妻と恋人
――おぼれる男たちの物語 亀山早苗
第一章 彼女と妻と、選べない苦しみ
出世はしたけれど
「四十にして惑わず」は、今になっては通用しない言葉だろう。周りを見渡しても、男も女も、むしろ四十歳を境に惑い始めるほうが多いような気さえする。特に男性の場合、四十歳という年齢は、最初に「老い」を意識し始めるころ。
「疲れが取れにくい」「性欲が衰えたような気がする」という愚痴はよく聞く。さらに社会的にも、そうそうと諦めた人は別として、順調にきたケースならこの先。さらに出世の道があるのかないのか、不安を感じる年齢でもある。
「どうして恋に落ちてしまったのか、今なってはよく解らないんです」
川瀬裕敏さん(四十四歳)は、重い口をようやく開いてくれた。職場結婚して十六年、高校生の息子と中学生の娘がいる。二歳年下の妻は、昼間だけパートに出ている。どこにでもいる家族、どこにでもある家庭。
それが何よりの幸せと思っていた。会社人間、仕事人間ではあるが、特に子供が小さいときには、なるべく家族と過ごす時間も取ってきた。
「まったく浮気をしなかったと言えば嘘になる。だけど、何回か会っているうちに自然消滅していくという感じだった。自然消滅というか、『つきあっている』という雰囲気にもっていかなかったと言うほうが正しいかもしれません。
家庭がある限り、泥沼の恋愛なんて避けたかった。だけどちょっと恋する気分も味わってみたかった。その程度のつきあいですね」
相手も、飲み屋で知り会ったり、異業種交流会で気が合ったりした女性。部下も含め、仕事関係者は避けた。
裕敏さんは、四十歳を目前に課長に昇進した。同期の中でも出世は早いほうだ。妻も喜んでくれた。あまり父親と会話をしなくなった娘も、「すごいね」と目を輝かせた。何もかもうまくいっているはずだった。それなのに、裕敏さんは心の中で、冷たい風が吹き抜けるような気分を覚えていた。
「日常生活はそこそこうまくいっている。だけど、オレはこのまま男として終わってしまうのか、と。はっきり意識したわけじゃないんですが、会社でも家庭でも、自分の居場所が固定化してしまったような不安というかな。そういう感じありました。
だからといって、浮気したいとか恋をしたいなんて思ったわけじゃなかったんですが、昇進したことで少し不安定な気分になっていましたね」
ちょうどそのころ、裕敏さんの課に異動してきた女性がいた。三十二歳、独身。帰国女子で仕事はできるが、協調性がないという噂のある香代さんだ。
「独立心が強いのなら、どんどん仕事をさせればいい。協調性なんていうものは後からついてくると思った。僕は彼女にいろいろな仕事をさせました。
営業だから、朝から晩まで外回りさせたこともある。彼女は音を上げることなく、食らいついてきましたね。同世代の中では、男よりずっと仕事ができた」
企画と商品開発、営業が組んで、大きなプロジェクトを立ち上げたときも、彼は迷わず香代さんをメンバーに加えた。
準備も含めて二年がかりのプロジェクトが成功裡に終わったとき、彼の仕事上の立場は確立されたともいえる。香代さんも、他の仲間から素直に受け入れられるようになっていた。
「打ち上げパーティーのとき、彼女が僕に向かって深々と頭を下げ、『課長のおかげで、仕事がどういうものかよく解りました』と言ったんですよ。
彼女の目に光るものがあった。ドライだの自己チューだのと言われてきた彼女だったけど、その姿にはとてもすがすがしかった。僕も彼女の成長ぶりに、ぐっと来ました。会社も彼女の功績を認めて、今では営業部の中のチームリーダーで」
実は裕敏さん、彼女の目に光るものを見たとき、初めて彼女を女として意識したという。淡い感覚だったが、今から思い返せば、あの時点が「男女」としての原点だった、と。
その後、彼は香代さんから「個人的なことで」と相談をもちかけられる。初めてふたりきりで食事に行った。香代さんの相談は、つきあっている恋人との結婚を迷っているということだった。
「『結婚したら、彼は仕事を辞めろと言っている。だけど自分は辞めたくない。子供も欲しいけれど、自分の価値観を押し付けてる彼と、果たして幸せになれるのかどうかわからない』と言うんです。
僕がどうこうは言えない問題だけれど、うちの会社なら産休や育児制度も整ってはいる。自分次第だからよく考えなさいとアドバイスしました。
こちらとしては辞められたくないから、『今どき、結婚したら仕事を辞めろって言う男はどうかな』なんて言ったような気がします」
それからも香代さんは、元気に仕事に取り組んでいた。一ヶ月後、再びふたりで食事へ。彼女はまだ迷っていた。四年付き合っていた相手だから、そう簡単に答えは出ないと、裕敏さんの前で憔悴したような表情を見せた。
「そのままもう一軒、飲みに行って、店を出たら、彼女が急にしなだれてきたんです。顎に手をかけて顔を上げさせ、キスしたら舌を入れてきた。そうなったら自分を止められなかった。すぐ近くにあるラブホテルのネオンが見えたので、抱き寄せるようにして歩いて入っていました」
彼女は部屋に入っても黙ったままだった。彼は考える時間を与えないよう後ろから優しく抱きしめる。髪からシャンプーの香りが密かに流れ、彼の下半身は痛いほど熱くなっていた。
