毎日食べることを分かち合える幸せ
なにがあってもお天道様は昇ってくる。そして、生きていればかならずお腹がぐ―ッと鳴る。毎日の衣食住を、着替えなくても死なない、フロに入らなくても死なない、掃除をしなくても死なない(修羅場の漫画家なんてそんなものだが、みな異様に元気である。寝不足から来るハイテンションという説もあるが)まあ、世間のひんしゅくは買うであろうが、そんなもの気にしなければ生きていける。
しかし、食わねば確実に死んでしまう。
だから結婚生活で、なにが一番かんじんかと言えば、それは「ごはん」である。
ごはんを美味しく食べられる夫婦は、きっとうまくいく。食いしん坊の夫婦は、他の全ての価値観が違ったとしても、きっと大丈夫、と、私は思う。「快楽」が一致することは生きていく上でとても大切だ。無論エッチがぴったしの夫婦もうまくいくであろうか、いずれ性欲が衰え身体がついて行かなくなった時、最後の絆は、やはり食事かもしれない。
食べ物の恨みは恐ろしいという。長年連れ添った八十過ぎのご夫婦で、夫が妻に何度言っても自分の好きな味付けをしない上におかずを多く作ったといって、とうとう妻を殴り殺してしまったという恐ろしく悲しい事件があった。この夫は、毎食毎食」「まずい!」と心の中で叫んでいたのだろうか。
この事件は、食事は妻が作るものという感覚のご年配世代の上に起きたものなので、今どき、食事など、夫婦どちらが作ってもそれが美味しいのなら文句ないのだと思う。
しかし、今でも男性諸君の多くが、「女は生まれながらに料理ができる」と、思い込んではいないか。週末のテレビで、街頭で若い女の子をいきなり捕まえて「サバの味噌煮」など、魚のさばきかたから料理をさせて、トンデモ料理を作るさまをあざ笑うような番組なんか、その最たるものだ。
じゃ、街頭で若い男の子を捕まえて料理をさせてみなさいよ、女子と同じレベル以下の腕前であることは間違いない。お互い様ではないか。世間には男の板前さんもいる。女のパティシエもいる。どんな人間も「美味しいものを食べたい、食べさせたい」そこから始まるのだ。
私の夫は料理することには全く抵抗がない。
「腹減ったなぁ」
とつぶやくと、自分では台所に行き、ありものでたゃたゃと料理してしまう。
そのさいに
「私も食べたい!」
とお願いすると
「しかたねーな―」
といいつつも、作ってくれる。
「人に作ってもらって文句を言うくらいなら、自分でうまいものを作れ」
が、彼の口癖だ。その言葉どおり、彼の料理はなかなかうまい。
平日は在宅の私が料理をするが、休日はいっさいしない。夫が作ってしまう。
「なにが食べたい?」
と、リクエストに応じてくれる。
週末の父のつくる麺類は絶品で、子供たちは「父ちゃんの作るラーメンはさいこう―」と、手放しで喜ぶ。夫は誉めて伸ばせ。彼はますます腕によりをかけるというものだ。
愛妻家30分クッキング
短時間で作る炒め物、焼き物料理が彼の得意分野。彼のゴーヤーチャンプルーやチンジャオロースは絶品だ。かたや時間をかけてちまちま形作ったり煮込む料理屋や揚げ物料理、煮込みハンバーグやギョーザやコロッケなどは私のほうが得意だ。どちらも食いしん坊だから、おいしいものを作る情熱がある。
さて、私の料理法なのだが、とにかく普段は時間がないので「三十分以内に作れる料理」が基本だ。これには我が家の三ツ口コンロと圧力鍋が大活躍する。
三ツ口コンロがあれば、三つの料理がいっぺんにできる。とりあえず、材料の下ごしらえをしたら、火を使う惣菜は、煮物、焼き物、炒め物の順でどんどん作っていく。まず、頭の中で段取りをざっと予習して、まずサラダ用のブロッコリーを茹でる鍋を火にかけて、次に隣のコンロで煮物を始める。その間に魚を焼いたり炒めモノをしたりして、惣菜がほぼ同時にでき上がるようにする。
