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  本表紙著者 渡辺やよい

第四章 共稼ぎ子育てライフ

表紙4

保育園の新世代のお父さんは愛妻家で子ども好き

私の親の世代の「結婚出産は人生の義務」みたいな考えから、「結婚なんてあえてしなくてもいいじゃないか」という風潮が当たり前になった昨今は、結婚形態も変わってきている。共働きでやって行こうと決めた夫婦には、夫側にもかなりの割合で家事労働がシェアされる。

 しかし、悲しいかな、まだまだ
「仕事をしてもいいよ、でも家事もちゃんとしてね」
 などと恩着せがましく妻に仕事をするお許しなんか与えたつもりで、家庭内のことは一切しないという男も多い。

「俺様の仕事の方が妻より上等なんだ、だから家事なんかできない」
 などとうそぶく男もいる。日本の男のつまらないちっぽけなプライドと了見の狭さというのは、如何ともしがたい時がある。しかし、柔軟な若い世代の夫婦には新しい風が吹いて来ていることも確かだ。

 保育園に子どもを行かせていると、そういう夫婦に多々出会う。生活労働を、上手に分け合っている夫婦も多い。
 朝、妻の方が先に出勤するので、夫が子どもを保育園に連れてくる。きちっと髪形も決め、スーツ姿のまま保育園のお昼寝用布団にシーツをつけて、アタッシュケースを抱え直して「ばいばい」と子どもに手を振る。

 さっそうとしている。夫が在宅仕事なので、朝妻が子どもを保育園に送り届けた後は、夕方、子どもを自転車で迎えに来た夫がそのまま子どもを乗せて夕飯の買い物に向かう。ほほえましい。

 夫婦で生活時間をやりくりして、うまく回転させていこうとみんな努力している。そして、彼らに共通なのは「できることをできる方がやるだけ」という、肩の力の抜け具合のよさである。しかし、この不景気、定時に帰宅できる会社員はまれで、共働きで子育てをしようとすると、まだまだ祖父母に頼らざるを得ない現実もある。

働くお母さんに対する風当たりもいまだ強い。

「そこまでして金儲けがしたいか」
「赤ちゃんのうちから預けるなんて可哀想」
「子どもは三歳まではお母さんのもとで育てるべきだ」云々。
 ほっとけっての。

 私は、親が専業でも兼業でも構わないと思っている。子どもはどういう環境であれ、親に愛されていれば、かかわる時間の長短に関係なくちゃんと育つのだ。(私の子供たちは0歳児から保育園に行っているが、まあ多少大雑把なところはあれど本人たちは自分のことをちっとも可哀想とも不幸ともおもっていないようだ。)

 そして、私の子ども時代の経験から言うと、両親が仲良しなのが一番子供の幸せなのだ。
 だから、好き合っている夫婦は、子供の前でこそお互いの好意を見せ合うべきである、と思う。毎日アイラブユーと言わないのが離婚の理由になるようなアメリカ国などとちがって、万事につけ「意を汲み取れ」「秘すれば花」などと、口に出さずに感情を押し隠すのが美徳とされてきた日本人にはなかなかに難しいことである。
 それでも私の周りの、夫婦仲の良い人達は、皆、伴侶が好きであるという気持ちを隠さない。

「世界で一番うちの人が好きや。うちの人のつるつるな頭がめっちゃ好きや」
 といってはばからない大阪出の奥さん。
「ほんとうにうちの〇子さんはできた人で頭が下がります」
 と、飲むたびに、ディスコクイーンだったという奥さんが手放しでほめる旦那さん。

 保育園の父兄会で夫の事を、にこにこと
「うちのダーリンは」
 と呼ぶ奥さん。
 最初聞いたときは冗談かと思ったのだが、このご夫婦は何と中学からの同級生時代からの付き合いで、日常的に真顔で「ダーリン」「ハニー」と呼び合っているのだ。いや別に皆が皆、「ジョンとヨーコ」になれとは言わない。でも、人間、弱い生き物、けなされるより誉めて育ててほしいではないか。