「四十歳を過ぎてから、妻との間もけっこう疎遠になっていましたね。二ヶ月に一回の割合だったかなあ。気づくとそのくらいの時間が経っているという感じで。でも妻とは仲も悪くないし、長年、夫婦として生活していれば、そんなもんだろうとお互いに思っている節がありました。もうそれほど、性欲がかき立てられるような状況はなかったし。
ただ、彼女とのときは別でした。まるで二十代のころのように硬くて熱くいきり立っていた。彼女も僕のそんな思いに応えてくれたんです」
いくらいきり立っても、若くはないから性急にはならない。彼女の身体を味わうように優しく愛撫をし続け。彼が入ってきたとき、彼女の目尻から一粒、涙がこぼれ落ちた。
「彼女が言ったのです。『課長の事がずっと好きだった』と。嬉しかったですよ。『僕もだよ。好きだよ』と素直に言えだ。最後は彼女の全身が痙攣して、僕も心地よく果てましたね。最初から、あんなに相性がいいと思ったのも初めてでしたね」
恋を続けていく決心
裕敏さんは四十三歳、彼女は三十五歳直後だった。何かが始まった日。それは彼自身も分っていたことだった。だが、次に彼女と会うまでに、一ヵ月ほどかかっている。
「悩みました。続けていいものかどうか。一回コッキリだったら、お互い大人なんだから、酒の勢いだった、と片付けることもできるかも知れない。だけど二度したら、この関係は固定化してしまう。もちろん、保身もありますよ。僕は家庭がある身だし、会社での立場もある。しかも相手が部下ですから」
彼女は会社では、平然と振る舞っている。たまに携帯にメールを送って来るが、それもたわいない内容だった。根比べは、彼が負けた。
「彼女は僕の事が本当に好きなのか。その思いに耐えきれなくなってしまったんです。ある日、ようやく食事に誘いたい、ホテルへ行こうとしたら、彼女が『うちに来ませんか』と。ひとり暮らしの彼女の部屋に行ったら、彼とは別れたと聞かされました。
僕も、彼女なしでは毎日が辛くなっていたので、それを正直に言ったんです。ただ、僕は離婚する気はないともはっきりくぎを刺しておいた。彼女は、『私は課長といられる時間があれば、それでいい』と。いつか彼女が結婚したいと思う相手が出てくるまでのつなぎでいいと、僕は本気で思いました」
冷静にそう思ったのに、関係ができて数ヶ月は、週に三回も彼女の部屋に通いました。自分でも思いがけず、彼女の恋に酔って、家庭を忘れていた。
「最初は週末も、彼女の部屋に行っていました。さすがに妻からは『そんなに忙しいの?』『なんだか最近、挙動不審じゃない?』と、冗談交じりに言われたりして。三ヶ月くらいしてようやく落ち着きましたね。それは、彼女との関係を続けて行こうと決意した時期であると思う。
続けて行くためには、妻に疑われてはいけない。僕、自分の靴を磨くのが好きで、週末はよく靴磨きをしているんですが、知らず織らずのうちに鼻歌を唄っていたようで、妻に『何かいいことがあったの?』と言われて、はっとしたりして。
恋愛すると、無意識に今までとは違った言動をとるようですね、そのことに気づいてか、少し冷静になりました」
平均すると週に一度くらい、彼女の部屋を訪ねていることになるという。外で一緒に食事をしてから部屋へ行くこともあれば、彼が社外の仕事で遅くなったとき、寄ることもある。彼女の部屋が、会社から自宅までの途中にあることも寄りやすい一因となっている。
「彼女自身も最初はかなり揺れていたようです。帰っていく僕に、『帰らないで』と抱きついてきたこともある。だけど、外泊だけはまずいと思っていたので、『関係を続けていくためには、慎重にしなくちゃいけないんだよ』と言い聞かせました。
彼女の家からはタクシーで帰るんですが、道端でタクシーを拾って彼女の部屋の方を見ると、ベランダからじっとこちらを見ている。僕もつらくて、そのまま彼女の部屋に戻ろうかと思った事もあります。これっきり、会えなくなるような気がして。だけど、お互いだんだん切羽詰まった気持ちはなくなってきて、少しずつ落ち着いてきましたね」
この先、関係は変わるか
そして関係は、一年を超えた。今は、彼女との関係を大事にしたいと思いながら、妻や家族への罪悪感も強まっていると彼は言う。
「最初は恋していることに夢中だったんだと思います。でも関係が落ち着いてくると、ときどき、自分自身が引き裂かれるような気分にもなったりする。去年の夏も、家族旅行したんですが、その間は彼女に寂しい思いをさせているんだと感じて辛くなり、
彼女と過ごして帰ってくると、笑顔で迎えてくれる妻に申し訳ない気分になってくる。その場その場で、うまく気持ちを切り替えれればいいんですが、なかなかそうはいかなくて」
言葉は変だが、不倫慣れしている男なら、もっと気持ちの切り替えがうまい。?もうまい。たとえ、女性とふたりで食事をしているところを見られて、それが妻にばれたとしても、
「あとから取引先の人も来たんだよ」としれっと?をつく。もっとも彼らに言わせると、「嘘をつくのではない。食事をしていたことは事実だから、それは認める。だけど、ふたりきりではなかったということをさりげなくアピールするだけ」ということになる。