あまりにも忙しくて時間を押している時には、圧力鍋が大活躍だ。
時間のかかる煮込み料理などは、すべてがあっという間にできる。
とり肉は、骨付きをネギと生姜を入れて十分煮れば出来上がり。肉は手で裂いて、野菜をつけあわせて中華風タレでいただいたり、チャーハンに入れたり、サラダに混ぜても美味しい。残ったスープは塩とコショウで味付けして中華スープにしてもよし、あまりご飯を入れておじやにしてもいける。
スープストックとして冷凍保存して、ラーメンのスープに応用しても美味だ。この応用で、豚肉バラ肉やモモ肉を茹でて、切り分けて酢?油やゴマダレで食するのもいける。
ぶり大根なども、隠し包丁を入れた大根と、熱湯をかけて臭みを抜いたブリをまず蓋をとった圧力鍋で、生姜・醤油・砂糖・酒・みりんで煮たてて、あくをとったら蓋をして十分煮るだけでできあがり。
総じて煮物系は五分から十分でできあがる。
最近私は玄米にはまっているのだが、炊飯器で炊くと、ぼそぼそになってしまったりする。だが、圧力鍋で炊くと、二十分でもちもちの玄米ご飯が炊きあがる。
それでも時間がない時は、私は出来合いの惣菜でもこだわらない。
ウナギを買ってきて、冷凍ご飯に乗せただけとか、トンカツを買ってきてお皿にのせるだけとか。そういうときも、一品は何かを作るようにしている。まあ、野菜を切るだけのサラダでも、ちょっと手作り感をだすだけで、美味しいさがちがってくる。
あとは、料理する時に、いつも少し多めに作っておき、冷凍保存するのだ。
スパゲティミートソースなどの時は、ソースを倍こしらえて、お茶碗一杯分づつの量で冷凍保存しておく、そのソースで、ラザニアを作ったり、白いご飯にさっと混ぜて簡易トマトご飯にする。オムレツにかけても美味しい。
ひじきの煮物などもたくさん作っておいて、小分けに冷凍保存して、一品欲しい時などに解凍して出したり、つぶした豆腐に混ぜてつなぎに片栗粉を入れてこねてハンバーグ型にして、フライパンで焼いて和風とろみをかければ、ヘルシーな和風ハンバーグとなる。
カレーやホワイトシチューも、料理できる時にたくさん作って、常時冷凍保存してあれば、おかずがないときでも大丈夫。
そして、ごはんは必ず多めに炊いて、冷凍庫に常備することだ。
われら日本人は、なにがなくてもご飯さえあれば、料理はどうとでもなる。冷凍庫の残り物でチャーハンにするもよし、ホワイトシチューの残りをかけてリゾット風にするもよし、火を使う料理もできないときは、卵かけごはんでも、漬物でお茶漬けでもそれなりにうまいのだ。
根っからの食いしんぼうは夫の方
かくのごとく、「すてきな奥さん』のようにいろいろ手料理する私だが、実は、根っからの食いしん坊は、夫の方だ、と思う。なぜなら、私は食べる相手がいないとたんに料理をする気が失せてしまうからだ。自分が一人の時など、冷凍ご飯にふりかけをかけてかき込むとか食パンに魚肉ソーセージを挟んでそのまま食べるとか、とたんにひとり暮らしの男子学生もかくやとばかりの食事になってしまう。
しかし、彼は一人分でもきちんと料理して食べる。いや、一人の時の方が、食材の買い出しから始まり、あれこれ工夫して楽しそうに作っている。彼はひとり暮らしをしていたわけでも料理の勉強をしていたわけでもない。元々そういう素質があったのだ。
むろん、始めから彼が料理をしていたわけではない。そもそも結婚当初は、私もけっこう気張って料理をしていたのだ。ご飯はお釜で炊き、朝のみそ汁など、かつお節を削って昆布を水だししてだしを取って味噌汁なんかを毎回食卓にのせ、それを彼は旨いうまいと食べていただけだった。
