煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

 本表紙著者 渡辺やよい


 第6章 人生は本当に大事なものだけを大事にすればいい

表題6

何事もつい手を出し、面倒をみてしまう私

かくのごとき、生き物はひとつでも、助けを請われたり行きどこがないと知ると、つい、「儀を見てせざるは勇なきなり」などとふんがと鼻息もあらく引き受けてしまう私である。いい意味では懐の深い人間、ともいえるが、反面、足元を見られている、厄介事を押し付けられるお人良し、とも言える。実は若い頃から、誰も手を上げないとつい手を上げては安請け合いしてしまい、ああ後悔、というこの性格には苦労してきたのだ。

 高校の文化祭のさいも、三年生は受験のためほとんど行事に参加しないところを、最後の学年だから思い出に何かしようじゃないかとみんなで盛り上がった。が、さて何をするかで行き詰まり、私がつい、「人形劇でもしようか?」などと口火を切ったため、「渡辺さんにおまかせしようじゃないか」と、結局、シナリオ書きから人形作り出演まですることになった。

 大学でも、在学生からも参加費を取る主催者側に抗議するために、門前で何かやろうとじゃないかと有志で盛り上がったものの、さて何をするかでやはり行き詰まり、つい「巨大紙芝居でもする?」などと口走ったせいで、紙芝居作りから操作口上まで任せられることになった。

 二〇〇三年、漫画原稿不正流出事件に巻き込まれた時も、なぜか事件の第一発見者になってしまった。そのために、その後の原稿返却運動の中心となってへとへとになるまでボランティアで働く羽目になった。

 原稿を売り払ってしまった中古漫画販売店に対して、「立つのはあなたしかいない」などと周りからけしかけられて、ついついお金も時間もかかるのに裁判など起こしてしまった。

 この運動は結局急速に収束してしまい、当初は大いに乗り気だった多くの漫画家さんたちは潮が引くように去ってしまった。気がつけば、私一人が裁判を続ける羽目になってしまった。その裁判は高裁まで持ち越して、やっと昨年、一応こちらが勝訴のかたちで終わったものの、すでに誰の興味も引かないものとなっていたのである。乳のみ子をおんぶしながら駆けずり回り、家庭と仕事に支障をきたしながらの活動の果ては、多大なストレスによる大腸癌発生だった。

 さすがに安請け合いのお人良しの私もがっくり来たものだ。もう、二度と、安請け合いはしない、人のしたがらないことに手を上げない、と、強く心に誓ったものだ。

 ところがー、三っ子の魂百までも。子どもの小学校のPTA役員決めで、誰もがやりたがらない広報役員に手を上げている自分がいるではないか! しかもリーダーまで任されて。ひいひいながら会報作りに追われる自分に、いつしか苦笑いがこみあげてきた。

 いいさ、安請け合いのお人良しで。請け合えば必ず最後まで終わらせる、それができる、それだから、自分。いいじゃないか、私がやらなきゃ誰かが押し付けられること、私が引き受けてあげましょうや。

世田谷で暮らして四十年

私は世田谷区生まれの世田谷区育ちだ。まあ、憧れの世田谷区、高級住宅地じゃありませんか、さぞやおハイソなお育ちで…いやあ、ぜんぜん。出目は商店街に面した小さな印刷工場の娘である。

 世田谷区というのは、第二次世界大戦で幸いにも空襲を逃れた地域である。そのためかえって区画整理がされず、戦前からの家が立ち並び農道がそのまま車道になってしまい、行き止まりやら路地やらあふれた、ごちゃごちゃした住宅地が多かった。

 私が幼い頃は、近所はまったく開発されていなかった。そこかしこにドラえもんの世界のような空き地ばかりで草が茫々と茂り、日にきらきら光る小川には水車が回り、川端には着物の染め物工場があり、職人さんが川岸で染め物を吹き流ししながらすすいでいた。

 子供達は学校が終わると、ランドセルを玄関に放り出して、学年に拘わらず集い群れて遊んだ。ガキ大将のリーダーを中心に空き地に基地を作ったり、川にダムを作ったり、ふた組に別れて戦争ごっこをなどをして楽しんだ。遊びにやって来ない仲間を連れだって誘いにいった。