一〇〇をゼロにしてしまうと嘘になる。だが八〇を五〇にしたところで、それは嘘ではないと言うのが「不倫慣れ」している男たちの理論だ。妻への言い訳のコツとも言える。
だが、裕敏さんにとっては、結婚後、初めてのまともな婚外恋愛。家庭を壊すつもりはないとはいえ、彼自身、「妻を裏切っている」という意識は強い。携帯電話から浮気はばれやすいという話を聞けば、必死で電話もメールも、すべての発着信・送受信履歴を消してしまう。そのほうがずっと怪しまれるはずなのだが。
「よく思うんですが、僕、妻の事もすごく好きなんですよ。確かにセックスする回数は減った。だけど、子ども達を見ていると、十六年という歳月は確実に流れていて、結婚する前から合わせると、妻とは十八年付き合っていたことになる。お互い年はとったけど、たまに妻と外で待ち合わせたりもすると、今でも、そこそこいい女なんじゃないかと思うんです。
こんなこと、彼女には口が裂けても言えないけど、妻は妻として大事だし好き。彼女のことは恋人として好き。妻を嫌いになれたら、ラクなんだろうなと思うけど、そうはならないんですよね」
最後の言葉は、声を絞り出すようにして呟いた。妻は妻、彼女は彼女、どちらも好き。その正直な気持ちが、彼の心を苦しめ惑わせているのだろう。
余談だが、私の友人が、家庭ある男性とつきあっているとき、何かで言い争いになり、「奥さんと私、どっちが大事なの? どっちを愛しているの? 」と詰め寄ったことがあるそうだ。
彼はしばらく考え、真顔で「大事なのは妻だけど、愛しているのはキミだよ」と答えたとか。私たちの仲間内では、この回答にかなり納得し、こういう男は悪いヤツではないということで落ち着いた。彼女自身もその答えを聞いたときは、つい笑ってしまったという。
裕敏さんにその話をすると、彼もようやく笑顔を見せた。
「そうなんですよね。家庭も妻も大事。歴史がありますからね。妻には何も落ち度がないわけだし、特別不満があるわけでもない。だけど、彼女のことは恋しい。比べられるものではないんです」
意地悪な質問をしてみる。妻と彼女が同時に溺れている。どちらを先に助けるか、と。彼はしばらく空を見つめながら、首を振りながら言った。
「それは無理、答えられない。自分がどういう行動をするか分かりません。それが現実になったときにしか、答えは出ないんじゃないかと思いますね」
香代さんは、この関係をまだ続けていくつもりなのだろうか。彼女が結婚を望んだり、出産を意識するようになったりすると、関係性は多少、変わっていのではないか。
「今のところは、仕事と恋愛、趣味で充実していると彼女は言っています。会社で毎日会えるから安心だとも、ただ、何か気まずいことが起こったら、同じ会社で顔を合わせるということがむしろネックになりますよね。
今はそこまで考えても仕方ないと思うのですが、もし、彼女が結婚しなくてもいい、子供だけ欲しいと言ったらどうしたらいいのか。たまにそんなふうに思うこともあります」
既婚の男にとって、恋愛は楽しいものだけではない。本気で恋をしたとき、男は惑い、苦しんでいる。
ダブル不倫の苦悩
妻とはセックスレスに
本気で女性を好きになったとき、かなり嫉妬深くなる男がいる。自分でも思いがけない醜い感情を持て余してしまう面もあるようだ。
「これほど彼女を好きになるなんて、思ってもみなかった。会社の立場もあるし、家庭への責任もある。そうやって、自分を律しようとしているのに、本当の感情は、彼女を自分だけのものにしたくてたまらないんです」
宮本恭司さん(四十五歳)は、絞り出すようにそう言った。ダブル不倫をしている彼には、何度もインタビューを頼んだが、何も話せないと言われ続けていた。ところが、よほど苦しくなったんだろうか、突然、「今日なら話していい」と連絡を受けた。
恭司さんが結婚して、十七年が経つ。妻は三歳年下。潔癖で真面目な性格だったのが結婚を決めた大きな理由の一つだ。妻たるもの、浮気などされては困るから、潔癖で貞淑がいちばんだと、そのころは思っていたのだという。
だが、子供が出来てからは、妻は子供にのめり込む、上の娘が小学校に入るとすぐに、妻は私立中学校を受験させると言うようになった。話し合う余地もなく、妻の主導で受験のための日常が始まった。下の息子も同様だった。
下の子が昨年、希望の私立中学校に合格し、恭司さんもようやく、「面接の練習」や「お受験の作法」などからお役御免となった。それでも今度は、大学受験を目指して、妻は走り続けている。自分自身の人生目標を子どもの受験にむけている妻を、恭司さんは非難できずにいる。
「それもあの子たちのためなの」と、妻に真顔で言うからだ。完全主義の妻の性格上、どうしようもない。
恭司さんができることは、子供たちの逃げ場を用意してやるくらいのものだ。「勉強なんてさぼってもいいぞ」と。だが、子供達も真面目なので、母親に対しても反抗しないという。
「実は、妻とも長い間、セックスレスなんです。下の子の出産に立ち会ってから、する気がなくなりました。いえ、妻が悪いわけじゃありません。子供が出てるような神聖な場所に、自分の汚いアレを突っ込むことに抵抗がわいてしまって。しかも、妻はどんどん『母』として大きくなっていくわけです。セックスって、ある意味で劣情を刺激されないとできないでしょう?