しかし、だんだん私もメッキが?げてきて、朝、時間がない時など、インスタントだしで代用するようになった。赤ん坊が生まれてからは、子供を早く寝かせて仕事をするために、早寝して夜明けに起きるという超朝型仕事スタイルに変えたので、仕事と育児が重なりますます朝が一番忙しいことが多くなった。そのため「ごめん、今朝はご飯が作れない」ということも、しばしばあった。
そして、ある日、早朝から乳飲み子を抱えながらばたばた仕事に追われていると、ふうっと台所の方から味噌汁のいい香りが流れてきたのである。
「ご飯作ったよ」
と、夫が呼ぶ。食卓にはふっくらと炊き立てのごはん、おいしい味噌汁ができていた。もともと凝り性で仕事が丁寧な彼の料理はおいしかった。
「おいしーい」
私が手放しで喜ぶと、彼もまんざらでない顔で
「俺って料理、うまいかも」
と笑った。
それ以来、朝食つくりは彼の役目になったのだ。私は全く朝は手出ししない。ぎりぎりまで仕事をして、彼の手作りの味噌汁と、彼自慢の糠漬けを旨いうまいと食するようになった(そうなのだ、彼はとうとうマイ糠床まで物にして、毎日丁寧にかき回しているのである。私が触ろうとすると「糠味噌が腐る」と、怒るのである)。
これをきっかけで、彼はどんどん料理分野に参戦して来るようになった。テレビの「今日の料理」とか「キューピー三分クッキング」とか、しきりに見ている。
美味しいもの対する彼のあくなき前向きの姿勢は、実は私にないもので、子どもたちには「お袋の味」ならぬ「親父の味」が記憶に刷り込まれていきそうな勢いである。
縦のものを横にもしない旦那さんでも、意外に料理はできるかも知れない。あなただって最初はお米をとぐところから始まったのだ。休日にでもインスタントラーメンからでもいい、「お願い」と、まかせてしまう。作ってもらったものは、必ず「おいしい」と、口に出して誉め残らず平らげよう。旦那さんの鼻がぴくぴくしたら、しめたもの。もともと男性はモノ作りが好きなのだ。どんどん彼の料理の腕を磨かせよう。
一緒に手作り、美味しい楽しみ
食いしん坊夫婦が円満の秘訣、と述べたが、ふだんの料理に加えて、様々な保存食づくりに挑戦するのもお勧めだ。
我が家では、自宅で作れそうな保存食は何でも作ってみる。
梅干し作りは、毎年初夏のわが家の年中行事だ。よく太った青梅の実を新聞紙などに広げてオレンジ色に熟させる。その時期は家中が梅の香りに包まれる。熟した梅の実を洗って、子供たちに梅のへたを、つまようじで取ってもらい、焼酎で良く消毒して粗塩をまぶして樽に漬け込んでいく。三日もすると、しろい梅酢が上がってきて、これにしそを足して赤く色づけし、一か月後に、お天気の良い日に日干しを三日ほどして、また樽にどして出来上がりだ。
梅やその年の天気や塩の加減によって、微妙に味や固さや形が違う梅干しができ上がるのも楽しい。「今年の梅干しはふくふくしているね」「来年は倍漬けて、年代物の梅干しを作ろう」などと、自家製梅干しが朝の食卓に彩を添える。
梅干しつくりの主導者は私だが、一方糠床管理者は夫である。
もともと、結婚するまでは、私自身は、実家の父が漬物が嫌いで食卓に昇ったことがなかった。そのため漬物など全く食さない人間で、そのうまさも分らなかった。市販のお弁当などに入っていたら残していたほどだ。なので、結婚当初は食卓に漬物が載ることはまったくなかったのである。
ところが、実は夫は漬物が好物で、あの日「うまい漬物が食べたい」と、ぽつりともらしたのだ。それ以来スーパーの漬物を買って出していたのだが、やはり、新鮮なものを食べたい、と、思うようになり、通販で「糠漬けセット」なるものを購入したのである。