「○○ちゃん、あーそーびまショー」あちこちの家の前では、こういって友達を呼ぶ声が聞こえてきた。夕方、お腹がペコペコになるまで、もしくは各家庭のお母さんが「ごはんですよー」と、呼びに来るまでみんなと遊び呆けたものだ。のどかな時代だった。

 そういう時代から、私は地元に住み続け、結局今でも地元に住んでいる。実家から出て、何度か引っ越ししたがなぜか世田谷区を出ることがなかった。そして、最後に買った家は、生まれた地元にある。結婚しても私の家に彼が移ったので、私が動くことはなかった。今になると、いくら実家が都内だからって、少しは別の環境で暮らしても良かったなぁ、とは思う。しかし、逆に生まれて育った地域の時代の変遷(へんせん)を目の当たりにすることもできたのだ。

 小田急線、京王線に囲まれた私の地元は、きつねやたぬきが住んでいた草茫々の時代から、いつの間にか一度は住んでみたい高級住宅になり地価も上がる一方だ。近くの、闇市の名残りあった素朴な街下北沢は、いまや若者のおしゃれな街に変身した。

 そして、小田急線の複々線化に伴い、駅前は次々に開発され、川は下水にされて蓋をかぶせられ歩道に変わり、小ぎれいになる代わりに同じようなロータリーが出来、没個性になっていく。

 駅前の何十年も前からそこにいた大きなブナの木は、バスが通るので邪魔だと切り倒された。毎年秋には黄金色に染まって見事だった近所の銀杏並木も、あとから住み着いた近隣の住民が落ち葉がうっとうしいということで、毎秋シーズンになる前に枝が切り払われてしまう。

近くの武蔵野の面影を残した広い公園は、木が生い茂って治安が悪いと、間引きされ、土の道は雨の日には泥が晴れの日はホコリが迷惑ということで、近々舗装されて「おしゃれなプロムナード」になるらしい。

 ここ数年はちょうどひと世代前の方々が亡くなる年頃で、親譲りのりっぱな庭がついたお屋敷は、相続税が払えない次世代に売り払われてしまうケースがほとんどで、あっというまに更地にされたそこには、前は一軒家だった所に、薄切りようかんみたいなぺらぺらな建売住宅が何軒もぎっしり建てられ、似たような家族が引っ越してくる。

 会社員の夫、専業主婦の妻、中学生くらいの子ども二人、そして半地下の狭い駐車場にはみ出すように置かれる外車。なぜか、みな似たり寄ったりの家族。

 しかし、そんなもの感傷である。
 地元に住み続けていると、急激に変化していくその姿に過去の記憶が馴染まないのだろう。便利になる駅前、手に入れたい世田谷マイホームに幸せをかみしめる家族、それでいいのだ。

 私はきっと多分この先も、ここに住み続けるだろう。道を曲がればそこかしこに、過去の自分がいる、過去の巡り合える場所、どんなに変化しようとも、その変化すら、私の歴史に重なる、愛すべき地元には違いはないのだ。

立って半畳寝て一畳

 羊羹(ようかん)みたいな建売住宅、などと皮肉ってみたが、では住んでいる家などは、今の私には分相応なのである。
「渡辺さんちは豪邸ねぇ」
 などと、近所の奥様がたにいわれると、えっ? うちって豪邸に見える? と、私がびっくりしてしまう。確かに敷地面積は普通の住宅よりは広い。もともとがお金持ちが注文住宅で建てた家で、しゃれた作りにはなっている。鉄筋なので、私が手に入れた時は既に築二十年になろうかという古屋であったが充分住むのには問題がなかった。

 その当時は私は独り者で、ばりばり仕事をこなしていた。そこへ。娘の先行きを心配した母親が見つけてきたのがこの物件だった。
「こんな広い所、一人で住めないよ」
 と、文句をいう私に母は、
「ばか、年取ったらここにアパートでも建てて上りで暮らせばいいだろう」
 と、アドバイスした。

 老後の生活。ちょっとこれにはぐらっときた。当時は飛ぶ鳥を落とす勢いで仕事をしていたので、きついローンを組んでも大丈夫と高をくくって手に入れてしまった。

 いゃあ、不動産を買うって勉強になりますねー。売主との家の引き渡しの時、銀行の奥の部屋で売り主さんの前に、買値の現金を積み上げるなんて初めて知りましたよ。後にも先にもこんな大量の現金を見たのはこれっきり。