完璧な『母』である彼女に手を出しづらくなったんですよ。真面目だから、妻としても母としても完璧を目指す。結婚前はそこがいい所だと思っていたのですが、実際、一緒に生活してみると、すごく窮屈なんですよね」
妻だって、母であると同時に女だ。どんなに潔癖で貞淑な妻だって、性欲はある。夜中に、レースふりふりのナイトドレスを着てさりげなく迫ってきたこともあるらしい。妻の切羽詰まった気持ちは分かったものの、
恭司さんはどうしてもその気になれず寝たふりをした。その後は酔って帰って、さっさと寝てしまうか、もしくは妻が寝静まってから帰るしかなくなった。
「たまに頑張ったりするけど、虚しいだけなんですよね。自分を奮い立たせるために必死で。目をつぶって、頭の中でいろいろな想像を巡らせて、ようやく勃起できると、さっさと挿入して、なるべくせっせと動かして射精する。
一連の行為が終わると、ほっとします。ああ、これでしばらくしないですむ、と思ってしまう。女性から見たら、とんでもない夫かもしれないけど」
とにかく一度でいい、彼女の全てを知りたい
昨年冬、取引先の会社で働いている女性、真由美さんと知り合った。仕事で何度か会っているうちに、彼女の事がきになっていく。恭司さんと同い年で、やはり既婚、子供ふたりいる。
仕事が一段落しての雑談中、恭司さんは目前に迫った「お受験」の話をした。その道の先輩でもあった彼女から、かなりいろいろ教わったという。
「受験がうまくいったことを彼女に知らせ、お礼に食事でもと誘ったんです。その時点で、たぶん、私の中に邪(よこしま)な気持ちはあったんでしょう、今思えば、彼女の方は気軽にやってきたようですが」
プライベートで会っても、真由美さんは素敵な女性だった。同い年で、家庭環境も似ていたため、話は盛り上がる。実は学部が違うが、大学も同じだったことが判明した。
「あそこの定食屋が安かっただの、あっちのレストランは高くて学生は食べられなかっただの、まるで学生時代に戻ったように話が弾んで、笑ってばかりいました。楽しくて別れたくなかった」
だが、九時を回ったころ、彼女は「そろそろ」と腰を浮かした。もう一軒、誘いたいところだったが、恭司さんははやる気持ちを抑える。
「彼女とはどうしても、また会いたかった。だがきらわれたくなかったんです。『今度はもっとゆっくり会いましょう』と彼女も言ってくれた。携帯の番号とメールアドレスを交換して別れました。帰り道、久々に心の中がほんわり温かくなったのを覚えています。
あれほど女性と話が弾んで楽しかったのは、いつ以来だろうと考えてしまった。妻とはずっと子供の受験の事ばかりだし、仲が悪いというのほどはないけれど、セックスの事もあって、男女としてはしっくりいっていないような気がしてならなかったから」
それからメールのやり取りが始まった。メールの中で、彼女の家庭はそこそこうまく行っていることも知った。夫は二歳年上だという。おそらくセックスもしているのだろう、と恭司さんは思い、身体中の血が頭に上るような気がしたという。
「私はまだ彼女とは、手さえ触れ合っていない。それなのに、猛烈な嫉妬心がわき起こってきたんです。独身時代だって、これほど嫉妬したことはなかった。自分が彼女のことをいかに好きなのか、思い知ったような気がしました」
ふたりが次に会ったのは、一ヶ月ほどあとだった。お互い仕事があって、家庭がある。そう簡単に時間はとれない。
「でも次はきっと、彼女もゆっくり時間を取ってくれるはず。何してもホテルに誘いたいと思った。すべてを知りたくてたまらなかったんです。その先がどうなるなんて考えられなかった。とにかく一度でいい、全部知りたい。今日は決めようと思って、待ち合わせ場所に行ったんです」
待ち合わせの喫茶店に行くと、真由美さんはすでに来て文庫本を読んでいた。カミュの『異邦人』だった。
「私は実は仏文科で、卒論はカミュだったんです。彼女にそこまで言った記憶はなかったけれど。そう言うと、彼女は、『私は昔からカミュがすきだったの。珍しく読み返したくなって』と驚いていました。もう自分を律することはできなかった。
その場で彼女の手を取って、『あなたを僕のものにしたい』とストレートに言いました。『お互い、家庭がある』と彼女。『わかっている。一度だけでいい』と言うしかなかった。そう言いながら、自分の下半身は硬くなっていくのがわかりました。もう長い間、そんなこともなかったのに‥‥」
切羽詰まった彼の様子に、真由美さんは怯えた表情をみせた。いい異性の友だちができたとしか思っていなかったのだろうか。自分だけが独り相撲をとっているか、と恭司さんは絶望しかけた、そのとき、彼女が静かに本を閉じた。
「わかった」
一言、発した。彼女もまた、恭司さんに惹かれていたのだろう。四十歳を過ぎた女性が、そこまで切実に男に求められたら、断れ切れないのではないかと気もする。