 子どもというものは、自分が親に愛されているかどうか、時々確認する。
「母ちゃんは俺のこと好き?」
 と聞かれる度に
「父ちゃんの次にね」と、私は答える。
 子どもは不満そうだ。
 そこで私は「男の子の中でお前が一番」と、言い直す。
 しかしながら私の夫の方は、めったに私のことを誉めない。たいていは
「このブタ、デブ、まぬけ」
 と、非情にののしる。ぜんぜん旦那だめじゃん、人非人ではないかって。御安心あれ。長年のつき合いで、それが彼なりの私の構い方なのだと私は納得している。なにせ硬派なもので、めったに人の事は誉めないのだ。ようするに、彼なりに構ってじゃれているのだ。(ほんとうに彼が怒ると、全く口をきいてくれないのだ。それはそれは恐ろしい。)

 彼は人前でも
「何やってんだまぬけ」
 と、私を??りつけるが、私が嬉しそうに
「ひどーい、ぷんぷん(お前は佐藤珠緒かよ)」
 とか言っているので、周りは(ああまた夫婦漫才遊びに興じているよ)と、思うだけだ。
「あなた、私を愛している?」
 と、私が聞くたびに、彼は思いきり顔をしかめて
「だいっきらい」
 と返し、私は
「あんまりだわ、しくしく」
 と、泣きまねをする、というのが夫婦漫才の定番で、それに最近息子が私の肩を抱いて
「だいじょうぶだよ母ちゃん、父ちゃんは本当は母ちゃんの事好きだよ」
 となぐさめてくれて
「息子よありがとうーつ」

 と、私と息子が固く抱き合う、という小芝居がつくようになった。
 一生やってろって?
 一生やりつづけたいものである。

子育てはお互いさま、一時預かり所と化している我が家

 わが家は、区立保育園の向かいにある。
「孟母三遷の教え」というわけではなく、たまたま独身時代に購入した家が、その場所だったというだけで、当時の私は(どうせ)生涯独り身だろうから、将来はここにアパートでも建てて因業家主にでもなろう、「3号室の山田さんゴミはきちんと分別して出してくださいよ」とか店子いびりをしながらね、いひひ」くらいの心づもりだった。
 
 よもやその将来、二人も子供を産んで目の前の保育園に通わせるなどとは夢に思わなかった。
 おかげで保育園通園時間が三十秒という有り難い結果になった(しかしこれほど近いと、毎年区に提出する書類の中に「家から保育園までの地図と通園時間を書くこという項目が書きづらい。

 意外に大きなスペースに地図を書くのである。通園時間もなんとなく気まずく「徒歩三分」などと水増し申告しています。)

 そして、この場所と私が在宅仕事ということで、私は同じ園の子供たちずいぶん一時預かりした。

 ここの保育園は、二年前にやっと延長保育で午後七時までの預かりが可能になったのだが、それまでははっきり六時十五分でおしまいだった。フルタイムで働いていた遠方から預けに来ているお母さんたちにはしんどいものだった。タクシーを飛ばしてかけつけたり、ベビーシッターさんに引き取りをお願いして、凌いでいる人たちも多かった。

 しかしそれでは経費が掛かる一方である(今の税制では、子育てにかかる費用のほとんどは経費として認められない。ベビーシッター代さえもだ)。そこで保育園から徒歩三十秒のわが家は、閉園時間までにお迎えに行けそうにないお母さんたちの駆け込み寺になったのだ。

 夕方近く、仕事場にいる私に電話が入る。
「渡辺さん、たぬき組の○○です。申し訳ないですけれど、うちの子のお迎え頼めます?」
「はいわかりました」

 私は自分の子供のお迎え時間に、一緒にその子もピックアップしてくるのだ。保育園側でも、肉親以外のお迎えには防犯上の意味で身分証明書などさせるなど厳しいものがあるのだが、その点ですでに氏素性のはっきりしている保育園の保護者は、信頼度が高い。