しかし、やはり自分が食べたくないものは、率先して作らないものだ。そのセットは買ったまま台所の隅にずっと放置されていたのだ。
ある日、そのセットをじっと見ていた夫が呟いたのだ。
「自分が食いたいものは自分で作るべきだ」
かくして、夫の糠床作りが始まったのである。最初は若いぬか床のせいで、試行錯誤もあったようだが、糠に年期が入るに連れて、かなりうまい漬物ができるようになった。
「だまされたと思って食ってみ」
と、夫に勧められて口にしたお手製漬物は、私のいままでの漬物偏見を払拭した。絶妙の歯触りと口いっぱい広がる風味に、
「おいしい!」
私は思わず感嘆の声を上げた。夫は満足そうにうなずいた。
それ以来、冷蔵庫のあまりもの野菜は、ことごとく漬物にされる。普通に棄ててしまうブロッコリーの固い芯の部分も、茹でて漬け込めば思わぬうまさである。野菜だけでなく、茹でたうずらの卵なども絶品だ。
こうした糠床は夫の財産となり、彼は毎日丁寧にかき回しては塩加減を調整し、不在の時には冷蔵庫に保管する。私が代わりに管理しようかと申し出たが、すげなく断られた。
「お前の汚い手でかき回されたら、俺の可愛い糠床が腐ってしまう」
などと、あまりなお言葉と共に。毎日丁寧にかき回され、季節により塩を加減され、旅行に行く時には冷蔵庫に保存される糠床。今や、私が嫉妬してしまうほど糠床は夫に愛されているのだ。
週末の味噌作りも、家族の一大イベントだ。大量に茹でた大豆を、熱いうちにビニールに入れてみんなで踏んでつぶす、こういう作業は子供たちが大喜びでしてくれる。これは塩と麹を混ぜて、樽に入れて寝かせるのだ。半年もすると、いい匂いの味噌になる。麦麹。米?でも出来上がりの違う味噌ができる。
発酵モノは、理科実験みたいな面白さと、生きているものだけに、なにかペットを育てているのと同じ愛着が出る。さらに私は一時、なんと納豆まで作っていたのだ。
納豆、家庭で作れるかって?
作れますともさ。大豆と納豆菌さえあれば、それを低温で発酵させるだけだ。
納豆菌なんてどこで手に入れるかって?
奥様、東急ハンズに売ってるんざまあすよ。蒸した大豆に熱いうちに納豆菌を混ぜて、ヨーグルトなどを作る時の保温器で四十度に保温して一晩、ちゃんと糸を引く納豆になるのだ。ただし、これは外気に左右されて意外に温度調整が難しく、冬場などはうまく発酵しないことも度々あり、できそこねた豆はポークビーンズなどにしてしまえばいいのだが、めんどうくさくてやめてしまったが。
ほかにも燻製なども、楽しいて美味しいのでひところ流行ってしきりに何でも燻製にしてみた。しかし、これは家の中に煙が充満してそこから中燻製臭くなるので、今は、たまに庭に出てやる程度に落ち着いた。
手軽な所では、パン作りなどもお勧めだ。今は発酵菌などスーパーでも売っているので、あとは強力粉、砂糖、塩、バター、卵、牛乳など適量に混ぜて練り混ぜて、発酵させるだけだ。粉を練り混む時に、なんどもばんばん叩きつける作業は、意外なストレス解消になる。
忙しい夫婦に手作り食品を押し付けるつもりはない。出来合いでも冷凍食品でも、実はかまわないのだ。「おいしい」。食卓が楽しい、それが一番だ。その上で、少し遊びませんか、と、いうことだ。やはり食には、ほかの家事にはない達成感と欲望が満たされる歓びがあり、この分野を広げることが家庭円満の秘訣ではないだろうか。
食器洗い機があればゆとりの食後
共働きの夫婦にとって家事の分担は重要な課題であるが、今の日本では、その家事のほとんどが奥さんの肩にかかっているのではないでしょうか?
