられますね。結婚生活の途中で伴侶を失って、完全燃焼できなかった方たちです。そういう方たちは六十歳からでも第二の人生を始めて、失ったものの埋め合わせをしたいとお考えになります」

 これも、まったく納得できる説明である。若い時に、ろくに恋愛もしないまま結婚してしまい、しかもその相手と別れたとしたら、自分の青春を取り戻したいと考えるのは当たり前だろう。もしも結婚相談所で、そのチャンスを得られるのならと期待する熟年層の気持ちはよく理解できる。

 ほかには生活の安定を求めて、結婚を考える女性もいる。経済的に自立していない場合は、財力のある男性を確保しようと考える。これはいたって現実的な思考だが、ある意味ではギヴ・アンド・ティクだろう。経済力もあって、主婦を必要としている男性もたくさんいるわけだから、お互いのニーズが合致すれば、それでも良いともいえる。

 それでは具体的には、パートナーを探す場合、どんな条件が提示されるのだろうか。
 西村さんによると、「年収」「年齢」「居住地」などが挙げられる。
 もちろん、それだけでは、なかなか見合いまではこぎつけない。そりほかに家庭状況、つまり子供はいるのか両親は健在かといったこと、あるいは家が持ち家か借家かといった点、初婚か再婚か、再婚の場合は死別か離婚かという問題、それに趣味なども検討の対象になる。

 セックスの能力に関しては、女性はあまり心配しないそうだ。七十代の会員の方でも相手の男性が望むなら「それはそれで、しかりね」とおっしゃる。つまり何歳になっても女性はセックスができる。ところが男性はそうはいかない。

 西村さんがお世話した会員の方で、七十代で伴侶をみつけた男性がいた。とても素敵に紳士だという。ところが一年ほどで離婚してしまった。奥様のほうに事情を聞くと、いろいろと「ボタンの掛け違い」があったそうだが、その一つに男性のバイアグラの服用があった。

 新しい結婚生活をスタートさせるしなれば、当然、男性は張り切って、性的にも妻を満足させようとする。ちなみに女性は六十代後半だった。ところがバイアグラを常用するうち、男性の性格が変わってしまった。何だが違う人のようになった。それで別離を迎えた。

凄いのは、女性の方が、すぐまた茜会の会員になり、西村さんに、ほかに良い人を紹介して欲しいと言ってきたことだ。あくまでも前向きなのである。

「うちの会ではストーカーとかって、全くないんですよ」と西村さんは笑う。なぜなら、入会時に身元を確認できる書類を提出しているので、変なことはできない。また、たとえ紹介されて見合いをした人と上手くいかなかくても、また次の人を紹介してもらえるという安心感がある。だから相手が嫌だといった場合は固執しないのである。

 これぞ、昔のカナダ人の友人が言っていた「保険」ではないか。割り切って申し込んでいる会員ばかりだから、人間関係が妙こじれたりはしないのだろう。

「だたいの男の方は一歳でも若くてきれいな人を求められますね、女性の方は相手の年収とか持ち家を気にします。でも、それは当然でしょう。恋愛ではなく結婚ですからねえ。だって、今まで六畳間に住んでいたのが八畳間に移るのは簡単ですよ。でも、六畳から四畳半に詰め込められるのは、これは辛いですよ」

 西村さんのたとえは、きわめてわかりやすい。人間は自分の生活レベルを上げるのは容易だが下げるのは難しい。まして一定の年齢になっていたら、レベルを下げてまで結婚しなくてもいいという気になる。恋愛なら手鍋を下げてもということもあるが、見合いはその点がはっきりしている。

 一方、男性は女性に対して、まず女性に対して、まず女性らしくいてくれることを求め、そのうえで食事の支度、洗濯、掃除ができてくれれば最高と思うらしい。逆にそういった家事が全部自分で出来てしまう男性は結婚を急がない。何とかなってしまうからだ。

 会費を払う方が義理に縛られる心配がな 

 かつて、西村さんがお世話をしたカップルで、男性が七十歳、女性が四十七歳というケースがあった。その男性はある企業の経営者で、経済的には裕福だった。入会のときの条件が五十歳以下の女性を探して欲しいということだった。かなり厳しい条件である。初めは断ろうと思ったが、話をしているとなかなか魅力的で、この人ならお世話できるかも知れないと西村さんは考えた。

四十七歳の女性は男性の年齢を聞いて当初は難色を示したが、西村さんがとにかく、会ってみるだけでいいからと勧めた。実際に会ってみると話題は豊富だしマナーは洗練されているし、女性も心を動かされた。もちろん、男性は若くて美しい彼女にすっかり気に入った。

 男性の息子たちも紹介され、一緒に食事もした。それでも迷う彼女はぽつりと洩らした。
「結局、条件だけで判断せず、寝てみなきゃわからないですよね」。その言葉を聞いて、西村さんはほっとしたという。彼女の方から言い出してくれたのなら、話は進めやすい。

「今度はあなたが、彼を旅行にお誘いする番ですよと申し上げました。だって、こういうことはお互いに歩み寄って決まっていくんですから」

 私は西村さんのプロとしての能力に感心してしまった。なんと的確なアドバイスをしてあげたことだろう。結婚までの段取りは、なかなか当の本人には分からないものだ。西村さんのようなプロが背後に控えていて相談に乗ってくれると、会員はいたって心強いだろう。

 茜会のような結婚相談所はたしかに商売として運営されている。そこに自分の人生を委ねられるのはどんなものだろうかと私は思っていたのだが、かえってビジネスと割り切っているほうが、お世話になる側も気が楽かもしれない。

なまじ知っている人に仲人をしてもらうと断るのに体裁が悪かったり、御礼などいろいろ心配しなければならない。それだったら会費を払う方が、義理に縛られる心配がない。ただし結婚相談所は、個人によって向き、不向きもあるのはたしかだ。

 とにかく、高齢化が進む現代社会で充実した老後を過ごしたいと考える世代は確実に増えている。そうした人たちの背中をちょっと押して、新生活を始める応援をするのが私たちの仕事なのですよ、と西村さんはにこやかに微笑んだのだった。
 つづく第八章 相手の過去を背負う
 夫がセックスをしている間週刊誌を読んでいる妻