 子どもは実は同い年くらいのが複数いた方が、子供たち同士で遊んでくれて便利なのだ。私は、自分の子供と友達が仕事場で遊んでいる間に、夕食の支度に取りかかる。預かっている子どものお迎えがもっと遅れそうな時には、ついでにその子にもご飯を食べさせてしまう。

 もっと遅くなりそうなら、お風呂までまとめて入れてしまう。預ける方の親御さんも、同級生のうちの方が安心だ。そうやって、私は子供たちはいつでもウエルカムなのである。汚い家なので、子どもたちに気兼ねなく汚してもらえるし、そもそもが私は生き物の世話が大好きなのだ(人様の子どもとペットを同じレベルでは語れないが)。

 うっかり(?)漫画家になってしまったが、子供を産んでみて気が付いたことは、私は子供たちと付き合うのがとても好きだったということだ。けっこう保育士さんなんかに向いていたかもしれない。

 この頃は、物が書き仕事も増え始めてから、仕事の形態を変えて、社員さんにはなるだけ在宅仕事に切り換えてもらっているで、仕事場がけっこう空いている。いっそここで一時預かり託児所を開こうか、と考える今日この頃だ。延長保育の七時までにも間に合わない子どもは、うちで預かるというのはどうだろう。

 私の住んでいる区では、民間の人が「保育ママ」という名前で、乳児や保育園待機児童を預かるシステムがある。これはたいてい、子育てが終わったご年配の奥さんが登録しているのだが、私も子育てがひと段落したら、この保育ママに名乗りを上げようかな、と、考えたりしている。

 保育園の真向かいの一時預かり所は、流行りそうなんだけどな。
 なにせ私には幼い子供は文句なしに可愛いのだ。

まんが挿絵

放課後の子どもたちの居場所

放課後子供たちはどこにいる?
 保育園では夕方まで安全に子供を預かってもらえるが、さてこれが小学校に入るとどうだろう? 
 小学校低学年では、まだまだ放課後一人で留守番には不安がある。今の小学校では、共働きが増えたことに伴い、日中両親が働いている子どもたちは、放課後「学童保育」として、学校内で預かってくれる。

 これは大変助かるシステムである。しかし、実は働く親たちには、意外にここを利用していなかったりする。
 それは、学童は基本的には勉強させるところではないからだ。宿題くらいはさせるように仕向けてくれるが、遊んですごす場所なのだ。
 そのせいか、働く親を持つ子供たちは、くっきり二分化される傾向がある。

 ひところのように「勉強勉強」と、成績ばかり気にして子どもの尻を叩く親は減ったが、「高学歴主義」はいまだに健在だ。いや、まだ親の言いなりになる小学生だからこそ、早めに受験準備をさせて中学校からよい私立に行かせてしまった方があとあと子供たちにも良い、と、考える親御さんは逆に増えている。

 特に共働きの家庭は、放課後の子供の面倒を見られないので、学童で遊ばせたり治安が不安な近所をうろうろされるよりは、いっそ塾やお稽古事に行かせてしまおうとする。そうすれば子どもたちが放課後どこにいるか確実に把握できるうえ、学力も上がる、一石二鳥だ。

 月曜日はプール教室、火曜日は英会話、水曜日は学習塾、木曜日はお習字、金曜日はサッカー教室、土曜日は学習塾。「オレ、日曜しかあいてねぇや」と、七歳の子どもがぼやく。ここでポイントが高いのは、運動クラブにもいかせる所である。

 文武両道だ。外遊びの場所がない、治安が悪い、室内ケームの普及などで、体を動かさなくなっている今の子供の体力低下は著しいものがある。中高年が、熱心にスポーツクラブに通う時代だが、今や子どももお金を払って運動させなければならないのだ。