「食事もせずにタクシーを飛ばして、ホテルに行きました。気持ちははやるし、心臓が口から飛び出しそうに緊張していたけど、彼女のことは丁寧に大切に扱ったつもりです。後ろから抱きしめてうなじに唇を寄せてると、彼女の方から顔をねじってキスしてきました。
ついばむようなキスから、すぐにディーブなキスになって‥‥。押し倒してシャワーも浴びずに、彼女の身体中にキスをし続けました。彼女は声を出すのを抑えていたようですが、途中からすすり泣くような、とても素敵な声を出していた。
どのくらい前戯に時間をかけていたのかもわからないくらい。ようやく彼女の中に入ったとき、正直言って、私は泣きそうになりました。ひとつになれた嬉しさというのかなあ、女性に包み込まれるような幸福感というのか、あんなに気持ちは初めてだした」
一気に言って、恭司さんは照れたように目を瞬(しばたた)かせる。
そのとき、彼女も目に涙をためていたように見えたと彼は言った。
すべてが終わったとき、真由美さんは、夫とは仲はいいけれどセックスはしていないと言った。夫は優しいし、家事も率先してやってくれる。子供たちの面倒もよくみてくれた。だが、優しい分、「男」を感じないし、夫自身もセックスの欲求があまりないのだという。
「『だから女としては、もうこのまま終わりなんだと思っていた。だけどあなたに会って、自分にも恋愛感情が生まれたことが解った。この先、どうなるかわからない、一度、遊ばれるだけでもいいから抱かれたかった』と彼女は言ったのです。こうなったら、お互いに別れられませんよね」
家庭を壊さないようにしながら、行けるところまで行こうと約束した。平日は、出勤時、昼休み、帰りの電車の中でメールを交わす。メールは自宅に到着する前に削除する。彼女の身体の中から出た言葉を消してしまうのはもったいなかった。しかし、続けて行くためにはやむを得ない。毎日、つらい思いで削除ボタンを押している。
会えるのはせいぜい月に一、二度だが、それが恭司さんの日常に光り輝くような希望をもたらした。
「彼女だと、変な話ですが、一度に二回はできるんですよ。自分にもまだこれほどの精力があったのかと驚くくらい。仕事に対しても以前に比べて、意欲的になりましたね。ただ、妻との関係が、ちょっと‥‥」
恭司さんは突然、言葉を濁した、根掘り葉掘り聞いてみると、妻ははっきりとは言わないものの、セックスレスになっていることを相当、気にしているようで、朝起きると、テーブルの上に「まむしドリンク」などが置いてあるのだという。
「わけのわからない漢方薬が置かれていたこともあります。それを見ると、妻が哀れになるんです。だけど、じゃあ、これを飲んで頑張るぞうという気にはなれない。ドリンクや漢方は見なかったふりをしました。テーブルの上にあるものを見た瞬間、朝食を諦めて、
『あ、今日は早く会社に行かなくちゃいけないんだよ』と言って、さっさと家を出ます。妻も面と向かっては何も言わないので、なんとなく不穏な空気が漂っているんですよね。
以前は、半年に一回くらいは頑張っていたのに、彼女と付き合うようになってからは、全くしなくなりましたから」
同時に、恭司さんは、彼女の家でも似たようなことが起こっているのではないかと疑念を抱く。
「彼女は、夫とのセックスに淡泊と言うけど、たまには夫が迫ってくることもあるんじゃないか、男なんだから急にしたくなることだってあるだろう。と自分の事を棚に上げて、メールで彼女を責めてしまう。
そうすると彼女は『あり得ないってば』と返してきますけど、いや、それでも実際には分からないなどと思う。夜中など、ふと目を覚まして、彼女は今頃何をしているんだろうなと思うと、居ても立っても居られなくなるほどです。そうやって私自身が、嫉妬に苦しんでいるのです」
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消えない恋の炎
彼女を想うと胸が苦しくなる。と恭司さんは言う。男にもそういうことがあるのかと初めて知った。女性同士の間では、好きな人を想うと身体中が痛むというのはよく聞く話だ。
「彼女がしていながらも、つい責めてしまう『本当にダンナとはしていないのか』って。あんまりマイナスの感情をぶつけるのはいけないと思うから、会っているときはスパイス程度にしていますけど、実際は本当にやるせない気持ちでいっぱいです。
彼女はスレートな人だから、『絶対していない』と言い切ります。きっと本当なんだろうと、私も心の奥底では信じているんですが、別れるとまた、真っ黒いジェラシーが身体中を支配してくる。会えない時間が長いから仕方がないと思うし、そのエネルギーは仕事に向けようとは思っているんですけどね」
関係ができて八ヶ月ほどになる。この間、会ったのは十回ほど。同居している真由美さんの母親が倒れ、一か月半も会えないことがあった。その間、彼女は恭司さんにメールで、「私を嫌わないで。他に女性を作らないで」と言い続けてた。