 その前にいったん私の口座に銀行が貸し付けた金額が入金されるので、あんな高額な数字が私の口座に記入されるのもこれっきりだろう。そして、右から左に引き渡された現金と同じ金額を、今度は私が生涯かかって銀行に返済していくわけだ。

 しかし、栄枯盛衰世の習い。
 予定外の家族が増え、だだっ広い家にひとり孤独に住まわずに済んだ代わりに、バブルがはじけ、仕事も収入も激減した。今、「豪邸」は私のお荷物になりつつあるのだ。

 なんたってあーた、六十五歳までローンを組んであるのだ。むちゃです。そんなに働けないって。ひところは、ローンにうなされる夢をよく見たものだ。毎月の収入のほとんどがローンに入ってしまう現実に、うちひしがれた。ああ、サラリーマンのお父さんの重荷がようく分る。

 しかし、今は、それほど持ち家に執着しないのだ。というか、持ち家にこだわるなんて、今どき古臭い。一国一城の主、だなんていうが、結局土地なんか大局的な目で見れば国から借りているだけだ。永久に自分のものになるわけではない。

人間立って半畳寝て一畳、どこにだって終の住処はあるさ。

と、考えたら非常に気が楽になった。
 まだ働けている今は、この広いだけのぼろ屋をうんと楽しもう。
 息子の友達が何人遊びに来て、ドタバタ大騒ぎしても大丈夫。子どもが子猫を何匹拾って来ようが大丈夫。その猫たちが家の柱や障子をバリバリボロボロにしても・・・・なんとか大丈夫。

 ローン返済が苦しくなったらこんな家売り飛ばして、どこか安い借家にでも移ればいいだけだ。
 ものごとは留まろう同じことを維持しようと頑張るから、苦しい。全ては刻々と変わっていく。将来も現在のレベルを死守しようなどと考えなくてもいい。だって、肝心かなめの自分自身が日々、老化していくのだ。つまりは人生自体が浪浪転々。

 私は一昨年、大腸がんになった。
 幸いごく初期で切除して、今は何とか普通に生きている。しかし、いつまた身体のどこかに出るとは限らない、死病があることには変わらない。そのとき、やっと気が付いたのだ。

 私は何もかも抱えすぎた、と。手に入れたものを手離すまいと必死だった。いや、もともと手に入れようと躍起になっていた。
 もう、抱えきれないものは捨てよう。
 自分に今、大事なものだけを大事にしよう。当たり前にシンプルなことが、やっとわかってきたのだ。

 そしたら、大事なものは夫と子ども達だけだった。

 やがて子ども達が一人立ちしたら夫だけが残る。その時のために、夫との愛情の火種だけは絶やしたくない。
 そこまで生きられるだろうか。でも、今を大事に生きていけば、今に繋がる明日がきっと続いて行くと、そう思えるのだ。
まんが挿絵

あとがき

「夫を愛して何が悪い!」けんか売っとんわりゃー的タイトルではありませんか。
 いや、言い訳させてもらえれば、これは出版社側が決定したタイトルなわけで。私自身はこんなにえばっておりません。「幸せでもいいですか?」(小声で)くらいなもので。

 だいたいが人は人の不幸話をよろこぶものだ。
 結婚話なら「DVの夫で悲惨な目にあった!」「子供が難病でこんなに苦労した!」「姑が悪魔で泣き暮らした!」などという方がなんぼか面白いか。

 でも、だからって不幸ばかり売り物にするのも能がない。というか、不幸ってのは努力しなくてもなれるものだ。しかし、幸せってのは努力しないとなかなか手に入らない。本当はみんなが幸せを望んでいる。私がものすごく努力しているかといえば、それほどでもないのだが、でも、人生に本当に大事なものはほんの少しだ。そのほんの少しを守るためなら、ちょこっと頑張る。

 夫に言わせれば、もう私に関しては諦め状態、腐れ縁で仕方ねーやー、ってところかもしれないが、それでも結婚てまあ、面白いかもと、思ってくれていると信じたい。
写真図

 最後に「結婚しても幸せって、声を大にしていいましょう」と、毎回チョコレートを餌に、執筆に励ましてくれた阪急コミュニケーションズの黒崎裕子さんにお礼を。彼女も既婚でもうすぐ第二子が生まれる。おめでとう。いいなぁ、私ももう一人欲しいなぁ(夫の逃げていく気配)。

 二〇〇六年一月  渡辺やよい