私はよく、夫婦問題のサイドや掲示板などを覗くのだが、「夫が家事をしない」という奥さんの不満や非難はものすごいものがある。
「共働きなのに家事は十二対一くらいの割合いで私。ゴミ出しくらいやったつもりになっている」
「私が必死で会社から帰宅して夕飯のお買い物をして大急ぎで作ったごはんを、夫はただむしゃむしゃ食べて、後片付けをしている私のそばでごろんとテレビを見ている。その姿に殺意を覚える」
「全く家事をしない、『ちょっと手伝って』というと『俺は疲れている』『私だって疲れているわ』すると『お前の仕事なんかより俺の仕事の方が上等なんだ』と平然と言う。離婚を考えました」
「いくら言っても何もしない。小さい子供と大きい子供が二人いると思って、もうあきらめるしかない」
等々、非難ごうごう怒り爆発である。どうして、男の人ってのは家庭に参加しているという意識が低いのだろう。
特に食事の後かたずけは、しばしばの夫婦のいさかいの種となるようだ。
人間食べないと死んでしまうから、ご飯を作る、もしくは出来合いのおかずでも買ってくるが、食べ終わった後は調理器具や食器が山積みだ。一日の終わり、満腹したらせめて食後ゆっくりとしたいのは、誰とも同じである。しかーし、どうしてお腹が減るのかな? いくら食べても減るもんね。次の食事が控えているのだ。まず、汚れたテーブルや台所を後片付けをしない事には次の食事ができない。
私の知り合いの共働き夫婦は、あと日付問題でいつも喧嘩になるので、とうとう食事は紙コップに紙皿に盛ることを決めた。食事が終わると、がーっとすべて廃棄してしまうことにしたのだ。ある意味ものすごく合理的である。しかし、食事は目で愛でて味わうものでもあり、器にだってちょっとはこだわりたい、毎回毎回紙皿でピクニック気分で食べればいいが、家の中では味っ気ないこと極まりないではないか。
我が家では、洋食後の後片付けは夫がしていた。洋食を作るのは私で、片付けるのは彼。そういう仕事に彼は文句を言ったりはしない。しかし、酒飲みの彼はゆっくり晩酌をするのが好きなので、心地よく酔ったあとの後片付けはなかなかしんどいようだ。そこで彼も、超朝型の私に合わせて早起きして、前日の夕食の後片付けを朝するようにしたのだ。
その流れで、いつの間にか朝食づくりも彼がするようになった。夜明けには夫婦たりしてすでに活動全開である。ところで、彼が朝食を作るようになると、このバランスが崩れてきた。私の頭の中ではすっかり「後片付けは彼」と、インプットされてしまい、彼も習慣で朝食後の朝食後片付けをしていたのだ。ある日、彼ははっと気づいたのである。
「おい」
朝食後、台所から洗い用スポンジを握ったまま、彼が私の前に現れた。
「お前が作った夕飯の後片付けは俺がする。俺が作った朝食の後片付けをする。これ、おかしくないか?」
「うう、気づかれたか・・・・」
「もしもし―?」
「すいません、善処します」
しかし、私は朝食後は本当に時間がなかった。
子どもたちの保育園の用意をして二人を送ると、急ぎ帰宅して洗濯をしてそれを干して、ざっと部屋を片付けていると通いの社員さんたちが家に来てしまう。そうするともう仕事モードに突入で、洗い物ことなんかきれいさっぱり忘れてしまうのだ。夕食まで、流しにご飯粒ががべがべに付いた茶わんがほったらかしになる。だからといって、彼に何でもかんでも押し付ける訳にもいかない。
そこで思い切って(というほどでもないが)食器洗い機を購入したのだ。
この殿下が進んだ日本で、なぜか食器洗い機というと、えーっそこまで? とまだ敬遠されがちだが、掃除機だって洗濯機だって同じこと、家庭円満生活補助器具と考えればいいのだ。値段だって今は五万円台からある。(スペースの問題もあるが、できればたくさん食器が入るものがお勧めだ)、しかも手で洗ってジャージャー水を流すより、実は水道代もお得なのだ。
毎回毎回、食後の後片付けで夫婦が険悪になるくらいなら、分割払いでもよいので、食器洗い機が買いである。美味しいご飯を満腹までいただいたあとは、面倒な後片付けは、文句ひとつ言わず黙々と働く機会に任せて、夫婦の時間を楽しんだ方がなんぼかおトクか。