恭司さんも、「そんなことするわけないだろう」とメールで言い聞かせた。家庭がある関係だけに。自分自身の都合以外のことで会えなくなることはいくらでもあるのだ、と恭司さんは、この関係の難しさを思ったという。
だが、それは彼女への自分の愛情を試すいい機会でもあった。会えない時間に、何があっても、彼女とは別れないという気持ちがますます強まっていったのだから。障害があればあるほど、やはり恋は燃え盛っていく。お互いに分別のある大人のはずなのに、「恋は大人を子どもにしてしまう」のだ。
会えたところで、外泊はできない。食事時間を削って、ホテルで身体も心も貪り合う。
「一度でいいから、ふたりきりで温泉に行きたい。一泊でいいから、ゆっくりしたいと話しています。
私の方はたまに出張がありますから、それにかこつけて何とか理由をつけられるのでしょうが、彼女の無理。下の娘は高校生で多感な時期だから。母親が不倫しているなんて知ったら、どうなるか分からないと言うんです。
確かに、うちも上が高校生の娘だから、気を付けてなければいけない。お互いに子供のことを思い出すと。冷静になるんですけどね」
一瞬は冷静になるものの、それでも恋の炎は消えない。お互いの家族にばれないよう細心の注意を払いながらも、ふたりは今日も愛のメールを交わす。そして恭司さんは、嫉妬を心に押し隠しながら、彼女に会える日を待つしかない。
職場の彼女に揺れる
不妊という悩み
「『結婚って、順番なの? あとから好きな人に出会っても一緒になれないの?』と言って泣き崩れる彼女の姿が、今も忘れられないんです」
西川哲宏さん(四十三歳)は、そう言って目を輝かせた。部下だった千佳さん(三十五歳)と別れて二年近く経つが、今もときどき、彼女の思いで全身が張り裂けそうに痛むという。
哲宏さんが結婚したのは、三十二歳のとき。相手は友達の紹介で知り合った二歳年下の会社員だった。外資系の金融会社でばりばり働く彼女に影響され、彼自身も仕事への意欲に目覚めた。結婚してからもお互い仕事が優先だったが、ふたりとも子供は欲しいと思っていた。
「妻はアクティブな女性でね。独身時代は、毎日、遅くまで働いているのに、土曜日は映画や芝居、日曜日はスポーツジムに通ったり習い事をしていたそうです。とにかく生活を楽しむタイプなんですね。だから僕も、結婚してからは妻に引っ張られるようにして、土日も外へ出ていました。
友達も増えて、ふたりで新たにテニスも始めて、けっこう楽しい日々を送っていた。何年経っても子供が出来ないのが、ふたりの間の悩みでもありましたね」
結婚して五年ほど経ったころ、妻は病院に出かけた。次は哲宏さんも一緒に行った。だが、どんなに調べても不妊の原因はわからない。人工授精、体外受精についてもふたりで調べた。
お金も時間もかかる。あちこちの医者を回って相談もした。子供が欲しいが、人工授精などをする場合、どんなことを、いつまでやるべきなのか判断がつきかねた。
「一年ほど二人で話し合いましたが、結局、自然に任せようということになりました。子供がいなくても、ふたりで十分に楽しい人生を送っていける。それもまた自分たちの運命だろうと」
恋の芽を意識するとき
そんな決断をした直後、千佳さんに出会った。哲宏さんが勤める会社に、千佳さんが中途入社してきたのだ。哲宏さん三十八歳。千佳さん三十歳。
「僕は商品開発という部署にいるんですが、彼女は別の会社の開発から転職してきた。なかなか仕事ができる女性で、一緒に働いていて気持ちがいい人だなと思っていました。ただ、恋愛感情が芽生えるとは想像もしていなかった」
雑誌のアンケートでも私の実感としても、男性の婚外恋愛の相手として、圧倒的に多いのは職場の同僚や部下だ。恋愛の法則として、距離の近さに比例すると言われる。職場で過ごす時間が長く、お互いのひととなりがよくわかるから恋に落ちやすいのかもしれない。
哲宏さんの場合も、彼女は最初、可愛い部下というだけの存在だった。ところが半年ほど経つうちに、千佳さんの女性らしい濃(こま)やかな心遣いにたびたび驚かされ、恋の芽を意識するようになる。
「うちの会社は、別に女性がお茶を淹れなくてはいけないなんていう慣習はないんです。だけど、彼女は僕が外から帰ってくると、必ずそっとお茶を出してくれる。暑いときは冷たいお絞りを添えてくれたときもあります。見ていると、他の人に対する気配りもすごくいいんです。
あるとき、同じ部署の若い男が仕事でミスして、そのフォローで徹夜仕事になったことがありました。彼に聞いたところによると、彼女、その日の夕方、さりげなくおにぎりを買ってきて、『しっかり食べないと仕事がはかどらないわよ』って渡してくれたそうです。
彼はミスで落ち込んで昼食もとっていなかった。それをちゃんと見ていたんですね。『味噌汁までつけてくれたんですよ』と彼は感動していました」
哲宏さんは、そのときのお礼のつもりで千佳さんを食事に誘った。自分では単なるお礼のつもりだったが、すでに心の奥底で、静かな炎が燃えていたのかもしれない。