 こうなると、一月のお稽古代も馬鹿にならず、親は養育費のためにますます働く羽目になるのだ。

 その一方で、「なにもさせない」親御さんもいる。彼らは子供時代には、「とにかく遊びが勉強だ」と考え、いっさいお稽古事で拘束はしない。そういう家庭の子供たちは、放課後学童で、または週末公園で、野獣のような声を上げて飛び跳ねている。うちの息子はこちらの野獣系に近い。

 私は自分が物心ついたときから、厳しくお稽古事を習わされて辛かった思いがあるもので、つい自分の子供にはけっして無理強いはさせまい、と考えてしまう。それでも太めの息子のためにと、せめて運動クラブでも、とは考えた。

 泳ぐのが好きな息子のために、水泳教室に行かせてみたりはした。息子は、当初大喜びで通ったのに僅か一月で
「やめたい」
 と言い出した。その理由を聞くと、
「何度も同じことをさせる、つまらない」
 という。教室は飛込やバタ足など、正確な型を教えることがメインなので、自由に好き勝手に泳ぎたい息子には面白くないものだったようだ。

「ものを教わりに行っているんだから仕方ない」とは思うものの、物事はまず、面白いから入ってほしい。勉強だって仕事だって、つきつめてやれば苦痛なことも多いが、でも、そこに「面白味」がなければ、ただの拷問になってしまう。

 親として、子供の可能性を伸ばしてあげたいと思うのだが、可能性は結局子供自身が探すものなのだ。「お、これは」と、子供が選んだもの、それを否定したくない。「好きこそものの上手なれ」だ。

 今、息子は本人が行きたくないいったレゴブロック教室に通っている。それ以外は、同じ境遇の仲間と、夏場は裸足で近所を駆け回り、冬場はそれぞれの家を巡り歩いて、遊戯王カード交換やケームに興じ、我が家では騒いでも叱られないことを言いことに、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんでいる。

 息子八歳。遊びにだけ興じられる時間は、もう少しだろう。残りの長い人生は、なかなかに山あり谷ありであろう。まだ、今は、楽しんでいてほしい。

 私は子供の時から漫画家や作家になりたかった。時間はかかったが、結局は自分のなりたい道に行ってしまった。私のように、幼い頃から先の人生の希望を明確に持っている子どもは少ないかもしれない。そのために親は様々なことを習わせて、子供の選択肢を増やしてあげたいと思う。それも有り難いだろう。

 かくして放課後には、スケージュールびっしりな子どもと時間を持て余している子どもたちができる。どちらの生き方が正しい、とは、私には言えない。忙しい時間から、もしくは膨大な暇な時間から、子供たち自身が何かを選び取って欲しい、そう願うばかりだ。

お父さん不在の小学校よ変われ

さて、保育園というところは、もともとが共働きの夫婦のためのものである。そのため、保育園の親御さんは全員がなにかしら仕事をしているので、働きながらの子育てのお互い様の苦労を理解し合えるところが多々あり、いごこちが実によかった。

 しかし、上の子供小学校に就学した時に、私は愕然としたのだ。
「父親」存在が消え失せてしまうのだ。保育園では働く人の時間を考慮して、行事も、集まりも、土日だったり夜だったりしたものだが、小学校では、大抵のPTA関係の父兄の行事は完全に専業主婦時間なのだ。

 平日の午後二時から、ということが圧倒的で、私のような自営業ならともかく、フルタイムお勤めの人では到底参加できない。か、参加するなら、お母さんが仕事を休んでの参加が100%だ。(というのも、いくら育児が夫婦共同参加だと口では叫ばれても、今の社会でお父さんが子どもの行事で仕事を休むことなど許されてはいないのだ。)

 子どもが熱を出した事故に遭ったとしても同じだ。そうなるとお母さんが仕事を休むしかなく、「これだから子持ちは迷惑だ」などと会社で陰口を叩かれたりする。
 それってあり?
 少子化は深刻な国を挙げての問題ではないの? (後述するが、この国の子連れに対する世間の冷酷さというのは、信じがたいものがある。)