しかも、これさえあれば、自宅に友人を招いてのおもてなしもものすごく気が楽だ。気の置けない仲間を招いての飲み食いはとても楽しいものだが、宴が終わって客が帰り、さて、と、テーブルを見れば寒々とした食い散らかしの残骸、けっこううんざりする。しかし、それも食器洗い機に放り込んでしまえば、あっという間。
今では早朝、彼は食器洗い機に食器を任せたあとは、ゆっくり自分のワイシャツにアイロンをかけたり(洗濯物をたたんでしまうのは私の分担なのだが、実は私がアイロンかけがものすごーく下手で、つねにないはずのしわを新しく作ってしまうのである。とうとう彼自身がすることにしたのだ、すいません、自分が不器用ですから。
まあ、夫が着ていくものだしね) 、新聞を読んだりしたのち、朝食準備にとりかかる。私も朝食後は食器を機械に入れておくだけすむようになり、精神的な負担がなくなった。
さてさて、まるで食器洗い機械界の回し者のように述べてきたのだが、別に夫婦が手洗いでも後片付け問題が円満に解決しておれば、それにこしたことはない。
要するに、機械で済ませてことが解決するものなら、あえてなにがなんでも人力でやる必要はない、ということだ。
掃除は割きりでクリア
さて、第一関門の食事問題は何とかクリアできている私たち夫婦だか、その他の家事となると、いささか問題はある。
そういう自分への多少の言い訳に、私は「生きていく上でなにが最優先か」と、常に考えることにしている。物事は、七割できれば言うことなし、六割できれば万々歳、五割で納まれば文句なし、と、思うことにしているのだ。
家事なんか、手を抜こうと思えばいくらでも抜ける分野である。しからば、抜いてしまおう。
まず、掃除。
もう、これは夫婦そろって片付けられない人間であって、それゆえにお互いのずぼらさには目をつぶることにしている。そもそも整理整頓というのは、当人にとって使い勝手がいいということで、私の仕事机などは関東ローム層みたいに資料や紙類が積みあがってごちゃごちゃになっているが、じつはこれが逆にきちんとしまったりすると大変なことになるのだ。
私は夫から「木の実を地面に埋めると安心しきって保存したことを忘れてしまうリス」なみの脳みそ、とののしられるくらい物覚えがよくないのだ。一度しまいこむと、それをどこにしまったかをけろりと忘れてしまい。後日必要なときに全く出てこない。それよりは、目の前の手の届く範囲に積み上げて、「ええとあれは確かこの辺に・・・・」と、勘で探り出す方がなんぼか確実だ。
私は普段Macを使いで仕事をしているのだが、なにがいいって、Macってのは取り敢えずまずデスクトップに資料を保存してくれることだ。ウインドウズのようにきちんとどこかにしまわれてしまうと、逆に大混乱、私のごちゃごちゃのデスクトップを見てウィンドウ派の人が「よくこれで何がどこにあるかわかる」と、あきれていたが、なに、本人の中では効率が良いのである。
夫の部屋も、ぎっしり立てかけたギターやごちゃごちゃに本やCDやMDが散らばって文字通りの足の踏み場もない。夫婦そろって片付けられないのなら散らかしておけば問題ないと思いだろうが、ところが、同じ片付けができないもの同士でも、ひとくくりにはできないところが難しい。
私は片付けられないが、「捨て魔」なのである。ものが溜まっていくことに耐えられないので、整理整頓しない代わりに不要と判断したものはドンドン捨てていってしまう。しかし、夫は私から見ればゴミしか思えないCDの帯とか文庫本のカバーなども大事にとっておく、「溜め込み魔」なので、知らずに捨てようものなら激怒する。
たまに私が気を利かせたつもりで、彼の部屋の床のゴミだけでもと思い掃除したりすると、もうあとが大騒ぎだ。
「おいっ、ここにあったCDの帯はどーしたっ」
「床に捨ててあったから、ゴミに出しちゃったわ」
「ぶぁっかもーん、あれは『捨ててあった』んじゃない『置いてあった』んだっ、いいかぁ、もう二度とオレの部屋に入るなよ」
「むかっ」
さらに私のまずいところは、その場で
「あ、いらない」
と、破棄したものが実は後で必要であった、という間抜けなことが多々あるのだ。