「そのとき初めて、彼女がどんな人生を送ってきたのかを知りました。彼女、ちいさいときご両親が離婚して、けっこう苦労して育っているんです。一時期は親戚をたらい回しされたこともあったらしい。でも奨学金をもらって大学を出て、今はひとり暮らしをしている。
父親の居場所はわからないけど、母親にはたまに会うと言っていましたね。早くから自立しているからしっかりしている、でも自分が寂しい思いをしてきたから人には優しい。そうなるまでは、いろいろ葛藤もあったんだろうと思うと、なんだか彼女が愛しくなってしまって‥‥」
彼女と一緒にいると楽しかった。食事を終え、バーをはしごしていると、終電はすでになくなっている時間だった。タクシーで彼女を家まで送った。
「僕、けっこう酔っていたんです。彼女が、『コーヒーでも飲んでいきませんか?』と言うので、ついふらふらと寄ってとまった。こぢんまりしたアパートだけど、きれいに片付いて、彼女らしいなあと思いました。そう思った瞬間、僕は彼女に抱きついていたような記憶があります」
何も考えていなかった。とにかく彼女を抱きしめたい。たまらなく可愛くて、たまらなく自分のものにしたかった。それは一瞬の衝動かもしれないが、その衝動を起こさせるだけの芽は、すでに十分育っていたともいえる。
「彼女が、イヤ、恥ずかしい、と言ったときの声が妙に官能的でね。どこもかしこも欲しくなっていた。僕自身、まるで二十代に戻ったみたいに下半身が熱く硬くなっていました」
彼女は、経験豊富な方ではなかったようだ。彼の丁寧な愛撫にも控えめな反応しかしなかった。だが、彼にはそれがかえって好ましく感じられたという。
「こう言う言い方は変かもしれませんが、僕は自分が男なんだなあと強く感じたんです。征服欲というのかな。女性から見ると感じが悪いかもしれないけど、ある意味、征服欲って男の本能ですよね。相手が恥じらえば恥じらうほど、愛しさと同時に、なんとか自分のものにしたい、
もっと感じさせたいという気持ちが強くなっていくんです。自分の中に、そういう攻撃性や征服欲をあまり感じることがなかったので、それは新鮮な感情がありましたね」
男が本来持っている、攻撃性な男らしさを、千佳さんごく自然にそそる女だったのかもしれない。
男と女は、もちろん人間としては対等だが、やはり性的な違いはあると、個人的には思う。だからこそ色気が生じ、互いに意識し合い、惹かれていくはずだ。女が女らしくあってこそ、男は男らしくいられる。逆もまた同じだ。
妻の妊娠
千佳さんによって、「男であること」を自覚した哲宏さんは、急速に千佳さんに傾いていく。ちょうど仕事が忙しくなったこともあり、残業が続いていたが、残業を無理やり早めに切り上げて、千佳さんの部屋に寄ることも多かった。
「千佳は、必ずつまみを作って待ってくれるんです。料理も上手い。しかも、煮物とか和え物とか、和食が上手いんです。比較するつもりはないけど、妻は仕事第一ですから、料理に手間をかけることはない。そんな生活に慣れていたけど、千佳と付き合っているうちに、僕が求めているのはこっちの生活なんじゃないかと思うようになっていったんです」
夫婦ふたりの生活で、お互い収入があるから、そこそこの贅沢はできた。平日は思いきり仕事をして、週末はふたりであちこち出かける。一緒にテニスしたりドライブしたり、一泊で温泉に出かけたこともあった。妻の上司が開くホームパーティーにもよく出かけた。
一見、華やかで楽しい生活だったが、考えたら、妻が和食を作ってくれたことなど、ほとんどなかったかもしれない。哲宏さんは、初めて自分の結婚生活を振り返った。
「外交的で社交的な妻に引っ張られて、ここまできたけれど、僕が本当に好きなのは、こうやって手料理を楽しみながら、家でのんびりすることかもしれない。千佳のところにいると、本当に落ち着くんです。うたた寝すると、さりげなく毛布をかけてくれる。起きると、熱い茶が待っている。至れり尽くせり、痒い所に手が届くという感じなんです」
ある日、哲宏さんの脳裏に「離婚」という文字が浮かんだ。離婚しても、妻の経済力ならひとりで生きていける。幸か不幸か子供もいない。何もネックはなさそうな気がしてきた。
「もちろん、妻との関係はあまり変わっていなかったし、妻のことが嫌になったわけでもない。だけど、どちらが自分に合っているかというと、千佳との生活のような気がしてならなかったんです。それに半年もたたないうちに、千佳とのセックスの相性も、すごくよくなっていた。明らかに、彼女が女としてどんどん熟していくのがわかる。
終わるたびに、彼女は僕に「この前よりもっとよくなった。わかる?」と囁くんです。彼女、全身の痙攣が止まらなくなって、失神しかけたこともあります。妻は性格上、セックスもあっさりしている。スポーツ感覚というか。千佳はどこか淫靡なんですよ。そこにも惹かれていましたね」