 息子の小学校では、専業主婦の割合がほぼ半分くらいで、小学校の父兄行事運営というのはそういう主婦の方々にほとんど寄りかかって進んでいるのだ。というか、そもそもそういうお母さん方がいないと、運営が成り立たないようにできているというかあてこまれているというか。

 私の夫は、そういう中で、私に仕事がつまって身動きができない時には平気で(?)仕事を休んで、学校行事に出かけていってくれる奇特(?)な人だ(というか、彼の中にはもともと「女の役割」「男がするべきもの」みたいな考え方自体がないようだ)。

 先日も、私の代わりに保護者会にいってもらったら「男は俺一人で、父子家庭に間違われた、おばさんの会話にはついていけね―し(失礼な)もう恥ずかしいから二度と行かねーぞー」とぼやいた。が、朝の交通安全の通学路の旗振り当番も(小学校ではそういう仕事もあるんですよ、朝の登校時間に道ばたに交通安全の旗を持って立つのだ。しかし、この時間帯は仕事もちには厳しい)スーツのまま行ってくれたりして、こういうお父さんが徐々に増えていかないかなあ、と、思う。

 専業も兼業も、お母さんたちは本当に頑張っている。
 私は世間でよくいわれる。「専業主婦VS働く主婦」の図式というのは、結局は、女たちに何でめんどくさい部分は任せて楽、したい男どもの意識操作な部分が多いのではないのか、と思う。

育児にお父さん不在が叫ばれて久しいが、仕事さえしていれば父親がそれが免罪符のように振舞える構造は、いつになったら終わるのか?  しかも、現実朝早くから夜遅くまで父親が働かなければ成り立たない日本の経済機構というのもどうよ。

 そして、そういうせちがらい社会では、弱者は除外される。お年寄りや障害者に優しくない社会では、子どもたちにも冷たい。子連れのお母さんたちには、電車で、買い物先で、ベビーカーは邪魔だ、子供はうるさい、汚い、子連れは外に出るなと言わんばかりの対応。

 スーパーで、やっとよちよち歩けるぐらいの子供を連れて買い物をしているお母さん。目を離すと、子どもが好き勝手に動いてしまうので、片手で子どもを抱きかかえ片手でカートを押して買い物をしている。すると「靴を履かせたままだっこするな、食品に泥でも落ちたら汚いだろう!」と、オヤジに怒鳴られる。

 子育てしたこともない男が。やっと歩けるようになった子どもの靴の脱ぎ着がいかに手間がかかるかなど知らないのだろう、そうして、片手で子どもを抱く重さも。「すいませんすいません」と、平謝りのお母さん。子連れで出かけると、お母さんはどこでもあやまってばかりだ。

 私は以前妹が嫁いだ先、スペインに、妹が出産したおりに訪ねたことがある。乳飲み子を、妹は日本でなら信じられないくらいのバカでっかい乳母車に乗せて外出する。一歩出ると、道行く老若男女問わず、赤ん坊に微笑みかけ「かわいいね」「いい子だね」と、声をかける。信号のない横断歩道では、子供たちが車を停めて先導してくれる。

 バスに乗ろうとすると、わっと四方八方から人々がかけより、乳母車をバスに運んでくれる。バスの中では、皆が席を立って「お母さん、疲れたでしょうからここにお座りなさい」と、招く。スペインでは、ゴヤの絵やガウディの教会より、こういう人々の子連れに対する自然な思いやりが記憶に残ったのだ。

 結局、肝心な部分ではちっとも豊かではないのだ、日本って。
 いやしかし、私は社会評論家ではないので声高に日本経済機構を語るつもりはない。

 せめてもう少し、お父さんが学校行事に参加できるシステムや姿勢が生まれてこないものか、と、思うだけだ。
つづく 第五章ぷちとムツゴロウ王国の女王 。