「ぎゃーっ、あれ、捨てなきゃよかった!!」
とわめく私に、夫は
「そのうち命まで捨てても遅いぞ、ばぁか」
と決めつける。まあ、でも家の中がマノで埋め尽くされていくよりは、家族にひとり「捨て魔」がいるほうがまし、と、思うことにしている。
その上に、子どもというのは「散らか大王」である。子どもがいると、遊んだ後に放置されたおもちゃやら絵本やらいくら片付けても片付けても、一分後にはポルターガイスト現象か、と、わが目を疑うほど部屋中が元通りきっちり散らかっているのである。本当にやりがいがない。
その上に、犬と猫が複数家にいるのである。犬はそこら中よだれをたらしまくり、猫は棚の上の物をことごとく叩き落し、障子やふすまをばりばりやぶりまくる。我が家は、時代劇で出てくる貧乏長屋同然にボロボロである。
仕事場だけは社員が来るので掃除機だけは毎日かけるが、その他の部屋は一週間に一度、掃除機がかけられれば御の字である。
しかし、適度に(というか、うちはちいっと過度気味)汚れているというのは、妙に落ち着くのである、住み心地は悪くない。
「渡辺んちは遊びやすい」
と言いながら、息子の友達が大勢遊びに来る。どたばたやりたい放題に暴れるが、どうせ汚いぼろ屋、多少荒らされようが気にもならないのである。
一時、「抗菌」が日本では大流行したが、そのアンで言えば、わが家などは雑菌ばい菌の巣窟のようなものである。しかし家族みんなすこぶる元気である。片付かない汚いわが家は、免疫力アップには実に役立っている、の、かもしれない。などと、掃除できない自分を肯定するのであった。
どこまで切り捨てるかの洗濯
独身の頃は、洗濯など一週間に一度しかしなかった。それも、ごくわずかしか洗濯物が出ない。なにせ締め切り前など平気で三日四日徹夜で同じ格好をしで仕事にかかりきりになっているし、仕事が終われば終わったで外に出ていく用事がなければ、一年中同じょう名服装で過ごしていても文句を言うものもいない。
しかし、結婚してなにが驚いたって、洗濯物の量のすごさである。
夫は外に出る仕事上、清潔家でシャワーが大好きで、しょっちゅう着替えるのである。その上に子どもが二人生まれてみたら、子どもは「お着替え大王(「散らかして大王」に続く大王シリーズ)」だと知った。おしっこ、うんち、よだれ、食べこぼし、汗鼻血に泥、一日に何度も御召しかえの儀である。でるわでるわの汚れ物。毎日洗濯しなければ追っつかない。
それはまだいい、昔話の川へ洗濯に行くばあさんでもあるまい、洗濯機に放り込んでおけば洗濯機さんは文句も言わず洗ってくれるのだから。干すのもなかなか面倒くさいことではある。それで、朝時間がない私は、天気予報では翌日が天気の日には夜洗濯機回して寝る前に干してしまうことにしている。
最終的には多少時間がかかるが乾燥機という手もある。しかし、すべてが終わったあとに、畳んで仕舞う、という最後の難関が待ち受けているのだ。何が面倒くさいって、この洗濯物を仕分けして畳んで仕舞う、という行為がとても嫌なのである。
平日仕事と育児でいっぱいいっぱいの私は、乾いた洗濯物を仕方なく部屋の隅に積み上げておくのだ。日々、家族の洋服ダンスが空になって行き、どんどん部屋の隅の洗濯物の山は富士山の如く大きくなっていく。
土曜日についに箪笥が空っぽになり、私は「いざー」と、腕まくりで気合を入れ直して、家族四人分の洗濯物の山に格闘を挑むのである。すべて畳あげるのに、軽く一時間かかる。
ところがきれいに畳んでタンスに仕舞っても、家族ときたら引き出しから無造作に着たい物を引っ張り出し、あっという間にタンスの中はごちゃごちゃだ。家事労働が、賽の河原の小石積みに思える瞬間である。
だがこれは私がまだまだ修行が足りないせいだと思う。
私利知り合いの、育ち盛りの子供が四人もいる共働きの奥さんは「洗濯物はけっして畳まない、部屋の隅の洗濯山から、家族はそれぞれ自分の着る物を引っ張り出してくること」という掟を決めている。
すばらしい。家事とは、どこまで切り捨てるか、という決断力がある人が上手くこなす。小心者の私はここまでの度胸が、まだないのだ。
つづく 第三章
オットとムスコとムスメがいる暮らし