週に二回は千佳さんの部屋に通っていましたが、だんだん帰るのが苦痛になっていく。離婚の二文字が、次第に頭の中で大きくなるのを、哲宏さんは感じていた。
「離婚したら、一緒になってくれるか、千佳に聞きました、関係ができてから一年半くらい経っていたかな。彼女は目に涙をいっぱい貯めて、大きく頷きました。『でも急がなくていいの。私はずっと待っているから』って。それを聞いて、逆に、早く決着をつけようと思いました。
ところが、家に帰って妻の顔を見ると、言い出せないんですよ。『今度の週末、静岡に行かない? おいしい魚を食べさせてくれるお店があるらしいのよ』なんて、明るく言う妻は、何も悪いことをしていない。そんな妻を傷つけていいはずがない。そう思うと言えなかった」
さらに半年がたった。千佳さんは何も言わず、いつもと同じ態度で迎えてくれる。妻も、昇給したとうれしそうに話し、相変わらず仕事に邁進している。
「ある晩、千佳のアパートの玄関を出て帰ろうとすると、彼女が急に抱きついてきたんです。帰り際に引き留めるような女じゃなかったのに、そのときは僕の背中に手をまわした手が震えていた。
『また来るね』と手を外したんですが、彼女、泣き笑いみたいな顔で必死に笑顔を作っていた。それを見て、今日こそは妻に離婚を切り出そうと決めたんです」
家の道すがら、どうやって離婚話を口にするか、今まで何度も繰り返してきたシミュレーションを、また頭の中で再現した。
帰宅すると、玄関から妻が走って来た。そんなことは滅多になかった。
「妻がいきなり、『ついにできたのよ』と叫んだんです。僕がきょとんとしていると、『赤ちゃんよ、赤ちゃん。ついに妊娠したの』って。妻は四十歳目前でした。生まれるのは四十歳になっている。でも妻は目をキラキラさせて、『神様っているのねえ』と、行ったことのないような言葉を発している。
僕はとにかく頭が真っ白でしたね。今日こそは言うはずだったのに。妻とは、月に一、二回しかしていないはずなのに、いったい、いつのときの子なんだ。そんなことばかり考えていた。『ねえ、うれしくないの?』という声が聞こえて我に返りました。その日は眠れませんでした」
苦しかった。千佳さんと人生をやり直したい、その思いに嘘はなかった。だが、ようやく妊娠した妻を、そして自分の子供を捨てるわけにはいかない。
「苦渋の選択とか、断腸の思いとか、言葉を聞くけど、まさに僕の場合は身を切られるような思いでした。結局、千佳と別れるしかない。結論はそうなりました。ただ、千佳にもなかなか言えなかった。顔を見ると、やっぱり千佳と一緒になりたいと思う。
だけど、実際、妻が胎内の子供の写真など見せてくれると、やっと自分の子供が持てるんだ、と喜びが実感できる。責任を感じる。いつまでもこうしていられないと思いました」
彼女の失踪
妻の妊娠発覚から二ヶ月後、哲宏さんはようやく千佳さんに打ち明けた。実は子供ができた。離婚できなくなった、と。
「千佳の顔がみるみるうちに、真っ白になっていきました。『本当にきみのことがすきだった。今でも好きだし、正直言って一緒になりたいと思う。やはり僕には責任がある。すまない』と謝り倒すしかなかった。彼女は何も言いませんでした。玄関まで送っても来なかった。彼女の部屋を出ながら、もうここに来ることはないと思ったら、僕も泣けてきてたまらなかった」
千佳さんは翌日、会社を休んだ。心配だったが、これ以上、何か言うとかえって彼女の気持ちを乱してしまう。だから連絡はしなかった。その翌日、会社に来た千佳さんは、退職届を提出し、そのまま会社を辞めていった。
「いくらなんでもいきなり辞めるのは、社会人としてまずいでしょう。仕事の引継ぎもできない。私物は後で引き取りに来るという彼女を、廊下まで追ったんです」
そのとき、千佳さんが言ったのが冒頭の言葉だった。泣き崩れて廊下に座り込んでしまった彼女を立たせ、彼は『もう一度、話そう。今日、帰りに寄るから』と言った。そう言うしかなかった。
「だけど、その日の夜、彼女の所へ行ったらいませんでした。それっきり、連絡も取れなくなった。数日後、再度行ったら、もう引っ越しした後でした。私物は引き取りに来ると言ったけど、来ないままです。千佳と親しかった女性社員に聞いても居場所はわからない、と。口止めされているのかもしれませんが」
千佳さんが消えて半年後、女の子が生まれた。妻は、育児休暇を取って子育てを楽しんだ。子供ためといって、いそいそと料理をするようになった。今は、保育園に預けているが、妻は仕事を優先しなくなった。
「今の生活に何の不満もありません。子供は本当に可愛いい。それでも、毎日のように千佳のことは思い出します。自分だけがこんな生活をしていいのかと苦しくてたまらないんです」
哲宏さんは、終始、浮かない顔だった。家では決して見せられない、陰の顔なのかもしれない。
つづく
第二章「家庭」はどこにあるのか
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。